百三

 時間がきて、二人の老人に暇乞いをした。
「また遊びにきたぐなったらくればいんだ」
「はい」
 ミヨちゃんはもうここにこないだろう。くる理由がない。一度訪ねればじゅうぶんな場所だ。カズちゃんはこの土地に、働きながら三カ月もいた。理由があったからだ。
「じゃ、また、夏にくる」
「精進して勉強もやるんで」
「うん」
「ジェンコ足りなぐなったら、ハガキよごせ」
「だいじょうぶ、おふくろの送金で足りてる」
 いつも同じ返事をする。
 玄関戸のところに立って、ばっちゃが見送った。ミヨちゃんが振り返って、二度、三度と頭を下げた。 
「いい人たちですね。でも……」
「でも?」
「ものを考える人間は、こういう町に長くは暮らせないと奥山先生は言いました。冒険できないということですよね。冒険というのは、きっと〈考える〉ということで、考えるということは、安楽な生活を拒否するということなんだと思います」
「拒否するほどの気持ちはないけど、なんとなく不安になる。こういうふうに人間関係の定まった、みんなに将来を期待されるような土地にいたら、ぼくの生活は一つの方向に進むばかりで、そのうえ忙しくて、変化に満ちた経験ができないよね。その土地相応の出世はするかもしれない。でも出世の一本道とは関係のない脇道で経験を拡げていきたいんだ。その中で、たまたま人に引き上げられたらそれに応えればいいし、引き上げられなければそれでもいい。成功だけを目指す一本道にいたら、楽しい寄り道ができない」
 ミヨちゃんはうなずき、
「田舎の人たちには、いいえ、ふつうの人たちにはわからない考え方です。神無月さんの言う、経験を拡大させてくれそうな脇道は、出世の一本道に成功の気配が見えたとたんに目に入らなくなってしまいます。一本道にいるところを目撃されてしまうと、どうしてもその道を進んでるところを人に見せなければいけなくなるし、脇道に入るには自分を隠すしか……」
 私は笑い、
「そう。世間の人に取り沙汰されないように隠れて入りこむ脇道こそ、拡大する経験そのものだよ。それは田舎や都会といった〈場所〉には関係しない。恋愛とか、読書とか、趣味などの〈精神世界〉だからね。脇道のないスポーツや芸能や学問の一本道を進めば、人生は忙しくならない。でも、ぼくは一応進んでみる。脇道で道草をしながら、成功を目指さないで、大勢の人が進む一本道を進む。そして、脇道で少数の奇妙な人たちに会って経験を拡大させる」
「私も、その一人ですか」
「もちろん、脇道の変人。上昇志向という行動自体平凡なものだから、成功しようとする人の中には奇妙な人間はなかなか見つからない」
「ほんとに変わった考え方」
 郵便局の前で立って待つ。
「右へ車で真っすぐいけば馬門温泉、その先が青森市。堤橋に出る」
「あ、ミースケが吊るされたスグリの垣根を見るのを忘れました」
「ハハハ、ふつうの生垣だよ」
 奥山先生が手を振って近づいてきた。
「さ、いぐか。八時くれの汽車さ乗れば、家には九時半には着くべ。そう電話しといた。ひさしぶりに義姉さんや旦那さんと電話で長話した。しきりに謝ってたけど、不義理はおたがいさまだ。義姉さんは神無月くんが名古屋さいくのをひどく残念がってたが、旦那さんは、神無月くんのためにはいいことだと言ってた」
 うさぎやを右に、廃屋の味噌蔵を正面に見て左折しようとする。
「ちょっと待って。ボッケのところで、葛西さんへのお土産を買っていきます。ミヨちゃん、あの店は知り合いだから話が長くなる。ひよこ饅頭一つ買ってきて」
「はい」
 千円札を渡した。
         †
 国道を十分ほど道なりに歩いて、若葉小学校の校舎沿いの道に出る。あのころポツンとあった奥山先生の家の周囲に数十軒の住宅が建ち並んでいた。
「開けましたね」
「たった二年間でね。夜回りとが、草取りとが、町内会の義務が増えた。娘も小学生になったすけ、人付き合いに慣れさせるには役立つけんどな」
 玄関に奥さんと小学一年生の女の子が出迎えた。
「いらっしゃいませ」
「シズカ叔母さん、おひさしぶりです」
「ミヨちゃん! きれいになって。驚いたわ」
「おかあさんが、長いこと連絡もしなくてすみませんて」
「おたがいさまよ。きょうはせいぜいゆっくりしてって」
 小学生がミヨちゃんの手を握り、
「ミヨちゃん、いらっしゃい」
「あらあ……ええと」
「シズル。静かな流れ」
「へえ、いい名前ねえ。……なんだか、顔、私に似てるわ」
 女房が、
「ほんとね。美人でよかった」
「叔母さんも美人よ。うちのおかあさんより」
「オラは、小熊みてだけんどな」
