感想寸感

「高く青く孤独なところ」 感想   (2022.12.27寄稿)
 人生は挫折の連続なのだろうか。
 白鳥軍司は挫折した自分を愛してくれる女性とあったおかげで生き方が変わった。それがすごく響いた。本当に自分を愛してくれる人は、才能よりその人自体(人間そのもの)を見ているのではないか。
 挫折は私のテーマであり、心ある人のテーマである。私は今、挫折中で立ち上がるすべもない。ただこの『高く青く孤独なところ』のように女神みたいな人が欲しい。なにもない私を認めてくれる雄神が欲しいと思った。この作品のように共に悲しみに触れ、病があっても楽しく一緒に生きられる人がいればいいなあと思う。
 そのシーンは、読んでいてのどが渇いた。没入してしまった。
 また嫌な感じの人(長谷川監督)が本当に嫌な感じに描かれている。いやな感じを受けさせられた人しか書けないすごさがせまる。こういうところでも共感した。
 特に好きなシーンは主人公が河川敷で少年たちが野球をしているところを見ながら新たな気持ちになるところである。主人公の再生、再起、気持ちを新たにするところで、心に爽やかな暖かい風が吹き抜けていった。読んでいてなんて気持ちがいいのだろうと思った。  

                 早稲田大学法学部4年 三明燈子
「誘惑」 感想               (2018.1.5寄稿)
 愛することの快感、誰が見ても正しい道から外れて行く快感と、客観的な優等生、エリート、無難、事なかれ主義といった価値観の間で、2人は揺れ動く。
 ところで作中、男は自らの愛が単なる肉欲であったのでは無いかと葛藤するが、どう解釈すれば良いだろう。行為の中で、途端に女は男への愛や熱情を表すことが珍しくなく、男はそれを勘違いし、時に傲慢にさせる。作中の男は、愛を肉体的なものとは別の次元であると悟るが、これが非常に悩ましい。私は、やはり行為の中だけで女が見せる愛情表現が偽りだとは思わないし、錯覚も愛になり得ると感じる。
 しかし、男は愛とは何かを追求し、愛した女を追い求めること自体が真に愛に突き動かされたものか、上辺だけの名誉心によるものかを悩み苦しむ。この姿は、我々も愛を感じる時に、折に触れて思い起こされなければならない。
                        東北大学4年 井上
「鯉人」読了


先生の新作「鯉人」を2度読了した。素晴らしい、すごい作品でした。先生の作品を読むと、現代は、文学の衰耗が盛んに言われるが、そうじゃないな、と思います。今回の作品のように後世に残るような、大傑作というのは《時代》が作り出すものではなく、時代、時代の天才「個人」が突発的に産み落とすものなのだな、とつくづく思います。そしてそれは、社会ではなく、個人の「魂」に訴えかけるものです。
 読み手は、書き手の精神世界へ、信頼感を持って緊張を高めなければ、《文学》は決して読めない、というのが私の持論です。書き手が、現代の未知の読み手の精神世界まで低めていては、時代を超えた、古くならない作品は生まれない。金は儲かっても、すぐ古くなる。
 
