四十一

 期末試験の中日に、たまたま午後早く食堂に入っていくと、母がびっくりして、
「どうしたの、こんなに早く」
「きのうから期末試験だよ」
「あ、そう。カズちゃんがね、貧血起こしちゃって、おまえの部屋に寝かしてる。かあちゃんの部屋は汚くしてるからさ。うるさくレコードかけたらだめだよ」
 なんだか心臓が騒いだ。
「あしたで試験が終わるから、机で勉強するだけだよ」
「この氷水、持ってって。一、二時間もしたら治ると思うけど」
 部屋にいくと、カズちゃんは、私の汗の滲みた敷蒲団に起き上がっていた。
「もういいの? はい、氷水」
「ありがとう」
「汗くさかったでしょ、蒲団。枕も」
「たまに自分で干さなきゃだめよ。でも、いいにおいだった」
 またどきどきしはじめた。
「洗濯も、縫い物も、ぜんぶ自分でやってるけど、蒲団は思いつかなかったな」
「キョウちゃんもたいへんね。お母さんは、世話好きな人じゃないし」
「このごろ思うんだけど、かあちゃんは、自分のことしか愛せない、面倒くさがりの人間だね。とうちゃんに捨てられるのもあたりまえだ」
 カズちゃんは微笑みながら目を細め、
「すっかり大人なのね、キョウちゃんは」
「自分しか愛せない面倒くさがりの人間は、かえって人間関係が面倒になるんだよ」
「いいこと言うわね。……キョウちゃんみたいな男に愛されたら、お母さんもきっと別れなかったと思うわ」
 カズちゃんは大きくうなずいた。
「ぼくはあんな人、愛さないよ。まっぴらだ」
「私が男でも、そうかも。自分の幸福を願わないのは勝手だとしても、人の幸福もぜったい願わないというのは、少し曲がった心ね」
「スカウトのこと?」
「いろいろ。私がキョウちゃんなら、家出してるかもしれない。いいえ、自殺したかも。……キョウちゃんは、人格者ね」
「カズちゃんの話を聞いてると、ホッとする」
「ありがとう。私たち、気が合うのね」
 カズちゃんは氷水を飲み干すと、妙にきまり悪げな微笑を浮かべて、
「……キョウちゃん。ごめんね」
「何が」
「机の下に、エロ本落ちてたの、見ちゃった。見つかったらたいへんだと思って、抽斗に戻しといたからね」
 利口ぶってものを言ったすぐあとだったので、恥ずかしくて、次の言葉が出てこなかった。頬が熱くなった。
「恥ずかしがることないのよ。女のからだに興味あるのね? その年ごろなら当然のことよ」
 カズちゃんは、自分がうっかり相手に動揺を与えたときには、いち早くそれを感じ取ることのできるデリケートな人間のようだった。私は解放された気分で正直に言った。
「……恥ずかしいけど、最近へんなんだ」
「そりゃそうよね。中学生だもの。じゃ、見せてあげる。キョウちゃんのこと、大好きだから。―玄関の戸、閉めて」
「うん」
 三和土に下りて、玄関の磨りガラス戸を閉めた。
「ほんとに見せてくれるの? 大事なところでしょう?」
「いいのよ、キョウちゃんになら」
「見たあと、触ってもいい?」
「いいわよ」
 カズちゃんはきっと、脳味噌の構造がちょっと変わっていて、なんだか知らないけれど人の心が簡単にわかってしまうという、そういう天分を持っているのにちがいない。それとも、もしかすると、こういう読心術のようなことは、女にとってはそう難しいものではないのかもしれない。
「ぼく、ずっと、ホンモノを見たかったんだ。悪い友だちに写真見せられてから」
 心に垣根がなくなり、つい先日の痴漢の失敗談を細かくしゃべった。カズちゃんはやさしい目をして、私の話を最初から最後までしっかり聞いた。
「そこまでして見る価値のあるものだとは思わないけど……。でも、よかった。いいタイミングだったのね。よく見てね」
 カズちゃんは蒲団に横たわってパンツを脱いだ。ツヤツヤした腹の下の陰毛が目を射った。あまり量は多くなく、ホワホワした感じだった。両脚を真っすぐ伸ばす。ふんわりしたお腹をしている。撫でてみた。粘りつくような感触だった。
「……柔らかくて、気持ちいい」
