七十九  

 また滝澤節子と神宮までの道を歩いた。彼女は私のカバンを何度も右に左に持ち換えながら、たどたどしい足どりで歩く。そうして私を見上げては、何がおかしいのか、くすくす笑った。
「キョウちゃんてほんとに美男子ね。……見ているとうれしくなっちゃう」
「節ちゃんもなかなかだよ」
 目尻の上がった睫毛の長い目や、グミの実のように赤い唇を見つめながら、それでもカズちゃんには遠くおよばないと思っている。牛巻の坂道はもう暗くて、車のライトも人影も見えなかった。
「きょうは、ありがとう」
「ぼくの手柄じゃない。康男と、ワカという人のおかげだよ」
「ううん、あの人たち、キョウちゃんを助けにきたのよ。そのいちばんえらい人が、キョウちゃんのことをオトコだって褒めてたでしょう」
「うん」
「車が着いたとき、ヤッちゃんがお兄さんに、神無月のスケがやられとる、って言ったんだって。お兄さんから聞いたわ。あたし、キョウちゃんのスケなのよ。うれしい」
 大きな目がわだかまりもなく私を見つめた。眼差しが急に深く、やさしくなった。この眼はカズちゃんのように自分を投げ出す目だろうか。
「……あれできる?」
 私はとつぜん滝澤節子に問いかけた。
「あれって?」
「セックス」
 彼女はふいに顔色を濃くし、考えこむ様子になった。
「キョウちゃんは十五歳、私は二十一歳よ」
 その声は私の敏感な耳に空しく届いた。
「でもこのあいだ、ぼくも二十一歳だって言ってたよね」
 滝澤節子はふだんにないまじめな眼で私を見つめた。
「それは気持ちの話。それに私、正看の資格を取るために、うんと勉強しなくちゃいけないし。准看だと、いつまでも使い走りとか、掃除の仕事なんかをやらされて、なかなか一人前に扱ってくれないの」
 野球だと補欠ということか。それならバリバリやる気にならないかもしれない。でも万年補欠でいないためにはバリバリやるしかない。
「ふうん、知らなかった。何も気にしないで、一生懸命仕事をしてるものだと思ってた」
「やってるけど……私なりに、焦ってるのよ」
 東門から灯篭までへの短い参道の樹々が、玉砂利に影を落としていた。その影が思いがけない美しさで迫ってきた。歩きながら滝澤節子の冷たく湿った手が私の手を握った。暗闇の中に湿った葉のにおいがただよっている。
「このあいだのところで、お水を飲みましょ」
 滝澤節子は私の手を離して手水舎に近づいた。柄杓で水を掬う。〈次〉の女。私は彼女の背後に立ち、首筋を観察した。肩に手をかけると、ぴくりとふるえた。柄杓を置いてうなだれる。私は少し力を入れて、彼女のからだを自分のほうに向けた。彼女の頭が胸にもたれかかった。私は小さいからだに腕を廻した。重くはずむ手ごたえが、私の気持ちを大胆にした。小さな顔を上向け、薄く開いた唇に浅くキスをした。彼女の唇は私の唇に微妙なわななきを伝えた。はじめてのときのような勇敢な唇ではなかった。あの夜の感触をはっきりと思い出した。
「好きです……」
 滝澤節子は両腕を垂らしたまま囁いた。そうして、私にもたせかけていたからだをだんだん遠ざけるように引きはじめた。かすかに微笑んで私を見てから、その目をまぶしそうに燈籠の灯りのほうへ向けた。
「どうしても、したい?」
「別に」
「……でしょ? キョウちゃんは、童貞よね」
「ちがう」
「え……。もう、知ってるの?」
「うん、とても好きな人とした」
「商売の人じゃないわよね?」
 少し焦った口ぶりになった。
「ちがう。特別の存在の人だ」
 ほかの女を相手に口にのぼせると、カズちゃんの神聖さが汚れるように感じた。なぜか節子はもう一度唇を寄せてきた。そして、あの夜のような深いキスをした。もう私はふるえなかった。
「……きょう、しましょ。危なくない日だから。……いま、しましょ」
