三十一

 父親に酒とつまみが、母親と私たち二人には膳が用意された。ひやむぎ、サラダ、チャーシュー、鯛の尾の切り身焼き、めし、味噌汁、ビールなどがどんどん運びこまれる。主従とも同じ食事だ。賄いたちは食卓につかない。てんでに、
「いただきます」
 の声が上がり、食事になる。
「本格的にご恩返しを始めたみたい」
 カズちゃんが私に耳打ちする。箸を取って口に入れると、どれもこれも、舌がとろけるようにうまい。カズちゃんの料理のルーツがわかった。茶の間と厨房に挟まった帳場部屋にも、小座敷にも、食卓が用意され、手の空いた賄いたちが順繰り食事をするようだ。店の女たちも混じっていて煙草を吸ったりなどしている。少女みたいな女たちからかなりの年増までいる。まるで東映の時代劇だな、と思った。
「きょうは、お母さんのお家にお泊りですか」
「ええ、岩塚の、飛島という建設会社の飯場に」
「たいへんですな。事情は聞いとります」
「えらい不幸な目に遭ったというのに、ピカピカしとりゃあすが」
 父親がワイシャツの上から私の腕をつかみ、
「この腕で十六本もホームランをなあ。太い腕しとる」
 と言って大きな目を剥いた。カズちゃんは笑ってその様子を見ていた。私は父親に語りかけた。
「ざっくばらんに訊きますが、この種の仕事は、ヤクザと関係が深いんですか」
「新しい店のなかにはそういうのもありますが、うちらのように、ヤクザよりも歴史が古い店になると、複数の組にミカジメだけを払って―」
「ミカジメ?」
「はあ、商売をさせてもらう上納金ですわ、そういうのを払って、あとは疎遠にしとる店がほとんどです。まんいち騒ぎが持ち上がったときに取り締まってやる、などとあちらさんは言っとりますが、騒ぎ自体が起こりませんよ。こういう仕事は、正直、素人さんにしてみれば怖いところがあるでしょうな」
「いえ、そんな気持ちで訊いたわけじゃありません。ぼくの親友が松葉会にいて、ひょっとしてその会のことをご存知かなと思って」
「松葉会にも上納しとりますが、深い付き合いはないんですよ」
 彼は上着を脱いでくつろいだ。
「将来は、プロ野球のほうにいきゃあすの?」
 母親が尋く。
「はい。かならずプロへいくつもりです。カズちゃんのヒモをしてたほうがずっとラクなんですが、別の種類の血が騒ぐのは野球しかないんで」
 夫婦が愉快そうに笑うと、〈女の子〉たちからも明るい笑い声が上がった。
「ワシらの仕事も、考えてみたら、太いヒモみたいなもんですわ」
 父親がツルリと顔を撫ぜて言う。座敷から声が飛んでくる。
「ちがいないわよ、旦那さん。ほとんど毎日、火鉢の前で、茶を飲んだり、テレビを観たりして暮らしてますもん。稼ぐのは私ら」
 また笑い声が上がる。
「ただ、プロへいくには、一つ、難関がありますが」
「東大やな。その事情も聞いとります」
「野球の何十倍も難しいです」
 母親が、
「ねえ、神無月さん、東大落ちてプロ野球にいけんようになったら、この仕事、引き継がん?」
「ちょっと、退屈すぎるような……」
 一同ドッと笑う。父親も、ふんぞり返って笑った。
「噂にたがわぬお人ですな」 
「和子も、いい人に見こまれて、よかったがね」
「私が見こんだのよ。飯場の食堂に、スッと立ってたの。空から降ってきたみたいに。初めて見たときのことは一生忘れないわ。そこにスポットライトが当たってたから」
 一時間もかけて食事が終わり、カズちゃんが母親に言った。
「これから、熱田神宮に参拝して、そこから、岩塚の飯場までキョウちゃんを送り届けてくる」
「いっといで。この一週間、ずっと三十五度を超えとるから気ィつけてな。麦藁買っていきなさい。あしたは神無月さん、こちらに泊まってくれるんやろ?」
 カズちゃんが、
「駅のそばのホテルに、二人一週間の予約を入れてるの。名鉄グランドホテル、十二階の一号室。用があったらきて。ここから十分もないでしょう。私もちょくちょく顔を出すから。ここに泊まったら、姐(ねえ)さんたちに立ち聞きされて、安心して抱いてもらえないじゃないの」
 またワッと笑い声が上がった。
         †
 カズちゃんに呆れられながら、名前だけしか知らなかった名鉄百貨店をうろうろ歩き回った。書店とスポーツ用品店の位置を暗記した。日除けの野球帽を一つ買った。
