五十二
睦子が、
「私たちもいっていいですか? 見学」
「いいよ。あんまりキャーキャーやらないように」
「心します!」
主人が小さな時刻表をめくって、
「九時二分の多治見行がありますよ。あの球場は三菱重工の用地を愛教大が買い取って開場したものです。愛知大学リーグで二軍、三軍が使っとったのをドラゴンズの二軍が借りたんや。つい四、五年前やで」
菅野が、
「じゃ、あしたはランニングなしと」
「そうします」
カズちゃんが、
「ほんとにキョウちゃんはじっとしていないんだから。マメというか」
女将が、
「そこが神無月さんのええとこやが。ソテツ、うまい弁当、三人分作ってやり」
「はい!」
キッコが手を挙げようとすると、千佳子が、
「キッコさんは勉強しなくちゃだめ。あと一週間よ。英単語、古文単語の一つでも覚えてなさい」
「はーい」
睦子が、
「素子さん、アイリスの広野さんて英会話得意でしょ」
「うん、ふつうに英会話できる」
甲斐和子に似た目の小さい女。
「キッコさん、広野さんに名大の英会話の過去問を持っていって、少し教わったらどうかしら。このごろ全国的に英会話問題が流行してるのよ。一日だけでも教わりにいって、コツなんか訊いてきたら?」
「うち言っといてあげる。日曜日が休みやから、三月一日にここに呼んで教えてもらえばええがね。二食付きで。いつも自炊しとるから喜ぶで」
千鶴が台所から顔を出し、
「自炊てたいへんやろね。おねえちゃんは朝どうしてるん?」
「ふだんは食べんなァ。食べても、お味噌汁に卵ポン。キョウちゃんの発明品。昼は賄いがあるし、夜は北村席」
「広野さん、かわいそうやね」
「けっこう自由に、楽しそうにやっとるよ。ときどき夜食に誘ってくれることもあるし」
私は主人に、
「五百野の予約販売の中には、北村家も入ってるんですか」
「あたりまえやがな。五十冊予約して金を送りましたわ。羽衣やシャチの女どもも二十人くらい金を出しよりましたよ。けっこう読んどるやつがおりましてな。和子たちや厨房を入れたら、五十冊では足らんようになるかもしれん。定価四百二十円。五十冊でもたった二万一千円ですわ。出版されたらすぐ本が送られてきます」
幣原がチキンソテーを料理鋏で細かく切って直人に与えている。もうすぐ風呂に入って、ねないこだれだの時間になる。
食卓の喧騒が止み、夜が憩いはじめて、それぞれが塒に戻るころになると、則武組が立ち上がる。一座の人たちにお休みの挨拶をして外へ出る。カズちゃんが話を通したのだろう、ソテツとイネが同伴する。アイリスの前で素子と別れる。
「ソテツ、泊まってく?」
「私たち今夜じゅうに帰ります。あしたはおいしいお弁当作りますね」
イネが、
「三月一日のオープン戦には弁当持っていぐべ?」
「うん、三日も持ってく。一時試合開始だから、練習の途中で食う。おにぎり二個でいいよ。コブと塩鮭」
カズちゃんが、
「試合前はサッと食べるくらいなのよね」
「うん。練習とは別物だね。緊張感がすごいから」
百江が、
「ベンチでときどき、食べ終わったあとなんでしょう、口をモゴモゴ動かしてる人がいますけど、みっともないですね」
「ぼくじゃないだろね」
「神無月さんは、ぜーったい、そんなことしません」
まじめな顔で言う。カズちゃんが、
「ドラゴンズでそんなことする選手はいないわよ。ほかのチーム、特にコーチの人が多いわね。何度か見たわ」
†
ソテツはすぐに快楽の渦に巻きこまれて悶え狂い、勝手に交わりの途中で離れて自重した。イネは低く苦しげな声を上げて長く快感を貪った。イネがグッタリとなってから、自重していたソテツがせがむので、すぐに挿入し、何度目かの波に合わせて射精した。
五人で鬼警部アイアンサイドをバッグラウンドに、キッコの入試のことや、四月からの素子の料理学校のことなどしゃべり合った。ソテツが、
「北村席の学歴がドンドン高くなっていきますね。見てて楽しいです」
カズちゃんが、
「あなたと千鶴ちゃんも、意外な才能があるってわかったら、大学へいかなくちゃ」
「無理です。私は高校で少し教養をつけるだけ。千鶴ちゃんは素ちゃんの妹だけあって冴えた頭の人なので、もしかしたらと思います。でもキッコちゃんほどは」
「そうねえ、キッコちゃんは掘り出し物だったわね」
「監督役もきびしいし、今年一発で受かっちゃうんじゃないですか」
