七
「モリ、でっかいのいけ!」
「右狙いなんかするなよ!」
「ヨ!」
「ホ!」
「ヨーオ!」
一塁ベンチの上方の慎ましい鉦太鼓の音がだんだん大きくなる。中が、
「日米野球は鳴り物の自粛を求められるんだ。きょうはあれで精いっぱいだろうな」
初球、え? 足を上げずサイドスローから投げてきた。外角高目へシュートボール。グニャリと曲がった。
「ストーライ!」
マリシャルはまちがいなく変化球ピッチャーだとわかった。
「いままで春に親善試合をやったことはあるんですか」
「つい四年前に2Aのメキシコ・タイガースがきた。旅費も滞在費も自前でね。アメリカでないチームは史上それだけ。弱いチームでね、日本の十三戦全勝。秋にはちゃんとドジャースがきたんだよ」
「知りませんでした。ちょうど名古屋西高時代で、野球の休止期でしたから」
水原監督が両手を腰に高木をじっと見つめている。二球目、同じシュートが内角を抉ってくる。高木は予測していたようだ。ハシッと叩いて、三塁線へするどいファール。次はスライダーだろう。長谷川コーチが叫ぶ。
「スライダー、スライダー!」
三球目、変化球ばかりでは面目が立たないというふうに真ん中低目へストレートを投げてきた。ギシッ! いつもの〈快音〉だ。
「オッシャー!」
左中間へ真っすぐ伸びていくお得意のコース。メイズとヘンダーソンのあいだをきれいに割った。谷沢生還。高木は二塁へ滑りこむ。一対ゼロ。
「三番、ファースト、江藤、背番号9」
水原監督のパンパンパン。私はネクストバッターズサークルへ。宇野ヘッドコーチが、
「シュート、シュート! 芸がないよ!」
「放りこめ!」
初球、マリシャルは足を高く上げ内角低目へシュートを投げこむ。見逃し、ストライク。
「見(けん)すな、見すな!」
「慎ちゃん攫(さら)っとけ! 金太郎さんが歩かされるかもしれんぞ!」
二球目、外角へグニャリ、スライダー、踏みこみ、引っ張った。江藤の外角引っ張りは左中間へいく。低い当たりがメイズの右へ飛ぶ。追いつくか、いや追いつかない、スライディングしてショートバウンドで抑えた。捕球されるかもしれない打球だったので、シングルヒットになってしまった。高木は三塁ストップ。ノーアウト一塁、三塁。
「四番、レフト、神無月、背番号8」
「待ってました!」
「神無月ィ! ホームラン!」
拍手と歓声の嵐。記者席のシャッター音が激しくなる。キャッチャーのディーツがマウンドへ駆け寄ろうとするのをマリシャルは止めた。私の頭にあるのはスライダーとシュートのみ。マリシャルのスライダーとシュートは浮いたり沈んだりする。最後までは付き合えないので、可能なかぎりボックスの前方に出る。初球、足を上げずにクイックステップで踏み出す。サイドスローだ。ならばシュート一本。ボールが投げ出される。内角か、外角か、どっちだ? ああ外角か。高すぎる。見逃す。
「ボー!」
二球目、足が上がる。スライダー一本。勝負球は高目、カウント稼ぎの球は低目。どっちだ? 高目だ。胸もとへグニャリ。見逃す。
「ストーライ!」
喚声が高まる。
―次は打ち取りにくる。外角一本。たぶん低目のシュート。
三球目、サイドスロー、かなり遠目のボール球だ。屁っぴり腰で踏みこみ、腰を強くひねる。曲がりはじめのシュートを叩き上げた。理想的に食った。伸びていく。ぐんぐん昇っていく。バックスクリーンか、いやスコアボードだ。江藤がセンターへこぶしを突き出す。マッコビーが振り返って見上げる。湧き上がる喚声。時計のわずかに左脇を直撃したが衝突音は聞こえない。太田一塁コーチと強くタッチ。バンザイをする江藤の背中を追う。水原監督の胸を目がけて走る。固く抱き締められる。
「スタンドもベンチも夢見心地だよ。ありがとう」
背中を押されてホームに突入。菱川と太田に抱き取られる。一人ひとりと握手をし、タッチをしていく。谷沢が、
「マッコビーがかすみました」
「いや、彼はかすまない」
一塁のマッコビーに帽子を振る。マッコビーも振り返す。ネット裏と一塁スタンドに手を振る。歓声が返ってくる。
「神無月選手、オープン戦第十八号のホームランでございます。第一号ホームランも当球場、時計の左を直撃したものでした」