 タクシーで熱田神宮へ向かう。窓を開けると蒸し暑い空気が入ってきた。金山から熱田にかけて、見慣れた景色に目を凝らす。小山田さんたちと中日球場へいくときに通った道だ。
「北村の人たちは大雑把だけど、キョウちゃんはホッとするでしょう。どうしても会わせたかったの。熊沢さんたちを思い出してくれるかと思って」
「女ばかりの飯場にいる感じだった」
「そう言ってもらえてうれしいわ。キョウちゃんはものごとの本質的に美しいところがすぐわかるのね。私はキョウちゃんに会って、キョウちゃんがなついてる人たちを見て、ようやくわかったのよ」
 神宮前でタクシーを降りて、信号を渡り、粟田電器店の前に二人でたたずんだ。店構えがよほど大きくなっている。あの父親がカウンターで店の外に目を配っていた。カズちゃんが、ふふ、と笑った。
「よっぽど繁盛したのね」
 東門を入る。ホンザンがかよったはずの神宮学院が左手の林の奥に見える。参道の緑が濃い。砂利の上に葉影がくっきり映っている。思い出の中にしか存在しなかった景色が目の前にある。
「やっぱり牛巻病院を見ておきたいな。きっともう見ることはないと思うから」
「そうね、いってみましょう。私は初めてよ」
 参道を引き返し、バスロータリーの広場から山本法子の小路を見やった。こんなに寂れた通りだったのかと思った。あかずの踏切を渡り、商店の連なる道を歩く。失われた喜びが道の上に残っている。
「この坂を毎日かよったのね……」
 私は駆けだすように坂道を登っていった。カズちゃんも早足でついてきた。坂のいただきから病院の屋上が見えた。三階建ての病院が思い出と同じ場所に立っている。坂を上り下りした運動靴は、いまは革靴に変わっていた。胸が塞がった。
 玄関の前に立った。あのときと同じ桜の古木が立っている。短い石段を上る。ガラス戸を押し開け、玄関框に並べられた緑色のスリッパを履いて受付の前に立つ。ロビーを見回す。外来患者がたむろしている。大きな黒革のベンチ、大窓から射してくる明かり、リノリウムの床板、大時計。なつかしく溶け合っている思い出を、薬品のにおいといっしょに吸った。カズちゃんと空いているベンチに腰を下ろす。彼女は目頭を拭っていた。
 看護婦や医師が通りすぎる。やさしそうな顔、威厳を保とうとする尊大な顔、にこやかな顔、私は彼らの顔を憶えていない。彼らの顔は私の記憶の中では重要でないものとして記憶の彼方に追いやられている。
 廊下を歩いて見舞通用口へいった。姿見の鏡、狭い靴脱ぎ。仲間とラムネを飲んでいる滝澤節子を見上げた場所だ。表にかすかな葉ずれの音が聞こえた。私は薄暗い靴脱ぎにしゃがみこみ、身動きしなかった。カズちゃんが肩口から見下ろしている。ゆっくり立ち上がり、受付まで戻っていく。階段を上った。階段の幅も、手すりも、踊り場も、すべてが一年のあいだに小さく縮んでしまったように感じた。
 大部屋の前で、深く息を吸った。寺田康男の包帯のにおいがする。肩に巻いた彼の腕の感触、三吉一家、マンボズボン……。私は戸の陰に隠れて大部屋の中を覗きこんだ。昼下がりの和やかなひとときだった。とつぜんリューマチ先生の横顔が目に入った。私はからだを引いた。首から上がするどい感覚器になっている元高校教師は、目の端に一瞬私の影を捉えようとした。私はカズちゃんの手を引き、廊下を戻った。
「つらくなる。かならず会いにくると約束した人だ」
「いかないの?」
「長く不義理をしすぎた。取り返しがつかない。嘘をついたのと同じだ。不義理の説明はしたくないし、したら彼を驚かせる」
 私の心は、とつぜん強烈な郷愁の中に嵌まりこんだ。私の人生のひび割れは、あのなつかしい日々にこの人たちに馴れ親しむことから始まったのだ。カズちゃんと汗ばんだ手を握り合いながら階段を降りた。
 牛巻の坂道を引き返す。
「平畑へいってみよう。これもきっと最後だね」
 神宮前で乗りこんだタクシーにカズちゃんは、
「大瀬子橋から千年小学校へ」
 と告げた。
「鶴田荘は?」
「頭の中だけにとっておきたいの。大切な思い出の場所だから。いまごろ、飯場の人たちはみんな現場に出てるわね。そろそろ地下鉄工事に移るんじゃないかしら」
「飯場だけ見ていく。とってもクマさんたちに会いたいけど、短い時間で会う心準備ができてないんだ」
「会えたら、みんな泣くでしょうね」
 内田橋から宮の渡しを通り、大瀬子橋を渡る。
「加藤雅江の家だ」
 大楠がたちまち過ぎた。
