九十一

 涼しい風が吹きはじめた。
 退院以来どこにいるとも知れない康男に会っていなかった。また、リューマチ先生の期待を裏切り、一度も牛巻病院へ出向かなかった。私はひたすら野球に没頭した。そうしなければ自分の悍気(かんき)を抑えきれない気がしたし、いまここで日常の習慣から逸脱すれば、せっかく大事に護ってきたすべてを失いそうな気がした。
 本城中との練習試合まで、あと一週間と迫っていた。場所も二年前と同じ笠寺球場に決まった。和田先生が張り切っている。
「ここにきて中村には確実な長打力がついたし、野津のコントロールも見ちがえるほどになった。大砲二台じゃ、ちょっと心もとないが、これまでの勢いでなんとかいけるだろう」
「ウース!」
「いけるで!」
 背高ノッポの関と、いやに尻のあたりに筋肉のついた大島が、ドスの利いた声を上げた。俺の存在も忘れるなというデモンストレーションだ。御手洗がニヤニヤしている。私は関や大島よりも、御手洗のシュアなバッティングのほうを高く買っている。
「リリーフも二枚、バッチリだ。向こうも今年ベストエイトまでいったチームだ。二年前に一度やられてる相手だが、今年は互角以上だろう。気負わないでいけば、勝てる」
 卒業していった崎山と今に代わって、三年生の補欠から抜擢された努力家らしい右投げの二人が、この春から野津の控えとして投球練習している。私は彼らを見ても、名前を思い出せなかった。野津に比べたら小便球しか投げられないけれど、一、二回の救援で目先をくらますにはこれでいいのかもしれない。
「あいつらが投げたら、ぜったい打たれるで。野津がもてばええけど、いつ乱れるかわからんもんな。やっぱり、打って勝つしかないやろ。もう本間さんもおらんし、神無月一人に頼っとれんぞ」
 二人のピッチャーを眺めながらデブシが言った。その日は部員たちのバッティング練習に力が入った。私は、十本のうち五本はするどい当たりを飛ばせるよう、確実なミートを心がけた。関や大島も強振せずに、コンスタントにライナーを飛ばしている。
 ベーランが終わり、後輩たちの後片づけを手伝っているところへ、康男が、足を引きずりながら現れた。思わず私は階段の上がり口に目を凝らした。浅野の気配はない。
「ちょっと待ってて。いま着替えてくる」
「おお」
 康男から視線を逸らしてうつむきがちにしている部員たちを尻目に、更衣室に駆けこんで着替えをすませると、並んで歩きだした。
「リハビリ、順調にいってる?」
「あと、五、六回やな」
「いま、どこにいるの」
「松葉」
「あのアパートは?」
「かあちゃんと男の、チンチンカモカモ部屋や。あの年になって、よう飽きんもんやで。弟の教育に悪いけど、しょうないわ。リハビリついでに、リューマチに会いにいったったわ。さびしいやろ思ってな。帰りにセッチンにも廊下で会った。おまえのこと、細かく報告してくれって言われた。報告せんけどな」
「とにかくぼくは、彼女のことは何とも思ってないんだよ。誕生日のプレゼントまでもらって、冷たいやつだと思うかもしれないけど。……リューマチ先生、喜んだろうな。康男はやさしい男だね」
「あの先生も、よう生きて、あと二、三年やろ。これも何かの縁やからな」
 私はとつぜん、リューマチ先生に対するなつかしい気持ちでいっぱいになった。
「そのうちぼくも会いにいくよ」
「無理すな。……浅野に見張られとることだけは、セッチンに言っといたで。おまえが薄情者(もん)て思われたら頭にくるからな。―ちゃんと浅野がおらんのを確かめてから上がってきた。心配せんでええ」
「きょうは、どうしたの。まさか節ちゃんの伝言を知らせにきたわけじゃないだろ」
「……兄ちゃんが連れてこいってよ」
「光夫さんが? どこへ?」
