八十九

 東海橋のたもとでタクシーを降りた。大きな建物の並んだ港湾の薄闇を靄(もや)が流れていた。目の下の運河を、いかだを外した引き船が通り過ぎる。夜の堤防に目を凝らすと、群がる工場のあいだに小さな公園が見えた。二人で寄り添いながら歩いていき、公園の暗がりに立った。人の姿はなく、樹木に囲まれた公園は眠っているように見えた。木の間を梳(す)いて弱い風が吹き、湿った土から蒸気が立ち昇っている。二人は下草の生えた固い木のベンチに腰を下ろした。蒸気と見えたのは、公園の隅の安全灯のかすかな反射の具合だった。
 私はあらためて節子を見た。節子も私を見ていた。白いバッグを膝に置き、長い袖に覆われた腕を寒そうに抱えている。ふくらんだ頬が白く褪(さ)めていた。頬のファウンデーションに涙を流した跡が幾筋かあった。その跡に手を寄せるとたちまちふるえて身を寄せた。六歳年上の女が哀れで無力な少女に変わっていた。その変化は彼女を愛らしく見せたけれども、私の心を新しい不安で満たした。ただ、彼女が無理をしているようには見えなかった。その横顔は無条件の愛の輝きを放っていた。私は彼女の肩を強く抱いた。節子はしがみついてきた。
「怖い……」
 がやがやと人声がして、労務者らしい一群が通りかかった。彼らは、何やら真剣な様子で寄り添っている恋人同士をからかわなかった。声を落とし、恬淡と笑って過ぎていった。
 私は、金がないことをもう一度言った。節子は、だいじょうぶ、と呟いたきり、しばらく頭を私の肩に預けていた。
「……なにも、ヤッちゃんのところにくることはなかったわ。でも、親友だもの、会いたいでしょう。驚くだろうな、ヤッちゃん」
「あいつ、困ったときはいつでもこいって言ったんだ。きっと遠くへ逃がしてくれるよ」
 寺田康男は裏切らない男だ。彼は空約束もしなければ、頼まれごとが手に余るからといって卑怯な言いわけもしない。相手が友人であるかどうかとか、相手に報いてやる手立てがあるかどうかなどということは問題ではない。彼が要求することはただ一つ、誠実に友情の証を示すことだ。足し引きの気持ちはまったくなかったけれども、その証はこの八カ月でじゅうぶんに示したと思った。
「いこう」
「ええ」
 彼がアパートにいなかったら、私たち二人はこの夜の街はずれをあてもなく歩き回ることになるだろう。節子は私の肩から頭を持ち上げ、思いつめた表情で立ち上がった。四角く明かりを灯して安らいでいる窓を通り過ぎていくとき、私は、計画どおりの時間の上を歩む人たちの幸福を考え、強い反発を覚えた。そして、浅野の前に投げ出したカバンが立てた音を思い出した。
 アパートの部屋の中から康男の声がしていた。私は胸をときめかせながら、そっとノブを回して戸を引いた。沓脱ぎに履物がだらしなく散らかっている。奥に目をやると、電灯の下で卓に向き合って麻雀をしている四人の男の姿が見えた。六畳の隅に康男の弟が毛布をかぶって横たわり、壁を向いて寝ていた。毛布の端から細い足首が覗いている。もう一方の壁ぎわで、母親の愛人の見覚えのある顔が座布団を枕に古手拭のように無気力にからだを投げだし、大きく口を開けて寝ていた。
 四人の男たちは麻雀に没頭しているせいで、玄関に立っている私と節子に気づかなかった。康男はこちらに横顔を向けていた。ヤクザ者らしい腹巻を締めていたが、たるんで黒ずんでいた。あごのあたりにうっすらと無精ヒゲが生えている。足首までケロイドで引きつって変色した脚が、不自由そうに卓の下に投げ出されていた。男たちがガラガラと牌をかき混ぜた。
「康男―」
 私はわびしい気持ちを抑えながら、彼の横顔に声をかけた。形のいい頭がピクリと跳ね、あわててこちらを向いた。特徴のある猫背が伸び、笑いが顔じゅうに拡がった。
「神無月か! びっくりさせるなや。ようきたなあ。もう飯場に返されたんやな。ちょこっと待っとれよ。いま、ええとこやでよ」
 私の背中に隠れていた節子は、康男の目に留まらなかった。彼女は、いきましょう、というふうに私の腕を引いた。
「待っとれよ。勝って、ラーメンおごったるでな」
「節ちゃんもいるんだ」
 康男は牌を手から離さず、するどい目をもう一度こちらに振り向けた。
「なんやて?」
「節ちゃんもきてるんだ」
 康男はステテコの両脚を引き寄せた。牌を崩し、
「悪いけど、オッサンら、今夜はこれでやめや。いずれ埋め合わせはさしてもらうで。きょうの勝ち分はいらん。なんなら、かあちゃんとこで飲んでってくれや」
 賭け事ばかりに人生を費やしてきたような面構えの男たちは、不平も鳴らさず、いさぎよく帰っていった。ようやく目を覚ました愛人が、節子にぶつかるような格好で彼らのあとを追った。弟が起き上がって卓を片づけ、のろのろと布団を敷きはじめた。康男はしばらく私と節子を見つめたあと、立ち上がってズボンを穿いた。
「……ここは汚なて、上がってもらえんわ」
