十三
「菅野さん、あしたは直人を保育所へ送り出してから走りましょう」
「了解。九時、北村からですね」
「うん。じゃ、おとうさん、お休みなさい」
「お休み。よう寝てや。疲れ溜めんようにな」
「はい」
ソテツと幣原がジャッキといっしょに門まで送ってくる。尾を振るジャッキを抱き締め、首輪を幣原の手に預けて、門の外へ出る。幣原が、
「お休みなさい」
「お休み。あしたもよろしく」
「新しい帽子にしましょうか」
「いや、いままでので。新しいのは開幕戦から。ユニフォームも」
「わかりました」
ジャッキと幣原に手を振って歩み出す。メイ子が、
「テレビばかり観てないで、私ももっと本を読まなくちゃ」
「本も映画も同じだよ。どちらも一生懸けたって鑑賞し切れないし、傑作に当たることはマレなんだ。それでもテレビの連続ドラマよりはずっといい。さっきの日活映画にしたって駄作なりに起承転結があった。ああ、観たなっていう満足感がある。映画好きのメイ子はいつも映画を観てればいいよ。百江は毎日人にやさしく接しながら、その人たちの生活習慣や趣味にものめずらしい気持ちで付き合ってればいい。充実したすばらしい老後を送ってると思うな。いまさら本だ映画だ勉強だもないさ。子供たちの消息を折々確かめることもまたちがった充実感の素になるしね。このままやさしい百江でずっとそばにいてね」
「卒倒するほどうれしい言葉です。おっしゃるとおりに暮らさせていただきます」
素子が、
「うちはもうしばらく勉強に熱中させてもらうわ。今年の北陸遠征も北海道遠征もついていけん。忙しくなるで」
「今年の遠征はみんなあきらめてるわ。キョウちゃんもなんのかんのとあわただしいから。二年目で、精神的にも忙しくなるのよ。素ちゃん、勉強が軌道に乗るまではアイリスもアヤメも手伝っちゃだめよ」
「うん。則武に移ったら、勉強に継ぐ勉強や。じゃお休み」
「お休み」
きょうも素子はアイリスの隘路へ帰っていった。
「メイ子、今夜の映画は?」
「九時から、金曜名画座です。フランス映画、肉体の冠」
カズちゃんが、
「ああ、知ってる。がっちりしたからだのシモーヌ・シニョレ。文江さんの体型に似てる。高校一年生のときに観たわ。キョウちゃんが生まれたころね」
†
映画のあとの話し合いが楽しい。
「好きな男のために、ほかの男に体を投げ出す?」
「投げ出さない」
「投げ出しません」
「男が四人死んだ。すべて娼婦のマリーという中途半端な悪女のせいだ。死んでスッキリした悪人が二人、胸がつっかえた善人が二人。死は平等だというバランスかな。根拠のある殺人を犯してギロチンはないだろう。それに舞台は今世紀の初めだろ? ギロチンてあったの」
カズちゃんが、
「フランスもドイツも、ヨーロッパのほとんどの国がいまもつづけてるわ。ナチは二万人近い人たちをギロチンにかけたし、南ベトナムはいまもギロチン」
「フランスの植民地だったからね」
百江の手でコーヒーがはいる。
「あれこれ突っつきたくなる点の多いのがフランス映画の特徴ね。肉体の冠という邦題からしてまずおかしいわ。この映画が撮られた一九五〇年代って、肉体のなんとかという題名が内容と関係なくよく使われてたから、そのせいね。原題は〈カスク・ドール〉で、金の兜の意味。ブロンドの前髪を高く結い上げた髪型のこと」
メイ子が、
「娼婦の髪型ですか」
「ほんの二年前の、ドイツから移民した学生たちが中心となったパリ五月革命で、フランスが旧態を脱して現代化しはじめるまでは、帽子をかぶっていない女は娼婦か召使というのが常識だったのよ。ベトナム反戦運動、中国の文化大革命、日本の学生運動、メキシコのトラテロルコの学生・民間人大虐殺。この数年は世界中が反権力闘争の大激動の時代ね」
「そういう時代にぼくは安穏と野球をしてる」
「いいえ、自由、平等、性の解放。キョウちゃんは人生のすべてを懸けて、孤独に反権力闘争をしてるわ。集団を信頼してないから。……映画の中に最後までさびしい曲が流れてたでしょう」
「サクランボの実るころ」
「そう。労働者自治政府のことをコミューンて言うんだけど、ちょうど百年前のパリで世界初のコミューンが打ち建てられたの。二カ月後に政府軍の手で潰されたわ」
「アメリカの南北戦争の影響なのかな、いろいろな革命思想が飛び交った時代だね。中心になったのは肉体労働者や職人たち。自由主義、解放思想、そして国家批判か」
「ポンポン出てくるわね」
「上っ面だけの記憶だけど」
