七十九

 赤井が葛西家にきた当初からの思い出話になった。一家で浅虫に海水浴にいった話やら、彼が京大受験を決意するきっかけになった関西遊山の話やらが出た。知らないことばかりだったけれど興味深く聞いた。
「しかし、赤井くんといい、神無月くんといい、いい下宿人を持った。こんなことは二度とねな。もう当分、下宿人は置がねことにするよ」
「マコトちゃんからお話があったときだけにしましょう」
「野辺地から青高さいぐような子はいねべ」
「……いないでしょうね。それに、もう神無月さんほどマコトちゃんが親身になってあげる子も現れないでしょうしね」
 私は、
「奥山先生は分け隔てをする人じゃありませんよ」
 赤井がフライドポテトを口に放りこみ、寺田康男のように目をすがめた。
「神無月くんはおもしれ人だ。この世にあまりいねタイプの人間だべおん。こだわりとが価値観とが、ハッキリしね人間だ。おっかね能力を見せつけるのも、気まぐれだべな。神無月くんは野球選手になるべし、東大さもいぐべし。すたども、大会社には入らね。政治家にも、役人にも、医者にも、弁護士にもならね。たんだ気に入った人のそばで、いつもポツンといるんだ」
 奥さんとミヨちゃんが洟をすすった。サングラスがじっと私に虚ろな視線を当て、眼鏡の下の頬を拭った。
「いずれ、オラんどのそばさいられなぐなんだ。だども遠くから見守ってくれるべおん。そう思れば、オラんどの気持ちも安らぐし、支えにもなるべ」
「見守るのは私たちよ、おじさん。寄り添うのも私たち。遠くへいっても大勢の人が、いいえ、わずかな人でも、私たちの代わりに寄り添うはずよ。何年かしたら私も……」
 母親がミヨちゃんの手を握った。
 会食が果物のデザートとコーヒーで締められると、赤井が、
「旧制第三高等学校寮歌!」
 と一声上げて、クレナイモユルを高らかに唄った。釣られて主人が、三本木農業高校の校歌を大声で唄った。
 九時を過ぎて、赤井は玄関で挙手の礼をすると、電話で呼びつけたタクシーに乗って夜の中へ消えていった。
 それから一時間ばかり、彼らは脈絡なく私の知らない話をした。旭町の開かずの踏切、集団就職列車を見送るホームの人混み、ニコニコ通りの露天商、コロンバンの店員の清楚な制服。柳町の若者のたまり場『どん底』。
「善知鳥神社裏の芝楽の釜飯はうめな。天ぷらもうめ。篠田のツシマもうめ」
 ミヨちゃんが、
「おとうさん、また〈めぇもん〉? 芝楽でおいしいのはソフトクリームよ」
「四年前に火事で燃えて、二カ月でまたすぐお店を出したのはすごかったわね」
「あそこのエスカレーターもめずらしな」
「エスカレーターガールって、必要なのかしら」
 知らないことばかりなので、私は気楽に聞き役に徹した。それからやはり野球の話になった。奥さんが、
「今年こそ優勝だって主人は言ってますけど、神無月さんにとって、野球は優勝とかそういうものじゃないみたい。赤井さんの話で感じました」
「野球そのものは自分の命にも匹敵するものだと、最近ふとしたことがきっかけで思い知りましたが、その命を支えてくれる人たちより大事なものとして捉えないように自分を戒めてます」
 奥さんが、
「ふとしたことって?」
 自殺のことは言えない。
「インフルエンザで肺炎になりかけて、何日か寝こみました。山口たちが医者まで呼んで徹夜で看病してくれたんです。それがなかったら、死んでいたような気がします」
 サングラスが、
「野球のことをうなされながら夢に見たのが?」
「はい」
 話の辻褄が合った。
「だども、相変わらず野球は命なんだべ?」
「はい。死なないようにしてくれた人たちのおかげで、野球をやりつづける命のままでいられます。ただ、価値というものの意味を考えたとき、ぼくがいちばん関心のあるホームランを打つ楽しさよりも、その関心を途絶えないようにしてくれた彼らの存在のほうが価値があるとわかったんです。プロ野球に入ってからもきっと同じ気持ちのまま、野球をやりつづけると思います」
 ミヨちゃんが、
「それじゃいけないんですか」