「雅江さん……」
 カズちゃんが呟いた。クマさんの社宅―古ぼけた戸口に生活の気配はなかった。カズちゃんもチラリと見た。杉山薬局。出店だけの大判焼屋。
「ア!」
 西松建設の事務所と飯場は広い空地になっていた。
「飯場がないよ!」
「ほんとだ……」
「一年も経っていないのに……」
 カズちゃんが私の肩を抱いた。
「もとのままでいられるのは、心だけよ」
 二人の大時代な様子に、運転手がバックミラーを見上げた。
 千年小学校の裏門にタクシーがつけた。このまま乗り継ぐと運転手に言い、金網越しに校庭を眺めた。校庭も、背の低いバックネットも、三階建ての校舎も、鉄筋の二階建て校舎も、高橋弓子に告白した渡り廊下もそのままだった。休み時間ではないらしく、下級生らしい子供たちがトレパン姿の教師の笛に合わせて、マットの上で前方回転をしていた。
「東海橋へお願いします」
「大将さんのアパートね」
「うん、あした会えるんだけど、そのアパートも飯場みたいになくなってる気がして。運転手さん、堀酒店の向かいの西松建設の事務所がなくなりましたね」
「はあ、もう二カ月になりますかね。今度は名駅のほうで地下鉄工事らしいね。西松の人たちは、神宮前までよく利用してくれましたよ」
「事務所がどこに移ったか知りませんか」
「さあ、わかりませんねェ」
 東海橋のしだれ柳のそばで降りた。タクシーが戻っていった。私はしばらくのあいだ運河を見つめていた。むかしと同じ光景が別の景色に見えた。陽は当たっているのに、暗くて、重苦しい景色だった。運河を見やりながら、ゆっくり橋を渡り、土手道を下っていった。見覚えのある辻を二つ三つ曲がって、目当ての道に出た。康男のアパートがあったとおぼしい土地が駐車場に変わり、何台も車が停まっていた。
「やっぱり……」
「ここだったの?」
 道路の前後を見渡した。このへんは似たような家並がつづいているので、ひょっとして一本まちがえたのかもしれない。落ち着かない気分になった。足を早め、見覚えのある界隈に出たい一心で裏通りへ入った。アスファルトを敷いた広い通りから海のにおいがにわかに吹きつけた。やっぱりさっきの場所だった。引き返し、駐車場の前に立つ。私はその狭い空間から目を離さなかった。
「どんなものも、もとのままでいられないのね」


         三十二

 東海橋のたもとで拾い直したタクシーに、
「中村区、岩塚の飛島建設寮」
 と告げた。
「岩塚ですか、ちょっと不案内ですけど、中村公園あたりから入りこんでみましょう。岩塚近辺は市の外れで、庄内川の堤防沿いなんですよ」
 カズちゃんはいつまでもハンカチで目を拭っていた。
「参拝できなかったね」
「予定が変わっちゃったもの。またいつかくればいいわ。キョウちゃんのことはいつも祈ってるから、だいじょうぶ。あした大将さんに会うのは何時?」
「十二時半」
「じゃ、一時にはチェックインしてるから。ゆっくりしてきてね。十二階、一号室よ。キョウちゃんの予約はちゃんと入れてあるから、フロントを通さないで直接きて」
「わかった」
 いったん名古屋駅に向かって戻り、笹島から左折して、太閤通をひたすら市電道に沿って走った。中村公園に出る。もう一度左折して、さびしい家並を眺めながら庄内川の堤まで真っすぐ走った。飯場構えのバラックがフロントガラスから見えはじめたところで、カズちゃんは運転手に停まるように言い、車を降りた私から野球帽を受け取ると、窓の内で手を振りながらそのまま引き返していった。
 一棟の鉄筋の二階建てと、二棟の二階建てバラックが、駐車場らしき敷地をコの字型に囲っていた。二棟のバラックの外見は西松建設の飯場とそっくりだったが、事務所らしきものは見当たらなかった。鉄のレールを敷いた門扉の前に立つと、驚いたことにどこからかシロが飛び出してきて、尻尾を振りながら私を迎えた。毛並全体が灰色になっていた。
「おまえ、ここまでついてきたのか!」
 ごしごし頭を撫でる。腹に指を立ててこすると、痩せた皮膚の下にすぐ肋骨が触れた。年をとったのだ。首輪をしているが、相変わらず放し飼いにされている様子だった。奥のバラックから母が出てきた。めずらしく笑顔を見せる。彼女は笑うと記念写真のような異相になる。
「西松の飯場より、だいぶ立派だね」
 私は無理に口を利いた。
「長期の地下鉄工事だから。みんな七時ぐらいじゃないと帰ってこないよ」
