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《タクシードライバー(1976) 監督 マーティン・スコセッシ  主演 ロバート・デニーロ》



 早稲田を卒業した年、愛媛県松山市の、折り畳み椅子を並べてある映画館で観た。

 私は折り畳み椅子の闇の中で、震撼とした。
 
 社会悪に対する暴虎馮河的な怒りの行動は、精神の病ととられがちである。この映画のほとんどのプロット紹介もそうなっている。彼が天才であることに気づいていない。軍人上がりということは、国家に騙された経歴の持ち主ということである。ふつうの人間はその体験をバネにしない。ひっそりとあきらめて世に埋もれる。その意識すらないかもしれない。裏切りを許さないという怒りのテンションを保つのは凡夫のなしうるところではない。天才の首尾一貫性の賜物である。

 彼は凡夫の中で暮らしている。心の底に諦念を抱きながらも、ふと同僚との立ち話で、この世に対する疑念を投げかけたりするが、思ったとおり平凡な答えしか得られない。彼のテンションの高い怒りは、考えすぎのひとことで打ち切られる。つまり彼は、凡夫の中にあっては、ただ考えすぎの同類と受け取られている。狂気を感じさせないからである。いかなる文化文明も、考えすぎの天才が創り出したものだということに、凡夫は永遠に気づかない。天才は凡夫の中にあっては狂気ぶらないのでなおさらである。

 社会ばかりでなく、当然、一目惚れして近づいた権高な女からはふられる。怒りの真の対象でないものに対しては、彼は逆に個をさらけ出して狂気を隠さない。女は包み隠さぬ個性に惹かれると錯誤しているからである。しかし女は非社会的な天才を嫌う。

 彼はどうしていいかわからなくなる。一大決心して、政治家の暗殺も考えてみる。ガードの固さに、すたこら逃げ出す。そこで、街でたまたま見かけた、いたいけない少女の売春婦を組織から救い出そうとする。彼女に売春をさせているヒモを撃ち殺し、置屋の親父を殺し、覚悟の自殺を図るが生き延びる。結果、少女の親からは感謝され、あれほど嫌っていた社会から称賛されるところとなる。天才につき物の、望まないマグレ人生というやつである。

 一から十まで、典型的な天才の素行を描き、一秒の狂いもなく描き切ったこの作品を、そこいらの精神病駄文学にされては、スコセッシもたまらないだろう。どんな表現者も、表現者であるかぎりかならず、人間的理想を体現する天才を描きたがる。凡夫や病者を描いても人間的な理想を描いたことにならず、理想的な人間を描かないかぎり、何ら人間社会の文化文明の発展にも寄与しないからである。