三十七

 私はカズちゃんの背中がコンコースに消えるのを見届けてから、丈の高いイラクサがまばらに生えた空地を横切り、胸の高さほどの竹垣の端を回っていった。棟つづきの平べったい長屋の戸口で、軒灯に照らされた色の白い中年の女が、盥にしゃがみこんで洗濯をしているのが見えた。夜の洗濯はめずらしかった。固く結んだ唇に赤い紅が薄く引かれている。私はしばらく菊の枯れた生垣の外にたたずみながら、カズちゃんに似た柄の大きい豊満なからだを見つめた。その頬は健康そうに張り切ってつやつやしていたけれども、それよりも私は、彼女の手に心を惹かれた。白く肥えた美しい指に、少女に感じるようないじらしさを感じた。カズちゃんとそっくりの指だった。私が見つめているのに気づき、女は洗濯を途中にして寄ってきた。
「きてくれたんですね? ありがとうございます」
 と微笑みかけた。心から感謝していることがその表情からすぐわかった。
「こういう場所は、こわくて近寄れなかったでしょう」
「いえ。トモヨさんと呼んでいいですか」
「はい。うれしいわ。どうぞ、入って」
 長屋ふうの引き戸を開けて鞘土間に入った。ひっそりとしていた。土の冷たさに混じってかすかに隙間風を感じた。トモヨさんは、土間の左奥の一室に導いた。豆燭だけ点けた二畳の部屋に薄い蒲団が敷いてあり、壁は飯場と同じベニヤだった。文机が隅に置いてあり、得体の知れない小物がゴチャゴチャ載っていた。文庫本も何冊か積んであった。
「十六歳?」
「はい。五月五日が誕生日です」
「私の半分にもならない年ね。私は三十五」
「カズちゃんに聞きました」
 半袖のカーディガンの胸の盛り上がった曲線が、上品な丸みを帯びている。白いふくよかな腕がまぶしかった。目尻のたるみ具合からカズちゃんより多少年上だとわかるが、顔が酷似しているので気にならなかった。手放しで甘えたくなった。
「きょうはどの部屋にもお客さんがいないから、気兼ねしなくていいんですよ。隣に人がいると、気が散っちゃうでしょ」
「はい」
 トモヨさんはするすると全裸になって、蒲団に横たわった。全身が顔と同じ色だ。豊かな胸にも下腹にも、たるみがまったくない。驚いたことに、カズちゃんと同じ形の陰毛だった。女のからだというのは不思議だ。たとえ触れる前からでも、爪の背でもなければ指の股でもありえないということがはっきりわかる。彼女は肉付きのいい白い手を腹のあたりで重ね合わせ、
「サックをつけたら、おたがいほんとうの感じがわからないし、いい思い出にもなりません。お嬢さんの言うとおり、きちんとナマでして、きちんと出しましょうね。私もナマでするのは十二年ぶりです。私みたいな年寄りで神無月さんにはお気の毒ですけど、まじめにやりますから安心してね」
「まじめって?」
「きちんと感じようにするってことです。女が穴だけのつまらない生きものだって思われたくないもの」
 乳首を小指でなぜた。
「子供を産んだことないので、きれいでしょ」
「とても。びっくりした。何から何までカズちゃんそっくりだ」
「うれしいわ。お嬢さんだと思って抱いてくださいね」
 言われなくてもそうするつもりだった。乳首を小指で押してみた。トモヨさんは、にっこり笑った。彼女は宙に垂れた紐を引いて豆燭を六十ワットに切り替え、明るい光の下で恥じらいもなく股を開いた。自然な動きに、居間で見た静けさと、くつろいだ感じとが同居していた。
「まず、オマンコを見てください。お嬢さんにすまないという気持ちから縮み上がってます。勃ってくれないとおたがいに悲しい思いをします」
 私は性器より先にトモヨさんの顔をじっと見た。幼女と見まがうほどの、下ぶくれで目の大きい、好みの顔だった。カズちゃんにそっくりだけれど、目鼻立ちの微妙な釣り合いがちがっていた。私は、少しばかり緊張していた気持ちがほぐれ、いつものように気分が伸びやかになるのを感じた。トモヨさんが目を伏せたので、性器に目を移した。カズちゃんより少し黒ずんでいることを除けば、陰唇の長さも左右の釣合いもほとんど同じだった。馴れ親しんだ股間を眺めているようだ。
「汚いでしょう?」
「ううん、カズちゃんより少し黒いだけ」
「何百人もの男と寝てきましたから……。今度は神無月さんのを見せてください」
 私は服を脱いだ。トモヨさんは半身を起こして私のものを見つめた。すでにそれは包皮をきっちり後退させて、怒張していた。
「立派なカリ! うっとりします」
 亀頭の周りを人差し指で撫でた。
「こんなのを入れて長持ちされたら、女はたいへん」
 大きな目が潤んでいる。
「いままでだれにも訊けなかったんだけど、イクとどこが気持ちよくなるの?」
「そうですね、オマンコが直接というより、お臍の下のお腹の奥、それから、からだ全体がジーンとするんです。でも十年以上前の感じですから……」
