百十五

 一子は私の横顔を振り仰ぎ、さびしそうに笑いながら、
「……神無月さんにとって、いちばん大切なものは何ですか」
「愛すること、そして愛されることに感謝すること。大切なことはその二つしかない」
「生きていくための仕事は?」
「生きていくと言うより、愛し合う生活に必要なものだ。愛し合う人びとがこの世にいる以上、どうしても生活を維持していかなくちゃいけない。愛し、愛されながら生活していくための仕事はどんなものでもいい。この世が商業で成り立っている以上、仕事はかならずある。好きな仕事であることは理想だけど、なかなかそうはいかないだろうね。たとえ大好きな仕事でも、人と愛し合うことより大切なものじゃない。それなら、仕事はどんなものでも価値は同じだ。人と愛し合うことは、なかなかできない。なかなかできないことがいちばん大切だ」
「家庭は、愛に含まれませんか? 神無月さんは不幸なことに、家庭というものを経験したことがないんでしょう?」
 私はからだが堅くなった。こんな調子は私の好むところではない。一子は私の抜け落ちた環境を疑って、自己愛の壁へねじこもうとしている。家庭に愛が薄かったから私は愛の薄い人間になったのか? ちがう。そんなものとは関係なく、自分を愛されない人間だと遠い日に見かぎったからだ。だから、家庭の愛の薄さは、触られ、ねじこまれても痛まないところだ。痛むところは、自分を見かぎらせた人間的な素質だ。そこは自分でも難解すぎて源をたどれない。
「たしかに不幸かもしれないね。小さいころに失ったから。家庭は無私の愛を教える場所だものね。そうでないと知った瞬間があった。おかげで、ぼくの家庭的な温かさが希薄になったかもしれない。ある意味深い闇を抱えてしまった。でも、どれほどぼくの闇が深くても、家庭は愛情の光への入口じゃない。……一子さん、ぼくのことなんか心配しなくていいよ。わずらわしい血脈ではなく、無欲な他人の血を愛することがぼくの最大目標だから。その努力だけは絶やさずしてる」
 私は断固とした調子で言った。思わず一子は口を押さえて嗚咽した。私は彼女の家庭の底なしの暗さを感じた。
「でも、一子さん、家庭に無私の愛の模範を感じてるなら、家庭は大事にしなくちゃいけないよ。そういう人に、ぼくの言葉なんか何ほどの価値もない」
 年下のヒデさんが一子の肩を抱いた。
「すてきでしょ、神無月さんて。かならず助け船を出してくれる。だれでも生きる意味があるって励ましてくれるの」
 二人に花園の諏訪神社を指差しながら、堤橋を渡る。
「あの杜の向こうに住んでたんだ。ヒデさんも一回訪ねてきた。……これが堤川。市内を真っ二つに分けてる。川って不思議だね。水がどこからか湧き出して、集まって、休みなく滔々と海に注ぐんだ。……雨水とか、浸透水とか、地下水とか、川の原理を小さいころに教わって知ったけど、いまも不思議さが消えない」
 二人の女といっしょに、じっと川面を見つめた。
「とにかく、何もかも、とんでもなく不思議だ。果てしない青空、浮かぶ雲、視界に紛れこんでくる蠅、ふるえる葉、地面に響く足音、セックスを核にして回っている家庭生活」
 二人はほんのり頬を赤らめた。
「そうして、不思議だという感覚を仲立ちにして、何もかもますます不思議さを増していくんだ」
 港湾沿いの道を歩く。暖簾のきれいな蕎麦屋があったので入った。
「ぼくは天ぷら蕎麦」
「私はオカメうどん」
 とヒデさん。
「私は……キツネ蕎麦」
 一子の遠慮がちな声に、私は大声を上げて笑った。自分でもなぜおかしいのかわからなかった。
「カツ丼、二つ追加。取り皿三つ!」
「へーい」
 二人のセーラー服の女学生といっしょに、ユニフォーム姿で蕎麦を食っている自分にあてのない未来を感じた。私はカツ丼を取り皿に三等分に分けた。
「幸せ」
 二人同時に言った。ヒデさんが、
「神無月さんの言葉を、これから何年か聞けないんですね。さびしいな」
 一子が、
「何年かですめばいいけど。十年、二十年になっちゃったらどうしよう」
 二人の美少女が顔を見合わせる。ヒデさんが、
「自分しだい。勉強するのよ。勉強して大学へいくの。そうすれば、またそばにいられるでしょう?」
「ええ……」
 三人で蕎麦もカツ丼もきれいに平らげた。ヒデさんが腹をさすった。
「ああ、お腹いっぱい」
 店を出て、青森駅に向かって歩く。
