八十八

 ごちそうさん、とカズちゃんの明るい声が上がる。おトキさんとトモヨさんがあと片づけをする。ひょいと覗くと、洗い物をしていた女たちが振り向き、遠慮がちに笑いかけながらお辞儀をする。食器棚の下に小さなテレビが置いてあり、かすかな音でビートルズの映像が流れていた。私は座敷に戻り、
「山口、ジョン・レノンが先月何とか言って、総スカンを食らったんだよね」
「ビートルズはもはやキリストより有名である、とのたもうた」
「ふうん、キリストは彼の活躍した時代は有名じゃなかった。キリスト教の歴史が彼をとてつもなく有名にしてきたんだ。六十年代にビートルズは、すでに当時のキリストよりはるかに有名になってる。でも、この先の歴史は彼らを偉人にはしないだろうね」
「だな。ロックミュージシャンといえども、曲がりなりにも芸術家だ。芸術家の驕りはみっともない。六月に来日するそうだ」
「だいたい名曲はあるの? バス旅行のとき、山口、何とか言ってたな」
「傑作は、ジス・ボーイ、アンド・アイ・ラブ・ハー、イェスタデイぐらいかな。駄作ばっか受けてる。これからも何曲か傑作を作りそうだけど、ビーチ・ボーイズとは比べものにならないくらい質が低いな」
 電話が入りはじめる。女が一人、二人と立っていく。
「音楽に詳しいですな、山口さん」
「山口はギターの達人です。聴くと驚きますよ」
「驚くのは神無月の声だよ。みんな腰を抜かす。神無月、何か唄ってくれ」
「唄えと言っても、山口の伴奏がないと」
「私、ギター持っとる!」
 電話待ちの女の一人が、立ち上がって廊下にばたばた出ていった。
「あの、郷くん、私、リクエストしていいですか」
 トモヨさんが私を見つめて言う。
「もちろん。知ってる曲なら唄うよ」
 どたどた足音がして、女がギターを抱えてきた。鼈甲色のポピュラーなやつだ。山口のギターのような重みと渋みがない。すぐに山口が調弦する。カズちゃんがトモヨさんに訊く。
「何ていう曲、トモヨさん」
「昭和二十六、七年ごろの歌で、松島詩子の……あかぁしあ、並木の、たそーがれえはぁ」
「ああ、喫茶店の片隅で。唄えるよ」
「ひっそり流行ってた歌なんです。さびしい曲でしたけど、大好きでした」
「私もその歌大好き。キョウちゃん、ほんとに唄える?」
「だいじょうぶ。たしか、五歳のころ、古間木の国際ホテルで聞いた。何度も聞いたから歌詞とメロディはぜんぶ暗記してる。唄ったことはないけど、唄える。山口、弾けるか」
「名曲中の名曲だ。弾けないわけがないだろ」
 私は目をつぶって、国際ホテルの薄暗い廊下を思い浮かべた。
 美しい抒情的な前奏が流れ出した。店の女たちが食卓に集まってきた。下働きもやってくる。光夫さんがギターを弾いた牛巻病院の大部屋のようになった。唄い出した。

  アカシヤ並木の たそがれは
  淡い灯がつく 喫茶店
  いつもあなたと 逢った日の
  小さな赤い 椅子ふたつ
  モカのかおりが にじんでた

  遠いあの日が 忘られず
  一人来てみた 喫茶店
  散った窓辺の 紅バラが
  はるかにすぎた 思い出を
  胸にしみじみ 呼ぶ今宵

 時代色のついたむかしの唄に、私の感覚がピタリとはまった。唄っていて、深い悲しみを感じた。心が充足する悲しさだった。涙があふれそうになった。
「なんて声やろ! 声が泣いとるわ。涙が出てくる」
 女将が言った。うう、とおトキさんが嗚咽した。女たちが手で顔を覆っている。山口がいつものように天井を向いて涙を流していた。主人はうなだれて腕組みしている。
「郷くん、ありがとうございます―」
 トモヨさんがハンカチで目を拭いながら、
「あのころは、いちばん心が苦しかったころで……私の仕送りでどうにか田舎の家族が生活できるのを喜んではいても、自分の行末を考えると、気持ちが暗くなってしまいましてね。でも、何年後かに年季が明けるのを心頼みにして、どんなに暗い気持ちも、いつかは人生の大切な思い出になる日もくるだろうと思い直しました。そういう小さな希望を与えてくれる曲だったんです。ありがとうございました、ほんとうに」
 トモヨさんはもう一度目にハンカチを当てた。カズちゃんは涙をこらえながらニッコリ笑い、