 カズちゃんの言ったとおり、自分の能力を心配しているのだ。
「……トモヨさんの、舐めていいですか」
「はい。仕事の規則で、そういうことしちゃいけないことになってるんですけど。……私がそうしてほしいから喜んでしてもらいます。いつもきれいにしてますから、安心して好きなように舐めてみてください。オサネは敏感なので、すぐイッちゃうと思いますけど」
 トモヨさんは蒲団に仰向けになり、膝を両側に倒して、さっきよりもはるかに水気を増している陰部を広げて示した。よく濡れるタチらしく、いつのまにか陰毛のところどころに小さな水滴が散っている。
「すごく濡れてる」
「え! 私、あまり濡れないタチだったんですけど、恥ずかしい―」
 やさしくしてあげてというカズちゃんの言葉を思い出し、丁寧に愛撫した。
「あ、あ、気持ちいい、神無月さん、おじょうず、私、もうだめ、イッちゃいます、早くてごめんなさい、あ、イクッ……」
 ぷるぷると白い腹が波立ってふるえた。すぐに落ち着き、
「ハァー、とても気持ちよかったです。ありがとうございました。今度は神無月さんのを舐めてあげます」
「郷です」
 名前を言った。トモヨさんは一瞬感激したふうに、
「郷くんていうんですね。いい名前ですね」
「故郷のサト」
「めずらしい漢字ですね。だれがつけたんですか」
「わかりません。自他ともに幼いころの話は、まるでタブーのように聞いたことがありませんから」
「そうですか。名前をつけた人はいいセンスしてますね。……あら、たいへん、お話してたら、小っちゃくなってしまいました。じゃ、舐めますね。郷くんのオチンチンを舐めることができて、身に余るほどの光栄です。うんと気持ちよくしてあげますね。なるべくイカないようにがまんしてくださいね。私に入れられなくなっちゃうから」
 グッと深くくわえこみ、一気に亀頭まで唇をしごき上げる。カリの周囲を舐め回し、また唇をしごき下げる。ゆっくりそれを繰り返した。
「気持ちいいですか?」
「とっても」
「イキたくなりました?」
「まだ。ぼく、カズちゃんの中でなければイケないんです」
「あら、ほかの人としたことがあるんですか」
「一人だけ……」
「じゃ、私の中でイッてもらえたら、ほんとうの名誉ですね。郷くんの年ごろは、ほとんど早漏なんですよ。わあ、大きくなった! すごいカリ! 頼もしい。私も、うんと濡れました。さあ、郷くんのを入れてください」
 カズちゃんとわずかにちがう温度の襞に包みこまれた。ときおりかすかに脈打つ。真皮と真皮を通して、自分の血が彼女の血に流れこんでいくようだ。このままじっとしていようと思った。
「気持ちいいですか?」
「はい」
「動いてもっと気持ちよくなってください」
 ゆっくり動く。トモヨさんの肩と上半身がかすかに動き、大きな丸い乳房が揺れた。わざと奥には入れないようにする。気持ちいいですか? と何度も訊く。脈が強まる。
「あせるとすぐイッちゃいますから、速く動かさないでくださいね」
 自分に言い聞かせているようだ。
「うん。でも、ぼく、なかなかイカないから、早く動かしてもだいじょうぶです」
「ほんと? じゃ、私が気持ちよくなるまでがんばれますか?」
「はい」
「奥に一回、ぐっと入れてみてください。そうです、ああ、じょうず。ときどき奥に入れて、あとは自分の気持ちいいように動いてくださいね」
 膣のうねりの頻度から、明らかに強がっていることがわかった。
「ときどき奥を突いてください。私、もう長いこと中でイッたことがありませんから、がんばってイクようにします。郷くんもがんばってくださいね、あ、あ……」
 私はトモヨさんの言うとおりにした。間歇的に奥のほうで緊縛が強くなる。そのたびに彼女は目を細め、切なそうな息を吐いた。カズちゃんほど敏感でないようだ。私は、彼女がときどきと言ったのに逆らって、連続的に奥を突いてみた。
「あ、いい、いい感じ。そうすると気持ちいいんですか? 私も気持ちいいです」
 スピードを速めて、二浅三深を繰り返す。脈動が激しくなり、膣の奥まったところが急速に狭まってきた。 
「気持ちいい、ああ、いい、私とっても気持ちよくなってきました、いい、とてもいい、まだイカないでくださいね、あああ、郷くん、私、もうすぐです、なんだかひさしぶりにイケそう、あ、あ、ほんとにイク、もっと突いて」
 本音を言った。三浅五深に切り替え、奥を強く突く。 
「うう、気持ちいい、いい、私、イキそ、イキそ、もうだめ、イッちゃう、ああだめ、がまんできない、イキますね、郷くん、イキます、イク、イイイク!」