「二人とも、ぼくを選ぼうと決めてるようだけど、何かを選ぶということは、幸福を選ぶということと同じなんだよ。幸福の選択には二とおりあって、一つは、ほかと比べて相対的に価値があるものを選んで幸福になること、もう一つは、自分にとって絶対的に価値のあるものを選んで幸福になること。ぼくを選んだら、後者しかなくなる。相対の喜びを経験できなくなるよ。ぼくは世間的に価値のない人間だ。世間のしきたりに従って学校を卒業したり、仕事に就いたり、肩書をつけて出世を望んだり、親孝行をしたり、一人の女と結婚して家庭を築いたりしない人間だからね。相対的な不幸を嫌えば、ぼくを選ばないはずだ。でも、価値観の持ちようで、幸福はどこにでも転がっている。だから、人の選択には口を出すべきじゃない。ぼくを選ぶのが自分にとって価値があるなら、それは絶対的な幸福だし、相対的価値を選ぶなら、ぼくと生きる生活の不便さは絶対的な不幸だ」
 二人はびっくりしてこちらを見た。ヒデさんが、
「迷惑、ということですか?」
「言いたいことは一つ。ぼくを追いかけると、社会的な生活は不快なものになるということなんだ。絶対的な価値観を持っているなら、幸福だ。選ばれたぼくも幸福だ。きみたちに生活の不都合が出ないかどうかだ。いずれにしても、ずっと先の話だ。勉強しているあいだに気持ちが揺らがないならば、ぼくは喜んで受け入れる。ぼくの周囲の人たちも、喜んで受け入れる。きみたちの足に絡みついている社会生活や血のカセが心配だ」
 一子がうつむいた。ヒデさんが、
「愛って戦いだと思います。私は喧嘩が強いからだいじょうぶ。神無月さんは余計な気を使わないで、そのまま生きててください。あとはこっちの勝手」
「ヒデさん、いつかのホテルの喫茶店にいって、サバランとコーヒー」
「そうしましょ!」
「ホテル?」
「一子さんたら、へんなことを考えないで。そんなすごい幸せは、ずっと先のことよ」
 一子は恥しそうにうつむいた。
 十五分ほど歩き、駅前のグランドホテルのラウンジに入った。サバランとコーヒーを頼んだ。ウィスキー入りのケーキを、一子は興味深そうな顔で食べた。ほかの客が私のユニフォーム姿をじろじろ見ていた。ヒデさんが、
「野辺地にはこんなケーキないわ」
「そうなの? 私、ケーキそのものをあんまり食べたことないから。……秀子さん、青森高校へいったら、ときどき学校で使ってる参考書なんか教えてくれる?」
「手紙に書いてあげる。でも、一学年下のものでもいいの?」
「野高だと、それでちょうどだと思う。それをヒントにして参考書や問題集を買い集めていくから」
「うん、わかった。私が青森高校に受かるのが先決ね」
「受かるわよ。もう、ほとんど一番なんでしょ」
「うん。もう横山さんには負けなくなった。でも、神無月さんの東奥模試県下一位って記録は不滅。私、野中で一番でも、県下では五十番台だった。目指すは一桁」
「頼もしいわね。私は、まず野高で一番」
「ぼくは、まず転入試験合格」
 ヒデさんがたちまち目を潤ませて、
「ドキッとします。ほんとうにいってしまうんだなあって。複雑な気持ちですけど、がんばってくださいね」
「うん。山口も東京の実家に帰って、都立高校を受けるんだ」
 ヒデさんは飲みかけていたコーヒーを受け皿に置き、
「ほんとですか! ……そうですよね。神無月さんがいないなら、山口さんにとって青高にいる意味はないもの」
「山口さんて、さっきの人でしょ」
「そう、神無月さんに〈惚れ〉てるの」
 一子は遠慮がちに笑った。
 駅の売店で、りんご菓子の折を一つずつ買って持たせた。改札まで見送った。やっぱりあたりの人びとにユニフォーム姿を好奇の目で見られた。
「スポーツというのは異端だね。みんなから許された場所で許されるだけだ。一歩表に出ればこれだ。……一つでも多く勝ち進むようがんばる。応援しててね」
 一人ずつ私の手を握った。
「転入試験に合格したら、野辺地に報告に帰る予定だ。町で見かけたら、声をかけて」
 ヒデさんが、
「帰ってくる日をお祖母さんに尋いて、二人で会いにいきます。そして、野辺地駅に見送ります」
 一子も今度は強くうなずいた。
 五時半を回って健児荘に帰り着き、ユニフォームをワイシャツとズボンに着替える。賑わっている食堂を尻目に山口を誘って銭湯へ。徳乃湯という名前を知る。奥入瀬渓流の壁画がなつかしい。
「おまえとめしを食うのも、あと三週間か」
「ああ、もうすぐ東京と名古屋へ泣き別れだ。今夜も遅くまで勉強するの?」
「夜中までやる。あとひと月もないからな」
「転入試験の数UBは、一学期までの範囲になるね」
「ああ、出て一問だな。順列・組合せ、数列と級数、三角関数とベクトル。その中では三角関数だろう。正弦定理と余弦定理」
「あとはぜんぶ数Tかな」
「まちがいない。連立方程式、直線と円、対数計算、それと二次関数な。理・社の試験はないと思うぞ。英国数、それを一日でやっつける試験だ」
「世界史がカラッキシだから、そうだとありがたい。数学は山口の得意科目になったけど、英国はどうする」