「松葉の本宅やが。兄ちゃん、いま、校門で待っとる」
 敬愛をともなった好奇心が湧き上がった。
 校門の外に、トレンチコートに灰色のスーツを着た光男さんが待っていた。
「ご迷惑でなかったですか?」
 彼は頭を低くして尋いた。
「いえ、ぜんぜん」
 光夫さんはかすかな笑みを浮かべた。彼にはヤクザ者らしくないぎこちないところがあった。それが恐ろしげでもあり、魅力でもあった。彼は康男の脚を気遣うように、下目使いに歩きだした。
 松葉会の本宅は、宮中から歩いて五分ほどの、本遠寺裏の民家が建てこんだ一画にあった。しかし、一見してその種の人たちが棲む建物だとわかった。あたりの家とはちがって旅館ふうの棟長の二階家で、黒木の柱を対に並べた門の両側に、葉の大きいタイサンボクと、寒竹が植えてあり、打ち水をした玄関まで飛び石が伸びている。踏み石の両側に砂利が敷きつめられ、竹以外に表からの視線をさえぎる障害物はなかった。すぐ目につくのは全面ガラスの引き戸で、ガラス一枚ごとに松葉会の紋章が金で捺(お)されていた。
 ガラス戸を空けて、何人かの男が光夫さんを迎えに出てきた。光夫さんはコートを脱いで中の一人に渡し、康男を伴って式台を上がった。カバンを持った学生服の私だけが玄関土間に残された。
 土間に居並ぶ男たちの目つきには、ふつうの大人らしい分別も窺えたけれど、それと同時に何か挑みかかるような光もあった。しかし彼らはいかにも礼儀正しかった。顔を見ると一々礼を返す。彼らはまばゆい者たちだった。命に関わる仕事をしている人びと、たとえば兵士とか、ボクサーとか、機動隊といった人びとの身の周りにただよう、死に侍っている者の発する威光のようなものが彼らにあった。ふつうの人は、そういう光を発している人間がそのへんを悠々と歩き回っているのに出遭えば、ひたすら畏怖するだけで、それ以上近づきにはなろうとしない。懇意になって、いきなり死のほうへ連れていかれてはかなわないからだ。
 式台の一段上に大きな屏風が立ててあった。土間の鴨居には『闘』と墨書した扁額が掲げられている。
「どうぞ、お上がりください」
 屏風の後ろから案内に現れた黒背広の若い男には、小指と薬指がなかった。彼はこぶしをついて私を迎えた。光夫さんと康男が廊下に立って待っていた。礼儀正しいその男に案内され、光夫さんの背について康男といっしょに長い廊下を歩いた。部屋の数は二階と合わせて十以上あった。広い家だった。康男が小声で言った。
「二階の端の納戸部屋が四畳半でよ、俺はそこに寝泊まりしとる」 
 通された部屋は、中庭に廊下を渡した離れで、質素な造りの小庵だった。薄暗い六畳の部屋全体に夕方の窓明かりが射している。案内の男が膝を突いて、
「お連れしました」
 声をかけて仕切り襖を開けると、すでにこざっぱりした浴衣のようなものを着た一人の男が、違い棚を背にあぐらをかいて、茶の角テーブル越しにこちらを向いていた。案内役が室内の蛍光灯を点けて襖の内側に控えた。ほの暗さの中に沈んでいた襖の花鳥図が息を吹き返した。私は目を見張り、黒っぽい天井や床柱を眺めた。違い棚の上の鴨居に、康男がいつか言った『敢為』という額が掛かっていた。
「あとで顔を出してくれ」
 そう言ってワカは案内の男を帰した。
「きたね、神無月くん」
 柔らかい笑顔になった。あの夜は気づかなかったけれど、笑うと、片頬にえくぼができて甘い風貌になる。恐ろしい感じがしない。オールバックの額が頑丈そうに盛り上がっている。光夫さんはワカの脇に控えてあぐらをかいた。康男もテーブルから離れた畳に腰を下ろし、両脚を投げ出した。胡坐もままならないのだ。私は康男の隣に正座した。
「膝を崩して楽にしなさい」