 脚を開いたまま陰部を押しつけ、三度、四度と痙攣した。カズちゃんみたいな強い達し方はでない。アクメの蠕動も弱々しいものだった。薄闇の中でうっすらと顔が高潮しているのがわかる。私がトモヨさんの顔を見下ろしながら黙っていると、ハッと気づき、
「あ、郷くん、ありがとう、きちんとイケました。ごめんなさい、郷くんより先にイッてしまって。つづけてください、もうすぐイクところだったんですね」
 うなずき、抽送を始めると、さっきより壁がはるかに狭くなっている。腰を回すように動かし、膣全体をかき回すようにする。
「ハアア、気持ちいい、私、もうイッてしまいましたから、郷くん、好きなようにしてイッてください」
 暴れるように突きまくる。
「ハア、郷くん、強いんですね、あ、あ、いいわ、あ、いい、郷くん、もうイッてください、いいんですよイッて、私、また……」
 なかなか自分に訪れないのが訝しかった。
「まだ、ぼくはだめみたい。キスしてもいい?」
「いいわ、いいわ、キスして、うう、気持ちいい、私もう一回イキそう、あああ、気持ちいい!」
 キスをしながら、強く引き戻し、子宮に打ち当てるように深く突く。イッたばかりのトモヨさんの膣全体がたちまち強烈に締めつけてきた。
「アー、すっごく気持ちいい! 郷くん、こんなの初めて、もう一回イク!」
 蠕動が激しくなり、カズちゃんとまったく同じリズムになる。やさしいトモヨさんに限界を超えてほしくて、私はさらに腰の動きを速めた。こんな荒々しい動きをするのは初めてのことだった。眉根を寄せた半眼で私を見るともなく見つめる顔がひどく美しい。
「あああ、たまらない、またイキそ、イキそ、はあ、気持ちイー、イキそ、またイッちゃいそう」
 トモヨさんが限界を超えていると私の性器にきちんと響いてくるのに、彼女がなかなか最後のアクメに達しないのは、いまから迎える絶頂にこれまで達した経験がないからだとわかった。無意識に彼女の腰が動きはじめた。
「私、もうがまんできない! アー、だめ、気持ちいい、だめ、イキそ、郷くん、イキましょ、いっしょにイキましょ、もう私だめ、イッちゃう、イク、イクイクイク、イクウウウ!」
 ついに達した。立てて広げていた膝がぐんと伸びた。その瞬間、私は無理やり亀頭を奥へねじこんで射精を間に合わせた。放出の律動のたびに、トモヨさんもビクンビクンと陰阜を弾ませる。それが自分のアクメをさらに誘って、私を搾り尽くすまで腰の反射が終わらない。トモヨさんはままならない自分のからだの痙攣を恐れるように、下腹を両手で抑えながら何度も尻を跳ね上げた。私は、恥丘を打ちつけてくる彼女の中にかろうじて性器を残したまま、開いた唇を吸った。トモヨさんは痙攣を繰り返しながら、私の背中を抱きしめ、貪るように深く舌を入れてきた。
「あ、あ、まだイッてます、好きです、好きです、郷くん、ああ、イッてる、うーん、まだイッてる、ああ気持ちイイ、いつまでつづくの、イクウウウ!」
 私が上壁をこそぐように性器を抜くと、トモヨさんの尻が一瞬踊り、もう一度腹をグーッと絞るように痙攣した。
「イグ!」
 ドッと尻のみぞに精液が流れ出してきた。乳首を吸うと、やっぱり尻が跳ねた。枕を跳ね飛ばした蒲団からはみ出しているふくよかな顔を見つめた。やはりカズちゃんには似ていない。だれにも似ていない。トモヨさんそのものだった。


         三十八 

「ああ、やっと治まってきました。……郷くん、スタミナあるんですね」
「ぼく、トモヨさんのイッてる顔、大好きです。とってもきれいだった」
「ありがとう。こんなに強くイッたことも……そんなこと言われたことも、初めてです」
「トモヨさんだって、イクとき、ぼくのこと好きだって言ってたよ」
「ほんとですか?」
「うん」
 トモヨさんはだるそうに手を伸ばして、枕を整え、寝床の脇に積んである粗末なチリ紙を取り、おそるおそる陰部を拭った。それから、力をふりしぼって起き上がると、私の性器に屈みこんで丁寧にぬめりを舐め取った。まったくカズちゃんと同じ行為だった。
「女の人は、みんなこうするの?」
「しないと思います。ほんとに好きな人にだけ。自分のもので汚れたオチンチンをきれいにしてあげたくなるんです。私は、十九のときに付き合った人にだけ何回かこうしてあげたことがあります。まだこの仕事をしてないときですけど」
「……お客さんとしてて、イッちゃったことある?」
「こんなオバチャンに妬いてくれてるんですか?」
「もしそうなら、ちょっと口惜しいから」
「ないです、一度も。こんなに強くじゃありませんけど、十九のときに何度かイッたっきりです。もう十六年以上も中でイッたことがなかったんですよ」
 とつぜん私の頭を強く抱えてきた。
「ああ、郷くん! もう一回、してくれます?」
「うん」
「すぐできます?」
「スタミナあるから」