 私が童貞でないと知って、節子が少し投げやりになったように感じた。節子はあたりをきょろきょろ見回した。適当な暗がりを探しているようだ。彼女の意外な一面を見て、私は深く落胆した。愛情の気配を感じなかった。すると、いよいよカズちゃんへの思いが募ってきた。
 節子はホンザンの勉強小屋のほうを見やると、私の先に立って歩きはじめた。西門からつづく生垣に切られた柴門を入った。湿った土を踏みしめ、又兵衛小屋の裏に回った。樹が群がり生え、どこからもまったく視界が遮られていた。ホンザンの勉強小屋も見えなかった。外苑の道路の明るみが少し周囲にあった。
「ここに凭れるわね」
 滝澤節子はカバンを足もとに置き、私を引き寄せて唇を吸った。それからスカートを腹までまくり上げ、パンティを脱ぎ下ろして片方の足首にからませた。靴を履いたままの下半身がボーッと浮かんでいる。カズちゃんよりも濃い陰毛だった。
 節子は木に凭れ、片脚を抱えて宙に浮かべた。彼女が何をしようとしているか〈経験者〉の私にはわかった。しかし、それに応えようとは思わなかった。私は彼女のしていることの当否を考えてみた。カズちゃんのような温かい手続がない。まちがっている。
 私には、人間のからだの法則が自分に与える宝物はことごとく享楽し尽くそうと固く心に決めた一人の女がいる。ほんの何日か前のできごとだとしても、私にはその決意が忘れられない。カズちゃんはいま、私と節子の運命を握る立場にある。節子を見殺しにするのも、私にズボンとパンツを脱いですがりつかせて節子を生かすのも、どちらもできる立場にある。
「節ちゃん、やめなよ……」
 私は言葉少なに言って、節子を覚醒させた。彼女は広げていた脚を下ろし、私をじっと見つめた。そして私が意を決していると気づいた。そして〈そのとき〉はすでに過ぎ去ったと理解した。
「……キョウちゃんは、私のこと好きじゃないのね。その人がいちばん好きなのね」
 少し大きな声で言った。
「うん、その人はとても誠実で……」
 もっと何か言おうと思ったが、黙った。打ち明けるほどの立派な告白は持ち合わせなかった。私は、鍵で密閉された小箱の中の秘密だけを尊び、節子を死なせることを選んだ罪を感じ、うなだれた。
 二人また歩きはじめ、靴が砂利を踏みしめる音が響いた。滝澤節子は私のカバンを提げて寄り添うように腕を組んできた。空しい密着だった。
「今度は、きちんとしましょうね。きょうみたいなのは、いや。なんとかチャンスを作るから」
 私にはその気はなかった。次の女の肉体を曝されても感激を覚えないことをハッキリ知ったからだった。何よりも滝澤節子に愛情を感じなかった。
「きょうも遅くなっちゃったね。じゃ、私、ここから帰る。キョウちゃんも早く帰りなさいね」
 カバンを私に手渡した。
「うん。じゃ、また」
 心を残さずに私は歩きはじめた。それでも二度、三度と振り返った。節子はしばらく立って眺めていた。
「気をつけて!」
 と遠くから呼びかけてきた。おぼろにしか彼女の姿は見えなかった。ゆっくり東門のほうへ影だけが戻っていった。
 鳥居をくぐり、もう一度振り返ると、立木の中に参道が白く浮き上がっていた。私は節子が消えていったあたりの闇に目を凝らした。外苑に細かい雨が降りはじめた。風のかげんで飛んできた雨滴が、頬にぱらぱらかかった。
 宮ヶ谷小学校の路灯の下で待っていたときと同じような影を曳いて、母が事務所の玄関に立っていた。
「もう十一時をとっくに過ぎたよ。おまえ、狂ってしまったのか」
 無視して、まだ明かりの点いている食堂に入った。すでにカズちゃんの姿はなかった。私と母との角逐を考え、胸を痛めて帰ったにちがいない。
 いままでにない険しい顔で母が迫ってきた。私は何の説明もしないままテーブルに向かって、めし櫃をほじった。母が冷えた肉豆腐を出し、味噌汁に火を入れた。母とのあいだにのっぴきならない距離が生まれていた。母子はかたくなな沈黙によって隔てられていて、その沈黙の中で私はいつも母に難詰されているのを感じ、絶えず胸の内で自分を弁護しなければならないような気がしていた。
