四章 川原小学校





         一

 坂を一つ越えた麓の川原小学校に法子といっしょに登校した。法子は私と手をつないで歩いた。そうして、ときどき私をまぶしそうに見上げた。
 校舎のたたずまいも、生徒たちも、教師も、まったく目に残らなかった。どれもこれも平べったい印象で、いま思い出してもみんな薄い霧に包まれているようで、担任の名前さえ思い出せない。転入の自己紹介をした教室には、さぶちゃんも、福田雅子ちゃんも、成田くんも、内田由紀子も、下品な京子ちゃんすらいなかった。私は、霧に融けこんでいる教師や生徒たちをぼんやり眺めながら、青木小学校の仲間をなつかしんだ。手紙を書きたいと思ったが、一人の住所も知らなかった。
 二日目から一人で登校した。ミッちゃんに弁当を持たされた。おかずは決まってタクアン二切れと、甘い玉子焼き。何よりも、朝食や夕食とちがって、めしがたっぷり詰まっているのがうれしかった。一週間もすると、通学仲間ができた。彼らは毎朝決まった時間に誘いにきて、がやがやと学校へ向かった。やはり名前を覚えなかった。
 放課後も彼らといっしょに帰った。連れ回されるまま、竹薮に山椿が咲いているような神社の境内や、腐った土で足もとがふわふわする林などをめぐって歩いた。彼らは親しく口を利くわけでなく、これといってめずらしい遊びを教えることもなく、いきあたりばったりにあちこちうろつき、ときどきポケットから、体温で柔らかくなった板チョコを差し出したりした。
「でっけえな、あれ」
 ある日の下校道で、中の一人が農家の庭を指差した。一面に植えられた低木に大粒の夏蜜柑がぶら下がっている。
「ほんとだ、でっかいね」
 大きくて硬そうな蜜柑がまずそうに見えた。
「盗ってこれるかや」
「簡単だよ」
「ええかげんなこと言わんとけ」
 みんなで立っているのは、両側が一段高い畑地になっている切り通しの道だ。見渡すかぎり夏蜜柑の木が密集している。わざわざこの庭から盗らなくても、ちょっと斜面を登って手を伸ばせば簡単だ。そう言うと、この庭からじゃないとだめだと言う。どこかに人目を想定して、一種の肝試しをさせるつもりのようだ。
「じゃ、いってくるね」
 私はどんどん庭へ入っていった。目の前で見る夏蜜柑はぶつぶつしていて、思ったとおりうまそうでなかった。尖った声が背中に聞こえた。
「早くしろよ!」
 あたりに人影のないのを確かめ、一つだけもぎ取った。振り返ると仲間たちはいなかった。私は蜜柑を庭の廃材の上に置いた。庭を出て、石ころだらけの坂道を下りはじめる。荒っぽい足音が追ってきて、いきなりざらざらした掌が首根っこを押さえた。
「ふてえガキだ!」
 見上げると、褐色に日焼けした若者だった。目が怒りに燃えている。
「家はどこだ」
「ぼくの家じゃないよ」
「なんだと」
「叔父さんの家だよ」
 男は目を剥き、
「どこでもいいから連れていけ」
 と言った。大きな手にしっかり首を押さえられながら、私は歩きはじめた。面倒なことになったと思った。
「手を離してだいじょうぶだよ、逃げないから」
 青年は、つかまえる場所を首から腕に切り替え、ぎゅっと握った。坂を下りきって家の前にくると、スピッツがキャンキャン鳴いた。
「この家……」
 指をさすと、青年が手を離した。
「ただいま」
 玄関の戸を開けて、家の中を青年に示した。居間で人形遊びをしていた法子が、きょとんとした目でこちらを見た。戸口に立っている二人の表情を見比べ、
「どうしたの?」
 と尋いた。黙っていると、若者が叫んだ。
「なんだ、だれか、いないのか!」
 何ごとかと台所からミッちゃんが顔を出した。八畳部屋から郁子も出てきて、私を冷たく一瞥すると、頬をふくらませてプイと引っこんでしまった。法子は何かの直観から急に痛ましい顔つきになって玄関へ下り、私に寄り添った。ミッちゃんはエプロンで手を拭きながら、
「何のご用でしょう」
 と式台に膝を折った。
「このガキ、うちの蜜柑を盗みやがった」
「まあ!」
「だけど、材木の上にすぐに返したよ」
「捥いだら、泥棒だろ」
 青年は私の腕を握ったまま言った。ミッちゃんは冷たく眼鏡を光らせて訊いた。
「……どうしてそんなことしたの」
 レンズの奥の眼がえぐれたように歪んでいる。
「どうしてって……できるかって言われたから」
 私は詳しく説明するのが億劫で、拗ねたように横を向いた。
「そんな悪い子は、うちに置いとけません」
 この一言が、すっかり私を前後不覚にさせた。ミッちゃんの言ったことは、他人である彼女の感情の動きからいって無理もないものだった。私はそう言われること自体に何の不満もなかった。追い出されたあとの方策は何も浮かばなかったけれども、物怖じもせず自分なりの理屈を叫んだ。
「置かなきゃいいさ! ほしくもない蜜柑をぼくに盗ませたやつは、いまごろ笑ってんだろう。盗んだのはぼくだから、そいつに罪をかぶせる気はないけど、悪い子っていうのはそういうやつのことだよ」
 郁子が襖の陰から、
「泥棒―」
 と小さな声で言った。私は郁子のことを人間的にいやでたまらないやつだと、はっきり感じて、
「バカは黙ってろ!」
 郁子はすくみ上がった。ミッちゃんは式台に両手をついた。
「ほんとにすみませんねえ。人さまから預かっている子なもので、自分の子のように目が行き届きませんで。きちんと弁償いたします」
 私は青年の顔を見上げた。私の真剣な目を彼は珍しそうに眺め下ろした。唇に好意的な微笑がよぎった。青年は私の肩をそっとつかみ、
「変わったガキだな。いままでもあの庭は小学生にやられてたんだが、どうもおまえをそそのかしたやつらの仕業のようだ。しかし、奥さん、気持ち悪い言い方をするなよ。ミカン一個をどう弁償するってんだ。謝ってくれりゃそれでいい。ところで、おせっかいを言いたくないが、あんた、年端のいかない子をへんに脅したりして、意地が悪いぜ。預かってる子だろうと、自分の子だろうと、目が届かないってのはおかしいだろう。……いいか坊主、百姓はな、庭に植えるミカン一つだって、酔狂で作ってるんじゃないんだぞ。生活のために、丹精こめて作ってるんだ。憶えときな」
 そう言って、私の頭をポンポンとやさしく叩いた。
「すみません、ほんとに。よく叱っておきますから」
 青年は舌打ちし、腰の手拭を頭の鉢に巻きなおすと、振り返らずにさっさと立ち去っていった。
 八畳で寝転がっている私に並びかけて、法子がじゃれついた。郁子は母親のそばにぴたりとくっついて離れなかった。
「テレビかけてよ、法子」
 法子はテレビをつけて、また横たわった。歌番組をやっていて、フランク永井と松尾和子が並んで唄っていた。彼らが終わると、スリー・キャッツという女のグループが、