「いけないというわけじゃないけど、人のおかげで野球ができると考えてばかりいると、職業人としてスムーズにやっていけなくなるかもしれない。まず、チームメイトの存在、彼らのプレー、彼らとの人間関係、チームを見守るファンといったものばかりに目がいって、ゲームそのものの勝ち負けに関心が薄くなるでしょう。プロ、アマかぎらず野球人の関心は、結局勝ち敗けにあって、選手個人や選手同士の関係にはありませんからね。でもスムーズにやっていけなくてもいいんです。野球ができるあいだは、執念深くホームランに拘るつもりです。そのことが、ぼくに野球を与えてくれた人たちの喜びになるでしょうから、彼らの価値に報いたことになります。今年の夏も、一本でも多くホームランを打って、自分の関心も満足させ、彼らも喜ばせようと思ってます」
 サングラスが、
「神無月くんは社会性がねえって、よぐ人に言われるみてだけんど、だれよりも社会性があるんでねえの。ワはそう思る。自分たちのこどをいちばんに考えて野球をやってくれてると思るのは大っきた社会性だべ。マスコミおんた権力集団と付き合いが悪いなんてのは、社会性がねとは言わね。太鼓持ちになりたがらね性格だというだけのことせ」
 私は、
「愛する人たちに対しては、オジサンのおっしゃるとおり、きちんと社会性を持ってると思います。いわゆる社会性のなさなどというのは、メディアが作ったうわべだけのレッテルです。彼らにとって生意気だと感じる人間を監視するためのレッテルですよ。そんなものを貼られて戦々恐々としてたら、自分にとって価値のない人のために無理をしてしまいます。自分を支えてくれない人たちにも気配りできるほど、ぼくは博愛主義者じゃない。ぼくは少しばかりの特技を持ったただの野球選手なんです。愛ある人びとに特技を見せて喜んでもらおうと励んでいる、独りぼっちの努力家なんです。自分に味方しない人には応えないという意味では、マスコミの言うとおり、ぼくは社会性という広い心を持っていません」
 主人が、
「神無月さん、あんたが何を考え、どう感じ、どんなふうに生きていく人だとしても、オラんどはあんたを慕ってる。いづまでも変わらね。そのことを覚えでいでほしんだ」
「もちろんです。支えてくれる人のことは忘れません」
 葛西さんの奥さんとミヨちゃんが、土手の上がり鼻まで送ってきた。
「二年後にお別れするのは、身を切られるようにつらいです。東京にお訪ねするなんてことは、とても主人に言い出せませんし、結局、六年後にミヨ子が神無月さんのおそばにいってくれたら、ときどきお伺いすることができると思います」
「おかあさん、二年間のあいだせいぜい神無月さんにお会いするようにしましょうよ。うちにもうんと遊びにきてもらって」
「そうね。じゃ神無月さん、何カ月かにいっぺんまたお会いしましょう。健康に気をつけて、野球に励んでくださいね」
「はい、ありがとうございます」
 私は彼女たちと熱い握手をして別れた。
         †
 三月二十九日火曜日。六時半起床。寒い。名古屋へ出発する日だ。
 私も山口も学生服を着る。学帽はなし。朝から水っぽい雪が降っている。二十七日から春休みに入ったせいで、健児荘に学生たちの姿がない。人けのない食堂で山口と軽く朝食を入れる。紫蘇入りの玉子焼と板海苔とわかめの味噌汁。ユリさんが、
「飛行機だいじょうぶでしょうか」
「雨だろうと雪だろうと、上空は関係なし」
 山口が答える。
「一週間、亭主と二人きり。うんざりするわ。買物でもして気を紛らせようっと」
「生徒はいないの?」
「そういえば、帰省しない子が一人いたわね。暗い子で、口を利いたこともない」
 山口が、
「親しい絆を結べるよ」
「冗談言わないで」
 邪気なく睨みつける。
「とにかく無事に帰ってきてくださいね」
「うん。心配しないで」
 ユリさんに手を振り、山口といっしょにカズちゃんの家に向かう。山口はボストンバッグを提げ、私は手ぶらだ。すべてカズちゃんにまかせてある。
 玄関で待ち構えていたカズちゃんと、呼びつけてあったタクシーで青森空港に向かう。山口が不安そうに、
「俺、飛行機、初めてだぜ」
「いやに自信のあること言ってたじゃないか」
「聞きかじり。気流のことは詳しくない」
「落ちたら百パーセント死ぬ」
「神無月といっしょに死ねるからいいだろう。未練はない」
「私も」
 カズちゃんがニッコリ笑った。
「プロペラの音がうるさいぞ。子守唄になるけど」
「うるさいだろうなあ。あれだけ大きいものを飛ばすんだから」
「九時十分の飛行機よ。一日四便しか飛んでないから、それを逃すと午後になっちゃうの」
「空港までは?」