「ナポレオン亡きあとの第二帝政というのがうまくいかなくなったわけ。国が貧乏になったってことね。国が平等に潤ってれば内乱なんか起こりっこないから。国が貧乏になれば労働者が立ち上がる。フランスの場合は、職人社会主義を唱えたプルードンという人の思想が大もとになってるわね。権力で支配するだけの〈帝政〉から、労働者とほんの少し妥協した〈自由帝政〉、そこへイギリスの貧乏が飛び火して恐慌の津波が起こり、違法も辞さない労働闘争となっていくの。違法というのは、国の秩序を乱して大勢の人びとに迷惑をかけるということよ」
「ゴチャゴチャ入り組んでてさっぱりわからないけど、そこから労働者の正式協議会であるインターナショナルができ上がり、その会に参加していたマルクスの思想へとつづいていくんだね」
「そう、資本論は難しすぎて手に余るけど、マルクスの思想というのは労働者独裁の国家不要論みたいね。そのマルクスが属していたインターナショナルが、違法な労働闘争を含めてすべての労働闘争を支援したの。プルードン主義というのはストライキを全否定するような、現状を認める改良主義思想だったから、それを批判して革命主義へ導いたのがマルクスだったというわけ。革命のためには暴力も辞さないブランキ派という集団もあって、彼らと力を合わせてブランキ・マルクス派という勢力を拡大させたのね。そこへもってきてメキシコ出兵の失敗、外患ね。帝政反対派が勝利した総選挙、内憂ね。とうとう〈自由帝政〉から帝権壊滅の〈議会帝政〉になっちゃった。皇帝は権力のシンボル的なものになったのね。権力主義者がしがみつく砦。だから砦の中に臨時政府ができ上がった。選挙に勝った革命派がほとんどいないブルジョワ政府。その政府にダメ押しの打撃を与えたのは普仏戦争の敗北よ。ナポレオン三世が捕虜になって、シンボルもいなくなった」
「でも、権力主義者はしぶといよね。幻のシンボルも大事にする」
「そのとおりよ。臨時政府が帝政を窓ぎわに追いやろうとして共和国宣言を発表したんだけど、閣僚は帝政時代のブルジョアまみれ。インターナショナルが約束がちがうと反攻に出たけど一蹴されちゃった」
百江が、
「お嬢さん、神無月さんがうっとり聞いてますよ。神無月さんが赤ちゃんだという意味がよくわかります。お嬢さんはどんな知識も、ほかの人のためじゃなく神無月さんのために蓄えて、お乳をあげるように呑ませてるんですね」
「ハハハ、ちがいない」
私は後頭部をボリボリやった。
「キョウちゃんに呑ませられるお乳はこのからだだけよ。私のお頭脳(つむ)なんかお乳にならないわ。私自身が、知識を確認しながら楽しんでるところもあるのよ。じゃ、話をつづけるわね。フランスはウチワ揉めなんかしてるどころじゃなくなったの。プロイセンが攻めこんでくるんだから。インターナショナルが徹底抗戦を唱えたので、挙国一致体制になった。と同時に、いろいろな地方に革命政権が成立して、その土地その土地のブルジョアを退治していく。ウチワ揉めの続行ね。バクーニンもその地方革命政権で力のあった一人。結局弾圧されて逃げちゃうけど。ウチワ揉めのあいだにも、抗戦に備えて何万人もの民兵団が招集され、その人たちもプロイセンと通じ合う臨時政府と敵対することになるのね。民兵団には革命派がたくさんいるから。そうなると臨時政府は民兵団を解散させたくて停戦をねがうようになる。降伏したがるわけね。上意が下達されることはめずらしい。そんな弱気な政府の軍隊なんて、敵にあっという間に粉砕される。とうとうプロイセンはフランスの堅固な要塞を陥落させてパリに入ってきた。それでもウチワ揉めがつづいてる。臨時政府が権力を手離そうとしなかったからよ。こうなるともうウチワ揉めは趣味の段階ね。結局臨時政府はどん詰まりになってプロイセンと休戦協定を結ぶことになったわけ」
「そこで新政府樹立か」
「その前に選挙ね。信じられないけど、共和派、革命派が敗北して王党派ブルジョアが勝利したの。大騒ぎした民衆も根本は保守派だったってこと。いまもむかしも世界中がそのとおり。日本も永遠に自民党。搾取を基本にする階級制は来し方行く末滅びないの。大衆がそれを好むからどうしようもないの。―そしてプロイセンと屈辱的な講和条約の締結。アルザス・ロレーヌ地方の割譲って聞いたことがあるでしょ」
「ある」