 奥山が言うと、笑いながらもだれも否定しなかった。式台を上がって、明るい八畳の居間に、すでに鍋の材料が用意されていた。あのときと同じだった。白菜やシラタキやシイタケを盛った皿に並べて、茹でた豚コマがどっさり盛ってある。
「種畜場の奥さんが新鮮な豚肉を届けてくれたんですよ」
 ヒデさんの顔が浮かんだ。ミヨちゃんも、ヒデさんを思い出したような遠い表情をした。私は鍋が始まる前に便所を借りた。いつもの下痢便だった。
 鍋が始まる。女房が、
「神無月さん、映画の役者さんみたいにきれいになって。あのころもきれいでしたけど、一段と」
 下痢を吐き出して腹が空になったせいで、めしがどんどん入った。隣に坐った小学生までよく食べる。
「しかし、似合いだな。四つちがいか」
「また叔父さん、やめて。神無月さんに失礼よ。神無月さんには、これから先いろいろ厄介なことが待ち構えてるの。余計なことなんか考えてられないわ」
「余計なことがな。大事なことだと思うけんどな。ま、いがべ。じっくり、じっくり。しかしうまい豚肉だな」
 私は煮える鍋を見つめていた。シャーという耳鳴りがし、とつぜん、首吊りの森のさびしい光景が押し寄せてきた。奥山先生が女房に、
「神無月くんはね、知ってのとおり十五歳で野中に送られてきたんだども、女にかまけて母親の逆鱗に触れたという触れこみだったんだ。あとで、名古屋の担任教師に問い合わせたら、半年も経って入試も終わったころに、いまさらどう詮もないが、早まったことをした、どうか本人の心を乱さないように内密にしてほしい、じつは―などと体裁つけたくだらない懺悔状みたいな手紙をもらった。神無月が女といっしょに逃亡しようとする現場を彼が見つけて掣肘したが逃げられ、翌日逃亡先から脱出してきた女の讒訴(ざんそ)を真に受けて、母親と図って転校させてしまった、じつは神無月は好きでもないその女に勝手に追いかけられ、ほだされた結果逃亡する破目になったってね。……いまもって、神無月くんはひとこともそんなことを言わない」
 急に標準語になった。浅野は節子の虚偽の訴えをいつ知ったのだろう? ことのあと先を考えてそう直観したのだろうか。それともあのアパートに康男を訪ねていって逃避行の経緯を問い詰めたのだろうか。いずれにせよ、好きでもないというのは、正しい表現ではなかった。説明が面倒だったけれども、節子の名誉のために私は言った。
「先生、その説明は正しくありません。ぼくはその女に夢中だった時期があります。それから、ぼくの島流しは、彼女の件以前から、ぼくの夜遊びに腹を立てていた母が決めたことです」
 奥山先生が涙を浮かべた。
「夜遊びじゃない。きみは親友の見舞いを何カ月もつづけたそうじゃないか。担任の先生の手紙にそのことも書いてあった。夜遅く帰ったのも、そりゃ、別の理由も一度や二度はあったかもしれないが、九十九パーセント親友のためだ。きみはね、どうしてそういう人格になったかわからないが、あまりにも度量が広い。悲しいくらいにね。男のくせに、まるで慈母観音だ。……悪く言えば、一人だけを愛さないということにもなるんだろうが、きみに受け入れられる人はじゅうぶん救われてるんだよ。そういうことがわからない人間は、きみを愛さない」
 ポケットからハンカチを出して、目を拭いながらつづける。
「私たちのような平凡な人間は、よからぬ欲を持ってしまう。きみにこんな仕打ちをした人たちに、野球でもいい、学問でもいいから、仕返しをしてほしいとね。こんなすぐれた人間をあんたたちは追放したんだとね。きみはただ笑うだけだろう。……これきり、きみには会えないかもしれない。そんな気がするんだよ。いつもそう感じてきた。だから、せめてきみに会っているあいだだけは、きみといっしょにいられる幸福を味わいたいんだ」
 ミヨちゃんが奥山先生につられて涙を流した。女房と子供は神妙な顔をしていた。女房がミヨちゃんに言った。
「お母さんも、お父さんも、神無月くんのこと、気に入ってたでしょう」
「はい。おかあさんは、一生忘れない、神無月さんが遠くへいっても、ときどき訪ねていきたいって言ってます。私もそうします」
 小学生がキョロキョロみんなの顔を見ていた。
 コーヒーになった。耳鳴りが小さくなった。自転車屋の階段を上っていった父の太いズボンが浮かんだ。彼も私のようなことを身の周りの人たちに言われながら暮らしたのだろうか。そして、否定するのも面倒になり、ただ薄っすらと笑っていたのだろうか。あのサトコという女の笑顔の安らかさは尋常でなかった。父と子は同じことをする。たぶん父も褒められながら、私と同じような気持ちで、居心地悪く生きたのだろう。
