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《フルメタル・ジャケット(1987)》

監督 スタンリー・キューブリック  出演 ヴィンセント・ドノフリオ

 

 ヴィンセント・ドノフリオ以外は出演者の印象が薄いベトナム戦争もの。前半の新兵訓練シーンと、後半のベトナム市街地での実戦シーンとの対比が鮮やか。第二次大戦ものでは、映画にはこれといったものは見出せないが、ノーマン・メイラーに『裸者と死者』という傑作がある。その小説の眼目は、戦場での人間性の回復だった。つまり、感情と哲学だった。

 私がこの映画で注目し印象に残したのは、前半である。指導教官の罵倒と暴力を柱とする壮絶な訓練によって、新兵たちは自尊心をボロボロにされ、命令に従うだけの殺人マシーンと化していく。自尊心を失った生き方の単純化は残虐性を生むという自然な帰結だ。

 のろまの落ちこぼれレナード(ヴィンセント・ドノフリオ)は、とりわけ目立ち、教官に異常なまでに厳しく扱われる。自尊心を失い幼児化した新兵たちは、この「微笑みデブ」を虐待する。ここに意外な展開がある。レナードに特殊な才能があることがわかったのだ。スナイパーの腕である。その能力は教官を含む周囲の認めるところとなった。そのころから(なぜか?)レナードは精神に変調をきたしはじめ、銃に異様な愛着を示し、ついにフルメタル・ジャケット弾で教官を殺害し、みずからも銃口をくわえて自殺する。彼は戦場に出て非人間性を発揮することなく死んだ。

 この、なぜか? のせいで、忘れられない映画になった。心やさしいのろまのレナードが、唯一発見し得たみずからの能力が、優秀な殺人マシーンの適性だったという底なしの悲しさ。それなのだろうかとも思ったが、おかしくなった精神にそこまで考えるゆとりはない。彼が精神に変調をきたす以前に、「能力など糞のように体内から吐き出して、心やさしさだけで、じゅうぶん現実世界の人びとを救えるのだ」と気づかせてやる人間が周りにいなかったことが悔やまれる。

 フルメタル・ジャケットとは、貫通力を増すために鉛の銃弾をニッケルで覆ったもの。殺戮を徹底させる被甲弾だ。象徴性を考えてみたが、まとまらなかった。あえて言うと、ふつうの人間はたとえ鉛のからだでもじゅうぶん殺傷性を秘めているが、それをより確実に発露させるのは、ふつうでない人間に生まれ変わらせる訓練である、ということか。