 さらに強くからだ全体を抱きしめてきた。すぐに脚を広げて突き入れた。トモヨさんはかすかに悲鳴のようなものを上げ、腰を高く突き上げた。
「ううーん、イクウウウ!」
 一突きで達してしまった。かまわず腰を動かしつづける。
「あああ、またイク、ああ、郷くん、私またイッちゃう、イク! ああ、気持ちいい、すごく気持ちいい、イ、イ、イク! 郷くん、私どうかなりそう、気持ちいい、またイク、イク! はあ、はあ、はあ、イク!」
 膣壁のふくらみが絶え間なく上下に移動する。カズちゃんとまったく同じ動きだ。私はあっという間に耐えきれなくなった。
「トモヨさん、イクよ!」
「イッて、イッて、ああ、郷くん、イッて、私もうだめ!」
 子宮に思い切り突き入れて放射した。
「郷くーん、イッグゥゥゥ!」
 トモヨさんは陰部を密着させたまま、上半身を横向けたり、仰向けに戻したりしながら悶えた。やがてひきつりが治まると、トモヨさんは寝入ったように見えた。激しいアクメのせいで、からだがすっかり疲労してしまったのだろう。私はそっと抜き取り、ちり紙で自分の性器を拭い、彼女の姿を眺め下ろしながら学生服を着た。
「郷くん、好きです―」
 敷居で靴を履いていると、眠っていると思ったトモヨさんが背中から声をかけた。
「またくるね、トモヨさん」
「きっとね。きっときてくださいね」
「うん、来年、かならず」
 まだ十時を過ぎたばかりだった。カズちゃんとホテルのカクテルラウンジに上がり、オレンジジュースを飲みながら、詳しく話した。カズちゃんは涙を流した。
「よかった、トモヨさん、ほんとうによかったわ。キョウちゃんもたっぷり出した?」
「うん。搾り取ってくれた」
「これで安心。あしたは午前中にかえりましょう。また名古屋にきたら、かならずトモヨさんを訪ねてあげてね」
「うん」
「一年に一回はきましょうね。よかった、ほんとに―」
 それから部屋に戻ってベッドに入り、秋の練習試合のことやら、夏期の補習のことやら話した。最後に、康男のことを長く話した。リサちゃんや、ダッコちゃんの話も出た。話をしながら、カズちゃんより先に深い眠りに落ちた。
         † 
 六時にいっしょに目が覚めた。風呂に浸かって、からだを流し合い、下着を替え、ルームサービスの朝食を待った。
 アジの開きに、目玉焼き、ウィンナー、おろし納豆、フノリの味噌汁。青森市内で昼食をとることを申し合わせ、一膳めしでやめる。もう一度きしめんをすすりにガード下にいった。地下街で葛西さんの土産にウイロウを買う。荷造りをし、九時にチェックアウトした。
 帰りの飛行機でも、バスの中でも、二人熟睡した。
 一時ごろ青森駅で空港バスを降りた。曇り空の下の空気がひんやりしている。
「やっと帰ってきたわ。いまは、ここがいちばん好きな街。そうそう、公民館にくる途中に幼稚園があったでしょう」
「うん。大きな幼稚園」
「桜川幼稚園。あそこで、八月の十日から給食のおばさんをすることになったの。スタッフ三人。料理家のお手伝いよりずっと安定した仕事」
「おめでとう。カズちゃんは働くのが肌に合ってるんだね」
「そうかも。おとうさんたちに甘えないように、自分を戒める意味もあるのよ」
 五井寿司に寄り、上チラシを食べる。店を出るころ、雨が落ちてきた。荒物屋で傘を買う。堤橋まで歩く途中で、断っちゃダメよ、と言われて、五十万円の封筒を渡された。
「うんと本を買って読んで。居間にステレオを入れておくわ。遊びにきたとき、好きなだけかけて聴いてね」
「カズちゃん、〈生きるほど〉好きだよ」
「私もよ。たとえ死んでも、いつでも蘇るわ」
         †
 ウイロウを夕食のテーブルに差し出すとき、赤井もいた。
「名古屋さいってきたのな。おばさんから話聞いだ。泣がせるでば」
「親友と永遠の別れをしてきました。……山田三樹夫と、寺田康男、大切な友人を二人失ってしまった」
「なぐして、また得るのせ」
 サングラスが見えない目を私に当てて言った。奥さんが、
「お母さんは元気でした?」
「ピンピンしてました。この先野球をする場合、彼女が確実にぼくを阻害する意思のあることがわかったので、心の中でスッパリ縁を切りました。野球をやってることは口に出せませんでした。彼女が許すのは勉学の道のみです。というより、名門大学に進学することのみです。それ以外の道を認めません。赤井さんのような人が息子だったら、彼女は生涯幸福だったでしょう。ぼくは、日本に同態復讐法があれば、母から何かを奪い取って復讐したいくらいですが、彼女には金のほかにぼくの野球のような愛着物はありません。金を奪い取るという方法を思いつかないので、どうやってみても復讐はかなわない。こういう状況は単なる不幸として、いさぎよくあきらめます。そして、二十歳を待ちます」