「ほかにも、巨額の賠償金支払い、パリ郊外の主要な要塞の受け渡し。完全敗北。そうなると、臨時政府の支配が戻ってくる。とことん革命を起こすしかない状況になったのね。インターナショナルはパリコミューンの樹立を約束して、どうやって臨時政府軍と戦うかを決議した。臨時政府は王党派を利用して革命派の力を削ぐよう画策したんだけど、コミューン派が勝利して、また選挙が行なわれ、今度は革命派が勝利してパリコミューン政府が成立したわけ。成立したのはいいけど、ぶすぶす引き下がらない臨時政府とリターンマッチをすることになっちゃったのね。これが敗戦に次ぐ敗戦。いくら血を流してもそうは簡単に問屋が卸してくれない。そこへお決まりのコミューン内部の抗争、殺し合いとなるのね。その足並みの揃わないところを突かれて臨時政府軍にやられちゃった。そのころはヴェルサイユ軍と言ってたけど。ヴェルサイユ軍も、もとはと言えば同胞よ。同胞が同胞を痛めつける不毛な殺し合いになって、ついにパリコミューン壊滅。―で、サクランボの話に戻るんだけど、パリコミューン労働者たちがバリケードに立てこもって戦ってるとき、ルイーズという看護婦がサクランボの籠を抱えてやってきてみんなに配り、懸命に負傷者の手当てをしたの。でも、流れ弾に当たって死んじゃった。そのすぐあと、彼女の死を悼んで、もともと当時の恋愛歌だったその歌を追悼歌に替えて唄ったのがサクランボの実るころ」
「それが百年前の話」
「そう。その百年前がフランス革命、そしてフランス革命から二百年後の二、三年前が五月革命。自由革命が成功するなんてことは繰り返し聞かされるお伽話。そんなものに耳を貸さずに、キョウちゃんみたいに孤独に生きていくにかぎるわ」
「パリコミューン、サクランボの実るころ、か。さっきの映画をそれほどの知識をもって観てたんだね」
「知識に照らしては観てなかったけど、知ってることをほじくったら出てきたということね。シモーヌ・シニョレの旦那さんはイブ・モンタン」
「へえ、恐怖の報酬」
「二人とも外国からの移民で、フランスを代表する知識人よ。パリコミューン壊滅から第一次大戦直前までの四十年間をベル・エポック、平和な時代って言うんだけど、肉体の冠はその時代を背景にした物語。だから悲惨な話のわりに、どこか大らかで明るい雰囲気があったでしょう?」
「うん。その明るさに、シモーヌ・シニョレが無理に合わせてる感じがした。生まれ持っての憂鬱さを隠してるというのかな、ジャンヌ・モローもそうだ。好みだね。対照的なのがブリジッド・バルドー、加賀まりこ。いやだな」
メイ子が、
「わかります。中原早苗や中原ひとみも嫌いでしょう」
「うん」
百江が、
「そういう、神無月さんの好きだ嫌いだの話題にお嬢さんや私たちがのぼらないことを幸運に思います。お嬢さんや私たちがなけなしのお乳を与えるのは、神無月さんを赤ちゃんのように愛してるから至極あたりまえのことですけど、神無月さんが人にそんなにやさしくするのはあたりまえには思えません。……なんか罪滅ぼし的なものでしょうか」
「野球をすること以外に何もない人間が、持ち上げられることを後ろめたく思って贖罪する境地になった、と言えば美談らしいけど、じつは成りゆきだね。やさしくされてこなかった自分が人にやさしくするのは運命だ、と言っても格好がいいけど、じつは使命に捉えられちゃったんだ。野球という仕事に目覚めたから、人を愛することを思い出した……というのもなんかうなずける理屈だけど、それは正確じゃない。自分が考えてることは自分にもわからないんだ。ただ野球をやりたい、バットやグローブやスピードやボールの軌跡や球場に魅せられた、あるときから他人に認められ、感謝され、愛されているうちに人格がふくらんだ、そういうことが渾然一体になったという感じかな。花も木も、鳥獣も、天然の景観も、神の業みたいな玄妙さがあって、たしかに感動するけど、たくさんの人が周りにいて、その恩恵を日々与えてくれることに対する強い感動には敵わない。遠く離れてしまったり、きっと時期をずらしてこの世からいなくなってしまう人もいるだろうけれども、その恩恵の記憶は残る。それは他人が、他人であるぼくの心に人間的な変成の手を加えたということで、あまりにも不可思議な魔術だ。……毎日そういうことに感激しているので、当たりのいいやさしい人間に感じるんじゃないかな」
「ひとことひとことに愛があるわ。命懸けの言葉ね。……もう十二時。寝ましょう」
十四
三月二十八日土曜日。七時半起床。六・九度。とつぜん暖かくなった。未明に雨が降ったようで、表庭の芝が濡れている。手狭なベランダに出て裏庭を見下ろす。一年前に職人たちが植えた低木に花々が咲き揃っている。紅白の庭桜、ピンクの花海棠、妙に繊細な形の白いイカリソウ、鮮やかな金色のヤマブキ、上品な薄紫のオダマキ。
しづやしづのをだまき繰り返しむかしをいまになすよしもがな
情熱の女、義経の女、白拍子静御前。もう一首。
