六十一

 康男の地獄を私はこれまで何度も目にしていた。
 午後になると、毎日決まった時間に医師と看護婦がやってきて、康男の二本の脚に貼りついた古いガーゼを荒々しくピンセットで引き剥がす。その貼りつき具合を見て、一瞬のうちに剥がさないともっと苦しいことになるとわかる。
「テー、テー、テー! ぶっ殺すぞ!」
 狂ったように康男が叫ぶ。引き剥がされたガーゼの下から、血と膿にまみれた凹凸が現れる。それを見るたびに胃がひやりとし、顔から血の気が退いていく。看護婦がピンセットでつまんだ黄色い濡れガーゼで、ごしごしとその沼に溜まった膿をこそぎ取る。沼の周囲の爛れていないところは、ほんとうに皮膚を移植したのかと疑われるくらいマダラに萎れて肉がなく、ミイラの脚のようだ。
 いつものとおり、化粧っ気のない顔の婦長が医師に従って入ってきた。初めて見かける小柄な看護婦が、彼女の後ろからワゴンを押してついてくる。ワゴンが入ってきたとたん、まるでそこに照明が当たったみたいに看護婦の周囲が明るくなった。大部屋がいっとき活気づく。彼女は患者のそばにすっくと立った。背が高そうに見えるのは、からだ全体がみごとに均整がとれているせいだった。白衣がからだにぴったりまとわりつき、胸が大きく膨らんでいる。その大きな胸に『滝澤』という名札をつけていた。旧字体の澤という字がめずらしかった。婦長の指示にいちいちうなずいているところを見ると、見習いなのかもしれない。私は何気ないふうに彼女の顔立ちを観察した。異様にふくらんだ頬に押し上げられた薄い二重のまぶた、あごが丸く張り、口紅を塗っていない厚い唇が微妙な曲線を描いている。とりわけ、薄皮を張ったような肌の白さが顔全体を輝かせていた。顔全体の雰囲気はカズちゃんに似ていた。しかし、よく観ると、唇の形にしても、皮膚の落ち着いた肌理にしても、目のくっきりとした明るさにしても、美しさという点ではカズちゃんのほうがはるかにまさっていた。そのうえ、カズちゃんのからだや表情からあふれ出る温かい愛情のようなものを感じなかった。私はなぜかホッとした。
 医師は一つひとつベッドを廻りながら、聴診器を使い、患者に手短に声をかける。康男のベッドにきた。
「はーい、剥がします。声出していいよ。滝澤さん、お願いします」
 手順はいつもと同じなのに、新顔の看護婦のピンセットの動きは激しくない。それでも康男は大声をあげた。
「てめ、殺すぞ!」
「はい、そう、そう、もっと怒鳴っていいわよ」
「ターターター! なんや、ぐずぐずやりやがって。ヤケに沁みるやないか! さっさとやれや」
 一本の脚を終え、二本目に移る。緊張からか看護婦の頬の肉が盛り上がり、そのせいで下瞼が圧されて切れ長の目になった。どこか世慣れたような影がある。それは大人っぽいというのではなく、患者の気持ちを考えてゆったり構えているという感じだった。彼女は康男の癇癪を無視して、ゆっくり仕事をやり終えると胸を張った。
「おしまい! 女みたいな弱音を吐かないのよ。みっともないでしょ。ほんとは切らないといけなかった足が、こうしてチャンとくっついてるのよ。ありがたいと思いなさい。痛いのは足が生きている証拠じゃないの」
 ふつうの看護婦らしくない言葉遣いだ。
「足が生きとるのは、俺の手柄や。もともと俺のケツから取った皮やろが。うまくいくに決まっとるわ」
「ほうやね、ヤッちゃんはすごくメタボリズムがいいものね」
「なんや、それ」
「新陳代謝がいいってこと。お尻もすぐ皮膚ができたしね」
 医者がニコニコ笑いながら二人のやり取りを眺めている。私はときどき上目で看護婦のほうをちらちら眺めては、その応対ぶりに感心した。
「そろそろ、歩く練習しないとだめよ。つらくてもそうしないと、ほんとに歩けないようになってしまうわよ」