「ふうん。この会社も地下鉄か」
 三棟の建物に囲まれたコンクリートの敷地は、がらんとしていた。夜は駐車場になるのだろう。鉄筋の建物の裾に細長い花壇がへばりついている。夏なのに、雑草以外花らしきものは咲いていなかった。
 母について奥のバラックに入った。平畑の食堂の三倍もある明るい空間だった。コンクリートの床に塵一つなく、窓にはレースのカーテンが垂れ下がっていた。窓のそばに鳥籠が吊るされ、籠の中で空色のインコが囀っている。入口に近い隅に大型のカラーテレビがでんと腰を下ろし、反対の隅から階段が昇っていた。
「シロがいたのにはビックリしたな」
「一年も経っていないじゃないか。あたりまえだろ」
「そういうことじゃなく」
「そりゃ、連れてくるさ。捨ててくるわけにいかないもの」
 むかしよりも落ち着いた顔つきになったシロが、じっと聞き耳を立てている。シロ、と呼ぶと、からだじゅうに喜びを表してすり寄ってきた。
「西沢という先生が、手紙でおまえのことを褒めてたよ。このままがんばれば、東大にでもいける器だって」
「うん、ぼくもそのつもりでいる」
「大口叩いて」
 心の底からうれしそうに不気味な異相で笑った。さすがに野球のことは伝えなかったようだ。スポーツ新聞のちょっとした記事で知っている社員たちがいるにしても、母とは苗字がちがうので、息子だとは思いもしないだろう。
「まあ、せいぜいがんばってくださいよ」
 大望が成就したような口調で言う。浅野といい、西沢といい、教師というものはどういうわけか生徒の家族と連絡を取り合うものらしい。あの親切な奥山先生もそうだった。
 それにしても、母のくつろいだ様子には驚かされた。浅間下ですごしたころが思い出され、一瞬彼女をなつかしい存在に感じた。批判したり、責めたり、嫌ったりしていたあいだは解決しがたいと思われていたものが、たちまち簡単なものになったような気がした。甘い判断だった。
「浅野先生も、よけいなことをするもんだ」
「え?」
「あんなヤサグレに会わせてどうするつもりだろう。申しわけないことをしたとでも思っているのかね。おまえも会いたくなければ会わなくていいんだよ。電話しておくから。せっかく勉強が軌道に乗ってきたときに」
 さっそく本音が出た。
「会うよ。そのためにきたんだ。寺田だって会いたいだろう。どうせ、ぼくたちはちがう道をいくんだ。別れの挨拶ぐらいしたってかまわないさ」
「ふん、相変わらずだね。ま、好きにしなさい」
 あの殊勝な手紙といい、ついいましがたの和んだ雰囲気といい、どういう意味があっての親切ごかしだったのか。まるで山の天気だ。
 食堂の一角にドアが切られていて、その奥の六畳が母の部屋になっていた。ドアを開けて見ると、壁に接して粗末な鉄骨の二段ベッドが置いてある。箪笥も姿見もない。一泊だけとはいえ、ベッドの上と下で母と寝物語をする夜の時間が思いやられた。
「それがかあちゃんの部屋だよ。おまえを一晩泊めるために、わざわざ社員がベッドを用意してくれたんだ。いやなら下に蒲団を敷いて寝なさい」
         †
 社員たちが帰ってくる前に、早い晩めしを食わされた。平畑で食いつけたポークソテーと味噌汁だった。めしが終わると、彼女の部屋に追い立てられた。だれにも挨拶する必要はないと言う。たしかに、人目につかずにあしたの昼に出ていけば、母の日常にまったく障りがなかったことになる。そのほうが私にしても面倒がないけれども、そのあいだ、この六畳にこもっていなければならない。
 ガラス戸を開けると、民家に接していない暗い庭だったので、そこへたっぷり小便をした。畳んであった蒲団をベッドから遠く離れて敷き、ワイシャツだけ脱いで、ズボンのままもぐりこんだ。暑い名古屋の夏なので、ぐっしょり汗が滲み出してくる。寝苦しい。しかし、飛行機の旅と、きょう一日歩き回って疲れたせいか、すぐにうとうとしてきて、そのまま深い眠りに落ちた。ときどき、男たちの話し声を夢うつつに聞いた。
 目覚めたのは翌朝の九時だった。危惧していた鬱陶しい夜の時間は回避できた。母が期待したとおり、会社のだれにも会わなかった。
「よく寝るね、おまえは」
 声にトゲがあった。
「風呂に入るよ。汗でべとべとだ」
「朝風呂か。贅沢な男だ。風呂を洗ってくれ」
