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《「小さき闘いより」敗れざる者(1964) 監督松尾昭典 主演石原裕次郎》
小学校一年から四年までの四年間、私は横浜の浅間下に母と暮らしていて、夜も日もなく裕次郎映画を見狂った―というのはオーバーな表現で、実際は、小額の小遣いを握って保土ヶ谷日活を往復したのは土曜日だけのことだった。それでも毎週のことなので、1957年から59年にわたる彼の主演作はすべて観ることになった。主題歌があるものは、すべて歌うことができるほど繰り返し観た。ひと月半からふた月のあいだに演目が替わるので、少なくとも同じ映画を四回は観ることができた。
いま思い出せるものを挙げると、『太陽の季節』から始まり、『狂った果実』『乳母車』『勝利者』『鷲と鷹』『俺は待ってるぜ』『嵐を呼ぶ男』『夜の牙』『錆びたナイフ』『陽のあたる坂道(この一本だけはどういういきさつからだったか母と観た)』『明日は明日の風が吹く』『素晴しき男性』『風速四十メートル』『赤い波止場』『嵐の中を突っ走れ』『紅の翼』『若い川の流れ』『男が爆発する(主題歌〈最果てから来た男〉はいまもなお裕次郎の最高傑作として耳に残る)』『世界を賭ける恋』……。
59年秋の名古屋への転校を契機に、タフガイ裕次郎の映画はほとんど観なくなった。と言っても62年くらいまで年に二、三本は観ていた。その後はまったく観なくなった。そんなわけで、64年のこの大傑作を見逃した。五十歳を過ぎて、CSから拾った。なんと裕次郎が素封家のお抱え運転手の役をやっていた。アクションはいっさいない。その家の中学生(脳腫瘍の発症から死まで)の哀切な人生を見守る役だ。
運転手の橋本(石原裕次郎)は、一人っ子の俊夫(小倉一郎、好演!)と仲がよかった。だから彼は、俊夫のからだの変調にすぐ気づいた。診察を受けた俊夫は脳腫瘍と診断された。手術は腫瘍の一部を切除するだけに終わった。橋本は毎日見舞いにいった。やがて俊夫は退院を許され、ふたたび学校にかよいはじめる。しかし、病状は進行し、再手術することになる。俊夫は橋本に、自分は助からないことを知っている、と話す。
「生きているうちに、何でも見ておきたいんだ」
橋本は幼い諦観に言い知れぬ感動を覚える。彼は車で俊夫を連れ歩く。数日後、俊夫は死の床に就く。昏睡の合間に、必死で床の周囲を眺め回す。そして目に映る一人ひとりの名を呼ぶ。最期に、
「ハシモトゥ……」
と呟いて息を引き取る。何度観ても、涙を抑えられない場面だ。裕次郎が端座したまま、大粒の涙を流した。裕次郎が泣いたのは、あとにも先にも、この映画一本きりである。
このシンプルなストーリーに、医者たちの葛藤やら、裕次郎の殺人者としての暗い過去やらが混じりこむ。あまり効果はない。ハシモトゥ……の一言に尽きるのである。