 看護婦は厚い唇の両端をグッと引いた。やっぱり美しくないと思った。あらためてカズちゃんの美しさを意識した。カズちゃんの胸の隆起や、大きな腰の丸みや、ほっそりした胴や、白くて長い腕―そういったものが魅力のかたまりとなって、いっぺんに思い出された。
「専門家のおっしゃることは、ちゃんと聞かないといけませんよ」
 リューマチ先生が言った。
「そうよ。これから少しでも筋肉つけていかないと、しっかり歩けるようになるかどうか保証できないわよ。ぜんぶリハビリにかかってるんだから」
「歩けるようになっても、こんな不細工な脚やと、プールにもいけんがや」
 私は康男の顔に、彼らしくない挫けた心の色が浮かぶのを見た。
「……弱っちいこと言って。人目なんか気にしてどうするの」
 彼女はちょっと笑ってから、康男の肩を指で突いた。私は少し苛立った。この女は、看護婦の服を脱いだふだんの生活で、どんなしゃべり方をして、どんな仕草で動き回っているのだろう。
「プールなんかいかなくたっていいよ、康男。ぼくと映画でもいこう」
「そうですよ、肉体をさらすことなどより、いろいろなものを自分の目で見ることのほうがずっと大事です」
 リューマチ先生が言った。医者が感心したようにうなずいた。
「ケ、また〈見る〉ことかや。糞袋らしいで」
「おーい、俺はまだ?」
 三吉一家のチンピラがおねだりをするみたいな顔で脛(すね)をさすった。医師と婦長について看護婦がワゴンを押しながら三吉のベッドのほうへいった。外股の白いローヒールが爪先を撥ね上げながら進んでいく。三吉のガーゼ交換をし、やがて彼らが大部屋から出ていくと、リューマチ先生が言った。
「愛くるしい人ですね」
 康男が口惜しそうに笑った。毎日こんなふうに病院で何時間もすごすことを、そしてその時間以外のことはほとんど考えられないことを、私はうれしく思った。けれども、病院にはいつも消灯の時間が訪れ、一日の最後に、見舞通用口の玄関に立って暗い表通りを見るときには、灯りを落とした病棟ばかりでなく、その街路の暗がりにも得体の知れない不安が溶けこんでいるように感じるのだった。それは康男の将来についてかもしれなかったし、自分の将来についてかもしれなかった。いずれにしても、ほとんど毎日、いままで経験したことのなかった遅い時間に帰宅し、母になじられ、するどい眼で見つめられるようになってからは、毎日の生活がじわじわと方向を変え、不気味な速度がつきはじめたのだった。
         †
 やわらかい陽射しに照らされて輝く堀川を渡る。板の歩道に詰襟やセーラー服の背中が見える。いつもの通学路を歩く。文房具屋を曲がって、正門につづく道に出る。校舎の生垣のような桜が七分に咲き、吹く風にもう冬は感じられない。
 康男が学校にいないことをさびしく感じるけれども、康男の留守中に彼のように独立した個性的な人間にならなければならないと勇み立つせいで、さびしい気持ちが張りつめたものに変わってきた。ただ、ときどき不安に感じるのは、その張りつめた気分に不気味な圧力がかかっていることだ。圧力の正体はわからない。野球? 勉強? 母? いや、そういう一つひとつではない。独立した個性的な人間―そうだ、独立とか、個性とか、そんなものの意味がわからないということだ。それこそ最大の圧力だ。どう生きれば、独立した、個性的な人間ということになるのか。
 何かに〈成りたがる〉ことだろうか。着々と何かに〈成る〉ことだろうか。
 ―存在したいだけの人間。