 人を従わせる力のある穏やかな声で言った。私は傍らにあった座布団を引き寄せ、二つに折って康男の足にあてがおうとした。康男はそれを手で押し戻した。それが礼儀なのかと思って、私は座布団をもとの位置に返した。
 ワカの部屋は屋敷内ではいちばん奥まった客室のようで、三方が庭になっていた。小さい藤棚のある中庭に面して、幅の広い濡れ縁があり、そこに置いた大きなガラス鉢に金魚が涼しげに泳いでいた。縁側の端に古びた手水鉢(つくばい)が見えた。南天とナギの木の茂みがこんもりした感じで鉢前に庇を作っている。背の低い竹がむらがっている庭の奥に、小さい石燈籠が据えてあった。私がじっと見ていると、
「古い家だろう? ここは私の実家なんだよ。私は鉄筋というやつが嫌いでね、早いうちに名古屋駅のそばの役宅を返上したから、みんなをここに住まわせて不便をさせている」
「ビルディングなぞより、ずっと落ち着きます」
 光夫さんが言った。
「ならいいけどね。所帯がふくらんでも、私はここを動かないよ」
「願ったりです」
 鴨居に数人の老人の顔写真が飾ってあった。どれも髪はすっかり白いのに、精悍な顔つきをしていた。
「こんなところへきて、怖くないかい」
 眼の奥が澄んでいる。
「怖くありません」
「ヤクザは華冑(かちゅう)界じゃないぞ」
「え?」
「貴族じゃない。与太者だ。まあ、干城(かんじょう)のつもりではいるけどね」
「カンジョウ?」
「庶民を守る軍人といったところかな。松葉会はこの世界でも名門の一つなんだよ。勲章を佩用(はいよう)しているわけじゃないが、この壁に会の功績を讃える銘句を書いたら、部屋を一周するかもしれん。年端もいかないころは、自分がほんとうにここの家の胤(たね)だろうかと疑ったこともあったが、いまでは肚を据えている」
 語り口の難しさが光夫さんに似ている。言っている意味はおおよそわかった。
「強くて、頭がいいのは、好きです」
 私の言ったことが、とびきり愉快なことででもあるかのように、ワカはからだを揺すって笑った。
「きみはおもしろい子だね。たしかにこの世界も、流行りすたれがあって、いまどきのヤクザは、きみが危ぶむとおり、頭が回らないせいで世に仇なす悪党どもが多いからね。もともと半チクな一生を、さらに半チクにして終わるという情けなさだ。な、寺田」
「はあ。しかし世間から見れば、ワシらも迷惑な悪党どもですよ」
「たしかにな。―しかし、神無月くん、八カ月余りも、よく友だちの面倒をみたね。感服した。たとえ肉親でも、できることじゃない」


         九十二   

 床の間の細長い壺に、私の知らない白い花が束ねて無造作に差しこんである。花のすぐ脇が丸い雪見になっていた。雪見の外は真っ黒い夜だった。雪見の外の世界と、彼らのいるこちらの世界はまったく別のものだった。夜が押してくるのと同じ重い質量が、彼らを囲む部屋の明るさの中に詰まっていた。私はワカの温和な顔を見ているうちに、尊敬の念が細胞の隅々にまで沁みわたり、全身を浸していくのを感じた。
「それは、何の花ですか」
「うん? さあ、知らないな。壺は唐津だが。花に縁ある男じゃないんでね。そうだ、これをあげようと思ってた」
 彼は違い棚に手を伸ばして、用意してあったらしい本を取り上げると、光夫さんに手渡した。光夫さんはそれをわざわざ私の前まで持ってきて差し出した。高校生用の使い古しの日本史の参考書だった。
「書きこみや線引きがあって申し訳ないが、私の思い出の品だ」
 ぺらぺらやった。どのページにもまめまめしく赤線が引いてある。
「社会は不得意なんです」
「ヤスからそう聞いてね。そんなことまでこいつはちゃんと覚えていて、私に教えたんだよ。きみのことが気がかりなんだね」
「ありがとうございます」
 私は一礼し、それから康男に微笑みかけて、参考書をカバンにしまった。