 運転手がハンドルをいじりながら、
「二十分チョイ。奥野から県道二十七号線で一本です」
「空港に着いてもたっぷり時間があるね」
「うん。予約をとってるから、心配なし」
 山口が、
「名古屋までの時間は?」
「一時間二十五分。十時四十分には着くわ」
 十五分もしないうちに、タクシーは堤川の上流に沿って走りはじめた。集合住宅がポツポツあるだけの初めて目にする風景だ。いや、二度目にちがいない。カズちゃんと名古屋へいくのはこれで二度目だから。遠く八甲田山系が見える単調なアスファルト道。堤川から離れ、農道をいく。ほとんど車とすれちがわない。やがて両側を田圃に挟まれた道へ曲がりこみ、すぐに緑深い林道に入る。
「あと五分です。標高二百メートルもある場所なので、山の真っただ中なんですよ」
 林道を抜け、広大な畑の広がる寂れた道を通って青森空港に出た。小牧空港と同じくらいの大きさの焦げ茶色の建物だった。先回は何も見ていなかったのだ。横長の建物の上空に灰色の雨雲が垂れこめている。運転手がカズちゃんから料金を受け取りながら、
「神無月選手、夏の高校野球、応援してますよ」
 と一笑して走り去った。山口が、
「なんだ、話しかけてくれれば退屈しなかったのに」
「キョウちゃんがそういうの苦手だって知ってたからでしょ。親切だわ」
 空港ビルに入ってすぐ、野辺地漁協の直営店が営業しているのに驚いた。帆立貝をキロ売りしている。ラウンジの大時計を見ると離陸時間三十分前だ。カズちゃんは制服姿の女子従業員のいるカウンターで予約搭乗券を買う。三人で保安検査場とやらを通過する。出発ロビーの椅子に座ってキョロキョロ見回す。土産屋で賑わっている。カズちゃんはオーソドックスに南部煎餅の詰め合わせを買った。
 青森空港は特殊な搭乗橋があるおかげで、バスや徒歩で移動せずにターミナルビルから直接飛行機に乗れた。橋はプロペラ機のためのものだとカズちゃんが言った。ジェット機はこうはいかないらしい。そのことも憶えていなかった。
 青い椅子が通路を挟んで二列ずつ並んでいる狭苦しい機内に入る。座席の上の物納れも小さい。七十四席ほぼ満員だ。カズちゃんと並んで座り、前列の窓際に山口が座る。窓にチラチラ雪が見える。
 離陸した飛行機の窓から市街地を見下ろす。朝から悪天候の青森市内が霧に霞んでいる。山口はめずらしそうに小窓の外を眺めた。私はカズちゃんの手を握り、
「……カズちゃん、おふくろから手紙が……」
「とっくに山口さんから聞いてる。だいじょうぶよ、その話は夏が近づいてからにしましょう」
 私の手といっしょに話をそっと振り切った。前席の山口が聞き耳を立てている。
「この世で眺める景色の中で、いちばん殺風景だな。見納めする景色じゃない」
 彼は椅子の背の網に挟んであるパンフレットをペラペラやる。
「これまた殺風景だ。文明のにおいがプンプンする」
 スチュワーデスが救命具の使い方を説明するのを山口はにやにや見ている。
「海に落ちたことしか考えてないわけだ。どこに落ちたって助かるわけないだろ。機内の風物詩か」
 見下ろすと、しばらくは箱庭のような絶景だ。すぐに飽きる。
「青森と名古屋じゃ、やっぱり早くいけるという条件がないと、かなり旅の意欲は失せるな。和子さんは野辺地には汽車できたの」
「そう、キョウちゃんと同じ気持ちを味わうために」
 静かな機内に私たちの会話だけが響く。飛び立って三十分もしないうちに、窓に降りかかる雪が消え、からりとした青空になった。雲海の上を飛んでいく。
「さ、お弁当よ」
 軽い朝食だったので、たしかに腹が減っている。塩昆布と鮭のおにぎり二種、甘い玉子焼き、塩コショウで炒めた赤ウィンナー。黄金の三点セット。三人でもりもり食う。食い終えると、今回もプロペラの音と振動に心地よく癒されて、カズちゃんだけでなく山口もコックリコックリしだした。私はずっとカズちゃんの手を握っていた。


         八十 

 ひんやりとした快晴の空港に降り立った。それでも青森と比べれば十度はちがう。空港内バスに揺られながら、寝起きの山口が、
「あっという間に運ばれたという感じだな」
「うん。いずれ、旅というのは、旅先というイメージに変わるんじゃないかな。目的重視、過程軽視」
「人生というものがなくなって、誕生と死だけになるみたいなものね? あら、私、紋切り型のこと言っちゃった?」