 それが私ではないのか。幼いころを思い出せ。何者かになろうなどとは考えもしなかったころを。じっちゃ、ばっちゃが好きで、けいこちゃんが好きだった。福田雅子ちゃんが好きで、そしていまはカズちゃんと康男が好きだ。人を好きだと思い、それだけでぼんやり暮らしたいだけの人間。野球? たしかに心の底から好きなものだし、その心に報いる自分の能力をうれしいと思い、それにすがって将来は野球選手に〈成ろう〉と思うけれども、それを個性と呼べるのかどうかわからない。とにかく、人を好きになることより大切なこととは思えない。勉強? 問題外だ。才能がなくても、競争の中で自己愛が満たされる。たとえ才能があっても、自分を愛するのは空しい。自分以外の人間を愛したい。
 私は何者だろう。何者でもない、何者にも成りたくない―そのことを糊塗するために、私は何者かでありたがる人間を演じてきた。野球選手に成れなければ死ぬ、勉強で落伍しそうになれば努力する、母にいじめ抜かれればあきらめる、そんなものはすべてその場しのぎの演技だ。これまで何に価値があるのか知らなかった私は、価値のありそうなものに向かって、積極的になったり消極的になったりするふうに演じることを人間らしい生き方だと信じてきたのだった。
 人を愛して生きよう。人を愛しながら生きることだけが価値だ。これをすれば愛情の中で生きられる、あれをすれば愛情の中で死なないでいられる、そのこれやあれをして生きること、つまり、できるだけ多くの人間を愛して生き延びることだけが価値だ。考えればすぐわかることだ。自分が何かに成ることでない。それはすでに成っている人間の序列に嵌まることだ。そんな序列を黙殺し、これやあれやをして生きることこそ、人間らしい生き方なのだ。神無月大吉、寺田康男、カズちゃん、クマさん、荒田さん、小山田さん、吉冨さん、ダッコちゃん、彼らはまぎれもなく価値を体現して生きている人間たちだ。
 彼らを愛するのだ。彼らを愛する時間をできるかぎり彼らに捧げるのだ。彼らを愛する合間に、食べて、寝て、排泄して、野球をして、読書をして、勉強をする。ああ、胸の中の霧が晴れ上がるようだ。独立した個性的な人間の意味などわかるはずがないし、わかる必要もない。私は、人を愛して、存在するだけでいい。
         †
 四月に、新学期のクラス替えがあった。康男の名前が、自分と同じ三年C組に並んでいるのを校舎の貼り紙に見つけた瞬間、私は思わずバンザイをした。直井や粟田や桑原とは別れ、甲斐和子や石田孫一郎と同級のまま、そして井戸田務、一年のとき同級だった河村千賀子と同じクラスになった。加藤雅江と杉山啓子の名前も見つけた。康男以外のだれの名前にも心躍らなかった。いや、加藤雅江にはいつもの哀切な心が動いた。
 下の校庭の斜面にレンギョウの花が咲き誇っている。三年C組の教室は、三階校舎の二階の端。担任は浅野修。大学を出たばかりの国語教師だ。自己紹介のとき、黒板に愛知教育大学と書いて、得意げに愛教大と傍点を打った。薬缶のようなつるりとした丸顔をして、こめかみと目尻のあいだに三センチほどの深い傷がある。それが天然パーマの童顔に似合わない。しょっちゅう洟(はな)をキューッと音立ててすするけれど、鼻汁が垂れている気配はないので、蓄膿でも抱えているのではないかと思った。からだ全体に、陽当たりのいい場所ばかり歩んできた人間特有の、自信に満ちた明朗な雰囲気をただよわせている。
 やっぱり、杉山啓子のゲゲッという咳払いが聞こえてきた。みんな驚いて、美しい彼女を見やる。ただ、むかしほど頻繁ではなく、一日に五回も聞こえてくれば多いほうだ。でもその五回だけで、彼女の印象が変わってしまうのが気の毒だ。相変わらず杉山啓子はいつもうつむきがちに教室の椅子に座り、さびしそうな様子で下校していく。
