四
 
 横山よしのりには妙に馴染めるところがあった。彼は三日にあげず、あれこれ口実を作ってはやってきた。レコードを聴かせてくれ、勉強を教えてほしい、相談にのってくれ。彼は私と話をしたいだけなのだった。私は彼を快く部屋に上げた。
 二人が炬燵に足を突っこみながら、冷えびえとした部屋でぽつりぽつりと、思いついたような話をしていると、ばっちゃの包丁の音が台所から聞こえてきた。じっちゃが痰を切るしわぶきも混じる。会話に気持ちよく没頭しているよしのりにそんな音は聞こえてこない。彼は髪をかき上げたり、あごをさすったりしながら、
「うだで本があるな。文学ってのはあれだ、宗教みたいなもんだべ。人のタマシイを救うわけだすけな。だども、タマシイを救うには、宗教は要らねど。真の救いは私からはるかに遠く私自身の中にある―プルースト」
「遠く、という表現がすばらしいね。人が救ってくれると思って長年他人を追い求めてきたけど、いま気づいた、私の救い主は私だった……」
「うん!」
「でも、表現は気が利いてるけど、結局自分が一方的に救われたいという自己愛だ。自己救済は人生の最終目標じゃない。自分で自分を救うというのは、克己とか、悟りとかいうことだろうね。そんなもので人は救われない。自分以外のものを愛して初めて、そのあふれる愛情の一部で自分も救われる。自分を救ってくれるのは、自分以外の人やものごとだよ」
「アダマいい!」
「頭で考えてるんじゃない、感覚と直観でつかまえるんだ」
 それからひとしきり、よしのりは勝手にレコードをかけて聴きながら、家族について愚痴を言ったり、将来の抱負を語ったりした。最終的には、社会人の水泳大会で優勝して、オリンピックに出たいと言った。
「体操なんて力わざは好きでねェ。山下跳びかなんだか知らねけど、男がピチッとしたトレパン穿いて、スーパージャイアンツみてに金玉モコッとさせて、まんずみっともね。レスリングも重量挙げも同じだ。東洋の魔女も不細工で、ほんとにみんな魔法使いのババアみてな顔してるな。あたらのがデングリかえって股おっ広げても、なんも興奮しね。柔道は、ごしょごしょ押し合ったり、重なり合ったりして、何やりてんだがわがんね。やっぱし水泳だべ。古橋廣之進、フジヤマの飛び魚だァ。山中毅(つよし)、田中聡子、かっこいいべや」
 私はよしのりと二度、三度と話をするうちに、肩肘張らずに、気長に応対できるようになった。彼は、そのひょうきんな所作とはちがって、端正な風貌に見合ったなかなか思慮深い、頭脳(あたま)の冴えた男だった。世間についても、本についても、よく知っていた。何よりも彼の美点は、人を明るい気分にさせる話しぶりだった。腕のいい座談家なのだった。特別おもしろいことを言うわけではないけれども、熱をこめて、自分から遠い人びとや、身近な人びとのことを当意即妙に談じる。ひとりよがりの世界に住んでいる私にとって、彼のしゃべることは、自分の知らなかった、あるいは知ろうとも思わなかった人びとの具体的な生活の様子を、次々と、鮮やかに描き出してくれるのだった。それでもやはり愚鈍な感じは否めなかった。話が世事の表層に終始し、クマさんのような、個々の人間に集中的に関心を示す深い情感が不足しているせいだった。私はクマさんの語り口をなつかしく思い出した。彼は、私の心が安心して溶けていける温かい液体をからだの中に蓄えていた。
「高校にいけなくて、悲しくない?」
「鼻水ぐれは、チョロリと涙が出るな」
「大してお金のかかるわがままでもないのに」
「たいした金でねくても、出してもいいと思わせる根拠(たね)がねばな。じつの子でねくて、アダマも悪りときたら、助からねべ」
 横山よしのりは同い年なのに、私をまるで年下のように扱った。それが気楽だった。弟分の私は気が緩んで、洗いざらいしゃべりたくなる。もちろん、そうはしなかったけれども、彼といると、むかし浅間下の狭い板の間でさぶちゃんといっしょにいたときのような、少しばかり遠慮はあるけれども、肩の凝らない伸びのびとした気分になるのだった。
「おめの年齢(とし)で、島流しか。よっぽどのことだな」
 そんな言い方をよしのりがすることがある。何かを詮索したいからではなく、話のついでに訊いただけだ。
「そんな見映えのいいものじゃない。顔のそばの蠅みたいに、うるさいから追い払われただけだね」
「蠅てが!」
「うん、蠅」
「顔に近づきすぎたのが、運の尽きか」
 声に笑いを含ませながら言う。
「いや、近づかなかったんだけど、向こうがこっそり寄ってきて、ビシャッとやった」
「てめの頭の蠅だけを追っ払うのに飽きたんだべ。暇人だ。小人閑居して―」
「よく本を読むの?」
