百三十六

 野辺地川を渡る。左手に野辺地病院を見下ろしながら、駅のロータリーに出る坂を上っていく。鳴海旅館を過ぎる。ロータリーの突き当たりにある松浦食堂に入る。どこにでもある大衆食堂だ。ホタテフライ定食がお勧めと壁に貼ってあるが、ホタテは食い飽きている。小声で言う。
「食堂のホタテはまずい。新鮮なものは都会に送られちゃうから、地元には少し傷んだものが残るんだ。浜から採ってきたばかりのものにはかなわない」
「少しウンコくさくなるのよね」
 ヒデさんも小声で言って、ふふと笑う。ラーメンをライスつきで三人前注文する。時間をかけて出てきたラーメンには、ホウレンソウ、シナチク、油麩、かまぼこ、チャーシューが載っていた。油麩がダシを吸ってうまい。
「このチャーシュー、おいしい! 十枚でも食べられる。青森は豚も特産だから」
 ヒデさんが一人でしきりにうなずている。彼女は豚肉鶏肉に詳しい。
「うん、麺の歯応えもいい。また、このめしがうまいな。厚いタクアン四枚は大盤振舞いだ。これもうまい」
 うまい、おいしい、とみんなでうなずき合う。
「一子さん、神無月さんのお祖父さんとお祖母さんに会っていきましょうよ。これから連絡の橋渡しになってくれる人たちだから」
 ロータリーでタクシーを拾って合船場に戻った。タクシーの中でヒデさんは、私の手を握った。一子は素知らぬ顔で窓の外を眺めていた。
 じっちゃは少女たちの訪問にどぎまぎし、
「どちらさんかな」
 といつものように尋ねた。浜から帰ったばかりのばっちゃが、
「山田のイチコと、種畜場のヒデだ。このジサマ、仙人みてだべ。ヒデは何度かきたべに」
 と呆れ顔で言った。二人が笑った。山田と聞いて、じっちゃは、
「山田医者に線香あげてきたのな」
「うん」
 一子が、
「神無月さんは、野辺地に戻られるたびにおくやみにきてくれます」
「ボッケもガマも忙しそうだったから、この二人と松浦食堂で昼めしを食った」
 ヒデさんが、
「これからもときどき、神無月さんの噂を聞きにきます。神無月さんは私たちのあこがれですから」
 耳がくすぐったいといったふうに、ばっちゃは片方の肩を上げて微笑した。
「郷を駅まで送っていくんだべせ。ワもいが」
 じっちゃが
「せっかくきたんだすけ、土間先で帰らねで、茶の一杯ぐれ飲んでいったらいがべせ。青森さ帰る汽車ならなんぼでもあらい」
 煙草を吹かしながら言う。名残惜しいのだ。
「当分会えなくなるからね」
 私は囲炉裏に坐った。二人は私の下座に並んで坐った。高い梁を見上げる。天窓の隙間から少し青空が見える。ばっちゃが新しい茶をいれた。
「イチコは野高さへったばりだったって、ヒデはなんぼになったのよ」
 ばっちゃが尋いた。
「十五です。野中の三年生」
 何度も話しましたよ、という顔で笑う。記憶のいいばっちゃらしくないなと思った。深い関心がないのかもしれない。一子が、
「中島さんは、横山さんと一番を争ってるんですよ」
「恵美子とな。大したもんだでば」
「青高にいくんですって」
 茶をすすりながらばっちゃが、
「郷と入れちげだな」
 ヒデさんはうなずき、
「残念です。神無月さんに会いたくて勉強してたんですけど、こうなったら、ちゃんと青高に入って、しっかり勉強して、神無月さんと同じ大学を目指します」
 じっちゃが新しい煙草に火をつけ、
「郷は赤門(あがもん)でェ。無理だべ」
「無理だからがんばるんです」
 ヒデさんが私の顔を見るので、
「そうだね、どんな目先のことでも、計画なんか立てずにがんばるのが大切だ。……そうできるなら、ぼくはそうしたい。でもいまはできないんだ。計画を立てて、成功するしかない」
 じっちゃがさびしそうにうなずく。ばっちゃは不満げに、
「受がらなかったら何けでも受げればいがいに」
「受かることが目的じゃないからね。一刻も早くたどり着かなくちゃイケないその先がある。でもたどり着くのに受かることが必要なら、さっさとすましておかないと」
 ヒデさんが、
「私もそう思います。でも、それだけの力が自分にあると思えないので、一年くらい浪人するかもしれません」
 じっちゃは煙を吐きながら、
「郷はつくづくおなごに好かれるこった。こねだここさきた葛西さんの娘も、思いつめた顔してたでば」
「え! あの人が野辺地にきたんですか」
「十三歳ってへってたな。奥山先生の親戚だこだ。郷さモーションかげるのは、しばらぐ待でってへってやった」
「似合わねこどして」
 ばっちゃが苦笑いする。
「じっちゃのすることに似合うも似合わないもないさ。何をしてもサマになってるよ」
 ばっちゃが、
「郷はアダマがあるたって、極楽トンボだすけ、先がどうなるかわがんね。野球のほがに働くあでもねべ。惚れたら郷の面倒見ねばなんねかもしれねど」