 私は浴槽をスポンジで洗って流し、ガスで沸かした湯を入れた。三帖ほどもあるタイル張りの風呂場だった。磨りガラスに一匹の大きな蛾が貼りついているのが透けて見えた。口を何度も漱(すす)ぎ、丁寧に坊主頭を洗った。もう一度同じ下着をつけた。便所に入り大便をした。水洗だった。
 シロを連れて庄内川の草土手を歩いた。シロは前になり後ろになり、うれしそうに草を嗅いで歩いた。広い空の下に川が流れ、葦の淵が澱み、向こう岸にくすんだ工場の群れが建ち並んでいる。殺風景だけれども、いいところだと思った。
 私は足を止めて、小さな草の葉が茎のまわりに驚くほど整然と並んでいるのを見つめた。こんな明瞭な美しさを言葉で創り出すことができたら、どんなに幸せだろう。詩人たちの華麗な詩句も、この草のちっぽけな葉の配列に比べたら百分の一の美しさもない。
 味噌汁と、白菜の浅漬けと、焼き海苔が用意してあった。母しかいない食堂で黙々とめしを食った。
「十二時半に、宮中の野球グランドにきてくれってさ」
「康男は高校にいったのかな」
「さあ、知らないね」
 不機嫌だ。とてもかまってはいられない。私はこの女の手紙に誘い出されて、はるばる飛行機に乗ってきたのではなかったか。しかし、不満はない。あの手紙は荒い言葉で書かれていたわけではないし、うわべでさえ懺悔の言葉もなかったけれども、とにかくそれは寺田康男と私に架けられた黄金の橋だった。
『西松の人たちもあのとき、それはおまえをかばって、私に転校を思いとどまるように言ってくれたのです』
 あれはおそらく恨み言だったのだ。私のことを話すときの西松の社員たちには、どこか贔屓の引き倒しの気味があった。そこには私への思いつめた信頼があり、愛情に満ちた判官びいきがあって、母はそれを自分に対する非難と受け取ったのだろう。それさえなければ、彼女はあわただしく職場など替える必要がなかったはずだ。母は渋々この新しい職場に移り、ここの社員たちに身の上を問われるか何かして、多少の批判を受け、息子を遠く手離しているいまの状況に引け目を感じたのにちがいない。息子に手紙を書いたのは倫理観の確認のためではなく、自分の態度を少しでも変更しなければ、新しい職場の人たちから人格的に不審に思われるかもしれないという恐れからだろう。
 ここにきて、母の態度に接して、はっきりとそれがわかる。息子に対して心は何も待ち設けていないのに、彼に接近を図らなければならないというジレンマ。それはたしかに彼女の苛立ちのもとになるだろう。しかし、自分で勝手に作り出したジレンマだ。勝手に苛立てばいい。そんな気まぐれのために、流謫の生活でやっと勝ち取った心の平和をぶち壊されてたまるものか。
「誘われても、道草食わずに帰りなさいよ」
「だれに? 浅野か康男に? 浅野はお義理の善行のために、遠くから人を呼びつけたんだよ。善行をすましたらさっさと帰るだろう。康男は彼に引っ張られていくよ。……あんたはいつも、ぼくに腹が立ってるんだね」
「ああ、むかしからね。その顔見てると、むしゃくしゃする」
「だからそろそろ退散するよ」
「勝手にするんだね。親と利く口はなくても、あのヤサグレとならいくらでもあるだろ」
「人間を正しく評価できないというのは、悲しいことだね」
「何を生意気な。おまえは、あの悪たれ小僧の面構えや、人を人とも思わない振舞いや、世間など少しも気にしない剛腹(ごうふく)な態度にあこがれているんだろ。そんなものを、一人前の男らしさだと勘ちがいしてるんだろ」
「あんたはどれだけの時間、彼といっしょに過ごしたんだ。そういうのを、タチの悪い揣摩臆測(しまおくそく)というんだ。もうたくさんだ」
 表へ出た。さかんに尾を振るシロのパサパサした頭を撫でてから、バス停に向かう。シロはバス停までついてきた。バスの中からシロに手を振った。行儀よく腰を下ろしていた。永遠の別れだと思い、私は内ポケットから眼鏡を出してかけ、彼の姿が見えなくなるまで見つめていた。ぼろりと涙がこぼれた。
 ―母のためにも、きっぱり親子の関係を断ったほうがいいな。
 たとえ、そんなことは人の道ではないと周りの人間が罵ったとしても、私はこの親子関係をあらためてつづけていく気にはならなかった。いがみ合い、遠く離れて暮らすことはけっしてよいことではないにちがいないが、近づいていけばかえってヤケを起こすような肉親にすべてを奪われるよりはましだ。
 ―あれで四十二歳か。