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
うがい。ふつうの軟便。シャワー。芝庭で素振り五十本。朝めし。アジの開き、両目玉焼き、板海苔、ナスの糠漬け、豆腐とワカメの味噌汁。
「オープン戦もあしたで終わりね」
「うん。二十本の大台に載せて終わりたい。今年はだいぶホームランペースが落ちた」
「そうは思わないけど、満足しないのがキョウちゃんのいいところ。どのピッチャーも映像をチェックして、徹底的に研究してくるでしょうし。はい、新聞の見出し。みんなこう思ってるのよ」
カズちゃんの掲げた新聞に、大活字が躍っていた。
どこまでいくのか だれが止めるのか 神無月
「高橋一三のコメント。―正直、楽しさがあった。あの打撃をされたのでは仕方がない。いちばんいい状態の一年間を見たんじゃないですか。振り筋を覚えたのでもうイメージできます。このイメージを次回対戦に生かします。江夏―バケモン。ワシの手からボールが離れた瞬間に振り終わっとる感じやな。平松―認めてしまったら先へ進めない」
明るい陽がキッチンに射してきた。百江が、
「私、お洗濯してから出ます。神無月さん、いってらっしゃい」
「いってきます」
アクロイド殺人事件を手に、カズちゃんとメイ子と出る。
「今年の春は、野辺地にいけないわね」
「どうかな。オールスターは東京、大阪、広島。終わってすぐペナントレース再開だしね」
「素ちゃんやソテツちゃんの入学式なんかいかなければ、どうにかなるんじゃない?」
「そうだね、そうしようか」
「四月五日の酔族館が終わったら、翌日すぐ出かけたら?」
「そうする。六日から九日まで」
「九日に白百合荘に泊まって、十日に帰ってくればいいわね」
「そこからは、五分を工夫する生活になる」
「キョウちゃんはいつもそうよ」
アイリスの前でバイバイ。アスファルト道に下駄を鳴らして北村席へ。まず、門脇の立木の茂みの中にあるファインホースへ。一階の記念品室から二階の事務所へ上がる。六人の社員が机から立ち上がって挨拶する。男三人、女三人。全体で五人だった社員が一人増えている。私は頭を深く下げ、
「いつもお世話になってます。今年度もよろしくお願いいたします」
「こちらこそどうぞよろしくお願いいたします!」
「今シーズンも、がんばってください!」
全員で声を合わせる。六人のうち四人ほど見知った顔がいて、あとの二人は新顔だ。見知った顔の男二人に、
「生駒さんと苗村さんでしたね。生駒さんはもと私立高校の教員でスケジュール管理、苗村さんは名大経済学部大学院生で出納係」
「はい!」
「菅野所長から聞いているとおりの、すごい記憶力ですね」
見知った顔の女二人に、
「あなたは名大数学科の日高さん。どういう仕事をしてたんでしたっけ」
「イベント申しこみの調整です。菅野所長と話し合っていろいろ決定するのが主な仕事です。玄野さんが球団に戻られたので、そのお仕事を引き継ぎました。彼の助手をしてましたので」
「面倒くさそうな仕事ですね」
「だいじょうぶです。この一月からいらっしゃった、あちらの東出さんに助けていただいてがんばってます」
奥の机にいる四十あと先の女が頭を下げた。眼鏡をかけている。
「東出と申します。玄野の代わりに球団広報から出向してまいりました。一年間の予定です。各種メディアとのあいだに仲立ちして、様々な対応をする仕事をしておりました。お役に立てると思います」
「はあ、どうぞよろしく。そしてあなたは久世さん、菊里高校出身、オークションの手配と、記念品や賞品の整理でしたね」
「はい! がんばります」
「そちらの新しい男のかたは?」
二十代半ばの男が律儀なふうに頭を下げ、
「中京大学野球部出身の富田と申します。選手としては芽が出ず、卒業後、硬式野球部の広報に三年間勤めておりました。昨年来、神無月さんへのあこがれが止まず、この一月に木俣先輩に頼みこんで、こちらの菅野所長に紹介していただきました。天馬はわが道をいく人です、事務所の命運も彼とともにあります、仕事の将来は保証されていませんよ、それでも粉骨砕身尽くせますか、と訊かれて、もちろんですと答えました。それですぐに採用が決まり、いまは毎日張合いを持って働かせていただいてます」
「ありがとうございます。そうですか、木俣さんが……。ひとことも話してくれなかったな」