二対四。ノーアウト。一枝に、
「水原監督に夢見心地だと言われました。夢を見ているのはぼくです。小学校のころのたった一つの夢をいま見てます。眩しい青空の下でプロ野球の球場の打席に立ち、球を打った感触を掌に感じ、打球が舞い上がり、二塁を回り、三塁を回る……それがいま正夢になっているんです」
「神さまも夢を見るんだなあ」
太田が、
「それは俺たちが見てきた夢です。俺たちが実現した夢です。神無月さんにとってはむかしから現実だったものです」
「夢を夢のまま終わらせなかった自分の運に感謝してるよ」
高木が言うと、中が、
「夢であれ現実であれ、野球場は子供のように愛しい場所だね。離れることができない。離れたくないけど、あと何年いられるだろうね」
五番木俣。杉山コーチが、
「達ちゃん、休憩するなよ!」
初球内角浮き上がるシュート。空振り。杉山コーチが、
「グッドアイ、グッドアイ」
ベンチ内爆笑。新宅が、
「代打いっちゃおうかな」
「五十二本に向かって何言っとるんだ」
小川が新宅の頭をゴシゴシ撫でるとブルペンへ走っていった。秀孝もついていく。二球目、外角スライダー、空振り。
「グッドアイ、グッドアイ、よく油断させた。次ストレートの釣り球だよ!」
木俣が指でOKマークを作る。三球目、真ん中ド高目のストレート、釣り球なので予測してなければ空振りだ。打ち下ろす。あっという間にラインドライブがレフトスタンドに突き刺さった。場内騒然となる。天下のマリシャルを手玉に取っている。水原監督の尻ポーン。新宅が出迎え、くの字に辞儀をする。総勢で順繰りタッチ。二対五。木俣はボックスへ歩いていく菱川に、
「ヒシ、大事にいけよ!」
一枝が、
「三匹目のドジョウ探すなよ」
初球、痛烈な二遊間の当たり。二塁手のハント、ベースぎわで飛びついて好捕、一塁へ送ってワンアウト。ジ軍のベンチから安堵の拍手が上がる。江藤が、
「タコ、三振覚悟でぜんぶ振っちゃれ!」
木俣の真似をしてOKマークを作る。しかし、空振り、空振り、キャッチャーフライ。ツーアウト、ランナーなし。
「バッターは八番、ショート、一枝、背番号2」
私は一枝のバットをからだに巻きつける打ち方が好きだ。マリシャルの内角低目のシュートは彼にとって絶好球になる。高目は空振りをするか、詰まるかもしれない。一塁スタンドの鉦太鼓がようやく元気になる。それでもどこか遠慮がちだ。
マリシャルの致命的な欠陥は、剛速球が投げられないことだ。適度な動体視力で捉えられる変化球はいずれ征服される。剛速球はその個人のスピード感知能力を超えると征服できない。一か八かで振るしかなくなる。たとえホームランを打てても、それは技術的完成の証ではない。スピードの感知は百五十キロあたりから危うくなる。百七十キロを超えれば、ほぼ不可能になる。
私は動体視力を発動してスイングしていない。ゆるい球も速い球も軌道を予測して振る。投球されたボールはからだの前を通過するとき、一瞬、横長の直線になるので移動がモロに見え、速くかつ捉えがたく感じる。だから私は腹の前でボールを捉えない。幅のある直線になる直前の〈点〉のうちに捉えて叩く。変化球もそうだ。曲がりが長い弧に見える〈線〉にならないうちに打つ。引きつけて打つなどとんでもない話だ。そんなでたらめを信奉している人びとの存在が信じられない。だから高だか三、四割しか打てないのだ。ある球種を自家薬籠中のものにしている人は〈点〉で打てるコースを持っているということだ。点で打てるコースが多いほど打率は上がる。一枝はシュートだけは点で打つことができる。
初球、外角へするどく逃げていくスライダー、ストライク。そこは彼の点ではない。ファールを打つのも難しい。二球目、真ん中低目ストレート。マリシャルのストレートは速くないので線の幅は広くならず、ふつうに打てる。引っ張りすぎて三塁側スタンドへファール。三球目、外角高目、逆曲がりて入ってくるシュート、ボール。よく見逃した。ツーワン。四球目、サイドスローになった。シュートで仕留めにきたな。高目だとよくてファール、まず空振りだ。低目に頼む! よし、低目にきた。左足をオープンに踏み出してひっぱたく。
―巻きつけた!
