八十一  

 邪険にすぎたかなと思いながら立っていると、節子はベッドに坐ったまま、おもむろに空色のシャツを脱ぎはじめた。乳房には何もつけていなかった。二つの豊かな丘が影を作って並んでいる。カズちゃんよりわずかに小さかった。彼女は立ち上がり、ためらいもなく、空色のスカートと真っ白い下着を床に脱ぎ捨てた。滑らかな肌がかすかな水気を帯びているように見える。
「キョウちゃんも脱いで。……見せて」
 私はカバンを足もとに置き、彼女に倣って何もかも脱ぎ捨てた。
「うわあ、きれい! こんなきれいなからだ、見たことない……」
 節子は近寄ってきて、私のだらりとしたものを握ってきた。
「わあ、立派ね。頭が大きい」
 同じ言い回しなのに、カズちゃんより乾いていて、遠慮がなかった。私も立ったまま遠慮なく指を彼女の陰部に差し入れ、カズちゃんの構造を思い出しながら探った。そうされながら節子は私を抱き締めた。小陰唇はよくわからなかったけれど、裂け目全体に水気が多いように感じた。クリトリスらしきものに指先が触れると、かすかなため息が漏れた。突起が奥に引っこんでいる感じがした。そこを刺激しつづけていても、一本調子のあえぎ声を上げるばかりで、彼女に高潮が訪れる様子はなかった。
 指を離すと節子は私をそこに立たせたまま、自分を見てほしいというふうに、みずからベッドの上に仰向けになった。窓からの淡い光に顔のこちら側が陰に沈んでいる。臍から下の下腹が形よく盛り上がり、陰毛の量の多い丘がそれと比例するようにプンと突き出ている。私はたたずんだまま、黙ってその全身を見つめていた。節子は私のほうを見ないように窓を向いていた。私は、その丸い美しい腹と、隆起した二つの乳房と、陰毛のシルエットを眺めていたが、触れようと思わなかった。ひたすらカズちゃんの裸身を思い浮かべた。彼女はみぞおちのあたりに手を組んで待っていた。私がゆっくり近づくと、彼女は顔をこちらに向け、私の性器を見て、かすかに息を呑んだ。それはいつのまにか天を向き、包皮の先からしっかり亀頭の全身が張り出していた。
「そんなに大きいの……」
 緊張したのか、節子の唇がくっきりと直線を引いた。広い額とふくよかな頬が青白く見えた。節子は気を取り直したように、
「キョウちゃんは、きれいな子ね。持ち物もすばらしくて……」
 彼女は私の性器に手を触れようとしなかった。私は屈みこんで、彼女の茂みのいただきに唇を触れた。それから彼女にかぶさるように跨ぎ越え、窓側に並んで横たわった。私は左利きだったので自然とそうなった。
 左手で胸を揉み、茂みをさすりながら、指を奥へ割り入れようとしても、彼女はなかなか脚を開かなかった。ひたと両腿を合わせて、私の手を豊かな腿のあいだに挟みこんでいる。逆に彼女に引き寄せられて、弾力のある胸を押しつけられた。皮膚の湿ったぬくもりが伝わってきた。石鹸のにおいがする。私はもう一度片手を乳房に当て、手のひらいっぱいに柔らかい肉塊を握った。そのとたんに、びっくりするほど大きな呻き声が洩れた。揉みしだくとさらに連続的に大きな声が上がった。それは機械仕掛けのようで、わざとらしい感じがした。私は顔を両乳房のあいだに埋めた。石鹸のにおいにビスケットのような香ばしい体臭が混じった。ゆっくりと腹を撫で回し、陰毛に触れた。さらさらしているのに硬い。この奥に、カズちゃんと同じものがある。二カ月前に私の性器を包んだものだ。溝に指を滑りこませようとすると、節子はこちらに向き直り、強く抱きしめてきた。下腹部がぴたりと密着し、手の動きが封じられた。
「だめ」
 と彼女は囁いた。私の昂ぶったものを握り、唇を求めてきた。指がふたたび股間に向かおうとすると、
「キスしたままでいて」
 目をつぶったまま言った。私は節子の掌の中で自分のものが強く脈打っているのを感じた。私は手をしつこく彼女の腿(もも)から付け根のほうへ動かそうとした。節子がおびえたふうに目を開いて、私の手を自分の手で押しとどめた。彼女は黙って訴えるように、まるで私のがまんの限界を探ろうとするかのように、私の顔を見つめた。それから私のそそり立ったものをそっと離し、
