―「ブルー・スノウ」の舞台を訪ねる―

 2004年2月上旬「ブルー・スノウ」の舞台になった青森を訪れてきました。今回はご厚意により川田先生と同行させていただきました。2004年3月のインタビューにおいても今回の旅の感想を先生に伺ってきましたのでそちらもご覧ください。

新幹線はやて号から特急白鳥号に乗り継いで青森駅に到着。その日、東京は快晴で、出発から3時間あまりの旅。はやる気持ちを抑えつつ、はやて号でひとつ、白鳥号でひとつと、行きに2つの駅弁を食べてた(笑)。青森駅に着くと一面銀世界が広がり、都会では味わえない刺すような寒さを感じながらも、雪のせいで澄んだ空気が、気分を清々しいものにさせてくれた。
 駅で迎えてくれたのは先生の高校時代の旧友・古山さんとカメラマンの亀田さん。実は「ブルー・スノウ」を先生が執筆するきっかけを与えてくれたのは、「雪をテーマに書いてくれないか」という古山さんの一言。青森駅での出迎えを前に私たちが乗車している白鳥号をカメラに収めてくれていた!
「ブルー・スノウ」上梓をきっかけに30通にあまる文通を重ねたすえ、遂に再会を果たした古山さんと川田先生。喜びを隠し切れない古山さん。「今年はこれでも雪が少ない方だ」と話す古山さんを尻目にこんな大雪の中での移動を不安に思っていると、移動用のバスが用意されていて、感謝感激だった。一路青森高校へと向う。

バスの中から当時、先生の通学路だった堤川の土手道を眺める。思っていたよりも大きい川で、雪のせいもあってか、川面が黒く寂しい印象を受けた。先生が青森高校入学直後に書いたという「堤川」を思い出して思わず胸が詰まった。


なさけあるなら 
堤川、かえりせよ

そぞろあくがれ膣生の
戻らぬ日々と打ち伏せもせよ

窓辺にかほる秋風の
ほそげの土提を吹き渡り
ましろなたねを散らすらんと思へば・・・・・・
四季を分たぬうたかたは
好学の徒のゆきかへり
あざらかな空の下にながるるらんと思へば・・・・

ああ堤川
なさけあるならかへりせよ
我の恋するはらからの
我を顧(おも)えることだになきとも
(「全き詩集」より『堤川』)


 1965年9月青森高校1年4組   上段3人のうち、一番左・川田氏、一番右・古山氏
青森高校正門前にて。
先生は青森高校へは38年ぶりの来訪だった。


青森高校の校舎内。古山さんの計らいで、特別に学校の中に入ることを許可してもらった。先生曰く『ながーい名にしおう』長廊下は当時のよりも短くなっていた。青森の卒業生で古山さんの後輩・野村さん(中央女性)が学校内を案内してくれた。この方は青森高校・国語教師であった野村先生のご令嬢で、幼い頃学校内に住んでいたという、青森高校の達人。とても楽しい方でした。教室内の学生たちは、みんな真剣な面持ちで授業に臨んでいた。授業終了後、不審な顔つきでこちらを見ていく学生もちらほら・・。





3階、教室の窓から撮った青森高校正門の写真。大学じゃないだろうかと思わせるほど、広い高校だった。晴れていれば、この先に八甲田連邦が望めるとのこと。向って右なのか左なのかで、10分程もめて、通りがかりの学生に聞くも、結局わからず仕舞いだった。(野村さんは向って左だと主張、古山さんと先生は右だと主張していた)校門からまっすぐいった先に、先生が入っていた寮があったそうだ。今はもうなくなっていた。ちなみに小説に登場する「健児(こんでい)寮」という名は架空の名称だそうです。(他の青森関係のHPで「健児寮」は一体どこに存在していたのかと話題に上っていたのでお答えしておきます)


※青森から青高内のさくらの写真が届きました。
数ヶ月前銀世界だったところが、今(4月下旬)にはこんなになるんだよなー。(@_@)