 じっちゃが、
「ンだな。郷はなんぼでも仕事をする能はある。だども、ンガもへってたべ。郷は仏さまだ。仏さまが働ぐもんだってが。ふとに養われればいじゃ。欲のねワラシだすけ、金もかがらね。死ぬまで養っても大したこともねべ」
 じっちゃは豪快に笑った。ばっちゃが、
「郷に惚れでらなら、郷の好きにさせるしかながべ。したら、いい仕事すら。オラが若がったらそうするじゃ。このじっちゃも似たようなもんだ。女に惚れられるのも、じっちゃからきた血だ。郷は、まどもな生活を送れる人間でね。何でもでぎるよに人さ見えるのは錯覚だ。野球しかでぎね。じっちゃも同じだ。アダマいたって、ボイラーしか焚げね。いい腕してても、未練もなぐ好きだとぎにやめてしまる」
 ヒデさんの瞳が輝いた。
「女の人はみんな、神無月さんを引き受ける気でいます」
 じっちゃは磊落な笑いを収め、
「そたらオナゴがいるもんだってが」
「います! 神無月さんには、たくさん女の人がついています。私だってもう少し大きくなれば、神無月さんのお世話ができます」
 ばっちゃが目を細めた。一子が腰を浮かして何か言おうとしたが、また腰を下ろした。私は頭を掻きながら、
「ぼくの生活力という問題だけど、じっちゃやばっちゃの言ったことは事実にしても、うまく野球をやれてるうちはたぶん何の問題もないよ」
 じっちゃが、
「たンだ生ぎればいんだ。てめの頭をてめで養ってれば文句ね。食う口はだれに養ってもらってもかまわねんだ」
 じっちゃの言葉に、ヒデさんはさらに強く瞳を輝かせた。ばっちゃが立ち上がった。
「そろそろ、あんべ。三時半の下りがある」
「まだ早いよ、ばっちゃ」
「何、そたらに年寄りと話すこどがあるってが。早く帰って、やるこどやれ」
 やることは勉強しかなかった。一子が、
「私、お見送りの帰りに、夕ごはんの買い物していきます。おかあさんが六時に帰ってくるから仕度をしておかなくちゃいけないんです。秀子さん、うちで食べていかない?」
「そうする。お手伝いするね。あとでおかあさんに電話するわ」
 私は腰を上げ、じっちゃに明るく声をかけた。
「気が向いたらときどき帰ってくるよ。名古屋からは飛行機で一っ飛びだから。筆マメにしたいけど、あんまり手紙は書けないと思う」
「勉強がてえへんだすけな」
「うん。元気でいてね」
「おう、だばな」
 大きく笑った。土間で靴を履き、障子から一度振り返って見た。笑い顔と、しょんぼりした肩が目に残った。
 黄昏がきている。涼しい風の中をゆっくり、目に馴染んだ町並を眺めながら歩く。本町の坂道で岡田パンに遇った。白衣を着て、空箱をライトバンへ積みこんでいた。にやにや目礼を交わしただけで通り過ぎた。ばっちゃも少女二人も挨拶しなかった。
 ヒデさんが首をひねり、
「私は不思議です。あんなにテレビや新聞で騒がれたのに、だれも振り向きもしないのは」
「一朝一夕では、人はなかなかチヤホヤしてくれるもんじゃない」
「しっくりしないわ。神無月さんの噂で野辺地じゅうが持ちきりだと思ったのは錯覚だったのかしら。うちの家族は大騒ぎしましたけど」
「関心を持ってる人は騒ぐし、持たない人は騒がない。それだけのことだよ」
「キョウは騒がれたぐねんだじゃ。その気持ぢがみんなさ伝わるのよ。騒がれてェ人間はヨダレ垂らしてんのせ。キョウはヨダレ垂らさね。それがシャラクセってわけだべせ。それもこれも、キョウをこったらふうにしたスミのせいだ。垂らしていいヨダレも垂らせねぐしたのよ。そのとぎ、うまぐ野球さいってたら、青森さ流されるこどもながったべし、くだらね勉強をするこどもながったべし、こったら面倒くせことして、名古屋さまた戻るこどもながったべせ。……オラは短いあいだでもキョウと暮らせで、うれすくてあった。郷がくるまで何もながったもの。だすけ、キョウがどったらふうに生ぎでも、好ぎだようにさせてやりてのよ」
 ばっちゃが懸命に涙をこらえている様子を見て、ヒデさんはもらい泣きをした。
「ばっちゃ、帰れるときは、かならず帰ってくるからね」
「たまに手紙コけろ。それでいじゃ」
 改札を入るときに手を振り、跨線橋を渡って反対側のホームから列車に乗りこむときも手を振った。老女一人と少女二人はいつまでも手を振っていた。
         †
 水曜日の夕刻から猛勉にとりかかった。深夜に近く、ユリさんがインスタントコーヒーと夜食を差し入れた。肉豆腐と、一膳のめしと、ひやむぎ。美味。いつものようにユリさんは机の足もとに控える。