「きれいな目……。キスして」
 と言った。からかわれているのにちがいないと思った。私はいやいやキスをした。ようやく唇を離すと、節子は私の片方の目に、それからもう片方の目に乾いたキスをして、いとしげにすがりついた。
「このあいだはごめんなさい。あんな格好で誘ちゃって。すぐ興奮してほしかったの。ああしないとしてもらえないと思って。……私、オマメちゃんはすぐイッちゃうの。だから触られると、それだけで夢中になっちゃうから」
「それで……」
「そう、キョウちゃんのことを忘れちゃう。……もういいわ、好きにして」
 節子は両腿を広げ、膝を立てた。ほとんど小陰唇が痕跡しかない奇妙な性器だった。窓からのかすかな灯りに薄赤く見える前庭がぬらぬら光り、クリトリスが長い包皮の奥に潜んでいた。私は舌で陰唇の痕跡をなぞり、前庭を舐め、カズちゃんにしたのと同じように突起を舌先で押したり回したりした。灰のようなにおいがする。
「あ、イク」
 とつぜん声がした。ピクンと腹が跳ねた。
「イッたの?」
 こくりとうなずく。
「……でも、まだ、中ではイッたことがないの。キョウちゃんの大好きな人、ちゃんとイクんでしょう?」
「うん」
「一度でも膣でアクメに達することのできる人は、七パーセントぐらいしかいないの。連続で何回もとなると、一パーセント未満。それで、比べられて、キョウちゃんに嫌われるんじゃないかと思って、さっきお乳揉まれてるとき、うんと声を上げたの」
 私は微笑ましくなり、
「中なんか、イカなくたっていいよ。ぼくがイケばうれしいよね?」
 またこくりとうなずく。私は節子に跨り、顔の前に性器をもっていった。彼女は本能的にそれをつかみ、半身を起こして亀頭を含もうとした。含みきれないので舌先で舐めた。
「ぼくのは医学的に奇形?」
「ううん、長さは理想的よ。人よりグランツが相当大きいだけ。これだけ大きい人はいままで見たことがないわ。挿入したとたんに、女性のグレフェンベルグ・スポットが強い刺激を受ける形よ。……私、初めてイケるかもしれない」
「グレフェン……?」
「膣壁上部、陰核基底部」
 節子の口から性器を離し、唾液で濡れた亀頭の先でクリトリスを上下になぞり、ゆっくり挿入した。軽度でも達したばかりのせいか、空間が狭まっている。水っぽいけれども抵抗がある。カズちゃんが私の上になってどんなふうに膣を上下させたかを思い出そうとした。彼女はまず深く腰を落として、もっとも深いところの襞で私を包んだ。私は同じように節子の膣の奥まで突いてみた。次に、カズちゃんは膣の中ほどをゆっくり往復させた。私もそのとおりにしてみた。それからカズちゃんは入口をこすりつけたり、つづけて腰を落としたりした。つまり、交互に、浅く動かしたり、深く動かしたりした。そのとおりにした。カズちゃんは速度を速めることもした。そのとおりやってみた。
「ああ、キョウちゃん、とってもいいわ、上手」
 カズちゃんと比べて、快感も少ないようだ。少しスピードを上げて、いまの手順を繰り返した。
「あ、いい、いい、キョウちゃん、気持ちいい!」
 早くも自分の高潮の予感が迫ってきた。鈍感な女とするときもかならず出そうとしなければいけない、そうしないとからだに悪い、とカズちゃんは言った。出してしまおう。そう思ったとたん、節子の膣が急に緊縛を強めた。私はいまにも完了しようとする射精の誘惑を必死でこらえた。
「ああ、キョウちゃん、お腹が熱い、イクのかしら、ああ、うれしい、あああ、イクみたい、イクわ、イクわ、イクッ、イクッ、イクッ、イクウウ!」
 ググッと腹が引き絞られ、それから両脚が松葉の形のままピンと伸びた。同時に私も勢いよく放出した。律動を伝える。そのつど膣が締まり、私に合わせて収縮する。目を閉じたまま首をもたげ、私の唇を求める。私は強く吸ってやった。
