七十七

 大部屋に戻る。みんな静かに本を読んだり、ラジオを聴いたりしている。リューマチ先生は、堅いからだを仰向けてひたすら瞑想している。付添婦が引き揚げていき、そろそろ帰宅時間が迫ってくる。私の顔色を見て康男が、
「帰るか」
「うん」
「野球は、うまくいっとるんか」
「うん。公式戦に入って、もう三本もホームラン打った。いいペースだ。今年も新記録を更新できると思う」
「どっかから、話きたか」
「こない。何がどうなったのかよくわからないけど、ぜんぜんこない。高校卒業したら、テスト生でということになるだろうな」
「……勉強もしとるんやろ」
「適当にね。直井には勝てないけど、もともと勝つつもりもないから悔しくはない。あいつに勝てなくても、旭丘や明和には簡単に入れる」
「もったいなく生まれついたんやな。なんだか、自分みたいな男が生きとるのがアホらしくなるわ」
「康男はぼくより、はるかに高級な人間だよ」
「殺すぞ」
 リューマチ先生と三吉がニコニコ笑っている。
 カバンを提げた私を玄関に見送るために、康男は手すりにつかまり一段一段階段を下りた。もう八時を回っていた。階段を降りきったところで、男と女が言い争っているらしい耳障りな声を聞いた。
「嘘こけ。あの医者とできとるやろ!」
 私は康男といっしょに階段の裾にたたずみ、じっと耳を澄ました。ボソボソ呟く声に混じって、ヒヒヒ、というかすれた笑いが聞こえた。
「あんたの知ったことじゃないでしょ。やめてよ! しつこいわね」
 節子の声らしいものを聞き取り、私は驚いて薄暗いロビーのほうへ近寄っていった。男の押し殺した声の印象があまりにも下卑ていたので、言い争いのわけを知りたいという好奇心に駆られた。康男もひょこひょこ追ってきて、腕を私の肩に預けた。いつのまにきていたのか、柱の陰にいた三吉がこちらに目で合図し、義足を軽く踏み鳴らして二人を止めた。 
「ありゃ、うちのボンや。遊び人でな、何人も女を泣かせとる。ここでセッチンを落とせんと、男がすたると思っとるんやろ」
「止めんかい」
 康男が三吉の健康な脛を蹴った。
「……ワシ、もうすぐ退院や。関わり合いになりとうないんでな」
 私は胸苦しくなった。女を泣かせるという言葉の意味は、すでにわかっていた。ロビーの奥へ目を凝らすと、大時計の下の壁に二つの人影が立っている。大きな影が小さな影にぴたりと重なったまま身じろぎもしない。因果を含めている格好だ。
「なんべん言うたらなびくんや。おぼこでもあるみゃあに!」
 自信たっぷりの若やいだ声だ。聞きつけた入院患者たちが廊下に集まってきて、遠くから首を伸ばしている。悪名高い男なのだろう、みんな口々に、あのヤクザ者、とか、スケこまし、などと囁き合っている。廊下の外れから、白衣の当直医が一人首を覗かせていた。
「穀つぶしが―」
 康男が吐き出すように言い、私の肩から腕を滑り落として一歩踏み出した。足を引きずりながら大時計へ近づいていく。私は息を呑んだ。
「ヤッさん、やめとき!」
 三吉は康男の背中に向かって押し殺した声で言い、義足を宙に浮かせてピョンピョン跡を追おうとしたけれど、二、三歩いったところで、はたと立ち止まった。私は走って彼を追い越し、康男にすがりついた。一つの影はまちがいなく白衣を着た滝澤節子だった。私は思わず大声を上げた。
「どうしたの!」
「あ、キョウちゃん……」
「なんやあ!」
 箪笥みたいにがっしりした背中が振り向いた。やさしい鹿の目をしていた。恐ろしかった。康男が私の胸を手でさえぎった。男は私から康男に視線をめぐらし、端正な顔に険を走らせた。
「なんや、大部屋のイザリかや。命を大事にしいや」
「じゃかましい、くそたわけが!」
「たいがいにしとけ。ガキの相手をしとる暇はないのや。俺はな―」
「目腐れが、はしゃがんでもええて」
「なんやと!」
「ヤッちゃん、危ないから、キョウちゃんを連れて向こうへいってて!」
 滝澤節子が男の肩口から顔を覗かせて必死に叫んだ。ボンは彼女から離れて、のっそり康男に立ちふさがると、康男の顔に素早い拳を振り立てた。康男のからだがロビーの床にビシャリという音を立てて横倒しになった。次の攻撃を防御しようとする両腕をかいくぐって、喉もとにスリッパの先が突き当たったとき、康男のからだは二つに折れた鉛筆に見えた。