「木俣さんの後輩だとわかると神無月さんが気を使うと心配したんでしょう。菅野さんは、心配ない、神無月さんは人つながりなんてことは気にしないし、贔屓もしない人だからと言ってくれました。一塁ベンチ上に年間予約席を二つ用意して、いつでもわれわれが観にいけるようにしていただきました。シーズン十試合は観にいくようにということですが、こんなにうれしいプレゼントはありません」
「観ていただけるぼくもうれしいです。ぼく個人のマネージャーである菅野さんの仕事内容の主なところは、送迎、取材や出演の同行などですが、事務所自体の仕事は具体的にはどういうものですか」
東出が、
「新聞、雑誌、出版社、テレビ、ラジオ、講演会など、各メディアから取材申請やコマーシャル要請、あるいは球団事務所から連絡がくると、それを文書にまとめて菅野所長に渡します。そこまでが主な仕事です。所長が仕事を選びますが、宿泊を伴う遠方での仕事は最初から私どもがお断りします。ほかにはサブ的な仕事として、野球関係景品の整理、チャリティの品物送付、ファンレターの仕分けといったところです」
「ほかに断るのは?」
「演芸関係の仕事です。スポーツニュースのゲストもお断りします。NHKは節目の仕事は受けるように言われてます」
「いろいろご苦労ですね。あれやこれやたいへんでしょうが、今後ともよろしくお願いします。給料に不満はございませんか」
「ありません!」
またいっせいに立ち上がって頭を下げた。
ジャッキを撫で、居間に入ると、園児服姿の直人が抱きついてきた。主人夫婦と菅野が座って笑っている。座敷にはジャージを着た女たちが集まっている。千佳子が、
「きょうで終わっちゃうんじゃない?」
キッコが、
「終わってまうわ。あしたは引っ越しやな」
テレビはこんにちは奥さん。トモヨさんがハンカチとティシュを畳んで園児服のポケットに入れる。
「いつかえってくるの?」
「あしたの次の日」
「とおいおくに?」
「近い国だよ」
トモヨさんが、
「いってらっしゃいを言えてよかったわね」
「うん、おとうちゃん、いってらっしゃい!」
「いってきます」
トモヨさんはカンナをおぶり、直人の手を引いて出かけていった。菅野が、
「さ、ひとっ走りいきますか」
「よしゃ」
椿神社から日赤までのいつもの走道。北村席から往復四キロ、簡素な風景、二十分のアスファルト道。緩急をつけてこの道を走るのがいちばんしっくりくる。竹橋町、中島町。環状線を挟んでめぼしい建物は金時湯と中島郵便局のみ。
「椿神明社から昭和通りを走り出すと、右手が則武、左手が竹橋町」
「はい、それで金時湯の環状線までです」
「環状線を越えると―」
「右手が中島町、左手が若宮町、だいたいインペリアル福岡までです。そこからは右手左手入り組んでて、日吉町、寿町、大門町、羽衣町、賑町、いわゆる大門です。うちのトルコは羽衣町にあります」
「そうでしたね」
「中村日赤は道下町、名楽町、元中村町に囲まれてます。全体的に複雑すぎてよくわからないというのが本音です」
ヘッ、ヘッ、フッ、フッ。折り返す。
「新幹線が博多まで開通するというのは、いつですかね」
「四十七年までに岡山まで、五十年までに博多までと聞いてます」
「あと五年か。再来年からは明石までいけると。五年後にようやく広島、博多か。広島だけは当分不便を忍ばなくちゃいけない」
「明石キャンプがなくなると、当座は芦屋までの便ですね。それはこれまでどおりですよ」
ヘッ、ヘッ、フッ、フッ、ヘッ、ヘッ、フッ、フッ。ラストスパート。
帰り着いて菅野と風呂。ひさしぶりに背中を流し合う。
「白いというより青いですね……。不思議だなあ、筋肉が付きすぎてない。それでいてガッチリしてる。どこまでも美しくできてる」
「菅野さんの褐色のからだのほうが美しいですよ。身長も適度だし」
「百七十一センチ、七十二キロです。この一年でどうにか貧相でないからだになりました」
トモヨさんが用意した下着とジャージを二人で着る。
座敷で主人が春の選抜高校野球を観ている。東北高校対鳴門高校。女将は居間でワイドショーを観ている。賄いたちは毎度のこと廊下をばたばたいききしている。主人と菅野がビールをやり出した。朝はあまり飲まない。私は縁側で座布団を枕に仮眠に入る。幣原が毛布をかけにくる。二時間ほど眠る。
ソテツに起こされる。テレビは消えていて、主人と菅野の姿はない。見回りに出たようだ。
「天ぷらきしめんとごはんを食べますか?」
「うん、もらう」
洗面所にいき、適当に口を漱いでくる。きしめんもめしも大盛り。カンナを抱いたトモヨさんと女将、賄いたちもテーブルにつく。賑やかにきしめんをすすり合う。ソテツが、
「神無月さん、芦屋の六甲味噌が手に入ったら、こちらに送っていただけませんか。赤味噌と白味噌」