「まんずな。本は好きだたて、ガッコの勉強はしたくても〈できね〉んだ」
「どうして?」
 よしのりはさびしげに微笑した。
「恵美子の立場がなくなるべ」
 むかしふうで慎ましい家の観念を主張した。横山よしのりは、懸命に人の話を聴こうとする私の態度がたまらなくうれしいようだった。彼は身内からほとんど愛情というものを受けたことがなかったので、自分の話にまじめに耳を傾けようとする私の誠実さが身に沁みてありがたかったのだ。実際、遠来の〈客人〉が抱えている事情など、彼にはどうでもいいことで、他人に干渉されずに一分でも多く私とすごせれば、それに越したことはないのだった。私の部屋に坐りこんでむだ話をしながら漫然とすごす時間は楽しく、そうしているだけで彼は満足だった。私の飄然とした立ち居と、世間に疎い受け答えは、これまでの自分の不遇を忘れさせてくれるおまじないにするのにじゅうぶんだった。
 横山よしのりは友の秘密を詳しく知りたいと望んでいたわけではなかったし、友のほうから詳しく打ち明けることを望んでいたわけでもなかった。たとえ私の詳しい事情を聞き出し、転校のわけを納得したとしても、もの静かな広報係にはならなかっただろう。なぜなら、町の中学生どもや大人たちの秘密より、私のそれのほうが現実味が薄そうで荷厄介でなく、魅力的なものにちがいなかったので、そんなやつらに触れて回るのは損だと思うからだった。
         †
 二十八日に、三時間ほどカズちゃんの家に寄り、二度セックスをした。今度は二度ともしっかりと彼女のからだの中へ射精した。疼痛を伴うほどの快感で、射精後の律動がなかなか止まず、カズちゃんの痙攣もいままででいちばん長くつづいた。
「だんだん敏感になってきて、怖いぐらい」
 おやつに佐藤製菓の芋饅頭を食べた。コーヒーはインスタントだった。
「あした青森市に出て、挽き豆とフィルターコーヒーのセットを買ってくるわ。ついでに服もいろいろ買ってくる。野辺地は商店の数は多いけど、必需品でないものはあんまりないの」
 十二月に入って寒気が厳しくなり、三日つづけて雪が降った。根雪になる最初の雪だった。本格的な寒さが訪れる直前の土曜日を選んで、雪を敷いた校庭で野外映画会が催された。屋外で映画を観るのは初めての経験だった。
 夕暮れの冷たい風に、白い布のスクリーンがべこべこふくらんでは揺れている。一年生から三年生の生徒たちが、教室からめいめい校庭に持ち出した椅子に腰かけて、ぺちゃくちゃしゃべりながら開演を待っている。厚着をした町の老人や子供たちも、茶菓子を持ち寄って、雪の上にゴザを敷いた。雪の下には湿った地べたがある。自主参加の映画会なので、集まった人たちは百人もいない。
 赤いジャンバーを着た眼鏡の男が、映写機のリールを慣れた手つきでいじっている。あの日ノックをしていた野球部の立花先生だ。体育も彼に教えてもらっている。初めて授業を受けたとき、たぶん転校生に対するデモンストレーションだったのだろう、館内に設えられた鉄棒に歩み寄って飛びつき、蹴上がりから、倒立、大車輪までやって見せた。みんなどよめいていたところを見ると、初めて披露したようだった。
「ウルトラCとはいがねけんど。どんだ、だれかやってみるか」
 むろんだれもいなかった。彼にとっては丸太を転がすくらい簡単なことでも、体操部でもない少年たちには、サーカスの曲芸にしか見えない。それよりも、ウルトラCとは何のことかわからなかった。生徒たちのあいだから、山下とか、チャスラフスカという名前が聞こえてきた。どうも東京オリンピックの話らしかった。私は東京オリンピックをまったく知らない。
 初回の授業は跳び箱だった。立花は箱を一段ずつ上げていって、とうとう八段まで積ませると、ニヤリとみんなを睨(ね)め回した。
「四郎、どんだ?」
「跳べるじゃ」
 四郎がまず挑戦して軽々と成功し、残りの者が尻ごみしているのを見て、立花は予想していたとおり私に視線をめぐらせた。
「転校生、やってみろ!」
「はい!」
 私はたやすく跳んだ。十一段まで跳んだ経験があった。それ以来立花は、マット運動でも、ソフトボール投げでも、百メートル走でも、まず杉山四郎にやらせたあと、
「転校生、いげ!」
 と、かならず私に命じた。遠投は四郎が七十九メートル、私が八十三メートル。私のボールは矢のような低い軌道で伸びていき、クラスメートの度肝を抜いた。
「四郎一人の天下でなくなったでば」
 と立花は複雑な笑顔を作った。百メートル走は、懸垂の次に私の苦手なものだ。四郎の足の速さは特筆もので、タンクのように四角いからだがほとんど上下動せずに一気に百メートルを駆け抜けたのを見て、私は思わず拍手した。十二秒四! 