「うれしそうに勉強してましたね。生きいきしてました。……野球は成功するし、勉強は名門受験校のトップクラスだし……何の不満もないはずなのに、どうして大きく開けそうな未来を捨てていくんだろうって、私、何日も考えてみたんです。あの新聞記事もじっくり読んで。それでフッとわかったような気がしました。お母さんの妨害に胸が躍ったんですね。どんなつらいことでもうまく乗り切ることができれば、その瞬間は神無月さんもきっとうれしいんだと思います。自分の能力で自然とうまくいくことはちっとも悪いことじゃないし、とてもいいことですけど、そうなると神無月さんの中で〈何か〉ストップしちゃうんですね。神無月さんにとってスムーズな成功は、退屈で、やるせないことなんでしょう。成功とか失敗とかに関係のない、心の底からふるえること、それを感じながら生きていくには、未来なんか見てちゃいけないということなんだと思います。うまく言えませんけど……確実な未来なんか見てると、確実な〈いま〉に感謝できなくなっちゃうということなんじゃないかしら。その〈いま〉の中に野球があって、勉強があって、人との関わりがあって、ということじゃないかしら」
「とてもすてきな考え方だけど、少しちがう。何だってスムーズなほうがいいに決まってる。いまの生活も捨てていくんじゃなくて、捨てざるを得ないんだ。そのことに胸は躍らない。……ただ、胸躍らないことに努力する体質の人間ではあるね。目標が定まっていればね」
「……野球って、神無月さんにとってそれほど価値があるものなんですね」
「奪われると、底冷えのするほど恐ろしいものだ。死にたくなる。愛情は奪われると、恐怖より先にあきらめがくる。無力感というやつ。何ものかに向かって努力する気がなくなる。自然な生命活動の停止だね。底冷えのする恐怖感はない。もっと温かい感じであきらめられる。野球は、それがないなら死んだほうがいいかなって思う。生命活動が自然と停止するんじゃなくて、積極的に停止させようと思う」
「……神無月さんが初めてここにきたとき、なんて悲しい顔をしてるんだろうって思いました。悲しみに手足をくっつけて生まれてきた顔。そういう男の人って、どうにかしてあげたくなるものなんです。でも、助けられたのはこっちでした―たくさんの人を助けてあげてくださいね。神無月さんに嫉妬を焼く人間なんていない。男も女もきっと、あなたに遇えただけで救われて感謝すると思う」
 それは逆だ。私は私に愛を注ぐ人間に蘇生させられてここにいる。自分だけの目標を達成することはその結果与えられるものだ。だから、私を愛する人びとのしゃべるすべてのことに耳を傾け、彼らの行動を目撃する義務がある。
「神無月さん、この一年間、ほんとにありがとうございました。もうじゅうぶん。あしたから、もう私を抱いてくれなくてもけっこうです。思い出をしっかりからだにしまいこみました。あと三日間、日に三度、おいしい食事を作ります。好きなだけ机に向かってくださいね。三十日の土曜日に神無月さんが北村さんの家に移ったあと、荷物をちゃんと野辺地に送っておきます。洗濯物は置いてってください。一生の思い出にしまっておきたいんです。出発するとき、最後のキスをしてくださいね」


         百三十七

 金曜の昼まで睡眠を忘れて、と言っても、三、四時間は眠ったが、ひたすら勉強に没頭した。太宰治を読んだときと同じ集中度だった。疲労の度合いに応じて、数時間おきに科目を替え、全科目、一年半のあいだに学んだ範囲で目ぼしい箇所をすべて復習した。
 ユリさんは夜の褥にやってこなかった。食事は、彼女の再三の諫めに背いて、一日に一度しかしなかった。不規則な時間に部屋を出て、娯楽室でテレビを観ているユリさんに腹がへったと催促し、いっしょに食べた。彼女は腕によりをかけて、何種類も豪華なおかずを作った。
 金曜日の昼さがりから荷造りを始めた。いのちの記録と詩稿ノート、筆記用具、それから、歯ブラシと歯磨き粉を学生鞄に入れて持っていくことにした。金の入った茶封筒は鞄の底に忍ばせた。京都の下駄と、二足あるうち茶色いほうのイタリア製の革靴一足、学生服と学帽、衣類、テープレコーダーとリールテープ、教科書・問題集・参考書をダンボール箱四つにまとめた。学生服を入れた箱の蓋に、八月五日の夕方に到着すると記したメモを貼りつけた。合計五つの箱を中央郵便局までユリさんといっしょにタクシーで運んで名古屋へ送った。蒲団と机を含めたそのほかの荷物は、引越し屋を呼んで野辺地に送るように念を押した。
 激しい疲労と眠気がとつぜんやってきたので、夕方から五時間ほど意識なく眠った。目覚めたころに、ユリさんが戸を開けて、風呂を勧めた。
「今夜は離れで寝てください。その蒲団は、綿を打ち直しても使い物にならないから、捨てておきます。ストーブと、机とスタンドと本箱、それから本や雑誌はぜんぶ野辺地に送りますね。そのほかこまごました小物はまとめて名古屋に」