 年齢以上の刻苦の跡が険しい表情になって彫りこまれている母の顔を思い出した。何をそんなに苦しんだというのだろう。
 名古屋駅に出、名鉄に乗って神宮前で降りた。伏見通りを登り、白鳥古墳陵を遠く眺めながら宮中の正門へ回った。すでに門の外に浅野が立ち、愛想笑いを浮かべて親しげに手を振っていた。私は作り上げた慇懃さで頭を下げた。
「よくきたな。いい話が聞こえてきてるぞ」
 母から知らされた成績のことを言っているのだろう。何の思いも湧いてこない。この巧言令色の男に告げる言葉はない。私はただ薄く笑っていた。
「寺田は上の校庭で待っとる。いこう」
 とつぜん心臓が拍ちはじめた。浅野に導かれて石段を上り、グランドに出る。バックネットの金網が一年前よりいっそう茶色く錆びていた。なぜかグランドに野球部員の姿はない。
「土曜日なのに、練習は休みですか」
「クラブ活動は、土日が休みになった。どのクラブもひところの活気がなくてな。みんな愛好会みたいになってまった」
 浅野は、
「まだ野球やっとるのか」
「いいえ」
「そりゃそうだ。いいかげん、人生の方針を変えんといかんからな。東大にいけるほどの成績らしいじゃないか。ここで勉強しとかんと、結局は墓穴を掘ることになる」
「野球にはもう手は出しませんが、墓穴を掘ってもいいほど野球はすばらしいものです」
「そうか? ただの球転がしだろ。お母さんも心配しとった。いい成績をとれるようになったことに増長して、野球でもやりだすんじゃないだろうかってな。私は、神無月は過去の経験に学べないほど馬鹿じゃない、心配ありませんと言っといた」
 何の心配だろう。不吉な感じがした。


         三十三

 康男の姿を捜した。まばらな桜並木のはずれに、痩せたからだが立ってこちらを見ていた。おやと思うほど色の抜けた白い顔をしている。私はまるで幽霊でも見るようにその姿に目を凝らした。彼も私を認めたときから、ずっと目で私を迎えるようにしていた。
「康男!」
 思わず駆け足になった。康男もズルズルと脚を引きずって近づいてくる。何か恥ずかしそうに唇の隅を曲げて、かすかに笑っている。彼は腕を拡げた。私は康男の腕の中へ飛びこんだ。固く抱き合った。
「神無月……」
 まるでどんな友情に満ちた言葉も自分の感情を表すには不適切だとでもいうように、康男はそれだけを言った。あの冬の日のベッドで、半死半生の男が搾り出した言葉と同じだった。私はあふれる涙をこらえられなかった。からだを離して彼の顔を見た。彼は唇を噛み、またひねたような笑い方をした。目が濡れている。
「康男―会いたかった。会えてよかった」
 康男はふたたび私の背中を強く抱いて、動物が鳴くような声で嗚咽した。私はこのまま死んで本望だった。
「ええ高校いったそうやないか。そこは、野球やれるんか」 
「うん。ちゃんとやってるよ。県のホームラン記録を塗り替えた。―内緒だよ」
「わかっとる! 勉強は……」
「それもちゃんとやってる。いつか康男は、勉強なんかガキの遊びだって言ったよね。野球も同じなんだよ。それがわかって、さばさばした気持ちで二つともできるんだ。……康男は高校いったの?」
「そんなとこで遊んどる暇なんかあれせん。松葉でワカの下働きやっとる」
「よかったね。もともとヤクザになりたかったんだもんね。……ほんとに、いつも康男のことを思い出してた」
「俺もや。……えらい目に遭ったな、神無月。俺のせいで。勘弁してくれよ」
 また目が赤くなった。浅野が痺れを切らしたようにやってきて、後ろから康男の両肩をつかみ、柔らかく引き離そうとした。一瞬、康男の顔に失望の影が走った。しかしすぐにすべての状況を肯定しようという表情に変わった。浅野がどうしてそうするのかわからなかった。康男は逆らわずにからだを引き、心に何のわだかまりもない喜ばしい顔をして、私の腕を両手で握った。私も彼の腕を握って大きくうなずいた。浅野が康男の肩を叩いた。
「じゃ、いこうか」
「焦らんでも、ちゃんといくわ」
 口調に棘はなかった。浅野は無理に笑いを浮かべ、私と視線を交えて気まずくそっぽを向いた。
「神無月、わざわざきてもらって悪かったな。気をつけて帰れよ」
 彼らは二人で歩きはじめた。私はもっと何かしゃべらなくてはならないと思った。
 ―何を? この一年のことを? 流謫の理不尽さを? 二人の友情の永遠を?