「神無月、いげ!」
 私は十二秒八だった。しかも百メートルを駆け終えたとたん、吐き気がきて草むらで吐いた。立花が呆れた顔で見ていた。あの斜めに捺された頻脈という青い判子のせいだろうか。宮中のベーランのときも、三度に一度はこみ上げる吐き気をこらえた。このひと月余り運動をしていなかったことも、青い判子に拍車をかけたのかもしれない。山田三樹夫が寄ってきて、背中をさすった。そしてすぐに去っていった。
「だば、上映開始!」
 見上げてごらん夜の星を、という映画だった。あんなに揺れるスクリーンでは、まともに映画を観ていられないだろうと思っていたが、いざ始まってみると、そんなことはいっさい気にならなくなり、たちまち物語に惹きこまれた。集団就職で上京した金の玉子たちの生活を、定時制高校を舞台にわかりやすいミュージカル仕立にしていた。雪の校庭に頭を並べた坊主頭たちの大半が、将来のわが身を思いながら観ているようだった。坂本九が美しい主題歌を唄っていた。
         †
 真冬が思ったよりも早くきて、登校路や校庭の木々から色彩を奪い取った。すぐに、凍ったような灰色の雲が海のほうから流れてきて、昼となく夜となく、さびしい氷雨が降った。そんな日が何日かつづいたあと、しっとりした雪が降り積もった。
 夜中、雪の音がときどき聞こえた。屋根を静かに押しつけて積もりながら、そのうち荒々しく吹き起こり、ぱらぱらと窓を叩いてふるわせ、やがて遠ざかった。

  
雪、降りみ、降らずみ―
 
 中原中也の詩集で覚えた言葉を、ことばノートに書きつけた。
 朝、薄暗いうちに起きると、窓枠に真っ白い雪が溜まっている。ばっちゃの部屋で彼女が起き出した音がする。声をかけずに、新品のゴム長を履いて、登校前の散歩に出る。カズちゃんのいる生活に満足しているのに、さびしさがつづいていた。クマさん、小山田さん、吉冨さん、彼らは何者だったのか。心を残してきた人びとは亡霊に似ていた。自分だけがその亡霊の集団からひとり甦って、逃げ出してきたような気がした。
 昨夜も、クマさんが送ってよこした数十枚のレコードを深夜まで聴いた。小音量だったけれど、ここまで思う存分音楽を聴いたことはなかった。日課の勉強を終えると、眠りがやってくるまで寝床で本を読んだ。
 散歩に出る早朝の道は、降り積もった雪で純白に輝き、軒には藤色のツララが下がっていた。風が耳たぶに冷たかった。踏切を渡り、坂道をくだる。合船場の畑に登り、コンクリート色の海や、雪をいただいた真っ白い屋根々々を眺めた。浜掛から海岸に出る。石と砂の汀を歩く。海はしきりに寒そうな波を立てていた。
 目を凝らして歩いた。潮風の吹きつける船着場、まだら雪のあいだでカヤツリソウや野菊が揺れている野原、黒カビの生えた藁葺屋根。早朝の漁から戻ってきたのだろう、革のダンボ帽子をかぶり、ゴム長履いた漁師たちが海辺を大股で歩いている。鈴をつけた橇(そり)が本町のほうへ登っていった。
 私はこの町に戻ってきて、新参者ならかならず受ける待遇に与らなかった。幼年時代のかすかな記憶をたどってみると、田舎の人間というのは、気に入ったよそ者は称賛して雲の上に投げ上げるけれども、気に入らなければ黙殺の沼にぶちこむものだ。でもここには、口をきわめて褒める人も、意地悪く無視する人もいなかった。それは私がほんとうの意味で新参者ではなく、出戻りだったからかもしれない。
 私は注意深く寡黙を通した。ひとこと口を利いたために、妙な注目を浴び、面倒な人間関係の中に巻きこまれることを恐れた。自由を堪能するとは言っても、心のままにしゃべったり振舞ったりすることは危険な感じがした。演技じみている気はしたけれども、学校の廊下はいつもうつむいて端を歩いた。


        五

 野辺地中学校にきて初めての模擬試験が終わった日曜日の夕方、学生服の襟をはだけた瓜実顔の少年が、ひたひたと廊下を追ってきて、便所にいこうとしていた私の行く手に立ちはだかった。私は彼をよけて通ろうとした。青瓢箪は私を小馬鹿にしたような不敵な目つきで睨みつけた。顔に見覚えがないので、ほかのクラスの生徒だろうと思った。
「いい気になンなじゃ」
 凄みながら、果物ナイフのようなもので私の頬をピタピタ叩いた。私よりも細身だが背が高い。よしのりの言った熊谷の子分というやつかもしれない。何もしなくても喧嘩をふっかけてくるという手合いだ。
「ぼくが、どういい気になってるんだ?」
「生意気な野郎だでば。ただでおがねど」
 私はあたりに人影がないのを確かめると、
「外へ出よう」
 短く告げ、先に立って玄関からためらわず上履きのまま踏み出すと、雪と泥でぬかるんでいる校舎裏へ誘った。青瓢箪は一瞬ひるんで、
