川田拓矢先生反故集


願いの譜

     もとうた


奸計、神秘ぐせ、腹黒……。何ということはない。これら共同体下部によって崇められていることごとくの思わせぶりは、古今こんりんざい、自らの卑小を隠す性向に端を発する。彼らはこれを気取られまいとして極度に用心し、いよいよ圧制ふうになる。

     反歌

こわがらなければよい。
あん人たちの忠告の朶(えだ)に
毒はないと思えば
きょうの仕事も
あすの創造も はかがいく。

こわがらなければよい。
あん人たちは大器なのだから
へたな蠱惑(こわく)をかげろわせ
おとしめるなぞ……
あんひとたちにも天然の情実はある!

ものごころついたはいつ?
遠いチャンいろした記憶をこそぎ取り
傷心の晶質を洗い出せ。
すれば不壊(ふえ)の魂は切り結び
あだし野のぬかるみに
たおれ伏すこともなくなるのだ。

 この・風景を・いつかは
 美しく・描けるときが・くるだろう
やせほそる幽晦の交わりを罵り
いさぎよい言質(げんち)を驕るもなくて
ただ愛を思い 人を思い
安らかならんことを―

                      (70年代かつてユリイカに発表)



 ― 私の麻雀運命 ―
 つもれども、つもれども、わが牌姿ラクにならざり、じっと手を看る



 両儀交わるところ、夭折を欲す。


 呼びかけよ


 遠く追い求めよ。



 ほとばしり、落ち合い、たゆとう心のままに、うつつ世の澪(みおつくし)を渉れ、悲しまずに。


 
 神話、怪異、力業を語らず。



 人並の列の後方に立ち、はるか前方を眺めやる。これは私の目的ではない。これは他人の人生だ。観察し、反省すべきものではない。列を離れないかぎり、他人の人生を観察できないし、自分の人生を反省することもできない。いや、それをするのはおこがましい。他人の人生につらなって人生論は述べられないのだ。


私は校庭の隅に佇む鉄棒だ。ぶら下がってくれる人がいれば、お役に立てる。飽きて捨てられたら、また誰かがやってきてぶら下がるまで、待っていればよい。暮れなずみ、夜が明け、陽照りの中で、じっと佇んでいるのが私の宿命だ。私はあらゆる人々の時間を忘れさせる。



 人生はいつも今が出発点だと思っていた。でも、現実は違う。不幸なことに創造とは関係のない自分の事務的な能力はわかった。浮気はやめだ。確かに俺は君たちに嫉妬いていたんだ。それで受けてみた。そしたら受かった。もう嫉妬する理由はない。別段、学問をしたいわけでもない。君たち有為と目されている若者と争ってみたかっただけだ。又、静かで無意味な報われない生活に戻りたい。



 なノサにいノサってんノサ
 雨ざんざ。軒のぽちぽち。雄太は鼻毛を抜く― 気分になってみる。父を真似て。雄太に鼻毛はない。




 私の色彩の記憶は、全てモノクロである。そこへ創作の際に彩色を施していく。一定の黒と白の単彩を、光彩陸離の色調に染め上げていく。単律のリズムが、創造の時に躍り上がる。私の文章のリズムの静謐があって、色どりの鮮やかさがあるのは、恐らくその故かもしれない。



 不可抗的な自然環境ばかりでなく文明や文化という精神環境とともにどこまでも変容していく哀れな人間―。 それに比べて犬や猫は!
 これを哀しみとして以外、どうやって捉えたらよいのか。


 私は、何の工夫もなく、文章を書いていく。ドラマを書くつもりはない。非虚構が虚構の迫力を帯びるものかどうか、それが私の実験したいところである。私はよく、あなたの作品は事実か、と訊かれる。私は、ちがう、と答える。彼らの眉は多少曇る。そのときなぜか少し残念な気がするのはなぜだろう。もし私が、私の作品は一寸たがわない事実である、と答えて、なお読者の感銘を持続させることができるとすれば、私の身に賦与された事実に、本来的な真実が備わっていたということになる。
 できればそうであってほしい。しかし、もしその思いが遂げられることにもなれば、私がいままで命を削って書いてきた『虚構』は何だったのだろう、そこには真実はなかったのか、という根源的な疑懼が生まれる。そのことを思うと、私は底冷えをする恐怖に苛まれる。だが、思い立った以上は書くしかないのだ。それは私の絶望への旅立ちかもしれない。たとえそうだとしても、おそらく小説家の私の性が、その絶望を甘受するべく私を駆り立てるだろう。


愛の賛歌(コリント全書13章)川田拓矢新訳

 愛とは、寛容のこと、慈悲ありて、妬まず、
誇ることなく、礼を失わず、利を己に向けず、
怒らず、悪
(お)心を持たぬことなり
愛とは心の赴くままに不義を責め、衷心よりお互いに喜び、
忍び、信じ、高く望み、耐えることなり
そして、その愛は、滅ぶことなからん




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