「授業と参考書。高田瑞穂の新釈現代文、小西甚一の古文研究法、山崎貞の新々英文解釈研究。それでいっぱいいっぱいだ。授業はさぼらない」
「ぼくも授業重視だ。予習よりも復習。小西甚一はぼくも使ってる。詳しくていい。あとは、学生社の1000題でやってる」
「いつのまにか教養を積んでるやつだからな。英国が強ければ、試験は無敵だ」
「現国が相馬から外崎に代わって、授業がつまらなくなった。このあいだの無償の愛(アガペー)の説明なんか、サッパリわからなかった」
「キリストに限定してるからわからなくなるんだよ。右の頬、左の頬なんて考えちゃうからな。博愛と混同しちまう。一般的に考えればいいんだ。罪の意識に耐え切れずに、滅びの道へ向かっていく者を追いかけて愛しつづけ、連れ戻して幸福にする、そういう犠牲的な愛情のことだ。反対にエロースは自分にとって価値のある対象しか愛さない愛だ。アウシュビッツで自分を投げ出した司祭さんの愛はアガペーだな」
「山口のことじゃないか!」
「おまえが耐え切れなかったのは罪の意識じゃなく、絶望と倦怠だ。俺はまだ救い切れてないよ。救うどころか、いっしょに心中したいだけだ。それも、自分の愉快のためだ。何もなかった人生が愉快になったんだよ。救われたのは俺だ。おまえの犠牲になんぞなっていない。おまえが俺を救うために犠牲を払ったんだ。死なずに生き延びるという犠牲を払った。そして、俺を幸福にしてくれた。おまえはキリストのように納得して、あのまま死んだほうがよかったのかもしれん。とにかく、俺は自分のためにおまえを磔(はりつけ)台から引きずり下ろして、無理に生き延びさせた。おまえと生きる人生が愉快だったからな」
「……ありがとう、山口」
「礼を言いたい気持ちなら、おまえと生きるのが愉快な人間と、もうしばらくいっしょに生きてくれ。約束どおり、納得のいく理由が見つかって死にたくなったら言ってくれ。今度はちゃんといっしょに死ぬから」
「死なないよ! 死ぬもんか。山口を愛してるから」
「俺もだよ。おまえが思う以上にな」
 銭湯から帰って、二人、食堂のテーブルに用意してあった鯵の開きとモヤシ炒めで晩めしを食う。電気釜の飯が熱いので、うまいおかずに感じられた。
「じゃ、俺はもう少し勉強して寝るから、おまえはもう寝ろ。くたくただろ」
「ぼくも少しやって寝る」
 深夜まで数T、複素数の単純演算の復習をする。ユリさんは訪ねてこなかった。応援にきていなかったのではないかとふと思った。


         百十六

 翌日、納豆と味噌汁でどんぶり一杯のめしを食う。ユリさんの笑顔に会う。やはりライト側の外野席にいたとわかった。
「ホームランが頭の上を過ぎていくスピード、すごかった」
 山口と登校。カズちゃんに汗まみれのユニフォームを預け、新しいユニフォームを受け取った足で、午後の一限まで授業に出た。英語購読、日本史、現国、数UB。
 一時半過ぎ、グランドに回った。授業中の相馬監督以外全員参加。周回、素振り、キャッチボール、三種の神器、トスバッティング、フリーバッティング、守備練習。六時までひととおりミッチリ練習した。ピッチャーは百球ほどの投げこみをしたが、野手は、遠投やベーランのようなきつい練習はしなかった。
         †
 七月十四日木曜日。七時半起床。山口を起こし、二人とも朝めしは味噌汁だけをすする。関野商店でアンパンを買い、ダッフルを担いで登校。
「十五、十六、十七と、青高祭とやらをやるらしいな。いわゆる文化祭。野球の日程に十七日がぶつかるな。どうせ出ないからいいか」
「だいたい文化祭って何?」
「人を集めてやるクラブ活動発表会みたいなものかな」
「じゃ、高校野球も文化祭の一環みたいなものだね」
「たしかに」
 試合開始は二時なので、午前の授業に出る。英文法、物理。三限目の体育のバレーボールは免除された。アンパンを齧りながら部室にいって、ユニフォームを着、一人グランドを十周する。
 やがて監督、選手、応援団、ブラバン、みんな集まり、十二時にやってきたバス三台に分乗して出発。相馬が、
「二回戦の相手は弘前実業だ。かなり勢いに乗ってる。どこどこに勝ってきたんだっけ、長田」
「三戸と青商です。7―0、7―2です」
 曇のち快晴。球場に入る。ベンチの気温二十六・七度。風強し。涼しい。室井が、
「三戸は知らねけんど、青商には先月勝ったべや。勢いと言っても、大した相手に勝ってね。だいじょぶ、いげる」
 審判立ち会いのもと、室井がジャンケンに勝ち、先攻をとった。きょうのベンチは一塁側と前もって決まっている。スタンドはまたも満員になった。バックネット裏に例の日焼け顔が増えていた。青高スタンドの人数も倍になっている。おとといと同じ場所にカズちゃんと山口、葛西一家は母子だけが三列目に坐っていた。オッと思うほど近かった。みんな麦藁帽子をかぶっていた。十二日とちがって、強い陽射しが雲に隠れたり、カッと照りつけたりする日だった。風のせいで暑いとは感じない。
