九十四 

 昭和二十四年(私の生まれた年だ)、マイナーのサンフランシスコ・シールズ来日。羽田に田中絹代ら三十名が出迎え、歓迎パーティはマッカーサーみずからが主催するなど破格の扱いだった。日本プロ野球軍と六戦、駐日米軍と四戦、六大学選抜軍と一戦し、十一戦全勝した。国威をかけて戦うという姿勢はもう日本にはなく、純粋に野球の技量で敗北したという感じだった。ホームランはシールズ四本、日本軍ゼロ本。ホームランの少なさに驚く。ベーブ・ルースは十七戦で十四本も打ったのだ。マイナーとメジャーのちがいだろう。日本チームの有名どころは、読売ジャイアンツ千葉茂、青田昇、川上哲治、中島治康、別所毅彦、藤本英雄、中日ドラゴンズ服部受弘、西沢道夫、杉浦清、野口明、坪内道則、大映スターズスタルヒン、小鶴誠、阪神後藤次男、別当薫、藤村富美男、土井垣武、若林忠志、金田正泰、南海ホークス飯田徳治、木塚忠助、山本(鶴岡)一人、東急フライヤーズ大下弘。これだけいて一勝もできなかった。和洋の才能の歴然たる差が愉快なほどだ。
 昭和二十五年、プロ野球セ・パ二リーグに分裂。日本シリーズで覇権を争う基本システム確立。各球団は、アメリカ大リーグのようなフランチャイズに基づく市民球団ではなく、大企業の宣伝媒体として財政的に支えられていた。ほとんど貧乏球団。それに反して早慶戦と甲子園の高校野球は花盛り。ベーブ・ルースをあれほど歓迎しておきながらどうなっているのだ。ここで母の呟きが甦る。野球選手は頭の悪いヤクザ者だ―ベーブ・ルースはヤクザ者と思われなかったということだ。彼は英雄扱いされた。日本人の心理はつくづく謎だ。
 昭和三十年、テレビの普及によってようやくプロ野球の人気が出はじめる。なぜ? テレビ会社を含むマスコミを親会社にする読売ジャイアンツが、他球団を圧倒して国民的人気を独占したからだ。ジャイアンツはプロ野球の象徴になった。
 ―このころまでのプロ野球の歴史を私はまったく知らなかった。昭和三十年、六歳の少年は三沢から横浜へ移住して、七歳になった。青木小学校、四宮先生、さぶちゃん、ひろゆきちゃん、破傷風。それしか憶えていない。野球などその存在すら知らなかった。しかし、もの心ついていなかったですまされることではない。野球に無関心だった〈自分の野球の歴史〉を紐解く必要がある。
 昭和三十三年の長嶋茂雄の入団を契機に、プロ野球の人気は不動のものとして全国的に定着した。あまりにも有名な話だ。八歳だった昭和三十二年、宮谷小学校の校庭でソフトボールを初めてやったころ、まだ長嶋は登場していなかった。それなのに長いあいだ、彼とともに私の野球の歴史も始まったと思いこんでいた。だいたいテレビというものをほとんど観たことがなかった。たまに福原さんの家や支那蕎麦屋の白黒テレビを観た。そこに映っていたジャイアンツ(そう呼ばれることは少なくてほとんど巨人と呼ばれていた)のプロ野球選手をハッキリ思い出すことができる。藤田、別所、堀内、藤尾、与那嶺、広岡、坂崎、エンディ宮本。たしかに長嶋はいなかった。川上は四番を打っていたはずだが印象にない。
 そして三十三年。九歳。意識がほとんどテレビから離れ、貸本と映画に没頭した。テレビは支那蕎麦屋で〈皇太子ご成婚〉に目を凝らしたくらいだ(たまに福原さんの家に呼ばれて垣間見た番組は克明に憶えている。飯場に入ったとたんにその記憶を開陳したのが証拠だ)。だから、長嶋の四打席四三振は映画館のニュースフィルムで知ったのだった。そのとき国鉄の金田も初めて知った。そんなわけでプロ野球そのものにも華々しい印象が残らなかった。街頭のテレビの画面には相撲が映っていた記憶しかない。大学時代の長嶋のことは、かなりあとで雑誌記事を読んで知った。
 あこがれる選手など一人もいない私には、野球をやろうと決意する実践的な動機がなかった。さぶちゃんに褒められたことがすべてだと考えたのは、後年のこじつけにすぎないだろう。それなのに、心機一転、貸本も映画もやめて野球をやろうと意気ごんで名古屋に乗りこんだ私の気持ちは、いま思うと永遠に解けない謎だ。
 十歳。西松の飯場に移ってからは、憑かれたようにバットを振りはじめ、テレビにかじりつき、ラジオも聴くようになり、さまざまな野球選手を知った。音楽は別の情緒的関心事だった。
 三階校舎の屋根。やはりあれがすべてだった。あのころやっと、長嶋や王の像がはっきりと目の奥に結んだ。野球選手になりたいと念じた。
 三十五年、三十六年と、飯場のスポーツ新聞の力もあって、プロ野球選手の名前と実像がどんどん頭に入ってきた。阪神タイガースの藤本、村山、小山、吉田、三宅、並木、遠井、鎌田、大洋ホエールズの桑田、近藤和彦、近藤昭仁、麻生、土井、秋山、黒木兄弟、島田源太郎、広島の森永、大和田、古葉、興津、藤井、阿南。
 そして、中日球場で目撃した中日ドラゴンズの選手たち―森徹、江藤、中、高木、板東、河村、前田、今津、井上、大矢根。