 じっとしたまま、どうしろとも言わないので、私は繁みに目を近づけた。繁みの底にかすかな溝が走っている。溝の上の端に指を置いた。カズちゃんが大きく股を開いた。ゴチャゴチャとよじれた茶色い襞のようなものが現れた。桑原の写真の女のものほど黒ずんでいない。つややかな腹の下に、そんな奇妙な形と色をしたものが隠れているのが不思議だった。あの写真よりたくさん水があふれていて、きれいな感じがした。襞のようなものに触った。温かくて、ぬるっと指が滑った。
「あ……」
 カズちゃんは少し内腿を狭めた。美しい顔が目を閉じて輝いた。
「どうしたの?」
「……気持ちよかったの」
「ふうん」
「よく見える?」
「ごちゃごちゃしてて、よくわからない。女の人って、みんなこんなふうになってるの?」
「多少ちがうけど、みんなほとんど同じね」
 カズちゃんはもう一度大きく股を開き、
「じゃ、よく見ていてね。いまキョウちゃんが触ったごちゃごちゃしたのは、小陰唇(しょういんしん)というの。ほら、こうすれば中が見えるのよ」
 二本の指で襞を開いて見せた。手の甲と指の美しさが目を惹いた。指のあいだに薄桃色の平たい水溜りが現れた。
「次にここ、小陰唇が合わさった上のところについてる、ふくらんだ袋みたいなものがあるでしょ?」
「うん」
「クリトリスっていうの。キョウちゃんのおチンチンみたいなものよ」
 カズちゃんは、薄茶色の皮をかぶった白い突起を、人差し指と中指でそっと剥き出した。どうしても手の美しさに目がいく。小陰唇もクリトリスも本で読んだ覚えのある名前だった。クリトリスは小指の先くらいの、丸くて、何の変哲もない白い塊だった。チンボのはずなのに、先に穴が開いていない。
「手がきれいだ」
「まあ、ちゃんと見て」
「うん。触っていい?」
「いいわよ。強くしちゃダメよ。感じちゃうから」
「感じちゃうって?」
「キョウちゃんと同じ。強く触ったら、なんだかおかしくなっちゃうでしょ」
「うん。白いものがピュッて出ちゃう」
「あら、オナニー知ってるのね。いつから」
「五、六年生から」
「私たちが会ったころじゃないの。おませねェ。それならわかるわね、女も同じ。白いものは出ないけど、からだがウーンてなっちゃうの。キョウちゃんがピュッて出すときと同じ感じ」
 ひどく親近感を覚えた。それは、男も女も同じ人間なのだという感じだった。
「あ、下のほうから水が出てきてるよ。オシッコ?」
「それはオシッコじゃないの。大好きなキョウちゃんに触られて出てきたうれしさのしるし。なぜ出てくるのかは、教えない。教えたら、ぜんぶ教えなくちゃいけないことになっちゃうから。いつかかならず教えてあげるから、いまは許してね」
「水の出口みたいなのが、ひくひくしてる」
 人差し指で押すと、つけ根までヌルリと入った。
「あ、だめ、抜いてちょうだい。それは、いまのキョウちゃんには、とってもいけないことだから」
 あわてて抜いた。
「いま指を入れたところがチツっていうの。赤ちゃんが産まれる道。これでぜんぶよ。わかった?」
「うん、でも写真だと、チツに男がチンボを突っこんでたよ」
「……そうしたい?」
「うん」
 カズちゃんは思案顔で、
「もう少し待ってくれる? 身の周りをきちんとしたら、かならずそうしてあげる。一生そうしてあげる」
 厚い唇を決然と結んだ。
「わかった」
 私は視線をカズちゃんの局部に戻した。
「オシッコする穴は?」
「ほとんど見えないの。クリトリスの下をよく見て。あるはずよ」
 顔を近づけて目を凝らすと、ポチッと小さな窪みのようなものが見えた。
「あった!」
 ふふ、とカズちゃんがやさしく笑った。
 教えてもらったどれもこれもが、熱田高校の生垣の暗闇の中では見えるはずのないものだった。私はカズちゃんの親切に、心から感謝した。
「ありがとう、カズちゃん。大切なものを見せてもらって」
「キョウちゃんのこと、ほんとうに大好きなの。でも、いま約束したことをちゃんと守るまでは、秘密にしましょう。こんなことしたなんて、そぶりにも出しちゃだめ。私、働けなくなっちゃうから」
「わかった。約束する」
 カズちゃんは手早くパンツを穿き、コップを持ってゆっくり出ていった。