「ありがとう。詩集だけ部屋の隅に積んでおくから、いつか古山という青高生がきたら渡してあげて。最後のキスなんてユリさんは言ったけど、悲しすぎるから、今夜、いっしょに寝よう」
「……はい。下着、買っておきました。ブレザーの上下とワイシャツはあるみたいですから、これで安心して出発できますね」
 狭い湯船に絡み合うように二人で浸かった。数日の汗が湯に滲み出していく。ユリさんの胸が心地よく押してくる。
「あの蒲団、名古屋から送られてきた蒲団だ。小学四年から使ってたものだ。足かけ八年か。汗と脂の沼だね。捨てるのたいへんだよ、重たくて」
「灯油をかけて、ドラム缶で燃やします。悲しみも、苦しみも……ぜんぶ吸い取ってきた蒲団でしょう? 出発のためには燃やさなくちゃ」
「そうだね。……旦那さんは、いつ帰ってくるの?」
「さあ、いつかしら。もう帰ってこないかもしれない。帰ってきても受けつけません」
 ユリさんの唇を吸う。ユリさんは湯船の中で私の坊主頭に石鹸を立てる。愛しげに指の腹でまんべんなくこする。石鹸が私の肩や湯の面に散る。湯殿へ首を突き出させ、湯をかける。いっしょに湯殿に上がり、私をタイルに立たせ、自分はひざまずき、指先でそっとこすり上げるように尻の穴まで指先で確かめて洗う。足指の股を洗い、足の裏を軽石でこする。全身に仕上げの湯をかける。
「これでピカピカ。さ、上がりましょ」
 頭の先から足指の先までバスタオルで拭う。蒲団に入り、ユリさんの愉悦が拒絶に変わるまで私は励む。
「神無月さん、もうだめ、もうじゅうぶん!」
 私がほとばしらせ、ユリさんの呼吸が安らかなものになる。抜き取って仰向けになると、ユリさんはティシュで茎を拭い、微笑みかける。
「ありがとう……もう、ほんとに思い残すことはありません」
 胸にピタリと手を置き、
「神無月さん……」
「ん?」
「あなたは何をするにも浮世離れしてるわ。野球も、勉強も、女を抱くのも。なぜだかわかります?」
「さあ、考えたこともない」
「自分の快楽を憎んでいるからです。楽しんでいる自分を、ふっと軽蔑してしまうからです。無欲であることに美しさを感じているのね。きっと、それは自分では意識していないことで、自然な心の動きなんでしょう。理由はあるにちがいないわ。小さいころから、大勢の不幸な人にあまりにも同情しすぎたせいだと思うの。そういう心って慈愛というものなんでしょうけど、慈愛をうるさがる人もいるんですよ。不幸が好きだっていう人もいるの。神無月さんを愛する人は、基本的に幸福が好きな人。神無月さんに会えたことに感謝の気持ちを持てる人。幸福な人は、自分以上の存在に感謝できる心を持ってるの。だから神無月さんが愛し返してあげても報われるんです。不幸な人には感謝はないわ。もう、不幸な人のことは放っておきなさい。たいていの人は、不幸のかたまりですよ。性格が弱いこと、不運なこと、環境に恵まれないこと、才能がないこと、愛されないこと……。そんなことをいちいち背負ってあげてたら、死ぬしかなくなります」
「わかるよ。もしぼくがそんな人も愛する人間なら、ある意味、傲慢だね。救済の能力を過信していることになるからね。でもね、ぼくには慈愛などという建設的な心持ちはないんだ。いつかわかってくれる日がくると思うけど、ぼくの心の底にはいつも倦怠があるんだ。悪く言えば、無気力、無関心、よく言えば、海綿のように無限に吸収する精神。でもそれはあえて格好よく表現しただけのことで、ぼんやり、ただ生きている人間というのがピッタリかな。人を愛することがいちばん大切だと感じながらね」
「そんな重いことを、そんな明るい顔で言わないでください。倦怠なんて捨て鉢なことを言いながら、明るく笑ってる。この一年、どれほどその笑顔に救われたかわからないわ」
 私の願いは、野球だけ手中にしたら、愛する者たちとともにこの世から隠れ住むことだ。それだけでいっさいの不足がない。隠れ住むことが叶わないから、愛する者たちを安心させるように、野球をしたり、勉強したりして、彼ら以外の人びとと歩調を合わせて暮らしていこうとしているのだ。私は愛する人を愛したいだけで、救いたいとは思わない。慈愛などという不自由な身構えで、興味のない人びとと関わる気力はない。
「ユリさんはすばらしい言葉を吐く。ユリさんに愛されてることが、ユリさんの言葉からわかる。それだけでうれしい。……ぼくは快楽を嫌ってないよ。神秘を感じてる。自分を無欲な人間だとも思ってない。社会的に上昇していきたいという願望を持っていないだけなんだ。小さな集団の競争には興味がある。ホームランを打ちたいとか、勉強で一番になりたいとか。……不幸な人もあまり見てこなかった。やさしい幸福な人ばかりを見てきた。だから慈愛の心なんて持ち合わせない。水俣病患者をテレビで観たときも、心は動かなかった。いつかユリさんがぼくをエゴイストと言ったのはバッチリ当たってる。身の周りにエゴの警戒線を張って、愛してくれる人以外近づけないのは、希望を持たされて、そしてその希望が挫折してしまうのが怖いからだ」