 恒例の学級委員選びで、男子は井戸田務、女子は河村千賀子と決まった。三日月顔の河村は明るさ先行の機転の利いた女だから、委員をやり慣れた雰囲気があって、こまごまと教室の仕事もうまくこなすだろうという気がするけれども、井戸田は選ばれたことが気の毒に思われるほど気の弱そうな男で、胸の名札につけた委員バッジが場ちがいに見えた。
「起立、礼、着席」
 という彼のかけ声は、鳥のさえずりのようにかぼそくて、その哀れな声を耳にしただけで沈んだ気分になる。とにかく、いてもいなくてもいいような男で、早く旭丘か明和から東大へでもいって、世間にまぎれて消えてなくなってほしいと思う。
 浅野は康男が欠席している理由を何も言わない。私には都合のいいことだ。浅野が言えば、かならずホームルームの話題になって、みんなで病院へ押しかけることになる。それは私にとって、康男を盗み取られるようでシャクな気がするし、康男にも面倒なことだろう。だれも康男の見舞いにいく必要なんかない。康男を見舞うのは私だけの特権だ。寺田は少年院に入ったらしいというでたらめな噂が流れているけれども、腹は立たない。みんなを康男から引き離すには好都合な噂だ。ただ、いつかクマさんとシロを取り返しにいく途中で見かけた侘びしげな煉瓦塀を思い出し、隠然と学校に浸透していた康男の威信が涸れていくように感じてやるせなかった。


         六十二

 野球部の新キャプテンは、部員たちの多数決でデブシに決まった。私は不服ではなかった。それどころか胸を撫で下ろした。私は、自分が人に注目はされるけれども、選ばれて持ち上げられる人間でないことを小さいころからの経験で知っている。私は自分の言動に何か人受けしない異質な雰囲気があると感じてきた。それは母について歩く旅の途で身についたものではなく、母一人子一人という環境のせいでもなく、きっと持って生まれたもので、静かな安定した人たちの神経をいらいらと刺激するものにちがいなかった。野辺地でも、横浜でも、何かの長として崇められたことはなかったし、千年小学校にしても、桑子の贔屓がなかったら同じようだっただろう。とにかく、用いられないのだ。私は人から用いられない自分の性質にしみじみ感謝し、先の人生の面倒のなさをありがたいと思った。とにかく、選ばれるとロクなことがない。私はふと、書記として初めて立った黒板や、あの服部先生に叱られた夏の日のことを思い出した。それから、もっと遡って、
「ふとり、変わった子だすてな」
 というじっちゃの言葉を思い出した。
「よろしく頼むでェ」
 デブシは明るい顔でみんなに頭を下げた。
 四月の野球部の練習は、グランドを何周かしたあと、キャッチボールで締めくくる程度の軽いものだけれども、私はそんなトレーニングですら一度もサボらなかった。私にとって野球は、康男との友情とは別の次元にある特別な決意の対象だったので、一日たりとも練習を休むことはなかった。
 生活の不気味な速度の変化を感じたのは、まず勉強に関してだった。机に向かっているとき、注意を集中するのにひどく骨折るようになった。とつぜん光のように降ってきた友情のドラマのほかには、当面、何の興味も湧かないので、机の上の義務感がまるで影みたいに薄まっていった。二年間聴いていた中学生の勉強室も、肝心な学年を迎えてやめてしまった。
 野球部を終え、きょうも神宮前の踏切を渡った。康男が入院して以来、ユニフォームで下校することはまったくなくなり、かならず部室で学生服に着替え、グローブもバットも置いて病院へ向かった。私にとって、康男はすでに畏敬の対象ではなく愛の対象だった。使い古した心服の気持ちが、愛情のみずみずしい情熱に移り変わっていった。
