百九

 翌日、私とカズちゃんの関係を知らない母は、私が遅い昼食を終えたあと、カズちゃんを監視役につけた。
「宮中へ挨拶にいってきます。五時には帰ってくるわ。買出しはしといたから、下ごしらえお願いね」
「はい」
 浅野の家に下宿して以来初めて、私はカズちゃんとノンビリ過ごした。  
「カズちゃんと逢えないまま別れることになったてたら、ずっと死んだように暮らしただろうなあ」
「かならず逢えるのよ。キョウちゃんが、節子さんの手を引いて浅野先生の前から逃げたって聞いて、さすがキョウちゃんだって思ったわ。何でもありませんてとぼけて、節子さんを追い帰して、自分だけ浅野先生のところに戻るような男だったら……そんな男だったら、私―」
「見捨ててた?」
「見捨てはしないけど、人を見る目に自信を失ってた。キョウちゃんはそういう人じゃないのよ。どうせ節子さんの押しかけで、成り行きからそうなったんでしょうから、行方がわからないって聞いてもぜんぜん心配しなかったわ。私たち二人は運命共同体だから、何も心配することはないの。行方をくらましてもいつか捜し当てるから」
「オマンコしちゃった。ごめんね」
「謝ることないのよ。ぜんぜん気にしてない。嘘じゃないわ。心はどうあれ、男のからだは信用できないものよ。夢精でさえイケる動物だもの。だから気にならないの。節子さんはちゃんとイッたの?」
「うん、何度も勝手にイッてた」
「男を愛していないと、よほど工夫してあげないかぎり女は感じないものなのよ。節子さんはキョウちゃんのことを愛してたのね。女のからだは信用できるのよ。その愛を貫けばよかったのに」
 初めて聞く理屈だった。
「節子を連れて逃げ回りながら、カズちゃんのことばかり考えてた」
「でもキョウちゃんは節子さんを裏切らなかったわ。人間として、一本、筋を通したのよ。キョウちゃんが青森に流されたと知ったら、節子さん、この先長く、悶々と後悔するにちがいないわ」
「いま、こうしてカズちゃんと話してると、この二日間何にも起こらなかったような気がする」
「起こったのよ。ふつうの人じゃ耐え切れないことがね。でもキョウちゃんは耐えたの。私がいたからということもあったでしょうけど、キョウちゃんの人間としての素質がそうさせたのね。すばらしいことだわ」
 舌を絡めたキスをした。
「カズちゃんに渡す一冊目の日記、いのちの記録、って名前をつけた。書きはじめたばかりだから、書き終えたら渡すね」
「うれしい。無理しないでね。日記って毎日書けないものよ。月記、ぐらいのつもりで書いてね。精神が自立すると、自然とつけなくなるものだし、いつやめてもいいの。そうなったら、詩とか、感想なんかを書いていけばいいわね」
「……カズちゃんは、知識といい、人間性といい、スーパーウーマンだね」
「キョウちゃんにそう言ってもらえるのは、とっても名誉なことだわ。スーパーマンのキョウちゃんと生きていく自信になる」
「ぼくがスーパーマン―」
「こんなときに、そこまで落ち着いてる十五歳なんていないわ。無意識に人間を深くあきらめてるのね。それなのに、その人間といっしょに行動して、どんな結果でも引き受けてあげる。……スーパーマンよ。私がもしスーパーウーマンなら、スーパーマンが幸福なときも、不幸なときも、いつも伴侶でいなくちゃ。スーパーウーマンか、うれしいな……」
 カズちゃんは地図帳のメモに気づき、
「あら、これ、詩ね。……なんて美しい! これ、ちょうだい。お守りにするわ」
 カズちゃんは裏表紙を丁寧に引き切り、スカートのポケットに入れた。
「康男にも会ってきた。節子をひどく罵ってた。ぼくのことをひどく心配して、いまは妥協してがまんしろって言ってくれて金までくれたんだけど、結局逃げた瞬間にこうなることは決まってたんだね。カズちゃんのことは康男にも言わなかった。だれにも知られたくなかったから」
