百十八

 二回の裏に一波乱あった。四番打者にレフト線の二塁打を打たれて動揺した三田は、二者連続でデッドボールを出した。内角を攻めることばかりに意識がいっている。ノーアウト満塁。私はレフトから叫んだ。室井にも聞こえたはずだ。無論、敵にも。
「三田さーん、カーブ、カーブ! 外角!」
 三田が笑顔で手を振る。室井は、決め球に使うと打ち合わせたはずのカーブを要求しはじめた。これがおもしろいように決まり、ゲッツー、ランナー一人生還、サードゴロでチェンジになった。三対一。両チームの応援スタンドに活気が出た。外角にカーブがくると知っていても、なかなか打てないものだ。知っていればかえって力むこともある。
「なして三点くれてやらなかったよ」
 柴田がからかった。
「いらねって遠慮するすけよ。かわいそんだすけ、一点けだ」
 ベンチに爆笑が起こった。
「次の回もカーブばっか投げるすけ、うまぐ抑えたら、四回からだれか交代してけろじゃ」
 相馬がパチンと手を叩き、
「よし、佐藤いけ。四回、五回な。次に沼宮内、六回、七回。できれば五回コールドにするぞ!」
 三回表は二番の金からだった。
「またシュートばっかくるべな」
「たぶん、ぜんぶシュートです。あれはどうやっても打てませんよ。ボックスの一番前に立って、曲がり切らないうちに叩いてみたらどうですか。初球勝負です」
「わがった」
 控えめにバットを振り回しながらボックスに向かう。彼はボックスの前方の、ホームベースから遠いラインの近くに立った。ボールを速く感じても、さっきよりは迫ってこないように見えるはずだ。初球、内角高目ストレート、空振り。それでいい。二球目。内角低目のシュート。
「きたー!」
 金は自分で叫んでバットを振り出した。快音が響いた。
「いったろ、いったろ!」
 小笠原と木下がベンチを飛び出した。一直線に伸びていって、たちまちレフト中段の観客席に突き刺さった。相馬がベンチの椅子を何度も平手打ちする。
「まともに当たったな!」
「金、初ホームランでねが」
 室井が言った。
「いや、練習試合の五所川原戦で一本打ってますよ」
「ンだが?」
「それより、いまの打球の角度でホームランを打てたのは大きいです。彼はホームランバッターに変身しますね。この秋からは、彼が四番だ」
 室井はさびしそうに私を見つめた。金がバンザイをしながら二塁、三塁と回ってくるのをベンチ全員で迎えに出た。三塁スタンドの行進曲が浮きうきと速度を増した。応援団が太鼓に合わせて、スタンドの学生たちに向かって何やらハイトーンで怒鳴っている。カズちゃんが楽しげにその姿を眺めていた。四対一。
 山内が金と同じような位置に立って戸板を睨みつけた。さすがにシュートは投げてこない。外角のストレートとカーブ一辺倒になった。あっというまに空振り三振。つづく私は敬遠。この先ずっと敬遠されるとなると、コールドは難しくなる。室井、セカンド頭上を越えるポテンヒット。ワンアウト一、二塁。
「柴田さーん、お願いします!」
 私は二塁ベース上で筋肉マンのガマに合掌して見せた。最初の打席でセイフティバントをしてベンチを驚かせた柴田は、照れくさそうに右手を上げて応えた。戸板が投球の構えに入って腕を振り上げたとたん、私はサードに向かってスタートを切った。びっくりした戸板はキャッチャーが送球しやすいように高めに外した。外しすぎた。キャッチャーの頭を越える暴投になった。三塁を蹴りホームへ滑りこむ。キャッチャーはバックネットから撥ね返ったボールを拾ってサードへ送球した。室井滑りこんでセーフ。彼はキャッチャーのくせに足が速いのだ。五対一。これで柴田は外野フライでもオーケーとなった。気楽に打てるだろう。柴田はみごとに期待に応えた。真ん中高目のシュートをミートして、レフト塀ぎわまで大きなフライを打ち上げた。室井生還して六点目。木下ショートゴロ。チェンジ。
 三回裏、三田のカーブ連投が始まった。低目におもしろいように決まる。九番、一番、二番と内野ゴロに打ち取り、あっという間にチェンジ。
「沼宮内、あとをよろしぐ。カーブ、カーブで肘が疲れたじゃ」
「まがしとげ。肘さ氷水、ぶっかげろ」
 きょうも長田がバケツに氷水を用意していた。
「五点差じゃ危ない。あと七、八点取りましょう」