「何も言うことはないの」
「ないね」
 私は、茶をすすって吐息ばかりついている母を疎ましく思いながら、この圧力から脱け出たいと願った。しかし、どんなに自由な生活を望んでも、母がいる場所以外で生活することはできなかった。いまの私の生活は、母にワイヤで引っ張られたラジコン飛行機が、毎日決まった一つの円周をたどっているようなもので、いつもかならず軌道から外れずにもとの起点に戻ってこなければならなかった。それなのに母は、円周の上に捕まえている息子に警戒し、ワイヤの柄を握りしめ、その求心力を自分に向けようとしていた。息子がワイヤを振りほどいて環の外へ飛び出していかないように。
 得体の知れない母の苦悩のもとが自分にあるとは思わなかった。それは私が生まれる以前から、彼女が抱えている憂鬱なのだと確信していた。だから彼女の機嫌をとり結ぶ気もなかった。
 母がしゃべりはじめた。バカなおまえの評判を落とさないために、どんなに努力してきたか。毎日薄い氷を踏んで歩いているようだ。ここまでおまえを育てるのにどれほど自分を犠牲にしてきたか。おまえの父親は、外聞を気にせず、怠け者で、浪費家で、女にだらしなかった。暴力的だった。髪をつかんで引きずり回された。頭に皿を叩きつけられたこともあった。こうなるともう母の口に歯止めは掛けられない。
 おまえも父親に似ている。厄介な血だ。よくそれを心に留めておけ。学校の成績はいまのところ、文句はない。野球も勉強には障っていないようだ。その分では好きなだけ野球をやればいい。このあいだの電話は、女からだね。オヤジとそっくりのヤニ下がったツラしてたから、すぐにわかった。私は彼女の話ぶりのすべてを嫌悪した。ひとこと、ひとことの言い回しが私の感覚にそぐわないものだった。
 たしかに、おまえは頭のいい子だよ。大吉より上等かもしれない。つまらない友人や女にうつつを抜かして、いい頭の使いどころをなくすのはもったいない。身に合わない人生を送ることになる。私はそんなふうに言われても、ちっともうれしくなかった。そしてなぜ自分が母を疎(うと)んじ、彼女に対してこんな冷笑的な気持ちになるのか、ふとわかったような気がした。母の言う身に合ったというのは、才能に合ったということではなく、世間的評価に合ったということなのだ。それ以外は〈身〉ではない。その伝でいけば、守随くんも鬼頭倫子も、いつのころからか身に合わない人生を送るようになってしまったことになる。なんといういびつな、それでいてツルリとした考え方だろう。私は身に合わない人生しか送ることができないだろう。身に合った人生など送りたくないからだ。
 結局、母が言うように、自分は父と同様、でき損ないの、身に合った道から外れてしまった人間で、それを修正するだけの知恵も能力もないのだと判断できた。自分の気持ちが母を離れるようになった原因は、サーちゃんの事件を出発点にする彼女のさびしい言動にあるのではなく、父譲りの自分の無能さにあるとわかったのだった。
 私は自分の心に従って生きるために、その無能さに殉じようと決意した。そうして、たとえどれほど後ろめたくても、北村和子という十五歳年上の女に生きがいのすべてを求めて生きようと決意した。その決意のもとで母を眺めるとき、いまや彼女の苦しみは、私にとって一つの風景にすぎず、自分を取り巻く習慣的な日常の一部にすぎなくなった。


         八十

 八月がきた。
 これまでの私は、この世でただ一人の友人である寺田康男にだけ関心を向け、そして彼だけが私に影響を及ぼすことのできる人間だと信じてきた。それというのも、私はひたすら寺田康男によって賢くもなれば、愚鈍にもなってきたからだった。