「おう、どごさでも出はってぐでば、こなクソ!」
 肩をそびやかしてついてきた。注意深く寡黙を心がけながら諫めていた悍気が、理不尽な刺激を受けてたちまち息を吹き返した。康男や光夫さんやワカに惹かれたのも、突きつめれば、私のからだの奥に暴力に心地よく共鳴する絃があるからだった。
 青瓢箪が私の肩を後ろから強くつかんで引き戻そうとしたとたん、振り向きざま彼の足を払い、泥の上に転がした。まず顔を蹴った。少年は悲鳴を上げて片手で顔を覆うと、そのまま泥の中でもだえた。康男に蹴りつけられた金井の不様な姿が浮かんだ。私は休まず腹に上履きの先を蹴り入れた。康男から学習したとおり、それを交互に繰り返した。瓢箪はエビのように丸くなり、それでもナイフを離そうとしない。もう一度思い切り顔を蹴った。鼻血が噴き出した。 
 いつのまにか人だかりができている。私は呼吸を整えながら、振り返って野次馬の顔をゆっくり眼で追った。同じクラスの連中が何人かいる。山田三樹夫の澄んだ視線にぶつかったとたん、なぜか私はヤケな気分になって、刃物を握っている瓢箪の手を泥の中へ深く踏み入れた。彼のもう一方の手は流れ出る鼻血を苦しそうに塞いでいる。
「もう、やめんだ!」
 走ってきた山田が私の腕を強く握り、ぐんぐん玄関の花壇まで引っ張っていった。山田の紅潮した顔を見て、静かな気持ちが戻ってきた。山田の上履きも泥で汚れていた。
「ありがとう。……先生たちに見られたかもしれないね」
 私は上履きの泥を花壇のレンガの縁でこそいだ。瓢箪が顔を押さえて立ち上がり、泥だらけの背中でのろのろ走り去った。
「何か言われたら、オラがきちんと説明してける。神無月くんは悪くねよ。少し乱暴だったけんど」
 山田三樹夫はそう請け合ったが、じつのところ私は、ついいましがた自分の顔が怒りで蒼白になり、眼を異様に輝かせながら暴力をふるっているのを彼が物陰から見ていて、足をすくませていたのを目の端に収めていた。きっと彼は私のことを野獣みたいに恐ろしい男に思っただろう。私は暴力の子なのだ。いったん怒りが爆発すると、なるようになれという捨て身の自棄にいつでも突き進むことのできる〈自信〉みたいなものがある。そのことで身を滅ぼしてもかまわないという、ぼんやりとした自己信頼だ。
 山田は、集まってきた女生徒たちに告げ口をしないように念を押すと、足早に教室へ戻っていった。私は山田につかまれた手首に温もりの名残を感じながら、彼の赤らんだ真剣な顔をもっとじっくり観察しなかったことを後悔した。
 それきりだれも寄ってこず、何ごともなく上履きを長靴に履き替え、家路についた。胸の中も、景色も、すべてが穏やかだった。通学路から浜坂のほうへ遠く海が見渡せた。まだ本格的ではない水っぽい雪のにおいがした。
 翌日、顔を腫らした瓢箪が、いかつい体格をした少年を連れて教室にやってきて、あごを振って私を校庭へ呼び出した。一組の連中はみんなじっとうつむいていた。
「熊谷だ。うぢのキミオが世話になったツケ」
 鉄棒の支柱にもたれながら明るく笑いかけた。すごんでいる気配はない。彼の背丈は私の鼻のあたりまでしかなかった。広い肩の上に頑丈そうな首が載っている。姿かたちはちがうけれども、どこか康男に似た雰囲気があった。
「あばらにヒビ入ったんでェ。落とし前つけろでば!」
 瓢箪が首をのけぞらせてわめいた。手にこぶし大の石を握っている。
「黙ってその石で殴られろということかな。さすがにそれは痛いから、少し抵抗するよ」
「しゃらくせじゃ!」
「金沢海岸さこい。晩げの八時だ」
 いかつい少年が落ち着いた声で言った。瓢箪が石を振り上げ、わざとらしくそれを足もとに叩きつけた。大勢の見物が廊下の窓から身を乗り出している。中にやっぱり山田の顔があった。教室に戻っても、みんなうつむいていた。隣の山田が心配そうに言った。
「喧嘩売られたんだべ。手貸そうか?」
「きみが?」
「うんにゃ、オラはからっきしだ。ガマくんだべ、四郎くんだべ……」
「いや、いいよ。ガマも四郎も喧嘩なんかしたことがないだろ。だいじょうぶ、全力を出せばなんとかなる」
 妙なことに私は、窮地に立つというのが根っから好みに合っているのだった。それに熊谷というやつは、それほどタチの悪い人物には見えなかった。あの明るく落ち着いた顔つきから考えて、金井のように刃物を使うような陰険な男ではない。まんいち使ったとしても、いつか康男に教えてもらったようにすればいい。
「突いてきたら、腕を刺させろ」
 それから足を払って、あの手順だ。山田がガマに目配せすると、すぐにやってきて目を輝かせた。ボッケも岡田パンも赤泊もやってくる。いままでおとなしくしていたのに、へんに興奮している。四郎はじっとしていた。大事なからだだということだろう。
