百三十九

 主人が箸をとり上げると、女たちもいっせいに箸をとった。和気藹々の食事になる。私はさっそく小皿にわさびを溶いて、スルメイカに手を伸ばした。三、四人の賄いたちが台所から出てきて、おさんどんを始める。おトキさんとトモヨさんは、もっぱら私たちのテーブルについた。目移りする焼き魚や煮物の皿に少しずつ箸を伸ばしながら、炊き加減のいいめしを噛みしめる。主人はビールを飲んだ。賄いの若い女たちは別テーブルについた。カズちゃんが、
「私、一戸建を探すから、おかあさん手伝って」
「どのあたり?」
「市電通り沿い。菊井町から天神山までのあいだ。三部屋くらいの平屋。ステレオを置くから、十帖ぐらいの洋間が一つあると最高。西高に近くてもいいけど、かえってキョウちゃんが気兼ねすると思う」
「神無月さんは気兼ねなんかせんよ。人目を気にする人かね。あんた、また働くつもりやないの」
「ううん、キョウちゃんが大学いくまで働かない。凡人は働くことしかすることがないけど、労働は東京まで延期」
「それがええと思うわ。いつも家にいておやり。ひょいと寄って、あんたが家におらんかったら、神無月さんもつまらんやろ」
 菅野が二杯目の茶碗を差し出し、
「名西は西区のナンバーワンの名門校ですよ。東大はさておき、毎年、名大や南山に五十人以上合格しとります。昭和の二十二年までは県立第二高女と言っとったんですが、その名残で女の生徒数が多いんですわ。正門のソテツの木は空襲にも耐えたということで、学校の象徴になっとります」
「なんや菅ちゃん、よう知っとるやないか」
「根っからの西区の住民ですから」
 カズちゃんが、
「私は昭和二十四年入学だから、西高の二期生よ。濃紺のプリーツスカートに黒リボンのセーラー服、家に残ってないかなあ」
 母親が、
「探せばあるよ。でも年甲斐もないから着んとき」
「そんな馬鹿なことしないわよ。なつかしいなと思って」
 菅野が、
「西高のセーラー服は、いまもその格好ですよ。清楚です」
「菅野さんはトモヨさんと同い年、ぼくはカズちゃんが西高に入った年に生まれて、名古屋城が完成した年に名古屋にやってきた。伊勢湾台風の翌月に完成するなんてすごい。ぼくは伊勢湾台風と名古屋城と同い年だ」 
「またおかしなこと言い出した。西高は、開拓精神旺盛のキョウちゃんには好みの環境ね。女子が多いのは心配なし。おたがいに牽制し合ってキョウちゃんにモーションかけてこないから。その点では、キョウちゃんは忙しくならない。ねえ、お姐さんがた、あなたたちもそうでしょう?」
 キャッキャッ、ホホホと女たちが笑った。トモヨさんは真っ赤になってうつむいた。顔も、からだの肉のつき具合も、真珠のように輝く肌つやもカズちゃんとそっくりで、パッと見ただけでは区別がつかない。厚切りの竹の子と豆腐の味噌汁がうまいのでお替わりする。菅谷はすでにタバコを吸っている。
「昭和三十四年に駅前にあったのは、青年の像、大噴水、中央郵便局、映画館ビル。もちろん去年竣工した大名古屋ビルヂングはなかったですね」
 母親が、
「ぜんぜん憶えとらんわ。駅西はバラック小屋でゴチャゴチャしとったな。変われば変わるもんや。星ヶ丘のほうには団地ができあがっとるらしいやないの。ここ二週間ずっと晴れやったのに、あしたは朝のうち雨が降るそうや。二人とも出かけんと、家でゴロゴロしとりなさい」
 女たちの中に、ユキさんはいなかった。
「ユキさんがいませんね」
「囲われたんよ。見こまれてな。秘書兼愛人」
 女たちの一人が言った。カズちゃんも初耳のようで、
「今度山口さんに会うまでに女を鍛えておくって言ったのに。いいかげんね。相手はどこの人?」
「則武の××食品の若社長さん。マンション買ってもらったらしいわ」
 マンションと聞いて、トモヨさんが、
「和子お嬢さん、女将さんから聞きました。ほんとに、そんなことしてもらわなくてもいいんですよ」
「いいのよ。人に住んでもらったほうが部屋が傷まないし、おかあさんも手入れしなくてすむし。それに、キョウちゃんのリフレッシュにもなるでしょ。月に十日は私も危険日になるわけだから、トモヨさんがいてくれないと困るわ。キョウちゃんのこと大好きなトモヨさんでないと、安心してまかせられない」