「守ってくれたのね。大将さんに話してたら、その場で節子さんだけ追い返されて、熱血漢の大将さんは私をタクシーで迎えにきてたでしょう。節子さんを傷つけたうえに、私たちがしっかり逃避行をする破目になって、お母さんのことだから、それこそ未成年誘拐で指名手配。私の人生は終わってたかもしれないわ。ありがとう、守ってくれて。でも大将さんが節子さんを叱ってくれたおかげで、節子さんは身を引いて犯罪者にならないですんだ。友情のファインプレーね」
 カズちゃんはまたディープキスをし、
「お別れのセックスをしておきましょ」
 と言って、机に後ろ向きに手を突き、スカートをまくり上げた。絹のパンティをつけていた。
「私のお尻が大きくて、ピカピカ光ってたことを憶えておいてね」
 私は彼女の背に立ってパンティと腹をさする。パンティを引き下ろし、指に襞と突起の感覚を記憶させながら愛撫した。
「オマメちゃんが勃ってきたわ。その感じも憶えておいてね。あ、イク、キョウちゃん、イク!」
 大きな尻を前後に振り、ぶるぶるっと痙攣する。
「イク格好も覚えた? 入れて。後ろからしたほうが、キョウちゃんがイッたあと、精液が漏れないの。すぐに何度もイクから、キョウちゃんもイキたくなったらグイッて奥に出して。キョウちゃんのお汁を下着に包んで持って帰るわ」
 挿入したとたんに、カズちゃんは一度痙攣した。声が上がるのを必死でこらえ、何度も膣を収縮させて私の射精を待った。
「ああ、またイキそうよ、強くイクわ、お尻を抱えて、イクときにグイッと奥に押しつけてね、いっしょにイキましょ、その感じを憶えていてね、すぐまた逢えるから、ああ、愛してる!」
「カズちゃん、イク!」
「私も、イク!」
 私は腰を深く突き出して射精した。そのときだけ彼女は喉を開放して声を出した。
「ああ、とってもいい気持ち! 愛してるわ、死ぬほど愛してる」
 それからすぐに下着を引き上げ、私の性器を舐めてきれいにすると外へ出ていった。やがてシロを伴って帰ってきた。シロは玄関に控えた。
「パンティは新聞紙に包んで、バッグに入れたわ。ふふ。さあ、夕食の下準備にかかるから、たぶんこれでお別れ」
 カズちゃんはシロを連れて食堂へいった。
 四時ごろ、早い夕食を三畳間でとらされた。畠中女史が食事を運んできた。私はたった一晩のあわただしいできごとにつづく、きょうのこの一連の、たぶん永遠の別れになるだろう人びとの出入りを奇妙に感じた。女史は真っ赤な目で私を見つめるばかりで、ひとことも言い出せないようだった。私が一膳の飯を食べ終わるのを静かに待っていた。
「肘の手術のとき、励ましてくれたね。ありがとう」
 やはり女史は、目を赤くするだけで、何もしゃべれないでいた。
「どうしてなの……」
 ポツリと言うと、片手で顔を覆った。そしてもう一方の手で、私の手を握った。クマさんといい、この畠中女史といい、なんと真実味のある人たちだろう。
「自分がこんなに惜しまれるような人間だとは、いまも、これから先も信じられないけど、できるだけそういう人間になって出直してくるよ」
「出直すだなんて、どこにも治すような傷のない子なのに。……和子さんに、無理しないでって言われたの。キョウちゃんにキスしてもいいのよって。いい?」
 私は畠中女史の肩に両手を置いて、唇にキスをした。女史は目を閉じ、からだをふるわせて応えた。
         †
 まだ宵の暮れにならないうちに、背広を着こんだ善夫がやってきた。母からひとことふたこと言い含められると、したり顔にうなずいて、机の上に置いてある切符をポケットにしまった。それから、何ごともなかったかのように母とのんびり話しこみ、やがて腹ごしらえに近所の蕎麦屋から出前をとった。賢明な人びと。賢明さは愛情の対極にある。彼らを測るには、何か私には想像もつかない別の物差しがいる。
「アネちゃの頼みだすけな、休み取って飛んできたじゃ」