 しかし、いつとも知れず北村和子が寺田康男に取って代わった。結果はどうであれ、自分の意志で行動することを賢明さとか良心とか定義できるなら、彼女は私をひたすら賢明で良心的にした。
 しばらくのあいだ私は、練習を終えて五時半前後に校門を出、病院をきちんと七時に出、八時前に帰宅した。そして、ビールをすすっている小山田さんたちに交じってどんぶりめしを食い、まじめに勉強し、十二時前に寝、もちろん好成績を残した。カズちゃんの存在がそうさせるのだった。彼女を想う毎日の睡眠は深く、手も足もよく眠って、快適に目覚める朝がいつも訪れた。
 八月は康男が退院する月だったけれども九月以降に延びた。三吉は一足早く七月に退院していた。
「移植した皮が安定せんのやと」
「でもひと月延びただけじゃないか。バンザイだ」
 この夜も私は康男の退院の間近いことを心から喜び、リューマチ先生たちと冗談を言い合い、あしたの約束をして、大部屋の戸口でみんなに手を振った。そして、夜道を送ってきた非番の節子と野球や音楽の話をしながら、神宮の杜を歩き、手水舎のかたわらで口づけを交わした。静かな心だった。彼女は私を求めなかった。あれ以来カズちゃんとも交歓のチャンスはなかったけれども、何の不満も覚えなかった。女の体内に射精をした快味は私に麻薬として記憶されなかったので、純粋に女の肉体を恋しいと思うことはなかった。
 長い口づけのあとで、節子が言った。
「あした、五時から非番なの……」
 誘うような調子に、私は、そう、と素っ気ない返事をした。
「……あした、ヤッちゃんを見舞う前に、五時半にロビーで。妊娠の心配のない日なの」
 と一途に念を押すので、私はうなずかないわけにはいかなかった。
「じゃ、五時半、見舞い通用口のドアの前で。康男には会わないで帰る。補習があるって伝えといて」
 節子は献灯の下へ寄り、白いバッグから一枚の写真を取り出した。病院の玄関で撮った彼女の白衣姿だった。両膝を屈め、満面で笑っている。巻き上げた髪の上に看護帽がちょこんと載っていた。腰が細くくびれ、尻が豊かだった。
「持っていて」
「うん。ぼく、自分の写真は持ってないんだ」
「私、持ってるわ。大部屋の写真。三吉さんからもらったの。……これ」
 バッグからもう一枚取り出す。私が康男のベッドに腰を下ろし、振り向いた格好で笑っている写真だった。康男も苦笑いしていた。
「よ、色男」
 という三吉の声が聞こえるようだった。
「ベース盤みたいな顔だね」
「すてきよ。俳優みたい。ヤッちゃんだけのもあるのよ。屋上でやっぱり三吉さんが撮ったの」
 坊主頭の康男が、紐一本を締めた寝巻きを着て、いつものように目をすがめて空を仰いでいる写真だった。
「これ、くれない?」
「いいわよ。私はキョウちゃんの写真さえあればいいから」
 康男の写真を学生服の内ポケットにしまった。節子は私からカバンを奪い取り、大鳥居を越えて、大瀬子橋のたもとまで送ってきた。
「ここから帰るわね。帰り道がわからなくなるから」
「うん」
 カバンを受け取る。
「じゃ、あした、ね」
         †
 軒灯の下にひさしぶりにカズちゃんが立っていた。
「あ、カズちゃん、ただいま!」
 いつも飛び上がりたいほどうれしくなる。
「マイワシの煮つけと、ホヤ。旬で、おいしいわよ。お給仕してあげる」
「おふくろは?」
「具合悪いって、寝ちゃった。小山田さんたちは麻雀。いっしょにゆっくり食べましょ。私も食べてないのよ」
 カズちゃんと二人で、うまいめしを食った。味の素と醤油をかけたホヤを、めしに載せて食うのがとりわけうまかった。大好きな白菜の浅漬けと、有明の焼海苔、ワカメの味噌汁も用意してあった。
「カズちゃんて、ほんとにやさしいね」
「キョウちゃんのことが大好きだからよ。……キョウちゃん、このところずっとまじめに帰ってくるわね」
「カズちゃんに早く会いたいから。……じつは、ずっと言えなかったんだけど」
「わかってるわよ。誕生日のプレゼントくれた女の人と、したんでしょ?」