 八時半を回って、一家がタクシーで野辺地駅まで送ってきた。女の子は、私の膝にわざわざ坐って、うれしそうに私の顔を見上げていた。
「神無月くんの魅力は、年齢不問だな」
 奥山先生が苦笑した。女房が言った。
「神無月さんのような人は、他人を幸せにできるかもしれませんけど、本人はかならずしも幸せじゃないんでしょうね」
「神無月くんには自分の未来が見えてるんだべ。その未来を少しでも他人のために役立てる方法はないもんかと苦しんでるんだ。だども、世の中はあまりにも複雑だ。自分が何かをすれば、だれかが助かるかもしれねけんど、それで迷惑をこうむる人も出てくるかもしれね。みんな公平に神無月くんの心持ちで幸せになれるっていう保証はねべ。だすけ神無月くんは、いっつも一人で、何をしたらいいが悩んでんだ」
 もし私がほんとにそういう人間なら、それはすばらしい説明だった。私はミヨちゃんと顔を見合わせ、腰を上げた。
「おいしい夕食、ごちそうさまでした。そろそろ帰ります。先生、いつも心にかけていただいてありがとうございます。先生を失望させないよう、一本道で一生懸命がんばります」
「ああ、いつも見守ってるよ」
 女房が、
「……ミヨ子、お母さんお父さんによろしくね。神無月さん、これきりじゃなく、また遊びにきてくださいね」
「はい」
 約束するのは心もとなかった。
「神無月くん、夏のトーナメント、学校が休みに入ったらかならず観にいくからな」
「はい、全力でがんばります」
 がんばります、がんばります、きみはいつもがんばりますだな……西沢の微苦笑が浮かんだ。
 彼らはホームまで見送りにきた。女の子がいちばんしきりに手を振った。ミヨちゃんは心から満足していた。
「ミヨちゃん、うれしそうだね」
「はい、とってもうれしい。神無月さんのようなめずらしい人をわかってくれる人たちに出会えてよかった」
「めずらしい?」
「わかる人にはわかる、わからない人にはわからない、そういう人はたくさんいます。わかるのではなくて、みんなが感じるという人は、とってもめずらしい。私、あしたからがんばって勉強します、がんばって本を読み、がんばって音楽を聴きます、がんばってスポーツをします、神無月さんのしてきたことをぜんぶします。神無月さんを感じるだけでなくて、少しでもわかりたいから」


         百四

 青森駅を出ると、傘のいらない霧雨になった。顔を濡らしながら花園へ帰ると、奥さんだけが起きていた。
「お帰りなさい。楽しかった?」
「とっても。松ノ木平にはいけなかったけど、神無月さんのお祖母さんと、町の半分ぐらい歩いたわ。山や海がきれいだった。お祖父さんともお話した。いい人たち。マコト叔父さんがすごく頭のいい、言葉のじょうずな人でうれしかった。神無月さんのこと、一から十までわかってるの」
「いくら頭よくても、それは無理ね。神無月さんにかぎらず、人のことぜんぶはわからないわ。わかるのは、これまで何をしてきたか、いま何をしてるかだけ。どうしてそれをしてきたのか、どうしてそれをするのかはわからない」
「それ、私、汽車の中で神無月さんに言ったわ。わからない人だけど、みんな感じてるって」
「そうよ、やさしさを感じるだけ」
 インスタントコーヒーとショートケーキをご馳走になる。
「シズカ、元気だった?」
「うん、シズルちゃんも。神無月さんが好きになっちゃったみたい。叔父さんが、神無月くんは年齢不問だって」
「わかる、わかる。少女から老婆まで」
 私は笑いながらカップを受け皿に戻し、立ち上がった。
「あしたは一日ゆっくりして、あさってから練習です。また、ときどきおじゃまします」
「ええ、また、ときどきこちらからも連絡して伺います。夏の終わりまで何ほどもありませんから」
 ミヨちゃんも立ち上がり、
「またお会いしましょうね、神無月さん。きょうはほんとに楽しかった」
 二人で玄関に出て見送った。私は傘を振って別れを告げ、土手道を目指した。
 灯りのない土手を歩く。暗く光る川がすれちがっていく。暗い森の誘惑がふたたび押し寄せる。カズちゃんの顔、山口の顔、ミヨちゃんの顔が、その信用のおけない気分を押し返す。あしたは山口といっしょにカズちゃんの家にいって、誕生日の食事をすることになっている。私の十七歳が、私や彼らにとって何を意味するのかわからない。祝うほどの意味もわからない。十七年生きてきたというだけのものだ。
 ―拡大鏡で見つめられる人生。