「喧嘩な?」
「うん。たぶん、話し合いじゃないね」
「熊谷は骨だども、あどは大したことねェ。何時だ?」
「八時、金沢海岸。きみもやられたことあるの?」
「去年の夏な。野辺地高校のプールさ呼び出されてよ。わっためがされたじゃ。子分は食(け)ねもんだ。手出さねで、ふるえでらった。四郎も強えんで。引っ張ってぐが?」
「いいよ。そんなに大ごとじゃない」
 けねもんだ? 頼りにならないという意味かな。
「三人ぐれには勝てるべたって、熊谷がよ。なんとか熊谷やっても、兄貴が―」
「ヤクザ者だっていうんだろ。ヤクザは中学生同士のけんかに出てこないよ。……やっぱり一人でいく」
「ンだな。へば、こそらっと様子ぐれ見にいくじゃ」
 山田の頬に朱がさした。その表情のまま、彼は午後の一時限目の授業の号令をかけた。
         †
 夕飯のあと、私は炉端で茶を飲んでいるばっちゃに言った。
「友達に勉強を教えにいってくる。本町の子。約束したから」
「なめっこは?」
「名前は聞いたけど、忘れちゃった。山田くんがいっしょにいくことになってる」
「遅くなんねんだ」
 やさしく言った。じっちゃは入歯を不機嫌に噛み合わせながら、新聞から眼を上げなかった。
 夕暮れの町を美しいと感じながら、金沢海岸につづく砂利の浜を歩いた。立ち止まってしばらく海を眺めた。海面に霧が立っている。黒い波がざわめき、浅瀬の岩がぼんやりとシルエットを浮かべている。その向こうを影だけの漁船が滑っていく。
 思い立ってゴム長と靴下を脱ぎ、ズボンの裾をまくり上げた。寄せてくる波に足を浸すと、水の力が感じられた。足ががまんできないほど痛みはじめたので、ズボンに足裏をこすりつけて拭った。海沿いのアスファルト道へ戻って、十分ばかり歩いた。金沢海岸に焚火が燃えている。何人かの威勢のいい声が聞こえた。五人、六人。そこだけ雪が解けて砂利の肌が見えている。ずんずん降りていった。みんなギョッと立ち上がった。熊谷が近づいてきた。
「……ふとりこな?」
「うん。きみはたっぷり連れてるね。覚悟のないやつだ」
「ワが覚悟ねってな?」
「うん、でなければ臆病だ」
「だば、あれはなんなのよ?」
 振り返ると、崖沿いのアスファルト道にガマが立っていた。
「呼んだわけじゃない。勝手にきたんだ。手出しはさせないよ。きみもそうしろ」
 刺すか、とキミオの声が囁いた。あたりが静かだったので、その声は耳に届いた。彼を見ると、ナイフではなくもっと大きな刃物が光った。
「キミオくんか。きみの身のほど知らずにはうんざりだな。それは包丁だね。刺してもいいよ。でも、刺しそこなったら、今度は肋骨じゃすまないよ」
「口ばりぬかすな!」
 キミオが突進してきた。
「やめれ!」
 熊谷が叫ぶのと同時だった。刃物を握った手から身をかわし、みぞおちを思い切り回し蹴った。キミオはゲッとうめいて雪の中に倒れこむと、腹を抱えこんだ。ガマが言ったとおり、あとの連中は息を呑んで動かない。熊谷が両こぶしを顔のあたりに構えて殴りかかってきた。しゃがみこんで、その胸に頭突きを食らわした。熊谷は妙なうなり声を上げて屈みこんだ。あごを蹴り上げた。横向きに倒れて顔面が雪に埋もれた。蹴りを入れると、さすがに両掌で防がれた。そのとたん、だれかに板のようなもので横っ面を張られた。べチンという音がしただけで、ちっとも痛くなかった。つづけてもう一人の手下に竹刀で肩を強く殴られた。振り向き、姿勢を低くして走り寄り、脇腹にこぶしを叩きこんだ。後ろから足にタックルしてくるやつがいたので、体重を乗せて肘を落とした。
「ばかケ! やめれ、やめれ! おめんど、帰れ!」
 倒れたまま熊谷が叫んだ。彼の命令は絶対のようで、手下どもはたちまち散って、のろのろ走っていった。
「悪りがった。かにしろじゃ」
「喧嘩にいいも悪いもないさ。生きるか死ぬかだろ。人間の生き死になんて、もともと大したものじゃない。喧嘩という大義があれば満点だ」
 私はズボンの雪を払った。
「むんずがしくて、わがんねじゃ」
 ガマが崖を駆け下りてくる。熊谷は私に、焚火にあたるように言った。ガマが大口開けて笑いながら走り寄り、
「やったでば!」
 息を切らして言った。
「熊谷が試合放棄したんだよ」
「ンだな? 熊谷、やられだのな」
「おお、やられだ。完敗だじゃ」
 三人、丸太の上に坐り、火にあたった。熊谷はあごをさすりながら、私の顔を見た。
「ンガ、うだでぐケンカ強えな。あっちで〈バン〉張ってたのが?」
 私は、痛む肩のあたりを揉みながら言った。
「番を張ってる男が、親友だった。……そいつの物まねだよ。あまり喧嘩したことはない」
 ガマが得意そうに鼻をすすりながら、焚火をかき混ぜた。