 商店街で菓子パンを買うころには、太陽は坂のいただきにくっつくほど低くなっている。並木がオレンジ色に映える。新堀川に架かる橋でかならず歩みを止めた。欄干にからだを支え、岸辺の草をぼんやり眺める。深く息を吸いこむと、喉の奥がひんやりした。長い坂のいただきを越えるときはいつも、恋人に会いにいくような気がしていた。下り坂を小走りに降りていく。病院の壁が一面に燃え立つように輝いている。
 玄関の桜が夕暮れの光の中で満開だ。根方に色とりどりの花が咲いている。石段を一足飛びに駆け上がり、受付の看護婦に頭を下げ、リノリウムの階段をぴょんぴょん昇っていく。開け放しの大部屋のドアの前に立つと、みんなの視線がいっせいに注がれる。
「春気躍動、春を持ってきましたね」
 リュウマチ先生の漢語使いに、三吉一家が粋に応える。
「たしかに、照るだけ照ってあっためてくれねえお日さまよりは、あんたの顔のほうがずっとあったかいわ」
 私はみんなにいつもの微笑を返した。
「なんだかとてもうれしいんです。どうしてかな」
 リューマチ先生がにこにこして言った。
「それは、郷くんの心が真っすぐだからですよ」
 康男のかたわらのスツールに腰を下ろす。掛蒲団の柄が涼しげなものに変わっている。
「熊沢さんのくれた蒲団が汗でだめになっちまったで、かあちゃんが代わりを持ってきたんだわ。熊沢さんのは、打ち直しに出した」
「ふうん、お母さんがきたの。……クラスの連中もきた?」
「加藤がきたで」
「雅江が? もうきたのか。だれに訊いたんだろう」
「さあな。あいつ、へんな女やで。病人の見舞いが好きなんやと」
「そうらしいね。死んだ青木くんのときもそうだった」
「青木? ああ、カリエスのか。あいつ、死んだんか―」
「うん。だいぶ前、守随くんに聞いた」
「守随……。どうしとるんやろな。さっぱり聞かんが」
「日比野中に転校したらしい。そのあとは聞いてない」
「加藤が肥えた女連れとったで。バーの娘や言うとった」
「山本法子だね。いいやつだよ。一度、誘われて店に遊びにいったことがある」
「けっこうおまえ、ええ動きしとるでにゃあか。浅野って先公が一度きたけどよ。顔にえりゃあ勲章持っとるな。あいつ、若いころ無茶しとったで」
「そうかな。喧嘩傷じゃないと思うけど。中村のあごの傷も。……二人ともまじめすぎる」
「まじめになったんやろ。おもしれえこと言っとったわ」
「なんて?」
「きみが戻ってきてもクラスを好きにはさせないよ、だと」
「なんだそれ。あいつ、康男が入院してるって、みんなにぜったい言わないんだ。寺田は少年院に入ってるって、でたらめ言うやつまで出てきた」
「少年院か。そう思われとるほうがおもしれえけど、加藤がしゃべっちまうだろ」
「そうだね、これから人がどんどんくるね」
「こんと思うわ」
 さびしそうに笑った。咳払いして、リューマチ先生が言った。
「先月ライシャワーを刺したのは、少年だったでしょう。その子は神経を病んでいたかもしれませんが、病気だけで片づけられる問題ではないですよ。権威に対する根深い怨恨があることはまちがいない。康男くんは型破りだが、反権威的などというくだらないところから遠いところにいる。つまり、権威主義者は気にする必要がない。それなのに気にするんですよ。権威を権威と思わない康男くんのような型破りの子供はシャクなんです。その先生は、よくありませんね。おそらく権威主義者でしょう。康男くんのせいで権威的なものが軽んじられると思っているようだ」
 私は、リューマチ先生の説明のおかげで、たちまち、浅野が康男の話題を決して持ち出さないからくりがわかったような気がした。
「俺はだれも軽く思っとれせんで。ええ先公には一目置くしな」
「わかってます。康男くんは人間という基準以外は何も考えていない。そのことを言ったんです」 
 病院の表通りを宣伝カーが、