 四回表。青高ブラバンが初めて早慶ふうのリズムで演奏を始めた。五人の応援団員が整列して、全身で跳ね躍るパフォーマンスをする。スタンド全員が立ち上がりスクラムを組んで左右に揺れる。
 八番の四方が打席に立った。戸板はカーブやシュートの小細工をやめ、ストレート一本やりになった。さすがに威力がある。最初からこの投球をしていれば、ここまで打ちこまれなかっただろう。四方はファールチップ二本のあと、空振りの三振を喫した。三田も見逃し三振。一番の七戸はファーストフライに倒れた。
 四回裏。三田と交代した沼宮内が打ちこまれた。九番戸板がライト前クリーンヒット、一番フォアボール、二番左中間の深いフライ。戸板タッチアップ、センター山内が三塁へみごとな送球をしたが、戸板は間一髪セーフ。ワンアウト一、三塁。こうなると、ベストフォークラスのクリーンアップは確実に点を叩き出す。三番センター前のヒット。戸板還って一点。ワンアウト一、二塁。四番ライト線二塁打。二塁走者還って一点。ワンアウト二塁、三塁。五番深いライトフライ。三塁走者還って一点。ツーアウト二塁。六番レフトフライ。チェンジ。六対四。たしかに七、八点では足りなくなった。
 五回表。九番沼宮内が、
「先生、代打よろしぐ」
「いいぞ、吉岡!」
 相馬の一声で、吉岡がベンチを飛び出てバットを振りはじめた。
「よし、佐藤、五回の裏いけ。下位打線だ」
 相馬は吉岡の名前を審判に告げにいく。
「青森高校の選手交代を申し上げます。九番沼宮内くんに代わって、バッターは吉岡くん、三年生」
「吉岡! おまえが出たら一挙にいくぞ」
「オエース!」
 果敢な吉岡らしく、初球から打つと決めていたようで、胸もとのシュートに詰まりながらレフト前に落とした。ベンチが俄然色めきたった。七戸がせっかく燃え上がったその火を消すように消極的なバントをしようとする。
「バントはだめだ!」
 みんなびっくりして私を見た。萎んだ気力を回復しなければならないのに、スコアリングポジションにランナーを送ることに汲々としていてはだめだ。
「一点、二点取っても、あの地味なクリーンアップに取り返されますよ。大量得点でいきましょう!」
「そうだ!」
 小笠原たちベンチ組が呼応する。補欠まで歯がゆそうにしている。私は七戸を呼び寄せて耳打ちした。
「とにかく芯に当ててください。軽いから飛びます」
 聞き耳を立てていた相馬が、
「芯に当てろ。軽いから飛ぶぞ。金太郎のご託宣だ。金太郎以外は、バットを一握り短く持て」
「ぼくも短く持ちます」
 功を奏した。なんと吉岡から七連続安打になった。七戸センター前、金センター前、満塁。山内左中間二塁打、走者一掃三点。私振り遅れてレフト前ヒット、山内還れずノーアウト一、三塁。室井ライトオーバーの二塁打、私まで長駆還って二点。ノーアウト二塁。柴田右中間の二塁打。一点。ノーアウト二塁。ここまで六点。木下ライトフライ。柴田タッチアップで三塁へ。ワンアウト三塁。打者一巡、吉岡レフト前ヒット。一点。七戸空振り三振。こつこつ七点取った。十三対四。九点差。またもや五回コールドを逃した。
 五回裏。霧雨より少し大粒の雨が落ちてきた。沼宮内から代わった佐藤は、雨の下で生きいきと快投を演じた。先頭打者の七番バッターにピッチャー強襲の内野安打を打たれただけで、八番、九番、一番を、サードゴロ、ショートライナー、レフトフライに打ち取った。ネット裏で行儀よく観戦している三人と、三塁スタンドの紅白の一対を眺めながら駆け戻る。あっという間に雨が上がった。芝生の緑が美しく浮き上がる。
 九点差か。六回と七回に佐藤が三、四点取られるとして、コールドで終わるには、あと四、五点はほしい。小笠原は次の試合に温存しなければならない。コールドでないと彼を抑えで出すことになる。ブラバンとスタンドの喚声に景気づけられる。
「もっと声を出せェ! うるさいほど出せ!」
 相馬がベンチの後列に居並んでいる補欠たちに怒鳴る。スタンドの補欠たちは喉も裂けよとばかり叫んでいるのだ。大差でリードしているのに、十点差で勝たなければならないという義務感に部員たち全員が痺れている。しかし、一試合一試合コールドで勝つ以外に、四人しかいない投手陣の負担を軽くする術がないのだ。優秀なピッチャーは、野球の名門校以外にはやってこない。ピッチャーに助けてもらえないチームは打力でカバーするしかない。次の試合は小笠原に五回以上投げてもらわなければならない。おそらく準決勝が最後の試合になる。