  若い娘は ウッフン
  お色気ありそで ウッフン
  なさそで ウッフン
  ほらほら 黄色いサクランボ

 と、つまらない歌を唄いだした。法子が合わせて唄った。

 英夫兄さんはその夜の食卓で、ミッちゃんの口からことの次第を聞かされ、長いあごでニヤニヤ笑うばかりで、何も言わなかった。そしていつものとおり、私のコップにビールをついだ。
「アネに言うんでねど。キョウも黙ってろ。いま母ちゃん大事なときなんだすけな」
 念を押すと、そのあとは、夫婦で世間話になった。
「今度の台風ね、お城のシャチホコを新しくしたから、水を呼んだらしいわよ」
「ほんだな」
「背泳の田中サトコという人が、世界記録を出したんだって。来年、ローマオリンピックで金メダル獲るんじゃないかしら。前畑以来、何年ぶり? 私が小学校のときだったから。山中ツヨシという人も、すごいらしいわよ」
「ほんだな」

 もっぱら英夫兄さんは聞き役一方で、杯を含みつづけた。めしを食い終わった郁子たちは八畳へテレビを観にいった。なかなか食卓を離れようとしない私に、彼はもう半杯のビールと、初めて酒のつまみを振舞ってくれた。でも、塩辛もタラコもしょっぱすぎて、おいしいと感じなかった。
 何日か経って母が顔を出したとき、郁子が八畳で口を滑らせた。母は何度もミッちゃんに頭を低くして謝った。
「すぐ連れていくのがいいんでしょうが、小学校のあたりも水がきて、いま復興作業で忙しくてね。もうふた月ほどお待ちください」
 ふた月も待たず、私は十一月の中旬に英夫兄さんの家を出ることになった。転校の挨拶さえしないで、たった五週間で川原小学校を去った。