ベースぎわの低い当たり。サードのフエンテスが横っ飛びでグローブを差し出す。抜けた! レフトのヘンダーソンが大股でファールグランドへ捕球に走る。一枝は溌溂と二塁ベースへ滑りこむ。ツーアウト、ランナー二塁。
これは八番打者のすばらしい仕事なのだ。いい加減ピッチャー交代を告げなければ、ふつうなら泥沼になるとだれもが思う。しかし次打者がピッチャーの小川だ。もう一人投げさせようという気になるのだ。こういうときにピッチャーが好打者だとしたら? 適時打を打てる怖い存在になる。だからこそすばらしい仕事なのだ。ジ軍ベンチは小川が好打者だと知らない。棒球ならホームランにさえできる。へたをすると二点を挙げられるチャンスだ。
思ったとおり、初球真ん中高目のストレートできた。いただき。小川はジャスト食いしたが、マリシャルの球は少し重いので、前進守備のレフトの頭上を抜いただけでスタンドまで届かなかった。一枝生還。小川は二塁へ。二対六。ようやくここでピッチャー交代となる。
「サンフランシスコ・ジャイアンツ、ピッチャーの交代をお知らせいたします。マリシャルに代わりまして、マイク・マーミック、ピッチャー、マコーミック、背番号20」
中が、
「三十一歳。何年か前に最多勝を獲ってるけど、完全に下り坂に入ったね。あと一、二年で引退じゃないか」
ひょろ長い大男。何の変哲もないフォームとスピード。球筋も荒れていない。
谷沢がバッターボックスに入る。左対左だが、大して苦にならないだろう。ただここでヒットが出なければ次打席は中に交代だ。
初球、真ん中低目ストレート、空振り。ん? 少し変化しているのか。二球目、同じコース、ストレート、空振り。こりゃ厄介だぞ。立ち位置が後方ではだめだ。前に出ろ。
「谷沢さん、ボックス、前、前!」
ときすでに遅く、三球目、わずかにシュート、空振り。チェンジ。センターの守備は中に代わった。
二回表から四回表まで。二回はディーツ、フエンテス、レイニアーと三者凡退(レイニアーのキャッチャーフライを、木俣はバックネットにぶつかる勢いでスライディングキャッチした。目を疑った)。三回はマコーミック、ボンズ(私の前にヒット)、ハント(太田の前にヒット)、メイズ、マッコビーと凡退(二人ともレフトフライ)。四回はヘンダーソン(バックスクリーンへソロホームラン)、ディーツ(レフトフライ)、フエンテス、レイニアーと内野ゴロで凡退。私にゴロが一つ、フライが三つも飛んできた。
二回裏から四回裏まで、二回は高木(ピッチャーゴロ)、江藤(ショートゴロ)、私(ピッチャーライナー)と凡退。マコーミックのストレートはスピードのあるシンカーだと気づいた。三回は木俣(ピッチャーゴロ)、菱川(セカンドゴロ)、太田(キャッチャーゴロ)と三者凡退。四回は一枝(サードゴロ)、小川(ショートゴロ)、中(ファーストライナー)と三者凡退。
両チームゼロ行進がつづき、五回表に入った。九番マコーミックから。
「さ、締めてこぜー!」
木俣の声が響きわたる。何の悪い予感もなかった。初球の真ん中低目のスローボールをマコーミックがちょこんと打った。フラフラと打球が上がり、あれあれという間にライトスタンドぎりぎりにポトンと落ちた。何だ? という感じの喚声が上がった。ざわめきが止まないうちに、ハント、メイズと連続センター前ヒットが出、マッコビーの一塁線二塁打がつづいて場内が騒然となった。二者生還、四対六。
ここで星野秀孝が救援に出て、五番ヘンダーソンの初球に内角低目のストレートを投げた。かなり威力のある速球だったが、出合い頭に芯をぶつけられてツーランホームランを打たれた。六対六の同点。昨シーズン中にもこういうことがあったが、小川はゲームがおもしろくなったとばかりはベンチ前で拍手してはしゃいだ。
「サービスサービス、それ以上やるなよォ!」
という怒鳴り声が聞こえた。秀孝はそこからディーツ、フエンテス、レイニアーと三者連続三振に仕留めた。球場が異常な興奮状態になった。ベンチへ走り戻ると水原監督が、
「小川くん、早くシャワーを浴びて席につきなさい。津波が起こりますよ」
八
五回裏、二巡目に入った中日打線が爆発した。少し沈む程度の球をどの打者も下から掬い上げるように打ちはじめた。高木、レフト前へワンバウンドのヒット、江藤、ライト中段へ火を噴くようなツーランホームラン、私はライト場外のソロホームラン、木俣、センターオーバーの二塁打、菱川レフト中段に突き刺さるツーランホームラン、太田、サード強襲の内野安打。ここでリバーガーという前年最多登板を誇るリリーフエースがでてきて、一枝をセカンドゴロゲッツーに打ち取った。秀孝ファーストフライで小休止となる。六対十一。水原監督が、
「第一波はここまで。さ、後半だ」
そこからは星野の独壇場になり、六回表はリバーガー三振、ボンズ三振、ハントサードゴロ、七回表、メイズセンターフライ、マッコビー三振、ヘンダーソン四球、ディーツ三振、八回表、フエンテス三振、リバーガー三振、ボンズ私の前にヒット、ハントセカンドゴロ、九回表、メイズの代打ウィテカー三振、マッコビーの代打バーダショートフライ、最終打者ヘンダーソン三振。打者十四人に対して、三振八、安打一、四球一という離れ技をやってのけた。五回表から数えても、打者十八人に対して、三振十一、安打二(一本塁打)、四球一、自責点二という堂々たるピッチングだった。
