夜を渉る


 昭和38年の吉展ちゃん事件をモデルに書かれた作品です。昭和の凶悪犯罪として代表的な事件でした。初めて犯人捜査に肉声分析がなされたことでも有名です。当時ベテラン刑事だった大塚八兵衛は、小原保が犯人であると睨み、数年にわたって地道な捜査活動を続けていましたが、状況証拠のみで何一つ物的証拠を得ないままの別件逮捕。ついに小原の自白、自白による遺体発見で逮捕に到りますが、驚くことに、その自供は、「吉展ちゃん事件」捜査打ち切りになるわずが十数時間前だったと言われています。獄中で小原は福島誠一というペンネームで多くの短歌を残しました。その類まれな才能が一部の短歌愛好者から認められますが、死刑判決がくだされ、処刑されました。
 この作品の面白いところは、このような事件や出来事をなぞるようなノンフィクションタッチで描かれたのではなく、主人公・青木整四郎の精神世界を中心にして書かれており、その意味で見事なフィクションに仕上がっているという点です。
 ヴィクトル・ユーゴの「死刑囚の最期」という傑作がありますが、それにも劣らない緊張感を帯びています。主人公に張り付いた倦怠と憂鬱。一人の人間を殺める残酷性、そして自分が殺められることへ焦燥と恐怖。自身の死に対する諦めと再生。上手く言えませんが、あらゆる理性、またその逆にあらゆる感情という感情が複雑に交錯し合っているとしか言えません。心落ち着けて孤独に浸って読むことをお勧めします。少なくとも電車の中では読めないと思います。その価値は十分あると思います。



帯文
〈生〉は〈死〉で購えるか!?

測りがたい生の闇を
死の淵から逆照射する―
川田拓矢が二年ぶりに放つ入魂の快作!

―本文より―
人間のいない〈原風景〉を、眼の底に焼きつけている。段々畑を登りつめた山かげの斜面を削り取ったわずかの平場に、瓦葺きの農家が、うずくまるように建っている。左右から迫る山裾のために、眺望は狭苦しいが、明け方、薄みどりの霧が谷間にただようのを眺めるのが、青木の喜びだった。彼は、扇形した菓子のような段々畑のあいだを、一本道が、その霧の中へ落ちていくのを見るのが好きだった。

夜を渉る


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