「そこまで甘くは考えてないけど、底力があるから、キョウちゃん曰く〈マグレ〉が起こるかも」
百江とイネはキッチンで笑い合いながら三人分のインスタントラーメンを作っていた。
「セックスはお腹がすくわよねえ」
「はい、ぺっこぺごになるでば」
などと言い合っている。私は自分の分をイネに半分分けてやった。
ソテツとイネは11PMが始まるころに帰った。
†
二月二十五日水曜日。七時半起床。六・二度。霧雨より強い雨が降っている。空は薄青い。昼ごろまでにはカッと陽が照りつけてきそうな気配だ。この程度なら、大幸はきちんと整備されているだろう。
うがい、歯磨き、排便。下痢に近い。腹が冷えたのかもしれない。体調は悪くない。シャワー。新しいミズノのジャージを着る。朝めしは味噌汁に玉ポン。
カズちゃんと百江が出かけていった。深夜に帰ったメイ子は朝寝をしている。ドラゴンズのウィンドブレーカーを初めてはおる。ダッフルを担ぎ、バットを一本入れたケースを提げて玄関を出たところへ、睦子たちが迎えにきた。千佳子がランチボックスを持っている。千佳子が、
「止む雨ね」
睦子が、
「そう、すぐね」
名古屋駅で大曽根行きの切符を買い、中央口改札を入って、中央本線7、8番線ホームに上がる。線路のあいだに雪がある。8番ホームに始発の多治見行が停まっている。東京の高崎線のようなオレンジと緑のツートンカラーの電車だ。車窓からの景色を思い浮かべて胸が躍る。先頭車両に乗りこむ。
「高崎線みたい」
すぐ睦子が言う。高円寺界隈を出たことのなかった千佳子は、よくわからないという顔をしている。
九時二分出発。河合塾と反対方向へ走り出す。高低のビルの群れからなかなか抜け出さない。ようやく緑が覗きはじめ、マンションと住宅の群れが見えてくる。いちおう景色と言えるのだろうが、満足しない。睦子たちも私と同じように視線を窓の外へやっている。谷間のように小暗い金山駅到着。
「金山体育館。小学校のころ大鵬を見た」
「ああ、ここですか。一つひとつの場所に思い出があるんですね」
ホームで女学生が英単語帳を見ている。一分ばかり停車。ふたたびビル群の中へ出発。
「都会に住んでるんだから、びるがあったって仕方ないね」
睦子が、
「そうですね。でも、名古屋駅を出たときよりも緑の量が多くなりましたよ」
鶴舞駅到着。
「ここで山口は演奏するんだな」
「北村席からあっという間にこれますね」
ホームの両側が明るく開けているが、やはりマンションビルが迫っている。三たびビルの群れ目がけて走り出る。都心のような社屋ビルはほとんどなく、マンションビルが目立つ。愉快そうに話す乗客たちの笑い声が聞こえる。名大生二人のおかげで、私に気づく者は一人もいない。千種駅到着。
「ここから私鉄で一つ目が今池。そこの河合塾千種校で模擬試験を受けた」
「全国一番になった試験?」
「うん。よく勉強したころだったから。でも集中的に勉強した数学と社会の成績はパッとしなかった。結局、まったくと言っていいほど勉強しなかった英語と国語で東大に受かった。馬鹿らしいね。あれから自分に関してだけは、勉強の努力というものを信用しなくなった」
二分ほど停車。両側をコンクリートの堰堤(えんてい)で囲まれた線路。堰堤のはざまへ出発。まだ雨が降っている。延々と雨に濡れた堤がつづく。堤が途切れ、一分ほどで幅の狭い一枚ホームに到着。大曽根駅。
「着きました。乗り換えです」
国鉄の北口改札を抜け、百メートルほどの細いコンコースをクネクネ歩いて、名鉄瀬戸線の切符売場に出る。女二人についていく。こういう複雑さにはそろそろ対応し切れなくなっている。切符を買って改札を入り、ホームに昇る。全体がくすんだオレンジ色の二両電車に乗る。出発したとたんに低い民家の建ち並ぶなつかしい景色が広がる。瓦が雨で濡れている。川あり田圃ありのすばらしい郊外の景色を眺めること一分、古い住宅が両側に迫る矢田駅に到着。狭いホームから狭い改札を通って、急なスロープ状の通路を下って外へ出る。五分ほど歩き、車の往来する大きな街道に出る。通りがかりのサラリーマンふうの男に大幸球場の場所を尋く。二キロはあるとのこと。
「まいった。甘かったな。タクシーでいこう」