「キョウちゃん、ありがとう。この歌はきっと、キョウちゃんが唄ってあげることで、ほんとうにトモヨさんの大切な思い出になったわ」
 父親がボロリと涙を落とした。
「神無月さん、山口さん、あんたたちは、この家の人間を生き返らせますなあ。ありがとうさん」
 山口が、
「生き返らせてもらったのはこちらのほうです。歌はお礼ですよ。なあ、神無月」
「うん、山口、名人の伴奏だったよ。トモヨさんの苦しい思い出が、これでぼくの思い出にもなった。この歌を知っていて、そして唄うことができて、ほんとによかった」
 タクシーのホーンが鳴った。傘を持たずに霧雨の外へ出た。
 市電道を大門までいく。菅野がハンドルを操りながら、
「大門というのは、中村遊郭の入口という意味です。もう少し西の、大きなスーパーマーケットから名古屋駅に向かって歩きはじめるのが見物にはいいコースです」
 そう言って、大門の一つ先の太閤通り六丁目という電停で降ろす。
「じゃ、すみません。きょうは名古屋駅のタクシー乗り場の勤務なんで、ここから流して帰ります」
 霧雨の中、カズちゃんと山口と三人で、お好み焼屋や蕎麦屋の点在するひっそりとした通りを傘差していく。五階建のスーパーのビルが見えてきた。カズちゃんが手のひらで大きく平たい円を描き、
「このあたりが中村遊郭。廓の外周りは二メートルくらいの堀で囲まれた八角形をしていて、外からは廓の中を覗けなくしていたんですって」
「そういうこと、この近辺の人はふつうに知ってるの?」
「知らないと思う。中学校の研究テーマで、中村遊郭のことを詳しく調べたのよ。芸妓の身分階級、お客の種類、遊び方、衛生面や病気まで。テーマがきわどいっていうんで、展示されずに花丸もらっただけで返されたけど」
 山口がうなずき、
「そりゃビックリされるよ。学校での不遇はすぐれ者の宿命だ。しかし、遊郭らしきものは何もないな。ん? ニュー令女、インペリアル福岡だと。スーパーの真ん前にトルコがある。こういう場所はふつう近づきがたい雰囲気があるのに、名古屋はさすがだな。この開放感。ソープランド・パラダイス、入泉料二千円。〈泉〉か、すばらしい」
「なに感動してるの」
「感動しますよ。こりゃ、ほんとにすごい。軒並じゃないか。駅馬車? 得体が知れないな。お、あの角にすさまじく立派な妓楼があるぞ。映画のセットみたいだな。長寿庵か。すぐれた建築物だ。威厳がちがう。れれ、表札が鵜飼ってなってる」
 私は、
「さっき気づいたんだけど、このあたり右も左も鵜飼病院の看板まみれで、もとの妓楼は、いまはこの一帯の大地主の鵜飼さんが自宅にしてるということだね」
「和子さん、解説、解説」
「キョウちゃんの言うとおりよ。長寿庵はもともと新千寿という妓楼だったんだけど、売春防止法で遊郭が廃止されちゃったの。取り壊されたらたいへんだってわけで、在の素封家の鵜飼病院が買い取って、実際に住むことにしたんですって。文化財保護のためね。都市景観重要建築物っていうらしいんだけど、ほかには、料亭稲本、松岡旅館なんかがあるわ」
 キョロキョロ歩いていく。筆を持った美人画が埋めこまれている壁がある。むかしふうの窓飾りが貼ってあるベンガラ色の土壁がある。鬼瓦を二つ載せた屋根がある。雨が上がった。傘を閉じる。視線を上にやると、雲の多い青空が拡がっている。どの建物も空が似合った。空の似合う建物はめったにない。野球場? 空がかぶさっているだけで、似合っているかどうかは心もとない。
「ありゃ、爺さんが、ニュースカイってトルコに入ってったぜ。あの人、八十はユウに超えてるだろ。オノコの希望の星だな」
 カズちゃんが山口の背中を叩いて笑った。
 歩いていく。長寿庵と同じようにりっぱな妓楼がぽつんぽつんと建っている。民家に使われている『みよし』、築百年とカズちゃんの教える『松岡旅館』。周囲は空の似合わないコンクリートマンションだ。
「和子さんの活発な性格の秘密がわかってきた。ありきたりな現代空間に、麗しき古物が溶けこんで共生してる。こういう環境の中で育ったんだな。絶滅種も繁栄種もおたがいに反発し合わないで、思う存分自分を主張するこういう融和は、めったにお目にかかれない」