 赤井が、
「ドウタイフクシュウ?」
「ものでも命でも、奪われたら奪い返すという習慣です。勉学の道は、親の同意を必要としません。自由な活動です。プロ野球の契約には、未成年や大学生のうちは親の同意が必要です。つまり、彼女と親子関係にあるかぎり、ぼくは大学生二年生までは野球の道に進めないということになります。こうなったら、自分なりの努力を最大限にしようと思います。野球をやりつづけながら、親の同意を必要としない年齢まで待ちます。むろん勉学活動もします」
「つまり、あれだ、こういうことだべ。勉強をしっかりやりながら、こっそり野球の練習もすると。一所懸命やって勘をなくさねようにして、成人越えたらプロと契約すると。そのあとは、ワタクタやると」
 赤井の要領いいまとめに私はうなずいた。
「社会人野球でも、プロ野球でも、東大に関係をつけておきさえすれば、母は契約の際に渋々でも同意する可能性が高いです」
「可能性てへるより、百パーだべ。二十歳すぎてるんだすけ」
「法的な理屈はそうでも、親がぐずれば、球団は嫌悪感を抱いて、獲得に見切りをつけます。ぐずらない可能性のことです。東大を卒業して大会社にでも入ってからなら、今年の新治(にいはり)の例もありますし、まず百パーセントぐずらないでしょう。でも、その数年間は人生のムダです。東大の二年生になったら生涯最大の足掻きをしてみるつもりです。とにかくまず東大です」
「それにしてもいがったなあ、神無月くん、高校のあいだこうしてお母さんから離れでいられで。ずっとお母さんのそばにいたら、野球の練習もじゃまされていたんでねえの」
 主人の言葉に奥さんは首をひねり、
「スミちゃんも、どうしてそこまで依怙地になってるんでしょうね」
 ミヨちゃんが唇をふるわし、
「神無月さんを自分の持ち物だと思ってるのよ。とにかく好きにしたいのよ。野球をやってるってわかったら、いつなんどき、勝手に名古屋に呼び戻すか知れたもんじゃないわ。おとうさん、おかあさん、そのときはぜったい反対してね」
 主人はミヨちゃんから目を逸らし、
「……そう簡単にいく問題でねんでねがな。親がわが子をそばに置いておきてというのは、世間的にはあたりまえのことだすけな。最終的にはだれも逆らえね」
 赤井がフンと笑い、
「神無月くんは、厄介者扱いされてんだべ。呼び戻すことはねんでねの」
 奥さんが、
「でも、どう気持ちが変わるか。神無月さんは勉強も優秀だから、青森高校以上の名古屋の名門校に転校させて、東大を目指させるとか……」
 主人が、
「そばさ置いてが?」
「下宿なんかさせてですよ。とにかく目の届くところに置いて監視するんですよ」
 サングラスが、
「そごまで考えたら、きりがねべ。なんも先のことは考えねのがいんだ」
 赤井が、
「神無月くん、ワみてに、たまには〈息抜ぎ〉しろ。なんもかも忘れでよ」
「何の解決にもならないじゃないですか!」
 ミヨちゃんが真剣な顔でバシッと赤井の肩を叩いた。それでみんな笑い、場の空気が和んだ。奥さんが、
「赤井さん、あなたの息抜きに神無月さんを巻きこまないでくださいよ。まだ十八歳じゃないんですから」
 主人はいま気づいたとでもいうふうに、にやにやしながら、
「ははあ、赤井くんの散歩は浜町のほうが?」
「ま、あなたまで」
 サングラスがガハハと笑い、
「いい若げ者がいぐら息抜ぎしても、なんも悪いこどでねべ。勉強も優秀だんだし。オラも若げころは、大した遊び人で―」
「はい、そこまでにして、ごはんにしましょ」
 男どもの身に覚えのあることに話題が流れたせいで、私の将来への関心は笑いの中にまぎれた。
「ソフトボールのトーナメントはどうなったの」
 ミヨちゃんに訊いた。
「一回戦負けでした。三対二。私の小学校時代のスポーツ活動は、これでオワリ。これからは勉強をしたり、おうちのお手伝いをしたりしなくちゃ」
「中学へいったら、どんなスポーツするの」
「やっぱりソフトボール。野球の楽しさがわかってきたから」
「どんなところが楽しい?」
「チームプレイに見えるけど、結局、ピッチャーとバッター二人っきりの対決からすべてが始まって、その二人の力の差が勝ち負けになるところ。ただ、どんなにピッチャーがよくても、打てないチームは勝てないわ。いちばん大事なのはバッターですね」
「つまり、野球は、バッティングにすぐれることが勝ちにつながるということだね」
「そう。だから私、強いバッターになるように練習するつもり」