数分待って通りかかったタクシーを拾う。女たちはダッフルを横にして膝に乗せ、私は膝のあいだにバットケースを立てた。霧雨をワイパーが払う。途中から幅広い市電道になった。十字に交差するレールもある。中年の運転手はすぐ私に気づいたらしかったが、話しかけずに、ミラーを見上げて辞儀をした。私も辞儀を返した。砂田橋というバス停付近まで五、六分走った。初乗り料金ですんだが、五百円紙幣を出して釣り銭を断った。
「静かに送り届けてくれたお礼です」
運転手は素直に受け取り、
「きょうは練習か何か?」
「はい、昇竜館の選手たちと合同で」
「一年じゅう練習練習でたいへんですね。がんばってください、と言うことぐらいしかできませんが、われらが中日ドラゴンズにわがままな期待をさせてもらいます」
「期待してください。がんばります」
矢田五丁目という市電停留所を右折したところに大幸球場があった。出入り口が切られただけの五メートルばかりのモルタル塀がネット裏に立っている。そこから左方へ背の高い樹木がセンター付近まで植えられている。モルタル塀の右方に歩いていく。樹木の垣はなく、球場の低い金網がそのまま内と外の仕切り垣になってフィールドを取り囲んでいる。当然一塁側スタンドはない。一塁ベンチ裏から潅木雑じりの更地になり、直角に交わる二本の幹線道路に挟まれる形で鏃(やじり)のように広がっている。低い金網からすっかりグランドが見通せる。両翼は八十メートルくらいだろう。枯れ禿げた芝生が雨のせいで薄っすらと濡れている。外野席のない右中間から鏃の先端まで、二十メートルほどの高さのネットが十本の支柱で張られている。五本目あたりが右翼ポールと重なっている。一塁側金網フェンス前の空き地に中型の寮バスが停まっている。これならここへくるのに不便はないだろうが、寮から四、五十分はかかったはずだ。
正面出入口に戻る。一度入場したことがあるので、ネット裏のモルタル塀の内側が階段状のスタンドになっていると知っている。スタンドの下にはもろもろの室があるにちがいない。球場の造りを見れば、投球練習場や室内練習場はないと一目でわかる。
ネット裏の中央の入口から入って回廊へ出、私は右へ曲がり、睦子たちは回廊の途中にある階段を登った。スタンディングネットの後方に猫の額ほどの観客席がある。そこの最上段に座ればよく見えるだろう。青高の部室のように狭いロッカールームを探し当てる。十人くらいが着替えをすましてから次の十人が着替えるといった狭さだ。すでに二軍コーチ陣や選手たちの姿はなく、江藤、太田、菱川、秀孝、ほかに一軍の新人たちがいた。二軍連中は三塁側のロッカールームで着替えているのかもしれない。
五十三
「おはよす!」
声を投げると、谷沢が法令線を深めて笑い、
「おはようございます! また会えてうれしいです」
「やっぱりきたのう。太田に聞いてびっくりしたばい。口滑らさんばよかったな。きょうだけでよかぞ。ワシらもきのうきょうあすだけやけん」
握手する。
「矢田駅から荷物かついでここまでくるのは骨ですね。道もわからなかったし、二十分ぐらいかかりそうだったのでタクシー使ってしまいました。でも、あしたもきます」
だれもウインドブレーカーを着ていない。ジャージ姿に帽子をかぶり、靴もきちんとスパイクに履き替えている。運動靴は滑りやすいからだ。ジャージにスパイクは少しもおかしな格好ではない。チャプリンのドタ靴みたいに重心が下にある感じがするかもしれないが、いまどきのスパイクは運動靴と大して重さは変わらないのだ。私もダッフルからスパイクを出して履き、きつく紐を結んだ。帽子も取り出してかぶる。太田が、
「庄内川原のときも驚きましたけど、二軍といっしょに練習したがるのは神無月さんぐらいですよ。江藤さんまで影響受けちゃって」
「よか影響たい。もともと毎年二軍の様子は見にきとるばってん、練習にかたるのは初めてばいね」
「特に今年は合同練習自粛だからタイムリーですよ」
「木俣さんや高木さんは単独組ですね。どうしてるんだろう」
「達ちゃんは夫婦で兵庫県の湯村温泉にいっとる。ぜいたくなもの食って、岩盤浴ばじっくりやってくるげな」
「いつも健康を考えてる木俣さんらしいですね。高木さんは黙々と走ってる感じがしますけど、一枝さんや小川さんは筋トレでもやってるんですかね」
「修ちゃんはこの時期、オヤジのホテルの手伝いばしとるやろう。健太郎は余計な練習はせんちゅうのがモットーやけん、ランニングついでに河原の野球でも見物しとるんやなかろうか。去年はえらい目に遭うたけん、ギャンブルはしとらんやろう」