「わかった。ダッフルにメモを入れといて。いま使ってる味噌は何? とってもうまいけど」
「仙台味噌と信州の白味噌を合わせてます。ときどきちがう味のお味噌汁も作りたいと思って」
「了解。おかず味噌も見つくろって送るよ」
主人たちが帰ってきた。さっそく高校野球中継。網走南が丘菅野が、
「はい、三時三分のひかりの乗車券です。芦屋まで買ってあります。これはひかりの特急券とグリーン券」
「ありがとう」
睦子たちが素子といっしょに帰ってくる。素子が、
「終わった、終わった。あとはあしたの引っ越しや」
妹の千鶴が台所から出てきて、
「みなさん、ありがとうございました。よかったね、おねえちゃん」
菅野が、
「あしたの午前中、たぶん十時ごろに私が小型トラックでいきます。三十秒もかからない距離ですから業者を頼むほどじゃないんでね。三回かそこら往復すれば終わるでしょう」
「ありがとう、菅野さん。荷物を運ぶのは二階の部屋やで、たいへんやけど」
「机と本棚、箪笥や鏡台なんかはファインホースの社員と運びます。段ボール箱は一人でできますよ」
キッコが、
「あたしらも手伝うでだいじょうぶや」
私は、
「ひと段落ついたね。これで素子のさびしそうな背中を見なくてすむ。あ、それから、素子やソテツたちの入学式を見にいけなくなった。野辺地にいってくる。オールスターあとはいけそうもないんでね。となると十二月だ。ちょっとあいだが空きすぎる。不定期でも年に二度は帰ってあげないと。高齢だしね」
「あたりまえやが。いってきや。入学式なんか見んでもええがね」
「うん。六日から十日だ。みんな頭に入れといて。十二日から開幕」
十五
主人が、
「今年の選抜はたった二十六校で、青森県は出とらん。東北地区は宮城県の東北高校だけや。それもさっき一対五で鳴門高校に負けましたわ。野球騒ぎはないで、町なかものんびり歩けますよ」
ヒデさんが、
「そんなことがなくても、野球に関心のない県ですからだいじょうぶです」
菅野が、
「きのうの始球式は、御池さんが師事してるS文部大臣でしたよ。例年どおり」
主人が、
「入場行進曲が感心せんかったな。世界の国からこんにちは」
みんなドッと笑った。女将が、
「笑わんといて。うちら六月にいってくるんやから」
菅野が、
「昭和三十七年の上を向いて歩こうから、日本の流行歌ばかりになりましたね。いつでも夢を、こんにちは赤ちゃん……。夏の開会式と閉会式はすばらしい曲なんですけど」
「山田耕筰の大会行進曲と栄冠は君に輝くの二本立てやな。春の閉会式も栄冠は君に輝くやろ」
「甲子園にあこがれたことは正直ありませんでしたけど、栄冠の歌だけはあこがれましたし、涙も流しました。特に女声合唱には懲りずにやられました」
私はすぐに唄いだした。たちまち涙があふれ、泣きながら唄った。
雲は湧き 光あふれて
天高く 純白の球 きょうぞ飛ぶ
若人よ いざ
まなじりは 歓呼に応え
いさぎよし 微笑む希望
ああ栄冠は 君に輝く
風を打ち 大地を蹴りて
悔ゆるなき 白熱の力ぞ 技ぞ
若人よ いざ
一球に 一打にかけて
青春の賛歌をつづれ
ああ栄冠は 君に輝く
「女声合唱!」
と声を合わせて、睦子と千佳子とヒデさんが唄いだした。
空を切る 球の命に
かようもの 美しくにおえる健康
若人よ いざ
緑濃き シュロの葉かざす
感激を まぶたに描け
ああ栄冠は 君に輝く
「いいなあ!」
菅野が叫ぶ。一人残らず泣いている。トモヨさんや女将まで泣いている。千佳子が、
「青高のとき二度チャンスがあったけど……。たとえ気の進まない甲子園だとしても、一度だけでも選手として出場して、その行進曲を聞いてほしかった」
私は涙を拭いながら、
「現場にいってもいかなくても、感激は同じだ。三番の歌詞は知らなかったな。緑濃き棕櫚の葉かざすって、どういう意味なの?」
ヒデさんが、
「古代オリンピックでは、競技ごとの勝利者にオリーブの冠と、ひと枝の棕櫚が授与されたそうです。現代で言うと優勝旗の意味にもとれます。棕櫚の葉は手のひらに形が似てます。勝利に歓喜して手のひらを空に向かって挙げるとも解釈できます。棕櫚の花言葉は〈勝利〉と〈不変の友情〉です」
睦子と千佳子が両側からヒデさんの腕に抱きついた。イネがやってきて、
「すげもんだな、もの知ってるつうのは。ワ、毎日利口になってぐじゃ。ありがて」
「ぼくもだよ、イネ。うれしいね。きちんと説明できる知識は人を感動させる。東大の授業はひどかった」
睦子が、
「名大も似たようなものです。マシな教授を見つけるのがたいへん。結局は、信用できる書物を紐解いて独学することが基本になります」