「的確。俺も早いほうがいいなんて飛び立つ前に言っちまったから、でかいことは言えないけどさ、もう少し道中の遊びがほしかったなあ。過程に価値がないものは省くというのは大むかしからやってることだけど、価値のあるものまで省く癖がついちまうな。しかし旅なんてものはさ、過程に価値があったのは東海道五十三次の時代までじゃないか。その後は〈輸送〉だろ。飛行機だけじゃない、電車にせよ、車にせよ、じっくりそこに立ち止まることは目的じゃないんだから」
 浮かれて、三人、受験の小論文にでも書きそうなことをしゃべり合う。
 四十分かけて、空港ロータリーから乗ったリムジンバスが名古屋駅に到着した。陸路は時間がかかる。駅前のビルディングの群れに目がいく。そびえ立つというほどではない慎ましいたたずまいだ。わがもの顔に市電が走っている。山口がため息をついた。
「きれいな都会だ! 新宿や池袋とちがう。この街はいいなあ!」
 正面玄関からコンコースへ入る。山口が大時計を見上げながら、
「ここから青森へ送られたのか」
「ある日とつぜんね」
「頭にくるな。しかし、もう俺の中ではその理不尽をきっちり処理したぞ。おまえは常識人に恐れられたんだ。そいつらとこれからも何度も付き合うことになる。怖がられないように、うまく振舞えよ」
 駅裏へ出る。蜘蛛の巣通り。
「―おお、これが太閤秀吉の作った色町か。寂れてるが風格があるなあ。あとで散歩してみよう」
「山口さん、あれが名古屋で有名な河合塾。大学受験予備校っていうんでしょ。私たちの若いころにはなかったものよ」
 カズちゃんが右手の三階建のビルを指差す。
「河合塾? 聞いたことありませんね。このクルワ通りに比べれば、チンケなもんだ。教育産業に風格があるはずがない。このそばに、神無月を下宿させた教師の家があるんですよね」
「河合塾のずっと裏手ね」
「うん、ここから歩いて五、六分だ。なつかしくもないし、訪ねたいとも思わない。お母さんと弟さんはいい人だったけど」
「訪ねても、その先生の気に入る話はできんな。弟さんやお母さんはいい人だったとしても、つまるところ、お元気ですか、その節はご厄介かけました、程度の挨拶しかしないんじゃないか。時間の無駄だ。康男さんの消息だって教えてくれるわけがないしな。忘れるにシクハナシ」
 カズちゃんが微笑して、
「山口さんて、キョウちゃんのこと、ぜんぶ記憶してるのね」
「聞かされた分は、自分の来し方以上にね。和子さんもそうでしょう。記憶するに値する」
「ええ、そのとおりだと思う」
 草の原に細く切られた道を歩く。今年も北村席の玄関に、着物を着た十人ばかりの人びとが勢揃いしていた。主人夫婦に合わせて、全員が深々とお辞儀をする。山口はお辞儀を返すと、視線を上げ、切妻屋根が三層にも重なった家の造りと大きさに感じ入った。板看板や盛り塩や、戸外の暖簾を垂らした予備便所などをしばらく見つめ、
「席というのは、おそらく、宴席に出向く女を置く店という意味ですね。なるほど」
 と呟いた。
「よういりゃあした。神無月さん、相変わらず長谷川一夫もビックリのええ男ですな。そちらさんが山口さんですか。和子から聞いとります。これまた神無月さんに負けず劣らず端正な顔立ちをしとりますなあ」
 父親の褒め言葉に山口は頭を掻いた。女たちが山口とカズちゃんの荷物を奪い取る。母親が広い土間から大炬燵のある居間に導き入れる。山口は居間の炬燵座布団にどっかと腰を下ろして、茶をすすりながら、神棚や小さな天窓を見上げる。
「伝統と格式のかたまりだ。和子さんの風格の大もとがわかった」
「私はこういう家の出なんです。女を使った商売の元締め。昭和三十三年から法律で禁じられているから、表立っては商いできないけど、青線やらトルコ風呂やら、姿かたちを変えてこういう商売はつづいていくんです」
「家業は子孫の運命ですよ。この種の家は、この界隈に何軒ぐらいあるんですか」
 カズちゃんが、
「五つもないわね。大きい二軒は、この北村席と、二筋向こうの塙席。二つの席はしょっちゅう行き来してるし、協力し合って仕事をしてる。隣の座敷でわいわいやってる女の人たちも、何人かは塙席の人。きょうの夜には帰っちゃうけど。忙しいことがありそうなときや、大事なお客さんがくるようなときには、人手を回し合うの。そうだ、おトキさん、きしめん、すぐにできる? 油揚げとホウレンソウと蒲鉾載せて。山口さんが食べたがってるのよ」