「不得意とわかっていても、一所懸命やるのはいいことだよ」
「ワカは、神無月くんのように、勉強でも努力する人なんですよ。中央大学の法科を出たことは、いつか病院で話したと思いますが、なかなか入れる大学ではありません」
 光夫さんが静かな声で言った。ワカは素朴に照れ笑いをした。教育と生業とのアンバランスのせいで、ワカはあらためて奇妙な毛色の人物に見えた。
「康男から聞いたところだと、きみのお母さんは、えらく教育熱心なかたで、男は頭だというのが口癖だそうだね。それで、野球のスカウトを追い返して、きみの進む道を妨害してしまった……。ひとくさり言わせてもらうよ。もしきみの野球に対する情熱が、野球がなければ夜も日も明けないというほどのものなら、ほんとに野球がそこまで好きなのなら、スカウトがきたとき、泣いても叫んでもお母さんを説得するはずだ。どこかで自分の才能を恃(たの)む気持ちが強すぎたんじゃないかな。ここでじゃまをされても、いつかだれかが救い上げてくれる―そんなふうに自惚れていたんじゃないのかな。うまくいかないときは泣き叫ばないと、人は認めてくれないよ。そこがきみの至らないところだった。お母さんにも至らないところがあって、それは、男は頭だと思っているところだね。男も女も肝心なのは頭じゃない。心だ。頭が及ばないところで働く心なんだよ。ほんとうの知性というのは、それだ。それさえあれば、野球をしようと、学問をしようと、関係ないんだ。きみの心は一級品だ。だからお母さんは、きみがどちらを選ぼうと賛成すべきだった。きみの至らなさは、ある種の表現不足からきていて、人に害を与えるものではないが、お母さんの至らなさは明らかにきみの前途を妨害するもので、その罪は重い。しかし、その罪を招いたのはきみの消極性なのだから、お母さんを責めるわけにはいかないよ」
 ワカの言葉は精神を語るようにできているようだった。私はこれまで、ヤクザの中にもインテリがいるなどと一度も考えたことはなく、その世界に棲んでいるのは、知性などには価値を置かない根っからの無頼漢だと思っていた。私は感動した。ワカは私の紅潮した頬を眺めながら安堵の表情をして、
「きみはダイアモンドの心を持ってるようだ。野球とか、勉学とか、そういった単一のもので輝くレベルじゃない。人に影響を与え、人を揺すぶる、高いレベルの心だ。友人を愛し、女を愛する。それは簡単なことじゃない。ほとんどの人が一生できないことだ。きみは、そうやって思いどおりに生きていけばいい。失敗の多い人生になるよ。裏切られて、見かぎられて、捨てられるというような人生になるよ。でも決してその心を捨てちゃいけない」
「はい」
 なぜか涙が流れて、私は頬を拭った。
「俺は裏切らんで」
 康男が言った。若頭はアハハと笑い、
「おまえもダイアモンドだからね」
 と言った。光夫さんが微笑しながら一連の掛け合いを眺めていた。
 襖の向こうに、ドスの利いた声がした。あとで顔を出してくれとワカに言われた男の声だった。
「食事はこちらでいたしますか」
 あとでこいというのは、御用聞きにこいという意味だったようだ。
「神無月くん、腹へってるか」
「へってます」
「じゃ食い物を神無月くんに。ワシらには酒とつまみをあつらえてや」
「は」
 光夫さんは私に座布団を勧め、頭を下げた。
「あんたの面倒見のおかげで、これもめでたく退院できました。つまらない人間一匹救うために、あんたは相当な犠牲を払ってしまったようですね。感謝のしようもありません。ワシどもを必要とするときは、いつでも力をお貸ししますよ」
「いや、ミツさん、神無月くんに私たちは必要ないよ。遠く離れていく人だ。彼が面倒ごとに落ちたとしても、必要なのは私たちが貸せる力とは別種のものだろう」
「……そうですね」