 小学生のとき、私は男の生理の秘密を知った。後ろめたかった。いまはもっと後ろめたい。尻の前後運動という間抜けな行為が加わったからだ。手淫は男も女もあまり間抜けな感じはしない。閨房で間抜けを一手に引き受けるのは男だ。カズちゃんは私の童貞をさらうとき、間抜けなまねをさせなかった。ピストンを一手に引き受けた。そして彼女の尻の前後運動は間抜けではなく、神秘だった。交接と同時の発話と、オルガスムスの発声と不随意な痙攣も神秘だった。
 閨房以外では決して見聞できない運動と発話と発声と痙攣。これが世間の道徳的な人びとの癇に触れ、嫌悪され、秘密の中へ押しこめられる。きょう私は痛切に理解した。愛する者同士のあいだでは愛情を確認するためのふつうの運動と発話と発声と痙攣も、世間の目や耳に入れれば侮蔑と怒りのもとになるということだ。ただ、途上の無言の運動の大半は、勃起だけが主な役割でオルガスムスの快楽が極端に微小な男にまかされている。発話と発声と痙攣は、男のものではなく、ほぼ百パーセント、人類の神秘である女のものであり、彼女たちがそれを抑制するのが困難だという理由で、秘密の度合いはますます濃くなっていく。そんな女の生理は彼女を愛さないかぎり許すことができない。女と生きるためには、門外不出の秘密の重荷を背負わなければならないからだ。
 桑原の〈秘密〉の写真も、オトコは性器でしか登場せず、女は顔と性器を含めて大舞台に登っていた。女はその神秘性ゆえに存在が許されている。神秘的な発話と発声と痙攣をしない女には存在価値がないということになるのだ。しかしこれはあくまでも肉体の話であって、精神となると話は別だ。精神の澄みわたった女には、どんなに肉体のすぐれた女も敵わない。たぶんほとんどの女は、その二つとも備えていないだろう。カズちゃんはその二つを兼ね備えている。女の中の例外ということだろう。私は彼女しか愛せない。
 遠い廊下でざわめきが起こった。どうやら各部屋の見回りを終えた看護婦たちが、そろって寮へ引き揚げていくところのようだ。いつか彼女といっしょに階段を下りてきた看護婦もいるかもしれない。私が耳を立てていると、黒髪、黒髪、あのひとの黒髪が、という唄声が流れてきた。まだ痙攣している節子には聞こえていない。私はからだを離し、薄いベッドに彼女と並んで横たわった。ひびの入った角天井がすぐ間近に見えた。看護婦たちのざわめきが遠ざかった。節子の腕が胸の上に伸びてきた。顔を見ると、やつれたふうに笑っている。
「これで、もう、キョウちゃんには嫌われないわ。幸せ。こんなかわいらしい顔して、キョウちゃんてすごいのね。いままでの男って、何だったのかしら。自分勝手で」
 いやな言い方だと思った。抱かれたということは、いままでの男に少なくとも意地悪をされたというのではない。おまけに、節子は自分の僥倖に悦ぶだけで、私を愛しているとひとことも言わない。カズちゃんは自分自身の嫌悪感がもとで男を断ち、私への愛から自分のからだにも目覚め、そのことを心から感謝し、死ぬほど愛していると言ったのだ。もう滝澤節子とはこれきりにしようと思った。
「やっぱり、康男に会っていく」
「私は寮に戻る。長く外出してると、へんに思われるから。キョウちゃんも早く帰らなくちゃ、ね。……お母さん、心配してるわ」
 これもわざとらしい言葉だった。私は透けたカーテンの反映に眼をやった。すぐ近くの樹の影だけが、看護婦寮から洩れる明かりのせいで窓に映っていた。手を伸ばして、よれよれのカーテンといっしょに窓を開けた。夜気がすがすがしく流れこんできた。私は起き上がり、下着をつけ、服を着た。横たわったまま節子が言った。
「今度は、いつこれるの?」
「康男が退院するまで、ほとんど毎日くると思う」
「もっともっとキョウちゃんに抱いてもらいたいんだけど、難しいかもしれないわ。何日か口を利かないほうがいいと思うの。顔を合わせるだけなら、ヤッちゃんの見舞いのときにいつでもできるもの。……それから、その指、お家に帰ったら、洗ってね」
「汚くないよ。二人の愛の……」
 カズちゃんの言葉は美しかった。彼女の言葉を与えるべき相手をまちがってはいけない。節子は私の指を握って揺すった。私はその指を鼻へもっていった。かすかに灰汁のにおいがした。