「何をしても小川さんは心配ないですよ。いつも腹くくってますから」
「ばってん、ほんなこつ大幸は狭かのう」
「この球場で二軍が練習するようになって四、五年と聞きましたが、それ以前二軍はどこで練習してたんですか」
菱川が、
「何年か前法元さんから聞いた話ですけど、昭和三十年までは鳴海球場で、三十一年からこの大幸までは熱田球場だったそうです」
「熱田球場! 初耳ですね」
江藤が、
「法元ちゃんは三十一年入団で、けっこう二軍をいったりきたりしとったけん、そのあたりを知っとうとやろう。刈谷球場で練習したこともあったげな。ワシャ三十四年に入団したばってん、二軍の経験がなかけん、熱田球場や刈谷球場のことは知らん」
ウィンドブレーカーを脱ぎながら太田に尋く。
「太田野球博士、二軍てプロ野球が始まってからずっとあったの?」
「そういう名称になったのは二リーグに分立した昭和二十五年からです。それまでは育成と言ってました。つまり二軍体制はずっとつづいてるということですね。二軍の運営費は一軍選手を育てるための必要経費と考えてるようです」
「同じプロ野球選手でも実力差があるということはハナからわかってたんだね」
「どんな集団でも補欠はありますからね」
木田ッサー……彼以外だれも思い出せない。小中高大、そんな人たちが視野の端にいたことは否定できないが、覚えていない。とすると、もともと〈いない〉人たちだったということになる。しかしプロ野球には、もともと〈いた〉ひとたちがかなりの存在感を持って滅びずに〈いる〉。程度の差はあっても彼らの大半が、かつては新聞の一面を騒がせたか、何面かの片隅にちゃんと〈いた〉男たちだ。そういう選手が、いまこのグランドにうごめいている。私は太田に、
「その体制から一軍選手がなかなか育たないということは、補欠集めがへただということになるね。甲子園から採ることをやめて、大学野球か社会人かテスト生から採るだけにすれば、悪くて一・五軍までしか集まらないと思うけど」
「秀孝のような超一軍もポロッと出てきますしね」
「尾崎ンごつアタリはめったにのうて、ハズレが数え切れんほどある。つらかことや」
みんなでグランドに出る。本多コーチたちと寮住みの二軍選手たちが両手を合わせて柔軟をやっている。ユニフォーム姿だ。二軍マネージャー津島の顔もある。欲目ではなくみんな溌溂としている。きのうから江藤たちが参加しているせいだろう。三塁側の樹木の内側は座席が四、五列のべったりとした内野スタンドになっている。そこに百人ほどの客がいる。三塁側にしか内野スタンドがない理由はわからない。
「おはようす!」
「ご苦労さんです!」
すれちがう選手と挨拶を交わす。外野スタンドに数十人の見物人が散らばっている。ネット裏と三塁側内野席の人数を足せば二百人ほどか。あらためて見回すとたしかに球場が狭い! さっき一塁側の金網から眺めたときより、いや、先回観戦にきてネット裏から見たときよりも狭い。特に右翼が川崎球場に輪をかけて狭い。七十五メートル? フェンスに直接ネットが突き立っている。ネットの向こうは住宅街だ。ライナーの打球はネットで防げるが、高い打球だと二十メートルくらいすぐ越えてしまう。左翼はやはり八十メートルくらいか。ただ左翼には狭いながら外野スタンドがある。スタンドの向こうは少し離れて樹木の生垣だ。生垣の向こうが幹線道路になっているが、百三十メートルは飛ばさないと届かないのでだいじょうぶだろう。
芝が濡れている。ジャージ組が走りはじめる。右向き、左向きのサイドステップを繰り返しながら、フェンス沿いを一周する。それが終わるとポール間ジョギング、ゆっくり三往復。二軍選手たちがキャッチボールを始める。彼らのスケジュールに合わせて、私たちもキャッチボール。私は谷沢とやる。四十メートルで正対。手首と肘だけを使って、山なりに徹する。山なりでも谷沢のボールに力がある。江藤は太田と、秀孝は戸板と、菱川は渋谷と、川畑は田辺とやった。霧雨がときどき気づく程度になる。陽射しが強くなってきた。内野グランドに球場係員のトンボが入る。