「嘘っぱちよ。不良だすけ、こっちさ送られてきたのせ」
 熊谷は私の顔をじっと見つめ、
「アダマはいいし、けんかは強えし……ツラもいいしな。怖いものなしだべ」
「ぼくなんかザコだよ。番長はすごかった。熊谷、きみは、その番長に似てる」
「どこがせ」
「いさぎよいところが」
 熊谷は照れくさかったのか、私の顔を見ないようにしていた。
「えがらね男だな。あんちゃに会わせでける」
 大粒の雪がまっすぐ落ちてきた。こいじゃ、と熊谷が言った。
「だば、ワは帰るすて。熊谷、もう神無月に手出すなよ」
「わがってるでば。手出しても勝でねじゃ」
 ガマは立ち上がりアスファルト道へ戻っていった。私と熊谷も腰を上げ、並んで歩きはじめた。
「ガマはぼくの家と親戚らしいよ」
「ほんだな。オラはうさぎやと親戚だ。さっぱり付き合いはねェたって」
「やっぱりそうか。じゃ、ようこちゃんはイトコ?」
「ンだ。なして?」
「……幼稚園がいっしょだった」
 あそこを見せ合ったとは言えなかった。
「すかし、ンガ、ほんとにいいツラしてるな」
 まぶしそうな目で言った。
「きみはぼくのことが気に入ったんだろう。気に入った人間は、きれいに見えるものだよ」
 夜道に熊谷の顔を覗くと、あごのあたりがかすかに腫れている。いずれそこが青黒くなることを私は知っていた。


         六

 熊谷の家は、野辺地の田舎家の中でもとりわけ貧弱な造りだった。
「こごは、トッチャがむかし女を置いた家でせ、本宅と事務所は松ノ木平にある」
「熊谷組っていうんだって?」
「おお。何人も組員はいねたって、まんず形だげはな」
 玄関とも言えない玄関を入ると、二間つづきの奥の六畳で、一見してヤクザ者とわかる男が炬燵で煙草を吸いながら雑誌を読んでいた。蛍光灯の明かりが煌々と部屋を照らしている。散らかっていた。壁の漆喰がところ剥げして中身が覗いているあたりは、康男のアパートの部屋よりひどいありさまだったが、調度は多く、神棚や床の間も整っていた。私は熊谷と並んで、男の前に立った。
「あんちゃだ」
 松葉会のワカにあたる人だなと思った。私はこちらを向いた男に頭を下げた。
「だァ、引っぱってきた?」
 男はいかにも威のある調子で言った。そして目ざとく弟の顔の異変に気づき、何かの不首尾を悟ると、
「負げたのな?」
 と訊いた。私は彼の険しい気配を読んで、
「負けてくれたんです」
 と言った。
「これが負げてやるわけねえべや。負げたんだべ。勝負がついでねってへるだば、ここで決着つけるが?」
 箪笥をごそごそやり、炬燵の上に白鞘の匕首(あいくち)を二本置いた。そしてやおら一本を引き抜き、刃の冷たさを確かめるように自分の頬に当てた。ニヤリと笑い、もったいぶって鞘に収めた。私は光夫さんや松葉会の連中を思い出した。この男に比べると、彼らは優雅だった。あんな男たちをすぐ間近で目撃したことが信じられなかった。それなのに私は、彼らのことをもうおぼろにしか覚えていないのだ。私は冷えた好奇心から匕首に手を伸ばした。熊谷の目に緊張が走った。兄は匕首を素早く畳に戻した。
「やりましょう」
 熊谷は私を凝視し、あわてて言った。
「ちがるんだず、あんちゃ。オラ、負げたんだ。あっというまに負げた。―会わせたくてよ。気に入ったんだじゃ。名古屋から転校してきたんだず。ようごと幼稚園が同じだツケ」
 熊谷は兄の前に膝を折った。
「名古屋さいって、戻ってきたのな」
「はい。新道の佐藤善吉の家にいます」
「新道の佐藤? 善夫の合船場な」
「はい、善夫と義一の」
「義一? 知らねな」
「おととし中学を出て、自衛隊にいきました」
「……ワ、善夫とは中学が同じだんだ。横山と三人つるんで歩った。善夫、元気でいるが?」
「はい。東京の病院でボイラーマンしてます」
「ボイラーってが。大したもんだでば。善夫はうだでカボチャいがったすけな。―おめんど腕相撲しろ。それで後腐れねべ」
 兄の顔に弟を思いやるやさしい微笑が浮かんだ。腕力の差は歴然としていた。
「そうですね」
 私は愉快になってうなずいた。熊谷も、ヨシ、と腕をまくった。熊谷と私は畳に寝そべり肘を突いて組み合った。熊谷は雑作なく私を負かした。
「花、持だしてくれたな。野中ではだれもおめに手出させねすけ」
 熊谷が笑った。満足した兄が二人に握手を強いた。私が強く握ると、熊谷は恥ずかしそうに握り返した。
 雪の中を家路についた。熊谷は合船場の戸口までついてきた。そして、私の肩を何度も叩くと、名残惜しそうに手を振りながら帰っていった。
         †
 野月校長の朝の訓話の終わりがたに、とつぜん名前を呼び上げられた。一瞬、遠い記憶に重なった。
 ―横井くん! 名前は何といったっけ。横井くん! 
