百一

 朝、食卓で浅野が言った。
「きょうは部室からユニフォームを持って帰ってこい。あしたは本城中との練習試合だろ。洗濯しとかんといかん」 
「はい」
 野球か……なぜか胸が躍らない。ホームラン、スカウト、中日ドラゴンズ、そんなものはもうどうでもいい。いつかプロ野球選手になるのだという夢はまだ捨ててはいないけれども、それが人生でいちばん重要なものに思えなくなった。
 通りを歩いている自由な人びとと自分を比べるにつけ、どこかへ逃げていきたいという激しい思いに何度も襲われる。ときどきカズちゃんへの狂ったような慕情に駆られ、それを苦しくあきらめるたびに、そんなふうに気弱く生きている自分に深い嫌悪を感じた。
 結局、あのころがいちばんよかったのかもしれない。野辺地の祖父母に護られ、母を待ちこがれながら暮らしていたころ。母子で片づけなければいけない問題を抱えながら、もう一度共生するために二人で牽き合っていたころだ。都会への旅を始め、彼女の手からはぐれ、われに返ると、深い森にいた。いまここにいるのは抜け殻で、ほんとうの私は殻から脱(ぬ)け出して、なつかしい空の下へ戻っていったのかもしれない。でも、私には、その戻っていった自分がだれだかわからない。あのころでさえ、私は自分がだれだかわからなかった。
 浅野と寄り添うように教室に入ってきた私を見て、クラスメイトたちはオッとからだを引いた。彼は私を自分の脇に立たせ、片手を親しげに私の肩に置くと、晴ればれと教室を見回して言った。
「あしたは本城中との練習試合だ。神無月をエールで送ろう」
 練習試合ごときのためになぜ浅野がそんなことをするのかわからなかった。教室のみんなもそういう表情をしていた。康男は微笑を浮かべながら、いつものように目をすがめている。私のわけありの事情を知っている加藤雅江は、少し引きつった表情で浅野の振舞いを見つめていた。浅野は手旗のような格好をして、
「フレー フレー カ、ン、ナ、ヅキ!」
 と張り上げた。みんな浅野に声を合わせた。康男と雅江は何も言わずに、じっと私を見ていた。私がそこにそうして何食わぬ顔で立っていて、いったい何を考えているのだろうと観察している目だった。私は、わざとみんなに感謝するようなお辞儀をし、
「がんばってきます」
 と頭を掻いてみせた。その行為自体われながら不可解だったし、自分の全存在を揺すぶるほどのやましさがあったけれども、なぜか、からだが自然に反応したのだった。康男のいたわるような静かな視線が目の底にこびりついた。加藤雅江と同様、彼にも私の状況がよくわかっていた。私は笑いながら自分の席に着いた。
 その日も浅野といっしょに帰った。彼はさわやかな顔をしていた。
「おまえにとって、野球とは何だ」
 平凡な質問をする。
「命でした」
 平凡な答えを返した。
「野球を失ったら、死のうと思ってたわけだ」
「はい。そのつもりで生きてきたけど、やっぱり人間のためにしか死ねないなァ」
「俺は、何のためにも死ねんな。自分のためにもな。神経衰弱にでもならんかぎり」
「命がそれほど貴重なものですかね。この数年で、命イコール野球が、命イコール人間にすり替わったわけだけど、それは、より貴重な命のために、より低劣な命は捨てられると気づいたからです。野球は劣等な命よりも貴重なものではないですからね。とすると、野球選手になれてもなれなくても、大差ないな」
「命に低劣とか高級とかいう差があるのか」
「ありますね。愛にあふれた人の命のほうが、そうでない人の命より高級です」
 一瞬浅野は考えこんだ。
「おまえと話してると、学生時代に戻ったような気がするよ。とことんおまえは頭がいいな。ほんとに十五歳か」
 ユニフォームは裏庭で、浅野の母親が盥に漬けて揉み洗いした。私は彼女のそばにしゃがんで、小盥でアンダーシャツとストッキングを洗い、今回は帽子もタワシでこすって汗の塩を落とした。
         †
「たっぷり食っとけ。試合開始は十時だったな」