         二 

 下水処理場の工事で掘り返された粘土混じりの土が、事務所の玄関の前方にうずたかく盛り上がり、台形の築山になっている。台風で流れてきた汚泥も混ざっていると飯場の男たちが言っていた。築山は子供たちの足で踏み固められて、つやつやしている。築山の事務所側でない裾には、雑草に埋もれた空地が拡がっていて、工事現場の足場に使った組板や、釘の飛び出た廃材や、コンクリート滓(かす)のついた鉄骨が、草にのしかかるように放置されている。高島台で見慣れた風景だ。四年ぶりに古巣に戻ってきた感じがする。飯場がある町の名は平畑(ひらはた)というようだ。私は午後のひとときをかけて飯場の周囲を探索することにした。
 築山の裾から表通りに踏み出すと、千年小学校の裏門へつづく路と、千年の交差点に通じる路を見通すことができる。私の立っているところから、その二本の路と交わるように一本の広い道が左右に延びている。平畑のメインストリートのようだ。左はすぐ大きな屋敷に突き当たるので、右へ歩きだす。両側に民家と商店がゆったり肩を並べている。新装の喫茶店やクリーニング店なども雑じっているけれども、ほとんどがむかしから根を生やしている店のようだ。年季の入った壁の色や軒の古さからわかる。八百清という青物屋の店先で、歯が一本しかないお婆さんが、
「柿買っていりゃあせ。半額にしとくで」
 と、客に声をかけていた。
 商店の群れが寂れて、ほとんど民家の並びになった。一キロメートルほど歩いて、くさいにおいを立ち昇らせている川に出る。台風で堤防の決壊した川だ。どこが決壊したのか見渡してもわからなかった。大瀬子橋と欄干の柱に書いてある。中学生らしきセーラー服がきたので、
「これは何という川ですか」
 と尋くと、
「堀川運河です」
 と答えて、通り過ぎていった。大瀬子橋は路肩を何百枚もの厚い板で歩道用に設え、車道はアスファルトで貫いている。優にトラックがすれちがえそうな大きな橋だ。もう一度路を引き返し、築山から小学校へ向かって進んでいくと、右手に五十メートルに八十メートルほどの公園がある。小学生のたまり場になっていて、ソフトボールをやっていた。この小学校の授業が再開するのは、今月の末だと母が言っていた。
 公園口の向こうに、道を挟んで金網と立木に囲まれた校舎が見える。公園の左手は屋根と壁をスレートで葺いた製造工場のような大きな建物、右手はネギ畑と古い民家、こちら側には新しい民家が七、八軒並んでいる。
 公園口の前の小学校の裏門に立つ。右に立派な野球用のバックネットが立ち、広い校庭が野球グランドを兼ねている。校庭は石灰を撒いたように真っ白だ。レフト後方とライト後方に三階建ての校舎がそびえ、レフトは鉄筋校舎、ライトは木造校舎になっている。二つの校舎は、屋根つきの渡り廊下でつながっている。ライトの木造校舎は、一塁側のもう一つの三階建て木造校舎と直角に接している。さらにその校舎は、渡り廊下でバックネット脇の三階建てのモルタル校舎とつながっている。とてつもなく大きな小学校だ。
 裏門から右手へいき、校舎塀沿いに左折すると正門があり、まん前の駄菓子屋が縁台を置いて小学生にトコロテンを食わせている。道の突き当たりのT字路に貸し本屋があった。店前の路上に本が積んである。持ち帰り自由と書いた札が立ててある。思わずしゃがみこんだ。お金を出して借りるよりはるかにたくさんの本が読める。一冊一冊本の名前を見ていくと、ほとんどが大人の月刊雑誌だった。平凡、明星、主婦の友、夫婦生活。十歳の子供にも淫靡な気持ちを起こさせる表紙のものも雑じっている。
 公園前の裏門へ戻る。ここから左手へいけば千年の交差点に出、右へいけば辻を一つ越えて熱田高校の裏門につながる。裏門まで畑地雑じりに民家がパラパラと建っている。熱田高校の生垣に沿って左へいき、広い市電道に出る。千年の交差点まで歩いていく。市電はこの交差点から一方向にしか延びていない。右へいけば栄町を経由して、名古屋駅までつづいている。左へいけば名古屋港に出る。行先は市電の額に書いてある。
 熱田高校の裏門へ戻る。生垣を右へいって突き当たりを左折すると、もう一つの裏門に出る。門の前にだだっ広い畑が広がっていて、畑を縁どって平畑の道路沿いに民家が並んでいる。そのまま生垣沿いに左折する。小さな公園の前に高校の正門があり、そこから市電道の背景に愛知時計の工場群が長々と平伏しているのが見える。
 工場を眺めながら、船方の停留所までいき、きびすを返して、もう一度千年の停留所までいく。千年の交差点から、東海通りへも港のほうへも進まずに、飯場の前の築山まで戻った。歩き回った範囲は、野辺地の新道界隈よりはかなり広かったけれど、古間木のサイドさんの官舎から天兵童子の映画館の往復よりも、また、浅間下を起点に青木橋や保土ヶ谷へ歩いた範囲よりも狭かった。しかし、なぜか晴ればれとした心の広がりを感じた。台風の爪跡はまったく感じられなかった。行き交う人びとの表情といい、のんびり走る市電の雰囲気といい、並木の緑の鮮やかさといい、道の幅といい、これまで暮らしたどの土地よりも町並に親しみがあるので、歩き回っていて飽きなかったのだ。この土地にいつまでも暮らしたいと思った。
         † 
 事務所のガレージに、野球のバットが何本も転がっていた。社員に頼んで、その中でいちばん握りの細いバットを一本もらった。横浜を発つころから、私には心に決めていたことがあった。
 ―毎日百回、バットを振ること。
 この四年間を思い返して、自分には野球以外の才能がないと、子供心に認めることができた。集団の中で飛び抜けることができたのは、野球だけだった。そして、唯一、胸がふるえたのも野球だけだった。漫画や裕次郎の映画など、比較すべくもなかった。とにかくバットを握ったりグローブをはめたりすると、幼いころから平たく鎮まっていた心が、抑えようもなく波立つのだった。
 夕闇が迫るころ、私がバットの素振りに精を出す目の先で、まだ仲間ではない子どもたちのシルエットが、平べったい築山のいただきを駆け回った。私は彼らの姿が消えるのを待って、ひとりで築山に登った。
 いただきの目の前は、探索を終えた例のメインストリートだった。左裾に、まだ工事中の大きな虚(うろ)が空いていて、台風が運んできた干上がらない水のせいで泥濘(ぬかるみ)になっていた。そこから土砂運搬車の専用道路へ、鈍く光るわだちがつづいている。道路は、一かたまりに寄り添う住宅地で行き止まりになり、樹木に囲まれた旧家らしい平屋が何軒か見えた。その左手に、建設中の処理場の建物が初々しく光っていた。
 築山の右の裾には、細長い労務者棟が二棟つづきに建っていた。事務所らしきものはなかった。棟の前の物干しに、多量の洗濯物がたなびいている。母がここにくるなり、
「土方(どかた)の飯場」
 と言った。
「こっちは飯場は飯場でも、エリート社員たちの飯場だよ。あっちとは大ちがいだ」
 なぜだかわからなかったけれども、胸が気持ち悪くなった。サーちゃんの唾を思い出した。階段を戻っていった父のさびしく澄んだ背中がなつかしかった。
 最初の夜、私は、脚の高い大テーブルで社員たちといっしょに晩めしを食べようとして、母に叱られた。
「あとで食べるのよ!」
 エプロンをつけた母の額に、じっちゃに似た癇癖の青筋が浮かんでいる。初めて見せる怒りの表情だった。私はあわててめし櫃(びつ)の湯気の中へしゃもじを戻した。母は社員たちにすまなさそうに頭を下げた。きっと、高島台の飯場とは勝手がちがうのだろうと思い、そそくさと立ち上がった。
「いいんだよ、キョウちゃん、座って、座って」
 バットをくれた小山田さんが高らかな笑い声を立てた。すると荒田さんが、
「そうだよ。飯を食うのに順番なんかないよ。みんなウチワじゃないか」
「でも、目障りでしょうに」
「目障りなもんか。いい子だよ、キョウは。素直で、明るくて」
 荒田さんが私のほうを向いて笑うので、私も笑い返した。荒田さんはお櫃から飯を盛って私の前に置いた。
「さ、いっしょに食おうや」
「すみませんねえ」
 母は、さっき私が彼らの必見番組らしい『番頭はんと丁稚どん』を『ポパイ』に切り替えてしまったことも覚えていて、堅苦しい調子で謝った。