 声が出ない。康男は脚を引きずりながら去っていく。彼のために私は何者であることもできない。これからの長い年月、離ればなれになり、声を聞くこともできず、あのすがめるような眼差しにも会えなくなってしまうのだ。私は声をふりしぼった。
「康男! ごめんね! ぜんぶぼくのせいだよ!」
 石段を降りぎわ、康男は振り返り、何か口を動かした。聞こえなかったので、また私は叫んだ。
「忘れないよ! ぼくのことも忘れないでね!」
 康男は浅野の手を振り切り、少しこちらへ歩み寄って口を開けた。
「そんなことがあるか! うまくいかんことがあったら、いつでも俺を呼べ。おまえは金ムクやで! またいつか会おうな!」
 私はうなずき、彼らに背を向け、裏門へ向かって走りだした。門の格子に手をかけて振り返ると、まだ康男が片足に重心をのせ、こちらを見送っていた。それから、両手を挙げて大きく振った。そうだ、これからずっと康男に会えなくても悲しむことはないのだ。悲しくなったら彼の名を呼べばいい。そうすれば彼は私のすぐそばにやってきて、
「なにチマチマ考えとるんや、似合わんことすな、おまえは金ムクやで」
 と言ってくれるのだ。
         †
 エアコンの効いた豪華な部屋だった。三人でも寝転がれそうな大きなベッド、枕もとの埋めこみ時計、クッションを置いた二脚の椅子、全身を映す姿見、ローテーブル、造りつけの机。壁いっぱいの窓には、レースに重ねて厚手のカーテンが垂れていた。私はカーテンを引き開けて、部屋を明るくした。
「すごいなあ、ホテルってこんなふうになってるんだね。整いすぎてて一つも記憶できない。こんなところは思い出の巣にはなれないな。……あの、宮の渡しの夜のことがずっと忘れられない。空き地の奥の二階建ての鶴田荘も」
「私も!」
 明るく笑った。
「ラウンジで食事しましょ。中華も和食もあるわ。大将さん、元気だった?」
「うん。泣いてしまった。たった一人の親友なんだ、これからもずっとね……」
「転校させられたのよね、大将さんも」
「ぼくのためなんだ……。高校はいかずに、松葉会で下働きをしてるって」
「だれのせいでもないわ」
「とにかく、もうすんだことだってことさ。どんなことだって、そうやって折り合いをつけるしかないんだから」
「そうよ、そうやって生きていくしかないのよ。下着買っておいたわ。長滞在だから、七組。毎日着替えましょ」
「うん」
 私がベッドに坐ってパック紅茶を飲んでいるあいだ、カズちゃんは姿見の前で服を着替え、簡単な化粧をした。薄青いワンピースが大柄のからだによく似合った。身なりを整えたカズちゃんが私の脇に腰を下ろした。
「……クマさんの社宅、無人だったんだね」
「熊沢さんに会いたい?」
「うん。何カ月か前だったら、会いにいけたのにな。でも、もうちがう工事現場に移っちゃったんだよね」
「……キョウちゃん、ごめんなさい。ガッカリすると思って、きのう話さなかったんだけど、熊沢さん、会社辞めちゃったのよ。私が野辺地にいく前よ。キョウちゃんが青森にいって何週間もしないうちに、一家で長野に帰っちゃったの。ほとほといやになった、キョウがいないならこんなところにいても意味がないって。向こうでまた観光バスの運転手をするんだって。よほどショックだったのね。女の私なら追いかけていけるけど……」
「そうか、千曲川に帰っちゃったのか。房ちゃんも、郷太郎も」
「熊沢さん、いつもキョウちゃんのことばかり話してたわ。俺の養子にしちまえばよかったって」
 カズちゃんの目から涙があふれ出した。
「クマさんがそんなことを言ったの? それじゃ養子になればよかった!」
「キョウちゃんみたいな子を養子にしたら、熊沢さんずいぶん苦労することになるわ。キョウちゃんは、うまく世間に嵌まらない人だから。それでなくても、奥さんや小さい子供までいるんだもの。とてもじゃないけど、引き受けられたもんじゃないと思う」
 そう言うとカズちゃんは笑いながら涙を拭った。私も思わず笑った。
「いつかクマさんに会いにいきたいな。小山田さんや吉冨さんにも」
「そうね。私もいきたい。熊沢さんの消息は知ってたけど、飯場がなくなってることは知らなかった」
 カズちゃんは私の手を握った。
「何をするにもいっしょだよ。ぼくは一生カズちゃんと離れない」
「ほんと?」
「別れることは、死ぬことよりずっと簡単だ。命賭けで愛し合うことがいちばん難しいんだ。難しいことをしてる人間は、簡単なことはしたがらないよ」
「……ありがとう、キョウちゃん。すてきな人。でも私のからだとは、いつか別れてくれてもいいのよ。キョウちゃんは若いわ。私はどんどん年とってお婆ちゃんになっていく。だから、こんなからだに義理立てなんかしなくてもいいのよ。私のからだがキョウちゃんのお役に立てるのは、あと二十年もないと思う」
「ぼくのからだも、あと二十年も役に立てるかどうか心配だ」
「そのころを男の盛りと言うのよ。バリバリよ」
「女のセックスは一生と言うよ」
「ああ言えばこう言う!」
 唇を寄せてきた。
「ラウンジにいく前に」
「ええ……」
 カズちゃんは青いワンピースを脱ぐと、真っ白いブラジャーとパンティだけでベッドに横たわった。私は、胸全体を覆うあの大きなブラジャーを外して、乳輪の淡い乳首を吸った。微笑んでいる。パンティを引き下ろし、顔を滑らせて、そこに鼻を埋める。水溜りのようにあふれていた。