 朝から浅野は上機嫌だった。笠寺球場に応援にいくと言うのだ。機嫌のいい浅野は、それほど悪い人間に見えない。朝食をしたため、ユニフォームを着、スパイクを履き、タイガーバットを担いで表に出る。
 八時。涼しい風が吹きはじめている。ユニフォームがからだを包んでいると感じたとたん、いつものように心はグランドへ飛んでいく。野球にあまり胸躍らなくなったとはいえ、ユニフォームのベルトを締め、野球帽をかぶり、バットを手にすると、グランドの両翼が思い浮かんで、胸いっぱい呼吸したくなり、自然と高ぶった気分になる。きょうは浅野と二人で歩くことがあまり気にならない。
「ええ男やなあ。プロ野球にそんな美男子、おらんぞ」
 浅野の買った切符で国鉄の改札を入り、ホームに立つ。単独のユニフォーム姿がめずらしいのか、乗客が好奇の目で見る。浅野は背広を着ている。日曜の電車は座席を取れるほどゆったりしていて、彼とからだが接触することもなく快適だ。
 熱田駅から伏見通りの坂を上って宮中へ。和田先生はじめ、みんな集合していた。
「おや、浅野さん、きょうは?」
「私も笠寺へいきます。たまには応援せんとね。神無月のホームランも見たいし。ベンチに入れてくださいよ」
「どうぞ、どうぞ」
 教師二人が肩を並べて歩きだす。みんなでぞろぞろ名鉄神宮前に向かう。デブシが寄ってきた。
「あの球場でホームランを打てるのは、神無月だけや。一本頼むで」
「あれはマグレだったからなあ。下から浮いていく打球だったよね」
「おお、よう憶えとる。ああいう弾道は見たことがないわ」
 名鉄に乗って、熱田神宮前の三つ向こうの本笠寺までいく。隣に座った浅野が話しかけてくる。
「今年は、記録はだめだったんだな」
「はい、ベストエイトで終わってしまいましたから」
「おまえは大したやつだけど、俗に言う器用貧乏だから、大成の一本道はなかなか見つからんと思うぞ。つまらない脇道が、ごっそりなくなっちまえばいいんだが……。道は一本でいいんだよ。勉強だけとか、スポーツだけとか、寺田みたいに侠(おとこ)気だけとかな」
 松坂屋でのクマさんの言葉を思い出した。実際のところ、人に言われるのとちがって、私は自分のことを多才でも何でもない無能な人間だと判断していた。だから、この数年で急に自分が野球以外の方面でとり上げられ、評価されるようになったことに、気味の悪い違和感を覚えていた。いつのころからか、何かが大きく逸れてしまった。高く評価されたり、過大な期待を寄せられたりするのは、たしかに居心地がいい。でもその居心地のよさは大きな誤解に基づいている。いま私が浅野と歩かなければならないことも、その誤解のつづきにある。
 跨線橋の上にある本笠寺駅で降りた。三面のホームしかなく、野辺地駅ほどの大きさだった。新幹線の開通に合わせてこの一年で改築したらしく、タイル貼りの真新しい駅舎になっていた。百メートルほど歩いた。
 二度目の笠寺球場―架設スタンドの切れ目から見える樹々の緑も、空の青さも、二年前と同じように目にしみるばかりだ。硬式野球用グランド。両翼九十メートル。外野の塀に沿って十メートルの高さのネットが張られている。ホームランを打つのは至難の業だと言われたこの球場で、私はネットの向こうの民家に、中学生となって初めてのホームランを打ちこんだ。右投げに変えた直後だった。見物していた人の掌に当たったボールが屋根を転がった。そのときの様子が鮮やかに浮かんでくる。きょうも見物人がちらほら屋根に坐っている。あそこへもう一度ホームランを打ちたい。和田先生が言った。
「ネットを越える必要はないんだぞ。コンクリートのフェンスを越えてネットに当たればホームランだ。岡田先生の話だと、二年前、金太郎さんはネットを越えたそうだな。そりゃ見ものだったろう」
「そうなんですか!」
 浅野がうーんとうなった。
「尋常な飛距離じゃないんですよ」
 補欠を含めて十四人の選手がベンチに入った。私はレギュラーメンバー九人の名前を記憶に留めようとした。関、中村、高須、大島、御手洗、高田、野津……。それどころか相手チームの練習風景も目に焼きつけようとした。これが最後の試合になるような気がしたからだった。