「私も絶滅種みたいな人間だけど、ここの建物とはちがった意味で現代文化に融和してるわよ。ここの建物は、滅んでいくことに抵抗しようとしない無気力さのせいで融和してるように見えるだけ。現代の環境なんか振り向きもしないで、絶滅種同士、身を寄せ合って暮らしてるだけよ。山口さん、キョウちゃんもあなたも絶滅種だけど、身を寄せ合うことだけで現代に生きてるんじゃないわ。身を寄せ合うだけじゃだめなのよ。あなたの言うように存在しつづけるための主張も必要よ。何か有無を言わさぬもので、ハッキリと現代を威圧して、繁栄種が手を出せないようにしないと融和はできない」
「……となると、俺はギターだな」
「私は商売の才能で融和しようと思ってる」
「店でもやるつもりですか」
「近い将来に喫茶店をね」
 私は、
「野球も、ギターも、商売も、がんばれば現代で命脈を保っていけるだろうけど、この建物の群れはだめだろうな。美しいだけで―」
「……滅ぼされるか」
「そうね……残念だけど。鵜飼さんのような人がもっと増えないと、無力に滅んでいくしかないわね。慈悲まかせだから」
「……野球がなかったら、まるでぼくのことだね」
 カズちゃんがすぐに反応した。
「いくら野球やギターで自己主張しても、才能を見抜けない人たちは、才能を守ってくれないのよ。やっぱり力のあるスポンサーと目利きが少しでもいなくちゃ。文化はそうやって守られてきたんだから」
「ぼくたちが文化?」
「才能は時空を超えた普遍的な文化そのものよ。滅ぼしちゃいけないもの」
 山口は感激してカズちゃんを抱き締めた。
「あんまり強く抱かないでね。キョウちゃんのものなんだから」
 そう言って背中をポンポンと叩いた。山口はあわてて離れ、
「おお、丹塗りの料亭稲本か。この看板、深いな。来者不拒去者不追」
「来る者拒まずはありきたりだけど、去る者追わず、がいいね。もと妓楼ふうの空き家も多い。ビジネス旅館『牛わか』、『三角荘』、成人映画『中村映劇』、喫茶『山小屋』、スナック『ジュン』、喫茶『アロマ』か。みんな崩れかかってる。喫茶『ロビン』。青いカーテンがいいな。入ってみようか」
「そうね、少し喉が渇いたわ」



         八十九

 店は古いのに、若夫婦がやっている。テーブルは四つ。中日新聞と、小中学校時代によく見た中日スポーツが置いてある。ジャムトーストとコーヒーを注文する。若い亭主がゆっくり仕事をする。女房はパンを切りながらときどきこちらを見る。亭主の手で、先にコーヒーが出され、やがて女房が、分厚い三角のトーストに気前よくイチゴジャムを載せたものを持ってきた。
「名古屋の食いものは大盤振舞いだな。道の広さも」
 かぶりつく山口に女房は、
「あの……みなさん、芸能界のかたですか?」
「まったくちがいますよ。青森から遊びにきた高校生と、訪問先の娘さん」
「すみませんでした。あんまりみなさんおきれいなんで、もしかして芸能人のかたならサインをいただこうと思いまして。ほんとに申しわけありませんでした。おじゃましました。ごゆっくりどうぞ」
 毒気に当てられた私たちは、さっさと食べて飲んで、父親の評した閑散という表現にぴったりの町並を、名古屋駅に向かってゆっくり引き返す。山口が、
「NHKの社員は早稲田・慶應・東大で七割近くを占める。彼らの好みの集大成が、紅白歌合戦だ。つまり、NHKは芸能人好きで、庶民意識を代表する団体だ。おまえがマスコミや芸能界を敬遠するのは、庶民気質を持っていないからだ」
「逆に言うと、日本の一流大学は庶民に支えられているということだね」
「そうだ。おまえの母親や西松の所長みたいな人たちにな。うれしいことに、俺もおまえと同じ気質だ。東大にいったら、おまえが所期の目的を達成して退学したあと、俺もすぐやめる」
「うん」
「まだいってないのよ。苦難の道は長いわ」
「重々承知」
 大門の出口には看板もなく、ヤジロベエのような鉄製のアーチが架かっているだけだった。
「城は見たし、熱田神宮へもいった。神無月郷の足どりもたどった。ほぼ名古屋の見物は終わったな。千年小学校がいちばん印象深い」
「山口さんの頭には、キョウちゃんのことしかないの?」
「和子さんもいっしょでしょう。もう一つだけ、番長が入院した牛巻病院の大部屋を見ておきたい。そのあとで、和子さん、有名な地下街を歩きますか」
「そうね、ちょうど夕飯ぐらいに帰れるんじゃないかしら」