一塁側、三塁側両ブルペンで二軍ピッチャーの投げこみ練習が始まる。本多二軍監督と長谷川コーチが見守る。秀孝や戸板たちは外野でダッシュ。ときどきブルペンに混ぜてもらって二十球ほど投げるとまた、外野芝生のダッシュに戻る。その間、二軍の野手連中はシートノックを受ける。ノッカーは井上コーチ。ファーストに江藤が、サードの守備に菱川が参加する。場ちがいな感じがするほど華やかな守備だ。とりわけ江藤のミットさばきは絶妙で、虫網かトリモチのようにボールを逃がさない。二人はダブルプレーまでやって抜けてベンチに戻った。
外野ノック。私はレフト、谷沢はライトの守備に雑じる。二人とも真剣にゴロやフライを捕って、二塁へ、あるいは中継手へ強いボールを返球する。五面の金網バックネットの向うから睦子と千佳子が私を眺めている。彼女たちはいつも思っている。
―幸福なだけではだめだ、身を尽くせ。
幸福なだけでいい、身を尽くせと自分を叱咤しなくていい。実情を知った人は、あなたたちのことをアバズレと思うかもしれない。そう思う人びとにとって、あなたたちと私との関係はまちがったものにちがいないし、醜く見苦しいものにちがいない。私たちが小さな世界でたがいを信じ、大切にし、深く愛し合っているとしても、大きな倫理世界にいる彼らには、もともと何の価値もない口実だ。それでいい。カズちゃんやトモヨさんたちにも言いたい。私たちは表裏のない温かい一本の木のようなものだ。この上ない幸福感の中で、ごく自然に身を尽くし合っているので、どんな困難にも耐えられる。
二人に手を振る。二人は手を振り返す。
「おお、睦子さんたちがきとるんか。相変わらずベッピンさんやのう」
江藤に倣い、菱川、太田、秀孝が帽子を取って頭を下げる。戸板や谷沢は戸惑い、焦点の合わない視線をネット裏に投げる。
午前最後のメニュー。投手・内野手連係プレイ。ここも一塁に江藤、三塁に菱川が参加している。長谷川コーチが手で転がしてやるピッチャーゴロをマウンドから駆け下りてきたピッチャーが捕球し、いちばん近いベースを見定めて、一塁へ、二塁へ、三塁へ、ホームへ送球。これを十人ほどのピッチャーが一球交代でやる。やはり一軍ピッチャー陣が冴えている。中でも秀孝と戸板の動きが抜群にいい。
「休憩!」
本多二軍監督の号令で昼めしになる。監督コーチ連と二軍選手たちは近所の仕出し屋から届いた弁当を食いにベンチやロッカールームにいき、江藤たちは目星をつけておいた住宅街の定食屋へ出かけていき、私は回廊からネット裏へいく。回廊の長椅子でサンドイッチを頬ばっている津島マネージャーと目礼を交わす。スタンドへ上がっていくと、観客たちが驚いて拍手する。私は辞儀をしながら二人の女のあいだに挟まる。二段重ねの豪華な幕の内弁当。鶏肉のベーコン巻から口に入れる。美味。卵焼き、里芋とゴボウの煮つけ、揚げシュウマイ……。
「ソテツさんの愛情が伝わってきますね」
「もともと料理の才能があるのよ。うらやましい」
「あしたも練習にくるよ」
「私もきます」
「私も」
「江藤さんもあしたまでだと言ってた。それはまた会おうという暗黙の約束なんだ。帰りは、矢田駅までぶらぶら散歩しがてら帰ろう。二十分くらいだと思う」
「はい」
「楽しそう」
コップに食後の茶がつがれたとたんカラリと晴天になった。枯れ芝がまぶしく輝く。
「わあ、いい天気!」
二人が額に手をかざす。バッティングケージが一台運ばれてくる。フリーバッティング。二軍選手たちが打ちはじめる。井上コーチがケージにつく。ピッチャーは佐藤進、水谷則博、竹田和史(まさふみ)。
「ごちそうさま。じゃ、あと一時間くらい、いってくる」
「いってらっしゃい」
ロッカールームへいき、バットを持ってベンチに入る。江藤、菱川、太田、谷沢が座っている。秀孝と戸板はブルペンでキャッチボールをしている。三人、五人と打っていく。たまに右中間、左中間にいい打球が飛ぶだけの工夫のないバッティングだ。キャンプでいっしょに練習したはずだが、やはり顔を覚えられない連中だ。ケージにガシャンとぶつかるファールを打つやつがいる。奇異な感じがする。猛速球でもないバッティングピッチャーのストライクボールをどう打てばあんなザマになるのだろう。江藤が、
「帰りはいっしょにバスでいくと?」
「いえ、散歩しながら帰ります」
「ほうね、なら早よ打って帰り。わしらはゆっくりやけん」
「はい、じゃ、十本打って帰ります」
佐藤が十九歳のサウスポー竹田に代わった。入団式のとき顔を合わせた男だ。小山オーナーにスタミナをつけろと言われていたのを思い出す。背番号46。上背はあるがヒョロリとしている。眼鏡をかけるようになったようだ。本格派の評判。スピードはあるが、バッターボックスでどこまで速く見えるか。浜野百三よりは格段にいいフォームだ。