「二年前も強かったが、今年の本城は、もっと強い。ベストフォーで敗退したとはいえ、優勝候補の筆頭だったチームだ。胸を借りてこい」
 和田先生はみんなを激励すると、感傷に満ちた目で私を見つめた。彼もこれが私の最後の試合だと思っているのかもしれない。まだ練習試合が十月の半ばに一つ予定されているのに、またこの先、私が高校に進んで野球をやるかもしれないのに、そうして、いまよりも重く用いられて、いずれプロ野球で活躍する選手になるかもしれないのに、きょうの試合をかぎりに、私が永遠に野球と別れていくのを心から惜しむような、さびしい目をしていた。
「金太郎、ホームランを見せてくれよ。いくら練習試合でも、どこにスカウトが目を光らせてるかわからんぞ」
「はい!」
 強くうなずき、和田先生と微笑み交わした。
 初回に三塁打で出た関を、芝原が外野フライで返した。大曽根が二遊間の内野安打で出、私の当たりそこないのライト前ヒットで、一、二塁になった。デブシのバントでそれぞれ進塁する……。私は二塁ベース上に立って、両手を腰に当て、上空を眺めた。
 記憶がそこでストンと途切れ、私は最終七回の表の打席に立っている。それが何打席目なのか、そこまで何本ヒットを打ったのかも憶えていない。ホームランは打っていなかった。両チームの選手たちが怒鳴ったり、野次ったりしながら、そこまで試合が進んできたはずなのに、私は魔法にかかったように最終回までの記憶を失って、バッターボックスに凍りついている。
 新人がピンチランナーで二塁にいたことを思い出す。ワンアウトだった。得点は六対五で負けていた。ホームランを打って終わりたいと思った。バットとボールとのミートの一点をイメージする。膝頭がふるえた。チームメートたちの目に、私はひどく引き締まって力強く、落ち着いていて、何の緊張もないように映るだろう。膝のふるえなど見えるはずもなく、遠くから眺める私の姿は長嶋や王のような天才打者を髣髴とさせるだろう。
 本城のピッチャーはバネがありそうだったけれども、ボールは速くなかった。遅いボールは反撥が弱いので飛びにくい。ホームランは無理かもしれない。とにかくジャストミート、手首を利かせることだけ考えよう。 初球、ショートバウンドのボール、二球目、どろんとした外角の球がキャッチャーミットに吸いこまれる。ストライク。三球目、ライト側への大きなファール。力みすぎてぶざまなスイングだ。金太郎、金太郎、と関が叫んでいる。四球目、膝もとにきた低目のボールにバットを強く振り出し、思い切り手首を絞りこんだ。すべての動作がよどみなく連動し、よじったゴムがもとに戻るようにからだが回転した。二年前よりも低い弾道でボールが舞い上がった。
「いったー!」
 和田先生の大声が聞こえた。浅野の声がつづく。
「入れ、入れー!」
 ベンチがいっせいにわめいた。ボールはぐんぐん伸びてセンターの頭上を越え、十メートルのネットに突き刺さった。この三年間で打った中でいちばん大きいホームランだった。本城のベンチから感嘆のどよめきが上がった。勝ち越しのベースを回る。全員がホームに駆け出して迎えた。
「やった、やった、やった!」
 どうしてみんなの顔が涙に歪んでいるのだろう。彼らも私の運命を予感しているのだろうか。加藤雅江が言ったように、私の顔が悲しくできているからだろうか。和田先生の目は真っ赤だった。このときこそ、私は野球人生のクライマックスにあった。そして、これほど心から人びとに祝福されるような幸運な瞬間は、その後二度と訪れないだろうと思った。二度も私を追跡したあの押美という名の情熱的なスカウトは、もちろんもう訪ねてこなかったし、ほかの高校から勧誘話がもち上がるということもなかった。
 きっと、人の仕事というものはきちんと手順が決まっていて、少しでもそこから逸れたり、妨げられたりすると、計画の歯車が狂い、すべてを白紙に戻さなければならなくなるのだろう。押美さんにしても、母に再三追い返されることで気力をなくしたか、手順のまずさを上から責められるか何かして、スカウトの職そのものを失ったのかもしれない。