「希望を挫かれる経験をしたんですね」
「うん。そして現在進行中だ。ぼくはあのころ希望の山に登ろうとしていた。その足を引き摺り下ろされた。才能がなかったからじゃなくて、たまたま引きずり下ろす人に遭遇した不運があったからだと納得した。貴重な納得だ。何の妨害もなく希望の山になんか登れないと納得したから。いまもぼくは懲りずに希望の山に登ろうとしてる。その足に、引き摺り下ろそうとする人の手が掛かってる。ぼくを愛してくれる人たちがその手を払いのける手伝いをしてくれる。引き摺り下ろされないための方策は教えてくれながら、わが身を捨ててね。わが身を捨てる愛。そういう愛にぼくは身を捨てて応えなくちゃいけない」
「命を捨てるということ?」
「それじゃ応えられない。彼らに生涯の時間を費やして付き合うということだ。……少しずつ、ぼくは変わってきた。変わってきたことに確信が持てないので、まだ説明できないけど。……彼らが身を捨てる中に、自分の希望を捨てることまで含まれているなら、ぼくも、いつでも希望を捨てる覚悟でいることを返礼に含まなくてはいけないと思えるようになった」
「……身を捨てる愛だけではなく、ただ愛するだけの愛も、愛に変わりはないと思いませんか?」
「思わない。身も捨て、希望も捨てる愛でないものは、愛と言わない。偏執だ」
「そういう人にも応えるんでしょう?」
「応えない。そういう人は、ぼくに近づかない。近づくときは傷つけようとして近づく。簡単に防御できる」
「……何があろうと、野球という希望を捨てないでくださいね。身を捨てて神無月さんを愛してる人たちは、神無月さんが希望を持つ姿を愛してるんですから」
         †
 目覚めると、十時だ。ユリさんは食堂にいる。下痢状の排便をし、シャワーを浴びながら歯を磨き、彼女の用意した新しい下着をつける。食堂へいき、玉子を落とした味噌汁を飲む。
「よく眠れました?」
「うん」
「この三日間、ほとんど寝ていなかったですものね。死んだように眠ってましたよ。そんなに疲れてて、よく……。どうお礼を言ったらいいかわからない」
 ユリさんは、じっと私を見ている。泣いているにちがいないので、視線を合わせないようにする。あらためて手帳に名古屋の住所を大きい活字で書く。
「手紙をくれてもいいけど、返事は書かないよ。さびしさというのは、寝床に入って天井を見つめながら、一晩のうちに消化してしまうのがいちばんいい」
「自分に厳しくということね。神無月さんの明るさのもと」
 鼻から生あくびを押し出す。
「だめよ、そんな照れ隠しをしても。これからは人の言うことを素直に聞くこと。神無月さんを褒めるときは、みんな本気なのよ。だって神無月さんは、わざわざ褒めてあげなければ気の毒だっていう人じゃないもの」
「ごちそうさま。じゃ、用意する」
 部屋に戻り、ブレザーに身を固める。畳から壁、押入、窓、天井まで見納め、学生鞄を持ってユリさんの待っている廊下に出る。玄関から裏庭へ回って木や花を見納め、八甲田山系を見納め、健児荘の板看板を見納めてから、ユリさんと松原通まで歩く。
「……お別れね」
「里帰りのときに会いにくる。大学に入ってからかもしれない」
「期待しないでいつまでも待ってます。神無月さんの消息は、新聞でわかります。東奥日報が追跡記事を書くって宣伝してました」
「しばらく息抜きするよ。監視つきで」
「嘘。神無月さんが息抜きなんか」
「うん。でも、抑圧を喜んでこそ、自由はある」
「だからいつか会いにきてくれる。どんなことでも息を抜かない人。おまけに、息を抜かないことが本能の人。愛されるに値する人」
「今度会いにきたときに、もっともっと褒めてもらう。じゃ、いくよ」
「風邪をひかないように。神無月さんには大敵だから。―さようなら」
「さよなら」
 桜川へ曲がりこむ辻で手を振った。サンダルを履いたスカート姿がいつまでも立っている。振り返り振り返り、次の道の角からもう一度手を振った。神宮の参道の闇から見送っていた節子にそっくりだった。
         †
 カズちゃんは全身ピンクの正装をして庭の花を見ていた。それから異様に美しい顔で曇った空を見上げた。
「カズちゃん!」
「あ、キョウちゃん! もうコーヒーも飲めないわよ。きのうのうちに荷物送ってしまったから。今夜は寝る蒲団もないの。ホテルに一泊するのも中止。このまま出発」
「すてきだ!」