 数日経つうちに、私はカズちゃんにせっかく見せてもらったものの形も色合いも、あらかた忘れてしまった。それよりも、毎日立ち働いている彼女の横顔や身振りのほうが印象に残るようになった。とりわけ、手の美しさは何度も思い出した。そして、そういったものもまた、野球を中心にしたもっと印象深い日常の中で忘れられていった。


         四十二

 加藤雅江は、深夜の机で、神無月郷に手渡すための『交換日記』の第一ページに、せっせと書きこんでいた。

 野球をしているときの神無月くんは、しなやかな全身がバットやグローブと一つのものになって、駆けたいように駆け、停止したいように停止し、跳ねたいように跳ねます。だれの目にも、神無月くんが野球を身に合ったものとして愛し、打ちこんでいるのがはっきりわかります。恵まれた才能に対する賞賛と、それに応えられる自信が、神無月くんに寡黙を命じているのです。四年生の秋に、真っ白い校庭で、神無月くんが 寺田くんと戦う姿を目にして以来、私はいつも神無月くんのことが頭にありました。
 どんな不運や失意も乗り越えて、神無月くんは野球に没頭しています。私は神無月くんのように没我の気持ちになることができなくて、それで、ネット裏から見ていると、ひどく励まされ、新しい意欲が湧いてくるのを感じるのでした。まるで、グランドを走り回る少年が小さなに導火(みちび)になって、いつも自分に点火してくれるような感じなのです。でも、自分の体力ではテニス部の練習にはとてもついていけないので、先日退部届を出しました。なんとか一年余りがんばってきたけれど、神無月くんの言ったように、やっぱり自分には無理だと思います。
 毎日私は、カバンをからだの前に提げ、放課後のほとんどの時間をバックネットの後ろにたたずんですごしました。一年生のころよくいっしょに立っていた杉山啓子さんも、二年生になってからはさっぱり顔を出しません。少しせいせいしました。見守るというのは根気がいるのです。あこがれの神無月くんは、グランドを一生懸命走り回っています。神無月くんの動きは滞るところがなく、くっきりと目標の輪郭が定まっているせいか、保証された将来に向かって着々と歩いている感じがします。私は、目の前で神無月くんが敏捷に動いている姿を見つめながら、いままで一度も自分があんなふうに明確に行動したことがなかったような気がしました。
 少し小さめのからだがバッターボックスにどっしり重心を落とし、ボールがやってきたとたんにバットをするどく振り抜く。神無月くんはボールを遠くへ飛ばすことで夢中のようです。そんな姿を見るにつけ、私は神無月くんを深く愛しました。神無月くんはいかにも素朴で、そして自分一人だけで充足していました。ときどき気まぐれにネット裏に視線を投げてよこすことがあるけれども、それは私を見るためではなくて、何か野球の問題を思いをめぐらすためのようです。その証拠に、神無月くんはすぐに視線をもとに戻して、真剣な顔つきになります。ほかの部員に対しても似たり寄ったりです。私は神無月くんの目に映るグランドの風景の一部にすぎません。


 少し気取りすぎた言葉遣いになったかもしれないと雅江は思った。書き直す気がしなかったので、そこでペンを止めた。
 長い準備期間が終わった。計画の実行までの時間を辛抱強く待っていた加藤雅江は、ネットの金網に片手を当てて、少年が桜の樹の前で最後の素振りをする姿に瞳を凝らした。夕方の空に残っている光が、彼を黒く浮き彫りにしている。彼のからだは華奢で、しかも、しっかりした骨組みを併せ持ってそこに立っている。雅江は胸に哀しい痛みのようなものを覚え、彼を終生にわたって愛していこうと決意した。
 ―山本さんは自分なりに神無月くんにアタックしたみたいだけど、なんだか暖簾に腕押しだから手を引くと言っていた。このあいだの土曜日も、神無月くんの試合を観にいこうって誘ったのに、しっかりした声で、いかないって言った。