六回裏から八回裏までの中日の攻撃は、二十点取りますよ、という水原監督の檄に発奮してリバーガーを攻め立て、中三塁前のセーフティバント、すぐ盗塁、高木ライト前ヒットで中生還、一点。江藤センターフライ、私ライト前ヒットで一、三塁、木俣の初球に私が盗塁して二、三塁、木俣レフトフライで高木生還、一点。菱川ライト前ヒットで私が生還して一点。太田レフトライナー。六対十四。七回裏は、一枝センター前テキサスヒット、秀孝セカンドゴロゲッツー、中右中間スタンドへソロホームラン、一点、高木大きなレフトフライ。六対十五。八回裏、江藤フォアボール、私敬遠、木俣サードゴロ、フエンテス三塁ベースを踏んで二塁送球ゲッツー、木俣が残ったツーアウト一塁から、菱川右中間二塁打、ツーアウト二塁、三塁から、太田左中間へスリーラン、一枝サードフライ。三点をもぎ取り、六対十八。試合はそのまま六対十八のα勝ちとなった。勝利投手星野秀孝、敗戦投手はマコーミック。四時四十七分試合終了。四時間近い試合だった。
守備から駆け戻りながらバックネットを見ると、直人は元気に何か声を上げていて、ヒデさんと主人は小さなからだににこやかに話しかけていた。一塁スタンドの菅野やカズちゃんたちも満足し切った顔で私に手を振った。それを認めた江藤や太田や菱川が手を振ると、水原監督も帽子を振った。報道陣が両軍ベンチになだれてきた。水原監督とフォックス監督がみるみる記者たちに包みこまれた。蒲原がやってきて、
「いい写真をたっぷり撮らせていただきました。またお会いしたら声をおかけします。年中貼りついてますよ。じゃ、失礼します」
浜中たちは私の写真を何枚も撮ったあと、大勝利おめでとうございます、とひとこと言うと、予定どおりジ軍ベンチのほうへ急いでいった。私へのインタビューは帰りの車中でするのだろう。臼山が抜き手を切ってやってきて、
「試合開始前に泣いてましたね」
「うん、行進曲は美しい。とにかく美しいのひとこと。美しいものには泣ける」
「きょうの大リーグは?」
「美しくはないね。巨大人間の集まりみたいで、野球という繊細なゲームをやっているようには思えなかった。マッコビーやメイズやマリシャルは動きが敏捷で、巨漢とは感じられなかった。キレのいい敏捷な動きは野球という美的なスポーツの基本だと思う。これからの野球選手は巨大化して敏捷さを失っていくにちがいないと思ってるけど、その時代にはぼくはとっくに引退してるからついてるね。美しい野球は昭和四十年代で終わりだ。……マッコビーのホームランを見て、からだじゅうに寒気が走った。一瞬のうちに、十年前中日球場で初めて彼の場外ホームランを目にしたときの光景を思い出したんだ。試合前にマッコビーは、十年前と同じホームランを打つと約束してくれた。そして約束を果たしてくれた」
「神無月さんが目撃したその試合を調べてきました。昭和三十五年の十一月十二日です。サンフランシスコ・ジャイアンツ対全日本の試合でした。やっぱりメイズとマッコビーが三番と四番を打ち、マッコビーが二本の場外ホームランを打ってます。十四対二でジャイアンツの勝ちでした」
「うん、相手にならなかったね。きょうの試合はそれをキッチリ逆にしたような結果だったけど」
「だれよりも大きいホームランを打ちましたね」
「マッコビーは感動してくれたと思う。それだけで幸福だ」
「あ、マッコビーがきましたよ。じゃ俺はこれで」
通訳を連れた浜中たちがマッコビーといっしょにやってくる。私は江藤と肩を並べて待ち構えた。ほかの記者たちが道を開けた。少し遅れてメイズ、マリシャル、ゾロッと記者たちもやってくる。外人の記者も混じっている。水原監督と小川と秀孝と足木マネージャーが取り巻きの記者を連れて、ファールグランドのほうへ移動した。マッコビーが握手を求めてきた。私はしっかり握手し、
「約束を守ってくれてありがとうございます」
マッコビーは通訳に耳を傾け、
「あなたこそ、野球のすばらしさを再認識させてくれました。私のホームランに感激した野球少年が、十年後にそれに数倍する感激を私に与えました。あなたの打った打球はあなたの澄んだ魂を乗せて空高く飛んでいった。あんな打球は生まれてから見たことがない。これからも生涯見ることはないでしょう」
メイズが私と江藤と握手し、
「野球をする喜びをあらためて痛感させられました。エトさん、ナカさん、オガワさん、タカギさん、ヒシカワさん、イチエダさんたちは、カンナヅキさんの〈兄さんたち〉であり、ミズハラさんは〈父さん〉です。何度も抱き合う姿に涙が出らした。みんな愛し合っています。こんなチームは世界にありません。羨ましい」
マッコビーが、
「サンフランシスコ・ジャイアンツが日本に単独でくることはもうないでしょう。さびしいですが、いつか再開できることを願ってアメリカで野球をやりつづけます。チャンスがあったらかならず会いにきます」
マリシャルが秀孝を呼ぶように通訳に言い、やってきた秀孝と握手し、
「スピードボールとパームボール、すばらしかったです。日本のナンバーワンピッチャーですね。昨年からアメリカにあなたの名前は聞こえていましたが、お会いできてうれしいです」
握手。フラッシュ。秀孝は言うべき言葉が見つからず、ただニコニコしている。ふと、
「神無月さんはいかがでしたか」