「ありがとうございます」
「トモちゃん、よかったね」
「若いツバメと、月に何回か逢えるやん」
「ツバメはツバメでも、どっかへ渡っていかんツバメやから最高やわ」
 女たちが口々に祝福する。カズちゃんがニコニコ聞いている。
 何人かの女たちが食事を終えて端の座敷に移り、茶を飲みながら花札を引きだした。
「子ォをでかしてもええぞ。和子が産むのと同じ顔の子が生まれるやろからな」
「おとうさん、それはトモヨさんがうんと言わないと。高齢出産になるんだから、無理強いしちゃだめよ」
 また不思議な会話が始まっている。枠組みやレールのない快適な会話だ。
「子供を産めるなんて、夢にも考えたことありませんでした。高齢でも何でも、もしそうなったら産ませていただきます」
 残っていた女たちの喚声が座に充ち、主人夫婦がにっこり笑った。カズちゃんがトモヨさんの手を握った。先回も見た同じ図だが、握り方に自然な信頼感が加わっている気がした。女将が、
「そうなったら、生活のことは心配せんでええんよ」
「トモヨのことはワシにまかせとけ。考えがある」
 ようやく飯茶碗を手にした主人が上機嫌で言った。カズちゃんが、
「どういう?」
「トモヨを北村の養子にとる。子供に祖父さん祖母さんができる。肩身が狭くならんですむやろ」
「すてき! トモヨさん、よかったわね」
「夢のようです。ありがとうございます。……子供のことはすべて、うまくタイミングが合ったときの幸運にまかせます。ほんとにありがとうございます」
 口数少ない性質のせいか、いつも言葉のやり取りを周囲の人たちにまかせているおトキさんが、
「よかったねえ、トモちゃん。私の分もがんばってね。応援しとるよ。でも、お嬢さん、自分が子供を産みたくなったらどうするんですか」
 と真剣な顔でカズちゃんに訊いた。
「私は生まないわ。この先ずっとキョウちゃんのそばにいられるから、トモヨさんのようなさびしい思いもしなくてすむのよ。トモヨさんにとって、子供はキョウちゃんを偲ぶよすがでしょ。産めるならぜったい産んだほうがいいわ。トモヨさんのように、二十年も男を相手にしてきたベテランは、つくづく男嫌いになっているはずよ。それがキョウちゃんに一目惚れしちゃったんだから、これも何かの縁でしょう。おとうさん、おかあさん、ほんとによろしくお願いしますね」
 菅野が感嘆に満ちた目をカズちゃんに向けた。すすり泣いている女たちもいる。
「あーあ、羨ましいわ」
「あたしも子供ほしいなあ」
「何贅沢言ってるの。引いてもらうことだってままならんのに。耳の毒、目の毒。菅ちゃん、出かけるまでマージャンしよ」
 ものわかりのいい世慣れた感じで一人の女が言った。四、五人の女が明るく立ち上がって雀卓へいった。
「お手柔らかに。私は家庭持ちですからね」
「家庭、家庭って自慢するんじゃないの。人の弱みにつけこんで。搾り取ってやる」
「じゃ、ワシらはコーヒーにするか。おまえらもいるか」
「いりまーす!」
 雀卓につかなかった女たちがはしゃいだ。おトキさんと賄いたちがせっせとコーヒーをいれる。
「あれから三つもセットを買ってな、豆も五、六種類、いつも切らさんようにしとる」
「山口が喜びますよ」
「彼がきたら、また神無月さん、唄ってくれますか」
「はい。知ってる歌なら何でも」
 カズちゃんとトモヨさんが台所に立っていき、おトキさんや賄いたちと大テーブルで楽しげにコーヒーを飲む。
「塙席さんとは相変わらずですか?」
「おお、持ちつ持たれつですわ。宴席を回し合っとる。先々協力し合っていかんと、おたがい立ちいかん。二年もせんうちに、このあたりはきれいになってまうで。竹橋町のほうへ新居を建てて、名楽あたりで二軒ほどトルコを営業します。その近所に食堂つきの大きい寮を建てて、女の子を住まわせんとあかん。最初の予定は少し小さめの建物を考えとったが、関東のトルコ風呂の事情を聞くと、けっこう従業員も多くなりそうや。大きく構えとかんと、あとあと不便が出る。貯金をはたいてまうわ」
「想像もつきません。すごいお金なんでしょうね」