 東京からはるばるきたのだ。気の毒な男だ。この男にとっては、親族の連帯という思想が最大価値で、姉そのものを敬愛しているふうは見えない。善夫ばかりではない。佐藤家の兄弟姉妹全体に、連帯という概念だけ優先して、たがいの密着度をないがしろにするふうがある。言葉も表情もどこか嘘っぽいのだ。
 日の明るいうちは、なぜか、しばらくのあいだでも予定した運命が滞るのがうれしかった。少しのあいだその運命と遊んでみようという気になった。しかし、いまは、昨夜の事件がたいへんなものだったという印象が濃くなっていく。知ったような諦念は、半日も経たないうちに霧のように消えてしまった。どれほど強がっても、深い絶望感に襲われる。一日、学校のことばかり思い出したのが証拠だ。教室ではふだんどおりに、朝から英語や数学の授業が行なわれただろう。野球部の連中はいつものとおり投げて、打って、走っただろう。そんなことはもう遠いむかしのことのように思われる。十一日の最後の練習試合だけが心残りだった。その試合に出ていれば、野球部の連中や和田先生に心置きなく別れを告げることができたのに。関、デブシ、大島……彼らとはもう一生会えないのだろうか。
 よれよれに乾いた学生服を着、学生カバンを提げた。事務所の玄関に、母以外の社員たちが、たぶん二度とふたたび会えない人たちが、しょんぼり見送りに出た。クマさん、小山田さん、吉冨さん、畠中女史、西田さん、そしてカズちゃん―。彼女とはすぐに会える。私は信じている。私と善夫がバスに乗り、道のカーブで見えなくなるまで彼らは思い思いに手を振っていた。もちろんここにいない荒田さんや、加藤雅江の姿はなかった。彼らにも二度と会えないだろう。
 熱田神宮前から名古屋行きの名鉄に乗り継いだ。電車に乗っているあいだ、善夫はときどき私の気を引き立てるために、青森県出身のプロスポーツ選手の話をした。
「鏡里だべ、若乃花だべ……プロ野球はいねが。……おめも、青森県で初めてのプロ野球選手になればいいんだじゃ」
 私は上の空でうなずいた。
 名古屋駅に着くと、曇り空からの陽射しがすっかり消えて、街並は藍色になった。少し風が出て、細かいにわか雨がアスファルトの舗道を黒く濡らしはじめた。車がひっきりなしに走り、人びとが往来し、たむろする。私は夕暮れの大きな風景の中で自分のからだが小さくしぼんでいくように感じた。
 コンコースを歩く顔に湿った空気が当たった。繁華な駅前広場を振り返った。雨の細い糸が見える。一日の生活をしめくくる騒音が色濃く往き来していた。ぞろぞろと行き交う人びとの群れをぼんやり見つめた。安全な場所へ帰り着こうとしている晴れやかな顔、ささやかな生活を守る義務感に燃える顔。
 十月九日金曜日。三週間後には会えるカズちゃんを想いながら、私はもう一度遠く並木のはずれを見やった。霧雨に冷やされた風が学生服の裾から這い上がってきた。軽口を叩き合いながら通り過ぎる高校生の一団から哄笑が湧き上がった。キチキチと痛むあごに手をやった。足音と人いきれが海水のようにからだに絡みついた。
 高架橋の下の名前も知らない褐色の土方たちや、かろうじて名前を思い出せるような教室のおとなしい羊たちの顔が、不意に浮かんできた。それから、何年ものあいだいっしょに暮らしてきた飯場の親しい人たちや、奇妙な光を放って通り過ぎたクラスメートたちが色濃く思い出された。しかし、ふと油断すると、すぐにもカズちゃんのことが、とりわけその笑顔が浮かんでくるのだった。彼女はほんとうに青森にやってくるだろうか。
「やりなおさねばな」
 善夫がポツリと言った。私はそれに応えないで、たださびしそうに微笑んでみせた。
「狭い了見で怨まねようにすんだ。みんな、おめのことをじっくり考えて決めたんだすけ」
「みんなって?」
「かっちゃも、先生も―」
「考えたんじゃなくて、腹を立てたんだよ。人が何かを決めるときは、そういう狭い了見でやるものだってわかってる。だから、ぼくは驚かないし、怨みもしない。じっくりものを考えるのには、素質がいるんだ」