「北村家のめしはすごいなあ。日々、元気汪溢になるし、大食らいにもなる」
 と言ってカズちゃんに笑いかける。
「食べるの大好きよ」
 私は、
「女は大食らいじゃなくちゃおもしろくない。精力なさそうで」
「ああ、神無月、俺もそれがよくわかったよ。おトキさん、よく食べるんだ。そのせいか案外肉付きがよくて、フカフカしてる。あの感触は生まれて初めてだ。北村席の厨房が食事に精魂こめてるのは、おトキさんの気組みだね。小食で痩せた女にいっぺんに興味が失せた」
「もう一晩、そのおトキさんとすごせるね」
「いや、夏までとっておく。約束したんだ」
 しみじみとした気分になった。市電を眺めながら歩く。
「札幌にもあったが、路面電車というのはノスタルジックな乗物だなあ。速い乗合馬車という感じだ」
「乗合馬車は、幼稚園のころ野辺地駅で見た。バスが現れる前だな。十人乗りくらいの幌のついた馬車でね、モンペ姿のおばさんや子供たちが乗ってた。遠くまでいけないという雰囲気だった。速い乗合馬車という感じ、よくわかるよ。乗物の中では市電がいちばん好きだ。あの横揺れが何とも言えない」
 カズちゃんは通りかかったタクシーに手を上げた。名鉄神宮前まで、と告げる。
 鬱蒼としたビル街を抜けて、テレビ塔を過ぎる。山口は、オッ、と一度見上げたきり、すぐに街並に目を凝らした。カズちゃんが、
「テレビ塔は昭和二十九年にできたのよ。戦後復興の象徴。日本最初の集約電波塔」
 私は、
「カズちゃんが二十歳か。そのころの街並の看板憶えてる?」
「……パンビタン、太田胃散、マツダ三輪トラック、トヨタミシン。キョウちゃんて、おかしなこと尋くのね」
「ぼくが名古屋にきたのは昭和三十四年だから、ほとんど同じだろうと思って。あのころテレビ塔の周囲にはビルなんかなくて、民家ばかりだった。栄町の交差点角にはオリエンタル中村百貨店があった」
 山口が、
「名古屋というのはなつかしい不思議な街だ。ここを離れるのはつらかったろう」
「うん。三沢や横浜はあまり思い出さなかったけど、名古屋はしょっちゅう思い出した。だからいつもリアルタイムだ。思い出に化けない」
 車というものはどこをどう走るのかわからない。ところが、しばらく走るとかならず見慣れた景色にたどり着く。神宮の杜が見えてきた。
「どんなに堂々巡りをしても、結局ここに出てしまうね」
「呼び寄せられるのね」
 山口が、
「いつかお払いをしてもらわんといかんようだな。まあ、きのうもきょうも、俺のリクエストだ。勘弁してくれ」
「いや、いいんだ。牛巻病院は去年の夏にカズちゃんときた。何度きても胸がギュッとなる」
 ロータリーでタクシーを降りる。眼鏡をかけて、もう思い出の人たちのいない場所を眺める。車道にへばりついた商店街。粟田電器店。熱田神宮の森が蒼い。バスがひっきりなしにロータリーに出入りする。ニセ定期券……。ひっそり後部座席に肩を並べている二人の少年の幻。
「何だその眼鏡。えらく印象が変わるな」
「眼鏡かけても美男子! すてき」
 山口は苦笑いをする。駅前の神宮小路を見やりながら、山本法子という名前を思い浮かべる。もう活字だけの思い出になっている。口にこぶしを突っこんで甲斐和子の怒りを買ったあの男は何という名前だったか。たしか粟田電器店のそばのペットショップの息子だった。東門のそばにもうその店はなかった。杉山啓子、桑原、関、デブシ、和田先生、久住先生……むやみに浮かんでくる。
「あの道を向こうから走ってきて、一休みして、それからこの踏切を渡ったんだな」
「うん」
 踏切を越えて牛巻坂を登っていった。山口の足が速い。
「あれか!」
 坂のいただきの小さな堀に架かる橋から一息に下って、牛巻の信号に出る。カズちゃんが微笑みながらゆっくりついてくる。
 信号の向こうに牛巻病院の桜の古木が見える。三吉一家、ワカ、光夫さん、ボン、小便ひっかけたろかい……。ちょっとした風の吹き回しで、私も彼らと同じ道をいく可能性があったかもしれない。しかし、けっしてそうはならなかった。押しとどめる平凡な環境があって、彼らの中にワカのようなすぐれた諫言者がいたから。
 正面玄関の階段を上がり、緑のスリッパを履いて、ロビーの受付窓口を過ぎる。大硝子の向こうに、かれこれ三十に手の届きそうな看護婦が控えていた。夏にもいたかもしれないが、目に入らなかった。通り過ごして階段を上ろうとすると、