 六回表、二番金から。今年初めて三十度を超すというという予報どおり、太陽がぎらぎら照りつけ、通り雨で湿っていたグランドがすでに白っぽく乾燥しはじめている。
「三振しちまうべ!」
 次打者の山内が張り裂けんばかりに叫んだ。練習試合のモットーを思い出して一瞬ベンチに明るさが戻り、金がバッターボックスで微笑んだ。バットを長く持つ。初球、真ん中低目へゆるいカーブ。ストライクのコール。二球つづけて胸もとへ快速のストレート。ボール。ワンツー。四球目、外角高目のカーブ、敵のベンチに飛びこむファール。ツーツー。直球だけを投げていれば無難なピッチャーが、また小細工を始めた。次はシュートにまちがいない。学習能力の高い金は、じりじりとボックスの前へ進んだ。
「きた!」
 胸の高さのシュート。ボール球だ。バット一閃、背番号9が目を射った。快音を残した白球が左中間に舞い上がる。
「れれれれ?」
「あららら? 二本目が!」
 相馬につられて三塁ベンチ全員、鶴のように首を伸ばす。ボールをスタンドへ押しこむような大喚声が上がる。
「入れ!」
「入れ!」
「入ったー!」
 左中間の最前列に落ちた。フラッシュが三発、四発と焚かれる。金が三塁スタンドに帽子を振りながら笑顔でベースを回っている。ベンチ前に全員で出迎え手荒い祝福をする。大量得点をするいつものリズムに入った。十四対四。
「まだまだ!」
「まだまだ!」
 ガシッ! 山内特有のインパクトだ。早い打球が、ジャンプするレフトの頭上を越えていく。山内は転がるようにセカンドへ滑りこむ。ブンガ、ブンガ、ドン、ドン、ブンガドンドン。
「金太郎!」
「金太郎さん!」
 三本木の監督がタイムを取って、伝令をマウンドへ走らせる。ブンガ、ブンガ、ドンドン、ブンガ、ドンドン。戸板の交代はない。リリーフが出たらさらに十点は取られる。戸板は力強くうなずき、帽子をかぶり直す。孤独な目だ。ストレートだけに切り換えてくるだろう。三点は取れないと長田が予言したピッチャーから、もう十四点も取っている。速球派の誉れ高い戸板はどんな気持ちでいるだろう。
 ゆっくりワインドアップ、腕をしっかり振って投げ下ろす。高目、ど真ん中、ストライク。感動して思わず見逃した。それだ、打たれても打たれなくても、それなんだ。二球目真ん中膝もとストレート、みごとなストライク。ツーナッシング。私はにじり進んだ。ここで小細工したら打ってやるぞ。三球目、ああ、外角へ速いカーブ。三球三振を取りにきたのか。私は踏みこんで思い切り引っ張った。ほら見ろ! 何をやってるんだ。なぜストレートを投げなかった。
 打球が右中間深いところへ一直線に飛んでいく。フェンス直撃。外野がクッションボールを譲り合ってもたついているあいだに、山内が生還し、私は三塁へ足から滑りこんだ。歓声が広い球場に満ちる。十五対四。


         百十九

 キャプテンの室井はバット二本の素振りで戸板を威嚇する。室井の気持ちはたぶんこうだ。
 ―ピッチャー一人のチームなんて、弱小もいいところだ。勝ちたければバッティングを鍛えろ!
 内外野の歓声。拍手の嵐。ネット裏を見る。葛西一家が立ち上がっている。赤いワンピースと白いワイシャツを見返る。二人とも笑っている。相馬が叫ぶ。
「室井、とどめの一本!」
 戸板、きみがこんな試合にしてしまったのだ。ストレートだけでいけ。小細工したらまた打たれるぞ。
 初球、真ん中ベルトのあたりへ快速球。ストライク。それだ。失投だが、室井にはかすらないボールだ。トテチテター、ウオオオー! レフト外野席から聞き覚えのあるトランペットの音が立ち昇った。中野渡だ! いや、そんなはずはない。彼は山田高校のブラバンだ。山田高校はきょう、八戸の長根球場で黒石高校と戦っているはずだ。去年の夏、中野渡は野辺地高校の応援で高らかに吹き鳴らしたが、あれは母校の野辺地中学校に義理を立てたからだ。目をすがめて、木谷や古山たちのいるスタンドを見つめる。立ち上がってトランペットを吹いているやつがいる。ずんぐりとした坊主頭。トテチテター、ウオー! 千葉だ。わかりません、の千葉じゃないか。
 二球目、外角へ速いシュートを落とす。ボール。小細工をするなと言っただろ! 次は内角だな。カーブかストレート。室井さん、いけ。
 ―え?