「部屋を見てからいきましょ」
 どの部屋もすっかり片づいて、居間にガラス板を載せたコーヒーテーブルが一つポツンと置いてあった。
「みごとな手ぎわだね。このテーブルは?」
「大家さんがめずらしがったからお礼にあげたの。キョウちゃんはカバン一つ?」
「うん、剥ぐほどの身ぐるみもなかったけど、さっぱりした」
「出かけましょ。青森高校は?」
「グランドからの眺めを頭にしまってある。とっくのむかしに」
 玄関に出て、庭を見納め、家のたたずまいを見納める。カズちゃんもいっしょに眺めながらやさしい声で、
「羽島さんとは、ちゃんとお別れできた?」
「しっかり」
「私とは合格してからよ。約束だから」
「わかってる」
「それまでは、トモヨさんに面倒見てもらってね。五日の夕方に飛島にいく予定だとすると、四日の晩までトモヨさんの部屋に泊まればいいわね。高校にかよいだしたら、私とはいつでも会える。キョウちゃんなら簡単に受かる高校だけど、節目の心構えをきちんとしたいの」
「ぼくもだよ。カズちゃんといっしょに歩きはじめるんだ。最初が肝心だ」
「堤橋からの眺め、最後に見ておきたい。あそこまでタクシーでいきましょ」
 カズちゃんはいつものとおり大きな鰐革の四角いバッグを提げ、玄関から歩み出した。松原通でタクシーを拾う。通り過ぎる家並を目で追う。それほど頻繁に歩いた町ではないけれど、名残惜しい。藤田靴店と灯油屋を過ぎる。堤橋に着く。
 堤橋の欄干に手を置いて、カズちゃんは川面を眺めた。ピンクのワンピースがまぶしい。
「ここからの眺め、いつ見てもすてき。散歩で何度もきたの」
「カズちゃんのこと、ほったらかしにしてたから、あまりいっしょに出歩けなかったね」
「キョウちゃんが暇になることは、これからもないと思うわ。自分のために生きられない人だから。どんな宗教人よりも宗教的。キョウちゃんのいる場所は、神聖で清らか。いっしょにいると、透明な聖水に浸ってるような感じになるの。そういう人だから愛したんだわ。死ぬほど」
 人目をかまわず抱きついてくる。カズちゃんはどんなときも、揶揄のない率直な賞賛をする。自分以外の人間を信用しなければならないという、物心がついたときからずっとつきまとってきた焦燥を彼女はみごとに吹き飛ばしてしまった。ふと気づくと、いつのまにか彼女がいた。信用できる人間がいる。それ以来、何をするにも、何を考えるにも、カズちゃんがいると思うと、安らかな気持ちになる。あれこれの複雑な思いが平明になり、信じられる人間と寄り添って生きているという喜びに暖かく包まれる。
「飛行機の切符、予約した?」
「キョウちゃんのお別れが長びいたらいけないと思って、キャンセル待ちにしたわ」
 カズちゃんはもう一度タクシーに手を挙げた。


         百三十八

 十二時半のキャンセル待ちが取れた。見送りのいない空港に、二人きりでいることに気分が浮き立ち、売店で読みもしない雑誌を買った。カズちゃんは浮きうきした顔で名古屋へ電話をしていた。こうやって人は住みなれた土地を離れていく。別れは不思議なほど簡単になされる。
 私は飛び立つ飛行機を列車に見立てた。ゆっくり動きだした列車は、汽笛を鳴らしながらいよいよ速くなり、窓の外の家々はしだいに少なくなる。そして音を立てて鉄橋を渡ったあとは、まったく田舎の風景になる。
「わー、高い! 見て見て」
 窓際に席を取ったカズちゃんがはしゃいでいる。私は何度も見ている光景を顔突き出して覗きこんだ。何もかもカズちゃんは包みこむ。これほどの満足と安堵を与えてくれる存在なのに、彼女はやっぱり底なしに不可解だ。あたりまえだ。女神なのだから。私は目の下に見える北国の風景に完全に無関心の態度をとった。そして自分の内部の声に耳を傾け、胸の奥深くに流れているざわめきを聴くことに一心になった。
 野球を再開するまでの、カズちゃんのそばで暮らす生活、ときどき訪ね、抱き合い、風や樹の下を歩き、詩を書き、勉学に励み、そうやって二人で時間を埋める生活。希望のざわめきだった。
 午後二時すぎに名古屋に着いた。快晴。空港の外にあの運転手のタクシーが迎えにきていた。
「菅野さん!」
 私は運転席の窓に手を差し伸べて握手した。よく見ると、車がタクシーではない。荒田さんやクマさんが乗っていたクラウンだ。
「よう憶えとってくれましたね。相変わらずまぶしいくらいのカップルなので、出てきたとたんにわかりましたよ。お嬢さん、お帰りなさい。名古屋は暑いでしょう。きょうは今年最高の三十六度ですわ。最近ずっと三十度超えです」
 アスファルトの上に陽炎がゆらめいている。カズちゃんが、
「どっかで冷(れい)コー飲んでいきましょ」
「レイコー?」
