五十三         

 追いかけるように所長と原田さんが見舞いにきた。タクシーできたと言う。二人はベッドの枕に立って母を見下ろした。
「わざわざありがとうございます。入院のお世話をしてもらったうえに、お見舞金までいただいて、お礼の申し上げようもございません」
 母はベッドで深く頭を下げた。
「どうなの、具合は?」
 所長は後ろからさし覗く格好で、馴れなれしく母の肩を揉んだ。白髪染めをした彼の頭が異様に黒い。全身に悪寒のようなものが走った。クマさんが憮然とした表情で、母の傍らのスツールに腰を下ろす所長の様子を眺めた。
「ゆっくりさせていただいています。こんなにのんびりできたのは、この数年で初めてのことです」
「病院食は、まずいんじゃないの」
 母の顔を覗きこむように言う。
「とんでもない。おいしいです。食べたとたんに、栄養がからだの隅々までいきわたっていくような気がします」
「健康になるには、うんと食べないとね。健康は食にあり。もう痛みはないの」
「はい。お医者の腕がいいんでしょう、強い痛みはなくなりました。この数日は雑誌を読んだり、窓の景色をぼんやり眺めたり、せいぜいくつろがせていただいています」
 愛想笑いをする母の目尻に深い皺が寄った。私は身震いした。
「そりゃよかった。病中に遊びあり、だね」
 言い回しがいちいち気取っている。それが正しいかどうかもわからない。忙中閑ありの記憶ちがいだろうと思った。通りかかった中年の医師が部屋に入ってきて、廊下ではよく聞こえなかった所長の科白を軽口か何かと誤解して微笑んだ。
「どうかよろしくお願いします」
 所長に頭を下げられて、笑顔を精いっぱい作りながら、
「なに、飲み薬で本復します。手術の必要はないでしょう」
 と言った。そうして一礼するとすぐに部屋を出ていった。その背中を見送りながら原田さんが言う。
「おばさんが帰ってこないと、飯場は収拾がつきませんよ」
「戻ってくるまで、収拾なんかつけなくていい」
 所長はハンカチを出して、汗もかいていない額を拭いた。
「この子、ちゃんとやってますか」
 原田さんに母が言った。
「適当にやってるようです。子供に申し分のなさを求めても無理だし、願ったり叶ったりというふうにものごとはいかないものですよ」
「きちんと、食べてますか」
「キョウちゃんは食べることに関心が薄いみたいで、めしどきにはあまり見かけないな。おばさんとちがって、カズちゃんは手際が悪いんだ。家事向きの世話が得意じゃないんでしょう。だから、キョウちゃんも食堂にきにくいのかもしれない」
 そんなことは一度もなかった。おかずのうまいめしはきちんきちんと食いにいくし、カズちゃんの手際が悪いなどということもぜんぜんなかった。この男はなぜありもしないことを言うのだろう。ただ相手の気分に合わせてものをしゃべることが、気の利いた人間のすることだとでも思っているのだろうか。クマさんもこの野郎という顔で原田さんを睨みつけている。
「ぐずぐずしてるようだったら、叱ってやってください。この子は何ごともさっさとできないタチですから」
「親を見殺しにすることは、いずれ、さっさとやるんじゃないか」
 岡本所長が冗談ぽい顔で私を見ながら言った。いつのころから彼が私のことを憎く思うようになったのか知らないが、悪意のある冗談だった。私は、そういう下世話で、わざとらしい人びとの低俗さを軽蔑していたので、何を言われても大して苦しい気持ちにはならなかった。馬鹿が、と頭の中で唱えて、それで終わりだった。
「覚悟していますよ」
 母は身を乗り出しながら所長の言葉に応えた。つまり、所長の言葉を自分への励ましとして受け入れたのだった。この二人が、スカウトを追い返したのだ。母の声があまりに皮肉な調子に満ちていたので、温厚なクマさんが目つきを鋭くした。