 真ん中、胸の高さへ速球! 予想が外れた。室井は思わず上から叩いて押しこんだ。振り遅れた。センターに高く舞い上がる。そうだ、軽いから飛んでいく。
「ウオオオー!」
「ヨッシャー!」
「いった、いったあ!」
 ―ほんとにいったか? 打球のスピードは? 伸びは? フェンスを越えろ。
 私はとにかく走り出し、三本間で立ち止まってセンター上空の打球を見つめた。喚声が頂点まで高まり、白いボールがバックスクリーンにぶつかって撥ねかえった。
「ホオオオオー!」
 歓声がため息に変わる。室井はスピードを乗せて二塁を回り三塁へ向かう。三本間で立ち止まったままの私が、
「飛びましたね!」
 大声で呼びかける。室井は笑いながら私に追いつかんばかりに速力を上げてくる。私はあわててホームインし、振り向きざま、走りこんでくる室井を抱き止めた。二人で地面に転がった。チームメイトが何人も押しかぶさる。
「ベンチへ、ベンチへ戻って!」
 アンパイアがマスクを振って叱責する。十七対四。相馬が私たちと握手しながら上ずった声で言う。
「ホームランの全力疾走、流行っちゃったな」
 ベンチが笑いさざめくなか、木下が、
「よーし、何でもかんでも全力疾走でいげ! 全力疾走!」
 柴田の打球をショートがハンブルするところだった。ブラスが高く鳴り響く。ドンドン、ブカブカ、ドンドン。佐藤が私に、
「ワがあと四点取られたら、八回、九回もやらねばなんねべ。次は小笠原に投げさせ……」
「だいじょうぶです、佐藤さん、取られたら取り返しますから。コントロールのよさで乗り切ってください」
 小笠原に投げさすわけにはいかない。柴田、詰まったサードフライ。木下ぼてぼてのセンター前ヒット。ワンアウト、一、二塁。四方は初球を強振、バットの先に当たったボールがキャッチャーの前で渦を巻いた。キャッチャー拾って二塁へ送球、木下アウト。いい肩だ。一塁へ転送、四方セーフ。ツーアウト一塁、三塁。戸板がセットポジションに入ったとたん、四方が盗塁を敢行した。このキャッチャーの肩なら刺される。と思ったとたん戸板があわててショートバウンドの投球。キャッチャー投げられず、四方の二盗成功。ツーアウト二塁、三塁になる、九番佐藤。ピッチングよりバッティングの好きな佐藤は、ツーツーから三球もファールで粘って、ついに八球目をピッチャーの横へ打ち返した。低い打球がセンター前へ飛んでいく。柴田と四方が手を叩いて生還。十九対四。ツーアウト一塁。
「学生注目! 選手を送る歌!」
 応援団長が両手を拡げる。

  合浦原頭 サクフウすさび
  勇姿堂々 コンシンの血わき
  たけり立つ オノコラ
  コショ 睥睨す
  踏めよ踏まれよ われらが選手

 ―コショって何だったっけ?
 一番七戸フォアボール。七戸の選球眼がよかったのではない。戸板の握力が落ちて、コントロールがままならなくなってきたのだ。ツーアウト一、二塁。スタンドのざわめきが同情と非難の混じり合った重苦しいものになった。非難は青高ではなく三本木に向けられているようだ。ついにピッチャー交代。
「金、来季は四番だズー!」
 ベンチから吉岡が激励の声を投げる。小さな左ピッチャー。中学生のようにボールが遅い。
 ガシッ! というあの音。打球が右中間を抜けていく。七戸生還。鈍足の金が三塁も奪う勢いだ。三塁コーチャーに出ていた三田が両手を挙げて止める。金が二塁へ戻る。さらに一点追加して二十点。十六点差になった。
「まだまだ!」
 私は相馬に尋いた。
「先生、コショって、どういう意味でしたっけ」
「コショウだよ。虎、嘯(うそぶ)く。虎が吠えるんだな。傑物が大活躍するという意味だ。おまえのことだよ」
 山内が、オラも吠えてくるじゃ、と言ってバッターボックスに向かった。
「おまえたちを見てると、つくづく野球が簡単に思えてくるよ」
 ベンチの仲間たちから笑いは返ってこなかった。
 山内、高いキャッチャーフライ。球がフェアグランドに流れて落ちてくる。キャッチャーが構える。おっと、突進してきたサードがぶつかった。ボールが転がる。金、労せずホームイン。山内二塁へ。二十一点。スタンドが徹底的に静まった。一瞬、三本木農業に対する〈哀悼〉の気分が場内を満たした。青空の下で悲愴感も麻痺した小さな投手が投げている。スタンドを一瞬静寂に浸すほどの拷問に耐えている。ブルペンで控えのピッチャーが投げているが、正統派なのに無残なほどスピードがない。トテチテター、ウオーッ。静寂を破る喚声が上がる。静かな球場全体から金太郎コールが吹き上がる。野球は簡単ではないけれども、残酷なスポーツだ。無能な者は徹底的に打ちのめされる。真っ青な空を見上げる。広大な空の下でいま私は野球をしている。なんとすばらしい神の恵みだろう。葛西家の主人を振り返る。母子といっしょに真っすぐこちらを見ている。