 ユニフォームの尻ポケットに、おとといのグランドホテルのつり銭が硬貨を含めて何千円か入っていたので、マネージャーの長田に預けた。
「その金で氷と、大きなバケツと、柄杓を補欠に買いにやらせて。いつでも飲めるように氷水をベンチの隅に置いといてください。頭にかけてもいいです。先生、氷水は禁止じゃないですよね」
「ああ、だいじょうぶだ」
 負けるまでユニフォームを洗わないのが、たいていの高校野球部のしきたりだ。一戦ごとに泥と汗で重くなる。先発は小笠原。敵のブルペンは右のオーバースロー。小笠原より少し速い。しかし、素直な球筋なので打ちやすそうだ。
「室井さん、きょうも五回コールドでいきましょう」
「ンだな。二連勝して、強いつもりでいるすけ、叩いてしまるべ。小笠原、五回まで投げ切れ。先生、いいすか」
 イガグリくんがドングリ目を相馬に向ける。
「おお、一人で投げろ」
「おめんど、ホームランでコツコツ取って、五回コールドにすべ!」
 室井はベンチに怒鳴った。
「オー!」
 と応えたものの、ノッポの木下が、
「ホームランは簡単に打てねべ」
「狙っていぐのよ! 打てなくてもいじゃ」
 相馬が、
「そうだ、金太郎のように、一撃必殺でいけ。ぶん回さなくていい。芯を食えば入る」
 こんなふうにして午後二時から始まった試合は、小笠原が散発被安打三で、みごとに五回を完投。わがチームはツーランホームラン三本、ソロホームラン三本、二塁打四、三塁打二、シングルヒット四、十九対ゼロで一回戦につづいてコールド勝ちした。ツーラン二本とソロ一本は私がライトへ打ったもので、ソロホームランは場外へ飛び出した。残りのソロは、吉岡と金だった。試合時間一時間二十五分。
 氷水バケツ二杯が空になった。飲んだのは私と相馬だけで、チームメイトは〈水は飲むな〉というむかしからのしきたりを破ることに気を差してか、みんな柄杓で掬って頭にかけていた。
 インタビューが終わったあと、相馬が、
「きょうは神無月がいるし、試合中に駆けつけた先生がたにバスを譲って、青高まで歩こう」
「オース!」
 みんな嬉々として歩きだした。スタンドで応援していた補欠も十人ばかりゾロゾロついてきた。
「小笠原、すばらしいピッチングだったぞ。カーブが切れてた。もう一戦勝てば、どっかの大学が唾をつけにくるかもしれん。―神無月、法政大学からおまえがほしいと正式に申し入れがあった。丁重に断っておいた」
「ありがとうございます」
「まだプロは動かない。もう一年慎重に見ようとしてる。来年のいまごろなら、まちがいなくドラフト一位だ。ただな、新聞記者の話だと、巨人のチーフスカウトマンが、ネット裏にいたそうだぞ。もちろん中日もな。金太郎さんを見にきたんだよ。いまが三年の夏なら、確実にプロ入りの話題で騒然となってる」
「高卒でプロ入りする意思のないことは、先回お話したとおりです。プロ志望届も出してません。先生、いままで高校中退でプロ入りした人を知ってますか。ぼくは東映の尾崎しか知りません」
 物知りの相馬は得意顔でうなずき、
「バッターはいない。ピッチャーだけだ。西沢、金田、尾崎と、ちらほらいる。中退と言っても、たとえば、二年で中退しても、その年には正式雇用はされない。翌年なんだ。三年で中退しても同じ。翌年の四月以降に採用になる。声がかかって勇んで中退すれば、二年生でも、三年生でも、野球ができないまま半年がむだになる。だからみんな卒業するんだよ。肩の寿命が短いピッチャーが、二年生で中退して、翌年から入団する意味はよくわかる。三年で中退しても、結局卒業の年まで雇われないんじゃ意味がないからね。そのあいだに肩を消耗してしまう。バッターの高校中退は前例がない。ホームランバッター王貞治は高校卒業時にピッチャーで誘われてる。バッターは消耗しないので、ゆっくりドラフトにかけるという寸法だ。……神無月、プロはずっとおまえを見てる。一年、二年休んだって屁でもない。かならず声をかける」
 そンだ、そンだ、と仲間たちが言う。
「安心しました。声をかけられると困るくせに、やっぱり気になるものですね」
 みんなため息をついた。金が、
「もう一年青高にいればドラフト確実だてへるのに、そうさせてもらえねんだもの。かわいそんだじゃ。ワ、新聞読んで、神無月の気持ちがよぐわがった気がした。どうのこうのへっても、いまの神無月は野球休んで、だまって勉強するしかねのよ。オラんどにしてみれば、しばらぐ勉強だげさせてもらえるのは贅沢みでなもんだたて、小学校がらずっと野球で騒がれてきた神無月にしてみれば、いっとぎプロ入りをあぎらめて、野球を休まねばなんねのはつらいことだべ。だども、母親がそんだば、背に腹かえられねもな。……神無月、まぢがっても野球捨てねでけろよ。しばらく休んだら、またワタワタ野球やるんでェ」