 主人が、
「開店資金は二億くらいかな。そのあとは日銭商売やで、正直に税金払って、警察や地回りと仲良うして、こつこつ元を取るようにせんとな。銀行はあかん。一つの銀行にまとまった金を預けたらあかん。五つ六つに分けて置いとかんと。大した利子を払わんでええとなると、銀行も機嫌よく預かってくれるでな。一カ所に大金預けると、はじめはチヤホヤしとっても、こっちが困ったときには追剥ぎになる。あ、すんません、神無月さん、つまらん話はやめて、あんたの将来の話をしましょうや」
「それがいちばんつまらない話ですよ。ぼくはただ勉強し、きちんと運動し、いろいろな人たちと付き合う。そうやって受験に待機するだけです」
「東大で野球復活、と」
「はい。それまでは、スポーツ新聞を読んだり、バットを振ったりはするかもしれませんが、野球そのものはやりません」
 菅野が、
「休んでて、不安じゃないですか」
「だいじょうぶです。からだは鍛えつづけますから。専門筋の人たちの目からしばらく離れることも心配してません。彼らが忘れないような活躍をしてきたつもりですから。いい休養です。野球を休んでなければ、こんなめずらしい時間は持てませんしね。一年半の贅沢だと思って楽しみます。青森高校の野球部連中は、いまごろ必死で練習してますよ。すばらしい一本道です。ぼくも、自主トレは欠かさないようにしないと。岩塚からは自転車でかよいます。カバンがあるので走ってかよえませんから。とにかく、野球はしばらくお休みです」
 台所から、キョウちゃんのことを心配してもむだよ、というカズちゃんの声が飛んできた。主人はうなずき、
「ほやろなあ、ワシも神無月さんの言うとおりやと思うわ。青森県での栄光はとんでもないものやったから、忘れられることはないやろ」
「栄光というのは、歴史上に輝く偉人たちだけのものです。ぼくのは〈活躍〉程度でしょう。ひょっとしたら、ぼくも野球の分野で栄光に浴することができるかもしれませんけど、それがいつのことなのかはわからない。ぼくはただ、ぼくを気に入ってくれる人たちに一所懸命やってるところを見せ、その結果きちんと野球選手になった姿を見せたい。それ以上の望みはないんです」
「ふーん! 恐れ入った。何年かすれば何千万円も何億円も取れる人なのにな。神無月さんのお母さんという人は、欲がない人やな。とゆうより、息子を雲の上の人にしたくない根性ワルなんかな。和子から聞いとったとおりやとすると」
 女将が、
「東大いかせて博士か大臣に仕立てたって、雲の上の人やがね。雲の上の人にしたないゆうより、野球をさせたなかったゆうことでしょう」
 カズちゃんが、
「野球をさせたくなかったのはまちがいないわ。東大も怪しいわ。東大にいかせたいなら、明和や旭丘級の青森高校から連れ戻すのはおかしな話よね。だから、むかしから転入を受けつけない旭丘と明和の看板を上げて誘って、結局、名西に入れようとしたわけ。つまり東大なんかいってほしくないということ。出世してほしくないわけだから。強引な連れ戻しは、青森高校から引き離すための方便だと思う。野球と東大からね」
「えー!」
 座のみんなが驚いた。女将が、
「それ、神無月さんの人生をめちゃめちゃにしたいゆうこと?」
「信じられないでしょうけど、そうよ。新聞に載ってなかったことだし、キョウちゃんがぜったい隠したかったこと」
 菅野が、
「怖いですね」
「怖くないわよ。心理学の教科書にも載ってる典型的なワル親よ。子供の成功を憎んでじゃまする親。あらかじめ知っておいて対処すれば怖くないわ」


         百四十

 トモヨさんが、
「……でも、なんで二つとも」
「プロ野球は自分の自慢のならないでしょう。キョウちゃんが高みに昇るだけだもの。だからぜったい野球では有名にさせたくない。東大もできれば受かってほしくない。出世しちゃうから。……私、それに気づいて、幼いころからのキョウちゃんの人生がぜんぶつながったの」
 主人が、
「それ、ヤバすぎる話やないか。名西から東大受かったらどうするんや」