と言って、みんなの顔を見回した。マリシャルは、
「カンナヅキさんは、世界のナンバーワンバッターです。あんな打ち方、世界に一人。守備も走塁もナンバーワン。エトさんは、アメリカのどのチームでも四番を打てます。ライトオーバーのホームラン、芸術的でした。タカギさんの守備も美しい芸術。ドラゴンズの野球レベルの高さには目を瞠ります。全米でもナンバーワン、ワールドシリーズでも優勝できるでしょう。この試合だけは、私たち、全力を出して戦いましたがだめでした」
メイズの口からフィックスト・ゲイムという発音が聞こえた。通訳が、
「一部のチームを中心に八百長問題が起きているようですが、ドラゴンズとは無縁だとわかります」
メイズはかなり長くしゃべった。ブラックソックス・スキャンダルという単語を聞き取った。
「半世紀前にアメリカでもホワイトソックスの八選手が、洗濯代も出してくれない吝嗇(ケチ)なオーナーのせいで、貧しさのあまり八百長を働いた事件がありました。しかもワールドシリーズでやったのです。選手たちはあまりにも貧乏で、ユニフォームだけでなく白いソックスまで黒く汚れていたのでブラックソックスと呼ばれました。日本のそんなことはないはずです。とりわけドラゴンズは太っ腹なオーナーだと聞いているので、そういう不祥事は起こり得ない。いや、あなたたちはどんな貧乏球団にいても美しく強い精神の持ち主たちなので悪に染まることはありません。くだらないデマが流れて、オノさんとオガワさんが疑われたと聞き、心から気の毒に思っています。潔白と証明されたにも関わらず、二人とも一年で球界から身を引くと聞いて、その潔さ、精神性の高さに感服しています。ドラゴンズの末長い繁栄を祈ります」
江藤が、
「ありがとう。今後の予定はどうなっとるね?」
「東京で二試合したあと、アメリカに戻ります。例年この時期はスプリングトレーニングをしていますが、今年はトレーニングの後半が日本でのオープン戦に代替されたので、帰国後は四月上旬のシーズン開始まで、登録枠をめぐる篩い分けに入ります。きょうはすばらしい一日をありがとうございました」
六人で握手をし、フラッシュに曝される。マッコビーたちはジ軍つきの報道陣といっしょに三塁ベンチ前へ戻っていき、浜中一行はそれを機にバックネット脇の通路から帰っていった。まだ菅野のバンが彼らを待っているはずだ。私たち三人は水原監督らとともに一塁ベンチ前の報道陣に囲まれた。
「一本目、飛びましたねえ! いつもの地面すれすれ扇風機」
「上がった瞬間いくと思いました。先頭打者で谷沢さんが二塁打で出、その谷沢さんをすぐに還した高木さんの先制打が大きかったです。あれでみんな気が楽になって力みが抜けたと思います」
「谷沢選手、いかがですか」
「神無月さんはいつも手柄を人に譲るんですよ。そう言われれば、自分もいいことをしたんだなと鼻が高くなりますが、ハッキリ言って、ぼくは少ないチャンスをものにしたくて必死だっただけです。先制点は高木さんの手柄、つないだのは江藤さんの手柄、かっさらったのは神無月さんの大手柄です。小手柄、中手柄、大手柄の一員になれたことはうれしいです。江藤さん、何か言ってくださいよ」
「そんたうり!」
「江藤選手、今回もアベックホームランでしたね」
「金太郎さんはワシにホームランば打つことを教えるために、わざわざ遠いところからきた師匠やけん、学んだことはちゃんと実践せんとな。ボールは前で打て、呼びこんで打つなってな。ワシに教えにきてくれたちゅうんはワシの確信たい。いや、確信にまさる〈感情〉やな。救いちゅうやつや。ワシが打てば師匠が打つ。褒めてくれとうっちゃん」
菱川、太田、高木にもそれぞれインタビューアーがついてペチャクチャやっている。水原監督が本筋から外れた質問を受ける。
「神無月選手はチーム内でもかなり深く人格的に信頼されているようですが、親に孝養を尽くすプロ野球選手がほとんどと言っていい中で、庶民感情的に微妙な立場におられる神無月選手がそこまで信頼されるのはなぜですかね」
小川と一枝がマイクを持つ男の顔を睨みつけた。監督は穏やかな声で、
「どさくさに紛れて僭越な質問をしないようにしたまえ。神無月郷に少しでも味方をしてやろうという気はないのかね。彼のこれまでの特殊な境涯を知らないはずがない。天の定めた〈天倫〉だから血縁の問題はたしかに難しい。しかし天もときにはまちがえる。まちがった天倫を一人で背負わせるのは忍びないと思う人間だっているんだよ。その人間がたまたまわれわれだったというだけのことです。だれが何と言おうと、何と思おうと、神無月郷は立派なプロ野球選手です。きょうも〈庶民〉たちをたっぷり楽しませたでしょう? さ、みんな、引き揚げるよ」
高木が、
「あんたたちがそんなことばっかり言ってるから、日本が世界に誇る大天才にいつまでも人気が出ないんだよ。ま、金太郎さんも俺たちもそんなことどうでもいいけどさ。でも天才のプレイだけ楽しんで、もっと庶民的な生活をしろと押しつけるのって、どう考えても理不尽だろう?」
記者たちが高木の強い語調に思わず背中を引いたので、私たちは彼らに揉まれずにロッカールームに向かうことができた。〈父〉水原監督の背番号68を見つめながら歩く。
―もとよりこの人と天倫を共にしていたら、私はどんな〈子〉だったろう?