「神無月くん、刺身でもつままんか。それとも、やっぱりめしのほうがいいか」
「両方いただきます」
 ワカは光夫さんと顔を見合わせて笑った。
「入ります」
 襖が静かに開き、案内役がかなり年配の男と盆を持って入ってきた。見るとその年配の組員は、あの夜ボンに小便をかけた一文字眉の男だった。彼はギターケースも提げていた。若衆の盆の上には、酒の銚子が四、五本、一文字眉の盆には刺身の盛り合わせを主に、天ぷら、煮しめ、茶碗蒸し、冷奴、アラ汁と、大盛りの一膳めしが載っていた。冷奴の上には鰹節がかかっていた。彼らに向けるワカの視線から、私は彼がつねづね下の者によくしてやっている雰囲気を感じ取った。一文字眉はギターケースを光夫さんに渡し、ごゆっくり、と畳にこぶしをつくと、若者を促しながら敷居まで下がって襖を閉めた。
「ミツさん、まあ一杯いきなさい」
 ワカは、ふたたび自分の脇に胡坐をかいた光夫さんに盃を与え、酒を注いだ。
「ほう、これはうまいですね」
「うん、広島の地酒だ。香りが高くて、いいものだよ」
「俺も、もらってええか」
 康男が光夫さんに尋く。
「ああ、食え。ほれ、皿と醤油だ」
「刺身でにゃあ、その酒やが」
「ああ、いいぞ」
 ワカが徳利を持ち上げると、康男はいざっていって、与えられた大振りの猪口に受けた。グッと飲み、
「うまいかどうか、ようわからんわ」
 ワカは微笑し、
「強いね。でもだめだよ、ちびちびやらなくちゃ。斗酒なお辞せずというのは趣がない。暴飲は徳ならず。酒は味わって飲まなけりゃね。まだ子供には酒のコクはわからないよ」
 光男さんがケースを開けてギターを取り出した。柔らかいタッチで弾きはじめる。美しい曲だった。


「それは何という曲ですか?」
「タレガの『ラグリマ』。涙という意味だ。アルハンブラも彼が作曲した」
 ワカは康男をテーブルに呼び寄せ、小皿に自分の刺身を盛り分けた。
「神無月くん、遠慮しないで食べなさい。わさびを切身に載せるのが近ごろオツらしいが、私は醤油に溶いて食うほうがうまい。それからマグロはトロよりも赤身がうまい。いずれにしても好みだが、自分の好みに嘘はつけない」
 彼は光夫さんの猪口に銚子を傾けた。そして、さりげなく二人の少年の様子を窺っていた。康男は醤油をつけずに切身を口に放りこみ、私はわさびを醤油に溶いて、赤身を食べた。それから次々と箸をつけていき、めしを掻きこんだ。
 光夫さんは徳利を手に取り、ワカの大きな猪口についだ。一口すすった。それから煙草をくゆらせながら、雪見を開けて外の夜を眺めた。
「ところで、神無月くん、ひとつ、個人的な質問をさせてもらうが……いまのような暮らし方をしているのは、自分に似合わないと思わないかい」
 心の底まで見とおすように、じっと私の顔を見つめた。
「いまのような?」
「偉そうなことを言えた義理じゃないが、きみはこのところ勉強や野球ををサボってないか? 人まねをして生きていないか?」
「まねはしていないと思います。康男のまねをして生きたかったことはありますが、まねそのものができませんでした。康男は偉大ですから」
「そうか、それならいい。きみと寺田の弟は、成り立ちがちがうんだからね。成り立ちというのは重要だ。たとえば、数は多くないが、うちにも、ヤクザの成り立ちがないのにヤクザをしている組員もいる。芯の強さと、自分の役回りに対する自信が不足しているせいで、命令したり、禁止したり、強要したりすることがまったくできないやつがいる。そういうやつは、下っ端に甘んじるしかない。……ヤスには、彼なりの生き方がある。きみにはきみなりの生き方がある。きみを重んじて引き上げる人もいれば、ヤスを重んじて引き上げる人もいる。その人間に見合った手づるというものが、かならずある。それが成り立ちだ。まねをせずに尊重し合って生きればいい」