 テレビ中継のほとんどないパリーグもなぜか鮮明に重なって入ってきた。大毎オリオンズの山内、榎本、葛城、田宮、小野、南海ホークスの杉浦、野村、広瀬、半田、寺田、杉山、穴吹、森下、ハドリ、スタンカ、皆川、西鉄ライオンズの中西、豊田、稲尾、田中久寿男、玉造、高倉。そして東映フライヤーズの尾崎、土橋、張本、毒島、阪急ブレーブスの米田、梶本、足立、バルボン、近鉄バファローズの関根、ブルーム……。
 動機なぞどうでもいい。千年小学校の校庭からきょうまで一直線だ。ある日私は野球の才能を自分に見出し、ずっと飽きずに野球をやりつづけてきたのだ。
 本を閉じた。
         †
 四月二日土曜日。快晴。道端からも雪が消えた。春休みもあしたで終わる。晴れ上がった日中につづく暖かい夕暮れだ。それでも名古屋よりかなり冷える。
 一学期の初日の予習を途中にして、山口と堤川の土手道を歩く。桜川の住宅街のほうから土手に回る。堤川の流れが濁って少し速い。雪解けの水だ。下駄に裸足で出たので足が冷たい。山口も寒そうだ。筒井橋で足を止める。上流と下流を見やる。この橋のあたりはどの季節もなぜか流れが緩やかになる。河川敷に繋がれた砂利運搬用の小舟のそばで、放し飼いにされた一頭の乳牛が草を食(は)んでいる。
「引き返そう」
「おう」
 いつか遠い未来、この水が思い出の水になる。いっしょに歩いた山口はもう死んでいる。老いさらばえた私がこの水を見つめながら立ち尽くしている。細い土手を吹きわたる風がタンポポの種を散らしていたことを思い出す。登下校の道、年がら年中、川水が泡を浮かべて流れていたことを思い出す。いつかふたたびこの土手に立つとき、いっしょにこの道を歩いた人びとはもう私のことなど思い出さない。この世にいないから……。彼らに命を心配されて生き延びた私が、いちばん長生きして思い出の場所に立っている。そんなイメージに浸された。
 筒井通の喫茶店に入る。ナポリタンとコーヒーを注文する。大盛りにした。
「散歩は中止だ。帰ってまた予習しよう。なんだかぐずぐずしていられない気がしてきた。おたがい場所を改めて再出発しなくちゃいけなくなるからな。おい、二年生の一学期から、俺、一番を目指すぞ。おまえは野球に賭けろ。もちろん勉強は絶やさずにな」
「ああ、そのつもりだ」
「全試合、和子さんと応援にいく。これから半年、おまえが出る試合はすべてこの目に収める」
 部屋に戻って机に向かい、もう一度真新しい教科書を開く。どれにもぺらぺら目を通した。しばらくものめずらしい気分がつづいていたが、三十分もしないうちに眠くなり、蒲団を敷いてもぐりこんだ。熟睡した。深夜の十一時ごろに目覚め、洗面所に歯を磨きにいった。五時間寝た頭がスキッとしている。山口の部屋にいく。数学の予習をしていた。
「やってるな」
「おお。あと一時間はやる。おまえ、サッパリした顔してるな」
「うん。すぐ寝てしまった。四組と十一組じゃ、教室がかなり遠いね」
「教室におまえの顔がないほうが集中できる。コーヒーいれるぞ」
 フィルターに電気ポットの湯を落としながら、山口が言う。いいにおいが立ち昇る。
「おトキさんに手紙を書いた。二、三カ月にいっぺんの手紙のやりとりで、青森半年、東京一年半の二年間を乗り切る」
「あと二年か。このままつつがなくいけばいいね」
「つつが虫にやられた結果の計画だ。しかし、ある意味計画が一本化されたからスムーズにいくだろう。……夏に騒がれすぎても、どうせ転校するから計画に狂いは出ないだろう。野球を忘れず、二流以下の高校で東大合格を目指すという単純な計画だ」
「うん」
「将来声をかけられるように、この半年のあいだに、プロ球団にぼくの印象を残しておかないと」
「ああ。半年間、ムチャな連れ戻しがないことを祈ろう」
「転入試験がないからにはだいじょうぶ」
 コーヒーを差し出す。いい香りといっしょにすする。
         †
 四月四日月曜日。曇。二年生の一学期開始。ダッフルを担いで山口と登校。授業と野球漬けの日々が始まった。
「一週間の試し授業なので、初日の出欠をとったら来週の月曜日まで出てこない生徒が多いぞ」
「そうらしいね。ほんとに青高は独立独行の学校だ」
「上昇、下降、どっちもすみやかだ」
 日本史を教える石崎という、薄い頭髪を真ん中で分けた太縁眼鏡の中年教師が担任になった。尻向け(ケツムケ)というあだ名で呼ばれている。授業中ひたすら板書し、あまり生徒のほうを振り返ることがないからだ。きょうは授業をせずホームルームだけですませた。一年五組からきた顔見知りは、男は小笠原と古山の二人、女は木谷千佳子、もう一人見覚えのある顔がいたが、名前を思い出せなかった。一年生のときと同様、自己紹介はなく、ホームルームのあと、講堂で例の集会があった。出席しなかった。
 初日はほかの教師の授業もなく、そのまま教室から解散となったので部室へいった。一番乗りだった。ロッカーに置きっ放しにしておいたタイガーバットが光っている。背番号つきのユニフォームも無番のユニフォームも掛けてあった。硬球を握り締める。湿った感触に胸が高鳴る。この感触のために私は生き延びた。やはりすばらしい。