野球よりも彼を愛しすぎて、野球を振り向かなかったかもしれない。野球選手になってから遇えてよかった。野球ばかりでなく、行き場のなかった愛を捧げられる。それにしても、彼らの助けがなかったら私はちがっていただろうか。ちがっていただろう。二十年の歳月が過ぎて気づく。自分のそばにもやさしい人びとがいて、数えきれないほど助けられて、ようやくささやかな花が咲いた……。よく育ったかどうかわからない。死にかけていた花だったから。
ロッカールームで宇野ヘッドコーチがメモを手に、
「西宮の阪急戦を二軍選手も含めた控え選手の一軍登録最終〈検定〉とする。そのためにピッチャーは四人、二回ずつ投げてもらう。旗色が悪くなったらイニングの途中で次のピッチャーに交代する。その調子で四人投げ切ったら一軍ピッチャーに交代する。バッターは三打席だ。四打席目から一軍バッターと交代する。ここにいないやつも含めて名前を呼んでいく。まずピッチャー、水谷則博は打撃投手も兼ねて、すでに一軍に登録した。松本幸行と渡辺司と土屋紘は当落すれすれなので検定対象になる。投球内容がよければ一軍昇格を考える。次にバッター、千原、新宅、谷沢、省三は控えながらすでに一軍に登録ずみだが、日野、西田、坪井、三好の四人は一歩足りない。西宮でのバッティング内容がよければ一軍昇格を考えている。いま名前を挙げたメンバーでスタメンを作る。よく準備を整えておくように」
「ウィース!」
水原監督が、
「オープン戦打撃部門、投手部門、チーム成績部門など云々することはない。首位だ、最下位だなどという空騒ぎから離れて野球に打ちこむだけでいい。きみたちが群を抜いてトップに決まっている。きみたちの怪物ぶりが私の延命の甘露です。長生きさせてくれてありがとう。きみたちをさまざまな障害から守ることにその命を捧げるからね。怪物といえども人間だ。人間らしい生活を継続してください。鍛錬し、戦い、休息し、愛を語り、友情に浸り、寝食を堪能し、趣味を深めるという生活だ。さあ、いよいよ来月の十二日から四十五年のシーズンに入る。目標は去年と同じ九十勝四十敗。なお、本人が申し出ないかぎりトレードはしません。一軍に昇ってこれない選手の馘首は断行する。二軍在籍期限はこれまでの十年から五年に短縮します。プロ野球に合わなかったと判断するわけで、涙を呑んでではなく、冷静に馘首します。条件にはまる選手にはよりいっそうの奮起を望みます。では二十九日、西宮でお会いしましょう。お疲れさまでした」
「お疲れさまでした!」
「失礼します!」
九
身づくろいする選手たちを待ち、六時を過ぎて、高木、小野、中らの自家用車組(小川は小野の車に乗った。中日球場で試合があるときの小川は、たいていだれかの車に便乗して自宅へ送り届けてもらう。去年までは板東の車に乗っていた)、監督コーチらハイヤー組の出発を見送り、ファンに遠く近く取り巻かれながら、十人ほどの選手と寮バスに乗った。帰寮する者はユニフォームに運動靴の格好だ。出入口近くの席に太田と菱川と並んで座った。
中日球場前から名駅通に出て、黄昏の道を戻っていく。西日置橋。中川運河を渡る。遠く右手に松重閘門が見える。おととし閉鎖され、いまは使われていない。保存されることになるだろう二本の尖塔が美しい。左の土手を名鉄電車が通過する。富士重工やトヨタ自動車の工場、古びた民家とマンション。笹島まではこの寂れた景色がつづく。繁華になりようのない区域だと感じる。名古屋駅近辺と好対照な閑静さ。名古屋という街に安らぐ所以だ。太田に、
「きょうも練習するの?」
「風呂とめしのあとでやります。菱川さんに小フライを打ってもらってスライディングキャッチの練習。きょうの木俣さん、すごかったでしょう」
江藤が、
「あれはすごか。器用な男やけん」
後ろの席から木俣が、
「緊張してやらんと脚ケガするぞ」
「だいじょうぶす」
六反の信号。このあたりから賑やかになりはじめる。下広井町。やがて輝くビルの群れが見えてきた。
名古屋駅のロータリーで木俣と二人降ろしてもらった。手を振ってバスを見送った。コンコースを駅裏へ抜けていく。私はチームでは唯一ウインドブレーカーを着ないのでユニフォーム姿が目立つけれども、胸を張り少し速足に歩くとファンはチラと視線をやるだけで寄ってこないものだ。
「木俣さんはバッターに話しかけますか」
「そういうくだらないことはしない。投球以外のことで勝負してどうするんだ。俺はピッチャーの力を信じてるからな。その力でバッターに勝ってもらいたいんだ。姑息な力添えをしたら侮辱になる」