「いや……」
 節子はもう一度私の指を握ると、両手で包みこんだ。
 急患室を先に出た。私は早足で廊下を進み、大部屋を目指して飛ぶように階段を上っていった。


         八十二

 馴れ親しんだ埃っぽい道がありきたりに映らなくなった。見慣れた光景が目にいっそう深みをもって迫ってきた。おそらく人間の究極の経験―性の経験という鎧で身をまとい終えた安心感のせいで、五感を外に向ける余裕ができたからだろう。しかし、性の経験を手続のうえで完了させただけで、その経験の本質のところはまだ解決できない謎なのだった。
 肌も、髪も、唇も、乳房も、性の器官も、謎と言えば謎だったけれども、自分の装置に引き比べて納得できるものだった。もう一つ解決できない謎があった。心向きの差異だった。カズちゃんと節子には極端なちがいがあった。慈愛という神秘的な精神は天賦の才能に近いものに感じられた。十五歳の私は、たった二人の女のからだと精神しか経験していなかったけれども、この神秘の覚醒は、その後の私の人生にとてつもないエネルギーを与えた。私は、この二つの謎を併せ持つ女という生きものを敬慕してやまなくなった。選別は簡単だろうと思われた。精神の希薄な女を省けばいいだけのことだった。
 大人のカズちゃんを駆り立て、あんなに異常な行動をとらせたのには、きっと私にはわからない何か深い理由があるのにちがいなかった。同情とは思えなかった。愛していると何度も言ったのだから。ただ、私が彼女のからだの奥へ分け入ったことは、彼女にとってからだの地下室へ松明(たいまつ)を投げこんだくらいのものかもしれないという気はした。高潮を表現するめずらしい発声も、からだの痙攣も、きっといくばくかの女に共通のものだろう。少なくとも、それは私の手柄ではなかった。しかも、私以前にすでにだれかに示していた生理的な反応かもしれなかった。そのだれかに、私は深く嫉妬したけれども、嫉妬する相手の顔を思いつかず、カズちゃんは大人として、からだではなく、与えられるかぎりの精神を自分に与えてくれているのだと思い直した。からだの反応は、性の相手に与える彼女の習慣の中にあった。私にしても、カズちゃんが相手でなくても、同じ反応をするにちがいなかったし、それは節子で確認できた。だから、肉体の習慣の中にいた〈だれか〉を嫉妬することはできなかった。
 私には、カズちゃんのやさしさはわかっても、精神の深さや濃密さまではわからなかった。でも、ぼんやりした広がりがあるということだけはわかった。そして自分はその広い湖沼に生息する生きものの一つにすぎないとさびしく理解した。と同時に私は、教室やグランドや勉強小屋の机の前で、やさしさに包まれている幸福に酔いながら、何かただならぬ悲劇を予感しはじめた。彼女を失うことは、とりもなおさず、私の人生の終焉を意味していた。
 毎日康男を見舞いはつづけていたけれど、節子とはときどき顔を合わせるだけで、話しかけも話しかけられもしなかった。自分なりの選別の結果だったので、それは苦痛ではなかった。愛情と性の神秘を感じるようになるにつれ、仲間たちに縁を感じることが薄くなり、野球や授業に注意を集中することがますます容易になってきた。そういったものはカズちゃんに見守られながら打ちこむ人生の趣味と観じれば、じつに簡単なことだった。ただ、趣味など持たずに、朝、登校するのをやめてこのまま彼女と遠くへ旅立つことができればどんなにいいだろうと思うことが度々あった。野球の練習のない雨の日など、特にそう思った。
 学校という共同社会のいろいろな行事や、試験や、成績による格付けのようなものにはほとんど心が留まらなかった。これからも同じ日々がつづくとしても、私の心の中でそんなものはもうすっかり終わってしまっていた。北村和子の湖沼に注ぐ滋養にあふれた川となること、その努力をしたうえで彼女に愛されて恥ずかしくない人間になること、それだけがただ一つの願いだとすると、彼女の湖沼の中で遊泳しているだけではすまないのだった。私はいっそう野球と勉強と友情に励んだ。