「康男!」
 彼は私の声に、なんでもないというふうに掌を上げて応え、両手を使ってベンチに攀(よ)じ登った。
「つつつ、つ……」
 足を押さえている。康男の怒りが私にもきた。
「コノヤロー!」
 私は男に向かってあらんかぎりの声で叫び、カバンを放り出すと、何の方策もなく突進した。足が空気を踏むようだ。あの秋の真っ白い校庭を思い出した。男は一瞬毒気を抜かれた顔になったが、すぐに無感動な表情に戻って私を見据えた。暖かいものが腹にめりこむ感触があって、私は数メートルも吹っ飛んだ。痛みのない吐き気が昇ってきた。
「このクソがきゃあ、とどめ刺したる」
 男の足が、転がった顔に迫ってきたとき、私ははっきりと、男の穿いているマンボズボンが緑に赤の格子縞なのを見て取った。額を蹴られた。あわただしい足音がして、騒ぎを聞きつけた数人の看護婦が廊下を走ってくる。滝澤節子は同僚が駆けつけてくるのを悲しげに見守っていた。マンボズボンは女たちに向き直った。
「警察を呼びなさい!」
 女の太い声が看護婦たちのあいだから上がった。廊下にいっせいに灯りがついた。一秒の何分の一かのあいだに私は、滝澤節子が壁を摺ってわずかに男から離れたのを認めた。私は弾みをつけて立ち上がり、康男のベンチに走った。
「あなたたち、ここは病院ですよ! なんですか、騒々しい。滝澤さん、いったいどういうことですか。いずれ、報告もらいますからね!」
 あの化粧っ気のない婦長が進み出て言い放った。彼女の視線が滝澤節子から男へ、男からすぐに私のほうに移ってきたとき、私はひどく不快な感じに襲われた。騒動の張本人と目されたのはまちがいなかった。
「ボン……もうそのへんで」
 三吉が卑屈に身をかがめながらようやく男に近づいた。
「てめえは、すっこんどれ!」
 一喝されて彼は立ちすくんだ。その瞬間、マンボズボンの目を盗んで節子が診察室のドアへ走った。中へ駆けこみ、しっかりと内鍵を閉める。
「あ、てめ、逃がさんで!」
 ボンは度を失ってノブに飛びつき、ガチャガチャやった。その隙に私は康男をベンチから助け起こした。
「神無月、血が出とるで」
 掌で額を押さえると濡れた感触がした。
「こりゃ、あかんな。電話まで連れてってくれ」
 白衣をだらしなく着流した医師が二人、人混みから顔だけ覗かせたけれど、表情を凍りつかせたきりこちらへやってこようとしない。康男は私の肩にすがりつき、階段下の赤電話に向かって足を引きずりだした。
「十円玉、貸せや」
 心配顔の三吉に言う。
「あっちに連絡するんか。大ごとになるで」
「あっちもこっちもあるか。あのキチガイをなんとかせんといかんやろ。ええから、貸せ」
 三吉はパジャマの胸ポケットからガマ口を出すと、ふるえる指で何枚か十円玉を康男の掌に載せた。
「一枚でええわ」
 康男は一枚つかみ取って投入口に落とすと、痛みに背を丸めながらダイヤルを回した。
「あ、××さん? 寺田の弟の康男やけどな。……うん、光夫の弟。でな、いま三吉一家のボンボンとワヤなことになってまって。……そうや、牛巻病院。あのクソタワケ、看護婦に絡んで暴れとる。……うん、うん、そうや、……この脚ではどうもならん。でな、兄貴に伝えてほしいんや。止めに入って、俺も神無月もメン張られたってな。……看護婦追っかけ回しとる、手つけられんわ、……おう、おう、とにかく伝えてや、タッパ集めてすぐきてくれんかて」
 電話を終えると、康男は患者や看護婦たちがたむろするあたりを眺めた。彼らは対策に困(こう)じて、たがいに顔を見合わせていた。康男は受付の前のベンチにふんぞり返って脚を伸ばした。三吉が並びかけて坐った。私は人垣に寄っていって、隙間からボンの様子を窺った。彼は相変わらず把手をガチャガチャやったり、ドアを蹴とばしたりしていた。私は康男を振り向いて言った。
「節ちゃん、生きた気がしないよ。あいつをなんとかしないと」