 康男は二人を表へいざなった。康男が先に立ち、三人無言で、運河沿いの道をしばらく歩いた。思っていたよりひどい脚の引きずりように、私は胸を締めつけられた。康男は東海橋のたもとで足を止め、川面を見やった。
「なんか、あったんか」
「じつはまだ浅野の家から戻してもらってないんだ。いっしょにいるところを、浅野に見つかってしまった。逃げてきた。節ちゃんとどこかへいくつもりだ」
 迷いのない口調で言った。康男の瞳に霞がかかったようになり、顔の筋肉の一つひとつが引き締まった。彼は節子をひたと見つめた。
「セッチン、おまえ何か神無月に仕掛けたな。どこまでもアクタレやな」
 離れて立っている節子に声をかけた。
「へんな成り行きになっちゃって……。逃げるべきじゃないと思ったけど、キョウちゃんが……」
「なんやその言い草は。神無月が逃げたんやったら、逃げるべきやったに決まっとる。俺はおまえの計画を訊いとるんや。神無月に逃げたあとのあてがあるはずがないやろ」
「私にもあてなんか……。とつぜんだったから」
「やっぱりな。アホのやることはケジメがねえわ」
 康男は、フン、と唇をゆがめて笑った。私は、彼のいつもの笑顔から機知に富んだ励ましの言葉が出てくるのを期待していた。彼は私の真の友であり、私の救い主であり、私の英雄だった。彼が私をいじめたり脅したりしたことは一度もなかったし、いつも愛情深く私に接してくれた。彼がヤクザ者の身内で、喧嘩が強くて、火傷で脚を悪くしたということは、私には何の関係もないことだった。いま私は、その彼の吐く救済の言葉を切実に求めていた。
「おまえがそんなことじゃ、神無月は逃げ切れんな。きょうあすにもおまえが裏切るかもしれんしな。だいたい、逃げたて逃げたゆう顔しとらんやろ。この男は、あと先考えられん短気なアタマしとる。好きな人間がヤクザやとヤクザになりたがる男やでな」
 私は思わず康男の顔を見た。厳しい表情をしていた。分別顔だった。私はその冷たさに深い安堵を覚えた。
「神無月、学校、どうする」
「働くんだ……」
 康男がやさしく笑った。
「ママゴトでもしとるつもりかや。おまえみたいなガキが、何して働くんや。……駅裏のギュウみたいに、セッチンを泳がせて客を引くつもりか」
「やめて! いきましょ、キョウちゃん」
「バカ野郎! 神無月は俺みてえな、ただのサンピンじゃねえんだ。スレッからしになろうたって、どだい無理なんだよ。セッチン、おまえじゃ神無月と逃げるのは無理だ。人間のデキがちがう。後味悪いことになるで」
 節子はすがりつくような眼差しを私に向けた。
「でも、私、やっぱりキョウちゃんといっしょに逃げて、どこかでいっしょに暮らす。キョウちゃんはほんとうに勇気があるわ。……私、むかしから卑怯な人間ばかり見てきた気がするの。お体裁ばかり言って、はっきりしないような人間。私、もう、そういう人たちを見るのまっぴら」
「アホか、御託並べやがって。おまえの口がしゃべることやないやろ」
 康男は大きくため息をついて、腹巻から煙草を出して火を点けた。
「いっしょに逃げるんなら、おまえが死ぬほど働いて、神無月を一人前にしたらんといかんことになるで。高校いかして、大学いかして、野球もやらしたらんといかん。できるかや」
「……わからない」
「クソッタレ!」
「ぼくが無理やり連れて逃げてきたんだ」
 康男はますます目を細めた。
「おまえは金ピカの馬鹿ガキだで、好きなように生きるしかないんや。だれも迷惑に思わん。迷惑に思うのは、おまえの馬鹿さかげんについていけんやつだけや。好きなように生きんと、おまえ、そいつらに殺されてまうで。セッチン、このどえらい男を、中学で退めさす気かや」
「ぼくは学校にいかなきゃモノにならない男なのか」
 康男は私をじろりと横目で見て、
「……じつはな、ワカの面倒見で、高校にいかしてもらう話が出とる。俺はいくつもりはあれせん。中学出たらすぐハシで働く。中学ぐらい終わっとらんと、気持ちの区切りがつかんからな。おまえが学校にハマる人間やないことはわかっとる。学校にいかんでも金ピカや。ただな、学校に隠れとらんと、おまえは外の馬鹿な人間に大ケガさせられて、遠回りしてまう。……神無月、いまはじっとしとれ。おまえは高校、大学といって、身を守らんとあかん。しっかり野球しながら、退屈しのぎにつまらん勉強でもして、そのまま金ピカで生きてけ。おまえは馬鹿に殺されたらあかんのや。セッチンはおまえを殺す。つるまんほうがええ。どこへいってもセッチンは雇ってもらえん。ふらりと流れてきた看護婦なんか雇う病院はあれせん。そのうち松葉の幹部にでもなったら、おまえがどう転んでも引き受けたる。頭使ってうまくやるんや。いまは逃げ場所がねえわ。静かにしとれ」
 節子の眼が光った。
「お金なんか、どうやったって稼いでみせるわよ。キョウちゃんはただ、ヤッちゃんに励ましてほしくて―」
「きれい口叩くな。おまえの身のまわりは、その口ほどきれいになっとるんか。聞きたくない耳にも話は入ってくるんや。まだ一人、二人の医者とも付き合っとるやろ。まあええわ。話には尾ひれがつくこともあるでよ」