「あなた、キョウちゃんね!」
 と、その看護婦が呼び止めた。私は立ち止まった。彼女は学生ズボンにブレザーの私を目で検分し、しばらく記憶の糸をたぐるような表情をしてから、やっぱりというふうにあらためて大きく笑った。カズちゃんは不安そうな笑みを洩らした。何かのいきがかりで母に連絡されるかもしれないと思ったようだ。山口は固まったように立っている。私はカズちゃんに小声で言った。
「だいじょうぶ。おふくろはもう飛島だ。連絡のとりようがない」
 カズちゃんはうなずくと、ゆっくり私のそばに寄り添った。
「お友だちをいつも見舞ってたキョウちゃんでしょ。たしか、ヤスオくん……」
「そうです。二年も前です」
「眼鏡をかけてるから、わからなかった」
 カズちゃんと山口が、もう涙を浮かべている。
「ね、ね、キョウちゃんよ」
 その看護婦は振り返り、もう一人の看護婦に伝えた。何か書きこみをしていたその看護婦は、こちらを向いてなつかしそうな微笑を洩らした。
「あらあ、大きくなったわねえ、キョウちゃん。私のこと憶えてる?」
「はあ……」
 眼鏡を押し上げて見つめた。その顔に記憶はなかった。
「私、節ちゃんと寮でずっと同室だったの。ほら、熱田祭の花火のとき、節ちゃんといっしょに歩いてたでしょう」
 その事実は憶えていても、あのとき私は、黒い空に咲いた大輪の花火の下で母と滝澤節子しか見ていなかった。
「あのう、見舞い通用口の踊り場の階段で、滝澤さんといっしょにラムネを飲んでいた人ですか」
「ラムネ? ああ、そういうこともあったわね。……節ちゃん、もう、ここにはいないのよ。あなたのお母さんがいらっしゃってね……それからすぐ辞めたの。一度、知多のほうへ戻って、その後ははっきりわからないんだけど」
 山口が苦笑いした。彼女は、自分の話したことが山口に何かよからぬ影響を与えたことをその表情から察しようだった。カズちゃんは無表情でいた。
「大部屋を覗いて、帰ります。リューマチ先生はどうしてますか」
 きょうこそ会って帰ろうと思った。
「ああ、吉本さん。あの方は三カ月ほど前に亡くなられました。もともと心臓がお悪くてね」
 冷たいものが背中を走った。カズちゃんの眉が曇った。
「そうですか」
「いつだったかしら、きっとキョウちゃんのことだと思うけど、あのすてきな少年を見かけたんだが、目の錯覚だったかな、と言ってたわ」
 目頭が熱くなった。
「少し大部屋を覗いて帰ります」
「ええ、ぜんぜん変わりないわよ」
 三人で階段を上っていった。山口がブツブツ言っている。
「滝澤という女がどれほどのことをしたか、あいつらは知らないみたいだな。本格的な悪事は千里を走らないもんだ。本人には悪事を働いたなんて意識はないんだろうけどさ。しかし、きてよかった。神無月の人生をねじ曲げた当人のさびしい消息を知った。彼女は神無月の憂鬱の原点じゃないが、少なくとも憂鬱の一要素だ」
 大部屋に見知った顔は一つもなかった。山口は時間をかけて見回していた。
「番長のベッドは」
「そこ」
 入口から二番目を指差した。頭に包帯をした小学生が寝ていた。彼の付添いがこちらを不審そうに見た。
「いこうか」
「そうしよう」
 カズちゃんが部屋全体にお辞儀をした。ロビーに戻ると、受付の看護婦たちが声をかけた。
「がんばってね、キョウちゃん。お元気で」
「節ちゃんに会えるといいわね」
 私が深く辞儀をすると、二人揃って頭を下げた。
 だらだら坂を三人で戻っていった。山口が吐き出した。
「頭にくるな。トンズラした女も、ちゃっかり暗躍した女も」
 カズちゃんが山口の背中に手を置いた。
「ありがとう、山口さん。キョウちゃんのために怒ってくれて」
「神無月は肝心なことでは腹を立てない男だからな」


         九十

 ロータリーでタクシーに乗り、本遠寺へ、と私は言った。山口とカズちゃんは顔を見合わせて、何だという表情をした。
 本遠寺の裾の石垣を廻って、一本の道に入るように運転手に命じた。
「そこ、ゆっくり通ってください」
 窓を開け、
「この家―」
 と二人に視線で示した。
「松葉会だ」