 おトキさんはうれしそうに立ち上がり、
「できますよ、十五分ください。ついでにみんなのおやつにしましょ」
 居間から一部屋と廊下を隔てた大きな台所で、十人ほどの賄い女が立ち働いている。半年以上も経っているのに、きのうのように目に馴染んでいる風景だ。縁側から庭を眺める二十畳の座敷が二つ開け放たれ、女たちの声が直接聞こえてきた。部屋の隅で麻雀を打っている女たちや、三味線の調子を合わせている女たちの姿が新鮮だ。先回は一人もいなかった日本髪を結っている女もちらほらいる。女たちに花鳥の襖が華やかに映える。襖を立てたままの部屋も二部屋あるが、たしか同じ広さだった。細竹の筒を組んだ垣を部屋にめぐらせているのはどんな意味があるのかわからないが奥ゆかしい。古式にのっとった飾りかもしれない。
「すごい家ですね……」
「一階にまだ三つ、この大きさの座敷があります。一つは玄関脇の客部屋です。蒲団部屋や納戸部屋を入れずに六畳部屋が八つ、二階にこの広さの座敷が二つ、六畳部屋が十もあります。六畳は席の女と、住みこみの賄いたちの部屋です。その三つの座敷は、食事部屋兼娯楽部屋ですな。いずれ区画整理で立ち退きを迫られるでしょうから、牧野公園のほうに、この家より少し小ぶりなやつを建てようと思っとります。座敷も十六畳くらいに狭くなるでしょうし、いろいろな部屋飾りは、文化財保護委員会のほうへ寄贈することになるでしょうな。ここにない生垣と門を構えんとあかんな」
「土地の広さもものすごいですね。……ここは、都市開発の区域に入れられてるわけですか」
「そうです」
「こんな素晴しい文化遺産を―。文明の暴力だな」
「評判の悪い界隈ですからな。しかし、親から受け継いだものなので、家をなくしてまうわけにはいかんのです」
 ブルーのセーターを着たトモヨさんが座敷のテーブルを拭いていた。カズちゃんが彼女から私に視線を移して微笑みかけた。ときどき電話が鳴り、女将に言われて女たちが出ていく。不思議そうにしている山口にカズちゃんが、
「むかしはね、待合というちゃんと経営者のいるきれいな建物に出かけていったんだけど、最近はそれだけが目的の場所を貸してくれる一般の粗末な家にいくの」
「去年トモヨさんがいたような小屋だね」
「そう。何軒か残ってる立派な待合には、県会議員とか市会議員、ときどき芸能人もくるわ。セックスだけの場所を貸してくれるこの通りの家は、ほとんど自分たち家族も売春してる」
 きしめんがどんどんでき上がって出てくる。女たちが歓声を上げる。さっそくきしめんをすすりながら主人が訊く。
「いい体格なさってるが、山口さんも野球選手ですかな」
 山口もズズッとすすりながら、
「ただの高校生です。神無月の補欠のつもりではいますが」
「惚れこんだもんですな」
 ワハハ、ホホホ、と夫婦でけたたましく笑った。
「このきしめん、うまいなあ! たぶんそのへんの店以上の味なんでしょうね」
 おトキさんがうれしそうに笑う。山口はその声を見返って、瞳を輝かせた。
「じゃ、お昼にしますよ」
 例のとおり、どんどん大小の皿鉢(さはち)が二部屋に運びこまれる。奥のほうの部屋の襖が開けられた。純粋な娯楽部屋のようで、そこにも雀卓を囲んだり、花札をしたりしている女たちがいて、腰を上げて楽しそうに食卓にやってくる。去年の夏とまったく同じだ。女将とカズちゃんも手伝いに立った。主人が、
「このあたりは区画整理ばかりやなく、市内浄化運動の対象地区にもなりましてな、二年もすればすっかり取り払われるらしいです。文化遺産としていくつか郭(くるわ)の建物を残すようやが、置屋や検番は除外されとる。うちは早めに立ち退きますわ」
「ケンバン?」
 カズちゃんが、
「置屋は芸妓の住むところ、検番は置屋に出張先を連絡するところ。だからうちの女の人たちはみんな検番に登録してあるの」
 山口が、
「つまり、そのギルドのようなものがなくなるんですか」
「そうなのよ。商売換えをしなくちゃいけないわね。これまで店のために尽くしてくれた女の人たちを見捨てておけないから」
 父親が、