 バットを乾拭きし、ダッフルから取り出したグローブにグリースを塗りこんでいるうちに、部員が続々とやってきた。全員私と同じ学生服姿だ。小笠原の顔はなかった。新キャプテンの室井が、全員をグランドに集め、整列させた。グランドに雪はないが、まだ使えない状態だ。背広を着て長靴を履いた相馬が走ってきた。室井は、
「監督の相馬先生です。礼!」
 と大声を上げ、
「先生から、ひとこといただきます!」
 相馬は一歩前に進み出て、
「きょうは練習しないので、そのままの格好でけっこう。この二、三日、寒気が緩んできた。今朝はマイナス○・三度。いよいよ野球の季節到来だ。水はすっかりはけたが、あと二、三日はグランドがゆるい。滑りこみはするな。新一年生は、新町の指定スポーツ用品店で、ユニフォーム一式整えるよう。野球をするのが初めてだという人は、自動的に補欠になるからそのつもりで。暫定だけれども、レギュラー候補は去年申し渡したとおり。なお、卒業した安西マネージャーの代わりがまだ決まっていない。われこそはと思うやつは、なるべく早く室井に申し出るように」
 ユニフォーム着た小笠原がダッシュでグランドに入ってきた。笑いが湧いた。
「小笠原、きょうは制服でよかったんだよ。並んで。じゃ、一年生、挙手」
 十五、六人が手を挙げる。豊作だ。相馬はあらためて、
「新入生諸君、県立青森高校にようこそ。わが青高は、八甲田山連峰を背に、眼下には陸奥湾を望む青森市の東南に位置し、開校明治三十三年、ちょうど一九○○年、今年創立六十六年を迎える伝統ある高校だ。綱領は〈自立自啓・誠実勤勉・和協責任〉。そんなことはどうでもいい。朝礼やってるんじゃないんだから。私は諸君たちとともに笑い、涙する教師だ。信頼してくれ。勉強よりも野球をやりたくて青高にきた人、挙手!」
 とつぜん訊いた。二人手を挙げた。
「その二人、中学でのポジションと打順を言って」
 二人とも四番で、内野手だった。
「遠投力は」
「八十三メートル」
「七十九メートル」
 ふつう肩だが、遠投で鍛えればなんとかなる。
「じゃ、二年生から新しく入った者」
 小笠原しか手を挙げなかった。彼は問われないうちに答えた。
「小笠原照芳(てるよし)。春休みのテスト練習のときにも言ったけんど、遠投百一メートル、ピッチャー、四番」
「そうか。室井、あしたから小笠原の球をちょっと受けてやってくれ。レギュラーの見こみがあるなら、おまえの意見でメンバーに入れる。それから、あしたは一、二年生のキャッチボールと、走塁と、バッティングを見る。そのうえで一週間後の月曜日に、きちんとしたレギュラーを発表する。それまでユニフォームが間に合わない生徒は、しばらくトレパンかジャージでもいい。なお、チームナンバーワンの強肩は、神無月の百二十メートル越えだ。高校野球界でも、全国一、二を争うだろう。いずれプロ野球ナンバーワンになることは確実だ。打球の飛距離はきみたち知ってのとおり、全国ナンバーワン。現時点でたぶん世界レベルだ。足は速いが、スタミナがない。そこが愛嬌だが、ほとんどプロ野球選手と呼んでもさしつかえない。刺激を受けてがんばるように。トーナメント開始まであと三カ月。今年はいろいろな高校から練習試合を申しこまれてる。七月の半ばまで五、六試合はやることになると思う。試合ごとに見物がうるさくなるが、浮ついた気分にならないように自戒すること。青高は時のチームなので、マスコミにいじられることも多くなると思う。心を乱さぬように。とにかく、一つひとつ、勝利を積み上げていこう」
「ウエース!」
「毎日放課後三時四十分集合。練習は二時間から二時間半。雨天中止。定期試験中、日曜祭日、年中行事中は練習なし。自主的にトレーニングをする分には自由。合宿、早朝練習なし。特訓、適宜あり。グランド使用は、冬期閉鎖期間以外は年中無休。じゃ解散」
 もう一度部室に戻って、グローブを磨いた。周りに何人も集まってきた。室井が握手を求める。
「神無月くん、今年は去年以上の年にすべ。期待してる。ワもけっぱる」
「はい。キャプテンらしく、クンづけはやめて呼び捨てにしてください。安西マネージャーは大学へ進学したんですか」
「店継いだ。新町のスポーツ用品店の息子だすけ。セイコの用具はほとんどあれの店がら入れでる」
「そうだったんですか」
 小笠原が寄ってきて、
「神無月、あのとぎはえらそうなこと言ってしまって悪かった。勘弁してけろじゃ。春期練習でわがった。レギュラーはすげじゃ。肩は強えし、足も速え」
「ぼくは春期練習に出なかったけど、気を悪くするなよ」
「おめはケタ外れだすけ、ふつうの訓練は必要ねって相馬がへってらった。おめがうちさきてキャッチボールしたとぎ、おっかねがった。百二十メートルの肩で投げられたら、おっかねに決まってるじゃ。よろしぐ頼むじゃ」
 私は手を差し出して握手した。新三年生のレギュラーが、一人ひとり帽子を脱いで頭を下げた。私はビックリして立ち上がり、挨拶を返した。室井が、
「あした新しいロッカーに入れ替えるそんだ。今週中に壁もきれいになるべ。先生方の寄付で硬球二百個、来週にはバッティングケージとベースも新しぐなる。ぜんぶ神無月くんのおかげだ」