 初球、胸もとにカーブ。肩口から回ってきて危うくデッドボールになるところだった。彼なりの作戦だろう。デッドボールを恐れるように、わざとホームベースから離れる。神経を外角低目の一点に集中させる。二球目、彼の簡単な作戦どおり〈渾身の〉スピードボールが外角低目にきた。クロスに思い切り踏みこみ、あごを引いてひっぱたく。いつもの手応え。レフトの中段まで伸びていくだろう。二十三点。もうだいじょうぶだ。場内が静かだ。仲間とはベンチ前のタッチのみ。応援団が粛々と突きを繰り返している。室井がチョコンとセカンドゴロを打って締めくくった。
 六回裏、佐藤は四安打を浴びて三点を献上したが、最後のバッターをゲッツーに打ち取った。二十三対七。六回コールド。ゲームセット。整列。私は戸板に歩み寄り、しっかり握手をした。
「すばらしいピッチングでした。これからはストレートで押しまくってください」
「あの場外ホームラン、一生忘れられねす。プロさいってもがんばってけんだ」
「もしそうなったら、あなたを待ってます」
 この辛抱強い寡黙な速球投手は、早いうちにその素質を見こまれ、かならず大学か社会人の名門チームに誘われるだろう。彼が改善しなくてはいけない点は、その単純な責任感だけだ。肩のスタミナがあるし、辛抱強いので、いずれ有能な完投型ピッチャーとして認められるにちがいない。
 三本木の選手たちが私の腕を握ったり、肩を抱いたりする。監督もやってきて、帽子を脱いだ。私は彼らに感銘を与えたのだ。
「三本木農業、バンザーイ!」
 ネット裏の亭主が叫んだ。三本木の監督と選手たちは深々と礼をした。彼らに混じって私も礼をした。亭主のノスタルジーがうれしかった。三塁スタンド前へ走っていって、整列。
「ベストフォー進出を喜びィ、栄冠は君に輝く、演奏ォ!」
 応援団長が叫び、演奏が重厚に流れる。女子学生の合唱。耳もとに粟が立ち、身が引き締まった。準決勝のあとでこれをやられたら、尋常でない緊張感に身動きとれなくなったかもしれない。
         †
 驚いたことに、山田高校が番狂わせで負け、二十日の準決勝は黒石高校と対戦することになった。みんなあっけなく決着がつくと思っているけれども、私は薄氷を踏むにちがいないと感じていた。
         †
 七月二十日水曜日。晴。
 東奥義塾が十時からの準決勝第一試合で、盛岡三高に勝って決勝進出を決め、すでに球場をあとにしていることが廊下の掲示でわかった。その瞬間私たちは、去年と同様、彼らと決勝戦でぶつかるのだと何の疑いもなく思いこんだ。
 一時半、第二試合開始のサイレンが鳴ったとき、あしたもこのサイレンを聞くだろうとという軽い気分でみんな整列して挨拶した。
 予測が外れた。黒石のピッチャーは巨漢のスリークォーターで、スライダーの切れがとんでもなくよく、八回の表まで右バッターがことごとくきりきり舞いさせられた。たった一人の左バッターの私も打ち損なってばかりだった。二打席、三打席、みんな揃って打ちあぐねているうちに、あれよあれよという間に九回まできた。そこまで室井と柴田が一本ずつシングルヒットを打ったきりで、私を含めて残りの全員無安打、もちろん一点も取れない。薄氷どころではなく、氷が割れて溺死寸前という状況になった。佐藤が六回まで零封したけれども、あとを引き継いだ沼宮内と三田が七、八回に五点取られた。決勝の先発に小笠原を温存しようとした戦略が墓穴を掘った。
 ゼロ対五、九回表。三田の代打梶田がファーストゴロ、九回ワンアウト走者なしという事実を突きつけられたとき、私たちはすみやかに絶望し、あきらめた。
「最後まであきらめるな。よしいけ、悔いのないバッティングをしろ!」
 相馬の声が虚しく響く。吉岡がバッターボックスに入ったころから、かなり大粒の雨が降りはじめた。雲の黒さからして、にわか雨ではない。いっせいにスタンドに傘の花が咲いた。応援団は雨に濡れたまま演舞し、ブラスバンドは雨に濡れたまま演奏していた。私はその姿に励まされ、抑えきれない胸の高鳴りを覚えた。
 ―勝とう。
 そう念じたとたん、吉岡がライト前、金がセンター前と連続ヒットで出、山内がフォアボールで出て満塁になった。ワンアウト満塁。歓声がうねる。それだけで奇跡が起きたようだった。金太郎コール。太鼓と歓声とブラスバンドの響き。期待を一身に背負って私はバッターボックスに入った。しかし、ナムサン、二球目、絶好球に見えた内角のスライダーを打ち損じて、ファーストライナーに倒れた。ツーアウト!