「よく野球の本質がわかったね。でも野球の楽しさには気づいてない。本質と楽しさはちがう。野球の楽しさは、ピッチャーとバッターの勝負、そのときに生まれる臨機応変の守備や走塁、その総体にあるんだよ。勝ち負けじゃない。いいピッチャーといいバッターが戦ってこそ、守備や走塁が華麗になり、野球が楽しくなる。だからピッチャーはピッチング技術を磨き、バッターはバッティング技術を磨き、その勝負をすばらしい環境で行なわせるために野手は守備技術を磨き、ランナーは走塁技術を磨く。でも、ふつうは、ずっと出ずっぱりのピッチャーに関心がいきがちなので、ピッチャーがいちばん重要だと思ってしまう。スカウトもピッチャーにばかり注目する。ミヨちゃんがバッターの重要さに気づいたのは並の観察力じゃない。そのことがわかっている人は、あまりいない。ピッチャーが敵を零点に抑えたとしても、スクイズでもホームランでもいいから、バッターが一点取ってやらなければ、ぜったい勝てないものね。少なくともプロ野球界だけは、総体的な野球を見せて観客を喜ばせる方向で発展してほしいね」
 主人が感心したふうにうなずいた。赤井が、
「プロスポーツは、企業利益ってのがあって、勝ち負けが眼目になるんでねが? 楽しぐやってられねと思るど」
「楽しくやって勝てば、一石二鳥でしょう。少なくとも選手は楽しんでやるという一石だけを重視しなければ、勝っても負けてもファンは楽しくない。楽しくないファンは離れます。企業利益どころじゃなくなる」


         三十九

 八月五日木曜日から八日日曜日までの予定で野辺地に帰った。五日の午前は小雨だった。奥さんに傘を持たされた。
 半年のあいだ一本も手紙を出さない不義理をしたあとの帰省だった。それでもじっちゃばっちゃは大喜びした。
「おめの話で持ちきりだ。日本中に知れ渡ったツケ。この新聞さも載ってら。横山のハナちゃんが持ってきでけだ。合船場さも新聞記者がきたんで。ちょこっとオラんどの話聞いてから、野中の先生さ話聞ぎにいった。来年は何度もくるとよ」
 ばっちゃが誇らしげに言うと、じっちゃもこれ以上ないほど相好を崩した。
「どたらにいろんなものもらって生まれてきたんだが、おっかねじゃ。かっちゃにも知らせたのな」
「知らせないよ。じっちゃも知らせないでね。野球が大嫌いだから、学校に直訴してやめさせられちゃう」
 ばっちゃが、
「そんだこった。新聞記者にもむごさ連絡しねよに口チャックしてもらわねばなんね。こっちゃで騒いでる分には、まンずでじょぶだたて、むごさ話が流れでいったら、アブネこだ」
「とにかく勉強で目立っておくことだね。じっちゃ、勉強も青高の一番取ったよ、マグレで」
「マグレだてが!」
 じっちゃは上機嫌に煙管を吹かした。何につけ、彼らが喜ぶのがうれしかった。すぐにホタテの刺身と、七輪で焼いた殻焼きが出た。
「うまい! やっと帰ってきたって気になる」
 じっちゃが、
「音、よごさねもな。たまにはハガキぐれ書げじゃ」
「うん。野球と勉強で忙しくてさ」
「三樹夫の葬式、人が集まらねがったツケよ」
 話の途切れに、ばっちゃが唐突に言った。結局のところ、人間はほかの人間に一目逢って、また姿を消すために生まれてくるだけだ―そう言うのはたやすい。死ぬ者がいて生き残る者がいるのは仕方がない、死んだ者の記憶を励みにして残った者が生きつづければいい。そうサングラスは言った。山田の笑顔の記憶に比べれば、神話か百物語のように空しい言葉だ。卒業式のときの曲がり落ちた首筋も、短かった命の顛末も、いつかはみんな忘れられる。私は忘れない。なぜ? 忘れたくないから。
「死んだ顔を見るの、いやだったんだ。……帰る都合もつかなかったし」
「仕方ながべ。だれだって、他人の都合に合わせて死ねねんだ」
 しんみりとばっちゃが言う。
「山田くんは、みんなの見舞いをうるさく思ってたんじゃないかな。すごく気を使う人だったし、それでなくても重病だったんだから」
 そんなことを知ったようにしゃべっている私は、実際、山田の何に当たるのだ? 山田にとって何者なのだ? 要するに赤の他人じゃないか。ほんとうに彼の何を知っていたのか。何も知らなかった。秀才で、驚くほど弁が立ち、気の毒なことに白血病だったということのほかには。
 ―神無月くんは驚かね男だ、だからしゃべった。
 耳に残っている山田の低音に、高い調子のばっちゃの声が重なった。
「病院さ見舞いにいったとぎ、おめのことばりしゃべってらった。うだで痩せで、ちゃっこくなってまってよ。……おめの名前で、大っきた花輪コ一つ出しておいた」
 花輪。生き延びた申しわけなさのしるし。
「……あした、山田くんのところへいってくるよ」
「おお、線香上げてこい」
「きょうは、いまから野辺地川に泳ぎにいってくる。そろそろ水が冷たくなるから」
 じっちゃが、
「あっちゃこっちゃ歩がねほうがいいど。やがましすけ。おめは有名だんだ」
「うん、泳いだらすぐ帰る」