「オリンピックをカラーで観ましょう」
 と連呼しながら通り過ぎていく。平畑の事務所の前も通っていた。
「いま日本は、新幹線とオリンピックとビートルズで沸き立っていますね。モノクロから極彩色の時代へ移り変わっていくんですね。セピア色したなつかしい時代が、何の変哲もないカラフルな現実一辺倒の世の中へと変わっていく……」
 先生がさびしそうにあたりを見回した。だれも応えなかった。
 夕食を載せた配膳車がやってきた。それに合わせて、私は用意してきた菓子パンをかじった。このごろの康男は、夕食が終わると仮眠を取る。彼が寝ついたときが私の帰る時間だ。だから最近、見舞い時間が極端に短くなった。ところが、きょうにかぎって彼はなかなか目を閉じようとしない。三吉一家やリューマチ先生に別れを告げ、一階へ降りていくタイミングがつかめない。
「どうしたの、康男、寝たら」
「……兄ちゃんが見舞いにくるらしいんだわ」
「へえ、お兄さんがくるのか」
「きのうの夜、受付に電話がきたんや。六時ごろて言っとったで、起きて待っとらんと」
「お兄さんに会うの、初めてだな」
「個室のころは何度か見舞いにきとったんやが、大部屋は初めてや。たぶん、ギター弾いてくれるで」
「ギターを! もう少しいようかな?」
「センセイ、だいじょうぶか」
「だいじょうぶだよ。ここにいるってわかってるし」
「嫌味な女だでな。気兼ねだわ―」 
 ぴったり六時に、大部屋のドアに角刈りの細面が覗いた。真っすぐな強い眼差しと落ち着いた様子に、みんな緊張した。
「兄ちゃん! 早かったな」
「八時には店に出んとあかん。ステージは二、三回ギター弾けばいいだけのことやが、こう見えてもオーナーだでな、サボらずに見回らんと」
 戸口に立ったまま笑いながら言う。白っぽいスーツを着、左手に大きな瓢箪型の革ケース、右手には大きな果物籠を提げている。彼がつかつかと入ってくると、部屋じゅうがますます張り詰めた雰囲気になった。
「弟がお世話になっております。これ、みなさんで召し上がってください」
 果物籠をいちばん年配の老人が寝ているベッドの傍らに置き、あらためて一人ひとりの患者に深々と頭を下げた。三吉一家がパジャマの背中を丸めて会釈した。光夫さんの貫禄に圧され、少し萎縮しているようだ。光夫さんはそれから視線をめぐらせて私を見た。
「あんたが神無月くんか?」
「はい」
「そうか、あんたがな……。ワシ、康男の兄で、光夫いいます。康男がほんとにお世話になっとります。過分な見舞金までいただいたそうで、心から礼を言わせていただきます」
 深々と頭を下げた。思わずお辞儀を返した。光夫さんは三吉一家に視線を移し、
「あんた、どちらの組に?」
「へえ、三吉です」
「足をやられたんですか」
「散弾で飛ばされました。鉄砲傷は治りにくいもんで」
「治ったら、しばらくオツトメにいくんでしょ」
「いや、上の計らいで、俺ら下の人間にはお咎めなしでした」
 リューマチ先生はじっと天井を見つめたまま、二人の会話に耳を傾けていた。光夫さんは康男に向き直った。
「どや、具合は」
 光夫さんは、康男を覆っている蒲団をやさしく叩いた。
「膿が切れたら、歩けるらしいわ。医者は、もう歩いてみい言うんやけど、まだ引きつるみたいで、痛うてたまらん」
「医者が歩けと言うなら、そうしたほうがいい。片輪にならんよう、ちゃんと言うこと聞いとけ」
 光夫さんはふと気にかかったふうに、端っこのベッドのリューマチ先生に目をやり、
「ひょっとして、瑞陵(ずいりょう)高校で古典を教えていらっしゃる吉本先生ではありませんか?」
 先生はびっくりして、光夫さんに顔を向けた。
「……正確に言うと、教えていた、ですが」