「大村昆の大根芝居より、ポパイのほうがずっと面白いよな。キョウはどんな番組が好きなんだ?」
 慎太郎刈りのクマさんが尋く。私は勇んで答えた。
「横浜にいたときは、福原さんという人の家でナイターとかプロレスを観た」
「ほう、そうか」
「ほかにも、『おトラさん』とか、『日真名氏飛び出す』とか、それから『お笑い三人組』でしょ、『名犬ラッシー』でしょ」
「うん、うん」
「ええとそれから、『ローハイド』でしょ、『私の秘密』でしょ、そうだ、『ジェスチャー』も観た」
「たくさん観たなあ」
「ジェスチャーは、つまんなかった」
「アハハハ、つまんなかったか」
「柳家金語楼と水の江ターキーが、おにいさま、おねえさまって呼び合ってじゃんけんをするのが気持ち悪かった」
 食堂にドッと笑い声が満ちた。あまり明るい顔を見せたことのない母までが、呆れたように笑っていた。
「奥さんは?」
 ついでという感じでクマさんが尋く。
「さあ、私は……」
 母が観る番組といえば、あと片付けの合間に、下働きのカズちゃんといっしょに横目でなぞる『スター千一夜』ぐらいのもので、もともと彼女はテレビというものを好んでいないようだった。ときどき、話のはずみで、ダニエル・ダリュー『うたかたの恋』とか、イングリッド・バーグマン『ガス燈』などという名前を口にして、むかし観た映画をなつかしむことはあっても、進んで流行りの娯楽に親しもうとはしなかった。
『うたかたの恋』