合浦公園。陸奥湾を臨む広い公園。この後ろには小説の通り松林があり、とてもきれいなところだった。「ブルー・スノウ」では、主人公・剣と山口が晩夏の夜にこの海に飛び込みますよね。私が一番好きな場面だ。「闇にもぐって、闇に上がる」不思議な感覚。太宰の時代にはこの公園内に青森高校があったそうだ。啄木も訪れたこともあるという青森では有名な公園だ。散歩してる老人はスキー板を履いていた。
当日、カメラマン兼運転手を務めてくれた亀田さん。青森市内路線バスの運転手さんで、古山さんの部下の方だそうだ。雪に埋もれながら懸命にカメラを手にする姿。亀田さんはこの日始終雪のなかを走り回っていた。本当にありがとうございました。
居酒屋「入マス亭」にて。お刺身(カニ、中トロ、あわび、ウニ、ホッケ貝、生牡蠣)、なますの酢の物、ホタテの甲羅焼き、みそつき毛がに、金目鯛の煮付けなどなど、ものすごいご馳走だった。新鮮な魚介類おいしかった。作成者は緊張で、あまり箸をつけることができず、今思うともったいなかった。の一言に尽きる。今すぐにでもこれを食べたい気分。。。
飲み会後、入マス亭前にて。先生の作品の大ファンで、作品はほとんど読んでいると言う亀田さん。川田先生を前に、緊張し通しだったのこと。
「『牛巻坂』を読んだときは衝撃をうけました」と語っていた。そのあと帰り道で「先生の授業に出るにはもう年ですかね」と冗談を言い、先生が手袋を入マス亭に忘れてきたことに気付くと、いち早く踵をかえし、走って取りに行ってくれた。大雪の中あんなに走って大丈夫かと、こちらが心配になった。一日、ご苦労様でした。
青森市内のBAR「MEW MEW」。
青森高校小同窓会にて再会の乾杯!高校時代の昔話やねぶたの話題などで話しに華が咲いた。
この店のママさんも先生の小説を全て読んでいるということだった。
青森高校の入学写真のコピーを見ている様子。このHPの作品一覧のコピーも古山さんが配ってくれた。


クラスメートだった佐藤さん(中央)、中野さん(右)と一緒に。会合も終盤に差しかかり、そろそろ先生もお疲れのご様子。
3次会は、市内半円卓のBAR「馬馬馬(バー・バー・バー)」にて。ママの千夏さんは、プロゴルファーを目指していたという、とても綺麗な方でした。古山さんは仕事の引退後、グラス磨きとして働くことを約束しているという。先生の来店をとても楽しみにしていたということだったが、先生は30分ほどで飲みすぎのため具合いが悪くなり、一人ホテルへ帰る。残された我々は、古山さんと共に4件目のイタリアンカクテルバーへ。千夏さんものちに駆けつける。真空管アンプのレコードの音が響くとてもいいお店だった。

左下の写真は太宰治「思ひ出」に登場する浜町・青森港の埠頭。ここで太宰は幼くして病死した弟・礼治と共に好きな女の子のことを語り合い、「その人とは一緒になる運命なんだよ。どんなに絡まっていても、赤い糸で繋がっているんだ」と弟に話した、という一場面。青森市役所交通課理事である古山さんは、この話をモチーフにいつか、この港に太宰と礼治の像を建て、海を隔てた北海道も記念碑を建て、赤い糸を結んでみたいという夢を語ってくれた。

野辺地駅前にて。青森市よりかなり雪深い場所だった。後ろにかすかに見える赤い帽子の人形は、野辺地のシンボルキャラクター「あっぷる君」。雪のため、駅構内へ避難させられていた。
幼稚園からの幼馴染ぼっけさんと。野辺地「佐藤製菓店」前にて。(ちなみに「ぼっけ」というのはあだ名だそうです)焼きたてのパンをご馳走してくれた。
 ここの「いもがし」は野辺地銘菓で、全国的にも有名。地下室に音楽部屋を掘り、高級なステレオ部屋を備えていると聞かされた。ステレオ通の先生もびっくり!
野辺地中学大同窓会。50人程が一堂に会した。この晩、野辺地は大雪。大変な思いで会場に到着した。右は先生の3年1組のクラスメート。しかも幼稚園の同級生でもあるとか。
ここで旅の目的は終了。昨日の深酒のせいで先生はほとんどお酒を飲むことができなかった。ゆっくり寝る時間もない程、てんこ盛の旅行だった。
みなさん、ありがとうございました。
※HP作成のためにCD−ROMを送ってくださった亀田さん、写真をCD-ROMに写してくれた福島の写真館店主・阿部さん、ご協力ありがとうございました。

戻る