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《モスクワは涙を信じない(1979) 監督ウラジーミル・メニショフ
主演ヴェーラ・アレントーヴァ、アレクセイ・バターロフ》
1980年のテレビ放映で発見した。1950年代後半から1970年代前半にかけての、山出し三人娘の物語。三人がなんとも言えない味のある演技をする名作中の名作。私たち映画好きのあいだでは、《モス泣く》で通っている。
三人は同じ女子寮に暮らす友人同士である。エカテリーナ(ヴェーラ・アレントーヴァ)は工場に勤めるかたわら、工科大学に合格しようと励んでいる。彼女が不合格になって夜道を帰ってくるところから(さびしいドラマチックな音楽が流れる)映画は始まる。アパートに戻ると、友人二人に慰められる。
「働きながら勉強をつづければ、来年こそは……たった二点差だったんだから、負けないで」
「年齢制限は三十五歳でしょ。楽勝よ」
エカテリーナは捲土重来を期して再出発する。
エカテリーナの伯父は大学教授だ。彼の旅行のあいだは、エカテリーナが留守を預かることになった。教授の姪が女工であるという不思議な図から、ロシア社会の身分制と結びついた実力主義がつくづくと瞥見される。
友人の一人、パン工場に勤める軽薄なリュドミラ(これがいい味を出しているイリーナ・ムラビヨワだ)に勧められ、教授の娘姉妹と偽って、その家でインテリや有名人たちを集めたパーティを開いた。中の一人、現代文明信奉者のテレビカメラマンであるルドルフと恋仲になり、妊娠し、女工であることが露見して捨てられる。一方、リュドミラは有名なホッーケー選手グリーンを誘惑して同棲する。もう一人の友人、まじめなアントニーナ(ライサ・リャサーノワ)は、二人がそんな境遇に陥っているとは知らず、内装工ニコライと堅実な恋を成就させる。ここまでが映画の滑り出し。
エカテリーナは友人たちに祝福されて出産し、苦学して大学にも合格し(この経緯は邦画『ひみつの花園』のようには語られない)、とんとん拍子に出世していく。この間、寝床に入って過去を悔いながら目覚まし時計を巻くシーンが二度暗転する。そのつど彼女の環境が変わっている。非常に印象的だ。
十八年が経った。娘アレクサンドラは美しく成長した。エカテリーナはついに工場長にまで昇りつめた。リュドミラはアル中のグリーンと離婚して結婚相談所に通っている。アントニーナはニコライや子供たちと田舎で幸福に暮らしている。三人の友情は篤く、いまなお大の仲良しだ。そんなある日、エカテリーナは通勤の車中で、靴の汚い男ゴーシャ(アレクセイ・バターロフ)に出会う。ゴーシャは一目惚れし、彼女を追いかけてプロポーズする。彼は学者の論文の基礎資料を提供できるほどの、飛び抜けて腕のいい仕上工だった。エカテリーナは生まれて初めて安らぎに満ちた愛を得る。ただし、工場長の身分を隠して。プライドの高いゴーシャの愛を失いたくなかったからだ。ゴーシャはエカテリーナの家で暮らすことになった。バターロフと聞けば、65年の『小犬をつれた貴婦人』を思い出す人も多いだろう。私の大好きな映画だ。
ドラマは急激に展開する。工場長の抱負を語る姿をテレビ中継することになり、机に向かって演説をしようとするエカテリーナをテレビカメラが捕えた。操作手は、まだ一介のカメラマンをしているルドルフだった。下衆な彼は、これを好機と彼女の生活に刺さってくる。実父であることを傘に着て、エカテリーナ一家の食卓にまで押しかける。ゴーシャはそれまで、カテリーナのことを少し出世したぐらいの女工と思いこんでいた。ところが、アレクサンドラの実父が現れた上に、しかもその男の口から彼女が国家中枢の工場の長であると知って、失意にまみれて雲隠れする。
エカテリーナのあまりの悲嘆ぶりに同情し、友人たちが集まって涙ぐましい捜索が始まる。といっても、捜索するのはもっぱらアントニーナの夫のニコライだ。ついにゴーシャは捜し当てられ、
「命がけであんたは愛されてるんだ。愛に身分差なんかあるものか。チンケな男とはエカテリーナがきっぱりケリをつけたよ」
とニコライに説得されて(説得の内容は私の推測である―推測をよしとしない予備校生に、かつて大嘘つきと讒言されたことがある。評論家は作家よりも才能がないという推測を語ったことが原因だった)、エカテリーナのもとに戻ってくる。
「待ったのよ」
「八日間だろ」
「もっと長いあいだよ」
胸にくる科白だ。生涯を賭けた愛―それはあなたにめぐり会う前から、あなたに注ぎこむように運命づけられていた。それを一言で、詩のスタンザよりも短い言葉で言ってのけた。