 海水浴客で混雑する金沢海岸を嫌って、わざわざ野辺地川の上流を目指した。海を避けたのは、ばっちゃが日除けの頬かむりして、老人仲間と砂利浜に尻を落としながらホタテの紐通しをする姿に出遭いたくないという理由もあった。いまからばっちゃは海浜に出るはずだ。半年ぶりに孫が戻ってきて、彼女はたしかに天にも昇るほどうれしいにちがいないけれども、たとえ三、四日でも、食い扶持が一人増えた暮らしの算段をこまごまと考えなければいけないのだ。清廉な彼女に金を差し出すことはできない。差し出しても受け取らない。
 埃っぽい交差点を抜け、八幡さまの前から左折して坂を下っていくと、見渡すかぎりの稲穂になった。穂を揺らしながら風が渡ってくる。一本の畦道の外れまで歩き、森の中の山路に入る。ひんやりとした湿気に包まれた。蝉が鳴きたてる。木の香りが刺激的だ。水の音がかすかに聞こえる。濶葉樹に覆われた路を歩いているあいだじゅう、その涼しい音が絶えなかった。やがて川が姿を現し、連れだって歩きはじめた。川幅が増していき、ゆるやかに水草をなびかせながら流れていく。路が登りになり、川が離れていった。眼の下に石橋が架かっている。
 私は橋を目指して下っていき、石の河原で素っ裸になった。からだは引き締まって青白かった。縮んで頭だけ覗かせた性器が薄い陰毛のあいだから見える。浅瀬に入る。思ったよりも冷たい。水中の石はたまらなくぬるぬるした。バランスをとるのに苦労する。深みに入り、上流に向かって抜き手を切った。青空が迫ってくる。できるかぎり顔を反らせて空を見上げ、青い色彩に心を染めようとする。
 ―山田三樹夫はもうこの空を見上げられないのだ!
 若い男女のハイカーの一行が土手道から見えた。彼らはみんなで唄いながら歩いてきた。歌声が高くなる。私は彼らの視線を避けるように、大急ぎで葦の群れへ泳いでいった。
「くまさんの、いうことにゃ、スタコラサッサ、お逃げなさい」
 口笛も混じっている。彼らの性欲まみれの明るさが轟きながら飛びかかってきた。そのわざとらしい親和が私をつかみ、浸かっている水をつかみ、岸の草をつかみ、脱ぎっ放しにしてある私の服をつかんだ。
「おい、あれ、服じゃないか」
「だれか泳いでるんでしょう。私たちも泳ごっか」
 私は葦の葉陰で硬直した。
「やめとこうや。まだ先が長いし」
 話しぶりから、都会からきた若いハイカーたちだとわかった。どうせ駅に自家用車でも駐(と)めていて、ここを一歩きしたら、恐山か十和田湖のほうへでも廻っていくのだろう。
 小魚が影のようにからだのまわりをかすめていく。からだが底冷えしはじめた。一行が歌声をこだまさせながら遠ざかり、やがてそれも聞こえなくなった。私は河原に泳ぎ戻り、急いで身支度を整えると、冷えたからだを山気で温め戻しながら家路をたどった。
 蛙が鳴いている。畦道のところどころに積まれた乾草が、午後の陽を受けて黄金色に輝いている。帰宅を急がずに、ようこちゃんのうさぎやのほうから海岸通りへ回った。けいこちゃんの廃蔵を過ぎ、金沢海岸沿いの道を歩く。天秤を担いだ〈ぼてふり〉が唄うような売り声を上げて通り過ぎる。けいこちゃんと歩いたころよりだいぶ町並が変わった。幅の広いアスファルト道が直線に貫き、道の肩に民家が密集している。あのころは家など数十メートル間隔にポツンポツンとしか建っていなかった。
 道の向こうから見覚えのある顔が近づいてきた。中学生の夏服を着ている。蚊柱が立ちはじめた電信柱の下で、はっきり顔がわかった。
「神無月さん―」
 切れ上がった大きな目が遠慮がちに呼びかけた。
「ああ、山田くんの……」
 山田三樹夫の妹だった。妹はまぶしそうな表情で微笑みかけた。ホタテの直売所へでもいった帰りなのだろう、貝殻を盛ったバケツを提げていた。足を止めた雰囲気から、私と話したいのだとわかった。
「急いでますか」 
「いや、ぜんぜん。ただの散歩ですから。わざわざ応援にきてくれて、ありがとうございました」
「いいえ。秀子さんに誘っていただいて、野中の先生がたも応援にいくとおっしゃるので、付録みたいにくっついていきました」
「あした線香をあげにいくつもりでした。ちょっと話でもしましょうか」
 私は道をそれ、妹の先に立って渚へ下りていった。浜辺はしんとしていた。干からびた藻のそばにくらげが転がって蒸発している。漁船のタールのにおいと、陽に炙られた砂の熱気にむせる。二人で流木に腰を下ろし、広々とした水平線のほうへ眼を向けた。遠くぼんやりと下北半島の突端が見える。
「ホームラン記録、おめでとうございます」
「ありがとう」
「神無月さんの野球の才能、兄も知らなかったと思います」
「じつはぼく、これしかないんです」
「そんな……。青高は、勉強たいへんですか」
「すごくね、ぼくには」