「もちろんです。ありがとうございます」
 みんなで腕を握ってきた。小笠原が、
「神無月、おめがただ者でねのは、最初オラ家(え)でキャッチボールしたとぎにわがった。おめは手首だげで投げてだども、オラより球が速がった。それでこのバッティングだァ。野球をするために生まれてきたんだじゃ。おめがどたらふうになっていぐのか知りて。プロさへったら、オラはバンザイする。それがらみんなさ自慢する。青高でいっしょに野球やったって。……埋もれだら、オラは泣ぐ。なしてだべって、しばらぐ泣いて考えるじゃ」
 相馬が、
「天才に苦難はつきものだ。いまは、偶然私たちと野球をしてくれてることに感謝するだけだ。もう少しのあいだ、神無月の力を借りて楽しい夢を見ようや」
「ウオース!」
 カズちゃんの家に寄り、玄関に畳んで置いてあったクリーニングずみのユニフォーム一着と、アンダーシャツ三枚、ストッキング三組をダッフルに入れて帰る。健児荘の部屋の窓敷居に、汗と泥にまみれたユニフォームを干した。この先二十一日まで一週間の洗濯は、引越し支度で忙しいカズちゃんに頼むのは遠慮する。と言うよりユニフォームを洗いたくない。汗が滲みたまま干すことにする。蚊や蛾が入ってくるので蚊取り線香を焚いた。山口の声。
「いるかァ」
「いるぞォ」
「風呂いくぞ」
「オッケー。石鹸頼む」
 きょうは風呂に入らないわけにいかない。からだがべとべとだ。前もって下着を穿き替え、タオル一本持って徳乃湯に向かう。
「和子さん、ステレオとテレビは北村席に送ったそうだ。やっぱり、おまえのことが心配だから、八月にいっしょに名古屋へいくと言ってた。夏休みに入ったら、いっしょに暮らしたらどうだ」
「名案だね。しかし、気になって勉強できない。勉強は健児荘でやるよ。二、三日にいっぺん泊まりにいって朝帰るなんてのもオツだけど、カズちゃんは試験の前は禁欲しなくちゃいけないって言ってる」
「なるほど。おまえのことを心から考えてるんだな。ま、あと一週間で夏休みだ。俺も数日中に大物は実家に送る。おまえより遅れていこうと思ってたが、一足先にいくことにした」
「ああ。ぼくは今月いっぱい勉強するから、荷物を送るのはそのあとだな。蒲団と机と多少の本くらいだから、どうということはない」
「運送屋の手配は和子さんにしてもらえばいい」
「そうする。試験日は、ぼくは七日、山口は十四日だったね」
「おお。つつがなく転校が決まったら、当分西と東のペンフレンドということになるけど、さびしくても辛抱しようぜ。おたがい、めでたい出発だ」
 夕方にはまだ早い風呂場はガランとして、湯気も清潔なにおいだ。背中を流し合う。
「東京の一流校というのはどんなものなんだろう。ぼくはそれほどシャカリキにならずに暮らせそうだけど、山口はどうかな」
「まあ、紛れこんで、要領よくやるさ。お前みたいな変人がいるはずがないから、案外のんびりと暮らせるんじゃないか。だいたい転入試験に受かってもいないうちにあれこれ考えても仕方ない」
 背中に湯をかける。二人きりの広い湯に浸かる。
「―心中させちゃったね。ぼくが腑甲斐ないばっかりに」
「腑甲斐なくしてあげなくちゃいけない相手に腑甲斐なくしてやったんだ。自分の人生は勇気を持って守った。クソって感じで身の振り方を決めちまってな。腰抜けができることじゃない。そういうやつと心中しなけりゃ、だれとすればいい? 俺はおまえの少しでも近くで、少しでも同じ状況を共有して生きたかっただけだ。むろん、東大である必要なんかさらさらない。しかし、一ミリでも近いとなると東大しかない。そういうわけだ。もう蒸し返すな。堂々巡りになる。おまえだって別に東大になんかいく必要はないんだ。ただ野球人生をやり直すための、いちばん安全な避難所にはなる―」
 ギョロリと見据えられ、確かな友情に胸が軋んだ。
「それより、名古屋でうまくおふくろさんに対処できるのか。水と油なんだろ。尻尾を捕まれたら、もとの木阿弥だぞ」
「腹を据えたからには、近づく工夫は必要だね。下心はぜったい見せないようにしなくちゃいけない。彼女は策士だから、そこを刺激しないようにすれば、案外スムーズにいくんじゃないかな。あんたがぼくを挫折させるつもりでいることは知ってますよ、なんて態度は厳禁。勉強で好成績を挙げることに苦しんで、野球ができないことに悩んで、という態度を適当に紛れこませないと」