 私は大時計の下に立ち、無意味に列車発着板を見上げた。
「うだで、切れるアダマだな。あぶね、あぶね」
 それきり黙々と駅のコンコースを歩いた。善夫は中央通路に流れる拡声器の声のほうへちらりと視線をやり、私の先に立って改札を通った。
 紺色の車体がホームに入ってきて停まった。このホームにいるかぎりまだ名古屋の生活に踏みとどまっていられる、でも、この敷居を越すことで最後の可能性を永遠に失うことになるだろう。善夫の手が背中に置かれた。迫害者を代表する温もりの煩わしさを、私はいつまでも憶えていようと思った。発車を告げる拡声器の音がホームに響きわたった。私は唇を噛みしめた。乗りこんだ。ベルがひときわ大きく叫びたて、鳴り止んだ。ドアが音を立てて閉まり、しっかり車体に封をした。
 七時四十七分。列車が滑るように動きだした。車体が曲線にうねってホームの端に近づいたとき、私は一本の柱の陰にひとつの姿を認めた。その姿が私に気づくと、足を引きずって駆けだし、追いつこうとした。口が何かを言っていた。私はかすかに手を振った。私は貴重なこの最後の数秒を、車窓から手を振るだけで終わらせた。私はほとんど聞こえないほどに康男の名を呼びながら、心から消えそうになっていた愛情の高揚をもう一度呼び戻した。私は窓を引き上げた。しかし、康男の足は遅すぎた。
 列車が都心を離れて野辺にかかると、善夫が窓を閉めた。私はガラス窓の外の闇を見つめた。この闇の中へまぎれこみたいという痛切な思いが湧き上がった。運ばれていくことは別に恐ろしくはなかった。カズちゃんを信じていたから。しかし、なんと単調で寒々とした従順だろう。まるで命の気配のない冬の街路に立っているようだ。彼らは私に、いかに生きるべきかを教えたがっている。愛がなければ世界じゅうに喜びもなければ悲しみもない、命さえ存在しないということを知りもしないで。
「寝ろ」
 善夫が座席の背に頭を凭(もた)せて腕を組んだ。野辺地までは二十時間かかる。気が遠くなるほどの時間だ。
 ―私たち二人は運命共同体だから、何も心配することはないの。
 カズちゃんの声が耳の中でこだました。心の内でそれと知れないものが身ぶるいし、ほんの一瞬、希望が燃え立った。私は、滝澤節子の真心を忘れずに、北村和子の真心とともに生きていくことが自分の人生なのだと思い定めた。
 車輪の響きが聞こえた。とつぜん胸が苦しく拍ちはじめ、カズちゃんとの距離があまりにもはるかなものになっていくという悲しみにもだえた。彼女はこの遠い距離をほんとうにやってくるだろうか。
 刈穂を敷いた暗い田の表面を、煙のようなものが這っていた。農家の軒先で、子供たちが花火に興じている。その明かりが目に痛んだ。私は、首を深く学生服の襟に沈め、カバンを腹に引き寄せた。窓の底から坊主頭の囚人が見つめていた。私はその囚人の顔を沈めている闇の密度を忘れまいとした。そして、この忘れられない夜が明ける日につづく記憶を、永遠に失うまいと決意した。


         百十

 車窓に紫色の夜明けが訪れた。善夫は眠りつづけている。
 いつだったか、たぶんあの白い校庭で、人生を思いどおりに生きてみようと誓った瞬間があった。そのとき誓った〈思いどおり〉はいったい何だっただろう。それさえはっきりしていれば、明るい希望を抱いて生きられたのだろうか。誓おうと、誓うまいと、人は思いどおりになど生きられない。
 十月十日土曜日の午後三時に野辺地駅のホームに降りた。あたりに石炭のにおいがただよい、走り去った列車のあとに残った真っ白な煙が、ヒバの林にたなびいている。ボストンバッグを提げた善夫が、なつかしそうな眼で駅の周囲を眺めわたした。
「一日がかりだったなァ」