「東大に入ることは血縁のアタマ自慢になるから、自分の血も自慢できるし、世間的な不都合はないでしょう。入るまでは今回みたいに苦しめても、入ったら放っておくわね。たぶん東大で野球をすることもね。入るまでは、東大、東大と発破をかけてキョウちゃんを脅かすと思う。受かったら無視。学費も出さないような気がする。東大野球部に入ることは、まさか天下の東大からプロ野球へいけるなんて思ってないでしょうから静観するに決まってる。プロに直結してるような大学の野球部に入ったら、徹底して妨害するにちがいないから、野球をやりつづけるには、とにかく東大に合格するしかないわね。キョウちゃんは、彼女の脅しを怖がるふりをしながら東大に入って、野球で目立って、中退してプロ野球へいって、彼女と縁切りしようとしてるわけ。転校という一か八かの回り道をしてね」
 父親が、
「複雑なような、簡単なような……。本人は栄光なんてものは眼中にないわけやろ? 奪う必要なんかないのになあ。野球を一生懸命やりたいだけゆうわけやから。でも、野球をやらせたら天下取ってまうか。神無月さん、あんたはこのまま突っ走れば、野球で天下を取る人ですよ。はよ、お母さんと縁切りしてプロ野球選手になってくださいや。そのあとは、毛嫌いせんと栄光を手にしてくださいや。ここまでの天才が、栄光の一つや二つ手にしてもええのとちがいますか? 私、そのための援助はとことんしますよ」
「おとうさん、そうオーバーに構えないの。キョウちゃんが何ごとかと思うでしょう。キョウちゃんは自分の力で西高に受かり、東大に受かって、コツコツお母さんから離れていくから。黙って見守りながら、ただ付き合ってあげてればいいのよ。それが最高の援助になるわ。この変人とただ付き合うというのが、いちばんたいへんなんだから」
「ほい、ほい」
 野球は最愛のものだ。しかし、目覚ましい記録を樹立したいという欲望はあっても、それで天下を取ろうという気概はない。プロにいけば、あらためて周囲を見回し、幼いころから見逃してきた選手たちや、すでに名声を確立している選手たちの技芸に関心を持つことで未知の世界が見えてくるかもしれない。それが私にどういう影響を与えるのかはわからない。とにかく未知なのだ。いまはその未知のものに触れる道を確保しなければならない。そのためにはとにかく、まずプロ野球選手になることだ。そう思うと、腹の底にずしりと重たいものを感じた。女将が、
「私、神無月さんみたいなボーッとした人、大好きやわ。人間として立派に見えるわ」
 テーブルの片づけが始まった。ポンやチーのかけ声に混じって、厨房の皿を洗う騒音が爽やかに響く。残ったおかずをほかの賄いたちが小ぶりな皿に盛って、店の女のおやつ用に厨房に下げる。折に詰めて自分の部屋へ持って上がる女もいる。
「また、晩めしを新しく作って食べるんですか」
 台所からおトキさんが、
「いいえ、きょうはおやつの時間にたっぷり食べましたから、九時ごろに居残りの女の子に夜食を出すだけです。こんな日は年に何回もありません。お腹がすいたらいっしょに食べてください。かよいの賄いさんは食事のあとで帰ってもらいます。ふだんは六時ぐらいから夕食なんですよ。朝は八時でお昼は十二時」
 一勝負終わって、菅野が小脇にバッグを抱えた女三人とやってきた。
「じゃ、ちょっと送ってきます」
「みんな、きょうは宴席から帰ってくる予定か?」
「三人とも泊まりでェす」
「途中で帰らんといかんようになったら、松岡旅館だから歩いて帰ってこれます」
 先回名古屋にきたとき、山口たちと見て回った中にその名前があった。
 母親を中心に一家の仕事話が始まったので、カズちゃんと名古屋西高を見にいくことにした。黄昏どきの散歩。さわやかな予感に胸が躍る。草はらに切った路に出ると、ひどく暑い。でも湿気が少ないので蒸さない。トモヨさんの長屋を越え、青線地帯を抜けて駅前に出る。
「飛島へいくまでの何日か、ランニングと素振りをしないと」
「先がハッキリしてきたわね。とにかく西高に受かってから、しっかりした計画を立てましょう」
 コンコースを通って駅の正面へ出、広い桜通を見通す。深緑のイチョウ並木が一直線の道を縁取っている。駅前を往来する女たちのほとんどミニスカート姿だ。生きいきした歩きぶりが新鮮だ。