 いずれにせよ、私の最後のホームランは輝かしい未来を約束してはくれず、六年間の野球生活の墓標になるものと思われた。不幸にめげずに鍛え上げた右肩も、いつも遠くへ飛んだホームランボールも、いきあたりばったりの周囲の人びとの賛嘆を得るだけの語り草になり、自分を慰めるだけの思い出になるだろうと私は確信していた。
 そうして、長い野球の休止期間に入った。


         百二

 十月。法師ゼミが鳴き、朝夕冷たい風が立つようになった。四日の日曜日に第四回の中部統一模試があった。惨憺たるできだった。浅野の古机で少しばかり勉強の情熱を取り戻したとはいえ、各科目が難しくなる時期に病院がよいを重ねたせいで、教師たちの話に耳を傾けても何を言っているのか細かいところがよくわからなくなってきた。そのわからないことに深く切りこんだり、持ち合わせている知識をこき雑ぜて検討してみたりするというファイトも起きてこない。たしかに今回の不出来は、そういう怠惰が招いた結果にはちがいないけれど、あれほどの好成績を収めてきた自分が、なんとなく見くだしていた級友たちに遅れをとりはじめたと思うと、さすがに居たたまれなかった。しかし、これが野球小僧の本来の姿なのだ。
 試験を終えて戻ると、炭屋の前にクラウンが停まっているのが目に入った。私はいっぺんに憂鬱が吹き飛ぶ思いで引き戸を開けた。奥の居間の敷居にクマさんが腰を下ろし、うまそうに煙草を吹かしていた。浅野の家族全員が愛想笑いをしながら相手をしている。
「クマさん! どうしたの」
「いや、母ちゃんが様子を見にいきたいって言うからさ。どうだ、頭休めに、きょうは外でめしでも食って息抜きするか。先生も、ぜひそうしろと言うしな」
 彼は私の顔色を慎重に窺うような言い方をした。いつものクマさんらしくなく母に気を差していた。
「あいつもきたの?」
「そりゃそうだ。言い出しっぺだもんな」 
「房ちゃんと赤ん坊は?」
「元気で留守番だ。キョウ、おまえ、気回しすぎだぞ」
 奥の便所から母が手を拭いながら出てきたのを、私は不潔なものを見る眼で眺めた。
「みんないってきなさいって言ってくれてね」
 笑った顔などほとんど見せることのない母が、皺ばんだ目もとをゆるめた。追放の申し渡し人のくせに、余儀なく託児所にでも預けたわが子に会いにきた格好だ。浅野のハンバーグ顔が上機嫌にふくらんだ。
「なんなら、向こうに泊まってきてもいいぞ」
 うっとうしい心遣いに怒りを覚えた。
「お母さんも、苦労なさったんでしょう」
 浅野の母親の紋切りの言葉に、
「身も心もくたくたですよ」
 と母は応えて自分の指先をさすった。私は、反対給付がなければ母が何もくれないことを知っていた。第一の給付は、従順だった。〈更生〉するだけでは足りなかった。たしかに母は執拗に息子の正しい軌道への復帰を望んでいたけれども、たとえ復帰したとしても、国際ホテルや浅間下のときのように、彼女への愛情を伴った従順さがなければ、自分といっしょの生活に戻ることを望んでいなことが私にはよくわかっていた。
「やっぱり勉強します。きょうの中統もひどかったんで」
 母の顔が一瞬上気し、クマさんはうれしそうにうつむいた。私には、浅野の部屋の机のほうが、彼女とめしを食うテーブルよりずっと好ましい場所に思われた。
「じゃ、キョウ、しっかりやれよ。なんでこんな暮らしをしなくちゃいけないのか俺にもわからんが、親じゃないんで、かっさらっていくわけにもいかんからな。しばらく辛抱しろ」
 クマさんはいまにも笑い出しそうな顔で言った。
「もう、慣れたよ」
「慣れるな。早く帰ってこい。レコード、少し持ってきたからな。その親切そうなあんちゃんに聴かせてもらえ。キョウ、だれが何と言おうと、俺はおまえの味方だ。おまえは人よりカボチャがいいから、わかってもらえないこともたくさん出てくる。そのカボチャでごちゃごちゃ考えるかもしれんが、ぜんぶまとめて呑みこんでしまえ」