 善夫はタバコを咥えて火を点けた。駅舎の向こうに、おぼろに記憶のある町並が見えた。改札を抜け、狭いロータリーの中へ歩み出た。バスが一台停まっていた。クマさんと乗ったバスに似ていた。ロータリーを横切り町なかへ入る。軒の低い家並がつづいている。傾斜の強いトタン屋根に混じって、萱(かや)ぶきの屋根もちらほら見える。どの家にも汚い窓が切られ、何人かの人たちが道を往来していた。商店も、銀行も、警察署も、みんなたっぷり曇り空を背負っていた。かつて親しんだはずなのに、ちがった風景に感じられる。
 本町通りにつづく繁華な道を避け、清水目川沿いの殺風景な農道を歩いた。どこまでも見渡せる刈田の中に、わずかばかりの小麦が生えている。ぽつぽつ禾堆(にお)が見える。道端に石鹸のにおいのするオオバコの花が束になって咲いていた。
 こんなに長い道だったかと思うころに、細い清水目川を渡り、庭のない家のつづきを抜けて、賑やかな本町通りへ迂回する。人通りが多い。記憶がはっきりよみがえってきた。高野薬局、青森銀行、ボッケの佐藤製菓、縦貫タクシー、ようこちゃんのうさぎや、野辺地警察署、けいこちゃんの味噌屋の廃墟。右に曲がれば袋町、直進すれば金沢海岸、左折すれば平五郎ちゃんの床屋と郵便局。左折する。照井酒店、門林衣料雑貨店、野田靴店。平五郎ちゃんの床屋が大湊屋という菓子店に変わっている。見覚えのある顔にときどきぶつかる。どこのだれだったか思い出せない。善夫が挨拶する。彼は都会で身につけた伊達男振りを一歩一歩脱ぎ捨てていき、たちまち田舎人らしくなる。挨拶される人たちの顔に、なつかしさ半分、戸惑い半分の笑みが浮かぶ。郵便局から新道(しんみち)のほうへ折れるとき、振り返った道の向こうに、ひときわ高い十字の尖塔が突き出していた。
「城内(じょね)幼稚園だね。……義一、どうしてるかな」
「自衛隊にいったずじゃ」
「善司は?」
「相変わらず秋田で観光バスの運転手をやってらず。去年か一昨年(おっとし)、乗用車と衝突して怪我したおんた。会社の保険さ入ってなかったら、アウトだったとせ」
 新道には相変わらず人通りがなかった。一軒の家も知らない。商店はわかる。角鹿(つのか)製麺所、谷地タバコ店、杉山畳屋。ここまでくると、すべての家並が目に親しかった。かすかに潮の香りがしている。合船場の前に立った。雨風にたわんだ板壁に黒味が増している。道の先の、けいこちゃんが死んだ踏切を遠く眺めた。善夫はぎしぎしと玄関の戸を引き、小暗い土間に入った。
「だれで」
 土間の障子の向こうからじっちゃの声がした。善夫が障子を開けた。むかしと変わらぬ灰色の短髪と灰色の眉毛のじっちゃが、囲炉裏の上座にあぐらをかいて茶をすすっていた。
「おお、善夫な。何しにきたど」
 私は善夫の肩に並んで立った。上品に刈りこんだゴマ塩頭のじっちゃが、真正面から私を見据えた。私は笑いかけた。じっちゃはやさしい顔で私を見た。額は広く、老人にしては大きすぎる目が白い眉毛の下にくぼんでいる。高く湾曲した大きい鼻は母のそれとそっくりだった。
「どちらさんかな」
「郷です」
 ほう? と彼は訝しげに目を細めた。小学二年か三年のときに遊びにきて以来、七年ばかりのあいだに、きっと私の顔は変わってしまったのだ。それからじっくりと見た。彼は目もとにじわじわとこらえきれない笑いを滲ませた。
「たしかにキョウだじゃ。遊びにきたのな? 夏休みはとっくに終わったべせ」
 善夫と二人黙りこんだ。じっちゃは煙管にキザミを詰めた。
「だあだってな?」
 からだつきがむかしより一回り小さくなったばっちゃが、台所から渡し板を踏んでシャキシャキ居間に入ってきた。相変わらず髪の黒い、皺の少ない顔だった。笹がきをしていた途中らしく、手に削りかけの牛蒡を握っている。
「善夫か―休みできたのな」
「ほんでねェ。アネに、これ預かって、引っ張ってきたじゃ」
 私に視線を移し、
「あれま、キョウだってか!」
 たちまち表情が崩れた。
「すたらとご立ってねで、上がれ上がれ」
 私たちは板敷きの居間に上がり、じっちゃの下座に膝を折った。日めくりだけは変わっていたが、神棚も、ダルマ印の薬袋もむかしのままだった。ばっちゃが訊いた。