 人見知りする堅苦しい女だという印象しか残っていなかったので、意外な気がした。
「私、兄と同じ野高にいきます」
「そう。しっかり勉強して、死んだ兄さんの分も高校生活を充実させなくちゃ……」
「はい。にいさん、病院でいつも神無月さんのことばかり話してました。あの男は大した人間になるって。一人だけ眼がちがうって」
「眼が? ふうん……きっと情熱的に見えたんでしょう。情熱が眼を作りますから。でも情熱というのは、山田くんのようなすぐれた人間の心の内にしか芽生えない。ぼくはすぐれた人間じゃない。山田くんの感じた〈眼〉は、彼の希望が錯覚させた眼ですよ。こんなことを言うと、皮肉れたやつだと思うかもしれないけど、シニカルというものはすぐれた人間の特徴です。ぼくはちがう。何かを秘めた目に見えるのは、何も考えずに、植物みたいにじっとしているからです」
「やっぱり、兄さんの認めた人ですね。言葉の持ってる世界がちがいます」
「―そうですか。どうしても、お兄さんみたいにぼくを褒めたいんですね。じゃ、そうしときましょう。ただ、言っときますが、ぼくは植物よりも中身のない中空の人間ですよ」
 こんなときにしゃべる言葉ではないだろう。しかし、偽りのない本音だった。一途に褒められて、私は心の中にいつも忍ばせている無条件に人間らしい素直な内省と、それを示す微笑をこめて海を眺めた。蒼い夕暮れが波の上にさびしく拡がりはじめた。
「神無月さん、きれい……」
 妹が鼻にかかった声で言った。川で洗い流したはずの肌に、いつのまにか砂混じりの汗がへばりついている。
「きみの名前は何というんですか」
「一子、数字の一です」
「ふうん、変わった名前だな。妹が一で、兄が三か。意味のないのがいいところだね。いきましょう。お母さんが心配する。あした、線香をあげにいきます」
 妹は、ハイ、と返事をして立ち上がった。私は妹に笑いながら手を振ると、踵を返して合船場へ向かった。
         † 
 じっちゃやばっちゃといっしょにいて、共通の話題は一つもなかった。いや、もの心ついたころからそんなものはなく、ヒエラルキーがあるだけだった。祖父母と孫。彼らの血の末端に存在する私。彼らは絶対的な上位者だった。その伝でいけば、母もそうだった。しかし私は、祖父母には服従するが、母には服従しなかった。だから、祖父母と母は私に対する支配権をめぐって上位者同士永遠に対立するのだ。
「かっちゃ、なんも言ってこねが」
 じっちゃが尋く。
「言ってくる必要なんか感じてないよ。一流受験校にいて、勉強一筋に生きてると信じてるから。二年でも三年でも金を送りつづけて、大学に入るまで親の義務を果たすことで頭がいっぱいなんだよ。よそ目には満点の親だ。でも……これは人に何度も言ってることだから、これっきりにするね。高卒でプロにいこうとしても、ぜったいおふくろは承諾しないだろうから、大学にいくしかない。しかも東大にね」
「だども、キョウ、なも東大さいがねくたって、高校出て就職して親の養育を離れれば、自力で契約でぎるんだべ」
「理屈ではそのとおりだよ。十八歳は大人だからね。でも、日本の法律が成人と定めてる二十歳になるまでは、親が反対の横槍を入れた場合は、球団は交渉をゴリ押しできないんだ。もちろんどこの大学に入ろうと、二十歳になったら中退してプロにいくつもりだけど、世間に名の知れない大学を中退するのでは、これまた承知しない。たとえ卒業したってプロ入りの同意はしないと思う。つまらない大学を出たなりに、世間に出て人並に働けと言うにちがいないんだ。そのときは、とぼけるか逆らうかして何とかしようとは思うけど、それも相当スッタモンダの時間を食いそうで、そのあいだにプロ入りのチャンスを潰されるかもしれない。つまり、最低限の障害でとどめて早くプロになるには、東大へいくことで機嫌をとって、二年生で中退して、渋々プロ入りを認めさせるしかないんだ。考えてみてね、その条件、東大にいかないかぎり野球をやるなという意味と同じだよ」
「鬼だな、スミは。おめ、なんたかた野球やりてんだべ」
「うん、たった一つの才能だから、大事にしたい」
「だば、逆に考えたらどんだ? 内緒で野球やんねで、堂々と野球やって目立って、もっともっと有名になれば、高卒だろうと、並の大学だろうと、プロ入りを反対するスミのわがままを世間が打ち砕いてくれると思るど」
「その前に、有名になったら野球をもぎ取られる」
 二人の老人はうなだれた。
「とにかく、いまは野球を秘密にしてがんばる方針なんだ。応援してね」
「あだりめだでば。つれくても、がんばんでェ」
「うん」

      

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