「よほどじょうずに立ち回らないとな。せいぜいがんばれよ。転入試験は内申書無視だそうだ。本番一発勝負。まあ、二人とも受かるだろう。問題はそこからだ。特別な勉強方法なんかないし、一生懸命勉強して東大に合格するしかない。壁に貼るスローガンは《猛勉》だな」
 はははは、と大声で笑うので、私も声を合わせた。風呂場に響きわたるほどの大笑いになった。山口は湯を手で掬ってザパッと顔にかけ、
「さ、上がるぞ、茹でダコになった」
 あのときと同じように、風呂屋を出て、ラーメンを食った。ラーメンを食うたびに、康男を思い出す。ぎこちない箸の握り方まで克明に思い出す。
「神無月……」
「ん?」
「きょうのホームランを見て、つくづく思った。何の欲もないやつが、身にシックリ合う地面で、素足で遊んでやがるってな。曇り空からおまえにだけ陽が当たってた。だれもおまえから、その祝福の光を奪えない。俺もそういう人間になる。光を溶け合わせて一生そばにいる」
 私は思わず落涙した。
「山口の言葉だから信じる。ぼくの言葉も信じてね。……ぼくはポンコツ車だ。不細工なポンコツ車を一押し二押しして動かそうとするのはだれだって億劫なはずだ。雨や風に曝したまま放っておくほうがラクなのに、あえて押してやろうとする人がいる。……ありがとう。おかげでエンジンがかかった。一生懸命生きるから、いつもそばにいてね」
 山口は康男のように音立ててラーメンをすすった。


         百十七

 三回戦の相手は三本木農業と決まった。葛西家の主人の出身校だ。日曜日なので、彼はかならず観にくるだろう。
 七月十七日日曜日の昼、正門の前に大型バス二台が停車していた。午前中に上がった雨のしずくがフロントガラスの表面でふるえている。雨の気配はすっかり消えていた。
 一台目には相馬とベンチ入り定員のメンバー二十五名、有志の教師七名、応援団員五名が乗りこみ、もう一台にはブラスバンド二十名と、校友会役員十五名が乗りこんだ。教師たちの中には、西沢はじめレギュラー選手の担任教師が何人か含まれていた。彼らは平日にも代講を頼んで、順繰り休暇を取っているようだった。
 きょう勝てばベストフォーに進出だった。だれもそのことは口に出さなかった。西沢が私に語りかけた。
「ダンディ神無月、きょうはレフトスタンドで応援するからね。ときどき振り返ってみてくれ。一年生のときのクラスメイト十人ばかり、固まって観てるから。みんな、きみの姿を目に焼きつけておきたいと言ってる。木谷と鈴木は、いつも泣いてるよ。私も泣いてるがね……。どうでもいいことかもしれないが、東奥日報模試の結果が出たぞ。あしたの新聞に載る。知りたいか」
「はい」
「青高生が県下の十傑に七人入った。そのうち二年生が二人いる。山口とおまえだ」
 オーと選手のあいだに拍手が起こった。応援団まで拍手している。彼らもがんらい優秀な学生なのだ。
「一番は山口、おまえは六番だ。二年生が十傑に入るなんてことはめったにない。この優秀な二年生が二人とも夏に転校する。残念だ」
 二年の担任の石崎が、
「残念も残念、痛恨の極みですよ。神無月は英・国が県下ナンバーワン、山口は日本史と世界史がナンバーワンだ。いや、何よりの損失は、転校によって神無月の野球人生が休止するということだね」
 彼はなけなしの髪をそっと撫ぜ、若いころ伊達者だったことを無意識に示した。相馬が、
「迂回するだけのことですよ。いずれ自分で軌道修正するでしょう。おい長田、三本木のピッチャーはどうなんだ」
「今大会の注目株です。東奥義塾の柳沢、三沢商業の野村、三本木農業の戸板。みんな右の速球ピッチャーです。戸板は百五十キロを投げます」
「変化球は」
「カーブとシュート。どちらもキレがいいです。三点は取れないでしょう」
「金太郎に期待か」
「そうなります」
「金太郎、荷が重いな」
「また、ランナーを貯めようとなど思わずに、ホームラン狙いでいきましょう。シュートには手を出さないこと。ベースの近くに立てば、デッドボールを怖がって、あまり投げてきませんよ。ぼくには、外に逃げるシュートを多投すると思います。ほとんどボールになるでしょうから、カウントを取りにきた球を狙います」
 十二時半、球場に着くと室井が球場内の審判控え室に入った。すぐに出てきて、ジャンケンに負けて先攻になった、三塁側です、と告げた。それを聞いてから、正門ゲートに待機していた応援団とブラバンと教師たちがスタンドの所定の位置へ移動していった。彼らに従って、応援の学生たちが三塁側スタンドへ昇る。私たちはロッカールームに入って用具点検。パンを齧っているやつがいる。小さい握りめしのやつ、魔法瓶の蓋に水だけ注いで飲むやつ。相馬も弁当を使っていた。私は朝めしをしっかり食ったので必要なし。
「練習試合からずっと打ち勝ってきたのに、きょうは打てる気がしねじゃ」