「新人のバッティング診断に参加してもいいですか」
「おお、ぜひ見てけんだ」
「それから、走塁よりも守備練習を見たいんですが」
「一人十本ぐれノックすべ」
「あした、一年生さバッティング見せてやってけろ」
「わかりました。小笠原に投げてもらいます」
「オラがか! わがった。けっぱるじゃ」
「ぼくが振った十球のうち、三球以上凡ゴロかフライに打ち取ったら、室井さん、彼をレギュラーの一員としてローテーションに入れてやってください。八本以上ヒット性の当たりを打たれたら、夏まで特訓だね」


         九十五

 山口の部屋からギターの音はしなかった。ギターが聞こえてきて、くつろいでいる気配がしないかぎり、彼の勉強のじゃまをしないことにした。
 十一時過ぎまで数学UBと英語のサブリーダーの予習をした。英語は今年も特別クラスに残った。サブリーダーはクラス担当の英語教師が独自に選定した教材で、ヘミングウェイの『フランシス・マカンバーの短い幸福な生涯』という短編小説だった。むろん、単語も文構造も高校二年の手に余る、意味もなく晦渋な英文だ。辞書を引き引き、半ページほどで、手いっぱいになった。
 蒲団に入り、岩波文庫を開く。トルストイのアンナ・カレーニナ。戦争と平和に比べて読みやすいのは、トルストイが愛の機微に深い関心を抱き、それを表現し尽くそうとするからだ。ドストエフスキーの文章は読みにくい。愛が希薄なせいかもしれない。克服できる日がきそうもない。
 十二時を回って、そっと戸が開いた。ユリさんだ。
「こんばんは……」
 薄っすらと化粧をしている。風呂上りのにおいがした。枕もとに正座したひざの間から手を入れると、下着を穿いている。
「めずらしいね」
「離れにきてほしいの」
「でも、ご主人が……」
「三日間、東京へいったわ。三つ四つの出版社を廻ってくるんですって。自信作の持ちこみ原稿」
「ふうん」
「たぶんだめね。いきましょ。ついてきて」
 ズボンを穿き、足音を忍ばせていく。カズちゃんの言葉が浮かぶ。
「今年は気を抜かず、野球と勉強に打ちこむこと。ひと月に私が一回、管理人さんが一回」
 ひと月に二回のセックスだ。何の不満もないし、負担でもない。食堂の勝手口を出て、平たい飛び石伝いに玄関に出る。振り返ると、台所と娯楽部屋の窓だけに灯りがあり、学生の部屋の窓も一つを除いて暗くなっている。一つ点っているのは麻雀をしている部屋だろう。その窓にも濃い寒色のカーテンが引いてある。
 初めて離れ中へ入った。八畳ひと間に六畳ふた間。狭い廊下を挟んで、八帖の台所と、重油焚きの小さな風呂場が並んでいる。
「ふつうの声で話していいですよ。忍び声ってつらいもの」
「ユリさんは、二年経ってぼくがここを出ていったら、ご主人とするの?」
「まさか。神無月さんが出ていったら、私のセックスは一生おしまい」
「かわいそうだね」
「いいえ。女は、好きな人にまだ遇ってないときはがまんできないけど、好きな人ができると、その人が抱いてくれるまでがまんできるのよ。女が肉体に溺れるのは、好きな人がいない証拠。好きな人にしてもらうと、こんなからだに触ってもらってありがたいと思うけど、好きでない人とするときは、このスケベ野郎って思うわ」
 六畳に蒲団が敷いてあった。
「寒いから、お蒲団に入ってお話しましょ。脱いで裸になって」
 ユリさんも私も全裸になって蒲団にもぐりこむ。
「からだが冷えてるわ」
「ユリさんは温かいね。湯たんぽみたいだ」
 私は指で快楽の源に触れた。
「ああ、うれしい」
 ふるえはじめる。乳房に唇をつけて吸う。ふるえが極点にきて跳ねる。
「……ください」
 鍵と錠が合わさり、精巧な密着を求めて探り合う。ふるえ、痙攣し、さらに大きく跳ねる。中心点がうごめき、私のふるえを要求する。唇を求め、陰丘を打ちつける。舌を絡め合い、ふるえるからだを抱きしめ合う。この行為から、そこかしこの道を歩いている一人ひとりが生まれてきたとするなら、かくも原始的な行為を軽蔑して生きることは、人間の最も大きな怠惰かもしれない。
「セックスを知らなかったら、ぼくは人生のかなりの部分を失ってたろうね」
「それでも愛されてたでしょうけど、さびしかったでしょうね。世の中、セックスをしてほしいと思ってる女ばかりだから、それに応えられないことはさびしかったでしょう」
「スケベでよかった」
「……神無月さんはスケベじゃないのよ。女を喜ばせて、そのうえで自分も喜ぶということをスケベな男はしないの。女はどうでもいいから、自分の快楽だけを求めるものなのよ。神無月さんて、女から求められないのにセックスをしたことはないと思うわ。そして、求められないかぎり、一年でも二年でもする気にならないでしょう?」
「そうだね。たぶん一生」
「ね、ぜんぜんスケベじゃない。スケベな人は、求められても自分がしたくないときはしないのよ。神無月さん、求められてしなかったことある?」
「一度もない」
「相手のことを考えたセックスが好きなのね。かならず応えるのは、そういうことよ。……ほら、もう私の中で大きくなってきた。私が求めてるってわかるからよ」