 康男の覚醒の早さに驚嘆する。ガキの遊び。彼はあの若さでそれをきちんと軽蔑していた。私は、勉強や杜撰な読書の道草を食いながら、野球しかしてこなかった。それだけの男の正体を彼らはなぜ見抜けないのか。私のてらいのせいだ。静けさを気取り、天真を気取り、勉強家を気取り、経験の豊かさを気取り、急がずあわてずの人生を気取るてらいのせいだ。死なないかぎり、このてらいは治らない。
 十一時をかなり過ぎていた。カズちゃんの家に寄る。黒のハイネックのセーターを着たカズちゃんが玄関に出迎えた。胸のふくらみが目立った。
 コーヒーを飲みながら、ミヨちゃんと野辺地にいってきたことを語った。
「じっちゃばっちゃに、名古屋へいくことを言えなかった。転校の日程が決まってから、今度野辺地にいったときに言う」
「仕方ないわ。ぜったい説明できないし……がっかりさせたくないもの」
「帰ってこいと言われたことを素直に言う。ぼくのことはどう思われてもいい」
「……そうね、それしかないわね」
 美しい胸に抱かれて湯船に浸かる。黒い森が浮かんだら、この乳房を思い出そう。そのためには、いつも彼女のそばで暮らしていなければいけない。
「十七歳ね。もうすっかり大人。怖いほどの美男子になったわ。このきれいな顔とからだがいつか死ぬのかと思うと、悲しい」
 私を強く抱きしめる。
 二人、パジャマ姿でチキンラーメンを食べた。玉子を載せた黄土色のラーメンは、食べても食べても減らなかった。
「おかずになるくらいしょっぱいわ。伸びすぎ」
 笑い合う。少し覗く八重歯が愛らしい。二人とも半分を食べ切れなかった。
「来年から、誕生日なんて行事はやめにしよう。カズちゃんの誕生日だって祝ったことないんだし。ゆっくりデートしたいな。それとも、ゆっくり二人で、部屋ですごすのもいい」
「だめ。かならずお祝いするわ。私のは祝わない。成長していく人だけ。七五三にしても成長していく人のお祝いよ。年とっていく人は、よほどの長寿でないと祝えない。だからキョウちゃんの誕生日も三十歳まで」
 誕生日の意味がわかった。
「……カズちゃん」
「ん?」
「唐突だけど、権力って、何だろうね」
 カズちゃんは私を社会へ連れ帰ってくれるアリアドネの糸だ。
「……政治的な野心が捕まえたものね。もともと能力のある人には要らないものだし、能力があること自体、人間としての支配的な力だから、権力なんかほしがりもしないわ。そういう、ふつうの人間にはない能力を持ってる人を怖がったり、不愉快に思ったりする心が、どうにか捕まえて一息ついたものが、みんなが言う権力。だから、根本的に人をいじめる劣等感がないと権力者になれない。言葉や能力を支配してね。能力のある人は、権力者にいじめられるから、うまく避けないとたいへん。才能と権力と二つの力を兼ね備えているような人は一人もいないんじゃないかしら。権力の中でも、特に国家権力に近づくのって魅力よね。才能ある人がそれに近づくと、本物の政治家になるでしょうけど、まずあり得ないわね。いまもむかしも、政治なんて言っても、その正体は一握りの政治屋と役人の談合から出てきた決定事項にすぎないし、選挙やマスコミの風向きでどうにでも変わってしまうものでしょう。キョウちゃんがそんなものにぜんぜん関心を示さないのは、そんなものをくだらないと見抜く天性の才能があるからよ。ふつうの人は気になってしょうがないから、知恵や知識を身につけようとするの。テレビやラジオでしゃべってることはぜんぶそれ」
「まるで、山口の話を聞いてるみたいだ。人は自分の外に目を向けてよく考えれば、そういうことがしゃべれるようになるんだね。それこそすごい能力だ。寄ってたかってぼくのような無能者のことをほめるのは、やっぱり異常だよ」
「愛しい人ね。どうしても自分をイラナイ存在にしたいんだから。私みたいなのは能力って言わないの。知恵っていうの。知識とも言うわ。もう、キョウちゃんを褒めないわよ。どんどん自分を疑いはじめるから」
「知恵か知識か知らないけど、それをもとにそうやって言葉を構築できる。その構築は独特だ。そこらへんに転がってる知恵や知識を拾い集めたものじゃない。ぼくは何の構築もできないから、何もしゃべれない。五歳の頭と同じだ」
 カズちゃんはにっこり笑い、
「言っておくわね、キョウちゃん。私は五歳児以外、愛せないの。知恵のある人にからだを預けようと思わないの。これからも、五歳語で話してね。キョウちゃんの五歳語って、すごく深くて、難しくて、理解するのにふうふう言っちゃう。それも私の愛のもとね」
「バカでいいの?」