「びしょびしょだ」
「恥ずかしいこと……」
 ぜんぶ舐めて吸い上げる。口の中で性器の細かい部分の輪郭がはっきりしてきた。
「すぐ入れるよ」
「いいわ、私もすぐイキたいの。入れて」
 両脚を腰に抱えて突き入れる。温かい襞にたちまち包みこまれた。
「ああ、キョウちゃん、気持ちいいわ。きょうも何度もイキます」
「いくらでもイッて。カズちゃんのオマンコ、あったかくて、気持ちいい」
 ゆっくり動きはじめる。意識がさまようようにして、初めて彼女に出会ったあの飯場の食堂をめざして飛び立つ。カズちゃんの鎖骨の窪に鳥肌が立った。何の技巧も凝らさずに安心して往復する。壁がしっかり私を包みこむ。
「幸せ。愛してる。あ、あ、イキます、イク!」
 私は動きつづける。蠕動が絶え間なくなって、カズちゃんの顔の赤みが濃くなってくる。
「あ、また、イキます、イク!」
 このままイキつづけるとカズちゃんは危うくなる。子宮口のあたりにいつもの圧力がかかってきた。そこへ挟みこむように亀頭を突き立て急ぐ。あっという間に私にも押し寄せてきた。
「あああ、もうだめ、キョウちゃんイッて、もうだめ、イク!」
「カズちゃん、イクよ!」
「イキましょ、いっしょにイキましょ、出して、うんと出して、愛してるわ、キョウちゃん、大好きよ、あ、あ、あ、イクウ!」
 女神の痙攣に合わせて性器が何度も嘔吐する。
         †  
「お風呂を入れてくるわね。それからごはんね」
 二人で抱き合って風呂に入った。
「西松のお風呂でも、こうやって入りたかったな」
「私も。でもキョウちゃんは、熊沢さんや小山田さんたちの独占物だったから」
「父親代わりだったものね。カズちゃんのお父さんお母さんはいくつ?」
「おとうさんは大正二年生まれだから、一九一三年、うーんと、五十二歳。おかあさんは四つ年上で、明治四十二年生れの五十六歳」
「名前は?」
「耕三、耕す、三。おかあさんは、ひらがなで、とく。むかしは、コウちゃん、とくさんと呼び合ってたけど、いまは、あんた、おまえ。ときどき、耕三さん、おとくって呼んでることもあるわ」
「カズちゃんは、二十二歳と二十六歳の愛の結晶か。大正時代は十五年しかなかったけど、現代文化の原点のような気がする。千九百十年代から二十年代。アメリカでは映画と車とレコードが花咲いた時代だ。日本の野球はどうだったのかな」
「おとうさんの十三、四歳までの時代だから、よく思い出話をしてたわ。大正野球狂時代ですって。東京六大学野球ができ上がり、甲子園球場と神宮球場ができた。おとうさんの言葉どおり言うと、甲子園球場は中等野球の聖地になり、神宮球場は大学野球の聖地になった。子供用として軟式ボールができた。大正九年に東京の芝浦球場を本拠地にする日本運動協会という日本初のプロ野球チームが作られた」
「ん? 昭和九年の東京野球クラブじゃないんだ」
「よくわからないけど、運動協会は学生野球の有力選手を集めて出発したチームで、その一チームしかないから経営できなかったって。それを阪急電鉄の社長が引き取って、宝塚球場を本拠地にする宝塚運動協会を作った。大阪毎日新聞が大毎を作ってそれと対戦したけど、ほかにチームができなかったから、昭和に入ってすぐその二チームとも解散したんですって」
「よく憶えてるなあ!」
「お酒の相手がいると、だれかれとなく話してたから、なんとなく憶えちゃった」
「それから、大日本東京野球倶楽部ができたわけか。その三チームの選手のことは言ってなかった?」
「さあ、言ってたんでしょうけど、よく憶えてないわ。ええと、ちょっと待って、ナカザワフジオとか、山本エイイチロウとか、大貫ケンという名前はときどき言ってた。ほかに天勝(てんかつ)野球団という名前もよく聞いた。旅の一座が持ってた球団らしくて、けっこう試合してたらしいわ。あ、天狗クラブというのもあったかな。宝塚運動協会を気に入って、六代目尾上菊五郎が野球選手の面倒を見たのが、野球タニマチの走りですって。ワシは神無月さんの菊五郎になるって言ってたわよ」
 乳房を握って乳首を吸う。甘咬みする。コリコリして心地よい。指を股間に滑らせる。
「ああ、キョウちゃん、きょうはもう、ムリ……」
 カズちゃんには節度がある。貪らない。
「わかってる。きょうのカズちゃん、イクとき、イキます、イキますって、ですます体で言てった」
「そう? 意識してなかったけど、きっと、私がイク感覚は、キョウちゃんが経験できないほど強いもので、それは自分のからだだけじゃなく、そういう状態にさせてくれるキョウちゃんにも感謝しなくちゃいけない神聖なものだって思うからね」
 カズちゃんは大事そうに私のものを湯で洗い、
「きょうは、さようなら」
 と声をかけた。洗い場に上がると、カズちゃんは石鹸を泡立てて私の全身をきれいに洗った。私もカズちゃんのからだを丁寧に洗った。風呂から上がると、カズちゃんは鏡の前で髪を整えた。少しパフで叩く。みるみる女神が妖艶になった。



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