 ベン・ケーシー山内が言う。表情は明るい。
「自信が出てきたんですね。自信がなければ、打てるかどうかなんて考えませんよ」
「そんなもんだべか」
 私は大きくうなずき返した。先発の速球派三田が屈伸運動をしている。室井が寄っていって、
「これが直球、これがカーブ、これがドロップ」
 などとサインの確認をした。
「ワは小笠原ほどは速ぐねすけ、カーブ主体でいぐべ」
 橋幸夫の眉が八の字になる。
「ンにゃ、きわどいコースにストレートを投げろ。わんつかボールになるくれのな。カーブとドロップは三振取るとぎに使う。ランナーいるとぎは使わね。後逸したらやべェべ」
「ンだな。長田、三本木の打線はどんだのよ」
「四対ゼロ、六対一、二対ゼロで勝ち上がってます。得点を上げるのは、ほとんどクリーンアップです」
「ふつうだな」
 一時。三塁側ベンチを通ってグランドに上がる。超満員だ。青高側から二十分間の守備練習。スタンドの定位置に赤いカーデガンのカズちゃん、真っ白いワイシャツの山口、ネット裏に麦わらかぶった葛西一家がいる。思ったとおり主人がきていた。複雑な気持ちだろう。父親ばかりでなく母子も私に自由な声援ができないかもしれない。
 恒例のバックホームのパフォーマンス。割れるような歓声。肩のいい金と山内も負けじとバックホーム。ホーという嘆声が上がる。内野も堅実な連繋プレイを披露する。みんな上達した自分を楽しんでいる。この気分でいけば五、六点は取れるのではないか、ひょっとしたら七、八点、と皮算用をした。
 守備練習交代。ブルペンで戸板が投げている。これまで見たピッチャーの中でいちばん速い。三本木の外野もバックホームをする。山なりのボールがスリーバウンドで届き、ドッと笑い声が上がる。戸板一人で勝ってきたチームだとわかる。このチームを一人で背負うのは荷が勝ちすぎる。コールドとまではいかないとしても、大差で勝てるかもしれない。
 全員、バットの点検。ヒビが入っていないかどうか調べる。グローブの皮ひもの弛みを調整する。ブラバンの金管が鳴りはじめた。両スタンド交互に校歌を演奏する。敵が守備に散った。みんなでピッチャーの戸板に注目する。
「おいや、速えなあ!」
「コントロールいいでば!」
「うへ、あのシュート打てねべ! 神無月の言うとおり、デッドボール狙うが」
「球が軽い。当たれば飛びます。ホームランを狙ってください。彼一人で勝ってきたようなものなので、心も肩もくたくたでしょう」
 スターティングメンバー発表。青高にだけ耳を傾ける。一番セカンド七戸(やんちゃガイ和田浩治)、二番ライト金(歯並のいい小山田さん)、三番センター山内(タンク型のベン・ケーシー)、四番レフト神無月、五番キャッチャー室井(イガグリくん)、六番サード柴田(筋肉ガマ)、七番ファースト木下(知性派伊藤正義)、八番ショート四方(正義の味方さぶちゃん)、九番ピッチャー三田(橋幸夫)。
 相馬を中心に円陣を組む。
「あのピッチャーは仁王さまだ。きょうが最後だと思って楽しめ。最後にならなかったらラッキーだ。守備のバックアップだけは神経使えよ」
「オス!」
 プレイボールのコール。きょうは吉岡に代わって七戸が一番だ。小走りにバッターボックスに入る。帽子を取ってアンパイアに一礼。初球、外角に百四十二、三キロがきた。ボール。七戸はびっくりしてベンチを見た。
「ナイスセン、ナイスセン!」
 相馬が笑っている。七戸は手が出なかったのだ。二球目も同じコースに直球。ストライク。手に砂をつける。午前の雨で湿っている。いい滑り止めになる。ただ、きょうもユニフォームが汚れそうだ。三球目、インコースの胸もとにシュートがきた。のけ反ってよける。ワンツー。まったく予測がつかない。真ん中にはこない。それがこのピッチャーの真骨頂のようだ。外角の高めにきてくれれば七戸でも打てる。四球目、また外角の低めにきた。打ち損なうかと思ったら、スムーズにバットが出た。あっという間に一、二塁間を抜いていく。当たるとボールの反撥がすごい。歓声が上がる。ドンドンドンドン、ブカブカドンドン。
「七戸さーん、ナイスバッティング!」
 マネージャーの長田が叫んだ。七戸は大手柄を挙げたように一塁上でこぶしを上げた。
 バットを片手で振り回しながら金がボックスに入る。打てる感じがしない。初球内角のシュートに手を出してドン詰まりのサードライナー。猛烈に親指の付け根が痺れたようで、盛んに手を振り下ろしながらベンチに帰ってくる。相馬が怒鳴る。
「金、シュートに手を出すなって、あれほど神無月が言ってたろ!」
「振り出したとき、真ん中に見えたすけ。すんません」
 大男の小山田さんがシュンと背中を丸める。
「ドンマイ、ドンマイ。神無月のへったとおり積極的にいぐべ」
