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《私が棄てた女(1969) 監督浦山桐郎 主演河原崎長一郎》

 

 かつて読売オンラインに書いた映画評を10本ほど、稿を練り直して再掲してみる。

 湘南の海辺の小屋に置き置き捨てられ、ひとり目覚めた森田ミツ(小林トシ江)は、シュミーズ一枚の姿で夜明けの砂浜へ走り出た。だれもいない湘南の海に向かい、

「……吉岡さあん」

と蚊が鳴くような声で呼びかける。絶望に打ちひしがれた人間は大声が出ない。吉岡努(河原崎長一郎)はひとり夜明けの町を走り去り、すでに湘南駅のホームにたたずんでいる。ミツを棄てるための旅だったのだ。彼はうつむいている。到着する電車に音がない。吉岡の頭の中にミツがいるからだ。

棄てられた女の悲惨さがこれでもかと映し出されていく。中絶のベッドで両脚を広げ、

「イヤー! 吉岡さあん!」と絶叫するミツ。絶望の確認の声は吉岡に届かない。思い出を断ち切れないミツをからかうやくざな友をにらみつけ、

「人が人を好きになって、どこが悪いのよ!」

と怒りの声を上げる。一貫した愛の叫びは、彼女の時間が変わることなく吉岡に捧げられていることの証しだ。さまよい歩いてたどり着いた養老院の窓辺で、息子に見離された老婆の横顔に、

「あたし、ここにいます」

と呼びかける。すべての弱者に同伴する神の声。そうして、心やさしきお多福の森田ミツは死んでいく。死の経緯はあまりにも理不尽なので、語らないでおく。

幸せな結婚をした吉岡努は、ミツの葬式の夜、新妻(浅丘ルリ子)に悄然と呟く。

「やさしいということは、弱いということだ。俺はミツじゃないが、ミツは俺だよ」

 吉岡はさんざっぱら顔を張られる。この夜、吉岡は参考人として警察に呼び出され、ミツを関わりのない女だと切り捨ててきたのだ。

大学一年の冬、このすばらしい映画に出会った。学生運動崩れの平凡な男の心に、山出しの娘が魂の革命を起こすという構図に、永遠を感じた。最初から最後まで涙が止まらなかった。当時私はいつも泣きたくなる事情に打ちひしがれていて、泣きたくなるとかならずこの映画を観にいった。ピアで調べた上映館を追いかけ、飽かず遠出した。

何度も観ているうちに、ミツばかりでなく、吉岡への感情移入が始まり、いよいよ高まっていった。ミツはこの男と、この顛末の人生を送ったことが、いちばん幸せだったのでないかと思えるようになった。吉岡努は意外なほどの正義漢であり、常に罪の意識と後悔のアンニュイに満たされていて、ミツの人格から深く学ぶ倫理観もたっぷり持っていた。この男がミツを棄てたのは、穏やかな自殺を望んだせいではなかったのか、とまで思わせた。

お多福の面が(じつは愛する妻の顔なのだが)スクリーンいっぱいに浮き上がり、遠景に二頭の馬が地平線を駆けていく。その絵で映画は終わる。最初にタイトルが出るときも、お多福の能面の大写しだった。吉岡が仲人の社長の家で泥酔してにらみ据えていた壁にも、お多福の能面が掛かっていた。この象徴性には含蓄があった。やさしさの権化、聖母、いや、おそらく原作者の遠藤周作の頭には、永遠の弱者であり救済者であるキリストのイメージがあっただろう。

名監督浦山桐郎と名優河原崎長一郎をして、一世一代の監督業、一世一代の演技とみずから言わしめた映画だ。脇をこれまた名優の小沢昭一、江守徹、加藤武、辰巳柳太郎、大滝秀治、そして成熟した浅丘ルリ子が固めている。ミツ役の小林トシ江は編中では垢抜けない田舎女を演じているけれども、わたしの大好きな女優の一人である。ただこの一作をかぎりにまったくスクリーンで見かけなくなった。後年、『歌謡曲だよ、人生は』で老けたアパートの管理人役でチラリと見た。胸が躍った。

幼稚園のころから映画を観てきたわたしの到達点であり、原点ともなったこの映画を、ビデオを含めてもう百回と言わず観ただろうか。何度観ても、わたしの涙が枯れることはない。



思い出の河原崎長一郎インタビュー

朝日新聞(2007/05/26 土曜版 「be on Saturday」)
【愛の旅人】
   「許す女」はぶざまに死ぬ