 動きはじめる。
「すてき、すぐ感じさせてくれる……」
 膣の具合を確かめ、表情を見つめながら、ゆっくりと腰を動かす。放出したばかりの精液が過剰に性器を滑らせる。それでも抵抗力が強まってくる。亀頭がつかまれる。ユリさんの下半身が縮まり、突き上げるように跳ね、全身をふるわせながらふたたび腹を収縮させる。私は素早くピストンし、奥へ突き入れる。ユリさんは激しく達すると反射的に離れて、カズちゃんのように横臥して丸くなった。片手がシーツをつかもうとして空しく動く。
 ようやくシーツの端をつかんだ。尻を前後させて打ちふるえる。私は横たわり、尻を撫ぜた。その手をユリさんは後ろ手につかんだ。
         †
 一年生の手で整備が終わったあと、守備力診断のノック役を買って出た。レギュラーは石の長ベンチに坐って身を乗り出し、野次を飛ばすチャンスを虎視眈々と狙っている。室井は、一、二年生の新入部員を希望の守備位置につかせ、私をホームベース脇のノッカーの位置に立たせる。新人全員がトレパン姿だ。土は乾いていないけれども、障害になるほどの湿り気ではない。
 ファースト二人、セカンド三人、ショート二人、サード二人、ライト一人、センター三人、レフト二人。キャッチャーは二人いたが、室井を後ろに立たせてバックホームの捕球だけをさせることにする。相馬が到着して、バックネット前に立った。
 二人のサードから始め、ショート、セカンド、ファーストと移っていく。ハンブルエラー、送球ミス、弱肩。問題にならないほどへたくそだ。内野手で目立ったのは、ショートの強肩の一年生一人と、ファーストの一年生一人。先日、野球をやりたくて青高にきたと言った二人だった。
 外野手は豊作だった。六人すべてサマになっている。この六人のうち動きの敏捷なセンターとレフト一人ずつを、ショートとファースト以外の内野で鍛えるよう、室井に進言する。彼はその場で二人を、好きな守備位置へ移動させた。セカンドとサードのメンバーに加わった。最初にノックした内野九人のうち七人を補欠としてベンチに下げる。あらためてノックをする。しっくりいった。彼らがレギュラーの控えになる。
「よし、室井さん、残りの外野四人はあのままにして、控えはこれでいいでしょう。あとは、いま引っこめた七人も含めて打たせてみてください。キャッチャーはどうですか」
「二人とも、まあまあだ」
 三年の佐藤がゆるい球を五球ずつ投げて十八人の新人に打たせる。みな、そこそこ打てるが、やはり目立ってするどい打球を飛ばしていたのはショートの強肩一年生と、ファーストの一年生だった。
「彼らを代打要員にしましょう。みな適当に打てるので、守備を鍛えれば来年もなんとかなると思います」
「わがった」
 立つ鳥の責任を果たしたと感じた。
「へば、小笠原、おめのテストだ。神無月さ全力でいげ」
 小笠原がマウンドに走るのを見て、私はバッターボックスに立った。レギュラーが守備につく。新人の補欠六人を三人ずつファールグランドに、残りの九人をズラリと金網の外に立たせる。相馬はバックネットの後ろへ退避した。
「変化球はなし。とんでもなく外れたボールは打たないよ」
 私は小笠原に声をかけた。小笠原は室井を相手に五球ほど肩ならしをした。美しい投球フォームだ。百三十二、三から百三十五、六キロ。思ったよりスピードがある。しかし力感がない。
「じゃ、いこう!」
 一球目、腰のあたりの真ん中、高くセンターに打ち上げたホームラン。金網の外に控えなかった新入生たちの感嘆の声が上がる。二球目、外角の低目、ライナーで左中間の金網へ。三球目、内角低目、ライトへライナーの場外ホームラン。ふたたび感嘆の声。相馬を振り返ると強くうなずいている。四球目、外角へショートバウンド。五球目、キャッチャーの頭上へ暴投。六球目、外角高め、レフトの金網直撃。七球目、ど真ん中、ライト金網のはるか向こうへホームラン。ヒャーという喚声。八球目、真ん中低目、ファーストゴロ。バットの先だったので、手が痺れた。
「いまのボール、いいぞ!」
 相馬が声をかけた。室井も、
「いまのでこい!」
 九球目、真ん中低目、センターの守備位置へライナー。私は人差し指を立て、
「約束まであと一本だ。ぼくは七本振った。二本無効投球だから、今度が八本目。あと三球のうちもう一本打ち取ったら、ローテだ」
 十球目、内角膝もと、右中間に舞い上がるホームラン。新入生はドッと喚声を上げ、小笠原はうつむいてしまった。
「人間でねでば」
 というキャッチャー室井の呟きが聞こえた。
「あと二球あるぞ!」
 十一球目、高目の伸びのある球、キャッチャーフライ。マウンドで小笠原が飛び跳ねる。レギュラー決定だ。室井が怒鳴った。
「神無月くんはまんだ九球しか振ってね。もう一球、ちゃんと決めろ! 変化球でもいいど。もうどっちでも関係ねすけ。空振り取ってみろ!」
 テルヨシはうなずき、内角から曲がり落ちてボールになるカーブを投げてきた。曲がり鼻を叩いた。ライナーでぎりぎりライトの金網を越えた。