「相手役は、どちらもシャルル・ボワイエじゃなかったかね」
「いやあ、三十年代、四十年代の映画ですね。じつに詳しく憶えてるもんだなあ。敬服しますよ」
 映画好きの吉冨さんが応える。煎餅の行商を手伝わずに、街に出て映画を観ていたというばっちゃの悪口を裏打ちするような、母の正確な記憶だった。
 西松建設の飯場には、自宅から送迎用の車でかよってくる所長を頭に、寮住みの現場回り社員が数人、所長つきの運転手一人、かよいの女子事務員一人、母の賄い手伝いが一人、そのほかにダンプカーの運転手が一人いた。
 飯場といっても、母の言うように、私の住む事務棟には地方(じかた)(人夫・土方・労務者等呼び方はさまざまだった)は寝起きしていなかった。その種の人たちは、築山のあの別棟に住んでいて、人夫頭の酒井さんが一手に引き受けていた。事務所の人たちはみんな、サングラスをかけた酒井さんに出遭うと、
「やあ」
 と気さくに声をかけた。酒井さんはかならず彼らに、
「どうしてた、え?」
 と応えた。
         †
 私は社員たちの名前をすぐに覚えた。所長の岡本さん、現場監督の小山田さん、その配下の原田さん、新入社員の吉冨さん、ダンプ運転手の熊沢(クマ)さん、事務員の畠中女史、所長つき運転手の荒田さん、母のお手伝いをしている中働きのカズちゃん。特にカズちゃんは一目で気に入った。まるっこい感じの顔と、均整のとれた手足が若さを内側からあふれさせていた。仕事ぶりもきびきびしていて、歩き回る格好に柔軟な弾力性があった。母は彼女をお手伝いというよりも、杖とも柱とも頼んでいた。
 ほかにも何人か寮住みがいたけれども、めったに顔を合わせないので名前を知らなかった。彼らのいかにものんびりした晴れやかな表情や、あけっぴろげな口の利き方は、私を桁外れに楽しい気分にさせた。私はいつも彼らの機嫌の濃淡を興味深く眺めることができた。一日ごとに、これほど齢の隔たったお互いのあいだに、こまやかな友情のようなものが結ばれていき、ゴトリと停まって動かなかった生活の列車が、また生きいきと動きはじめたようだった。
 休日など、社員たちが作業用ブーツを革靴に履き替えて遊びに出払ってしまうと、まるで陽射しが翳ったように飯場が暗くなった。そんなとき私は食堂から別棟へつづく鞘(さや)土間を渡って社員寮へ忍んでいき、彼らの部屋を一つ一つ探検した。
 衣紋掛けにきちんと灰色の制服を吊るし、ぎっしり本の詰まった書棚と机が整っている片付いた部屋、靴下やワイシャツを脱ぎちらかした隙間からくしゃくしゃの千円札が覗いている部屋、中にはベニヤ造りの六畳に不釣合いな大机が置いてある部屋もあって、傾斜のついた机の上には、コンパスや定規や刷き毛などの製図用具が並んでいた。どの部屋もベニヤ板で壁を葺いた安普請だったけれども、少しも下品な感じはしなかったし、不潔なにおいもしなかった。戸には錠がつけられていなかった。鍵をかけないのは彼らの美学だった。


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