 そう言うと、康男は私の顔をまともに見た。私は感謝の笑みを浮かべながら遠く川面を見つめた。節子が言った。
「もう、きちんとしたわ。私にはキョウちゃんがすべてなのよ」
「いやにタイミングがええな。どうでもええけどよ。ただ、神無月だけはおまえの好きにさせんぞ」
「康男、ぼくは男として、人間として、責任をとらなくちゃいけないんだ。いまの生活もアタマにきてたし」
「責任? このアホと一発やったことか。股借りてマスかいたぐらいのもんや。ありがたがっとるのはセッチンのほうやろ。天下の神無月と一発やれたんやからな。神無月、いまの生活にアタマきとるんはおまえだけやないで……」
 彼の目が街灯に潤んだ。
「……ほら、今晩の旅館代だ。あしたの朝、浅野のところに戻って頭を下げろ。セッチンは病院に帰れ」
 康男は胴巻からありったけの金をつかみ出すと、学生服のポケットにねじこんだ。
「七、八千円はある。いろいろ役に立つやろ―」
 私は深くうなだれた。
「ありがとう……」
 私はこの救済主にさえ、大切なカズちゃんの存在を打ち明けなかった。カズちゃんと私の関係を知っているのは、この世に加藤雅江しかいない。
「セッチン、へたな気起こすんじゃねえぞ。あした病院へ帰れよ。覚悟もなしにこんなことをしとるんやったら、いますぐ神無月を捨てていけ。とぼけたことをしやがったら、いいか、神無月に泣きの目見さしたら、ただじゃおかねえからな。……神無月、どこへいっても、俺のことを忘れるんじゃねえぞ。どうしようもなくなったら、すぐ飛んでこい。俺だけは信用していいからな。女なんてのはよ……」
 そのあとの言葉を康男は呑みこんでしまった。彼は私にいざり寄り、フン、と鼻を鳴らしながら、照れくさそうにそっと肩を抱いた。私は康男にもたれて身を支えた。そうしなければ立っていられなかった。
 寺田康男は、静かに運河沿いの道を戻っていった。足を引きずり、いつものように一度も振り返らずに、尖った肩を傾けながら去っていった。節子は乾いた浮かない表情をしていた。
「私って、信用ないのね。……もう私と逃げたくないでしょ」
 節子は精いっぱい笑顔を作った。
「……どうしようと、もうぼくはのっぴきならないと思うよ。浅野のところに戻っても戻らなくてもね。ぼくのことより、節ちゃんが助からなくちゃいけない。いま病院に戻ったほうがいいと思う。ただの気まぐれで節ちゃんの手を引いて逃げちゃったんだから……とんでもない巻き添えだったね」
 母の手ひどいしっぺ返しが予感できた。私はこれから半年浅野の家の監獄に閉じこめられ、名古屋の名門高校にやらされるだろう。そしてそれから三年間、野球を奪われ、あの小屋から通学させられるだろう。一条の光のカズちゃんとも、ほとんど逢うチャンスはないだろう。あした戻れば、康男の言うような〈好きなように生きる〉ことなどできなくなる。


         九十

 港湾のさびしいアスファルト道を節子と肩寄せ合って歩きながら、私はあてのない未来に血が凍りつく思いだった。
「さっきの、ヤッちゃんの話ね……」
「いいんだ、もう、何も話さなくていい」
「私、悪いことはしてないわ」
「わかってる。ぼくは何も気にしてないよ。……ぼくは、あしたからの未来を考えるだけで頭がいっぱいなんだ」
「私、ときどき逢って、キョウちゃんを幸せにしてあげる」
 返す言葉がなかった。東海通りを千年に向かって歩きつづけた。潮のにおいが薄まるにつれて、逆に、康男との別れの印象が濃くなっていった。あんなすばらしい男には二度と会えないだろう。どうして私は彼と生きていくことができないのだろう。どうして彼と別れなければならないのだろう。
 千年町にさしかかった。飯場が近い。粉のような雨が落ちはじめた。電車道から大きく逸れ、雨宿りの軒を求めて熱田高校の運動場へ曲がりこんだ。校庭の周囲を縁取る薄青い芝が見える。霧雨の混じった風が芝をないでいく。雨を避ける場所はなかった。二人の立っている場所は、背の高い垣根で往来から隔てられていた。
「お家が近いわね。みんな、心配してるでしょう……」
「もうどうでもいいことだよ」
 二人はサッカーゴールの陰にたたずんだ。芝草が雨に光っている。足音が近づいてくるのが聞こえた。節子はびくりと私の腕から離れて、少し後ずさりした。すぐ近くをハイヒールの音が抜けていった。記憶が甦った。女の叫び声に驚いて、ここから飯場まで一目散に走った中学生が、知りたかった以上の女の神秘を知り尽くしていまここに立っている。なんという皮肉だろう。生垣の隙間から往来に出た。ネギ畠を区切る透垣の向こうに、クマさんの社宅に連なる家々が安らいでいた。
「キョウちゃんのお家、一度だけでいいから見てみたいわ」
「家なんてものじゃない。小屋だよ」
「それでもいいの。見ておきたいの。お願い」
「見たらすぐ引き返そう」