 スタンドの喧騒が急速に静まった。ツーアウト。仲間たちの顔が歪みはじめた。それでも私の胸の高鳴りはおさまらなかった。私は大声を張り上げた。
「まだいける、まだいける、あきらめるな!」
「そうだ、最後の最後までがんばれ!」
 相馬も叫びながらすがすがしい笑顔をみんなに向けた。その笑いを見て、全員涙をこらえながら試合終了の集合のためにベンチのバーに手をかけたとき、室井の乾坤一擲の満塁ホームランが飛び出した。
「オオオオォォ!」
「ヒャアァァ!」
 雨の中を高く舞い上がったボールは雨を切って伸びていき、ちょうど西沢たちのいるあたりの傘の群れに落ちた。トテチテター! トテトテ、トテトテ、トテチテター! 千葉のトランペットが高らかに鳴りわたった。希望の灯が点った。一瞬、雨の下の空気がさわやかになった。
「立って深呼吸しろォ!」
 相馬が叫び、私たちは鼻腔を鳴らして胸いっぱい大気を吸いこんだ。相馬が叫びつづける。
「よーし! 最後の足掻きだ。みんなベンチに腰を下ろせ! 柴田、ひょろひょろ球だ。好きな球が一球ぐらいくるだろう。それをひっぱたけ」
 願いはまぎれもない奇跡につながった。柴田センター前ヒット、木下レフト前ヒット、七戸レフト前ヒット、ふたたび打順がめぐってきた梶田がショート内野安打と、短打でしつこく刻んで五対五の同点に追いついた。何が起きたのかと場内騒然となり、青高スタンドが傘を上下させながら祭りのように荒れ狂いだした。いたるところで悲鳴が聞こえる。ついに吉岡がセンター前ヒットを打って逆転、金押し出しのフォアボール。七対五。あろうことか、山内連続押し出しフォアボール。八対五。今度こそ金太郎コールをいっせいに背に浴びて、私はライトの芝生席へ高く舞い上がる満塁ホームランを放った。十二対五。
「おーい、八甲田山と逆のことが起きたぞ。天はわれを見放さなかった!」
 相馬がだれかれかまわず抱きついている。さっきホームランを打った室井が、どう見てもわざとらしい三振で攻撃を終わらせた。彼は、決勝へいくぞ! と叫ぶと、泣きながらキャッチャーボックスへ走った。
 九回裏、クローザーの小笠原も泣きながら全力投球し、ヒット一本の零点に抑えた。


         百二十

 目覚ましいドラマを目の当たりにして、青高スタンドばかりでなく球場全体が優勝したような大騒ぎになった。雨に打たれながら整列して、礼。サイレンの鳴る中、蒼白な顔をしている黒石の連中と握手。彼らは笑顔で涙を流していた。私はチームメイトと三塁側スタンドへ駆けていって最敬礼をし、校歌斉唱を聞いたあと、ボロボロ泣いているカズちゃんと山口を見上げて手を振った。そこへ、大傘差したマイクとカメラが殺到した。
「決勝進出おめでとうございます。壮絶な試合でした。九回ツーアウトから十二点。観客一人残らずわが目を疑いました」
 ベンチ前を見返ると、逆転のきっかけを作ったヒーローの室井がマイクを向けられている。その周りにチームメイトたちが茫然と立って涙を流している。私も湧いてくる涙を掌で拭った。記者が私に傘を差しかけた。突き出されたマイクに、
「信じられません―」
「九号。今年もダントツの三冠王ですね。打率五割九分というのは、すごすぎて唖然とします。ホームランにしても、神無月選手の次が、義塾の杉山選手の三本ですから、これまた比較の対象ではなく―」
「杉山? 野辺地中学校出身の杉山四郎ですか」
「そうです」
「彼は中学三年時の同級生です」
「杉山選手もそう言っておりました。奇遇ですね。同じ中学校出身で、同じ二年生の四番バッター」
「四番……。今年の義塾はどんな具合に勝ち上がってきたんですか」
「ここ二試合は、八戸電波を八対○、盛岡三高を四対一で破っています。その前の二試合はコールドでした。柳沢投手はほとんど完封で勝ってきています」
「柳沢というピッチャーは、よっぽど速いんですね。ほとんど点を取られていない」
「戸板投手と同じ百五十キロ前後のスピードボールを投げます」
 今度こそ最後の試合になると思った。四打数一安打。せいぜいそこまでだろう。思い出の試合になりそうだ。どうしても一本ホームランを打ちたい。
「すばらしい試合を期待しています」
「がんばります。きょうの室井さんのようなラッキーヒーローが出れば、勝てるかもしれません。そうでないかぎり、ぜったい勝てません」