本多二軍監督に申し出て、ケージに入る。井上コーチの指示で、外野にゾロゾロと十人ほど立つ。
「球種や高低を気にしないで、外三球、中三球、内四球投げてください。お願いします!」
初球、外角ストレート、クソボール、屁っぴり腰で狭いレフトスタンドへライナー。観客の嘆声。ベンチの拍手。二球目外角低目カーブ、ぎりぎりストライク、踏みこんで真芯に当てるように強振、レフトの立木へライナー。芯を食わせたら緑を越えてしまう。
「ヒョー!」
「なんじゃ、そりゃあ!」
三球目外角高目速球、これはボール球、踏みこみを抑え、かぶせて芯を食わせるユル打ち、左中間の立木へライナー。
「ヒェー!」
「オー! すげ」
江藤たちが盛んに拍手する。観客の声が静まった。外野手たちがボンヤリたたずんでいる。四球目、真ん中高目、かなりのスピードボール、百四十キロ前後、素直に叩いてセンターの小さなバックスクリーンへライナーで打ち当てる。五球目真ん中高目から外角へ流れ落ちるカーブ、曲がり鼻を引張り気味に叩いてバックスクリーンオーバーのライナー。後ろは空き地で家屋がない。
「神無月ィ!」
「大天才!」
「天馬ァ!」
さすがに大喚声が湧いた。六球目、低すぎるど真ん中、ホームベースに当たりそうなストレート、ゴルフ打ちをしてピッチャーの防球ネットへライナーを打ち返す。竹田がしゃがみこんだ。ふたたび球場内が静まり返った。
七球目内角胸もとストレート、苦しいスイング、ライト防球ネットの上段右端へライナーで当てる。ファール。八球目、内角足首へ曲がってくるシュート、これもゴルフ打ちして防球ネット中段へライナー。九球目、内角顔のあたりへストレート、一塁側金網フェンスの彼方へファール。三菱重工の社屋の前に幹線道路がある。そこまでは届いていないだろう。十球目、内角ベルトのあたりのシュート、少しバットを遅らせて右肘を引き左掌で押しこむ、防球ネット上段へのライナー。
「ありがとうございました!」
帽子を脱いで竹田に頭を下げる。竹田も帽子を脱いで深い辞儀をした。ネット裏とベンチでいっせいに大きな拍手が上がった。
「魔物ォ!」
五十四
井上コーチと本多二軍監督が走ってきて、
「鬼テクニック、おみごと! ボールを上げないようにぜんぶライナーで打ったとわかったよ。超絶な技術だ。レフトへのホームランは、神無月くんにしかできない芸当だと知っているから驚かなかったが、内角の顔と胸のあたりのクソボールをファールにしたのはすばらしかった。ふだんは打たない球なのに打ってくれたんだね。百六十八本を心底納得した」
本多二軍監督が、
「ありがとう、神無月くん。血が沸き立った。魔物の域のバッティングだね。彼らの血も沸いたろう。たとえ及ばないとわかっていても、日々血を沸かせて、懸命に自分の打撃を追い求めると思う」
「そうおっしゃっていただいてうれしいです」
「今シーズンは研究されてきびしく攻めこまれると思うけれども、どうか百本を目指してほしい」
「ありがとうございます。あしたも参加させてもらいますが、フリーはやりません。芯を食ってしまったらネットを越えちゃいますから」
江藤たちといっしょに津島マネージャーもやってきて、
「そうなんですよ、高いフライでネットを越えるやつがときどきいて、瓦を割っちゃいましてね」
「伊熊さんじゃないですか」
井上コーチが、
「堀込もそうなんですよ。弁償金が高いからライトへフライを打つなと言ってるんですがね。ネットを越してみたくなるんでしょう。フライで越えたって九十メートルそこそこしか飛んでないのに」
菱川が、
「フライじゃ距離は出ない。さっきの神無月さんのネット上段に当てたライナー、百四十近くいってますよ。真芯じゃなく、きっちり芯食ってネット越えてたら、百六十メートルはいってたでしょうね」
谷沢が、
「打つ人が打てば、ボールって信じられないくらい飛ぶものなんですね」
江藤が、
「さ、金太郎さん、練習のじゃまになるけん、帰った帰った。あした出てくるなら、適当な時間にきて、適当に練習して帰ればよかぞ」
「はい、きょうはこれで失礼します」
太田が、
「じゃ神無月さん、グッバイ」
私は周囲を取り巻く人たちに挨拶をして、ベンチに退がった。外野の二軍選手たちがパラパラ帽子を取って振った。私はもう一度頭を下げて、ロッカールームに戻った。