 ズック靴が湿っている。爪先に水気を感じながら、アスファルトの道を高架橋の下まで歩いた。いちばん近い辻から覗きこむようにして、裏庭越しに勉強小屋を眺める。明かりが点いている。不審に思いながら指差した。
「あのバラック小屋」
 節子はうなずき、しばらくぼんやり見ていた。
「バラックの隣が、食堂」
 目が自然にシロの姿を探した。見当たらなかった。カズちゃんの顔が浮かんだ。そしてクマさんや小山田さんや吉冨さんのやさしい顔が―。
「あ……」
 私は勉強小屋の窓に、机のあたりを物色するような母の影を見た。すでに浅野から連絡がいっているということだ。私はそのシルエットに向かって、くそったれ、と呟くと、節子の手を引いて踵を返した。
「みんなを裏切るのね」
 康男の前で啖呵を切った調子とだいぶちがっている。私はイライラと眉を寄せて言った。
「知り合いが多ければ多いほど、大事な人といる時間が少なくなってしまう」
 節子ではなく、カズちゃんの顔を思い浮かべた。熱田高校へ引き返し、クマさんの社宅の裏道から、加藤雅江の大楠の見える通りに出た。
「こんなことが許されるのかしら……」
 私は節子の先に立って、大楠の家から遠ざかった。
「いったい、だれに許してもらいたいんだ。康男にあんな強がりを言ったのに、まだ舌の根も乾かないうちに―」
 節子は大瀬子橋の歩道の半ばでたたずんだ。両手を胸に押し当て、小糠雨に打たれながら身動きもせずに。橋を車が通りすぎても、そのエンジン音がたもとから消えてしまっても、彼女は立ったままでいた。私が肩に手を置くと、頭をいっそう低く垂れた。滝澤節子という女が何の思想もないふつうの人間だとわかった。もともと美しさや魅力などない女だとわかった。しかしもう遅い。
「キョウちゃんは、私といっしょにいるのが、いやなのね」
「いやじゃない」
「でも……ほんとに、あたしなんか」
 霧雨混じりの風が欄干に吹いてきた。節子が哀れだった。
「これからもときどき逢おう。……逢える時間があったら」
 節子はうれしそうな眼で私を見上げた。
「大好きな人の名前は何て言うの?」
「カズちゃん」
「和子さん? カズエさん?」
「和子だよ」
 私の突き放したような言い方に、節子は私の表情を探る注意深い表情を浮かべた。落胆した様子はなかった。大瀬子橋を渡り、堀川沿いに宮の渡しを過ぎて、神宮外苑の伏見通りから、雨に濡れた神宮の境内に入った。闇の中に、ホンザンの勉強部屋の明かりが輝いていた。この森の中で節子が私を誘った光景が甦った。その記憶は染色液で固定されていて、取り出して眺めることができた。私は苦々しい思いで笑った。手水舎の前に立った。
「ここでキスをしたとき、歯がぶつかって、恥ずかしかったわ」
「…………」
「ほら、よく映画で、膝に腕を入れて抱き上げるでしょ、あんなふうにいま、してみてくれる?」
「うん」
 私はおもむろに彼女のからだを抱き上げた。思ったよりも重くて、よろめいた。喉を鳴らして節子が笑った。
「重いでしょう。もう、いいわ」
 私はしっかり絶望した。私に見合った、完結した絶望だった。
「できるだけ遠くへいきたかったな。裏日本……金沢とか、鳥取とか。そこでアパートを借りて、私は近所の病院に勤め、キョウちゃんは学校にかよう。お金が貯まったら、もっと大きなアパートに移って……。みんなに期待されてるキョウちゃんが、そんなふうになっちゃうのって、もったいないわよね。キョウちゃんらしい生き方じゃない。やっぱり野球一本でいかなくちゃ」
 いまさら何を言うのだ。節子は希望に燃えた顔で、野球選手としての私の前途の明るさを語った。私は苛立ちながら話をさえぎった。この女も私の野球の未来がどれほど暗いかを知らない。
「きょう、どこに泊まろうか」
「熱田駅のそばにいってみましょう」
 東門から神宮前の小路に入ると、ネオンを落としはじめた飲み屋の店先を、野良犬がうろついていた。ノラの看板を足早に過ぎた。
「なんだか、怖い……」
 その単語をもう聞きたくなかった。
 アスファルトの道を走り、雨に濡れた草にたたずみ、玉砂利を踏みながらここまでやってきたどの瞬間にも、私には恐怖感がなかった。それは自分の自棄的な行動に対して麻痺した神経のせいというよりも、その行動をきちんと成し遂げたいという緊張のせいだった。しかし、康男に会った瞬間からだんだんその緊張が緩みはじめた。
 熱田駅のそばに、安っぽいネオンを灯した連れこみの旅館があった。淫靡で不健全なたたずまいだった。節子は動じない様子でネオンを見上げた。この旅館を見知っているように見えた。
「入りましょう。ここしか開いてないわ」
 私はその小さな背中に貼りつくようにして玄関を入った。帳場の女が私の学生服と学生帽をするどい目で見つめたが、すぐ目を逸らした。帳場の柱に、十月八日(木)の暦がめくれていた。主婦の普段着のような茶色いスカートと縞柄のブラウスを着た年増が、黒のカーディガンを引っかけて帳場から出てきて、不貞腐れたふうに二階の部屋に通した。案内された六畳の部屋にはすでに蒲団が敷いてあった。