「ミニスカートは脚がかわいらしい。青森にはない娯しい風景だ」
「私にも穿いてほしい?」
「うん。でも、ムラムラきそうだから、試験が終わってから」
「トモヨさんと買いにいこうっと。お揃いがいいわね」
「一心同体の気持ちだね」
「キョウちゃんを愛する人とは、なんでも分け合わないと」
 駅前の市電の停留所から浄心行に乗る。油染みた床板。腰に革バッグを提げた男子乗務員。チンチン、ゴー。中央郵便局前を右折する。節子が追いかけてきた則武通り。二年かけて振り出しに戻った。車掌が回ってくる。カズちゃんが切符を買う。那古野、菊井町。
「この電停の名前、カズちゃんの通学路だね」
「そう」
 のんびりと一輌電車が停まり、発車する。チンチン、ゴー。葛西家前の線路の彼方にあった街が、いま目の前にある。カズちゃんが沿道を眺めながら、
「自転車で通学した道よ。もう十六、七年も前なのね」
 菊井二丁目、押切、天神山。
「着いたわ。降りましょ」
 黄色と緑のツートンカラーの車体が直角に右折し、揺れながら、商店と民家の雑じった街路へ去っていく。
「もう一つ向こうが終点の浄心。けっこう遠かったでしょ。北村席から自転車で二十分くらい。岩塚からだと、中村日赤のほうを通って、四十分くらいかな」
 天神山から信号一つ戻って閑静な住宅街へ入りこむ。右手に高い金網で囲まれた長方形の公園。遊具設備のないその公園はよく整備されていて、野球でもできそうに見えるけれども、バックネットがない。
「天神山公園。サッカーなんかする場所」
 左手に学校の塀。
「こっちは天神山中学。コンクリートの塀で西高と仕切られてるの。むかしからよ」
 がらんとしたT字路を左折する。道なりに進んでいくと、なるほどコンクリート塀に仕切られて、雰囲気のちがう校舎が見えだした。空き地をいくつか挟んで民家とアパートが建ち並んでいる。
「これが正門か。小ぶりだね」
 青高と似たような慎ましい石の門柱。菅野の言ったとおり、門の背後に大きなソテツの木が立っている。
「青高と同じくらい小さな石門だ。門扉がないところまでそっくりだね」
「ほんと。青高は門を入るとすぐグランドだから、門だけ浮き上がって立派に見えたけど、西高は門の鼻先が校舎だから、貧相ね」
 正門を入る。すぐ左手の古い校舎に玄関らしきものがある。覗くと、下足土間の向こうに廊下が見えた。
「オンボロになったわねえ。ここは、受付とか校長室、職員室のある校舎よ」
 そのまま校庭のほうへ進む。体育館とつながる渡り廊下が横切り、その向こうにこれまた青高と同じような古びたバックネットが見えた。グランドの広さは青高より一回り小さかった。センターの行き止まりの体育館まで百メートルぐらいしかない。しかも校庭はその一つきりだった。
「野球グランドが校庭ってこと?」
「そう。むかしは硬式野球部だけが使ってたけど」
「硬式があったんだ!」
「かなりむかしね。野球部が使ってないときは、ラグビー部が使ってた」
「共用にしたら両方から不満が出るにきまってる。同じ時間帯に使った時期があったんじゃないかな。入り乱れるみたいに。それで危なくない軟式に変えたんだろう。それでも危ないから、軟式野球もラグビーも同好会にしてしまったということだね」
 グランド歩み入り、右手を見る。レフト後方に背の高い仕切りの金網が張り渡されていて、その向こうはテニスコートになっていた。
「あのだだっ広い敷地がむだだね。あそこの半分をラグビー場にして、こっちのグランドを広げれば、立派な硬式野球場が復活する。ちゃらちゃらしたテニスなんかいらない。青高にもテニス部なんてなかった。ラグビーやテニスみたいな単純な往復ゲームが、複雑で美しい野球と肩を並べようなんておこがましい。そういうのを悪平等と言うんだ。平等とくれば、当然、自由とくるね。平等も自由も、外面的な束縛から解放されるというものじゃなくて、自分の考えが一つの正しい考えだと自信を持つことを言うんだ。とても内面的なものなんだよ。プライドと言ってもいい。野球部がその自信を打ち出せば、簡単に問題は解決したのに」
 カズちゃんは、クスッと笑って、