「はいはい、いいの。人も羨むおバカさんは、嫉妬深い人の中に出ちゃダメよ。実際キョウちゃんは、世間以外の場所で知恵ある人と競争すると、かならず勝ち抜いちゃうし、背中を触れないほど引き離しちゃう。知識のある人の土俵は世間の中の舞台だから、そこに上らないようにすればいいだけよ」
「舞台って?」
「会社みたいな利益集団のことね。生活の糧を稼ぐ場所。キョウちゃんは上がれないわ」
「―片輪者を愛しちゃったね」
「舞台に上れない人をね。キョウちゃんを世間に出すなら、せめて、キョウちゃんの才能を活かせる閉鎖された奇妙な社会へ送りこみたいわ。プロ野球や、芸術の世界へ。そこには知恵も知識もない人ばかりいて、きっとすごしやすいでしょう。……でも、そういう世界は、どこか作りもののにおいがする。だから、伝説が生まれるの。私のいちばんの希望は、キョウちゃんがどこの世界にもいかないで、世間の中で、もちろん権力争いの土俵の外でフラフラしてること。羨まれながら、意地悪されながらね。キョウちゃんを世間の人に見せてあげたいし、いじめられて悩むことで、キョウちゃんの人間観察の力が増すから。……人間て、世間の人のことなのよ」
「じっちゃが、桜狩をするみてに生きればいい、って言ったことがある。康男のお兄さんは、引込線とも言った」
「それよ、理想の生き方は。世間の中で遊んでたり、こっそり覗きこんでたりするの。キョウちゃんが大将さんに魅かれたのはそのせいね。隠遁はだめ。それは負けず嫌いの別の形で、平凡なものだわ。大将さんのお兄さんにはもうお目にかかったから、いつか、お祖父さんに会ってみたいな」
 カズちゃんは、今夜は帰るようにと勧めた。山口さんが朝いちばんでキョウちゃんを起こしにくるから、と言う。
「朝、山口とくるよ」
「ええ、待ってるわ。山口さんは、きっと世間の舞台に上る人なのに、キョウちゃんを尊敬して羨まない数少ない人だわ。サンショウウオみたいにめずらしい人。大切にしなくちゃね」
 カズちゃんは健児荘まで送ってきた。そしてそっと手を握って帰った。
         †
「起きろ! 五月五日だぞ」
 山口が戸を開けた瞬間、目覚めた。七時半。六時間ぐらいしか寝ていなかったが、気分は爽快だった。
「まだ少し早いとも思ったけどな―」
 二人でカズちゃんの家に向かった。ポカポカ陽気ではないが、快晴。
 居間のテーブルに、レタスに盛られた海老のチリソースが載った。オムライス、生野菜サラダ、中華スープ。山口が、
「豪華な朝めしだなあ。北村席を思い出しちゃうよ」
「おトキさんから、連絡あるの?」
 カズちゃんが尋いた。
「いや、俺のほうから一度ハガキ出したら、いつまでも待ってますって、封書の返事がきました。俺、彼女に操守ってるんですよ。もう港にいかなくなりました。夏に転校が決まったら会いにいきます。―欠員が戸山高校に二名ありました」
「そう! よかったわね。がんばってよ」
「はい、かならず受かります」
 山口は北村席と同じようにモリモリ食べる。私と同様、カズちゃんの料理と舌の相性がいいのだ。
「キョウちゃんもトモヨさんに?」
「ぼくは手紙書いてないなあ」
「だいじょうぶ、だれも期待してないから。ね、私、浅虫温泉ていったことないの。ひとっ風呂浴びてこない?」
「いいなあ、東北の熱海、青森の奥座敷。いこうぜ、神無月、鋭気を養ってこよう」
「うん、いこう。汽車に乗ってしまえば三十分もかからない。あしたから、練習と勉強の日々だ。今夜あたりからバットを振ろう」
 喉もとまで満腹になり、コーヒーで腹を落ち着かせる。
「和子さん、幼稚園にはもう話したの」
「ええ、七月の二十三日で辞めると言ったわ。なるべく代わりのメンバーを探してあげなくちゃいけないけど」
 みんなで出発する。カズちゃんは上下白のパンタロン、私たちはワイシャツと学生ズボンに下駄だった。
「カズちゃん、このお金使ってしまおう。なかなか減らないんだ」
 尻のポケットから封筒を出して渡す。
「使いましょう。きょう帰ったら、ちゃんと補充してあげる。名古屋にいってから、当分物入りになると思うから」
 腹ごなしに堤橋まで歩く。
「ああ、背の高いユリノキが立ってる。いい並木だなあ。庭や道端の花もいいけど、路上の木もいいなあ。視線が上を向く」
「皇太子の結婚を記念して、昭和三十五年に植えられた並木だそうだ。いずれ二十メートルにもなるらしいぞ」
「ユリノキの花はてっぺんのほうで咲くから目立たない。葉っぱの形が半纏(はんてん)に似てて変わってるんだ。ハンテンボクとも言うのはそのせいだね。秋の黄葉がきれいだよ」
「おまえの知ってることは変わったことばかりだけど、ほんとにホッとするなあ。友情より愛情を感じてしまうぜ」