 『しかし、本は売れなければ、出版社はつぶれてしまうし、読み手がなけれれば本という存在価値はないじゃないか。純文学なんてお高い作品はいらない』
 
 そんな論述は耳にたこができるほど聞いたし、百も承知だ。しかし、その論述で行けば、多く売れる本がよい作品ということになってしまう。
 
 評論家や学者は、ある程度の芸術性の評価維持という、役割を担っていると思う。先生のような無名の天才を、利害関係なく正当に評価してほしい。そして時間のある学生は、たくさんの本に触れて、先生のような作品を書ける作家が現代にいないことを実感してほしい。
 無知な読者を、素直に筆者の精神世界までテンションを高めようとさせる一番簡単な方法は、その作者や作品に権威付けするということだ。残念ながら、読者と権威付けされた作品との結束は固い。
 今のような、おちゃらけた時代を通り抜けてれば、後世、真剣な芸術作品を賛美する時代が来るのだろうか。文章芸術というものにまともに向き合う人間が出てくるのだろうか。いや、時代じゃない、個人だ。作る人間と、読む個人の関係性の問題だけだ。
 先生の作品は、賞も獲っていない、権威もない。しかし、テンションを高めて、最後まで読了してほしい。敬虔さと信頼を持って、真剣に読めば読むほど、読み手の魂に食い込む、不思議な本だ。
 最後まで淀屋の再建を願っていた樹光院の静かな死。結核に冒された吾妻の壮絶な死。才能にあふれた楽天家、光琳の死。そして辰五郎の死。時代小説でありながら、遠い昔の江戸と現代の時代の齟齬が感じられない、人間が、生を受けて、人を愛し、愛され、どんなに幸せでも不幸でも、どんな人間でも日常の中に死を迎える悲しい人間の性、普遍が見事に、美しく文章化されている。
 そして、幾代にもわたる米相場の独占特許から、武士よりも富と財力を手にしていた町人・淀屋の闕所の様子を、ここまで克明に描いた最初で最後の作品になるだろうと確信を持って言えます。淀屋関連の資料は、ほとんど無く、今わかっている史実をもとに、考えられる可能性と、筆者のたくましい想像力を駆使して書かれたものです。歴史に詳しい人間が読めば、その新解釈に驚かれることでしょう。赤穂浪士討ち入りの経済的助けをしたという、新展開は非常に興味深い。そういった史実はないが、可能性はある。
 淀屋の闕所を随分前から予測し、再建の準備をしていた父・重当。政治には無頓着で、倦怠と諦念に満たされた辰五郎。
 (「鯉人」は今までの川田文学とはまったく異なると言われるが、こういった主人公の心の動き方は、川田作品独特なもので、実は、今までの作品と同じ流れを汲んいると思われる。倦怠と諦めというのは、川田作品特有の必須概念で、そこが非常に読み手にとって非常に難解なところでもある。つまりは軽く読み流せないところなのだ。普通なら主人公はこう考えるだろう、という予測がまったくつかない、重要なポイントなのだ。)
 辰五郎とは全く対照的な野心家・頼方との決別。どの登場人物をとっても生き生きとこの作品の中に生きている。
「鯉人」の中で印象的な場面は、闕所、追放の申し渡しをうけた後、淀屋の屋敷前で捕縛され、河内・山城・摂津の国境玉造の三国橋まで馬に引きづられながら、途中着物ははだけ、草履は脱げて裸足になりながらも乾いた固い土の道を走って連行される場面である。物見たちは、罵倒するものあれば、同情の目を向けるものもある。新太やロク、吾妻が心配そうに後を追う。炎天下で、墓堀人が石を削る描写は、残酷な護送のおどろおどろしさを一層引き立てる。
 こういった場面は(もうお気づきの方もいると思うが、)十字架を背負ったキリストが、ゴルゴダの丘へ向かう場面を想起させる。
 皆さんは、ブリューゲルの「十字架を担うキリスト」という絵を見たことがあるだろうか。構図の奥にゴルゴダの丘があり、空は不気味に曇っており、数匹のカラス。その下に何百人もの群集が俯瞰的に描かれ、よく観ると、絵の中心に十字架を背負ったキリストが倒れこんでいる。追い討ちをかけるように十字架を踏みつけているものもあれば、助け起こそうとする人もいる。そんなことはお構いなしに喧嘩をしているものもあれば、楽しそうに遊んでいる人もある。マリアと思しき女が顔面蒼白で座り込み、マグダラのマリアらしき女性が泣き崩れる。イエスの様子を遠くの木の陰でじっと見ている男(それがブリューゲル自身だと言われている)もいる。この木の陰で(表現すること以外)何もできないブリューゲルの姿は、渦中の人ではないが、物語の顛末と辰五郎の心情を感受することしかできない私たち読者自身であるかのようだ。
「鯉人」という作品の核となる「闕所」という重要な場面を、政治的な大事件の迫力と、権力に対する一個人の無力さ、だけに留まることなく、群集の非情さ、愚かさ、主人公を慕い、愛する人間でさえも何もできない無力さ、不条理さ、といった抽象的な概念まで広げて表現されている。
 この場面は数ページに満たないが、そんな抽象的イメージが私の心に染みついた。この作品をたくさんの人に読んでほしい、心からそう願う。
     早稲田大学 第2文学部OB M


「鯉人」感想文

 鯉人は,純朴で,巨大な,魂の物語です。
 当代随一の豪商としての身分,金銀にまみれた豪奢な生活,多様な人間たちとの交流,政治や文化や風俗といった世の中全般に対して,辰五郎の魂は決して最終的な満足を獲ることがありませんでした。ものごとをありのままに感知してしまう才能がありすぎたのだと思います。それでいながら,終始,世の中全般に対する優しさと,微笑と,善と,義と,凛々しい態度を忘れることはありませんでした。
 隠遁を選ばず,市井のなかで苦しみぬくことを選びました。どんな喜ばしいこと,華々しいことに接しても,そのこころの底流に求心的な苦悩や憂鬱が貫かれていることに気づき,圧倒されます。辰五郎がひっそりと守りぬいた魂が解放され,安らぐことができた場所は,吾妻のなかにしかありませんでした。吾妻は,愛そのもののような存在でした。自然そのもののような愛で辰五郎を包みながら,命の花を咲かせます。
 私はこの小説は,本当に二人だけのものであると思うのです。二人は世に
泥むことなく,おごることもありませんでした。かくも無垢で,偉大な魂が,愛し合いながら,摂理によって生かされ,殺されいく,ふるえるほど悲しい小説でした。