「泊まり八百円な。朝の十時過ぎたら追加になるで」
 無愛想なまま出ていった。テーブルの茶盆に茶器のセットが置いてある。鴨居の時計が十一時少し前を指していた。いったい何時間歩き回ったのだろう。疲労がいちどきにやってきた。雨に濡れた服を衣桁に掛け、卓子に向かい合う。節子はシュミーズ姿だったが、私の心は動かなかった。あしたの朝、お互いに出向いていかなければならない場所がある。このまま永遠に向かい合ってすごすことはできない。私は気がかりなことを訊いた。
「おふくろが、あの花火以来、病院へ電話なんかしていやがらせしなかった?」
「…………」
「やっぱり」
「一度だけ。気にしないで。お母さん、私たちの関係には気づいてないみたいだから。ヤッちゃんの悪口ばかり言ってた。あいだを取り持つようなことはしないでくれって。もうヤッちゃん、病院にきてないのに」
「……康男、別の中学校へ転校させられたんだ」
「ほんと? いつ?」
「先月の末」
 節子は大儀そうに急須に茶葉を入れ、ポットの湯を注いだ。淡い緑の液体が二つの茶碗に満たされる。
「お話しましょう。そして、お風呂に入って、眠くなったら寝ましょう。……話してもしょうのないことだけど、私、これまで―」
「いいんだってば、もう、そんなこと」
 過去を吐き出したあとの彼女の気詰まりが面倒くさかった。
「そうね、どうでもいいことよね」
「節ちゃんがどんなふうに生きてきたか、そんなこと聞いたって、ぼくの中の何も変わらないよ」
「私、キョウちゃんよりずっとお姉さんよね。でも、どうしてもそう思えないの。私もおかあさんしかいないけど、それでキョウちゃんに関心を持ったのとちがうのよ。へんなこと言うようだけど、キョウちゃんを初めて見たとき、心に響くものがあったの。この人にずっと逢いたかったんだって。……キョウちゃん以外にも、何人かの男の人と付き合ってきたわ。ちょっとヤケになってたところがあったし。病院の待遇とか、勉強の進み具合とか。気を悪くしないでね。だれもほんとうに好きになったことがなかったの。本気になれなかった。いまはちがう。キョウちゃん以外の男なんて考えられない。死ぬほど好き。気が狂うんじゃないかと思うくらい」
 私は黙って茶を飲んだ。濡れたズボンが気がかりだった。でも脱ぎたくなかった。
「いやでしょ、こんな女。ぜんぶ、汚いのよ。許してくれる?」
「仕方ないよ、ぼくたちまだ遇ってなかったんだから」
 節子は鼻をすすりながら、髪をかき上げた。
「―私、遊びじゃないのよ。きょう、ヤッちゃんの前で言ったことも、ほんとうの気持ち。でも……」
 でもの次にはかならず逡巡の言葉がくる。
「私、キョウちゃんのこと、知多のおかあさんに話したの。熱田祭のすぐあと……おかあさん、驚いてた。そりゃそうよね。五つも六つも年下の子と関係を持ってしまったなんて言ったら、だれだって狂ってると思うわ。でも、おかあさん、わかってくれた。私と一晩いっしょに泣いてくれたの。好きにしなさい、せいぜい、その子に捨てられないようにって」
 滝澤節子は雨に冷やされた手のひらを、私の手にかぶせた。
「ねえ、キョウちゃん、私、ヤッちゃんにさんざん言われて反省したの。ほんとうにまじめに将来を考えることにしたわ。私、キョウちゃんを失いたくないの。何人かの女の一人でもいい。キョウちゃんが学校にいるあいだに、私、和子さんに負けないくらいきちんとした女になる。だから、安心して。ヤッちゃんの言ったとおり、あしたの朝、おたがいの持ち場に戻りましょう。いま逃げてはだめ。いま逃げたらきっと二人ともだめになる。ぜったいだめになっちゃう!」
 私は節子の手の甲を見つめた。どこがどうとははっきり言えないけれど、だめになると言うとき、彼女自身の危機を嘆いているような響きがあった。それが、だめになろうとした私に対する非難めいた、かすかな威嚇を帯びて聞こえた。


         九十一 

 私は感情を抑えた調子で言った。
「……好き合っている者同士、だめになるわけないじゃないか。他人の手で世間的にだめにされるということだろ。そうなればたしかにさびしく暮らすことにはなるかもしれないけど。……そのさびしさは、逃げても逃げなくても同じだ。この何時間かでそれがわかった。ぼくは何もしないことにする」
「世間は恐ろしいわ。生きていけなくさせられちゃう」
「節ちゃんは無事に生きたいんだね。無事なんてつまらない。クソッ食らえだ。みんなの目から隠れてこっそり暮らしたら、どうしていけないんだろう。節ちゃんはとにかく、それが恐いんだね」
 私はくどいと思いながら言った。節子は悲しげな顔で答えた。 
「キョウちゃん、私たちの関係は、もともと世間では許されない関係だということをわかってほしいの。もし、大人同士きちんとした関係にある男女なら、どんなにたくさんの不義理をしても、自分たちの責任で何とかしのいでいけるものよ。でも最初から世間に許されてない関係は、とても強く結び合っていても、かならず傷つけられるわ。そして、しつこく傷めつけられていくうちに、とうとうだめになってしまう」