「預かってきたって、どういうことせ」
 善夫はうつむいた。説明する言葉が見当たらないようだ。私は身じろぎひとつしなかった。じっちゃはただ頬をゆるめて煙管をくゆらしている。ばっちゃはたちまち勘の利いた表情になり、
「じゃっぱ汁作ってらった。晩ゲには早えども、いまめし食(か)へるすけ」
 明るく言って台所に引き返した。小柄で筋張ったからだが機敏に動いた。うまそうなにおいが、自在鈎にかけてある鍋から立ち昇った。二分もしないうちに、ばっちゃは煮物の具をザルに入れて戻ってきた。
「スミがひと月ほど前、手紙よこしたんだ。キョウがなんたらかんたら、小難しいこと書いてらった。まさかこったらことだと思わねかったじゃ。……見放したってことだべせ」
 私は微笑した。そんな早くに母は決意していたのだった。じっちゃが何の話だと言わんばかりにチラとばっちゃを見た。ちょっとのあいだ沈黙がつづいた。じっちゃは険しい顔になり、
「見放したってどういうことせ」
 善夫が呼吸を整えて、
「アネのゲキリンに触れたということだべ。いろいろと」
「何が逆鱗だ。小娘のくせして」
 じっちゃが私のあごに手を伸ばして、黒ずんだアザを指でさすった。
「……先生に殴られた。ぼくが悪かったんだけど」
 ばっちゃが要領のいい問いを発した。
「高校は、あっちゃで上がるのな。だば、半年もねど」
「向こうには戻らない」
 ばっちゃはかすかに微笑み、煮物の鍋の木蓋をずらして泡を切りながら、新しい具を入れ足した。
「こごさ、ずっといればいいんだ。どごで暮らそうと、人間、同じこどだすけ」
 ばっちゃはもともと激しい気性の持ち主で、何ごとも気取らないで思いついたままを言う人だった。じっちゃが吹かしかけた煙管を炉板に叩きつけた。
「親が子を手放すには、よっぽどのことがねばな」
 むかしながらに散髪のきいた厳格な顔が、赤くほてった。
「すっかり不良になってしまってせ、いろいろ問題起こしたはんで、アネも……」
 善夫の笑顔が強張った。ばっちゃが、
「不良だってか! このキョウが? 手紙にもてめの災難のことばり、さんざ哀れっぽく書いてらった。いづでもかつでも、てめの都合ばりよ。むかしっからスミはそういう見栄スケなんだず」
「アネにも、他人にはわがらね苦労があったんだべ」
「何、おめもこましゃくれだこどへってら? どったら苦労だってが。人見てものへろじゃ。このキョウが人さ苦労かげる荒げねワラシに見えるが? 憎かったんだ。キョウは神無月さんそっくりだすけ、あずましぐねがったんだ。キョウ、なんも心配しねでこっちで暮らせばいがい。オラがちゃんと面倒見てやるすけ。何言ってきても返すもんでねど。こっちで大っきくなって、高校さも、大学さもいって、嫁もこっちでとればいんだ。荷物っこ、カバンふとつぎりが? 哀れだこった」
 ばっちゃは年老いてもなお人をかばうことのできる若い心根で、孫に対する娘の仕打ちを罵った。ばっちゃの剣幕に押されたふうに、じっちゃが火箸で灰をなぶりながら、
「なんも難儀はねえべおん。こごさ腰落ち着ければいんだ」
 と言った。彼にとっても、情の薄い娘を持ったと知るのは、ひどく胸糞の悪いことなのだった。
「で、どったら悪いことしたのい?」
 じっちゃが私に顔を寄せるようにして訊いた。
「入院した友だちの見舞いで、毎日夜遅く帰ったり、女の人と……」
 ばっちゃが、
「女ってが! その年で! おもしれでば。そたらことしたら、寄ってたがってワタクタされたべおん。やあ、おもしれじゃ」
 じっちゃの目に涙が滲んだ。ふだんの穏やかな心に波が立ったのだ。いつもは人を射通すような強い眼差しを持った男が、傷つけられた少年のように涙を浮かべている。善夫が煙草に火を点けた。善夫が言った。
「早すぎるべ。まだ中学生だんでェ」
 善夫の凡庸な言葉に、じっちゃの白い眉が上下に動いた。
「十五過ぎたら、一人前の男だべ」