「おばさん、いったいどういうつもりなんだ。キョウをなぶり殺したいのか。岡本さん、あんたもまともな人間ならわかるだろう。何の権利があって、キョウの将来を潰さなくちゃいけないんだ。あんたとキョウの将来と、どういう関係がある? あのスカウトを捕まえて、申し訳ないって謝らないと、キョウは一生浮かばれないぜ」
 クマさんは爆発する一歩手前の感情を懸命に抑えていた。 
「それはどうかな、熊沢くん。きょうだって、私が叱らなければ、この鬼子は見舞いにきたかな」
「ここにくることでキョウは浮かばれるのか。見舞いにくりゃ、ご褒美に中商にいかしてやるのか。親孝行か何か知らないが、キョウをこの鬼親の奴隷にすることに、いや、あんたがそれに加担することにどういう意味があるんだ、教えてくれ」
 所長は黙り、代わりに母が言い募った。
「部屋代も湯銭もいらないような、甘えればだれかが何でも買ってくれる贅沢な暮らしをしてると、その生活を支えてるのはだれかってことを忘れちゃうんでしょうね」
「生活を支えてやっていれば、犬ころ扱いしていいのか。天才をだぞ。支えるなら、まともに支えてやんなよ」
 所長はハッハッハと磊落を気取った声を上げた。何がおかしいのかわからなかった。
「子供のころは、みんな天才だよ。私もそう言われたもんだ」
 クマさんが舌打ちした。
「格がちがうぜ! ライバルになりゃしねえよ。ああ、そういうことか。あんたたち、キョウと競い合おうとしてんのか? ……そうか、そうか、あんたたちがキョウを憎んでる意味がようやくわかったよ」
「熊沢くん、クラウンの運転手は辞めてもらうよ」
「ズバリときたな。願ったりだ。俺にはトラックが似合ってるよ。あしたから酒井棟で働かしてもらうわ」
 私はクマさんと並んでベッドから離れて立ち、他人のような視線で母を眺めていた。
「ま、ゆっくり養生して」
 所長は母に言葉をかけて立ち上がり、私とクマさんに向かい合う格好になった。彼は私たちに一瞥も与えないで、
「おい、原田くん、いこう。このあたりじゃ、タクシーを拾うのが手間だ。伏見通りまで出よう。きょうは、クラウンはこの子専用らしいから」
 彼の嫌みにクマさんはまた舌打ちした。
「おお、きょうだけは車借りるわ。帰りにめしでも食わしてやりたいからな」
 母はこの場の角逐に意を介していなかったようなケロリとした顔で、原田さんに頼みごとをした。
「クリーニング屋に出すワイシャツの手配とか、風呂掃除や部屋の掃除、くれぐれも根気よくやってほしいと、カズちゃんに伝えてください」
 と頭を下げた。所長と原田さんが部屋を出ていくと、母は、私とクマさんをぼんやり見つめながら、ゆっくりと蒲団の上掛けを整えた。
「もういいんだよ、お義理でいてくれなくても。おまえの言うとおり、かあちゃん、自分の病気は自分で治すよ。毎日勉強だけはちゃんとしなさい。ごはんはなるべく、みんなが終わったあとで食べるんだよ。熊沢さん、郷のいい父親代わりをしてくれて、ほんとうにありがとうございます」
 クマさんは三度目の舌打ちをした。
「キョウは独立独歩だよ。何があったって、乗り越えていくさ」
「病気の親を無視してね」
 母は苦々しい顔で、水屋の上の吸飲みを取った。彼女はうまそうに冷えた茶を飲んだ。私は、クマさんしか人間の熱を発していない寒々しい雰囲気から早く逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
「どこまでも自分しかないようだな、おばさんは。息子の人生なんかどうでもいいって親を、俺は初めて見たぜ。病気? 俺もこの病気、経験があってね。大したもんじゃないんだよ。家でちゃんと薬を飲みつづけていれば、石は融けちまうんだ」
 母は大儀そうにうなずき、
「ええ、そうなんでしょうね。ありがとうございます。熊沢さんはじめ、みなさんいい人たちばかりで、大勢のかたに見守られて親子ともども幸せ者です。三沢や横浜のころに比べたら、天国のようですよ」