 いつものクマさんに戻って言った。タケオさんを除いた家族全員が笑いを納めて、深刻そうに黙りこんだ。母は深く頭を下げると、浅野に見送られて玄関を出、うつむいたまま助手席に乗りこんだ。なつかしい人間と、目を合わせたくない人間とを二人並べてぼんやり眺めた。クマさんから切り離されて、私は孤児のように独りぼっちだった。クマさんが笑顔を残して走り去った。
 夜中に、自分のものではない声で目が覚めた。ヘアネットの浅野が丸くなり、身をよじりながらうなされている。
「クスミ先生……」
 私はあらためて彼の悩みの深さを知った。自分が、この顔に傷のある威勢のいい慈善家がうなされるほどの重荷になっているとはっきりわかり、行き場のない気分になった。
         † 
 いつまで経っても、私を飯場に返す話は持ち上がらなかった。私は中学生らしく勉強や野球にかまけながら、級友たちと素朴な風景の中で生きている自分を腑甲斐なく思いはじめた。いつもカズちゃんのことが頭にあった。練習試合の朝以来、浅野が登下校の道についてくることはなくなったので、連絡をするチャンスはいくらもあった。しかし、予想もしないよくないことが起こりそうで、どうしても電話をする勇気が湧いてこないのだった。
 最近の康男は、何かの予定に追われるように、午前中の授業を終えるとこっそりと帰っていく。一日学校に出てこないこともある。その日も康男は、昼休みに帰り支度をしていた。近寄っていくと、私を目で廊下に誘って、
「神無月、きょうで俺、退学や」
 と微笑みかけた。
「浅野から聞いた。転校するって」
「おう。港区のほうの中学らしいわ」
「ぜんぶ、ぼくのせいだ」
「何言っとる。俺はせいせいしとるんや。このまま中学なんかやめちまいたいけど、兄ちゃんが許さんでよ。転校しても、あのアパートにおる。なんかあったら、こい」
「うん。ぼくも転校させられるかもしれないね」
「……俺でケリがついた。心配せんでええ。ずっと野球をつづけろよ。高校いってもな」
「うん。康男は、高校は?」
「そんなものいくか。俺はヤクザになるんやで。中学出たら松葉の端(はし)や。この足じゃ大した働きはできんけどな。ほんとになんかあったら、アパートにこいよ。おまえは俺の一生のダチだでな。忘れんなよ」
「わかってる」
 康男は東海橋のたもとから去っていくときと同じように、振り返りもせずに、足を引きずりながら階段を下りていった。くだらない連中につくづく愛想をつかしたという背中だった。
 その日も私は、野球部の練習を終えたあと、御陵の坂道をだれにも強いられずに歩いていった。三年生でこの時期に、まだ毎日ボールをいじっているのは私とデブシぐらいで、関や大島たちは、そろそろ受験勉強に関心が移って、ほとんど出てこない。練習試合もあと一つ残っているだけだし、二年生中心に活気の出はじめたグランドに無理に顔を出す必要もないのだ。
 あれほど活躍をほしいままにしてきた野球選手の自分が、こんな不毛な野球の日々を送っていることが信じられなかった。ワカは私と対面してすぐ、そのするどい直観で、きみは野球をほんとうに愛していないのではないか、と意見した。野球をしないで終わる日なんか一日もないのに、野球を愛していないということがあり得るのだろうか、と私は思った。そして、たまたま野球以外のことに関心が向いたからといって、野球なしでは暮らせなかった生活が崩れたということになるのだろうか、と私は思った。彼は母の悪罵に耐えたあと、私を玄関に送り出しながら、あれは失言だったと謝罪した。
 ワカの直観は正しかったかもしれない。その証拠に、きょうも教室じゅうが王貞治の五十五本のホームランの話題で持ちきりだったのに、私は何の興味も示さなかったではないか。私の心の中心には、もう野球はいないのかもしれない。