キッコがまじめな顔でうなずく。
「ああ、網走が天理に負けた。十五対ゼロ」
主人の嘆声。
「愛知は?」
「きのう中京が愛媛の西条高校に一対ゼロで勝ちました」
トモヨさんが、
「そろそろ支度してください」
「はーい」
納戸部屋でブレザーを着る。用箪笥に七、八着ぶら下がっているが、トモヨさんの選んだ茶系のものを着る。
「似合いますよ。靴は黒がいいですね」
カンナがトモヨさんの胸にしがみついて私をじっと見ている。頬にキスをする。アクロイド殺人事件の文庫をブレザーのポケットに入れるついでに、ダッフルの中身を念入りに確認する。アウェイのユニフォーム、アンダーシャツ、ストッキング、グローブ、スパイク、ジャージ、タオル類、一合瓶の枇杷酒、ナショナル、爪切り、ズック靴、帽子、ソテツのメモ。
「よし、オッケー」
土間で革靴を履き、バットケースを持つ。主人と菅野が土間に降り、残りの全員が框に立つ。
「じゃ、いってきます」
「いってらっしゃい!」
ジャッキが一声吠える。まるでホームドラマだ。しかし現実だ。得体の知れないものに感謝する。駅までの道を三人で歩く。主人が、
「帰ってきたら、一日ゆっくりして、翌日は花見ですよ」
「はい、名城公園の芝生に寝転がって」
菅野が、
「前の晩に席取りしときます。池のそばにいい場所がありますから」
「これ、夢じゃないですよね」
「ワシらは夢を見とるが、神無月さんが見とるのはいつも現実ですよ。神無月さんが作った現実です。安心してくださいや」
主人と菅野と改札口で握手。手を振ってホームへの階段を昇る。
新大阪までアクロイド殺人事件を読む。
フェラス夫人が死んだのは自殺か他殺かで物語が始まる。探偵気どりの姉カロリンと、弟である医師ジェームズ(彼はフェラス夫人の検死をした)とのまだるっこい会話のあと、彼らの住んでいる村の説明が始まる。その村に大邸宅が二つあり、一つはフェラス氏の屋敷と、血気盛んな五十男アクロイド氏の屋敷だ。フェラス氏は一年三カ月前に亡くなっている(カロリンはフェラス夫人が毒殺したと疑っている)が、フェラス夫人とアクロイド氏はむかしから仲がよく、フェラス氏の死後ますます仲がよくなったという噂だ。そのフェラス夫人が死んだ。そこへアクロイド氏の養子ラルフと、アクロイド家の家政婦ラッセル嬢が怪しげな存在として浮かび上がる。ハナから登場人物を大勢にして読者を混乱させようという寸法だろう。
ラルフに加えてアクロイド氏の姪のフロラ、医師宅の隣に引っ越してきた男ポワロ。彼が名探偵だという素性はまだ知られていない。この作品が名探偵ポワロシリーズ三作目だというあとがきを思い出した。ポワロとジェームズの悠長な会話。ポワロはアクロイド氏の旧知の仲だというのだ。ジェームズはポワロの口からラルフとフロラが婚約したと知らされる。ラルフは長年ジェームズと親しい間柄だ。ラルフは養父アクロイドについてジェームズに相談を持ちかけようとして、やめてしまう。
ジェームズはアクロイド家のパーティに出かけていった。そこで、アクロイド氏の秘書ラッセル嬢(怪しげな行動をとる)、目が覚めるほど美しいフロラ(純朴な言動)、アクロイド氏の弟の未亡人セシル夫人と出遇う。
アクロイド氏の話に、彼の若いころからの友人ブラント少佐のことが出る。わけがわからなくなってきた。そもそもこれほど社交に忙しい医師の存在が信じられない。
京都。あと二十分で新大阪だ。もう少しがんばろう。
ブラント少佐登場。風貌に関する無駄な描写。その描写の稚拙さ。〈アフリカの奥地に何かひどくおもしろい事件が起こっているのでも眺めているような眼つき〉。食卓でアクロイド氏が考えこんでいるので、みんな黙ってしまい、陽気な晩餐にならなかった。食事のあとアクロイド氏は医師を書斎へ連れていく。どうでもいい書斎の描写。アクロイド氏はあたりに用心して悩みを打ち明ける。
「フェラス氏はフェラス夫人が毒殺したんです。三カ月前の結婚申しこみが実ってきのう彼女と私は婚約したが、はるか以前から彼女は私に愛を募らせていて、一年三カ月前に大酒の飲みの夫を毒殺した。しかしそれを知っている者が多額の金をゆすっている。その男がだれか知っているが言わない、と本人の口から聞いた、私は無慈悲にもフェラス夫人に自首を勧めるような顔つきをしてしまった」