「狂っとるでな。何もせんほうがええ。受付のガラス割られたら、どうもならんで。とにかく、待つしかにゃあわ。すぐ兄ちゃんがきてくれるで」
「すぐって、あとどれくらい?」
「すぐや」
「オッ」
 義足が立ち上がった。ボンがついに無理やり把手を引き抜いて中へ入ったのだ。人がぶつかり合う音がし、物が散乱する音が聞こえた。
「もう、警察、呼びましょ!」
 看護婦たちがいきり立った。婦長に命じられて一人が赤電話へ走っていった。三吉が立ちふさがり、深く頭を下げた。
「警察は待ったって。あとが面倒やで。いまワシがなんとかしますよって」
 義足を鳴らして診察室のドアに近づいていく。しかし、ドアの前で長大息したきり、何の思案も思い浮かばないようだった。
「迎えるで」
 康男は騒いでいる連中にかまわず、私の肩に頼って玄関を出た。大通りから遠く牛巻坂のいただきを眺める。私は診察室のなりゆきに不安を募らせながら彼に並んで立った。
「本遠寺あたりからくるで、あと一、二分や」


         七十八

 この瞬間にもあの鹿の目をした男は、滝澤節子に取り返しのつかない悪さを仕掛けているかもしれない。カズちゃんの肉体を知ったいまは、その重大さを具体的にイメージすることができた。そのイメージの中に、神宮の境内で抱きしめた彼女のふくよかなからだの感触が含まれていた。
「待っとれ、いま飛んでくるで。ただですまんぞ。セッチンはあのままにしとけ。あのチビクソは何もできん」
 康男は強く唇を噛んでいた。きらきら光る瞳の奥には、節子が陥っている事態への危惧とは別に、目新しい冒険への炎が燃えているようだった。私はその瞳の光を信頼し、光夫さんたちがやってくるはずの並木の坂道を見つめた。
 二つのライトを光らせながら、街灯に白く浮き上がる坂道を一台の車が猛スピードで走り下りてきた。車通りの少ない赤信号の交差点をノンストップで横切り、牛巻病院の玄関前で急停止した。夜と同じ色の黒い車体だった。
 四つのドアから、いかつい男たちがバラバラと飛び出してきた。紺のスーツを着た光夫さんの顔もあった。康男が足を引きずりながら男たちに寄っていった。彼は男たちの中心にいる青年に一礼し、ロビーのガラス窓を指差した。鞭のように痩せたその青年は冷静な顔でうなずいた。彼はチラッと私のほうを振り向いた。精悍な額の下に切りこまれたするどい目が、ひときわ異彩を放っている。思わず身ぶるいした。大窓から表に洩れてくる明かりが、男たちの横顔を浮き上がらせた。乾いた目をした穏やかな顔もあれば、凶暴な興奮に輝く顔もある。彼らは康男の話を聞きながら、眼を怒らしたり、腕をぼりぼりと掻いたり、桜の根方に木刀を叩きつけたりした。光夫さんが、
「まず引きずり出しますか」
「相手が相手だから、手荒にしないようにね。戦争したくないから」
 彼らはすぐに石段を早足で上り、玄関へなだれこんでいった。私も康男の腋を支えて階段を上がった。
「おら、おら!」
 とか、
「ぶっ殺すぞ!」
 などという怒鳴り声が聞こえた。恐ろしげな声だった。青年が玄関の靴脱ぎで私を待っていて、額を指差し、
「切れとるよ。この季節は膿むから、すぐ治療してもらいなさい。おおい、そこの看護婦さん、この子診てやって」
 いちばん近くにいた看護婦が私の傷を確かめにきた。
「縫うほどじゃないわね」
 そう言うと、廊下の中ほど器具準備室のような部屋に連れていき、黄色いガーゼで消毒した。それから脱脂綿の上から大きな絆創膏を貼った。
 廊下へ戻ると、十人に余る野次馬が看護婦たちといっしょに診察室の前にむらがり、節子を連れ出したばかりのボンのゆくてをふさごうとしていた。ボンは空いた手に握ったナイフで看護婦たちを威嚇し、道を開けさせようとした。三吉が人混みを離れ、若い医師と首をひねりながら何ごとか語り合っている。
 青年があごを振ったとたん、松葉会の男たちは人混みを強引に分け、ナイフをよける骨法を心得ているように手早くボンの正面へぐいぐい進んでいった。彼らの一人があっという間にナイフを握ったボンの手を捻り上げ、こめかみに回し蹴りを入れた。倒れこんだところを二人の男に横抱えにされた。バタバタするボンの格好が大型犬のように見える。婦長の甲高い声が廊下に響いた。