 玄関前を数人の男が動き回っている。タクシーを不審顔で見つめる。私は懸命に康男の姿を捜した。もしいたら、タクシーを降りて駆け寄り、抱き締めるつもりだった。カズちゃんも康男の姿を見つけようと目を凝らしている。いなかった。
「いないようね。家の中かしら。どうする、降りる?」
「いや、たまたま出会えたなら声もかけられるけど、わざわざ家の中から呼び出す気はない。ワカにも光夫さんにも会いたいけど、ぼくの身の処し方が決まってからにする」
「神無月、降りよう。もう、死ぬまで会えないかもしれない。運転手さん、ちょっと待っててください」
 山口はサッと車を降りた。私も降りた。
「私、ここから見てる。大将さんが私に驚いたら、説明が長くなるから」
 山口はつかつかと男たちに近づいていって、深く礼をした。私が並びかける前に、しゃべりはじめている。
「私、山口勲といいます。ここにいるのは神無月という者です」
 私はすぐあとを受けた。ボタンつきの薄物を着た男に礼をし、
「神無月郷と申します。じつは―」
「なんや、おめえら。カチコミのチンピラか。ケガせんうちに帰れや!」
 私はもう一度深く礼をし、
「こちらでお世話になっている寺田康男の友人です。以前は若頭さんにもかわいがっていただきました。事情があって、寺田とは遠く離れて暮らすことになりましたが、今回こちらに旅をする機会を得まして、ぜひ会いたいと思って」
 声を聞きつけて玄関の式台に顔を覗かせたのは、あの一文字眉だった。
「おお、あんた!」
 雪駄を突っかけて早足で出てくる。
「元気やったか! 大きなったなァ。ヤスはいまおらんのや。ワカも会合に出とる。ちょっと待っとれや」
 まだするどいい目で男たちが私たちを睨んでいる。山口は緊張して、直立不動の姿勢をとっている。やがて、驚いたことに一文字眉といっしょに光夫さんが出てきた。
「光夫さん!」
「神無月くん! どうした、こんなところへ。去年康男から聞いたで。青森の高校にいったそうやないか。弟のことでは気の毒してしまったな。勘弁してな」
「とんでもありません。ぼくのほうこそ康男に迷惑をかけてしまって。今回、帰省することになって、いっしょにきてくれた友人にどうしてもこの家を見せたくて。というより、陰から康男の顔だけでも見ることができればと思って、タクシーに乗ったまま通り過ぎるつもりでしたが、死ぬまで会えなかったらたいへんだと友人が言うので―。山口、こちら寺田康男のお兄さんの光夫さんだ」
「神無月から何度も聞かされました。ギターの名人だとか」
 光夫さんは山口をギロリと見つめ、
「似合わんことが趣味でしてね。山口さんか、ええツラ構えや。よう神無月くんの肩を押してくれたな。ありがとう。康男はいま、ワカの身内の組に修行に出しとる。二年ほど大阪へな。からだが利かんのに、やんちゃに暴れくさって、ほかの組のチンピラともめて、仕方なくな」
「そうですか、ちゃんとヤクザをやってるんですね」
「あれは、ほかのことはできん。学校にやろうとしたんはワシの高望みやった。神無月くんを友人にしたのだけは、あいつのファインプレーやな。神無月は俺の一生の宝もんやといつも言っとる。格好がついたら、また会いたい言うてな」
 カズちゃんが小走りにやってきて、山口の背中からお辞儀をした。
「光夫さん、この人はぼくの恋人です。康男も知ってる人です。飯場のカズちゃんとうまくやってると、康男に伝えてください」
「カズちゃんやな。わかった、伝えとく。きれいな人や。神無月くんにお似合いや」
 光夫さんは目を細めてカズちゃんを見ているうちに、ハッと息を呑み、
「ひょっとして、太閤の北村席のお嬢さんじゃ―」
「はい、そうです」
「これは失礼しました」
 からだを屈め、両手をひざに突いて辞儀をした。
「いつも過分なご寄付をいただきまして、ありがとうございます。五年ほど前、上にくっついて一封をいただきにあがったとき、お嬢さんの姿をお見受けしたことがあります」
 一文字眉も膝に手を突いてからだを折った。ほかの男たちもつられて辞儀をする。
「そうでしたか。縁は異なものですね。ときどき仕事の骨休めに、実家に顔を出してましたから。駅西は松葉さんの管轄なんですか」
「は、いまは二つ、三つの組で分担させていただいとります。それでも複数の組にミカジメを払うのはご負担でしょう。北村さんや塙さんはじめ、大門の業者さんのタンコブにならんよう、町筋の細かいあこぎな組に目を光らして、いずれ、うち一本で仕切らせていただくつもりでおります」