「名古屋ではアイスコーヒーのことをレイコーって言うの。この七、八年の流行りものだけど」
 アイスコーヒーというものさえ知らなかった。コーヒーと言えば熱いものと思っていた。あれほど何度もクマさんと喫茶店にいったのに耳にしたことがなかった。クマさんもそんなものがあるとは知らなかったろう。
「すぐ帰りましょう。みなさんお待ちかねです」
 走りだす。車内にクーラーが効いている。
「おかげさまで、私も北村席専属の運転手として雇っていただきました」
「おとうさんから電話で聞いたわ。今後ともよろしくね」
「こちらこそよろしくお願いします。昼あたりから待機しているだけの楽な仕事です。給料も、タクシーのころの倍近くになって、これまでよりずっと安定した生活を送らせてもらってます。このクラウンも自由に乗り回すようにと言っていただきましてね、天神山の自宅からこれでかよってます」
「よかったわねえ。あなたの人徳よ。お食事は?」
「毎日夕食を招(よ)ばれてます。所帯持ちですから、朝と昼は家で食べます。それでも、ぜんぶうちで食え、食い扶持はただだ、と言われます。ときどきお昼をごちそうになることがあります」
「きょうはお昼、そのへんで食べていきましょうか。私たちもお腹すいてるから」
「いや、帰りましょう。食事の用意をして待ってるんですよ。あと十五分もすれば着きますから」
「じゃ、あなたも食べなさい」
「はい、ご相伴させていただきます」
「席のほうは、相変わらず?」
「はあ、変わりません。区画整理の話は着々と進んどるようです。でも旦那さんには転居後も勝算ありということで、みなさん明るいですよ」
「おとうさんはヤリテだから―」
 口調は素っ気ないが、カズちゃんなりに、これからの二人の生活にまんいちの心配はないと私に告げようとしているようだ。名古屋城の天守閣が見えてきた。
「カズちゃんのマンション、何という名前だったっけ」
「シャトー西の丸。あそこはトモヨさんに居抜きでプレゼントするつもりなの。私の都合が悪いときは、キョウちゃんのことを面倒見てもらわなくちゃいけないから。もうお母さんに話して了解を取ったわ。八月中に引越ししてもらう。バスで名駅まで十五分くらいだから、じゅうぶん北村にかよえるわ」
 菅野がバックミラー越しに感銘したような視線をカズちゃんに投げた。
「トモヨさんはシンデレラガールだな」
 私は、
「菅野さん、トモヨさんは元気でいますか」
「元気ですよ。おトキさんと姉妹みたいに仲良くやってます」
「二人は一回りちがうんですよね」
 私がどうでもいいことを言うと、カズちゃんが、
「トモヨさん、十一月十一日に三十七になったのよ。おトキさんはたしか、六月に五十になったはず」
 不気味な記憶力だ。菅野が、
「トモヨさんは、私と同い年なんですよ。どこで戦火をくぐり抜けてきたのかな」
「この名古屋よ。秋田からうちにきたのが、ちょうど名古屋大空襲のときだったから」
「名古屋大空襲の話、春にもしてたね。カズちゃんが十一で、菅野さんが十六。アメリカの飛行機乗りが首を落とされた」
「よう憶えとりますね。名古屋は焼け野原。焼け残ったのは大津通の松坂屋と……」
「県庁と市役所と、広小路の中央三井信託銀行ビル。ほかに背の高いビルがいくつか」
「はい……名古屋城は天守台だけ残って。再建工事が終わったのは昭和三十四年の十月でしたね。神無月さんがちょうど名古屋にきたころです。金鯱パレード―思い出しますよ。そうですか、トモヨさんは十六で秋田から出てきてねえ。それから二十年、この仕事をしてきたんですなあ。神無月さんに遇わなかったら……」
「ゼロの人生ね。私と同じ」
「……旦那さんたちも同じようなことを言っとりました。じつは、私もそんな気持ちなんですよ。神無月さんに遇っとらんかったら……。あ、神無月さん、二年連続三冠王、おめでとうございます」
「ありがとう。よく知ってますね」
「野球通と言ったでしょう。名古屋の高校へ転校して、野球をしばらく休止するという話が、いろんなスポーツ紙に大きく載っとりました。中日は、神無月さんが大学進学後に本格的に動くらしいです」
「中日にいけるよう、祈っててください。転校してからの自主トレがたいへんだ。カズちゃん、飛島の寮に入るとき、バットとグローブを持ってくよ」
「こら。もう油断してる。そんなもの、チラッとでも見せちゃだめよ。苦しんでない姿になっちゃうでしょ」
「そうだった。―転入試験て、どんな問題が出るのかな」