「女の私は愛情だけ。キョウちゃんがしゃべりはじめると、何をしゃべるんだろうってドキドキしちゃうのよね」
 ついでに駅まで歩いてしまい、汽車を選ばず、上りに乗る。浅虫には鈍行も急行も停まるので散歩気分でいける。たまたまホームに停まっていたのは鈍行だった。お茶だけ買って乗りこんだ。
「世の中、どうなってます、和子さん。机に向かってばかりいるんで、さっぱりわからない」
「山本リンダのミニスカート、ウルトラマンのへんしーん、それから、おはなはん」
「テレビ、テレビか。生物の石塚も、いい年して、相変わらず教壇でシェーだもんな。去年は野村の三冠王とか、シンザン五冠とか、さすが生命体、捨てたもんじゃないって胸が温まったけど、年々これじゃ、いずれ日本国民はテレビに滅ぼされるな」
「最近はとんとテレビを観なくなった。飯場では、ぼくもみんなもテレビっ子だった」
「そうね、みんな夢中で観てたわね。お笑い三人組、事件記者、姿三四郎。テレビもまだまともだったわね」
「まだ五、六年しか経ってないよ」
「ほんとだ。すごくむかしに感じちゃった。小山田さんや、荒田さん、クマさん。みんなでよくテレビを観たわ」
「アパートも週に一回、テレビ部屋が学生であふれ返る。俺と神無月はいったことがない」
「あれだけ人がいるのに、廊下でもほとんど顔を合わせない。不思議だね」
「馬鹿は馬鹿同士よく顔を合わせるもんだ。俺は意識して顔を合わせないようにしてる。低められるよりは高められたいタチだからな」


         百五

 二十分ほどで浅虫に着いた。まだ真昼だった。跨線橋を渡って広い駅前に歩み出す。ひなびた土産物屋がずらりと並び、生温かい酸っぱいにおいがただよっている。
「近所に温泉はなさそうだ。タクシーに連れてってもらおう」
 乗りこもうとしたタクシーの運転手は、
「乗るまでもないですよ。もう一本裏の通りです。椿館より、柳の湯のほうが落ち着きますね。築二百年の総ヒバ作りの掛け流しがありますよ。大樽の形をした露天風呂です」
 自分で納得したようにうなずき、商店筋の裏手を指差した。そこへいくことにした。
 板看板に《本陣の宿・柳の湯》と書いてあった。二階家のこじんまりとした温泉宿だ。玄関前の敷地に一本の名も知れぬ大木が覆いかぶさり、緑が涼しげに揺れている。
「丸い風呂は、広くても狭くてもいやだな。浅野の家の五右衛門風呂を思い出す。ぼくは四角い風呂に入る」
「俺はその樽風呂に入ってくる。和子さんは」
「私は丸くても四角くても、大浴場。その二百年風呂、予約制じゃなきゃいいけど。とにかくお部屋にいきましょ」
 小ぎれいなフロントテーブルの前に立つ。連休の最終日とあって、引き揚げる人びとでロビーが賑わっている。部屋はすぐ取れた。カズちゃんは記帳をしたあと、夕食を食べていくと告げ、三人分の部屋代を払った。やっぱり二百年風呂は予約制で、山口は一時間待ちとなった。しかも入浴は二十分だけだと言う。
 仲居に案内されて、一階の奥の部屋に入った。これも小じんまりとした、よく片づいた畳部屋だった。小型のテレビ、掛軸、ホテイの置物。引き紐式の洋式トイレ、洗面所と内風呂もついている。山口はテーブルに置いてあった茶菓子を頬張りながら、
「五百円だってさ。そんな高い風呂代、聞いたことがないな。二十分たっぷり入ってこよう。和子さん、北村席の木の風呂はよかったですよ。杉の香りがした」
「日光杉なんですって。おとうさんの贅沢。食べるもの、着るもの、使うもの、ぜんぶ贅沢。男の本道は贅沢にありと思ってるところがあるの。本も私くらい読むくせに、何も知らないふりをしたり、野球だって相当詳しいのに人の話に聞き耳立てたり。そういうのも心の余裕、贅沢だと思ってるフシがあるわ。でも、キョウちゃんと山口さんには目いっぱい感動してたわね。あんなおとうさん見たの初めて。男は変人でなきゃだめだ、というのがむかしからの口癖だから」
「俺は―」
「きわめつけの変人よ。だからキョウちゃんに気に入られたのよ。私がいちばん頼りにしてるのは山口さんよ。それからトモヨさん。女はあと何人か現れるか知れないけど、男はせいぜいあと一人、二人ね」
 のどかな日本庭園を見つめ、
「……雑然とした庭だけど、剪定が効いてて、大名庭園ふうだわ。料理がおいしいかもしれない。お風呂は大浴場でも、食事は部屋でとったほうがよさそう。会場の食事って大量生産でおいしくないから」
 カズちゃんはクロゼットの前に立つと、サッと服を脱ぎ捨て、乱れ箱から浴衣を取って着替えた。
「さあ、館内を観て歩きましょ。売店でお土産を買わなくちゃ。幼稚園の人たちにね」