「今度は雅江ちゃんの番。いいかげんこのあたりでアタックしないと、暖簾どころか、神無月くん、空気人間になっちゃうわよ。雅江ちゃんがぐずぐずしてるんだったら、今度こそ私がものにしちゃうけど、いいの?」
 二年生になってからの神無月くんは、いつもこうやって、後輩たちが片づけを終えるまで素振りをしている。そして帰り支度をすましたレギュラーがグランドへ出てくるころに、ようやく更衣小屋へ歩いていく。みんなといっしょに帰りたくないようだ。でも、おかげで私はこうして計画が実行できる。暖簾や空気でもいい。とにかく自分の気持ちを伝えなければ。ハッスル、ハッスル。それにしても、なんてすてきなユニフォーム姿かしら。いつも惚れぼれと眺めてしまう。交換日記を手渡すだけじゃだめ。やり残している仕事があるわ。大切な告白。気持ちを引きしめなくちゃ。
         †
 私が更衣小屋へ歩き出したとき、雅江があわててネット裏から舟を漕ぐような歩き方で飛び出してきた。
「神無月くん―」
 背中に追いつき、振り向いた私にお辞儀をして、カバンから一冊の真新しいノートを取り出した。
「あの、これ、受け取ってください」
「…………」
 私はノートを見下ろし、黙っていた。
「日記です。交換日記」
「ぼくと加藤さんが?」
「そう。もしいやなら、無理には……」
 一瞬、面倒くさいな、という気持ちがよぎったが、表情には出さなかった。
「読んで、笑い飛ばしてくれてもいいんです」
「いいよ、やろう」
 雅江の目が輝き、満面に生気があふれた。私はそれを見て、思わず笑った。
「ありがとう! 毎日じゃなくてもええんよ」
「もちろん毎日は書けないよ」
 ノートを渡すとき、雅江の指が私の指に触れた。彼女はからだに電流が走ったようにピクリとなった。
「日記の受け渡しは、一週間に一回、土曜日にお願いします」
「どこで?」
「あの教室にせん?」
 雅江は三塁側の二年C組の教室を指差した。
「ぼくの教室だ」
「都合がいいでしょ。私、二Hで、ライト側の校舎だから」
「わかった。カバンを取ってくる」
 私はノートを手に、雅江に見える背番号8を意識しながら更衣小屋へ駆けていった。
 学生服に着替えて戻っていくと、
「ちょっと教室まできてくれん?」
 雅江は言い、二Cの教室に向かって歩き出した。
「教室に何かあるの……」
「見せたいものがあるの」
 私は仕方なくついていった。渡り廊下を通って、ムッとする廊下から薄暗い教室に入る。雅江は窓際の机の上に腰を下ろし、ぼんやり立っている私を見つめた。黙っている。思いつめたように肩を落としている。
「どうしたの?」
「うん……。時間が経つと、気持ちがしぼんでまう。早めにすませよ」
 明るい声で言って、坐った姿勢のまま、何の躊躇もなくスカートをするするとまくり上げた。
「見て―」
 一本の健康な太腿(もも)と並んで、もう一本、細い棒が寄り添っている。骨に皮がついているだけの、すべっとした竹ひごだった。私は、リサちゃんや今朝文の脚に感じたよりも、いっそう痛々しいものを感じた。
「びっくりした?」
 と雅江は尋いた。
「べつに。ただ、そんなに細いなんて、知らなかった……」
 それ以上何を言えばいいのかわからなかったので、何も言わなかった。雅江がその竹ひごを私に見せているとき、私よりも驚いて見入っていたのは雅江自身だった。彼女はいつまでも自分の腿を見下ろしていた。
「気持ち悪いとは言えんわね」
 雅江は顔を上げて私のほうを見ると、大きな目を暗がりの中できらめかせた。
「どうして私の脚、こんなになってまったんやろ」
 そう言うときの雅江の細めた目つきに、私は何か楽しげなものを感じた。
「楽しそうだね」
 雅江は驚いて私を見つめた。
「楽しそう?」
「うん、楽しそうだ」
 たしかに宿命は彼女に障害という重荷を負わせた。でも、障害の暗い穴に嵌まりこんだ雅江は、宿命とのあいだに個人的に結んだ取引にこっそり満足しているはずだ。
「楽しくなんかあれせんわ、ぜんぜん」
「どんなことにも耐えていかなくちゃいけないって、自分が知ってるからだよ。太いとか細いとか言ったって、歩けるんだ。歩けるなら、耐えられる。それがわかってるから、楽しそうにしてるんだ」
