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《ニール・セダカ(1962) 悲しきクラウン》
ついに書く、という思いである。スカイライナーズからしばらくの休止期を挟んで、クマさんという人物のおかげでポップスへの興味が復活したことはすでに記した。趣味を決定的な中毒にまで高めたのは、このニール・セダカだった。
中学校一年、野球部の帰り道、近所の家の窓から、
『デュデュデュ、ダンデュビ、デュダウンダン、ブレイキンガップ、ハートゥドゥ……』
という歌い出しの曲が流れ出てきた。開け放した窓を覗きこむと、顔見知りの高校生が肘枕で寝転がり、縦型のリールデッキを鳴らしていた。東海高校という秀才校にかよっていると聞いたことがあったし、一度わざわざグローブを持った彼の訪問を受け、求められてキャッチボールをしたことさえあった。こんな目と鼻の先に住んでいたのかと思った。
「何、その曲」
彼は得意げに、
「ニール・セダカの悲しき慕情。全米第一位やで」
「ふうん、初めて聴いた」
「高崎一郎のザ・ヒットパレードで毎週三位には入っとる」
それがきっかけで、私はラジオのヒットパレードを聴くようになった。ダイヤモンドがザックザクの番組だった。
その二年後、青森へ島流しを食らう直前、浅野修という担任(故人)の熱血教師のもとに三カ月間強制下宿させられた。夜遊びをしないように監視してくれないかと、母がその教師に頼みこんだからだった。
彼の弟の光夫さんは、この上なくいい人で、窮屈な思いで暮らしている私に痛く同情し、よく話しかけ、何くれとなく労わってくれた。二浪しているということで、秀才だった兄に白眼視されていたが、
「お兄ちゃんは独裁者だから」
と、さびしそうに笑いながら、
「でも、タクちゃん、負けちゃダメだよ。がまんしなくちゃいけない時期は、だれにでもあるんだからね」
私を励ますことに心を砕いた。音楽好きの私に光夫さんがプレゼントしてくれたのが、『悲しきクラウン』だった。彼は勉強の時間を割いて、よくこの曲をいっしょに聴いてくれた。パンチの効いたよく伸びるツヤのある高音、天才的なメロディライン、リズム。ポール・アンカ以来ようやく出会った、超絶シンガーソング・ライターだった。
光夫さんの願いも空しく、やがて私は、恋人と夜道を歩いているところを浅野に見つかり、その下宿から追放され、流謫の身となった。眼鏡をかけたニキビ面の光夫さんにはその後会っていないが、いつもその顔のまま思い出の中心にいる人物である。
その当時のレコードは紛失し、いま持っているのは、早稲田時代に手に入れたものだ。このレコードも磨り減った。五十二年前の、あのころの思い出のように。