 野球では相変わらずチームの主力であり、ひときわ目立ってもいた。野球は私の一本道だった。しかし、たとえ私の活躍が新聞に採りあげられようと採りあげられまいと、評判を嗅ぎつけてスカウトがやってこようとくるまいと、そんなことはもう何ほどの価値も持たなかった。
 勉強―それは康男の言う、ガキの遊びだった。私は知恵と感覚のすべてを利用して懸命に遊んだ。その結果が上位や下位にランク付けされようと、知ったことではなかった。
 夕めしのとき、カズちゃんに訊いた。
「カズちゃん、勉強って、意味があるのかな」
 カズちゃんの言うことなら、再考せずに信じられる。彼女はしばらく考え、
「勉強そのものに意味があるかどうかはわからないけど、キョウちゃんの成績が悪いより、成績がいいほうが気分はいいわ。でも、私は、キョウちゃんが勉強している姿を見るのがうれしいの」
 吉冨さんが聞きつけ、
「そうだね。勉強って、成績のことだもんな。意味があるとするなら、自分を喜ばせるより、他人を喜ばせる要素のほうが大きいってところかな。学者は逆だけどね。キョウちゃんは、野球で自分も他人も喜ばせることができるぜ。羨ましいかぎりだ」
 小山田さんが、
「勉強も、野球も、適度に目立ってたんじゃ、だれも喜ばん。飛び抜けてないとな。勉強そのものの意味となると、ないみたいなもんだ。吉冨の言うように、小中高の勉強なんざ古今の学者の集積物をなぞるだけのもんだから、凡人にとっては鍛錬としての意味しかない。精神修養、だな。写経みたいなもんだ」
 どうしても野球の話が入りこむ。ただ、小山田さんの考えは私に近かった。母が、
「何をみんなでくだらないこと言ってるんですか。勉強の仕組みがどうだろうと、意味がどうだろうと、勉強は社会で出世する手段ですよ。キョウも気取っちゃって、なにが勉強の意味だ。落ちこぼれの考えそうなことだよ。成績が落ちてきたからそんなことを言うんだろ。さっさと部屋にいって勉強しなさい」
 私は、カズちゃんの、好成績は気分がいいという意見を採った。彼女が気分をよくしてくれるのなら、無心に励むことができる。カズちゃんが、
「キョウちゃん、成績が落ちたの?」
「万年二番から五番」
「なあんだ、上等じゃないの。八カ月も病院にかよいつづけたんだもの、人の五分の一も勉強してないじゃない。大将さんさえ退院したら、あっという間に一番よ。あ、思いついた。勉強の意味って、競争の楽しさということじゃないかしら。もちろん理解の楽しさもあるけど」
 吉冨さんが、
「なーる、それを楽しめれば、意味もあるわけだ。ジャンケンだけでも、勝った負けたを楽しめるもんね。カズちゃんの意見に賛成だな」
「そうよ、キョウちゃん、勉強を楽しんで。学者さんじゃないんだから、野球みたいに勝ち負けを楽しめばいいのよ。入学試験だって勝ち負けでしょう。キョウちゃんがそんなことに価値を置いてないことをわかって言ってるのよ」
 私はにっこりうなずいた。
「もう一膳食べたら、机に向かう」
 社員たちはホッとしたように、新幹線の話題に移った。
「高架橋工事に着工したころさ、そんなに速く走ってもしょうがないって意見が多いときに、内田百閧ェ、東京大阪ポチポチ停まって走らずにノンストップにしろって言ったんだよ。速い乗り物が好きだったみたいでね。高速度時代か。これからは何でもかんでも、無意味に速くなるぜ」
「商取引を早めたいだけですよ。人間の生活テンポじゃなく、商売のテンポですね。しかし、そのおかげで俺たち土建屋は給料もらってるわけだから、悪口は言えないけど。あと二カ月で営業開始か。山さんは乗ってみますか」
「乗るしかないだろ。鈍行がなくなっちまうに決まってんだからよ。情緒も何もありゃしねえ。考えたらさ、たった二週間の東京オリンピックのための国内整備だろ。アジアで初のオリンピックか何かしらないけどさ、罪なもんだよな」
「所長は、最大インチのカラーテレビ入れるって言ってるぜ」
 カズちゃんが浮き浮きして、
「私、観ようっと。前畑がんばれだもの」
「おいおい、いつの時代だい?」
 母はツンボ桟敷だった。