 彼はその長い眉の下に、身に覚えのある少年期を隠しているようだった。ばっちゃがガシガシ鍋をかき回した。手を止めないで言う。
「オラがここさきたのが十七だすけ、若げ女の考えることぐれ雑作なぐわがる。男のことしか考えてね。男の十五、六は一人前だ。だれだって、女がそたら気だば、キョウみてにすべ。何が不良だってが。あぎれだ話だ。そごらあだりの人が聞いたら、腰抜かすべ」
 切って捨てるような語調だったけれど、少し恥じらいが混じっていた。
「そういう時代でもねべ」
 ばっちゃは善夫を哀れむように見た。
「こましゃぐれたこと言うなでば。いつの時代も、男と女のおがる速さは同じだべ。おめみてな石部金吉にはわがんね話だ。スミもわがってるべたって、やっぱり憎かったんだべおん」
 私はカズちゃんのからだの一部一部を思い出した。見るもの一つひとつがめずらしく、また自分のもののように誇らしくもあった。じっちゃが涙の収まった声で言った。
「すっぱり忘れて、やり直せばいんだ。いい風も、悪い風も、ちゃんと頬っぺたに受けねばな。士族の孫なんだすけ」
 聞き覚えのある言い回しを使った。そんな時代遅れの表現が通用するのは、まさしくここが野辺地で、この家が合船場だからだった。私はしみじみとじっちゃの顔を見た。彼の顔は老いを凌いで凛々しく整い、若いころの美貌を髣髴とさせた。
「頭も下げねで頼んできたんだすけ、好きだようにさせてもらうべ」
 だめを押すようにばっちゃが言った。祖父母のやさしい顔を見ながら私が考えたことは、もし彼らがこの先長く私の面倒を見なければならない成りゆきになったとき、その年老いた肩にかかるにちがいない金銭の負担のことだった。じっちゃはもう七十を過ぎていたし、ばっちゃも六十代の半ば、七人の子供たちは四散して家にいなかった。私のような事情を抱えた少年が急に飛びこんできたことは、彼らにとってけっしてありがたいものでないはずだった。しかし、その気配は彼らの口ぶりからは毛ほども感じられなかった。
 いずれにせよ、私の分の金の面倒は母が当然見るだろうし、老人二人の生活のためには都会の子供たちからも決まった送金があるはずだった。いざとなったら、私が働くことだってできる。だから、そんなことは大した問題ではない。私がここに坐っている時間にどんな意味があるのか、それだけが問題だった。しかし、横浜にいようと、名古屋にいようと、そこにいる時間に重大な意味などあるはずがなかった。それこそ、どこで暮らそうと、人間、同じことなのだ。ばっちゃはじゃっぱ汁をよそって私と善夫に差し出した。
 なんとか心向きを変えて生き直さなければならない私にとって、じっちゃとばっちゃは一見何の役にも立たない老人でありながら、いまやただ二人の保護者であり、支持者であるという事実に私は襟を正した。ともかく、眉をしかめられずに祖父母にやさしく迎え入れられたのだ。
 私はじゃっぱ汁をすすった。うまかった。ささがきと鱈の切り身を噛みしめた。二人の老人は、ときどき横目で孫をいとおしむように見つめながら、それとなく、まだ探りきれていない不良の本質を観察しているようだった。そのことにかえって私の心は落ち着いた。私は彼らが無条件に疑いを捨てたり、寛容を装ったりしないようにと祈った。
「ンが、いま何してるのよ」
 ばっちゃが善夫に尋いた。
「ボイラーの一級とって、都内の大学病院で働いてる。三、四年したら、とっちゃみてに特級とるじゃ」
 じゃっぱ汁をすすり終えると、善夫は膝を叩いて立ち上がった。腰を下ろして一時間も経っていなかった。
「もういぐのな」
「いぐじゃ。きて帰るだけで二日かかるすけ。横山さ顔出してぐ。あれのマグロ船、帰ってきてらったが?」
「帰ってきたばりだ。春まで休みよ」
 遠洋の船乗りのようだが、だれのことかわからなかった。


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