 カズちゃんの声を聞きたい。一日じゅう、その思いが心の中で囁いていた。坂道のふもとの十字路の先に熱田駅の電話ボックスが見える。あそこから電話をしようか。カズちゃんは私からの連絡を心待ちにしているはずだ。ここから引き返し、思い切って、鶴田荘へいってみようか。いや、好んで墓穴を掘る必要はない。
 駅前の電話ボックスを避けるように、山本法子の横丁へ入り、しばらく歩いていく。ノアの青い看板が灯っている。丸窓に人影はない。山本法子はどうしているだろうか。神宮日活の軒に、裕次郎の深刻そうな顔が掛かっている。彼らしくない顔だ。赤いハンカチ。くだらない題名だ。踏切に出る。この踏切を渡って、あの坂を何百回登ったことだろう。もう用のない坂だ。
 小路を引き返して熱田駅前に戻る。あのボックスから電話をかければ、カズちゃんがここまで走ってくるかもしれない。彼女の声を耳に反芻する。
 ―やめよう。たとえ電話して、運よく彼女がいて何か話すことができたとしても、二人の状況が変化するわけではない。愛情の確認はもうじゅうぶんにすんでいる。
 熱田駅に入った。待合室に光が遍満していた。ベンチに腰を下ろすと、構内へトンボが入りこんできた。高い天井の蛍光灯にぶつかりながら飛んでいる。ぼんやりと遠く明るんでいる伏見通りの坂道を見やった。ついさっきまで、あれこれと思い悩んでいた自分がおかしかった。
 乗客に押されて、いつもの連結板のほうへ追いやられた。電車が動き出し、席を占領できた人たちは窓を開け、満足そうに髪を風に払わせながら、青みがかった街の景色を眺めていた。私は自分の眼に、禁欲的で、強く美しい光があるように感じた。その光の正体をいますぐカズちゃんに伝えたいと思った。それを伝えることができれば、彼女は二人の愛の清潔であることに感激して、心もからだも超越した永遠の愛をあらためて誓うだろう。そしてその愛は、何の不安も、障害もなくつづいていくだろう。
 名古屋駅の表口に出た。満ち足りた思いを抱いて、いつもより長い時間歩きたい気分だった。市電通りに生暖かい風が吹いている。私は棒切れを拾い、中央郵便局の板塀をカタカタなぞりながら歩いていった。棒を捨て、亀島のほうへ折れる。しばらく自分の足音の反響を聴いていた。こんなふうに浅野の家に戻っていこうとする習慣を不思議に感じた。
 ふと、自分の足音に別の足音が混じっていることに気づいた。足を止めた。後ろの足音もやんだ。ふたたび歩きはじめると、後ろの足音もつづいた。
 ―カズちゃん?
 いや、そんなはずはない。カズちゃんは飯場にいる。竹垣に囲まれた民家の門口が見える。私はそれに向かって足を速めた。加藤雅江にしてはついてくる足音が早すぎる。ノラの道で私を見かけて追ってきたとすると、山本法子か。いや、彼女は店の手伝いで忙しいはずだ。予想がつかない。
 門柱の陰に身をひそめて待ちながら、私はいやな予感にふるえた。そそくさと追ってくる人影の前に、私は立ちはだかった。節子だった! 彼女はひるんで逃げ腰になったが、私が何も言わないのを認めると、甘えた声を上げて私の胸に飛びこんできた。
「ごめんなさい。……どうしても会いたかったの。ヤッちゃんから聞いたわ。無理やり下宿させられてるって。どんなお家にいるのか、確かめておきたかったの」
「どうしてあの電車に乗るってわかったんだ」
 私は、かつて一瞬でも恋心を抱いた女に苛立っていた。不思議な心の変化だった。カズちゃん以外の女の肉体の予感に苛立つのだ。
「ここのところ早番だったから、宮中の正門で何日も待ってたの。きょう、とうとう門から出てくるのを見つけて……」
「あとをつけてきたのか」
「そう。お家を見たら、すぐ帰るわ」
 私を見上げる節子の顔に生気があふれ、唇から白い歯を輝かせた。彼女は意識してその輝きを隠そうとしたが、隠しきれない喜びが自然に唇を開かせた。私は不安に怯えながら肩を並べて浅野の家のほうへ歩いていった。
「ほら、あの看板がぶら下がっている家、あそこに下宿してるんだ。もういいだろ」
 節子はとつぜん私に抱きつき、唇を求めた。私は仕方なく唇を吸った。心の中でカズちゃんに大声で言い訳していた。
 ―こうしないと帰らないんだ!