「よし、終わり! 新入生、いいもの見たべ。目に焼きつけとげ」
 相馬がホームベースに戻ってくる。小笠原がマウンドを駆け下りてきて、帽子をとった。
「あったらに遠くまで球がポンポン飛んでいぐの見たの、生まれで初めてだじゃ。おっかね。室井さん、これでレギュラーになれるんだべ」
 相馬が小笠原の肩を叩き、
「ほかの三人は、きみ以上に打たれると思うよ」
「おめは三人よりコントロールがいいし、スピードもある。コースまちがわねば、やたらに打たれね」
 室井は励まし、
「おーい、みんな集合!」
 レギュラー十三人を含めた総勢が集まった。
「いまがらレギュラーと控えの発表をする。去年相馬先生がおっしゃったのとだいたいおんなじだ。キャッチャーは三年のオラ室井(百六十七、八センチ、漫画の主人公イガグリくん)、控えは三年の川原と二年の大沢、ピッチャーは三年の佐藤(百七十五センチ、テレビドラマ若者たちの次男の橋本功)、沼宮内(百八十センチ弱、大洋ホエールズの島田源太郎)、三田(百七十センチ前後、橋幸夫)、二年の小笠原(私と同じくらいの背丈)の四人、ファーストは三年の木下(百八十センチ以上、骨肉種の伊藤正義に知性をつけた顔)、控え一年の梶田、セカンド三年の吉岡(百六十センチそこそこ、野中の奥山先生を痩せさせた顔)、控え二年の本部、サード三年の柴田(百七十三、四センチ、筋肉マン、野辺地のガマに似ている)、控え二年の新山、ショート一年の四方(だれの目にも際立った選手だ。百七十センチほど、高島台のさぶちゃん)、控え三年の七戸(彼は野球部一の美男子だ。百七十二、三センチ、日活のやんちゃガイ和田浩治)、レフト二年の神無月、控え三年の島尾(もう一人いた生田という三年生の控えは知らないうちに退部していた)、センター三年の山内(百七十六、七センチ、タンク型のベン・ケーシー)、控えいまのところなし、ライト三年の金(百八十センチくらい、出っ歯でない小山田さん)、控え一年の所沢、以上。ほかの全員は補欠としてレギュラー昇格を目指してがんばってけろ。今年の秋から三年十名が抜げるから、おめんどがら昇格者が何名か出る。努力を怠らねように」


         九十六

 相馬が進み出て、
「レギュラーの守備練習! 一人五本ずついく。ピッチャー四名はブルペンで投球練習。一週間ほどは肩に力を入れないように」
 慣れたふうに相馬がノックを始める。ユニフォーム連中が生きいきとボールを扱う。ライン沿いに並んだ新人たちが目を瞠る。私も少し驚いた。去年の連中よりボールさばきがいいのだ。一人だけトレパンを穿いたショートの四方が群を抜いている。外野は? センター山内のボール落下点までの足が速い。ライトの金はピッチャーをさせてもいいほど肩がいい。どうしたことだ。何かが変わった。ふと、優勝できるかもしれないと思った。
 控え選手の守備練習になった。四人のピッチャーに順繰り投げさせ、レギュラーがアットランダムにシートバッティングをしていく。私はホームランを打たないようダウンスイングを心がけた。金と室井と柴田の打球がいい。そのほかの連中もジャストミートを心がけ、するどいライナーを飛ばしている。控えの守備は一段劣った。それでも目を覆うほどではない。
「グランド五周!」
 全員ドスドス走る。金網沿いに走っているとき、カズちゃんの姿を見つけた。私はまじめな顔で手を振る。笑いながら振り返してきた。レギュラー陣は彼女の顔を見慣れているので驚かない。室井がなぜかお辞儀をした。新人たちが私と見比べて好奇心に満ちた表情になった。カズちゃんはすぐに引き返していった。
「ベーラン三周、全力疾走!」
 レギュラーから始めて全員やる。グランド五周のあとだったので、あごが上がった。
「解散!」
 新人たちが後片づけをしているあいだ、相馬がレギュラーを呼び集めてひとこと話す。
「今年のチーム力はまちがいなく去年を上回っている。打撃は去年とどっこいだが、守備力が桁ちがいだ。練習試合の初戦からかなり注目を受けることになるよ。トーナメントでは、優勝候補の筆頭に目されるはずだ。それでも実際に優勝となると、運も関わってくるので一筋縄ではいかない。しかし目標は優勝だ。がんばろう!」
「オー!」
 白い校舎へ帰っていこうとする相馬を呼び止めた。
「先生、訊きたいことがあるんですが、ご存知ならば教えてください」
「何だ、私の知ってることならもちろん教えるよ」
「ドラフト指名を受けないようにすることはできますか」
 知識の確認のために訊いてみる。
「できるよ。今年、来年と、十月までにプロ入団志望届を出さなければ、ドラフトにはかからない。大学へいったら、大学野球に属しているあいだはプロ志望届を出さないからドラフト指名はない。野球部を退部したとたんに、プロ志望届を出してなくてもプロ球団は入団交渉をできる。ドラフト指名ができないだけだ」
「それでいいんですか!」
「いいんだ」