 次に何と言ったらいいかまたわからなくなった。
「じゃ、手も足も、使えればええの? みっともなくてもええの?」
「そうさ。ちゃんと動くなら、人は満足しなくちゃいけないんだよ。満足すれば、どんな醜さも、大したことじゃないって思えてくる。酒井リサちゃんていう飯場の子は、トラックにひかれた脚にすごい傷跡が残ったけど、歩くことはできる。藤本今朝文も、あんな足だったけど、ちゃんと歩けた。肘の手術をしたとき、同じ病室にダッコちゃんていう下半身不随の大学生がいて、足がぜんぜん動かなかった。おしっこもうんこも垂れ流しだった。でも、そのダッコちゃんでさえ、立派に、明るく生きてた」
 雅江は私の言ったことの意味を考え、自分の気持ちが整理のつかないものになったような、少し不快そうな表情をした。慰めてくれると思っていた相手が、気休めの一つも言ってくれると思っていた相手が、自分の急所を衝いて、するどく刺激したという表情だった。
「でも、いややな―」
 雅江はその表情を崩さないで言った。そうしてしばらく黙っていた。
「何がいやなの?」
「神無月くんもいやでしょ。両方、ちゃんとそろった足のほうがええでしょ。ウソ言ったらあかんわ」
 切実な響きを持った声だった。
「いやとか、いやじゃないとか、考えたことはないよ。つらいだろうなって、思ったことはあるけど」
「つらいことがわかるってことは、神無月くんはいやだと思っとることになるでしょ」
「いやじゃないけど、仕方ないなって思ってる。仕方ないなって思うことは、いやだと思うこととはちがうんだ。仕方ないってあきらめれば、ほかのことが考えられる。ほかのことを考えるところへいくまでが、つらいだろうなって思う。どう言えばいいのかな―加藤さんみたいな人には、そんな仕方のないことをいつまでも悩んでほしくないんだよ」
「私みたいな人って?」
「強い人。そして、きれいな人かな」
「当たり障りのないことを言わんといて……。私はまともに生きてみたいだけ。それがさせてもらえんのは、不公平でしょ?」
「まともって、どういうこと?」
「いろんな運動をしたり、勉強をしたり……そういうこと。脚が悪いからって、それができんのは不公平やわ」
「してるじゃないか。人一倍やってるよ」
 加藤雅江はスカートを叩くように弾き下ろし、ポニーテールを揺すりながら喉の奥で唸った。彼女が言いたいのは運動や勉強のことじゃない、と私は思った。
「どうしたの、怒ったの?」
 雅江の顔が蒼ざめ、一つの考えに凝り固まったような表情になった。
「ええ、怒ったわ。……神無月くんは、こんな私のこと、好きですか?」
 私は即座に答えた。
「好きだよ」
「いやだ―」
 雅江はかすかに口を開けて、しかめ面になった。ほんとうに腹を立てているようだ。私はイライラした。こうやって時間をつぶしているのが耐えられなくなってきた。
「何がイヤなんだ。そんなにせっぱつまったしゃべり方は、きみらしくないよ。なぜもっとぼんやりしていられないんだ。脚が悪けりゃ、一巻の終わりなのか」
 彼女が穏やかな気持ちでいられない原因のくだらなさが、私の口調をきつくした。
「何も考えるなってこと?」
「大事なことをいつも考えてれば、ほかのことでぼんやりしていられるさ。ぼくがきみだったら、たしかに脚のことはつらいけど、自分の価値のことだけを考えようとする。どうにもならないんだから、そうするしかないだろ」
 さらに突き放した言い方になった。雅江は私の言葉の冷たさにたじろぐように、小さくなった。
「そんなに、はっきり言わんでも……。私なんか、たとえ足がよくたって、何の価値もあれせん」
 私は雅江に対する苛立ちと同時に、自分が口にする強い言葉に反した、ほとんど感激に近い胸のざわめきを覚えた。それは加藤雅江が心のすべてを包み隠さず見せているせいだった。
「価値がないのか。……もともと価値がない穴の開いた人生なら、何をされても損はないってことだろ。損のない人生なら、新しい時間をぜんぶ穴埋めに当てることができる」