 胸がいっぱいになった。何でもわかるのだ。
「しなかった。誘われたけど、しなかった。カズちゃんしか好きじゃないから。それが言いたくてたまらなかったんだ。カズちゃんとは、毎日でもしたいのに」
 カズちゃんは指で涙を拭った。
「ありがとう、キョウちゃん、うれしいわ。少しずつ、チャンスを見つけて、一回でも多くしましょ。でも、どうしてその人としたくないって思ったの?」
「カズちゃんの中にしか出したくないから。神宮の木にもたれて、立ったまま脚を抱えて広げたんだ。カズちゃんが、コラッて叱ったような気がした」
 カズちゃんは顔を赤くして、
「……うれしいわ。でも、女の人はそこまで決意したのに、さびしかったでしょうね」
「それまでぐずぐず理屈を言って拒んでたんだけど、童貞でしょって訊かれて、大好きな人としたって言ったら、急にそういうことをしだしたんだ。やめなよってたしなめたら、私のこと好きじゃないのね、その人のこといちばん好きなのねって言ってガッカリしてたけど、帰るとき、あした、ちゃんとしましょう、妊娠の心配のない日だからって言った。ぼくはしないよ」
「……キョウちゃん、その人、たしかにガッカリしてヤケになったかもしれないし、私にライバル心を湧かせたのかもしれないけど、からだを与えようって決意したことだけはまちがいないわ。キョウちゃんには女の細かい気持ちはわからないでしょうけど、そういうときは、男は受けてあげなければいけない。……好きな人がいるってわかっても身を投げ出したということは、キョウちゃんのことがほんとに好きだということなのよ。そのことがわかれば、私は何のこだわりもないの。……最後に裏切る人かどうかわからない。でも一瞬でも愛情を示した女は抱いてあげなくちゃいけないの。男が見抜かなくちゃいけないのは、性欲からじゃなく愛情から肉体を投げ出しているかどうかということだけ」
「それが三人、四人になっていったら?」
「ぜんぶお引き受けするの。それで不都合が起きたり、女のわがままが出てきたら、一生懸命対策を考える。それが男の人生よ。あした、かならずいってあげてね」
「セックスしたら、みんなカズちゃんのようにイクの」
「ほとんどの人はあんなに強くイカないと思う」
「それじゃ、好きな人に出してるって気にならない。オマンコがギューッてならないし」
 カズちゃんはもっと赤くなって、
「自分じゃわからないけど、私のオマンコそうなってるのね。キョウちゃんがプーッて大きくなるみたいに。それでも射精してあげてね。途中でやめちゃだめよ。出さないと、キョウちゃんのからだに悪いもの」
「ふうん、でもつまらないな。反応がないと」
「あんなに感じるのは、よほどキョウちゃんのことが好きじゃないと無理。いくら、愛情があっても体質的に感じない女の人もたくさんいるけど、そういう人とするときも、かならず出そうとしなくちゃだめよ。気持ちがよくないのにイキたくなるのは、健康な排泄欲がある証拠。出しておかないと、ほんとにからだに悪いの。精子が新しくできることで勃起力が高まるの。古い精子を溜めこんでると、最悪インポになるかもしれないわ」
 きょうのカズちゃんは一段と濃密なことを言った。それでも最初に打ち明けたときに、滝澤節子に愛がないと言ったカズちゃんの直観を私は心の底で信じていた。
「もしぼくが裏切られたら、カズちゃんどうする?」
「キョウちゃんがそうしてほしいって形で、いっしょにそばにいるわ」
「ありがとう。でも、ぼくはカズちゃんしか好きじゃないから、かえって裏切られたほうがいい。ぼくこそ、何があっても、カズちゃんと一生いっしょにいる」
「キョウちゃん! 愛してるわ。死ぬまでいっしょよ」
 カバンの底にあったハートの半欠けペンダントと手紙を取り出して示し、
「これ、どうしようかな。心を形にする気持ちがしっくりしないんだ」