「神無月の場合は、高校中退で、あるいは高卒でプロへはいけないひどく特殊な環境なわけだから仕方がない。そうするしかない。希望の球団にいきたい場合、ドラフトは面倒だよ。希望球団が外れ籤を引いた場合、別球団への入団を拒否して、希望球団とドラフト外交渉をすればいいんだけど、拒否された球団の心証は悪くなる。トレードの場合なんか、絶対撥ねつけるだろうね。どうでもいいことだけどね」
「わかりました! ありがとうございました」
「しかし、中日がドラフト外交渉をしてこなかったらどうするんだ。……気の毒なほど面倒な先行きになるよ。翌年のドラフトまで身動きがとれないんだから。で、翌年も籤に外れたら……。野球もせずに、年だけ食っていくことになる」
「かならず交渉してきます。ラブコールを送りつづけますから。気がラクになりました。がんばって東大に受かります」
「ハハハ、つらい話をしてるのに、神無月と話してると明るい気分になるから不思議だ。じゃ、今年もがんばってくれよ。優勝だ!」
「はい!」
 すでに新人たちは引き揚げている。部室の壁にぐるりと三十余りの新しいロッカーが入っている。ロッカーの中にはハンガーまで掛かっている。壁の半ばまでユニフォームカラーであるライトブルーのペンキが塗られ、その上半分には落ち着いた焦げ茶のペンキが塗ってあった。小笠原が、
「神無月、青高の練習はこの程度が」
「ああ、ベーランが一周多くなったくらいだ」
「春休みの練習より軽いど。んにゃ、中学校より軽い」
「青高は受験校だからな。勉強をやりながらだと、そのうちちゃんとつらくなってくる」
「しかし、神無月にあこがれで、もっと野球経験者が入部してくると思ったけんど、二人とは泣けるべ」
 強肩の金が言うと、沼宮内が、
「去年をマグレと思われたんだべせ。今年ケッパレば、来年はちがってくる」
「神無月以上の選手が、やっぱし全国にはいるんだべが」
 四方のせいで控えに回された七戸が言う。室井が、
「いねと思う。バットがどごから出てくるかわがらね。おっかね」
 吉岡がグローブをロッカーの上の段にしまいながら、
「今年は新聞が神無月を追っかげで、うるせこどになるべおん」
「オラんどが打だねば、神無月ふとりさ負担がかがる。ふがいねやつらだって、それこそうるさぐ騒がれるべ」
 柴田が言うと、山内が、
「オラんどが活躍しねくても、神無月は百人力だじゃ。今年も三冠王は確実だべ。やっぱり騒がれる」
 笑い声が上がる。室井が、
「一回戦負けだけはしねようにしねば、な」
「それはねべ!」
 何人か声を合わせた。私は言った。
「打撃や守備より、投手陣だと思う。フォアボールや長打が命取りになる。コントロールをつけて、五点以内に抑えるようなピッチングをすれば、たぶんベストフォーまではいけるんじゃないかな。一回戦を突破したら、あとは順調だと思うよ」
 みんなの顔が輝いた。
「神無月がしゃべると、引き締まるな」
「おお、さすがだじゃ」
 軽かったとはいえ、初日の練習はさすがに疲れた。たった一人、食堂で七時過ぎのめしを食う。ユリさんが味噌汁を盛りながら、
「今年の夏は応援にいきます。神無月さんのユニフォーム姿、見たことないから」
「きなよ。しばらく練習試合だけど、夏になる前に、青高グランドで二試合ぐらい観られるよ。スタンドがないから立ち見だけど」
「いきます。あしたの昼、夫が帰ってくるんです。……今夜も抱いてもらえます?」
「いいよ。ちょっと疲れてるから、上になってしてね」
「はい!」
 めしをすますと、部屋に戻り、十時ごろまで予習をした。一度山口がコーヒーを差し入れた。
「野球、順調か?」
「いい滑り出しだ。メンバーの質が上がった。今年は優勝があるかもしれない」
「ドラフトにかかったら、うるさいことになる。だいじょうぶだろうな」
「かからない。きょう、相馬先生からしっかり聞いた」
 きょうの話の内容を伝える。
「そうだったのか!」
「大きな希望が出てきた。綱渡りだけどその可能性にかけるよ」
「しかし、おふくろさんさえ承諾すれば高校からプロにいけるのに、七面倒くさい人生だな。返すがえすも腹が立つ。人生の妨害者と妥協してコトに挑戦するというのが、おまえの性向なんだから仕方がないけどさ。俺が四の五の言って解決できることじゃない。しかし、振り回されてるおまえを見てると、腹が立ってな」
         †
 十一時に離れにいった。すぐに熱い風呂に入って汗を流した。脚を伸ばせない狭い浴槽だった。ユリさんが入ってきて、頭の先から足指のあいだまで洗った。
「足の爪まできれいにできてる。貝殻みたい。……美しくて、スポーツができて、勉強もできて、オチンチンも立派で、何がつらくて首なんか吊ったのかしら」
 彼女はここまでの経緯を知らない。教えても信じない。
「それがわかれば、ぼくもスッキリする」
「自分のことよ。ほんとに神無月さんという人は―」
「……幸せすぎる命をいじくってみたかったのかもしれない。傲慢だね」
「あ、嘘言った。幸せすぎる、というところだけは取って」
 人間は肉体を幾度か交わせば、少しずつ理解し合えるようになる。少なくとも嘘がわかるのだ。その仕組みはハッキリしないけれども、すばらしい進化だ。狭い湯船に抱き合って浸かる。