「そんなことで集中力を削がれるバッターはめずらしいでしょう。結局むだですよ」
「金太郎さんは例外だけど、ふつうはやられるんだよ。特に新人はな」
国鉄の改札で別れる。
ブザーを押して数寄屋門を開けると、ジャッキを先頭にトモヨさんと直人が小走りにやってきた。ジャッキが伸び上がって胸に前脚を置く。頭を撫で、あごを舐めさせた。直人の手を引いて玄関へ歩いていく。
「お疲れさま。直人、大喜びでしたよ。さっきまで庭でバット振り回してました」
「ほんとか、直人」
「うん。エイ、エイって」
玄関に主人夫婦が迎えに出た。菅野がダッフルとバットケースを受け取って土間に置いた。主人が、
「みんな大満足ですわ。神無月さんとマッコビーのホームランを見れたんでね」
「東奥日報さんは?」
「菅ちゃんが空港まで送っていきました。最終便が七時何分かということで」
女将が直人の手を引き、
「サンフランシスコ・ジャイアンツの人たち、インタビューでミラクル、ミラクル言っとったわ」
「インタビューも映ったんですか」
「試合終わってからしばらくやっとったよ。日本のベンチもだいぶやっとった。ほとんど水原さんやったけど」
すでに夕食が始まっていた。子持ちカレイの煮つけと、ナスの油炒め、トマトで煮こんだロールキャベツ、豚汁。うまそうだ。直人が子供椅子に戻る。幣原がほぐしたカレイの身をカンナに含ませている。睦子が、
「二本ともみごとなホームランでした。二本目の場外ホームランはマッコビーのホームランより大きかった」
千佳子が、
「センターのホームランは百五十五メートルですって。もう少しで去年と同じスコアボード越えだったのに」
直人が、
「おとうちゃん、ホームラン、ホームラン」
「うれしかったか」
「うれしかった。おおきいホームラン」
カズちゃんが、
「シャワー浴びてサッパリしてきなさい。上がったらごはんにして」
廊下に出てユニフォームを脱ぐ。幣原が始末にくる。頭から足の先までシャボンを立てシャワーで洗い流す。熱い湯に浸かる。わずかに沈んだマコーミックのシンカーを思い出す。まともに打ち返してピッチャーライナーだった。次の打席ではタイミングを早めた掬い上げ打法にして、ライト場外へ叩き出した。予測するだけではなく、それを打つ工夫もしなければ、プロ野球のピッチャーのボールはなかなか打てない。おとといは阪神の山本重政に三打数一内野安打に封じられたが、今度対決するときまでにあの二種類のカーブを確実に打てるようにしておかなければならない。ジャンプして片手打ちではだめだ。
―ボックスの奥へ下がって、落ち切ったところを掬い上げようか。落ちながら横滑りするカーブは捕まえるのが難しいから見逃そう。
ジャージを着て脱衣場を出ようとすると、入れちがいにトモヨさん母子とカンナを抱いた幣原が入ってきた。
「お、直人、ごはん終わったのか?」
「うん。おとうちゃん、あしたやきゅうしてね」
「いいぞ、保育所から帰ったらしよう。きれいに歯を磨いてもらいなさい」
「うん」
トモヨさんが、
「じゃ、私たちはこれで。お休みなさい」
「お休みなさい」
イネのおさんどんで、どんぶり一膳半のめしを食う。テレビが『ゆかりです、ただいま募集中』から『ケンちゃんトコちゃん』へと替わる。目にも耳にも入ってこない。いや入ってくるが心に留まらない。テレビを観ると生きている時代の見当がつかなくなる。むかしテレビを観ていた人たちの熱心な横顔や背中を思い出すことはあるけれども、そのころがどういう時代に重なるのか思い出せない。画面を見つめる人の生きていた時代と関係なく、画面に登場する人びとを羨む意識が突出して、人は有名にならなければ生まれた甲斐がないと思いこんでいる顔と背中ばかり浮かんでくるのだ。有名人はテレビに集合するという図式は、この十年かそこらでガッチリとした固定観念になった。
「茹でキャベツを歯で食いちぎる感じが醍醐味だね」
カズちゃんが、
「ロールキャベツって、手間と時間がかかるのよ。西松にいたとき、キョウちゃんのお母さんに提案したけどスゲなく断られちゃった」
ソテツが、
「おでんに入れてもおいしいですよ。あしたの夜はおでんにしてみましょう」
「洋ガラシたっぷりでね」
「はい」
主人と女将が百江とメイ子に話を振りながら、おでんの具について好みを尋き合う。私は尋かれもしないのに、ふくろ煮、と口を挟んだ。千鶴が、
「うちも好き。油揚げの袋の中に、鶏肉、ささがきゴボウ、干しシイタケ、糸コンが入っとる」
「口を締めるかんぴょうがうまい」