 節子が何を言いたいのか推し量ることはできた。それでもじっと反応を待たれると、さもわかっているふりをしてうなずくことはできなかった。
「節ちゃんの言う、世間に許されるという理屈は、ぼくにはよくわからない。世間てだれのことか知らないけど、そんなわけのわからない理屈を振り回さないで、たったひとこと、ぼくのことは世間ほど大事に思えないって言えばすむじゃないか」
「どうしてもわかってもらえないのね。なんて単純で、難しい人なの」
 節子は涙声になった。そして私の両手を握って、顔をまともに見た。彼女の眼はじっと私の目の奥に注がれていたけれども、その瞳の中に、これまでのような情熱を見出すことができなかった。私はとつぜん顔に昇ってきた怒りのせいで、目が回るようだった。
 ―ぼくはなぜ、ここにいるのだろう。野球も勉強もしないで。康男が火傷さえしなかったら、ぼくはこの女にめぐり会わずにすんだ。そして、この女にめぐり会いさえしなければ、いまもぼくはカズちゃんに見守られながら、野球と勉強に励む〈よい子〉でいられただろう。まさか! それができなかったから、それをさせてもらえなかったから、いまぼくはここにいるのだ。康男に遇っていなかったら、ぼくは、ただ大瀬子橋の大群に流されながら、守随くんの言ったようなあちらこちらとさまようウズラになっていただろう。
「お風呂に入ってくるわ」
 節子は涙を拭い、うっすらと微笑みながら立ち上がると、浴室へいった。私と抱き合って、感情の齟齬を氷解させようとしているのだろうとぼんやり思った。私はズボンを脱がないまま、蒲団にもぐりこんだ。やがて彼女は風呂から上がってくると、旅館の浴衣の肩に洗い髪を散らして、鏡台に向かった。鉛色の座布団に所在なく坐りながら、備えつけの化粧クリームを額につけ、指先で静かにむらなく延ばす。両眉のあいだから、鼻筋、頬、口のまわりへと手際よく塗りこんでいく。その素早い指使いを、私は醒めた目で眺めた。鏡の中から笑いかけてくる節子に愛想を返した。
 旅館の浴衣をまとった節子が蒲団に入ってきた。私がズボンを穿いたままなのに息を呑んだ。
「こんなときに、やめておこう。眠るだけにしよう。……疲れた」
 節子は冷静さを失い、ワイシャツの上から私を抱き締め、脈絡のないことを譫言のように言いはじめた。
「逃げましょう、逃げましょう……愛してるわ、ほんとよ、ほんとに愛してるの……キョウちゃんのお母さんは、あしたには病院にくるわ、私は辞めさせられるでしょう、知多のおかあさんにどう言えばいいかしら、きっと病院のブラックリストにも載ってしまう……金沢にいったらどうやって中学校の転校の手続をしたらいいの……私、どうすればいいのかしら、死ぬしかないわ……あしたの朝、ここから遠くへ旅立って、二人で一から出発すれば、きっとうまくいって、最後にはみんなに認めてもらえる、そしたら結婚して、子供を産んで……」
 私は黙ったまま、不幸を予想してあふれる涙と、希望の炎の中で干上がって乾く涙をイライラと見守っていた。節子はふとわれに返ると、唇に吸いつき、私の股間を撫ぜた。
 ―してあげなさい。でも最後よ。
 カズちゃんの声が聞こえた。私は蒲団を出て、裸身になり、蒲団に入った。節子は私の股間に屈みこみ、唇と舌で時間をかけて勃起させると、カズちゃんのように開脚して跨った。私の顔を見つめながらひとしきり尻を振り立て、目をつぶって悦楽の声を上げ、すっかり痙攣し尽くすと満足して離れた。私は少しも快美感がなかったので射精をしなかった。節子はそのことにすら気づかなかった。私の胸に両掌を当て、愛してます、とひとこと言って静かな呼吸をしはじめた。呼吸を聴いているうちに、私もわれ知らず眠りに落ちた。
 節子の寝返りに驚き、暗い部屋で目覚めた。柱時計が三時を指していた。静かだった。節子は蒲団から片手を突き出し、まるで幼児のように小さな握りこぶしを作っていた。首筋できらめいた金色のニコ毛、外股の爪先、ふくらんだ頬。あれほどの感激はどこへ消えてしまったのだろう。さびしかった。私は小便に立った。それからシャワーを使って性器を洗った。
         †
 額にキスをされて目を覚ました。節子がくっきりとアイシャドーを引いた目で覗きこみ、明るく笑った。初めて彼女の顔を正面から見つめたような気がした。不安はただ不安であり、喜びはただ喜びであるような清純な目だった。彼女は鏡台に向かって櫛を使いはじめた。バックから紅を出して引いた。私はのろのろと上半身を起こした。からだが凝っているのは、生まれて初めて女と添い寝をしたせいだった。
「何時?」
「七時……。きのうはありがとう。私の愛する人はキョウちゃん一人とわかって、うれしかった。からだが教えてくれたの。そういう愛情もあるのね。これで心の芯張り棒ができたわ。さびしくなく生きていける」