「この建物は取り壊されます。このあたりの土地を市に買い取ってもらった金で、北村席をなるべく原型どおりに建て直すわけです。知り合いの棟梁たちに、移転できるものは移転してもらいますがね。結局ソックリ建て直すということになるんやないかな。大門のほうにトルコ風呂を二軒と、そこに勤める女たちの寮も建てます。塙の大将もそうする言うとったな。こいつらにいくとこなんかあれせんも」
 座敷を慈しみ深い眼で見る。
「さあ、食べて食べて」
 カズちゃんが張り切った声を上げる。トモヨさんが私の背中に寄ってきて、
「おひさしぶりです。一日千秋の思いでした」
 と畳に深々と叩頭した。カズちゃんがトモヨさんを山口に紹介した。
「双子……ですか」
「ちがうのよ、似てるだけの他人」
「ふーん、よく見ると、たしかに一つひとつパーツがちがいますね。やあ、しかしまいったな、背丈といい、肉のつき具合といい……」
「歳がちがうんですよ。私のほうが五つ上。十一月に三十六になります」
 山口が掌をグッと宙に押し出して、
「お世辞じゃないから誤解しないでくださいよ。もともと女神には、いや、和子さんには驚いてたんですが、二人とも、二十五、六にしか見えません」
 母親が、
「うちらの目から見てもほうやね。この二人はバケモノやから」
 父親が、
「こういう場所は化け物が多いんですよ。そこのおトキにしても、いくつに見えます?」
 賄いたちのテーブルで、みんなとにこやかに麺をすすっているおトキさんを目で示した。山口はふたたび目を輝かせ、
「四十二、三。……きれいな人だ」
「五十です。ありがとうございます、山口さん」
 女たちが一斉に歓声を上げた。女の一人が、
「知らんかった。ほんとに、オバケやわァ! おトキさん。うちらは年相応にしか見られへん。年より老けて見られる人もけっこうおるで」
「そんなやつおるかい。商売あがったりやないか。おまえらもオバケだよ。毎日、おかしなホルモン出しとるもんでそうなるんやな」
 そう言われて見回すと、年齢を言い当てられそうな女は一人もいなかった。
 私と山口は、名も知れないめずらしい惣菜を口いっぱいに頬ばった。六卓の長テーブルでひとしきりかしましい箸の音が立った。
「めしがすんだら出かけるで」
 二、三日もすれば桜が満開になって人出がたいへんなものになるので、早目に観ておこうということになった。北村夫婦、カズちゃんとトモヨさん、山口と私、それから店の女が四人いっしょにいくことになった。賄いたちは留守番に回った。女四人は、日本髪でない二十代の若者で、山口の左右を歩いている。主人と女将は着物を着て、その道の者らしい佳(よ)い姿をしていた。
「名古屋城は何と言っても桜やよ」
「桜の種類はどれくらいですか?」
「十種類くらいかな。主なものはソメイヨシノとシダレザクラ。七、八分咲きでもじゅうぶんきれいですよ」
 山口の声に混じって、そんな穏やかな受け応えが聞こえてくる。


         八十一

 駅前から三台のタクシーに分乗して名古屋城へ。先頭の車には私と山口と北村夫婦が乗った。
「ね、あんた、今夜山口さんにだれか……」
「うん、考えとった。山口さんの気に入る女がいればええがな」
 主人が言うと女房が、
「ユキちゃんなんか気に入ってくれんかな。気立てはええんやけど、少し派手さがないもんで男受けせん。気に入ってもらえたら、自信つけよるやろに」
 ユキさんというのは、四人の中でひとり笑顔の少ない大人しそうな女のことだなと思った。私も山口も苦手なタイプだ。当然のことに山口は反応を示さないでいる。後方の車を振り向くと、トモヨさんとカズちゃんが笑い合っていた。やっぱり驚くほど似た顔をしていて、姉妹というよりも、山口の言うとおり双子に見えた。
 城の東門に乗りつけ、小橋の上から空堀に咲きかかるきらびやかな桜を眺める。
「うおー、すごいもんだな。合浦公園どころじゃないぜ」
 山口が目を瞠った。女たちの中にひっそり立っているユキさんを観察すると、痩せていて、木の実ナナのような顔をしている。二十七、八歳だろうか。みんなについて歩く立ち居が生来の内気さを隠せない。それなのにカズちゃんやトモヨさんとちがって、少し崩れた感じがあり、清潔な雰囲気に欠けていた。
 今回も主人が城郭に入りたがり、歴史好きな山口が同行することになった。女将と四人の女も散歩がてらついていった。私はカズちゃんとトモヨさんといっしょに門外に残り、ぶらぶら外苑の桜を見て回った。