「はい」
「ええやつやで、神無月は。俺は、一生面倒見たるつもりや」
「おまえの志はそれでいい。しかし、軽々しくものを言わんようにな。先はどうなるかわからんのやから」
 康男は不満げにうなだれ、
「もう一杯いただきます」
 と言って、自分で二杯目の酒を猪口につぎ、思い切り喉の奥へ流しこんだ。康男の顔が歪んだ。私は康男に苦しく笑いかけた。そして、自分が康男でありたいと願っていたころの物思いから、微妙に遠ざかりはじめたことを告白しようとしてもだえた。ワカが言った。
「つまらないこと言って、すまなかったね。きみたちの友情にケチをつけたわけじゃないんだよ」
「そんなふうには受け取りませんでした。ただぼくは……好きな人間以外と暮らしていけないんです。好きな人間と世界じゅうで独りきりと言うか、好きな人間のおかげであらゆるものを観察する瞳を得たという自覚からすると、それは孤独というよりも排斥に近いものです」
「神無月、おまえ、おかしいぞ」
 ワカが、
「いや、おかしくないよ、ヤス。これほどの人間であることを私は見損なっていた。そのオトコに惚れられたヤスの価値も見損なっていた。神無月くんはね、おまえのことが好きでしょうがないから、まねと見られようとそうでなかろうと、いっしょに生きていきたいと言っとるんだ」
「血迷っとるわ。俺みたいなカスと。俺は神無月を護ったるだけや」
「強がり言うな。いっしょじゃないと護れないだろう」
 パンパンとワカがカシワ手を打った。襖が開いた。
「座敷に執行委員以上を集めなさい。神無月くんという侠(おとこ)の顔を覚えてもらう」
「は」
 笑っているような明るい返事だった。光夫さんが、
「三顧の礼ですね」
「そうや。この子はまぎれもないオトコだ。そう思わないか、ミツさん」
「はい、オトコですよ。手離したくないだろ、なあ、康男」
「おお、あたりまえや。だれが見たってわかっとることを言いやがって」
 私は目を挙げて、両脚を投げ出している康男を見た。赤く目を潤ませて、やさしく微笑んでいた。
 光夫さんが立っていって、私と弟に扇風機の首を向けた。
 やがて案内役に数十畳の大座敷に導かれ、紋章の前の首座の場所に、ワカと光夫さんと康男といっしょに立たされた。三十人以上の男たちがずらりと整列して正対した。ワカが、
「集まってもらったのはほかでもない。一人のオトコの顔をしっかり覚えてもらうためだ。一目見てわかるね、神無月くんだ。彼のオトコたる理由もわかるね。おまえたち、たとえば一週間、あらゆる義務をこなしたうえで、一人の人間の見舞いにかよえるか」
 どよめきが起こった。
「危篤の親族の死に目が長引いたというならわからんでもない。それでも八カ月は無理だ。神無月くんは寺田副会長の弟寺田康男を永遠の友と心酔し、雨の日も風の日も八カ月と十日かよいつづけた」
 どよめきがさらに大きくなった。
「十五歳という年齢に瞠目してくれ。末恐ろしい。彼こそ侠客、オトコだ。今後は彼の危急存亡を見つめ、ことあるときは、できるかぎりの援助を惜しまない。この顔をしっかり覚えてくれ。彼に惚れられた寺田康男の顔もな。三度訪ねて平伏の礼を尽くすことは、カタギの巷では物理的にできない。たまたま我が家に迎えたこの好機に、端座し、深く叩頭を捧げる」
「オー!」
 ザザザと全員正座し、光夫さんが叫んだ。
「末永くよろしゅうお願いします!」
 ワカと光夫さんが直角にからだを折ると、組員たちもガバと平伏し、
「末永くよろしゅうお願いします!」
 数秒静止した。私と康男はわけがわからず、ぎこちなく辞儀をした。


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