「よろしくお取り計らいください」
「申し訳ない。ずっと立っとるのもお疲れでしょう。ワカの留守中は、家に客人を入れてはならないことになっとりますんで、どうか立ち話でお許しください」
「いいんですよ、すぐに失礼しますから。じゃ、私、先に車に乗ってるわね」
 カズちゃんが光男さんたちに辞儀をしてタクシーのほうへ歩いていくと、私はもう一度光男さんに深く礼をし、
「二年後、大学生になったら、また立ち寄ってみます。あの節は、ほんとうにみなさんにご迷惑をおかけしました」
 光夫さんが一文字眉にあごを振ると、胴巻きから一枚の金刻された立派な名刺を取り出し、私に渡した。
「神無月くん、何かのときは、そこに電話ください。康男にはよく伝えておきます。それから若頭にも。山口さん、神無月くんは男の中の男や。人を裏切らん。神無月くんについとればまちがいない。ただ、謙虚な人でな、横槍もよう喰らう。どうか危ない目に遭わんよう守ってやってください」
 一文字眉といっしょに深く礼をする。
「おまかせください。康男さんにも安心するようお伝えください。じゃ、失礼します。お忙しいところ、すみませんでした。いこう、神無月」
 私たちがタクシーに乗りこむと、二人と並んで玄関先の男たちも最敬礼した。車はすみやかに会の門前を離れた。
「神無月の原点、その二がわかった。いや、その一かもしれないな。野球や勉強よりもはるかに似合ってる」
「そこまで極端なものじゃないと思うけど、キョウちゃんのやさしさの根もとがわかった気がするわ。こういう静かで、少し荒んだところからやさしい心が湧いてくるのね。そうとしか考えようがないわ」
「人間的迫力か。ヤクザからも尊敬されるなんてことは、俺たちには逆立ちしたって無理だ」
「ほんと。光夫さんはキョウちゃんの強さも見抜いてるんでしょう。ついていけばまちがいないって言ってたから」
 運転手がバックミラーを見上げながら、
「お客さん、どちらへ。神宮前へ戻りますか」
「あ、すみません、名古屋駅西口、お願いします」
 夕暮れが淡く降りてきた。
「野球のヤの字も出なかったな。知られてない。おふくろさんの周りの連中が神無月の正体に気づけば、会社の上の者が『せっかく上昇気流に乗ってる者を連れ戻すんじゃない』とおふくろさんを諫めるというラッキーも起こるかもしれないが、ま、それはないな。おふくろさんは社員たちにおまえを会わせないだろう。とにかく、あと半年は野球ができる。……名古屋を満喫したなあ。あと二年、大学入るまでは、勉強、勉強の連続か。継続こそ力なり。まあ、何とかなるだろう」
 山口はじっと窓の外を見た。
「……涙が出てくるぜ。進んで虐待されに帰ってくるんだからなあ。神無月のエントロピー好きの性格はどうしようもない。無気力とは別種のものだということを、俺は会う人ごとに説明しなくちゃいけない」
「説明なんかいらないわよ。わかる人にはわかる、わからない人にはわからない。すばらしい性格よ。こんないさぎよい性格ありゃしない」
 運転手がまたバックミラーを見上げた。五十代の後半くらいだろうか、耳もとの白髪が帽子から突き出している。
「神宮前で乗車されてから、ずっとお話を聞かせてもらいました。……神無月さんとおっしゃるんですね。深いご事情があるようですね。しかし、人間そこまで惚れられたら、何もする必要がありませんよ。こうしてわれわれが働いているのは、惚れられたり貢がれたりという人生を送れるほど傑出した人間でないからですよ。神無月さんというかたは、そこにそうやって座っているだけで、何か光のようなものを感じます。お二人のおっしゃることにしみじみ納得がいきます。……神無月さんは痛々しいほど人に尽くしてるようですね。みなさんに対する感謝の気持ちからでしょう。自分をそれほど高く買ってないんですよ。いや、自分がないと言ったほうがいいのかな。……南方の戦地で、似たようなかたを見たことがあります。すみません、ちょっと話をさせてください。