 早稲田大学 文学部3年 川畑くん(2010年4月当時)

先生の作品の感想

最近、再び先生の作品を少しずつですが読み返しています。

今は「牛巻坂」。

はじめて読んだ14年前には感じ取れなかったこと、恋愛しているときの気持ちだとか、普段、私自身も感じているだろうけど、言葉で表現しきれなかったり、表現したら嫌われると思うような気持ちが、驚くほどドンピシャに表現されていて、何というかそれだけで私にとっては価値ある作品です。

先生の本を一生かけて何度も読み、吸収して、自分自身の体で、もっともっと「分かるなあ」と深く感じて
いけたらなと思います。。。

〔先生の作品の感想〕

やっぱり難しい。言葉にするには時間がかかりそうです。
あれだけ、真剣に丹念に描かれている作品に対して、コメントするというのは。。。ね

あんなスゴイ作品たちを、この世に産み出してくれた川田先生には、本当に感謝の気持ちでいっぱいで、
とにかくいっぱい応援したいし、励ましたい気持ちでなんですが
先生の作品を前にしては、言葉にすると嘘くさくなるというか・・・・
もっともっと理解して、深めないと。。。ですね。
                投稿者:群青さん 

「五百野」

不思議に思うことがあるのは、先生の作品に感動こそすれ、そこで何か感動に浸ること自体を逃げているような人がいること。
恐らく、この物質社会に自分を嵌め込みすぎて、
「大人」として振る舞い、感情を吐露しない、あるいはできない、することが何か怖いという図式が人間全般に瀰漫しているからだと感じる。

私は、先生の本を何回も買って、何回も人にあげたり、読ませたりした時がある。
人によっては反応はまちまちだが、
やはり、先生の作品を好んでくれる人が絶対いるのです。
例えば、一番身近な例を挙げれば家族。
18歳の当時、先生作品の数冊を母親と弟に無理にではなく、私はとても良い作品だと豪語していたせいか、2人とも手にした。
「牛巻坂」「誘惑」「五百野」の3つ。
当時15歳の小説なんぞまともに読んだこともない弟は特に恋愛小説2つを大層気に入り、何度も読んでいた。
母親は、「五百野」にいたく感動し、何度も涙を流していた。
(「あれあ」は難しいということでした。言葉を理解するのは、言葉の奥にある世界を見たことや、感じたことがなければ、無理だということでしょう。)
2人とも、私と違って小説・映画・音楽・哲学などに深いものを求めない性質なのに、なぜ面白いと感じたのか?
それは川田先生の作品が優れているからに他ならないと思います。そして、彼らの中に巣くうものに一瞬でもいい刺激を及ぼしたからに他ならない。

ただ、残念だと思ったことは、そういった感動を長く求めるような、美しくあると人間に求めるような、
そういう自分を追及する姿勢を促すようには期待できなかったこと。これは少し、仕方ないかなあと思ってます。

ただ、必ずこの世に先生の作品に感化される人は
絶対埋もれている。それは間違いない。
だから、このHPも川田文学が陽の目を見る序章なのではないか?と思いたい。

先日、久々に『五百野』を読みました。
やはり、先生は素晴らしい描写力の持ち主です。
(例えば、少年が海に駆け出してオニヤンマを捉える描写の美しさ、読んでない人は絶対読んでほしい!)

                       投稿者:ノートンさん

はじめまして。川田さんには早予の仙台校でお世話になりました。
群青さんと同じ頃でしょうか。八年くらい経ちますね。
川田語録にしびれたあの日々を、とても懐かしく思い出します。

 生きることに慣れて、出会うものが皆、相対化されてしまっても、
私の中で、川田文学のリリシズムは普遍性を保ち続けています。
鋭利なアフォリズムも、耽美的な叙景歌も、先生の繰り出す一言一句は
文章芸術の沃野の存在を示唆する不思議な力に充ちていました。
あの頃心に刻まれた寸鉄の章句が、私の人生に与えた影響は計り知れません。

 残念ながら、今や私は、純文学ファンを自称するのもおこがましい、
都会の一隅でビジネスの奔流に揉まれる陳腐な人間でしかありませんが、
それでも先生の特別なファンであり続けたいと思っています。
            投稿者:つづらおりさん