 千年小学校の服部先生を思い出していた。有能な選手がいれば勝てる、と食ってかかった日がなつかしい。有能無能など関係ないのだ。全員が心を合わせ、その試合ごとにだれかがヒーローの名乗りを上げれば、かならず勝てる。私はホームランを打つことにしか興味がない。勝敗と関係なく、ホームランを打って人を喜ばせることにしか興味がない。私はチームプレイに向いていない。
 帰り道、ワイパーが雨をしきりに払うバスの中で、相馬が、
「みんな、すばらしい試合を見せてくれてありがとう。室井、もう気持ちは鎮まったか」
「はい!」
「よし、まずは吉岡、金、山内が満塁にした功績に感謝! 次にみんなに深い絶望を与えた金太郎のファーストライナーに感謝!」
 ドッと笑いが上がる。
「あの絶望がなかったら、室井の火事場の馬鹿力の満塁ホームランも、柴田、木下、七戸の連打も、梶田の同点打も、吉岡の逆転打もなかった。中でも最大の殊勲者、室井に拍手!」
 室井は拍手喝采の中で頭を掻いた。まだ腕で目を拭っている補欠がいる。相馬が、
「諸先生がた、応援ありがとうございました。もう一試合、たいへんでしょうが声援のほど、よろしくお願いします」
 また盛大な拍手。廊下や職員室で見た覚えのある教師ばかりだ。みんな目が充血している。石崎が、
「どうだ、神無月、決勝戦の勝算は」
 私は仲間たちの顔を見ながら、
「勝敗はわかりません。きょうのような奇跡を願ってますが、負けても悔いのない試合をしたいです」
 相馬が、
「金太郎、檄を一ついけ!」
「はい。みんな心を合わせ、ただ投げまくり、打ちまくって、どんな結果であれ心から喜びましょう!」
「オッシャー!」
 みんなさばさばした笑顔でこぶしを突き上げた。
「神無月にばり頼ってられねもな。ぶんぶん振ってやるじゃ」
 と金が言った。
「金さんのガシッというミート音は、みんなを奮い立てます。長田さん、柳沢が失点した経緯をすぐ調べられますか」
「ちょっと待って。予選の結果を切り抜いてスクラップブックに貼ってあるすけ」
 長田はいつも肌身離さず携行している肩掛けバッグから、分厚いスクラップブックを取り出し、予選四試合の柳沢の記録を調べた。西沢をはじめとする教師たちが、まだ興奮の冷めないピンク色の頬で私たちの様子を見守っている。
「ゼロ、一、ゼロ、一。合計失点二、すべてホームランです」
「やっぱり出会い頭か。決勝戦は、二年間の青高チームの攻撃法の総決算になりましたね。それでも三点ぐらいしか取れないでしょう。ぼくはかならず一本は打ちます。みんなもホームランを狙ってください。柳沢から連打で得点をあげるのは難しいです。バントで送っても、流れを断ち切られるにちがいありません。小笠原、三点以内で抑えれば優勝のチャンスがあるかもしれない。できるだけ完投するつもりでいてね。ぼくたちも最大限の努力をする」
「わがった。肩抜げでも投げるじゃ」
 応援団や教師連がじっと聞いていた。西沢が言った。
「神無月が作りかけた伝統を、これから青高が築いていかなくちゃならないな。これはある意味厄介だよ。受験校という伝統に、もう一つ伝統が加わるわけだ。天才が作り上げた伝統を維持していくのは荷が重い。来年からは硬軟とり混ぜていかないと、ね、相馬さん」
「いや、せっかく作り上げてもらった伝統に磨きをかけます。硬はあっても、軟はありません。メガトン打線を目指します。もちろん小ワザも鍛えたうえで。いいな、みんな」
「ウィース!」
「うん、メガトン打線か」
 西沢が明るく笑い、つられてほかの教師や応援団も明るく笑った。メガトン打線というのは、おととし、百三十本以上のホームランを放った大洋ホエールズにつけられたあだ名だ。相馬以外のバスの中の連中はそのことを知らないようだった。飯場のテレビのナイター中継が目に浮かんだ。
「何ウスラッとしてんだ、神無月。にやにやして」
 小笠原が私の顔を覗きこむ。教師たちも私を見つめる。
「メガトン打線大洋ホエールズの桑田、彼の打球を思い出してた。長嶋の三冠王を二度じゃました男だ。ホームラン王と打点王」
「覚べでら。エイトマン。三割打ったこどあったべが」
「あった。リーグ優勝した昭和三十五年、三割一厘」
 バスの中にオーッという喚声が沸いた。
「どったら記憶力だ!」
「中三の夏までのプロ野球ならほとんど覚えてる。背番号もぜんぶね。一生覚えていると思う」
「……野球休むの、さびしべや」
「さびしくはない。自主練習で一年半、つなぐ。走ったり、バットを振ったりしてれば、グランドは目に浮かぶからだいじょうぶだ」