「穴の開いた人生を、新しい時間で?」
 雅江には自分が非難される調子のほかは、ほとんど私が何を言っているのかわからないようだった。彼女は愛する少年のほうを見た。彼のからだがするどい武器になって、ただ自分を傷つけるために突っかかってくるように見える。
「価値がないと思ってるのは、自分の人生にふつうの人にない穴が開いてると思ってるからだろ? それなら、穴埋めしなくちゃ。ぽっかり開いた穴ばかり眺めてため息ついてるやつは、穴埋めしたって甲斐がないと思ってるし、穴埋めがうまくいかなかったらおっかないものだから、やけくそで何もしようとしないんだ。きみはそんな人じゃない。ちゃんと穴埋めしてる。勉強だって、運動だって、こうやっていま、ぼくに自分の気持ちを打ち明けたことだって、そういう時間を作って―」
「あ、わかった。ほかのことに関心を向ける時間やね! 足のことを思ってる古い時間じゃなくて、新しい時間」
「そう!」
 加藤雅江に私の言葉が一瞬のうちに理解され、さわやかな啓示になったようだった。私がまじめに考えた非難の言葉は、彼女の心に新鮮な切り傷を作って刻みつけられた。私はその先を言おうとしなかったけれども、雅江にはよくわかった。雅江は深い眠りから目覚めたような顔つきになって立ち上がり、無言で私を見つめた。私も雅江の顔を見つめた。雅江はあわてて手の甲で涙を拭った。
「もう、いきましょ」
「うん」
 私は雅江の先に立って教室から校庭へ出た。雅江はひょこひょこした足どりで私のあとをついてきた。雅江は声を詰まらせながら言った。
「ごめんね、つまらないこと言っちゃって」
 少し間をおいてから、私も気軽な調子で応えた。
「ちっとも、つまらなくないよ。ぼくがきみなら、もっと悩んでる」
「もうええの。気使わんと、もっともっと野球がんばって。野球イノチ、だもんね、神無月くんは」
「―ちゃんと書くからね、交換日記」
 ほとんど暮れかかった校庭で、雅江の黒い目がやさしく光った。私は思わず雅江の手を握った。目が熱くなった。そっと手を離そうとしたとき、
「もう少し、こうしとって。元気が出てくるから」
 校門を出てからも、雅江は不細工な足どりで、からだに弾みをつけながら私と並んで歩いた。
「歌を歌ってあげる。大好きな曲なんだ」
 私は歌いだした。ザ・スカイライナーズの『シンス・アイ・ドント・ハブ・ユー』という曲だった。歌詞はラジオからテープレコーダーに吹きこんで耳で覚えたカタカナ英語だったので、意味はわからなかった。

  アイ ドン ハブ プランザンスキー
  アンダイ ドン ハブ ホープアンドリー
  アアアアイ ドン ハブ エニーシン
  シンス アイ ドン ハブ ユー
  アイ ドン ハブ フォンディザー
  アンダイ ドン ハブ ハピアー
  アイ ドン ハブ エニーシン
  シンス アイ ドン ハブ ユー
  アイ ドン ハブ ハピネス エンダイゲー
  アイ ネバ ウィル アアアゲエエエン
  ウェン ユーアー ウォークタンミー
  イン ウォークトル ミザリー
  アン シーズィンゼア シンゼー
  アイ ドン ハブ ラブトゥシェー
  アンダイ ドン ハブ ワンフーケー
  アアアアイ ドン ハブ エニーシン
  シンス アイ ドン ハブ ユー

「すてき! すごい声」
「スカイライナーズの『きみがいないので』という曲。……いまの気分にぴったりのような気がして」
「―好きなんです、神無月くんのこと。それだけを伝えたかったのに、新しい時間を使うことができなくて」
 大瀬子橋にさしかかったとたん、雅江はぴょんぴょんと片足を振り子のように前へ跳ね上げながら、橋の反対側のたもとまで駆けていった。川風にひるがえるスカートの裾から片ちんばな脚が見えた。彼女は欄干の外れで立ち止まり、しばらく放心したように臙脂色の空を見上げていた。それから振り返り、
「さよなら! きょうはほんとにありがとう」
 と叫んだ。



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