二十四時間の猶予をくれ、かならず男の名を知らせる、と夫人は言い、その日自殺してしまった。そんな話をアクロイド氏がしているところへ、フェラス夫人がきのうしたためた手紙が届く。アクロイド氏は途中まで読んで、いざ男の名前がわかるという瞬間に、この先は自分だけで読むべきだと言い、手紙を畳んで封筒に入れてしまった。医師が男の名前を教えてほしいと言っても頑迷に拒否する。なんでしょうかこれは? その夜アクロイド氏は殺された。いったいなんでしょう。
三時五十七分に新大阪に着いた。四時十四分発普通西明石行に乗り換える。乗客はまばら。芦屋まで三十一分。アクロイドは読む気がしないので、車窓を眺める。曇り空。緑の多いビル街がやはり緑濃い住宅街に変わっていく。大河を渡る。緑がなくなり、大阪。二分ほど停車して出発。緑のほとんどないビル街がたちまち濃緑に包まれる。ごみごみした街並に安らぐ。塚本。堰堤以外の緑が薄れていく。ふたたび、みたび大河を渡る。ビルの群れが果てない。尼崎。舗装した跡の露わな凹凸したホーム。少し混んできた。ダッフルとバットケースを足もとに引き寄せる。処々で、カンナヅキという囁き声がする。頑なに窓外を見つめる。発車する。生活の感じられる街並になる。木造やモルタルの家屋が目立ちはじめる。緑が増える。家並の向こうに空が見通せる。立花。ビルの姿がすっかり消える。線路沿いの桜並木がすがすがしい。甲子園口。中規模の川を渡る。六甲の山並が前方に見える。沿線に圧倒的な緑。西宮。二連覇目指してがんばってください、阪神の次に応援してます、EK砲最高です、と言いながら降りていく客が何人もいる。頭を下げる。尼崎と同じ凹凸のあるホーム。考えたら新幹線以外のホームはどこもこうなのかもしれない。西宮駅を出ると矮小な洒落たビルの群れにつづいてすぐに山形屋根の民家が立ち並ぶ。空が拡がり、遠山の色が濃くなる。沿線の立木の緑と桜のピンクの綾模様が美しい。アパート、民家、マンション、アパート、小ビル、民家。夙川を過ぎて二分、四時四十五分、大きな芦屋駅に着いた。穏やかな人びとといっしょに降りる。
「天馬、ありがとう」
と声をかけていく人がいた。去年高架化に着手してそろそろ完成間近のホームから、まだ工事中の平屋の駅舎へつづく階段をくだって外の街路に出る。鉄筋造りの駅舎全体が完成するのは今年の八月だと看板に書いてある。
尼崎のホームのような凹凸のあるアスファルト道を歩く。ハラノ不動産、神戸銀行、相互タクシー……。大原市場と標示のあるアーケードへ入り、天井の蛍光灯で明るい有蓋の商店街を歩く。八百屋、魚屋、果物屋、乾物屋、総菜屋。近年めずらしい、出店に野菜や魚を置くなつかしい商店街だ。ほとんどの女が角張った竹編みの買物籠を提げている。浅間下、高円寺、円頓寺、古川魚菜市場、ウォンタナ……。大信田奈緒といったのは何という名の商店街だったか。
反対口へ抜けると、竹園旅館の高架路につづく階段に出た。玄関に二人の白シャツにタイトな黒スカートの従業員がうやうやしく出迎え、フロントに導く。一人は設楽ハツだった。やはり中学生のころの法子によく似た顔をしていた。
「オープン戦、全勝優勝ですね」
「たぶん」
「おめでとうございます」
チェックイン。四階と五階で四十二室、三階と六階で二十五室。合わせて六十七の客室しかない竹園芦屋旅館。きょうは全階ドラゴンズの貸し切りになる。空き室があっても一般客を入れない。あしたは午後から一般客と共用になる。ほとんどの選手は夕食前にクニへ帰省していくだろう。私と新幹線に乗るのは、名古屋に家族のいる江藤、中、小川、高木ぐらいか。江藤と高木は両親に会いに帰省するかもしれない。
フロントにあしたの弁当の予約をする。ビーフカツサンド。この旅館にはルームサービスがない。会食の伝達はきていないので、三階のレストランか一階のカフェ竹園で、夕食とあしたの朝食もとることになる。朝食券と最上階のバーの割引券と、隣棟の竹園精肉店に使えるコロッケ無料券を渡される
ロビーにかなりチームメイトの姿がある。江藤たちはまだきていない。松葉会の背広姿も二人ほどいる。選手たちと彼らに曖昧に頭を下げ、ハツといっしょに五階の八号室に上がる。
「玄関に神無月さんのお顔が見えたので、あわててお迎えに出たんですよ」
「去年の初めごろは女子従業員の人たちは着物姿だったと思うけど、夏あたりからスカートになったね」
「はい、和装の人はなるべくスカートを穿くようにというお達しがあって、年明けから全員この洋装になったんですよ」
「そう。こっちのほうがいいよ。女らしくてドキッとする」
「……今夜は十時で上がりです。お伺いしてもよろしいですか」
「もちろん」
「五日前にお逢いしたばかりなのに、こんなにすぐ……うれしいです。最終試合が西宮球場だったなんて、ぜんぜん知りませんでした」