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《ロリュアルドとジュリエット(1989) 監督コリーヌ・セロー 主演ダニエル・オートゥイユ》
一見、シェークスピア劇を思わせる題名がつけられたこのフランス映画は、初々しい若者同士の恋愛詩ではなく、 中年の男と女の友情滑稽譚の形で最後まで押していく。
会社社長であるロミュアルドは35歳、その会社の掃除婦ジュリエットは45歳で、しかも父親がばらばらの5人の子がいるウルトラでぶの黒人という、じつにアンバランスな設定にまず興味をかき立てられる。
この社長(ダニエル・オートゥイユ)、重役たちの陰謀にハメられ退任の窮地に陥るが、ジュリエット(フィルミー ヌ・リシャール)のスパイまがいの八面六臂の活躍でなんとか危機を脱する。その過程でロミュアルドは、自分がジ
ュリエットに感謝や友情とはちがった気持ちで魅かれていることに気づく。
彼は想いを告げねばならないと決意する。
告白戦略は次々と失敗し、けっこうな曲折があったのち、彼はめでたく想いを成就する。
じつは成就は初めから見えているので、そこに安堵のため息をつくことはできない。
成就に至るまでの要所要所で、彼が決然と障害を乗り越えていく気組みと、奇矯な行動、その描写が見事だ。
人種の偏見、階級差、年齢差に苦しむ愛。
この種の問題を扱った映画は多いが、たいがいは克服されずに空しく終わる(たとえばシドニー・ポアチエの『いつか見た青い空』、チャプリンの『ライムライト』、ヴェルナー・クラウスの『ブルク劇場』)。
それは社会通念の恐怖を、万人共有のものとして重視しすぎるからだ。重視しすぎれば、問題はとめどなく深刻化 する。わが国の同和問題しかりである。
しかしこの映画は、最初から人種的階級的なステレオタイプを笑い飛ばし、観る者に二人の男女が社会の常軌を逸
しているといっさい感じさせないまま展開する。
また作中の二人も自分たちの心の持ちように何の引け目もなく、ごく自然に恋愛感情を高めていき、理解し合い、結
ばれる。登場人物をひたすら恋愛に集中させるような、偏見もこだわりもない構成が痛快でたまらない。
この世の現実よりもすぐれた現実が存在するとひそかに信じている、あるいは信じたい人びとが社会には相当数いる。私もその一人である。とすれば、彼らを満足させる作品は、ドキュメンタリーやノンフィクションではなく、こ
しらえのいいメルヘンにしかない。
つまり、現実を相似形になぞったリアリズムを押しつける思想的な作物ではなく、むろん製作の意図が不明な前衛で もなく、荒唐無稽な、いわば現実をあざ笑うようなメルヘンにある。
質のいいメルヘンは、輪郭のボカシの効いた、非現実的な笑いや涙を交えた美しいウソの形で、かさばりのある真実を確認させてくれる。
心のうちに抱えているステレオタイプが、心地よく、それこそウソのように消え去り、「わたしがまちがっていまし た、あさはかでした」と素直に頭を垂れさせるからだ。
ところで、ステレオタイプの脅威を吹き飛ばすためには、恋愛を演じる役者の強烈な個性が必要だ。
フィルミール・リシャールが持つ、マリアンネ・ゼーゲブレヒト(『バグダッド・カフェ』)に匹敵する存在感、 ピーター・セラーズを髣髴とさせるオートゥイユの生来的なユーモア。
メルヘンを現実の域に高めるためには、役者の個性とその組み合わせがなんと重要なことだろう。
ひょっとしたら現実の世界でも、強烈な個性を持つ人間の人生はメルヘンチックに進んでいき、さりげなく障害を越えてしまい、思い通りのエンディングを迎えるのではないか―そう錯覚させるほどの俳優のアイデンティティーと
、マッチングが重要なのだ。
なお、監督のコリーヌ・セローは女性である。
極力リアリズムを排除した輪郭のぼかし具合を、なるほどと思わせる。
心の底から快哉を叫びたくなる恋愛映画だ。