 私たちはあわてて浴衣を着た。スリッパを履いて廊下へ出る。フロントの脇に小振りな売店がある。カズちゃんはニンニク煎餅とリンゴスティックを二組買い、一組を私たちに持たせた。
「アパートの管理人さんに。お世話なってるんでしょ?」
「もっぱら神無月が世話してやってるんですよ」
「キョウちゃんは、やさしいから。それもあと何回かね。ちょっとかわいそう」
 ロビーのベンチにくつろぎ、山口がカズちゃんに尋いた。
「神無月は母親のもとで暮らすことになるだろうな。和子さんはどうするんですか?」
「キョウちゃんの高校のそばに一軒家を借りるわ。キョウちゃんが学校の帰りにときどき寄れるように。仕事はしない。キョウちゃんが大学へいったら働く。やっぱりそばで暮らしてね」
「プロ野球にいったら?」
「同じ」
「……俺、ずっと二人のそばにいます」
「いてほしいわ」
「ところで、神無月の転入先は決まったのかな」
「連絡がないのは、四つ五つの高校に欠員があったということね。その中のどこにするか探ってるところでしょう。目の届くところに置かなければ、青高から連れ戻した意味がないから、飛島寮からかよえるところね。でも、あの近辺に青森高校以上の名門高校はないわよ。中村区は、松陰高校、名城大付属高校、中村高校、西区は、名古屋西高校ぐらいしかないわ。どこを選んでもいっしょ。東大なんか、何年かに一度、一人二人受かるかどうか。お母さんは満足してるでしょう。会社の人にも秀才息子の帰還を宣伝しちゃったでしょうから、そういう高校に転校することを訝しがられるでしょうね。いまさら野球漬けの青森高校に残れと言うのはシャクだし、キョウちゃんの正体が超一流の野球選手だとわかったら寮の人は驚き呆れるかもしれないわね。キョウちゃんの成功を怨みすぎて墓穴を掘っちゃったのよ。さあ、どういう手紙がくるのか見ものよ。予測できないわ。とにかく東大合格、プロ野球。キョウちゃんは仲間と競い合って勉強するタイプじゃないから、どこの高校にいっても同じ。どんな集団に属しても、絶対的にすぐれていれば問題なし」
 三人、部屋に戻って、それぞれの風呂にいった。私は大浴場から十五分で戻り、寝転がって窓の青空を眺めた。山口が先に戻ってきた。
「何てことないや。銭湯のほうが落ち着くな」
「受ける高校は、戸山高校ということだね」
「そういうこと。この一週間のあいだにオヤジや妹に調べてもらった。日比谷、新宿、都立西に欠員はなかったけど、戸山に二人あった。試験は八月上旬。そこへ潜りこむ。東大を七、八十人出す高校だから、環境はグッド。落ちこぼれないようにがんばらないとな。幸か不幸か、トントン拍子にことが進んじまったが、ものごとってのは動き出すとスピードが乗るもんだな。まだ計画段階だけど、気力がみなぎるよ」
 カズちゃんが浴衣姿もあでやかに戻ってきた。
「さ、着替えて散歩よ」
 浅虫近辺には見るべきものがないというので、旅館に呼んでもらったハイヤーで夏泊半島を一周してもらうことにする。
         †
 胡麻塩頭の運転手が言う。
「浅虫の森林公園といっても、ただの公園ですから。夏泊もこれといった見どころはないし、とにかく四号線から九号線へ入って周ってみましょう」 
 裸島や鷗(かもめ)島という浮島を左に見ながら、海沿いに四号線を走る。海が消え、左折して九号線に入った。山路だ。二キロもいかないうちに、一瞬海が見えたと思ったら、長いトンネルに潜りこんだ。運転手が、ホタテ××、と長たらしいトンネルの名を言った。抜けたところで、一面の海が展けた。文字どおりのマリンブルーだ。
「ここからは、戻ってくるまでずっと左手は海になりますよ」
 停車して降り、潮風に吹かれる。
「あれが観音崎です。この道をもっと北へいくと、油目崎、夏泊崎とありますが、夏泊まで海と山しかない一本道なんで、とにかくそこまでいきましょう」
「そしてランチ。運転手さんもいっしょよ」
「いいんですか」
「いいに決まってるでしょ。ハイヤーなんだから」
 いつものカズちゃんになっている。名古屋と同じように、彼女は出発のとき彼に一万円札を渡していた。左手は海、右手は林。
「すごい緑だな。神無月、得意の名前当て」
「ナラ、カエデ、松、杉……ところどころ、カシワとかシナノキも雑じってる。旅館の玄関の木はよくわからなかった。枝ぶりからすると、ハシバミかネムノキ……」
 カズちゃんが拍手する。
「内陸にはヒバも生えてます。しかし、松、杉はわかっても、ナラやカエデはなかなか」
 運転手が言う。
「この男はそういうやつなんだよ。なんだかうれしくなっちゃうでしょ」
「はい、ビックリしました」