 室井が慰める。相当ボールが切れているようだ。山内の背中に声をかける。
「山内さん、ゲッツーだけは避けましょう。外角高め、外野フライを打つつもりでいってください。うまくいけばあいだを抜けます」
「よし! どうせならホームラン狙ってくるじゃ」
 初球、外角のカーブがベースをかすってストライク。山内はつんのめって見逃し、うんうんとうなずくと手に唾を吐いた。二球目、外角の高目に剛速球がきた。山内独特のガシッという音がした。緩やかに空に昇っていく。ライトとセンターが追いかける。打球に意外な勢いがある。喚声があとを追う。二人の外野手のグローブをかすめて、右中間の深いところでバウンドした。三塁打コースだ。七戸は二塁三塁を猛スピードで回り、ホームに滑りこんだ。すっくと立ち上がると、両手を上げてベンチに走りこんできた。山内が三塁へ滑りこむ。
「やった! やった!」
「この一点は大きいぞ」
 相馬が七戸の背中をどやす。室井が私の尻を叩いた。
「金太郎、一発頼むじゃ!」
「がんばります」
 悪くても外野フライを打たなくてはいけない。小笠原の熱い視線にうなずき、バッターボックスに向かう。ベンチの金太郎コールが始まる。スタンドも一斉に、金太郎さん、金太郎さん、と叫んでいる。ボックスの土をならして、いつもより少しバットを高く構える。高目が強いように見えるだろう。私の得意コースは研究していても、この構えなら低目を投げたくなる。
 戸板は高々とワインドアップして、思い切り腕を振り下ろした。外角低めに逃げていくシュート。ストライク。予想どおりだ。二球目、同じコースへシュート。踏みこんで痛烈なライナーをサード左へ打ち返す。ベースすれすれのファール。戸板は球をこねて考えている。三球目、真ん中高めの速球。ボール。三振を狙った釣り球だ。辛うじて見逃す。戸板はさらに考えはじめる。低目を狙っているのか? 帽子の庇の下に孤独なするどい目がチラリと見えた。もう一球高目を確認してくるはずだ。四球目、外角高目のストレート。レフトのポールぎわへファール。フラッシュが光った。ウオー、ドンドン、ブガブガ、ドンドン。あと二メートル右ならホームランだった。
 やっぱり高目を狙っているのか。戸板は考えている。考えすぎるとパターンが一定になる。次はまちがいなく内角低目の直球かカーブだ。グリップを少し下げる。五球目、内角膝もとへ百四十四、五キロのストレートがきた。
 ―よし! いただき!
 しっかり球を見つめて手首を絞りこむ。すばらしい感触だ。場外だな。
「いったー!」
 ウワー、ギャーという怒涛のような歓声。フラッシュが何発も光る。外野でも光っている。全力疾走に入る。ライトがグローブを腰に上空を見上げている。私はライトの場外へ消えていくボールの弾道を誇り高い気持ちで見つめた。太鼓の乱打が大歓声にかき消される。ベンチ前で仲間たちが跳びはねている。葛西さん一家に手を振る。三人が立ち上がって拍手している。やはり彼らは私を応援していたのだ。カズちゃんたちを見やると、二人で狂ったように拍手していた。戸板が茫然とライトスタンドを見つめている。一点しか取られたことのない男が、初回に三点を献上して石像のように立ち尽くしている。私は出迎えようとするチームメイトを両手で制してベンチへ駆けこむ。金太郎さん、金太郎。バシバシからだを叩かれる。
「あんなでかいホームラン、この球場始まって以来じゃないか!」
 相馬の握手、小笠原の握手、マネージャーの長田が抱きついてきた。大喚声に振り向くと、室井の打球が三遊間をするどく抜いていくところだった。
「よっしゃ! 一挙にいけ!」
 ブラバンがスーザの行進曲を吹き上げる。柴田がセイフティバントを敢行した。サードが掬い上げて懸命の送球、間一髪アウト。ツーアウト二塁。七番木下三振。三点。上々の出だしだ。
 一回裏、三本木のスタンドが沸き立つ。センターの山内と遠投のキャッチボールをする。三田のスピードが戸板に比べて見劣りする。十キロちがう。しかしだいじょうぶ。あのスピードでコースを狙えばつかまらない。山内に声をかける。
「深く守りますかァ!」
「まだいがべェ! 金、もっと浅くていいど!」
 思ったとおりだった。三田のコントロールが予想以上にいい。内外高低をみごとに投げ分けて、一番から三番まですべてセカンドゴロに打ち取った。七戸の守備のうまいことをあらためて知った。外野三人揃って全速力でベンチに駆け戻る。その姿が新鮮なのか、場内に盛んな拍手が起こった。
 二回の表、八番四方、高目の速球に詰まって浅いセンターフライ。三田三振。七戸、ツースリーまで粘って三振。これが戸板の本調子だ。


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