「西高でやったふつうの実力試験をそのまま使うと思うわ。在校生と比較するためにね。何人受けようとキョウちゃんが一番でしょうから、定員一人というのはキョウちゃん用に空席があったというのと同じね。ねえ、菅野さん、トモヨさんも私も、それまでゼロの人生だったということは、キョウちゃんが現れたせいで生き方を掻き回されたということよ。私たちの人生に入りこんで、掻き乱して、それでもみんなを納得させる、そういう人に出会ってしまったということ。掻き回されるなんてことは結果論でしょうけど、遇った瞬間に愛を感じないなら避けなければいけない人、ということでもあるの。菅野さんはどうだったの?」
「……感じました。何者という感じでした。すぐ惚れこみました。席に雇ってもらうことも、ときどき神無月さんに会えるだろうと期待して、私から旦那さんに積極的に申し出たんです。まず、トモヨさんとおトキさんのことが、席始まって以来の事件だそうです。そのことは、いつもみなさんでうれしそうにしゃべってます。やっぱりなあ、職場換えしてよかったな、としみじみ思いました」
「山口さんは八月の下旬にくるわよ」
「ほんとに楽しみです」
 北村席の玄関前になつかしい顔が揃い踏みしていた。クラウンから砂利の駐車場に降り立つと、女将が早足で寄ってきて、
「ようこそ、神無月さん。お会いしたかったわァ。何度かそのお顔を夢に見たんよ。お帰り和子。肥えたな」
「ちょっとね」
 着物姿の主人が、
「ごくろうさん、菅ちゃん。和子といっしょで、よう道草せんと帰ってこれたな。いらっしゃい、神無月さん。相変わらずええ男ですなあ。和子に青森の新聞送ってもらって読みましたよ。大活躍でしたな。中日スポーツも大見出しで、スカウト三十五人うならすと載っとりました。それにしても、いますぐにでもプロにいける器が、転校して休火山とはもったいない。まあ、よろしい。あんたの将来は引き受けましたよ」
「なによ、おとうさん、着くなり早々、将来を引き受けたなんて。キョウちゃんは自分で切り開くのよ」
「まんいちのときは、ということやが」
「まんいちのときも自分でなんとかするの」
 草はらのみごとな緑を振り返る。みんなでぞろぞろ土間へ入る。土間にも女たちが出迎えた。トモヨさんが式台にやってきて私の学生鞄を受け取り、おトキさんはカズちゃんのワニ革の大バッグを持った。カズちゃんも私も菅野も笑いながら靴を脱いだ。顔を見知った女たちが、にこやかに私たちの靴を片づける。
 大座敷に豪華な食卓が用意されていた。旬のスルメイカの刺身がテーブル中央にデンと置かれていた。イリマス亭で食って以来の好物だ。背の高い大型の扇風機が四台も回っている。女たちが居並ぶ。
「おトキさん、山口が八月中にきますよ。よかったですね」
「え、今年ですか。来年だと思ってました」
 うれしそうに一礼すると、おトキさんは台所に立った。トモヨさんがあとを追った。台所がガヤついている。菅野といっしょにタバコを吹かしていた主人が、
「山口さんは、どういう具合になっとりますか」
「八月半ばに転入試験を受けます。東京の戸山高校です。もちろん百パーセント受かります。そのあとは勉強一筋でしょう。頭のいい男だから、まちがいなく東大にいくと思います」
「大したもんやなあ!」
「おとうさん、キョウちゃんと山口さんは、青森高校で一、二を争う秀才よ。二人で東大へいくって約束してるの。名西も確実な東大合格者候補を手に入れられてホクホクでしょうね」
 菅野が、
「今年、名古屋西高からは一人京大へいきよりました。東大は開校以来一人も出とりません。東大は旭丘から八十一人、明和から十三人」
 東大合格実績ゼロ。二流校ではない、三流校だ。カズちゃんも少し驚いた表情をした。主人が、
「ワシも春の新聞を見たよ。菅ちゃん、よう細かい数字を憶えとるな。明和も旭丘も欠員がなかったんやから仕方なかろう。ま、神無月さんが和子の母校の名西を受けてくれてよかったわ。神無月さんなら、どんな高校からでも東大にいくやろ。名西の名が上がる。ほやろ、菅ちゃん」
「はい! 私には何が何やら。とにかく、お嬢さんはすごいですよ」
「なに素っ頓狂なこと言っとるんや。和子のことやない。神無月さんが名西から東大へいくということや。それだけやない。名西から東大野球部の大スターが出るんやで」
 私は思わず笑い出し、
「合格はときの運ですよ。何もかもオシャカになるかもしれません」
「はあ、これが山口さんや和子の言う〈病気〉やったな。あまり褒めんとこ。それより、めし食ってや。菅ちゃん、きょうは五時に三人ばかし宴席に届けてくれればええだけや。運転の仕事は酒を飲めんのがシャクの種やな」
「家でやりますからだいじょうぶです」
 あとの女は、あの長屋にでかけていくか、待機だろう。そんなことを冷静に考える。どうして冷静に考えられるのかわからないが、席の妓女たちのすべてに心が動かない。


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