「もう逢わないつもり?」
「キョウちゃんが高校に入るまで。私もまじめにがんばる。いまから覚悟して病院へ帰るわ。キョウちゃんも早く先生のところへ帰ってね。先生には事情を話して、十時までに帰るって電話しといたから。このお帽子、もらっていい?」
「いいよ。かぶっていくの」
「まさか。宝箱にしまって、お守りにするの」
 にこにこ笑いながら、節子は出ていった。丸い背中を見つめながら、永遠の別れだと思った。
 私は下着を穿くと、半乾きの学生服を着、卓子の前にあぐらをかいた。頭を抱えて、しばらくのあいだ後悔の念に浸った。カズちゃんへの申しわけなさと、節子に冷淡な態度をとったことに対する後悔だった。
 ―なんだか、ひどく疲れたな。
 滝澤節子が、カズちゃんのように誠実で、素直で、はにかむような愛情をこれまで見せていたら、私はいつもゆったり安心していられただろうし、こんなふうにいやがる彼女を引きずって歩くような野蛮な行動はしなかっただろう。彼女の心には、どんなに高揚しているときでも、かならず世間とか他人という観念があった。そのせいで、しゃべることが二転、三転した。それを打ち破るためには、私はどうしても、冷淡な態度をとって、彼女を〈正常な道〉へ引き戻すしかなかった。自分の馬鹿さかげんに笑った。それは私が正常だという条件つきの話だからだ。私は畳にゴロリと横たわった。
 これからどうしようか。浅野の家へ帰るか。とんでもない。康男が渾身の力で口に出した妥協案に従えば、たぶん私の人生の軌道はそれほどねじくれたものにはならないだろう。だれもが大瀬子橋の人波を願う。しかし、康男は兄の勧めもワカの勧めも蹴った。妥協なく本意を貫きたかったからだ。私の本意は? カズちゃんと暮らすことだけだ。できれば野球をしながら。浅野の家に戻っても、どちらも叶わない。どちらも叶う方策は? わからない。康男のくれたこの金で、カズちゃんといっしょに東京へでもいこうか。東京にいって、どうやって野球をする? 転校は? 節子が譫言のように言っていたことだ。結局カズちゃんに頼り切ってその日暮らしをする破目になる。野球ばかりでなく、自分自身さえ握り締めることができない。
 反抗的なヒロイズムの空しさが押し寄せてきた。この一夜の気ちがい沙汰を、房ちゃんと幸せに暮らしているクマさんが知ったら、どう思うだろう。小山田さんは? 吉冨さんや、大分にいる荒田さんや、そして、岐阜のダッコちゃんは? どう思われようと、もう取り返しはつかない。あらゆること、あらゆる人間の存在が耐え難いもののような気がしてきた。
 私はとめどなく思いをめぐらせながら、畳の上にじっと横たわったままでいた。時計を見ると九時だった。もう浅野の家に帰らなければ間に合わなくなる。時間の意識を消すことはできないものか。……ふたたび自棄的な気分がやってきた。疲労が極限まできていた。
 ―このまま熱田駅へいって列車に乗る。旅に出る。自分を知っているすべての人の前から姿を消す。カズちゃんからさえも姿を消す。どこか知らない土地へまぎれ入り、別の人間になりすます。まるきり別の人生をおくる。なんとかこの状況を逃れられたら、孤独に生きよう。
「カズちゃんだけは連れていく!」
 声に出して言った。とたんに襖が開いた。
「暗いな」
 浅野の声だった。彼は敷居を跨いで入ってきた。あとに三人の男女の影がつづいた。私は恐怖にしびれるような感覚で、何か命までも危うくするような事態が迫っていることを予感した。
「なんだ、おめえら!」
 私は畳を蹴って立ち上がった。
「落ち着け、郷!」
 男が一喝した。四年ぶりに見るサイドさんの顔だった。
「まあ、坐りなさい。取って食おうってわけじゃない。私は話を聞きにきただけだから」
 私は、この尊敬する人物にどういう態度をとったものか困惑した。
「キョウも大人になったものだ。このあいだまで、かわいらしい勉強家だったのに。若すぎたのか、それともあまりに一途な恋をしちゃったのか……。義姉さんに呼ばれてね、きのうの夜、特急で飛んできた」 
「帰りゃいいんだろ!」
 私は座布団を足で部屋の隅へ蹴った。いまとなっては相手がだれであろうとかまわなかった。私の前に浅野があぐらをかくと、サイドさんと二人の女がその脇に控えた。私の母と、もう一人は浅野の母親だった。母の眼差しはするどかったが、浅野の母親は薄っすらと微笑していた。私は学生服の上着を脱いで、彼らから遠い場所であぐらをかいた。絶望がひたひたと腹の底に溜まりはじめた。あんたがたはなぜここまでつきまとうのだという思いが、薄笑いの形で頬をふるわせた。母の代わりに浅野がその笑いに応えた。
「自信喪失だな、神無月。……おまえの考えているとおり、もうあの女は帰ってこんぞ」
「そりゃそうだ、帰らないときちんと断って出ていったんだから。もともと、彼女のことはどうでもいいことだよ」
