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《血槍富士(1955)》
監督 内田吐夢 出演 片岡千恵蔵
私たちの幼いころには、希少な贅沢品であるテレビはほとんど娯楽の対象として機能しておらず、娯楽といえば映画と漫画であった。漫画は、店頭販売の月刊誌と、貸本屋の単行本の二派に分かれていて、金持ちの子供は前者、貧乏人の子は後者とハッキリ区分けされていた。月刊誌は百円前後もしたし、貸本は一円から五円のあいだだったからである。
映画はぎりぎり後者だった。昭和二十年代後半の子供の入館料は五円から十円、三十年代前半のそれは十円から十五円だった。映画は四派に分かれた。日活、東宝、東映、大映である。日活はアクション、東宝はSF、東映は時代劇、大映は大人の人間模様というぼんやりとしたイメージがあった。
七歳から十歳までのあいだ、私はもっぱら日活の裕次郎ものしか観なかった。学校の昼食代の十五円(当時のラーメンの値段)を月曜日から金曜日まで貸本に使い、土曜日は映画に使った。昼めしを食わない習慣はこのころについた。たった二本、東宝のSFものも観た。『美女と液体人間』、『地球防衛軍』。東映もたった二シリーズ、『月光仮面』、『赤胴鈴之助』。小学校四年からは、映画が野球に取って代わった。
要するに、東映と大映はほとんど観なかったということである(四歳のころに地元の映画館に忍びこんで観た時代劇と、小学校低学年のころに年間恒例行事として観せられた文部省推薦ものは除く)。この二社の映画は、三十代半ばに予備校講師となってから、貸ビデオ屋で借りて観まくった。血槍富士はその中で発見した一本である。
片岡千恵蔵―見覚えのある顔だった。七つの顔の男、多羅尾伴内。裕次郎を観にいく道の途中で、よく東映の映画館前の看板で見かけた顔だった。陣太鼓を提げたものものしい大石内蔵助の看板も見たことがあった。彼が江戸へ下る若君の槍持ち役で出ていた。顔の大きな、古典的美男子である。
好人物だが酒乱の若殿を無事に江戸まで送り届けられるか、というサスペンスを主軸に、逗留宿でのもろもろの人間ドラマを痛快に絡めた道中記。啓発される科白が散りばめられる。結局、若殿は大名行列の侍たちと悶着を起こして斬り殺される。その侍たちを千恵蔵が皆殺しにする。この鬼神のごとき殺陣(たて)が凄まじい! そして悲しい。喪失の悲しみが怒りの極点にまで達している。主と従という階級的な忠誠に殉じる精神を越えて、彼は若殿の人となりへの思慕に殉じようとしていたのだ。
仲間(ちゅうげん)に大の侍が殺されたとあってはお家の恥、しかも主人の仇討ちを果たしたということで千恵蔵は無罪放免となる。そして骨壷を抱いて去る。
―槍持ちになんかなるもんじゃねえ。
彼が去っていく場所はおのずと明らかである。傑作に大がつく。