サッちゃんといった上板橋のおでん屋を思い出している。素子と優子がまだゆっくり箸を動かしている。主人が、
「素ちゃん、二十八、二十九日で引っ越しやっつけちゃいな」
「うん、そうします」
優子が、
「私手伝います」
カズちゃんが、
「私も手伝うわよ。業者だと小物整理に気が配れないから」
八時になった。キッコが木曜スペシャルオールスター紅白大運動会に切り替える。睦子たちも首を並べる。〈有名芸能人〉たちの空騒ぎ。ふと、後楽園の開幕戦の前日に、高円寺のフジに寄ってこようと思った。阿佐ヶ谷の大将にいき、フジにいき、それから寿司孝に立ち寄ってから、タクシーでニューオータニに帰ろう。それをカズちゃんに言うと、千佳子が、
「高円寺なつかしいね、ムッちゃん」
「なつかしいわ。みんな名古屋で元気にやってるってよろしく伝えてくださいね」
「うん、言っとく。ちょっとカズちゃんと素子もここにきて。お父さん、ぼくたち五人の写真を撮ってくれませんか。東京に持っていきたいんです」
「ほいほい」
千佳子のカメラを借りて、カズちゃん、素子、千佳子、睦子、真ん中に私、パチリ。もう一枚念のためにパチリ。カズちゃんが、
「東京はファンがうるさいわよ。囲まれちゃったらすぐタクシーに乗ってね」
「うん。長居するとそうなるね。寿司孝は腰を落ち着けなくちゃいけなくなりそうだからやめとこう」
ヒデさんが、
「そういう意味では、野辺地は天国ですね」
「ほんとだね。だれもまとわりつかない」
菅野が帰ってきた。
「ご苦労さん、菅ちゃん」
「なんの。無事帰っていきました。これ、東奥年鑑置いていきましたよ。七百ページもあるらしいです。夏までには写真集を送ると言ってました」
主人が分厚い本を受け取って大事そうに水屋に収めた。ソテツたちがすぐに菅野のおさんどんを始める。キッコが、
「コマーシャルは疲れるわ。あ、そろそろ読書の時間や。あたし、もう二階に上がるわ。ああ、野球メッチャ楽しかったなあ。お嬢さん、また連れてってな」
「土日に中日球場で試合があるときは、いつでも連れてくわよ」
千佳子が、
「私たちといこうよ。神無月くんのホームランアルバムも作りたいし、中日球場アルバムも作りたいから」
睦子が、
「きょうみたいに撮りまくってたら、球場アルバムはすぐできちゃうんじゃない?」
「いまの球場はね。でも老朽化したらときどき改修するでしょ? その変化も撮っておきたいの」
菅野が、
「後楽園に倣って電気化が進むでしょうから、何年かにいっぺんは細かい改修がされるでしょうね。しばらくは小まめに撮らないと。改修の記事は新聞に出ますからだいじょうぶですよ。さ、社長、そろそろ見回りにいきましょうか。じゃ神無月さん、あした九時」
「はい」
主人たちが出かけ、女将も離れへ去る。名大生と優子も二階へ上がった。私たち五人とメイ子と百江はソテツたちに見送られて玄関を出る。満月だ。ひさしぶりに見る。百江が、
「この四、五日は満月でしたよ。きょうから右側が欠けはじめてます。右側が欠けて半分になると下弦の月、左側が欠けて半分になると上弦の月」
素子がアイリスの前で、
「じゃ、帰るね」
「あしたとあさっては休みを取りなさい。片づけ物をちゃんとして」
「うん、そうする」
「夜のごはんは北村にいらっしゃいね。朝と昼はアイリスで食べて。三十日からは則武で暮らすのよ」
「ありがとう。夢みたいやわ。ずっとキョウちゃんのそばで暮らせるなんて」
「やっとね。あなたはキョウちゃんのそばにいるべき人よ。これからずっと、いっしょに夢を見ましょう」
「はい」
お休みと言って路地に入っていった。
則武に帰って、メイ子は離れへ、カズちゃんと私と百江は居間のソファに落ち着いた。
「少し書く?」
「いや、テレビ観て寝る」
「まだ八時半ね。十一時くらいにムッちゃんがくるわよ」
「あ、睦子……いつも気にかけてるのに、コロッと忘れてた」
「たいへんな日だったから疲れたのよ。ムッちゃんもそばで眠れればそれだけでいいって言ってたわ。朝方にでも元気になったら抱いてあげればいいの」
「うん」
百江が、
「ほんとにかわいらしくて、いじらしい人ですね」
カズちゃんが、
「かわいらしくて、いじらしくて、勉強家で、やさしくて、情熱家で、それでいて慎ましいの。女の完成形ね。ムッちゃんとヒデちゃんは、お嫁にやったわが子のように思ってるわ。きっとミヨちゃんという子もそうなると思う」
メイ子が、
「千佳ちゃんは?」
「少し大人ね。ずっとキョウちゃんを愛してそばにいるにちがいないけど、気持ちは独立した子」