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《ドクトル・ジバゴ(1965) 監督 デヴィッド・リーン》

 叔父の家に引き取られた夜、ベッドの外の窓を小刻みに打つ枝の音に耳を傾ける幼いジバゴは、きょう葬られたばかりの母が地下の棺の中で眠っているイメージを浮かべる。つむじ風に乗って、墓の上空に枯葉が舞い上がる。詩人の旅立ち。
青年となったユーリー・ジバゴ(オマー・シャリフ)は、つつがなく医学を修め、詩人としても名をはせるようになった。養父グロムイコの娘トーニャ(ジェラルディン・チャプリン)との婚約もすませ、前途洋々、幸福の絶頂にあった折しも、服毒自殺を図った女の手当てに駆り出され、順調な運命の針路を転回させていく。

 その夜ジバゴは、治療に専念する部屋の窓越しに奇妙な光景を目撃する。自殺した女の愛人コマロフスキー(ロッド・スタイガー)と、彼女の娘らしい若い女が何やらわけありげに言い争っている。彼はその凍りつくような瞬間を、充血した眼で凝視する。この若い女こそ、母親の自殺の引き金となったララ(ジュリー・クリスティ)だった。視線の気配を感じて振り返ったコマロフスキーは、ジバゴの眼を鋭く見つめ返す。二つの視線は熾烈な火花を散らす。宿命的な出会いだ。

 帝政ロシアの終焉(えん)期、ジバゴは、民衆の革命行進が騎兵隊のひづめに蹴散らされ、サーベルに切り刻まれ、血にまみれていく残酷な光景を見つめる。怒りに震えながら、血走った哀しげな眼で現実を「観察」する。奇しくも、ララの恋人パーシャ(トム・コートネイ)は行進を導く革命家であった。

 やがて軍医として第一次大戦に従軍したジバゴは、戦地で看護婦をしていたララと数奇な再会を果たす。思想と関わりなく本能的に引き合う愛が芽生える。二人して戦火から逃れて隠れ棲んだ廃屋の窓は雪と氷に凍りつき、机には霜が降りていた。ひきだしに、詩人の命の糧である紙とインクがあった。ジバゴは凍える手に息を吹きかけ、『ララ』と書きだした。暖房のない部屋のベッドで愛するララが眠っている。彼は潤んだ穏やかな眼で、一行一行、紡いでいく。やがて起き出してきたララが肩口から覗きこむ。

「私のことなのね?」
 彼女は感激の涙を流す。

 見どころは別にあるのかもしれない。ロシア帝政末期の内乱、第一次大戦前夜からロシア革命までの政治的な動向、そして、レーニン。さらに、皇帝と地主を撤去した新しい労働者国家ロシアの再建。

 しかし、アメリカ映画界の至宝といわれるデビッド・リーン(『アラビアのロレンス』『ライアンの娘』)が描きたかったのは、歴史的な通りいっぺんの叙事詩ではないだろう。凄絶なほどの哀愁に満ちた主題曲『ララのテーマ』(モーリス・ジャール)を、これでもかとばかりに全編にあふれさせ、人間臭い悪徳弁護士コマロフスキーに、

「人間は、うさん臭い日用品だ」

と自戒の皮肉を語らせ、ララの夫である偏執狂的革命家パーシャには、

「かつてきみの詩が好きで読んだ。しかし、いまはちがう。まごころ? 愛? くだらん。革命の大義の前に、そんなものは塵同然だ」

とまで語らせるその芸術的韜晦(とうかい)を探っていくと、目指したところは、ジバゴとララとのかなわぬ愛の一部始終だったと確信できる。スペクタクルに富んだ叙事詩的書割は、効果として二人の愛を反映させる広大な山脈だろう。ブルボン王朝復古期を書割に、ジュリアン・ソレルとマチルドの熱愛を描いたスタンダールの意図と同様である。それこそ原作者である抒情詩人パステルナークがもくろんだところだったにちがいない。

 中学一年(1962)の夏、野球で痛めた左肘を手術したとき、下半身不随者病棟にいたダッコちゃんというあだ名の真っ黒く日焼けした大学生と仲良くなり、病室を行き来した。退院のとき、水色の表紙の『ドクトル・ジバゴ』をもらった。彼は「ノーベル賞」という言葉を言い添えた。さっそく数ページ読んで、さっぱり意味がわからず、読みさした。

 5年後、映画を観て感動し、あらためて原作を読み返した。そしてやっぱり読みさしてしまった。映画のインパクトが強すぎたのだ。なんだかダッコちゃんに申し訳なく思って、パステルナークの詩集を買ってきて読んだ。胸に沁みた。

《……偶然であればあるほど、泣きじゃくりながら一篇の詩はできていく》

 彼のスタンザだ。切実な偶然の経験に寄り添うように、いつも愛にあふれる詩がある。詩人の魂を削ってこぼれ落ちる真実の吐息は、偶然の文字の連なりばかりでなく、映像という偶然の抒情詩の助けも借りて結晶するのにちがいない。