「さ、もうほんとに、帰りなよ」
「ペンダント、持ってる?」
「……机の引き出しに入れてる」
「アワ・ラブ・イズ・フォーエバー」
 節子は首の鎖を示した。苦々しい気分だった。
「さびしくなったら、これを見て私を思い出してね」
「うん。もういくよ。いつも浅野が目を光らせてるから。どこから見てるかわからない」
 節子は首の鎖をいじりながら、さびしそうに微笑んだ。浅野の家の看板が見えていた。節子は街灯の届かない物陰に私を引いていき、もう一度口づけを求めた。
 ―一度抱いてしまった女。その責めは徹底して負わなければならないのかもしれない。そうなの? カズちゃん! どうしてここにいてくれないの!
 疑問と苛立ちの極みの中で私は唇を合わせた。口づけをしながら考えていることは、ただ一つ、カズちゃんにすまないということだけだった。そのときだった。
「おまえら、何やっとんだ!」
 がつがつと地面を削る靴の音がした。肩を怒らせた丸いからだが街灯の下をよぎってこちらに近づいてくる。私はあわてて節子から跳び離れた。
「おまえというやつは、どうしてもこんなざまになるのか。神無月! おまえ、何考えとんだ。だれだその女は?」
 節子は前に進み出て、自分のからだの陰に私を隠すようにして立った。
「離れろ! 離れてこっちへきなさい!」
 何もかも終わりだと思った。節子はあとに退かなかった。
「すみません、私が勝手にあとを追ってきて。キョウちゃんには何の罪もないんです」
 私もひとこと言おうと思ったが、浅野みたいな直情の男に説明するようなひと欠けらの言葉も持っていなかった。
「なんだか知らんが、あんた、顔貸してもらうぞ。神無月は先に帰っとれ!」
 いったいこの連中の生活と私の行動に、何の関係があるのだろう。なぜこいつらはお節介を焼きたがるんだ? ぼくに絡むのは、きっとこいつらに黙殺できない理由があるからにちがいない。もしこれが、世間並の大人の男女関係であったら黙殺するはずだ。彼らは私の行動が何か特別のものだと思いこんでいる。遊びじゃないと感じている。だからこそとんでもなく面倒なことに見えるのだ。真剣な人間は面倒を引き起こす。
 節子が小さな手を後ろ手に差し伸ばして私の腕をしっかり握ったとき、とつぜん私の頭に、逃亡の決意が閃いた。私はまるで芝居の台詞でも言うように重々しく運命的な言葉をしぼり出した。
「あんたには関係ないよ。どうせぼくたちはここを出ていくんだから」
 節子が一瞬ふるえて手を離したのがわかった。なぜ? どうしたんだこの女は? 頭の中が熱くなり、彼女の恐怖の意味が明確になった。しかし、もう、金輪際、退くつもりはなかった。最後の、言い直しのきかない言葉を用意しなければならなかった。
「なんだと、きさま!」
「出ていくと言ってるだろ! もう、こんな生活は飽きあきだ。ほんとにもうたくさんなんだよ!」
 節子は蒼白い顔で振り返って、じっと私を見つめた。私は表情を変えずにカバンを浅野に向かって投げつけ、彼女の手をとって駅の方角へ走りだした。


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