ブルー・スノウを読んで

今までの川田作品に馴染んできた者たちを驚かせるには、この作品の最初の数行だけで十分であろう。従来の作品群が、叙情、思索、そして愛と友情の核を追求し、ひたすら夾雑物を排する方向に研ぎ澄まされたのに対し、この作品はアトモスフィアに満ちている。
 前作で表現の極北に達した文体は、がらりと方向を変え、暖かく、そして柔和となった。本作品は、厳格な弦楽四重奏に似た響きを放つ川田作品に、最初に現れた、管弦楽の色彩をもつ作品である。それも、晴れやかな長調を基調とした、幸福な作品である。
 最初の作品、牛巻坂の青森へ向かう夜行列車は、暗黒の淵に向かっていた。しかし、夜を通り過ぎて待っていたのは、北国の光に満ちた世界である。そこでは、さながらピンホールカメラを抜けたように、世界が反転している。主人公が進む光軸は決して変わってはいないのだが、彼を取り巻く人々と自然は、ネガからポジへと裏返り、彼を析出するのではない、親和力を有した溶媒となっている。主人公を追い詰める外界ではなく、彼の脈動を受けとめる培地となっている。このことが、川田作品に従来見られなかった、安らぎと救いを与えている。
 ブルー・スノウは、さわやかな涙をもたらしてくれる作品である。思い返すべき青春をもつ者なら、例外なく、愛することのできる作品である。川田拓矢の作品群に芽吹いたこの作品が、彼の異色作とはならず、さらに多くの花々を咲かせることを心から望んでいる。          

       投稿者:小川克也さん(内科医)

正常という事 

風と喧噪は川田文学の最高傑作!!
いや、文学史上最高と言ってしまおう!
読書量が貧弱な私だからこそ自信を持って言い切れるものと自負しております。(苦)
 
 脳は魂を超えられない

「みんなと違う自分」に悩む、数少ない正常な人を救う福音の書であります。
宿便の一掃される想い。心の中に川田拓矢がいる限り、胸を張って全てをあきらめ
背中を丸めて全力で努力をするであろう。
決して揺るがぬ覚悟が自分を支配する。厄介なことになった。

       投稿者:さすらいの雀ブラーさん  

 

はじめまして。
 川田先生には8年前、仙台の早予でお世話になりました。といっても、内気な私は講義のみでしたが…。でも実はあの時よりも今の方がずっとお世話になっているかもしれません。

 仕事や何かでくたくたになった時は、「あれあ〜」や「全き詩集」を開いては心を落ち着けてきました。もう8年間も、何度も何度も読んでいますが、常に新鮮です。先生が在て、これを書いてくれて本当にありがとーって感じです(笑)。

 つい一週間ほど前、「あれあ〜」を読みながら先生の新しい本が読みたいと痛切に感じ、何気なくインターネットで名前を入れたら、こんなホームページに巡りあいました。あんなに激しく喜んだのは、中学のマラソン大会が中止になったとき以来でしょうか(笑)。
 さっそく3冊、本屋で注文致しました。野球少年の話は絶版で残念です。タイトルも背中に定規を入れられたみたいにすっと(ぞっとじゃないよ)して、素敵なのに…。しかも講義中、次は野球少年の話を書きたいと思ってるって言ってたのを憶えているだけに残念。 

 ま、長くなっちゃいましたけど、このホームページはずーっと続けてくださいね。応援していますから…。
               投稿者:群青さん 


 良い小説について

以前、先生に優れた文章について御教授いただきました。
 私なりに「良い小説」について考えてみましたので書き込みさせてください。
 小説は一度読めばだいたいのストーリーは覚えてしまいます。
 だから、もう一度読みたいと思わせるものは少ないのが常です。
 では、再度読みたくなる小説は何処が違うのか?
 恐らく、そこにはストーリーを超えた表現力があるのではないでしょうか?
 ストーリーが分かっていてもなお読みたくさせる文章力があるのだと思います。
 こまやかな表現のひとつひとつに魅力がぎっしりと詰まっているのです。
 川田先生の作品もそんな小説です。だからこそ我々をとらえて離さないのでしょう。
 そういう文章を書けるようになってみたいものです。
             投稿者:ガチンコ さん

「ブルー・スノウ」

期せぬ休みがとれて、ひとり京都へ行ってまいりました。旅すがら、「ブルー・スノウ」を何度も読み返し、“いい小説だなぁ”と幸せな気分に浸る日々。なかなか贅沢な休暇でした。普段、資本主義の奴隷のような世界に浸っている自分の垢が、少し落ちたような気がします。

<ぼく>の魂が、<ユリ>との完結的な愛情世界においてでなく、周辺人物たちとの係わりのなかで蘇生してゆく構成――この重層性には、これまでの川田作品とは一味違った深みがあり、非常に読み応えがありました。また、読者の原初的な美感をくすぐり、圧倒的な筆力で文章表現に昇華させる川田イズムもますます健在で、私の読書欲をおおいに刺激してくれたと言えます。

川田さん、文字通りの快作です。ありがとうございます。

            投稿者:つづらおりさん