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《おもいでの夏(1971) 監督ロバート・マリガン 主演ゲーリー・グライムズ》
ミシェル・ルグランの美しいテーマ曲を背景にして、内省的なモノローグではじまる。
忘れえぬ女性が「混乱」を与えたと語る。
生涯引きずっていかなければならない混乱。
性と愛を識別することのできない時期に、愛を教えるための肉体をたずさえて訪れた異性。
彼女の手で与えられる青春の甘露。
このモノローグがすべてのように見えて、すべてではない。
大切にコマ割りされた映像が、15歳の少年の「混乱」を細かくたどっていく。
1942年、戦火を避けてハーミー一家は海辺の町に疎開してきた。
ハーミー(ゲーリー・グライムズ)は悪童仲間と連れ立ってぼんやり遊び回っていたが、そんなある日、
砂浜で日光浴しているドロシー(ジェニファー・オニール)を目撃する。
戦場に送り出した夫を待つ女だということは、ふだんの見聞から知っている。近づきがたい存在だ。
ハーミーのからだの底には、すべての青春の出発点である動物的な性欲が疼いている。
彼は年上の女性への想いを同い年のガールフレンドで代替しようとするが、ドジを踏むばかりだ。
ドロシーへの関心が得体の知れない澄んだ感情を伴っているせいだ。
どんなふうにしてハーミーとドロシーが結ばれていくのか、結ばれることがなぜ別れにつながるのか、す
みやかな別れがストレスを感じさせないわけは?
本能が人格の一部として昇華していく過程は、男と女が存在するかぎり永遠の謎である。
ロバート・マリガンはその謎を、謎のまま、やさしく放り出した。
空に吸われし十五の心
―おそらく15歳という年令は、肉体が魂へ昇華していく転換点なのかもしれない。
啄木の歌うとおり、少年のがむしゃらな心が空に吸われて別の人格へ変身していく季節なのだろう。
私はその1年間を記憶に留めるために『牛巻坂』を書いた。書きながら泣いた。
おそらく、ロバート・マリガン(『アラバマ物語』)もこの映画を撮りながら泣いただろう。
未練や虚しさからではない。
別れを予感しながら没入した自分の水の心を懐かしむせいで泣くのだ。
無力を予感する、予感が現実になる、あきらめる、その一連の記憶が泣かせるのだ。
少年にも諦念はある。大人に〈都合〉があると知っているから……。
その都合をねじ伏せようと奮闘するけれども、生活に根ざした大人の時間を変更することはできない。
性医学書を読み漁る仲間たち、
コンドームを売り渋るドラッグストアのおやじ、
ドロシーにキスをして船着場から戦地へ旅立っていく夫、
それを見つめるハーミーの水のような視線。
無記名の青春時代の印象そのものだ。
時を経て、そのすべてに愛のある表現を与えてやることで、それらは克明な表情で生き返り、私たちを泣かせるのだ。
二十六歳の冬、この映画を渋谷のリバイバル館で観た。
曲がりなりに大学を卒業し、詩人として立つことを夢見ながら巷をうろついていたころだ。
その日わたしは、とつぜん、「詩を書いていても先がない。通訳にでもなろう」といういいかげんな決意
をし、松本亨英語学校を訪れた。
年齢制限で断られた。
帰り道、この映画を観た。胸のかさぶたを剥がされ、泣いた。
わたしは今度こそほんとうに決意をした。
「このまま詩を書きつづけよう。そして死ぬまでに一作だけ、胸のわだかまりを吐き出すような恋愛小説
を書こう。そうすることで、15歳の心に深い傷を残した女と永遠に別れよう」と。