「やっぱり、警察呼びます!」
「終わりましたよ!」
 青年が怒鳴った。光夫さんが摺り足で飛んでいき、電話をかけようとしている婦長の手を押さえた。
「警察を呼ぶと、かえって厄介なことになりますよ。大したことじゃありません。少し辛抱してください。もうすぐ終わりますから。みなさんの後処理をよろしく」
 あまりの威圧感に、婦長は自動人形のようにうなずいた。松葉会の連中はボンを病院の外へ運び出すと、階段の前の路上に放り投げた。青年はゆっくりと玄関から出ていった。ふと気づくと、節子の姿がなかった。
「これからが見ものやで」
 康男が私の耳に言い、一人で足を引きずって玄関に出た。私も走って出た。ボンが桜の根方に蹴り飛ばされるところだった。彼はすばしこく跳ね起きて、周囲を威嚇するような視線を投げた。目の前にいた光夫さんに突進の目標をすえた。頭を低くして飛びかかった。光夫さんは足を踏み開き、首筋にこぶしを叩きこんだ。ボンはひるまず飛びしさり、間合いを計るように構え直した。光夫さんも両手をひらひらさせて間合いを計っている。手荒なまねはしないように、というのはこのことなのだろう。松葉会の連中は手出しをしないで安心したふうに眺めている。光夫さんの腕を信頼しているのだ。ボンの敗北が決定している空しい闘いに見えた。ボンはヤケくそになって、めくらめっぽうこぶしを振り回しながら突き進んできた。
「せい!」
 光夫さんはからだをひねりながらボンの腹に靴先を飛ばした。たたらを踏んだボンの胸もとに光夫さんはスッとからだを沈めると、素早いこぶしをみぞおちに一発入れた。ひるむところをそのまま襟をつかんで投げ落とし、首筋に手刀を叩きつける。一連の無造作な身のこなしだった。しかも、致命的な傷を負わせずに、痛みだけを与えるような力の入れように見えた。
 ぐったり首を落としたボンは、しばらくアスファルトの上にあぐらをかいて坐っていた。やがて気力を回復すると、火を噴きそうな怒りを三白眼にこめ、
「てめえら、ただじゃすまねえぞ!」 
 と叫んだ。青年が微笑した。
「よくしゃべるけど、つまらないことしか言わないね」
 ひときわ大柄な若者が、ボンの片手を逆手にねじ上げて、うつ伏せにした。
「女たらすなら、もっと誠心誠意やれや」
 かなり齢のいった一文字眉の男がボンの頭に近づき、
「ションベンひっかけたろうかい!」
 とすごんだ。すぐさま自分のモノを取り出し、地面に押しつけられた顔の脇をかすめるように、右に左に小便を放ちはじめた。しぶきがボンの耳を洗っている。
「よっしゃ、今度は頭割ったる!」
 木刀の男が両手を高く構える。さすがに、一振り、二振り風を切っただけで、頭には振り下ろさなかった。
 玄関の階段に、医者や看護婦や入院患者が集まり、息を凝らして見つめている。夜の憩いを奪われた彼らは呆(ほう)けたように男たちの叫び声を聞いていた。私は組員たちの行動を見ていて、なぜか冬の道端で暖かい火にあたっているような気持ちがした。からだじゅうの血が温まり、ゆったり流れていくようなのだ。すべてがふつうでない現実にほかならないのに、それを見ている私に吹きつけてくる熱気が異様さを忘れさせ、まるで暖かい部屋で静かな幻燈に見入っているような気にさせる。
 ふと康男を見ると、男たちの凄まじい立ち回りに動じるふうもなく、成り行きを見つめながら階段の下にまっすぐ立っていた。義足の三吉がその康男の傍らで、腕組みしたまま臆病そうに薄笑いしていた。嘲りを含んだ呟きが見物から聞こえてきた。
「なかなかの迫力だな」
「三吉の惣領息子も、権柄づくじゃ恋路もはかどらないというわけか。滝澤さんは、あとがこわいかもしれんぞ。男遊びが仇と出たね」
「いやいや、見てのとおりスジモノがバックにいるみたいだから安心なんじゃないの。こいつら、彼女が呼びつけたんだろ」
 節子と同僚のはずの一人の医者が喉をこすって笑った。
「おめえら、ええかげん帰れや」
 木刀の男が野次馬に向かって叫んだ。その隙に、ボンはぴょんと飛び起き、一目散に駆け出した。土にまみれた靴下の裏が白く見え隠れする。すぐに坂の反対側の大通りの闇の中へ見えなくなった。