         †
「ここまで七本か。あと三試合で十本は確実やろ」
 デブシが言う。
「三試合あれば、たぶんね」
 六月末の荻山中学との三回戦で、私はスリーランホームランとツーランホームランを打った。会心の当たりだった。九対ゼロの圧勝でベスト十六に残った。百メートルを超えるライナーのホームランと、高く舞い上がったホームランの軌道は、私の記憶の中で最も印象深いものになった。そしてそれが最後のホームランになった。
「あと三試合勝ち抜けば、今年も決勝に駒を進められるぞ」
 と和田先生は気の早いことを言った。去年の実績を思い出して、部員たちのほとんどがその気になった。そして七月、夏休みに入る直前、四回戦の大曽根中に一対ゼロで辛勝して、なんとかベストエイトに首をつないだ。以来、和田先生や部員たちは、市大会の優勝を狙う胸算用でいたけれども、私は、去年のように決勝までいけるかどうかは怪しいと思っていた。ホームランも七本で止まったままだった。私の願いは優勝ではなく、少なくともベストフォーまで残って〈最後の〉思い出にしたいということと、自分の記録がどこまで伸びるかということだけだった。
 ほとんどの部員たちの気持ちは高校受験に傾いていた。デブシや大島は野球で進学する大望を抱いている少数派だったので、トーナメントに賭ける意気ごみは人並はずれたものがあった。その彼らも野球の名門校から誘われないかぎり、受験勉強を放棄するわけにはいかなかった。雨に打たれ、乾燥してあばたになった宮中のグランドの上を、彼らの中途半端な野心が走り回っているのだった。
 外角の高目を打ち返し、ライナーでセンター前に抜けていく打球を見やりながら一塁ベースをふくらんで回る。センターがハンブルする。勢いよくベースを蹴って全力疾走、セカンドへ滑りこむ。大きなレフトフライを追って左中間へダッシュし、ジャンプして飛びつく。レフト前に転がってくるボールをショートバウンドで掬い上げ、セカンドへノーバウンドで投げ返す。ついこのあいだまでの私は、そんなことをしていれば、不安や、苛立ちや、喜びさえも、心に懸かっているすべてのことを忘れることができた。いまは、何をしていてもカズちゃんのことが浮かんできて、おのずと、ふだんの練習もみんなと足並み揃えた気分でいられなくなった。
 ―手術を受け、右投げに変えてまでがんばってきた、この何年かの野球生活は何だったのだろう。
 レフトの守備についているときも、ふと空を見上げ、こんな娯楽にかまけていていいのだろうか、もっと一人の人間としてやらなければならない大切なことがあるんじゃないだろうか、と考えるのだった。そう思うたびに、私は白々とした気持ちになった。
「きょうは、上がれ!」
 降りだした空を見上げながら、和田先生は練習を切り上げさせ、そのまま職員室に引っこんでしまった。みんな更衣室へ急いだ。雨のグランドに人目はないので、戸を開けたまま着替える。たちまち雨脚が強くなり、更衣室のスレート屋根をうるさく鳴らしはじめた。雨滴が地面を叩いて穴をうがっている。冷えた風が入ってきて気持ちがいい。大島がいつもの西郷輝彦を歌いだした。いっぱしにビブラートを効かせている。

 星空のあいつは すてきなあいつ
 きらめく夢をもっていた
 流れる星ならつかまえて
 キラリかがやくペンダント
 おれは作るといったやつ

 現実味のない、隙間風のような歌だと思った。メロディも粗悪なものだった。
 仲間より一足先に着替えを済ませて、病院に向かう。大切なこと―康男を喜ばせること、カズちゃんを喜ばせること。もっと大勢の康男やカズちゃんを喜ばせること。そんな気持ちでかよっていく牛巻病院で、康男が退院するまでだと心に決めて、節子と受付のガラス越しや、ロビーのベンチに座って長話をするようになった。節子の話の内容といっても、他愛のない芸能界の話や、身内話ばかりだった。ほかの看護婦や、寝巻姿の康男まで参加することが多かった。


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