「やはり吉本先生でしたか。お見それしました。わたくし、七、八年前、夜間部の授業で先生にお世話になりました寺田光夫です。あまり出席をしなかった生徒なので、覚えていらっしゃらないかもしれませんが」
「そうですねえ……」
 光夫さんは少し残念そうな顔をした。
「で、いまも瑞陵に?」
「闘病が永きに渡りそうなので、辞めました。全身リューマチでしてね。寝たり起きたりで回復がかんばしくなく、依願退職をしました。しばらく不定期に河合塾で教えておりましたが、とうとうからだが利かなくしまって。病床に親しみながらでも、古文か何かの下訳でもして糊口をしのぐつもりでしたが、それもままならなくなりまして」
「……どうお慰めすればいいか」
「慰める必要などありません。ちょうどよかったんですよ。字引きを頼りにものを知るという生活に、飽きあきしていたところでしたから。こうなってみると、努力すれば人生は開けるなどという教えはアホみたいなもので、人間なぞただのんびりと神さまの舵取りに従っていればいいだけのものなんですな。どんな人間も、どこかに納まるところがあるようにできてます」
「そこまでおっしゃいますか」
「寝床に納まったわけやな」
 康男が茶々を入れた。光夫さんは康男を鋭い眼で睨んだ。
「康男くんの言うとおり、私の人生は寝床にストンと納まったんですね。まあ、健康なころは、農村の近辺にでも移住して晴耕雨読の暮らしをしようなどと、あこがれたこともありました。私は農業のプロじゃないので、結局のところ、農繁期の手伝いをしたり、鍬や鎌を研ぐ手伝いをしたりする程度のことしかできないんでしょうが、こんなからだになってしまったんでは、手伝うこともできません。……妻とも離別しました。ふたたび相まみえることがあるかもしれませんが、そのときはとっくにおたがい老いさらばえて、つるべ落としの秋でしょう。夢ですよ、寺田くん、若いころのことなんか、みんな夢です」 
「先生、病気も夢と観じれば、新しい希望が見えてくるんじゃ……」
 光夫さんは明るい視線を先生に向けた。
「ありがとう。病人に言葉をはずんでやっても、大した見返りはないですよ。……きみのような仕事は、からだが頑丈な不良でなければとてもできない芸当です。いや、不良というのは私なりの褒め言葉で、あなたには凡人には近づきがたい魔風があります。一介の単純な武弁という趣ではありません。剛毅なものです。人間として高レベルですな。そういう人の目から見れば、私なぞ慰めの言葉をかけるに値しない耄碌ジジイです」
「先生のような篤学のかたが、そんなものの言いかたをなさっちゃいけません。八百八町なんて言葉は表現に愛嬌満点の飾りがありますが、八九三(やくざ)には何の飾りもありません。足してブタ、カスですよ」
「人間がきわめて力強い場合には、そういうふうに自分の弱みをさらけ出すことをはばからないものです」
 光夫さんは直立したまま、長い睫毛をしばしばと瞬かせた。二人の話すことはわかりにくいことこの上ないのに、なぜか胸に響いた。
「先生のお話は、授業に出るたびに、じつにおもしろく聞かせていただきました。現代に欠けているのは何だ、それは復讐だ、というご意見、いまもしっかり覚えとります。たしかこんな具合でしたか。憎悪と復讐を混同してはいけない。この二つはまったく仕組みのちがった感情で、憎悪というのは心の狭い人間のねじ曲がった精神的反動だが、復讐は偉大な魂が従う自然の法則の遂行である。偉大な魂は復讐するが、憎まない。憎悪は狭い心に巣食う悪徳で、そういう悪徳はあらゆる下劣な養分で育てられるので、上質な復讐の花を咲かせずに、かならず低級な暴君について回る」


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