 そういえば彼は、宮中のどこにいたのだろう。一度も見かけたことがなかった。告げ口屋の本部陽子も、うんこもらしの気の毒な女の子も、生徒会長の井上も、一度もお目にかからなかった。みんなどうして不意に姿を消してしまったのだろう。
 背中を奥山先生に押されて、演壇の前に進み出た。白い口髭を生やした長身の校長が、鼈甲眼鏡を指で押し上げながら私を見下ろしている。眼が笑っていた。
「このたび東奥日報模擬試験で、県下の一番という、前代未聞の好成績者がわが野中から出ました。先月転校してきた神無月郷くんです」
 生徒たちが突拍子もなくざわめいた。派手に拍手する者たちがいる。熊谷一党だった。左肩の痛みといっしょに、胸の奥から泉が湧き出した。校長は私に賞状を手渡す前に、よく響く声で長広舌をふるった。
「神無月くんは、幼少時を野辺地ですごしておるので、この町にゆかりがないというわけではありません。彼は新道の佐藤善吉さんのお孫さんです。合船場という屋号を持つ佐藤家は、俊秀を輩出してきた家系で、善吉さんのご子息たちもみなこの野辺地中学校に学び、常にトップクラスの成績を残されました。今回の結果が出たのも、当然しごくのことと思われます」
 私は落ち着かない気分になってきた。校長の物言いは、都会の教師たちとちがってあまりに人肌に近かったし、こういう場にそぐわない気もした。
「神無月くんはもろもろの事情あって、このような押しつまった時期に転校してきましたが、身も心も埃を払って再出発し、奮闘努力を重ねた結果、今回の好成績を収めました。諸君も神無月くんの精進ぶりを見習い、目標にしてがんばっていただきたい。ものめずらしさから、口さがなく取り沙汰したり、詮索したりしてはなりません。彼も諸君と同じく純真で一途な中学生なのです。ところで神無月くんにひとこと。私どもは、きみがこの土地にきた経緯をおよばずながら理解しているつもりです。それは、きみの少しばかりの道草を周囲の人びとが大げさに騒ぎ立てたのだ、というものです。先の学校から伝え聞いたところ、そういう解釈をしていた先生方も、あちらの中学校にはわずかながらいらっしゃったとわかりました。心を強く持ってください。また、きみはたいそうな読書家だとも聞いています。それならばきっと、言葉に敏感であると思いますし、またきみの体験はきみの中でかけがえのない言葉に作りかえられているはずです。自分の言葉、つまり思考の表現手段をきちんと心の中に持っている人間は、どこへいっても自分を評価してくれる人たちに出会えます。どうかその蓄積した貴重な言葉を大切にして、これからも前進してください。自分が衆に抜きん出ていることを驕ることなく、知的生活がはかどらない下積みの人間の中にいても、彼らの生活はきみと同じように多彩であるばかりでなく、温かく、実があって、じゅうぶん模範的だということを学んでください」
 校長が笑顔で賞状を差し出した。私は頭を低くして手を伸ばした。模擬試験の成績優秀者の表彰など聞いたこともなかった。ちらりと賞状を見下ろすと、頭書の成績を収められて云々……という文句の脇に、東奥日報第×回模擬試験一席、と墨で書いてあった。拍手が沸き起こった。
 一日の授業が夢のように過ぎ、ふわふわした気分で家路についた。カズちゃんは仕事に出ていて留守だったので、学生手帳を破り取り、日曜日の散歩のときに寄ります、とメモを書いて玄関戸の隙間に入れた。合船場に戻ると、脚立に乗ってストーブの煙突掃除をしていたじっちゃに、
「賞状をもらった」
 と告げた。
「何の賞状よ」
「模擬試験が県の一番だって」
「如才なくやったでば!」
 部屋からばっちゃが出てきて、
「ワの言ったとおりだったべせ。合船場は、勉強がみんな一番だったのィ」
 ばっちゃは得意げに笑った。じっちゃが皮肉らしく、
「おめの手柄だってが」
「うんにゃ、子供(わらし)の手柄よ。したばって、何十年も稼いで、わらはんど学校さ上げたのはワだんで。四十の坂も越えねうぢに、デリキ握ってストーブの前さ根っこ生やしたカラボネヤミとはちがるんだ」
「チョッ、手ばりはしこくて、アダマからっぽだすけ、そたら口利くんだ。勉強させたのはワでェ。ンガはジェンコ稼ぐしかながべ。煎餅焼いて、たんだ行商して歩っただけだべ」
「だァ、わらしさめし食わせてきたってが! 肝焼げる。キョウ、あんべ」
 何が食いちがって罵り合いをしているのかわからなかった。二人はただ、できのいい子供たちを育てた手柄を独占したいというだけの理由で、食い扶持か教育哲学かというたわいのない自己主張をしていた。彼らが学業成績のいい子供たちを育てたという手柄は、実際はそんなことに興味のない彼らにとって、きっと偶発事にすぎないだろうし、私の今回の成績とも何の関わりもないことだった。
 ばっちゃは天秤棒とバケツを手にすると、私を表にいざなった。彼女はいそいそと浜に下っていき、あの坂本という漁師から夕餉のおかずに雲丹一枚もらうと、エプロンのポケットに収めた。上がれと言われたのをばっちゃは断った。
「水汲みにきたついでだすけ。―キョウがな」
「キョウちゃん、一番だったごだ」
 早耳の女房が先取りして大げさに目を剥いた。漁師もにこにこ笑っている。私はばっちゃの背中から頭を下げた。二人いるはずの子供たちは、きょうも二階から降りてこなかった。
「だば」
 薄ねずみに暮れかかる寒い道を二人で引き返した。ばっちゃはバケツを持ち、私は天秤棒を担いだ。四戸末子が潮風にいたぶられて湾曲した雨戸の前で、軒に干した洗濯物を取り入れていた。目が合い、お辞儀をし合った。相変わらず大きな下半身が目についた。傾いた小屋の脇道から、青黒い海の切れっぱしが覗いた。