「助っ人を呼びにいったんやな」
 木刀が煙草をくゆらしながら、のんびりした声で言った。
「文字どおり、尻に帆をかけていたね」
 青年はそう言うと、ボンの走り去った方向に目をやった。そのまま何かを待ち受ける様子だ。いつのまにか光夫さんが青年に寄り添うように桜の下に立っていた。私はカバンを取りに戻った。人の退いた廊下は静かになっていた。やっぱり節子の姿はどこにもなかった。カズちゃんの言う、〈人格〉的に貧しいものを感じた。
 柱時計が九時半を回っていた。カズちゃんが心配しているだろう。私は康男に声をかけて道へ歩み出した。光夫さんが呼び止め、青年に耳打ちをした。
「きみが神無月くんか」
 青年は私に近づいてきて声をかけた。両肩をやさしくつかむ。
「聞いとるよ。オトコだね」
「きょうは、ありがとうございました」
「ミツさんからのたっての願いだよ。聞かないわけにはいかんからね。今度、遊びにいらっしゃい」
 驚いたことに、どこからか姿を現した節子が、私の前に進み出た。白衣をピンクのワンピースに着替えていた。
「いままで婦長さんに叱られてたの」
 ぺろりと舌を出す。
「この人か、きみの恋人は」
 ワカの言葉に、滝澤節子は顔を赤らめてうつむいた。私は無言だった。康男が訝しげな表情を浮かべた。何分もしないうちに、松葉会の男たちが色めきたった。
「ワカ、きよりましたよ! 馬鹿息子が」
「恥の上塗りだね」
 青年はワカと呼ばれた。彼は目を細めて呟いた。落ち着いた笑顔に何の計算も感じられない。それは私が透明な知性というものを目にした最初だった。圧倒的に異質な者だけが持つ、その異質さにそぐわない目覚ましいもの―それこそが知性で、あたりまえの知的な訓練を積んだ平凡な人びとの専有物ではないのだった。あらためて考えると、そのにおいは、康男にも、光夫さんにもあった。じっちゃやばっちゃにも、飯場の男たちにも、ノラの女たちにもあった。そして、母や学校の秀才や教師たちにはなかった。
 和服を着たひどく小さい男を先頭に、七、八人の背広姿が彼を囲む形でやってくるのが見えた。ワカはためらいのない足どりで円陣の中心にいる男に近づいていった。男は着物の前帯に短い白鞘を差していた。光夫さんと配下の男どもがつづいた。十メートルほど隔てて、二つの集団が向き合った。小柄な男は、ボンとちがっていかつい顔だった。
「いたずらっ子ですね、息子さんは」
 ワカは近づきながらそう明るく言って、急に小声になった。何やらくぐもった声で、二人だけで語り合っている。ワカと小男の背後に控えているどちらの集団にも、剣呑な一触即発の雰囲気はなかった。節子が私の横に立っている。背中で、三吉にしゃべりかける康男の声がした。
「あのチビ、おまえの親分やろ。顔見られたら、マズいんとちがうか?」
 康男ののんびりした声には、何カ月かのあいだに培った同室患者に対する友情めいたものが感じられた。
「たしかにそうや。じゃ、ワシ、失礼するわ」
 三吉は康男の肩を平手で軽く叩くと、片足を不自由そうに引きずりながら玄関の階段を上っていった。
 和服の男が、ワカの肩口から首を伸ばすようにしてこちらを見た。何かを了解した眼つきだった。三吉一家の男たちが引き揚げはじめた。ワカは彼らの背中に腰から上を傾けて礼をした。松葉会の男どもも倣った。どんなふうにハナシがついたのかわからないけれども、すべてが終わったようだった。引き揚げてきた松葉会の男たちは、無言でぞろぞろ黒塗りの車に乗りこむと、たちまちもときた方向へ走り去った。
「これでもう、ボンは顔出さん。……セッチン、神無月を送ったれ。まだ仕事、あるんか?」
「ううん。でも、きょうはもう寮に引っこんでなさいって婦長さんに言われたから、外出しないことにするわ」
「何言っとる。だれのために松葉がきたと思っとるんや。送ったれ」
「うん、わかった」
 康男はゆっくり玄関階段を上りながら、振り向いて私たちに手を振った。


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