「二人用の棺桶みたいだね」
「うふふ、汗かいて死にたくない」
 脱衣場に出て、タオルで私の全身を丁寧に拭く。亀頭を含みながら私の脚を開かせて、尻のあいだの水気を取る。
 ユリさんが全裸で台所に立ってインスタントコーヒーをいれる。皿に鬼饅頭を盛る。居間へいき、向かい合って炬燵にあたる。蛍光灯が明るい。初めて胸を見た感じがした。少し小ぶりだがいい形だ。私はもちもちする鬼饅頭を齧り、コーヒーをすすった。
「その胸、五十近くに見えないな。張り切ってる」
「子供を産んでないからよ。これでも少し垂れたの」
「……ご主人は、有名になりたがってる人だよね。そういう人が有名になれないと、どんなふうになるの。とにかく性欲はなくなるんだよね」
 ユリさんは暗くうつむき、ぽつりと言った。
「あそこと同じように人間が縮んじゃうの」
「縮む?」
「自分の大きさを有名人と比べてばかりいるうちに、ふつうの人より小さくなっちゃうの。むかしはもっとゆったり構えた大きな人だったのに、いつのまにか嫉妬まみれの人になっちゃった。神無月さんのことが書いてある新聞も読もうとしない。直木賞や芥川賞が発表されると、一応読むんだけど、かならず、こんなものが賞を獲るなんて嘆かわしい世の中になったもんだ、って言うの。そのくせ、毎日こつこつ小説を書いて、これほどの傑作を世の中は認めないんだからなあって嘆くのよ。投稿したらって言うと、選考委員の目なんて節穴だって言い返すし、じゃ出版社に持っていけばいいじゃないって言うと、出版社は傑作が嫌いだ、傑作は大衆受けしないから商売にならないと思ってやがるって。ああ言えばこう言う」
「そして、今回、とうとう、腰を上げて―」
「だといいけど。出版社なんかいかずに、友だちのところへいってるかも。大出世してる人ばかりだから、かえってみじめになるのに」
「ご主人は東京の大学へいったんですか」
「一橋なのよ。私とは八王子の喫茶店で知り合ったの。私、店員してて、よく話しかけてきたの。一度、文学界という雑誌の新人賞候補になったことがあって、それで天下取ったような気になっちゃって。石原慎太郎も一橋だが、あいつ程度のものならいつでも書けるって言いだして。私、中卒だから、とんでもなく大きな人に見えてね」
 一歩まちがえば自分もそんな人間になりそうな気がした。葛西さんの主人にオールスター戦を観るように誘われたとき、その気にならなかったことを思い出した。スター選手に対する嫉妬がまちがいなくあった。
「参考になる話だな。長生きすると自然発生する問題だ。これから長生きするときの自戒にしよう」
「神無月さんには何の参考にもならないわよ。神無月さんも幸せそうじゃないけど、それはそういう世間的欲望が満たされないからじゃなく、世間的欲望を持てないことに悩んでるからみたいだもの」
 ユリさんは新しい下着を箪笥から出した。私はその下着をつけずに、立っていって並びかけるように炬燵に入った。ユリさんの股間をいじる。ユリさんが全裸のままなのにはこういう理由しかない。敏感なところは触らずに、膣口に指を出し入れする。ユリさんは自然とあぐらのように脚を拡げる。やがて尻をグイと引き、畳に手を突いて下腹と肩をふるわせる。私は約束どおりユリさんを腹に乗せ、じゅうぶんな回数の満足を確かめてから強く射精した。尻を抱きかかえ、一滴余さず吐き出す。ユリさんは飛び離れて平たくなり、呼吸を止めた。からだを折り畳んだり伸ばしたりしながら、両手を握ったり開いたりしている。声も出さない。顔が青黒くなってきた。肩を揺すった。笛のような音を立てて息を吸いこみ、仰向けに返った胸が烈しく上下しながら空気を求めた。一瞬意識を失っていたようだ。私は添い寝して胸をさすりながら、呼吸が正常に戻るのを待った。彼女は目をつぶりながら何度も礼を言った。
 シャワーを浴び、ユリさんの用意した下着ではなく、自分の汗に沁みた下着をつけた。服を着て玄関へ出ようとすると、横たわったままのユリさんが廊下に向かって、
「……神無月さん、ありがとうございました。……お休みなさい」
「少し英語を見てからね。あ、それから、あしたからぼくと山口の弁当を作って。夏休みの前まで、なるべく豪華なやつをお願い。三万円、キッチンテーブルに置いておくね」
 ズボンのポケットから出す。
「いりません」
「取っておいて。ウィンナと玉子焼をかならず入れてね」
「わかりました。腕を揮いますね」
「朝めしを食ったあと、山口と毎朝いっしょに出かけるから、そのとき渡して」
「はい。夫が帰ってきたら、またしばらくお部屋にいけない。さびしくなりますけど、がまんします」
 蒲団に戻ってキスをした。病人の見舞いのように感じた。
 部屋に戻ると、汗に湿った下着を脱いでビニール袋に入れた。土曜日ごとにカズちゃんのところに持っていく袋だ。ばっちゃの送ってよこした新しい下着を穿き、蒲団に入って、サブリーダーを広げる。十分もしないうちに眠くなった。



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