正面口で待っていた睦子たちと矢田駅に向かう。二時五分。工場とマンションと事務ビルのほかに何もない市電道を歩き出す。矢田五丁目の交差点。市電が十字に交差して走っている。市電を乗り継げばここまでこれるということだ。タクシーできた経路を思い出しながら、信号を渡って直進する。工場と事務ビルが減り、民家とマンションが建てこんできた。江藤たちが食事に出た住宅街とは反対方向に歩いているので、商店も食い物屋も見当たらない。辺鄙な町だ。
「田舎らしくない田舎だね。二軍選手にしてみれば、追いやられたという感じかも。そんなこと感じてる余裕はないか」
千佳子が、
「散歩の醍醐味ですね。こっちでよさそうって気がするだけ」
睦子が、
「こっちだと思うわ。見覚えがあるもの」
「案外ヒョイと着いちゃうかもね」
矢田四丁目の交差点。市電が交差する。直進。年季ものの民家が何軒も地面に貼りついている。草の空き地が多い。おもちゃのような警察派出署がある。なつかしいようなさびしいような住宅地をてくてく歩いていく。二人して私のバットケースを交代しながら持ったりする。かわいらしい。
「あれ? もう矢田駅のトラスト橋が見えてきたよ。矢田駅を出たときに頭の上に見えたよね。駅の看板が見えてる」
近づくと、鉄橋の右下が手すり付きのスロープになっていて、橋台に貼りつけた看板に矢印で、右折大曽根方面、直進尾張瀬戸方面と示されている。素子といった尾張瀬戸だ。「たしかこのスロープを降りてきて、橋の下のこの広い通りでタクシーを拾ったよね」
「そうでした。もう着いたということは、思ったほど遠くなかったんですね」
「二キロはオーバーよ」
「素子とこの電車に乗って、尾張瀬戸にうなぎを食いにいった」
千佳子が、
「ええ! いつですか」
「西高三年の春。乗ったのは円頓寺商店街のそばの堀川駅からだった。高校二年の三月に出会って、間もない四月だったな。出会いの詳しい話は素子から聞いてるんだろう?」
睦子が、
「はい、月曜日の女だったんですよね。郷さんがとても感動して」
「私も聞いた。泣いちゃった。うなぎの話は初耳。何ていうお店でした?」
「田代。汚い店で、焦げたようなうなぎだったけど、うまかったよ。うなぎ百名店とかいうパンフレットを見て、いくことにしたんだ。遠かった」
「瀬戸ですものね」
「しかし謎の看板だな。どう進むか躊躇しちゃう。このスロープを登れば尾張瀬戸方面の出入口に出るんだろう。つまりぼくたちが降りた口だ」
通りかかった主婦らしい通行人に尋く。女は親切そうな笑顔で、スロープのふもとの細道を指差した。見たところずっと先まで線路の石垣と民家の連なりしか見えない。
「この駅は構内で上下線を移動できないんです。反対のほうへいくには外を大回りすることになります。だいじょうぶですからいってごらんなさい」
礼を言い、細道を歩き出す。左側に瀬戸線の石垣、右側はトタン造りの家の雑じる住宅街。
「この道は街灯がないから、夜は物騒な感じだね」
睦子が、
「家がビッシリ建てこんでますから、大声を上げればだいじょうぶですよ」
「引ったくりに遭ったら?」
「あきらめます」
「私はこの脚で追っかける。そしてタックル」
「カモシカの脚だからね」
途中の石垣に、鉄橋と同じ看板が貼りついていた。直進矢田駅の矢印。
「まちがいなさそうだ」
言ったとたん、矢田駅の標示柱に出合う。また手すり付きの長いスロープがある。かなりの勾配だ。
「そうか。あちら側の出口から出たから、すぐ大通りでタクシーを拾えたんだな。こっち口からじゃ五分歩かないと拾えない。やっぱり二十分かかったね」
「いきは十五分で歩けるわ」
「食べ物屋が一軒もないから、ぜったい弁当持ってこなくちゃいけないぞ」
睦子が、
「矢田五丁目の交差点に、ラーメン屋さん、スパゲティ屋さん、喫茶店が一軒ずつありました」
「そう? 私、気づかなかった」
「ぼくも」
スロープを登り、小さな窓口で切符を買い、狭い改札を通って狭いホームに出る。カンカンカンカンという踏切の警報機の響きに導かれるように、オレンジ色の車体が揺れながら入ってくる。いっしょに乗りこんだ客は普段着の老爺一人。車内はガラガラ。線路端に古い民家が建てこんでいる。出発。すぐにトラスト橋を渡る。