「きょうは長屋なんかいかずに、亀島あたりの旅館がいいんじゃない。学生服に坊主頭なんて、このあたりじゃあたりまえだから何も言われない。塙席にはおとうさんが話を通しといたから。あしたの朝ごはんに間に合うように帰ってきてね。トモヨさんはそのまま塙に詰めるんでしょ」
「はい、ありがとうございます……」
 門を出てきた一党は疲れきった様子だった。
「ほんとにうちの人は動きが速いから、みんなたいへんやわ」
 山口と主人は溌溂としていて、名古屋城の歴史話に花を咲かせている。
「いやあ、山口さんはようものを知っとるわ。聞いてて飽きがこん」
 トモヨさんが、旦那さんにお礼を言ってきますと言って、主人に寄っていった。カズちゃんが私に、
「いずれ、おとうさんにトモヨさんを塙から引いてもらって、北村の賄いに雇うつもりなのよ」
「身請けするってこと?」
「そう。借金の残りなんかもあって、少しお金が動くけど、経営者同士が友だちだし、うまくいくでしょ」
「トモヨさんがそうしたいって言ったの?」
「そうよ、生まれて初めて男に惚れたから、もうこの仕事はしていられない、足を洗いたいって、うちのおとうさんに相談したみたい。相手がキョウちゃんだと知って、おとうさんも本気で動く気になったのよ。いままでだって、私がトモヨさんを信頼してることを知ってたし、顔も姉妹みたいに似てるし、賄いのスタッフとしてうちにほしかった人でもあるの。いちばん喜んでるのは、おトキさんかな」
「ふーん、なんだかうれしいね」
「北村席にいるときのキョウちゃんて、みんなにとても溶けこんでる。楽しそう」
「ガヤガヤした雰囲気が大好きなんだ。飯場みたいにね。カズちゃんの実家がこういう家でよかった。この家に生まれたかったなあ」
「それとも、松葉会にでしょ」
「うん」
「中村区という狭い界隈だけど、北村席はけっこう影響力のある家よ。おとうさんは市長に指名された区長なの。町内会長もやってるし。そういうのって、いやじゃない?」
「考えもしなかった。金持ちだとは思ったけど。区長ってどういう仕事をするの」
「取り次ぐだけで、自分で駆けずり回るわけじゃないんだけど、広報の配布、道路・水道なんかの土木工事の連絡調整、ゴミ・雑草・不法投棄の苦情の処理、標識・信号なんかの安全設備の設置、防犯・防災の連絡や共同募金の協力。そういうものに〈タッチ〉するだけのこと。つまり、地元のえらい人ってことね。影響力は措(お)くとして、私の考えでは、男女のことを〈取り次ぐ〉のはとても陰徳のある行為だから、一目措かれるのは当然じゃないかしら。むかしとちがってそう思うようになったわ」
 私たちは和気藹々と名城公園へ歩いていった。色とりどりの花、バラのアーチ。ここにも桜が咲いている。藤棚をくぐる。
「五月ぐらいには、躑躅がきれいなんよ」
 女たちが言う。小学四年から中学三年まで六年も暮らして、ほとんど風物を知ることのなかった土地が新しく輝きはじめる。公園の外に、みたらし団子を売っている屋台があった。カズちゃんが買ってみんなに振舞う。甘すぎず、しょっぱすぎず、絶妙の味だ。こういうことも、私の中で名古屋が輝きを増す要素の一つだ。母親が言う。
「神無月さんがおると、なんだか楽しいわァ」
 女の一人が、
「そのへんの空気が透き通るみたいやわ。和子お嬢さん、抱かれるのが畏れ多い感じになれせん?」
「そのときだけ私に合わせてくれるのよ。安心して好きなことができるわ」
 女たちは身を屈めて笑い、トモヨさんはポッと赤くなって微笑した。北村夫婦も笑顔で私を見た。
 大型タクシーを三台拾い、先回カズちゃんといき損じた熱田神宮へいく。カズちゃんのリクエストで、一台に私とカズちゃんとトモヨさんが乗った。
「これからはお客を取らないって、塙の親方さんに納得してもらったのよね」
「はい、年季明けにまだ二年ほど残ってたんですが、北村の旦那さんに三年月賦のバンスをさせてもらって払いました。いまは塙席のお掃除や炊事をさせてもらってます。お礼もしないで去るのは心苦しくて」
「人がいいのね。塙の親方さんもかえって気の毒しちゃうんじゃないの」
「ええ、そうなんですけど……最後のお勤めと思って」
「スパッと辞めてあげるのがほんとの情けよ」
 涼しい神宮の境内をぞろぞろ歩く。社殿に参り、名物と旗を立てている店でうどんをすする。境内の林の中にうどんを食わせる店があるとは知らなかった。むかしからあったのだろうか。甘すぎて箸が止まる。