「捨てるのも忍びないし、お母さんに見つからないように、手紙といっしょに預かっておくわ」
「これ、きょうもらった彼女の写真。康男の写真ももらった」
 じっと二枚の写真を見つめ、
「どちらも保管しとく。ぜったいお母さんに破られるから。さ、早く部屋に戻って」
 ごちそうさまをして、小屋に戻った。
 もの心ついて以来私は、たいていの人たちの生活は都合に支配されていると思ってきた。都合のために、彼らは人間ではなく規律や規則と心中する。でもそれはふつうの人びとの話だ。カズちゃんや山本法子のような女は、自分を開けっぴろげにする。それでいて自分ではなく相手の都合を尊重する。ふつうではない。ボンの件といい、医者たちの陰口といい、節子もふつうの人間ではなさそうだけれども、何か、規律や規則とはちがった、自分を開放しきれない秘密を抱えている。
 熊の縫いぐるみが目障りで、机の下の隅に押しこんだ。滝澤節子が私を都合よく子供扱いした象徴のように思えてきたからだ。蒲団に入って、ときどき隣の部屋の物音に耳を立てた。母も猫も静かだった。その静けさも、このごろはまったく気にならなくなった。
 なぜか胸が轟いて眠れないので、起き出して机に向かい、ことばノートを開いた。北村和子、と書いてあとがつづかなくなった。
         †
 先月からカンカン照りの日がつづいている。東京砂漠、とテレビのニュースでしきりに言っていた。炎天下の練習を終え、重いカバンを手にゆるい坂道を登っていった。太陽は沈んだばかりで、赤紫の光が坂の並木のあいだからアスファルトの上に射してきた。牛巻病院の壁にも反映していた。
 見舞通用口に空色のフレアスカートが立っていた。腰から広がるスカート姿が目に涼しい。手を振っている。私もカバンを揚げて合図する。近づくと、風呂上がりの化粧をしたのか、頬の肌理が白く整っている。スカートと同じ空色の半袖シャツの襟にぴっちり糊がきいていて、清潔な感じがした。きのうまでのような軽薄な感じがしない。
「……いきましょ」
 白い小さなバッグを片手に、靴脱ぎからスリッパを履いて廊下に上がる。節子は先に立って歩いていく。あの初めてキスをした急患収容室の戸口に向かっている。私はスリッパの音を立てないように歩いた。節子は廊下の曲がりへくると、ロビーのほうへ視線を向けた。受付の明かりがかろうじてベンチに届いているのが見えた。患者の姿はない。私は節子に並びかけた。髪を下ろした下ぶくれの横顔が、真剣にうつむいている。廊下の突き当りには非常灯しか点っていなかった。その光に胸もとの乳房の谷間がぼんやりくぼんで見える。彼女はドアを開けて、私を中へ導いた。
 寒々とした、小さな病室だった。部屋全体が仄暗い水底のように翳っていて、マットを敷いたきりの鉄製ベッドと、その床頭に備えた白瑯の洗面器がさびしく映った。壁の上方に黒い網目状のひびが入っている。古びたレースのカーテンを引いた窓から、中庭を隔てた看護婦寮の明かりがおぼろに射してきて、ベッドの脇の点滴用のスタンドをにぶく光らせていた。
「もう、使わなくなった病室なの……。でも、お掃除はいきとどいてるわ」
 節子は窓を背にしてベッドに腰を下ろし、バッグをかたわらに置いた。髪を揚げた彼女の頭部が、逆光のせいで黒く大きく見える。うつむいて指をしきりに組み合わせたり解いたりしている。スカートの襞をもじもじ指先でいじりながら、うつむいたまま言った。
「危ない日じゃないんだけど、妊娠したらどうしようかな」
 都合、という言葉がよぎった。
「……なんだかへんな言い方だね。ぼくを脅かしてるみたいだ」
「妊娠してキョウちゃんに捨てられても、お婆ちゃんじゃ何も言えないもの」
「じゃ、やめよう。そうなったらぼくだって何も言えないから」
「いやよ! ごめんなさい」


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