「線路端というのは、全国どこも同じ景色だね。ピッタリ線路に寄り添うように家が建ってるのが不思議だ。線路が先に敷かれたんだよね」
「そうでしょうね。土地が安いんじゃないかしら。どうしても家がほしい人たちが買ったんだと思います」
睦子が微笑みながら言う。法学部の千佳子が、
「そうなの、すごく安いの。固定資産税も安いのよ。背に腹は替えられない。騒音や振動なんか気にしてられないわけよ」
風景が都会らしくなり、たちまち大曽根到着。コンコースをくねくね歩いて2番ホームへ。高円寺や阿佐ヶ谷の雰囲気。やってきた中央線に乗り換える。人がいっぺんに多くなるが、満員には程遠い。二人に挟まれて横掛けシートに座る。二分ほど停車して出発。名古屋駅ほどは馴染めない都会の景色。折り重なるビルの群れ。見ると飽きるが、見ないとなつかしくなる。堰堤の壁がつづくので、目を車内に戻して、ポツポツいる乗客の顔や膝を見つめる。時間を共有する人びと。十三分の共存。
「中央線は、大曽根から向こうはどこへいくのかな、名古屋と反対側」
睦子が、
「新守山、勝川(かちがわ)、春日井、神(じん)領、高蔵寺。主立った駅は春日井です」
「よく知ってるねえ」
「万葉関係の場所はないかって、よく地図を見てますから」
「そのあたりを歌った万葉歌ってあるの?」
「ありません」
堰堤に囲まれたまま千種に到着。堰堤が消える。大曽根に数倍する人。ベンチで煙草を吸っている男たちが多い。人びとがノロノロ歩く。出発。堰堤の景色が倉庫の壁やマンションに変わる。やがてビルだけになる。
「春日井って、花の木の春日井製菓と関係あり?」
「菅野さんが関係ないって言ってました。春日井一族の経営する会社だそうです」
「ムッちゃんの好奇心て桁外れなの。野球もそろそろ、お父さんや菅野さんに近づいてるんじゃないかしら」
「歴史的なことだけで、ルールはまだまだです」
「ルールは難しいよね。このあいだクイズ形式で木俣さんにいろいろ問題を出してもらったけど、ほとんど解けなかった」
「少しずつ研究してみます。その手の本はたくさんありますから」
沿線の緑が増え、鶴舞到着。ホームに人がほとんどいない。ベンチで女が一人文庫本を読んでいる。ビルの中へ出発。遠く近く、高く低く、直方体のビルの景色。緑は沿線に立木がある程度。堰堤の谷間に到着。金山。人が増える。やはりダラダラ歩く。出発。景色の見通しがよくなり、圧倒的に緑が広がる。線路沿いの建物はほとんどマンションと民家になる。右に左に線路が併行する。種々の装いの電車とすれちがう。高層ビルの点在する整然としたビルの群れに入る。私のふるさと。到着。終着ホームに人はまったくいない。
軽いダッフルと軽いバットケースを持って、また空が翳りだした名古屋駅に降りる。三時少し過ぎ。
「いい旅だった」
「ほんとに」
「ホッとする街ですね、名古屋は」
席に帰り着くと、門を入ったところでジャッキに飛びつかれる。主人夫婦とトモヨさんと菅野のいる居間に入る。
「玄関に酒樽が置いてありますね」
「昼ごろ蛯名さんが、キャンプ打ち上げ祝いと言って持ってきました。三人ぐらいできて、サッと帰りました。酔族館のほうもしばらく見回るそうです」
「ありがたいですね」
「ありがたいです。二年目で、ますますマスコミには気をつけなくちゃいけなくなるので、会のほうを訪ねるのは遠慮したほうがいいということでした」
菅野が、
「六、七月の恒例の挨拶には、社長と私とお嬢さんでいってくることになりましたから安心してください」
「ぼくも、折を見てコッソリ顔を出してみます」
座敷はいつもの光景。女たちがテレビの前にたむろし、直人はテーブルでおやつを一心に食べている。好物のひじき煮だ。変わったものが好きな子だ。このごろ彼のおやつはたいていこれか、ホットケーキ。直人が走ってきて、
「おかえりなしゃい、おとうちゃん」
「ただいま。保育所は楽しかった?」
「たのしかった。おしくらまんじゅうした。ハナちゃんにバンとおされた」
トモヨさんが、
「おでぶさんで、直人にいつもベタベタ寄ってくる子なんですよ」
千佳子が、
「直ちゃんのこと好きなんですね。微笑ましい」
「直人はハナちゃんのこと好きなの?」
と訊くと、
「しんゆうヨシヒコくんがすき」
「親友はコウキくんじゃなかったの?」
トモヨさんが、
「コウキくんは引っ越しちゃったんですよ。三重のほうに」
「そうか、残念だったね」