 冷笑的な口もとが、だんだん強く引き締められていく。皺の多い母の顔は、病室の蛍光灯の明かりにひび割れて見えた。
「キョウ、帰ろうや」
 帰り道、私はクラウンの助手席から古墳の丘を眺めた。街に青白いモヤのようなものがただよいはじめている。そのモヤの中で古墳は静かに白々と輝いていたけれども、その美しさを味わう気になれなかった。心が閉じていた。他人の言葉や態度を反芻して、あとで胸の傷を深くするのが私の常だった。クマさんは私の浮かない顔色を見て、
「食えない野郎の言うことなんて気にすんな。キョウはな、不器用で、情のこまやかな人間なんだよ。威張らないから、すぐつけこまれちまう」
 パサパサ乾いていた気分が潤いはじめた。
「クマさんは、クビになっちゃうの?」
「所長ごときの権限で俺をクビにはできないよ。酒井頭領のところで資材トラックにでも乗るさ。あそこは西松関連でない仕事もしてるからな。トラックの仕事なんか、いくらでもあるよ」
「社員寮は?」
「俺は西松の社員だぞ。部署替えになるだけだ。あそこにずっと住むよ」
「よかった!」
「何心配してるんだ。心配してもらわなくちゃいかんのはキョウのほうだろ。味噌煮こみうどんでも食っていくか。内田橋にうまい店があるんだ」
 私はまだ晩飯を食べていなかったことを思い出した。
「うん」
「そうそう、そうやって笑った顔がいちばんいい。そんじょそこらじゃ見かけない美男子だぞ」


         五十四

 三日もしないうちに母が退院した。きょうのためにわざわざ午前出勤していたカズちゃんが、勉強小屋に知らせにきた。彼女といっしょに食堂へいった。新聞の日曜版を拡げながらくつろいでいる小山田さんや吉冨さんたちに母が挨拶していた。形ばかりに様子を伺う西田さんや東大に病気の経過を伝え、原田さんにねぎらいの言葉をかけられていた。クマさんと畠中女史の顔はなかった。母をねぎらうのは原田さんばかりだった。それに不足を感じたのか、
「キョウもフアンが多くて―。私がキョウをなぶり殺しにしてるんですって。親不孝なんてそっちのけなんですからね」
 母がクマさんの悪口を言いだすと、カズちゃんや小山田さんたちの表情が固くなった。さすがに原田さんもいやな顔をした。母は気にしなかった。彼女は所長の後ろ盾があれば何でもできると思っているのだった。
 私は表から飛んできたシロの頭を撫ぜた。母はカズちゃんとテーブルに向き合って、十日間の仕事のはかどり具合を訊いた。気の利いた返答をしようとするカズちゃんの様子が気の毒だった。それがすむと母は裏庭に出て猫の名を呼んだ。猫の親子はどこかに出かけていていなかった。カズちゃんが冷蔵庫で冷やしたウイロウを切って出した。私も勧められてつまんだ。
「あら、こんな時間。亭主の世話に戻らなくちゃ。四時半にまた戻ります。シロとミーたちには、毎日ちゃんとごはんあげときましたから」
「すみませんでしたね、ほんとに」
 カズちゃんが引き上げると、原田さんが、
「所長から食事代を預かってますから、快気祝いということでメシでもとりましょう。どうぞ遠慮なく」
 原田さんはみんなのリクエストをメモした。母はタヌキそばを頼み、私はシロと半分分けするつもりでカツ丼にした。吉冨さんと西田さんは天ぷら蕎麦だった。
「小山田さんは?」
「俺は、ざるだ」
 と素っ気なく言って、また新聞に目を落とした。原田さんは近所の蕎麦屋へ注文の電話をかけに事務所へいった。
「……胆石は痛い病気ですからなあ」
 小山田さんは新聞を畳み、冷えた茶を湯飲みに注ぎながら、取ってつけたように言った。
「今回はみなさんに不便な思いをさせてしまって、申し訳ありませんでした」
「カズちゃんがよくやってくれたから、何ほどの不便もなかったけど」
 吉冨さんが言う。母が少しムッとした顔をした。原田さんがあわててうなずいて、