そのかたは私らと同じ一兵卒でしたがね、まだ二十代の、人間離れした雰囲気の人で、ふだんはどことなく心が晴れない様子をしているんですが、ふとした拍子に立ち上がって、人のやりたがらないことを率先してやり、自分の食い扶持を分けてくれたり、私らをいじめる上官をひそかに夜道で襲ってヤキを入れたりしてました。私たちに累がおよばないように、地元の人の服を借りて変装をしてね。彼は地元民にも信頼が厚かったものですからね。神のミワザというやつです。『あなたたちのおかげで生きている喜びをもらってる、お返ししなくちゃ、ぼくは何もない人間ですからね』とポツンと洩らしたことがあります。……終戦まぎわに熱病で死にました。みんな気が狂うほど泣いたですね。実際に死骸のそばで自死したやつも何人かおりました。神々しい死に顔で、やっぱり人間じゃなかったんじゃないかとつくづくいまでも思ってます」
 カズちゃんが、
「あなたも死のうと……」
「私はあとを追う勇気がなくてね……外で一晩泣き明かしました。あの若者のことは終生忘れられません。彼は生きて帰っても、巷に埋もれたかもしれませんが、私たちの心にはいまもなお生々しく残っております。一期一会。お客さんたちとも一期一会です。またひょいとお会いできるといいですね。神無月さん、長く生きて、みんなの光になってあげてください」
 駅西につけた。彼の車はロータリーのほかのタクシーの群れにまぎれこんだ。カズちゃんも山口も泣いていた。
「……死なせんぞ。人におまえの思い出を語ってどうなる。それで人がいっしょに泣いてくれたっておまえは浮かばれない」
「ごめんね、山口。自殺騒ぎのせいでひどい後遺症を残しちゃったね。生きるの死ぬのなんて言うのはこれきりにしようよ」
「私ももう言わない。そんな言葉を忘れるように、キョウちゃんをうんと忙しくしてあげる。ぼんやりなんかさせてあげない」
 地下街に寄って、カズちゃんは土産を物色した。重くなるけど、と言いながら、ういろうを買った。モダンをてらったおもしろ味のない商店街だったので、ぶらつかずにすぐ北村席に戻った。
 最後の夜だというので、主人夫婦は襖を外した奥の座敷に踊りと鳴り物を招いた。
「振興会に頼んで、お座敷芸者をつけましたから。めしを食いながら楽しんでください」
 脇の緋毛氈の上に薄紫の着物の三味線弾きが坐り、青地に小紋の着物を着た太鼓、黒地の着物の鼓(つづみ)、水色の着物の横笛が正面に控えている。三味線と鼓は中年で、太鼓と笛は若い芸妓だった。四人とも伊達巻をキリリと締めている。部屋の隅に、花簪(かんざし)の髪に振袖の晴着を着た十代とおぼしき女が端座している。
「あれは?」
 と母親に尋くと、
「立方(たちかた)さん。踊る人やね。鳴り物のほうは地方(じかた)と言うんです。三味と鼓は十年から二十年の年季が必要で、立方を卒業してから回るんよ」
 食卓に皿がどんどん運ばれてくる。居間全体にテーブルが接して並べられ、店の女たちが十人も集まっている。ユキさんもいる。大勢の陽気な女の中に内気そうに坐っている。塞いでいるふうはないが、内気な人間が発する独特の倦怠がただよっている。私はあんなふうに生きてはならない。おトキさんとトモヨさんが、せっせとおさんどんをする。横笛の女が、
「娘道成寺! 途中の衣装替えは控えさせていただきます」
 と声を張ると、とつぜんトンと太鼓が鳴って、楽奏が始まった。意外に音量が大きい。しかも澄んでいる。耳が洗われるようだ。立方が進み出て舞いはじめた。手踊り、花笠を持った踊り、ひょっとこ踊り、手拭や小さな鼓などの小道具を使いながらの踊り。女将が、
「いろいろな女の姿を踊り上げとるんよ。鞨鼓(かっこ)を打ちながら踊るんは、若い子には難しいな。振り鼓は振って打ち合わせればええだけやけどな」
 綱で引き絞った小さな鼓はカッコと言い、両手に握る円盤のような鼓はフリツヅミというものだと知った。女たちが箸を止めて、うっとり見入っている。おトキさんとトモヨさんも腰を下ろした。三味線が軽やかな音を弾き鳴らしながら、いい声でうなる。

  花の外には松ばかり
  花の外には松ばかり
  暮れそめて鐘や響くらん

 拍手喝采。三十分近く休みなく舞い、それに合わせて唄い、奏し、みんなの食事に区切りがつくころ、ようやく終わった。


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