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《道(1954) 監督 フェデリコ・フェリーニ
主演 アンソニー・クイン ジュリエッタ・マシーナ》
乾いた風が土ぼこりを巻き上げる海辺の寒村。
旅回りの大道芸人ザンパノ(アンソニー・クイン)に買い取られたジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)は、オンボロ車で連れ去られようとするとき、
「出発!」
と明るい声を張り上げる。
ザンパノは天の啓示に打たれたような眼で彼女を見つめる。彼の空洞の魂へ愛が光臨したのだ。
女を性の道具としか考えていない野人ザンパノの確認行為は、荒々しく唐突になる。ジェルソミーナは抗いながらも受け入れる。愛を知らない者の頭上に光臨したがゆえの、茨の「出発」だ。
荒くれ男の目覚めは、二日とつづかない。ジェルソミーナの動作はのろく、口にする言葉も人離れがしているので、短気なザンパノは彼女を役立たずと罵り、鞭で追い回す。ジェルソミーナは傷つきながら、大道のピエロ役と、おさんどんと、欲望のはけ口に甘んじなければならない。
一日一日を夢見て生き、不自由な頭の中に貯えてきた知恵のかけらをつぶやくことを何よりも大切にしているジェルソミーナ。
彼女の内気でこまやかな愛情は、胸で鉄鎖を切って大道の客に見せることだけが生甲斐の、頭の空っぽなザンパノには届かない。
しかしそんなことはジェルソミーナにとって大した苦痛ではない。ザンパノを愛しているから。それでも、旅の道でジェルソミーナは何度もザンパノの浮気心に悩まされる。そのたびに持ち前の忍耐力で、愛を貫く心を新たにするのだが……。
そんななか、二人はサーカス一座に加わることになった。かつてザンパノの顔見知りだった綱渡り芸人(リチャード・ベイスハート)は、相も変らぬザンパノの無知と野蛮を毛嫌いするが、健気なジェルソミーナにはやさしく接した。
彼女の小さな頭に残る旋律をバイオリンで奏で、「道端の小さな石にも意味がある」と永遠の哲学を教える。ザンパノにはそれが気に入らない。
彼はジェルソミーナの心の恩人であるその男を、激情にまかせて殺してしまう。
ジェルソミーナの魂はついに進む「道」を失い、狂気へと落ちてゆく。ザンパノは、自分だけに光臨した天使を捨てて去る。
空白の心を抱えてさまようザンパノが、あの旋律を口ずさんでいる洗濯女の背中に語りかけたとき、「振り向く女はジェルソミーナであってほしい」と、わたしは願った。
女がジェルソミーナなら、ザンパノは狂おしいほどの幸福の中に再生して、後半生を彼女とともに生きるだろう。……しかし振り返った女は無慈悲にも、
「ここに流れてきて病気で死んだ女が、いつもこの歌を歌っていました」
と答えたのだった。
この映画を観るたび、わたしはかならず一つのことを銘記させられる。
―愛の認識がかならずしも人を救済するわけではない。
「道」は未熟な人間を、愛という高度の感情へ解放させてゆく典型的な教養ロードムービーであるにもかかわらず、その高みに達した未熟者を救わない。
ジェルソミーナの死を知ったザンパノは夜の砂浜に倒れ、黒い空を見上げ、砂を握りしめて号泣する。しかし、どこからも救いの手は降りてこない。
天使の光臨をないがしろにした罪は、どれほどあがいても赦されることはない。ザンパノの慟哭は遅きに失したのである。
もちろん、人を愛するのに、先走りも手遅れもない。ただ、どの瞬間も虚心に、魂のかぎり愛していなければならない。ジェルソミーナのように。
芸術神に捧げる骨太な映画を数かぎりなく撮りつづけたフェデリコ・フェリーニが、ヒューマニズムの極点とも目される作品を、自らの人生の要所に散りばめて発表していることに感嘆する。
ビスコンティの静かで華麗な貴族色とちがって、彼の庶民性から発せられるトーンは、『8 1/2』に集約されるような、地にのたうつ厳しい自責の色調である。