「ぜんぶ、祖母に教えてもらった知識です」
「しかし、教えてもらっても、形状から葉の形から、ほかの木と区別して記憶しなくちゃいけないわけですよね。なかなかできませんよ。あ、あれが油目崎です」
「うーん、ただの緑のラグビーボールだね」
「夏泊崎の大島も似たようなものです」
 十分もしないうちにその大島にきた。象の鼻のような岬の先に百メートルほどのコンクリートの橋が渡してあり、その向こうにやはりラグビーボールが横たわっていた。あたりまえだが、目の前に海しかない。こんな単調なものは愛せない。
「満潮でも渡れる橋です。大島にはキャンプ場のほかは何もありません。夏泊崎の先っぽへいきましょう」
 岬の先へ車を走らせる。民宿佐々木というのがあった。車が何台か停まっている。ガラスの引き戸を開けると、椅子つきのテーブルを四つばかり並べた食堂になっていた。先客がテーブルを埋めていたので、小上がりに坐る。愛想のいい夫婦が水を持ってきて、何でもおいしいですよ、と言う。海鮮丼を三人前注文する。
「毎朝、網で上げたものだから新鮮だァ」
 主人が得意げに言う。山口と運転手は、丼と別にトゲクリガニというものを頼んだ。海鮮丼はシャコが飛び切りうまかった。山口たちの茹でた小蟹は食いにくそうだった。
「こういう環境を満喫しながら、人生を終えたくないね」
「わかる、わかる。苦労したいんだろう」
「したいわけじゃないけど、自分に見合った人生を送りたい。失敗が基本の、ままならない人生。失敗する苦しみはたまらない快楽だ」
「……病気が出かかってるぞ」
 運転手がコップを握り締めたまま、
「壮絶な会話ですね。三人はどういうご関係ですか」
「運命共同体。宗教じゃないですよ。道連れ」
 山口が答えた。男は曖昧な笑みを漏らした。コップを置き、
「道連れか。いいですねえ。昼めしご馳走さまでした。客待ちをするだけの仕事が、とんでもなく楽しいものになりました。……芸能界のかたじゃありませんよね」
 カズちゃんが、
「ぜんぜん。高校生と幼稚園の炊事係よ」
 満腹になったところで、出発。東海岸の椿山に向かう。
「ヤブツバキと言うんですがね、それが一万何千本も植わって山になってるんです。山が真っ赤で驚きますよ。椿が自生する北限なので、天然記念物になってます。椿山海岸も見ものです。日本のきれいな渚百選に入ってます」
 いざ到着してみると、変わりばえのしない海岸で、野辺地の金沢海岸のほうが美しかった。遠浅がめずらしがられているのかもしれなかった。
「野辺地のほうがきれい」
 すぐにカズちゃんが呟いた。山もひたすら赤いだけで、取り立てて絶景というほどではない。運転手だけが満足そうに振り仰いでいた。
「また海と岬を見ながら帰りましょうか。小湊に、白鳥のくる浅所(おさどころ)海岸というのがありますが、この時期はただの遠浅の松原です。松島というのも、ポツンと一つあるんですがね」
 帰りはみんな無言になるかと思ったが、運転手が私に気づいた。
「あのう……もしかして、そちらさん、北の怪物、じゃないですか」
 私は野球の話をしたくないのでとぼけた。
「だれですか、それ」
「去年騒がれた青森高校のスラッガーですよ。ラジオでアナウンサーが、神無月、神無月と叫んでたので……」
 私は、
「ぼくは野球選手じゃありません。ただの勉強家です」
 カズちゃんが私のとぼけた振舞いに興味を示した。しかし、黙っていた。山口が、
「神無月、とぼける意味がないぜ。それこそ芸能人のお忍びじゃないんだからさ。俺も神無月って呼びかけてるしな」
「キョウちゃんは、野球のことをしゃべるのが面倒なんでしょう」
 運転手が、
「申し訳ありませんでした。つい浮かれてしまって……」
「いや、謝らなくていいです。ぼくは野球で遊んでるだけで、哲学のようなものを持ってないんですよ。それで、野球の話がうまくできない。ガッカリさせてしまうんじゃないかと思って」
 面倒だっただけだ。
「この人は、ホームラン王が目の前にいるのがうれしかっただけだろう。ね、運転手さん」
「はい、そりゃうれしいですよ。ラジオで聴いて、どんな顔をしてるんだろうって想像してましたから。白皙のスラッガーって放送してました。こんな美男子とは思わなかった。スポーツ選手というより、ヤサ男ですよね。あ、すみません」
 カズちゃんが私の顔を覗きこんだ。
「ほんとだ。野球選手の顔じゃない。芸能人ほど軽薄じゃないし、ベートーベンほど荘重でもない。飾りのない、あるがままの顔」


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