「もともととはなんだ。いやしくも一夜をともにした女じゃないのか。どうでもいい女とこんな派手なことをしたのか、青二才野郎が」
 思わずぞんざいな口を利いてしまうほど、浅野も気が立っていた。彼はつづけた。
「彼女には納得してもらった。申しわけないって、平身低頭だった。もう二度と会いませんと誓った」
 心臓を一気に刺し貫いた。私は分別くさく茶化して、
「よかったじゃないか。これですべて解決したわけだから」
 胸の中に冷たい血が流れこんできた。母がしゃべりはじめた。
「あれはロクな女じゃないね。熱田祭りのあと一度病院に会いにいったんだよ。胸張っちゃって、私の人生は八方ふさがりです、このことを病院に言われたら生活できなくなるって、しゃあしゃあと言うんだから。かあちゃんも言ってやった。これからは息子にも、あなたの人生にちょっかい出させませんよって。そしたらあの女、これまでも、おまえが自分の前からいなくなってくれたらどんなにありがたいだろうって、ときどき祈ったりしたって、正直な気持ちですって、そんなことを考える自分に気づいてびっくりしたって」
 母が作り話をしていないのはその眼差しからわかった。自分の前からいなくなる―それこそ、国際ホテルのころから私に対してずっと抱いてきた母の気持ちでもあった。母にとって、息子がどこか遠くへいってくれれば、これ以上ありがたいことはないのだ。それは、これまで息子と暮らした年月が運んできたどんな幸福よりも、彼女に多くの幸福を与えるにちがいなかった。浅野の母親が言った。
「からだの関係もあれせんかったときに、そこまで言う女なんて、ひどいものやね」
「……なに素っ頓狂なこと言ってるんだ、かあさん。こんなところにいっしょに泊まってるんだから、推して知るべしだろ」
 浅野の母親は息を飲んで黙った。それから静かに立ち上がって、下へ降りていった。
「まあ、じっくり話をしようじゃありませんか。斉藤さんもよろしいですね」
「はい。私は聞いております。申し上げることはございません」
 しばらく母と浅野は、うなだれて煙草を吸っていた。浅野の母親が、下の帳場でいれてもらったコーヒーを持ってまた上がってきた。私の分だけだった。彼女は浅野と私の母の高圧的な様子に反撥し、それに打撃を与えようと決めたようだった。
「キョウちゃんは何をするにも真剣な子だがなも。そんな女でも求められたらきちんと抱いてあげるなんて、きれいな心を持ってる証拠やがね。人間に上下をつけて、あと先考えるようなふつうの男にはできん芸当やないの。あんたにもできんでしょう」
 サイドさんは浅野の母親の直接的な言葉に気圧されたように、コクリとうなずき、
「郷は、そういう慈愛に満ちた心映えの子です」
 浅野は、
「俺にはできんよ。無鉄砲は愚の骨頂だからね。しかしかあさん、そいうの、きれいと言うのか。……斉藤さん、慈愛と言うのもまた大げさな言葉ですよ。まあ、せいぜい悪しき博愛でしょう。博愛者は万事に執着しませんから。神無月のそういう博愛的な性格からして、俺は、反逆などあり得ないものと信じ切ってきましたからね。下宿までさせてね。……じつに迂闊でした、申しわけない」
 私の母に頭を下げた。
「博愛というより、無感覚じゃないですか? 鈍感と言うか。最終的に冷酷までいってしまう気質ですよ。あんなふうにおまえのことを考えてた女に入れこむなんて、かわいそうな子だね」
 母は浅野の表現を訂正したが、しきりと満足げに首を縦に振りながら、法悦に浸っているような表情をしていた。
 節子は、母から一回電話があっただけで、もっぱら康男のことを難詰していただけだと言っていた。心やさしい虚言だ。こんな母を、その事実を知れば胸を痛める私を、ともに庇ったのだ。私は重い口を開けた。
「自分を姑息な人間に見せて、ぼくとあんたを庇おうとしたんだね。思っていたよりやさしい人だ。知恵もある。今回は、少し無鉄砲だったね。墓穴を掘っちゃった。この穴から抜け出すのはたいへんかな」
 母が口を挟んだ。
「私は言ってやったよ。郷には、あなたとちがって気にする世間体はありません。根っからの変人だし、多少狂ってますからねって」
「狂っとりゃせんよ、キョウちゃんは!」
 浅野の母親が睨んだ。母は少しひるんだふうに、
「まあ、若いときは女に狂うのがふつうだと思いますけどね。とにかく言ってやったんですよ。あなたのような情熱のない女には、ふつうの男が似合ってますって。これからはそういう男に鞍替えしなさいって」
 それにしても、どうして節子はそんな虚言を吐いたのか? たぶん彼女には、自分にハッキリした態度をとろうとしない私への無意識の恨みがあったのかもしれない。それほど私への執着が強かったからなのだ。
「ぼくもこの穴からはしばらく抜け出せないな。しばらくご厄介になります。明和か旭丘に受かったら、飯場に撤退します。いま戻すのは心配でしょうから」



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