「考えてみたら、おばさんは食事の世話以外にも、毎日いろいろ重労働だからね。倒れるのも無理ないな。もう一人ぐらい中働きを置くように、所長に進言してみるか」
 吉冨さんがいまに唾でも吐きそうな顔をした。
「いいんです。カズちゃんがいてくれれば十分。あの子、弱音も吐かずに、ほんとによくやってくれてますから。でしょ、吉冨さん」
「はあ―」
 小山田さんが、
「……ま、せいぜい、からだを労わって働いてくださいよ。俺たちもできるだけ、夜遅くまで飲まないようにしますわ」
 二人がかりで岡持が届き、お通夜のように静かなめしになった。カズちゃんがいてくれれば、もっとわいわい食べられるのに、と思った。
「クマはトラックに戻るのか」
 ザルそばをすすりながら、ポツリと小山田さんが言った。原田さんが、
「あそこまで所長とぶつかるとね」
「熊沢さんは本望でしょう。オトコですよ」
 吉冨さんが言った。小山田さんがうなずき、
「酒井組が契約してるのは、西松だけじゃないから、仕事はけっこうあるんじゃないか。クマは出向扱いになるだろう。トラックに乗ってるときもそうだったんだ。もとに戻っただけだ」
         †
 夕方、私はクマさんの社宅までいって、快気祝いの話をした。房ちゃんがにこにこ笑って、いつかの夜のようにすき焼きの準備をした。
「キョウ、安心しろ。酒井頭領がな、堀田の仕事くれたよ。そこでダンプに乗る」
「堀田って、友だちの飯場があるところだよ。築堤工事でしょ」
「ああ、向こう二年の仕事がもらえた。給料もいまよりいい」
 房ちゃんが、
「郷くんのおかげよ。ひょうたんから駒」
 と言って、小さな蒲団でごそごそ動いている赤ん坊の様子をやさしい目で見つめた。
「ぼく、何か罪滅ぼししたいな」
「何の罪だ? キョウに罪なんかあるわけないだろ。ほら五百円。野球部の帰りに今川焼きでもを買って食え」
 胸もとに赤ん坊を抱き直してあやしていた房ちゃんが、
「この子も、キョウちゃんていうのよ。満一歳」
「郷太郎だったよね」
「よく憶えてるな。いつもキョウの名前を呼んでるみたいで、落ち着くんだよ」
「ほんとにそうね。郷くんみたいに、心のきれいな子になってほしいわ」
「ああ、それだけでいいな。それがありゃ、ほかに何もいらないよ」
 赤ん坊に乳をやり、寝かしつける。すき焼きの夕食になった。好物のシラタキ、シイタケ、豆腐、ネギを、溶き卵に浸けてもりもり食べる。ときどき房ちゃんが肉を私の小鉢に入れる。
「……おい、キョウ、久しぶりにあれ聞きたくなった。中日球場のウグイス嬢のまね」
 クマさんのリクエストが出る。
「うん、いいよ。今年は与那嶺が巨人から移籍してきたから、いつもと少し打順がちがうけど。中日のキャッチャーはころころ変わるから、何年か前の吉沢にしとくね。じゃ、いくよ」
「いけ!」
「―本日の第二試合、中日ドラゴンズのスターティングメンバーをお知らせいたします。一番、センター中(なか)、背番号3、二番、セカンド井上、背番号51、三番、ファースト与那嶺、背番号37、四番、ライト森、背番号7、五番、レフト江藤、背番号8、六番、サード小淵、背番号13、七番、ショート河野、背番号12、八番、キャッチャー吉沢、背番号9、九番、ピッチャー板東、背番号14。主審、島、塁審、ファースト大里、セカンド筒井、サード三谷、線審、ライト宮下、レフト手沢、以上でございます。なお、ファールボールにはくれぐれもご注意くださいませ」
 クマさんも房ちゃんもゲラゲラ笑いながら、激しく拍手をした。赤ん坊が少しむずかった。食事が終わると、房ちゃんが、
「郷くん……。めげちゃだめよ。いつも応援してる人がいることを忘れないで」
「そうだぞ、いつもキョウは俺に名前を呼ばれてるんだぞ。俺が死ぬまでな」


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