「まずいな、こりゃ」
 私につづいて主人も箸を置いた。女たちは黙々と食べ切った。見覚えのあるはずの林の空に親しみがない。山口はじっと空を見上げて、思いに沈んでいた。
「あした、もう一度山口ときてみます」
「私もくる。このあたり、キョウちゃんは何度きてもなつかしいんでしょう」
「うん」
「どういうこと?」
 女将が訊く。
「このすぐそばの中学校にかよってました。カズちゃんといっしょに暮らした西松の飯場も、ここから歩いて三十分ほどのところです」
「ほうやったの。そりゃ思い出深いわの。いっしょに暮らしたなんて、ええ言葉やね」
 カズちゃんは目を潤ませ、
「これからもいっしょよ。トモヨさんもあしたおいでなさいよ」
 笑いかける。
「塙にあと何日かしっかり勤めたいので、すみません」
 主人が、
「トモヨ、もう話はきちんとついたで。すぐにでもこっちの厨房に入ってくれ。塙には荷物を取りにいくときだけ顔を出せばええ。あしたは三人といってこい」
「トモちゃん、北村にくるの! うれしいなあ」
 女たちがトモヨの手を握って振り回す。カズちゃんもうれしそうに笑いながら、
「おとうさんもこう言ってるんだし、もう塙に詰める必要はないわよ」
「わかりました。これからは北村で、身を粉にして働きます」
「おトキさんと仲良くね」
「はい。今夜からさっそくお手伝いします。仕事に慣れるために、あしたも朝からおトキさんのそばにつきます」
 それ以上境内を歩き回ることもなく、裏門で客待ちしていたタクシーに分乗した。伏見通りから熱田駅へ。左折して金山から一路名古屋駅へ向かった。カズちゃんが主要な地名をいちいち口に出して教える。山王、日置橋、六反、下広井町、笹島。
「名古屋を何も知らなかったことがわかって、なんだかうれしいな。大好きな名古屋がどんどん頭に詰まっていく。六年も暮らしたのに、飯場と千年小学校と宮中学校しか知らなかったから」
「野球と音楽もあったでしょう? 環境と関係ないことで忙しかったのよ」
「うん。康男とカズちゃんにも名古屋にいたからこそ遇えた。でも、行動範囲が猫だったから、土地の名前だけでなく、建物の名前も、名物の食べものもほとんど知らなかった」
「……私、郷くんとお呼びしていいでしょうか」
 トモヨさんが訊く。カズちゃんが、
「キョウちゃんと呼べばいいのに」
「郷くんという響きが好きなんです……。郷くんは、どうしてそんなふうに育ったんですか」
「そんなふうって?」
「ほんとに……こだわりがなくて、人を見下さなくて……愛情にあふれていて」
「そういう美点がもしぼくにあるとするなら、遺伝子かな。きっとオヤジがそういう人だったんだと思う。何も意識しないバカ」
 カズちゃんがウフと笑って、
「トモヨさん、キョウちゃんを褒めたらだめよ。かならず自分のことをバカ呼ばわりしはじめるから。収拾つけるのがたいへん。どうしてなんて考えずに、ただ見てればいいの」
「はい……」
 笹島のほうから回りこんでもらって、タクシーを北村席につけた。少し運転手があたりの雰囲気に緊張したふうだった。この界隈の世間的な位置づけがわかったような気がした。松葉会の屋敷に初めて入ったときのような、胸のときめきを覚えた。
 四時を回っている。トモヨさんは急ぎ足で玄関に入っていった。朝食と夕食の支度は賄い総出になる。ほかの二台の車から山口たちも降りた。ゆっくり玄関に入る女将の背中に主人が酒を命じる。
「お帰りなさい!」
 おトキさんが私たちを玄関に迎えた。一日寡黙にしていた山口が、ポッと頬を赤らめた。
「どうした? 山口」
「あ、いや」
「あしたはもう一度熱田神宮にいくよ。宮中と、千年小学校と、西松の飯場跡も回る」
「おう。見たかったんだ。特に、寺田番長と戦った小学校の校庭をな。……な、神無月、
 これからは、俺はおまえと一生ともにすごすことになる」
「うん、そうだ」
「どんなびっくりすることも素直に受け入れてもらわないと……困る」
「いったいどうしたんだ」
「ある人に惚れた。いずれ言うから、いまは聞かないでくれ。心の準備が要る」
「わかった」
 おトキさんだろうとすぐ見当がついた。



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