「あれ、四戸の末娘だべ?」
「うん、同じクラス。知ってるの?」
「とっちゃと長男が坂本の船さ乗ってら。あとはぜんぶ、東京さ働ぎに出てるこった。あの娘も出るんでねが」
「ふうん、高校にいかないんだ」
「だあ、いぐってが。十人に一人もいがねべせ」
 坂道から海がすっかり見えた。やっぱり青黒く光っていた。水を汲む前に、井戸の向かいの田島鉄工に寄った。鉄工所なのに、裏の畜舎に豚を飼っていて、菜っ葉と残飯を混ぜた大きな飼料桶が生垣沿いに並んでいた。小柄な爺さんが裏納屋から出てきて、担い棒で桶を運んでいった。桶が前と後ろで、ドボ、ドボ、と音を立て、少しずつ中のものがこぼれた。
 田島のオンジに玄関先で挨拶した。彼の顔を見るのは、けいこちゃんが汽車に轢かれた夜以来だった。ここでも私の成績のことは知れていた。奥の部屋から『高校三年生』の歌声が聞こえた。舟木一夫によく似た唄い方だったが、舟木一夫よりずっと上手だった。
「船村徹の弟子になるってへってよ。手がつけられね」
 あんなにうまいならだれの弟子にもならずに歌手になるべきだと思った。土産に林檎をどっさりもらった。
 つるべを引きながらばっちゃが言った。
「ワイはじっちゃみてにものは考えられねどもよ、なんぼアダマいいたって、目はしが利かねばまいね。考えねばならねことがあるってへってよ、四十で機関車おりて、それからこっちゃ、本ばり眺めて火にあたってるんで。何に使うんだか、ワラシの送ってきたジェンコせっせと貯金してせ、オラには一銭もよこさね」
 長靴を引きずりながら規則正しい足どりで、杖突いて郵便局のほうへ歩いていくじっちゃの背中を、学校の帰り道で見かけたことがあった。杖といっても、こうもり傘を剥いて中骨一本にしたものだった。
 じっちゃにしてみれば、かつては陽気で愛らしかったのに、齢をとるにつれ、気むずかし屋で、絶えず文句を言うようになってしまった女を見かぎったというところなのだろう。手ははしこいけれど頭は空っぽだと言われたばっちゃは、自分はものを考えられないかわりに、いつもやりくりの勘を働かせて、合船場のふところを維持しているのだと言いたいらしかった。それにしても、世間から超然としているじっちゃのイメージに、郵便局へ貯金をしに通う律儀な姿を重ねることは難しかった。
 天秤棒にバケツを吊るして歩いた。もう何度目かになるのに、今回もうまく歩くことができず、水がバケツの縁からこぼれてズボンにかかった。
「どうしてもうまくならないんだ」
「ンガにはまんず無理だな。かへ、かへ」
 笑いながらばっちゃは天秤を交代した。彼女はスッと腰を下げ、ほとんどバケツの水面に波を立てずに運びきった。
 ホッケとウニと菜汁で夕食を終えると、私は炬燵に入った。足が暖まっても、手の指は暖まらなかった。田島鉄工からもらってきた林檎を齧りながら、かじかんだ指で、思い出せるかぎり野月校長の言葉をいのちの記録に書きつけた。
「茶にしねが」
 いつものようにじっちゃが囲炉裏から呼びかけるので、私は出ていって下座に腰を下ろした。じっちゃは火掻き棒(デリキ)でコークスの燃え具合を確かめながら、
「薪がうだで高ぐなったすけ、どごの家もストーブさ薪をくべることはねぐなったな」
 と言った。彼は毎朝、丸めた新聞紙の上に、刈ってきた柴を積んで燃やし、そこへコークスを振りかける。少し金のある家は、カズちゃんと同じように大きな重油タンクを表に備えて、強い火力で室内を暖めている。学校の教室はもちろんコークスストーブだ。
「どいつもこいつもでぎがいがったふうに婆はへるどもよ、勉強は善司がいちばんだったじゃ。あとはどんぐりだ。善司も、おめとは比べものになんね」
 私は素直に喜び、いま日記に書いたばかりのことをかいつまんで報告した。
「野月は、善太郎と同期でな」
「善太郎って、義一のとっちゃ?」
「おう。野月はよくここにも遊びにきたもんだ。善さん、善さんてなついてよ。アダマのいいワラシでせ、たしか弘前師範さいったんでながったかな」
「中村先生と同じだね」
「おう、弘前出るとみんな校長になるんだ。マサもなるべ」
「あぐらばりかいでねば、だれだって出世するじゃ」
 ばっちゃの皮肉に頓着しないで、じっちゃは若いころの思い出話を始めた。きょうもまたシベリア出兵の話だった。むかし義一と頭を並べて何度も聴いたけれども、成長した頭に翻訳力がついたせいか、じっちゃの表現はあのころよりも整っていて理解しやすく、今回も別の話を聴いているようだった。停泊したいくつかの都市の景色や、人びとの善良さが語られた。彼はあの悲惨な虐殺事件を繰り返し、その顔にふだん見せない活力をみなぎらせた。ところどころにむかし聞いたのと同じロスケやチャンコロという言葉が出てきたけれど、それは敵の軍人だけを非難して語るためのものだった。彼にとって、もうこの世にない景色や一般の人びとは、なんと麗しく、そしてなんと哀しく思い出されるのだろう。
「わげェころは、そう簡単におっかねことを信じねもんだ。しかし、やっぱり戦争はおっかね。……あだらいい人間ども相手にひでえ騒ぎを起こすとは思わねかった」
 ばっちゃはまったく話に耳を傾けようとせず、さっさと部屋に引き揚げた。やがてじっちゃもストーブの灰を掻き出して寝間に引っこんだ。私は寒い部屋に戻り、炬燵のスイッチを入れ、野月校長の温かい眼差しを思い出しながら、まぶたが粘ついてくるまで勉強した。




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