 相馬が言った。
「神無月にとって、そうやって目に浮かぶグランドって、どういうものなんだ」
「最高の遊び場所です」
 西沢が首を振りながら、
「ダンディ神無月、おまえは才能で光ってるのはもちろんだが、それ以上に野球への愛情で輝いてる。それが私たちを照らすんだよ。愛のない人間にだれが照らされるものか。私たちに人を照らせるほどの愛があるかどうか疑わしい。……名古屋へいったら、いろいろの雑事がじゃまをして、野球への愛情が薄れないことを祈る。好きなように野球をやりつづけてほしい。プロになんかいかなくてもいい。いや、結局はいくだろうけどね。人の期待に奮い立つ必要などないということだ。ただ、きみが野球をやりたいときに野球をやって、人を照らせばいい。きみのホームランを見た人間は、あの光のような一直線を死ぬまで忘れないよ」
 部員たちが鼻をすすった。応援団もすすり泣いた。団長が言った。
「神無月くん、西沢先生の言うとおりだ。この一週間、ンニャ、最初の練習試合から数カ月、夢の中にいるよんだ。ンガのおかげで、オラたちは何度も夢を見た。……それはたぶんおめが野球という夢を見つづげでるせいだと思る。おめが野球をする姿には、現実感がねんだ。それがオラたぢを夢の国にいるおんた気にさせる。いい土産コもらった。来年からも青高野球部は、グランドを夢の国にするようがんばるじゃ」
 石崎が薄い髪を撫ぜながら、
「みなさん、いいことをおっしゃいますね。こんなふうにだれにも嫉妬をされず、敬愛のみ与えられる人格というのはめずらしい。天才というひとことでは片づけられない深い人格を感じる。いやはや、グランドであんなに光を振り撒いてる男が、こんな静かな人間だとはなあ」
 相馬が、
「目の前の瞬間だけを大切にして生きてるからでしょうね。子供と同じです。いちばん難しい生き方だと思います。人間というのは〈いまよりももっと〉が基本ですからね。その基本に疑いを抱く人間はほとんどいない。もちろん、人間はそのよき欲望のおかげで文明を進歩させてきたんですが、神無月のように何の欲望もなく、穏やかに、ただ瞬間にただよう人間もいるんです。彼のような人間がいてくれると、はたの者は文明のあわただしさの中でホッとくつろぐことができる。みなさんのおっしゃるような〈光〉に目を休め、それに照らされて安心できる。……私はきみのことを終生忘れないよ。できれば、生きているうちにもう一度会いたいと思う」
 私は深く頭を下げ、
「褒められる一方で申しわけないので、唐突ですが、お礼に歌を唄います。ぼくは身のほど以上の厚意に感激すると、唄いたくなるんです。山口という友人の話によると、ぼくの声は人を泣かせて慰める声だそうです。青森を去るのは本意ではありません。その無念を唄わせてください。橋幸夫の『あした逢う人』という曲です」
 私はすぐに唄い出した。

  雨降りゃ雨に 雪降れば雪に想うよ 
  北斗星 雲が悲しくさえぎろうと
  七つの星は消えやせぬ
  あしたは逢える あの人に 

 割れんばかりの拍手が起こった。バスの運転手はとつぜん松原通の道のかたわらに停車し、後続のバスをやり過ごした。あと五分もすれば青森高校だ。運転手はうなだれて耳を立てた。私は唄いつづけた。  

  アカシアそよぎ 唐きびを焼いて売る店
  北斗星 鐘が鳴る鳴る北の街
  二人の恋の実よ 稔れ
  あしたは逢える あの人に

 バスの中が賞賛の叫びと拍手に満たされた。教師、応援団、チームメイト全員が手を激しく拍ち合わせている。
「なんて声だ!」
「信じられね」
 相馬が私を抱き締め、小笠原や室井が二人を巻き取るように腕を回した。運転手が運転席を離れ、帽子を取って私にお辞儀をした。
「ありがとうございました。運よく、すばらしい場所に同席させていただきました。一生の思い出になりました。あさっては別のバスの運転です。優勝を祈っています」
 ふたたびバスが走り出した。西沢が私の肩に遠慮がちに手を置いた。
「去年のバス旅行の歌もすばらしかったが、きょうの歌は胸をえぐった。きみと別れるのは悲しい。しかし……仕方ないな」
 石崎が、
「熱でも出して、転入試験落ちないかな」
 西沢が、
「いや、熱を出しても受かるでしょう。とにかく神無月の姿を目に焼きつけておくことです。おそらく、二度と会えませんよ」


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