「またこの学校でも突き出ちゃいそう。爪を隠すのよ。西高はその束縛のない〈自由〉な校風が売りで、朝礼がないの。つまり、入学式と、始業式、終業式、卒業式しか体育館を使わないってこと」
「式があるだけマシだよ。青高は、卒業式以外、式という式はぜんぶなかった。年度始めに朝礼らしきものはあったけどね。まさに自由放任。でもダラケてるわけじゃない。要所要所で校歌や応援歌を斉唱した。古式のよさ。身が引き締まる。背筋が伸びる。ぼくは校歌が大好きだ。校歌を唄うと気持ちが晴れ上がる。千年小学校も宮中も野中も青高も、校歌がすばらしかった」
「西高もきれいな校歌よ。いまでも唄えるわ」
「へえ、唄ってみて」
 カズちゃんはためらわず、冴えたアルトで唄いだした。

  あこがれの美よ 永遠よ
  虹かかる 木曽の流れに
  息吹の峰 青春の意気を呼ぶ
  剛健ゆかむ ああ名古屋西
  われらの学園

「すばらしい声だ!」
「ふつうよ。キョウちゃんの出所不明の美声とは比べものにならないわ」
 私は別段照れた思いもなく、自分がいい声をしているのだということをあらためて思い出した。
「あこがれの美よ、永遠よか。学校名を入れたのが残念だな。学校名を入れない校歌はほとんど名曲になる」
 バックネットへ歩いていく。遠目に見たよりも背が高く、そして錆びついている。無用の長物だ。一塁側のファールグランドに、長く連なったバラックの部室があって、出入口の戸が三つ並んでいる。軟式野球部以外のクラブがこのグランドを使うということだろう。バラックの背後の薄っぺらいコンクリート塀の向こうに、天神山中学校の校舎が見えた。バックネットの前に立ってグランド全体を眺める。いつもの癖で、両翼までの距離を目測している。ライトの渡り廊下まで八十メートル、センターの体育館の裾まで百メートル、左翼のテニスコートの仕切り網まで九十メートル。四角い校庭を一周してみる。手入れの悪いグランドだ。こんな乾燥してデコボコした土の上で野球をやるやつの気が知れない。
「野球をやりたくなった?」
「ならない」
 渡り廊下まで戻り、門脇の校舎の裏に二つの校舎があることを発見する。すべて木造二階建てだ。カズちゃんがなつかしがってキョロキョロ見回している。ピンクのワンピースが愛らしい。
「ぜんぜん変わらない!」
 感激したふうに目を細めて笑う。小使い室、屋外便所、雨避けつきの渡り廊下。指差して喜ぶ。
「十六年前か。その当時の先生、残ってるかな」
「いないと思う。むかしの先生は年寄りだから、もうとっくに引退してるか亡くなってるでしょう」
 正門へ戻っていく。体育館裏の三つの校舎を眺める。
「いってみよう」
 校舎塀に沿って湿った隘路をいき、体育館と塀に囲まれた空間に突き当たる。ツゲの木立の茂みに隠れて二十五メートルプールがあった。まるで申しわけ程度に作った防火水槽のように見える。水はきれいだった。
「全体的にかわいらしい高校だね」
「褒め言葉と取るわよ。青森高校に比べたら、とんでもなく小さい高校でしょ。母屋と離れくらいの差があるもの。でも、ひっそり勉強するにはいい環境よ」
「うん。いい環境だ」
 正門を出て、やたらにでかい郵便局を過ぎる。名古屋西郵便局。隣の敷地が背高の金網に囲まれた野球場になっている。四角い野球場だ。西高のテニスコートに接している。左折して金網沿いに歩き、市電道に出る。また市電に出会った。
「ぼくを追いかけると言ってたあの新聞記者、ほんとに追ってくるかな」
「くると思うわ。来年の春と再来年の春の二度。ああいう人たちは、その後のキョウちゃんが野球から離れて腕を腐らせてるかどうかじゃなくて、腕が腐らないことを前提に、野球をもう一度始めるまでどういう進路をたどるかに興味があるのよ。それでじゅうぶん記事にする価値があるというわけ。野球をしない空白期をどうすごし、どうやって再起を図ったかということね」
「最終的には、ぼくの野球にしか興味がないということだね」
「そう、キョウちゃんの才能の行方。それ以外の部分は特筆するんじゃなくて、文字どおり〈追跡〉するの」
 市電通りを歩きだす。夕暮の気配がにおいはじめる。
「このあたりの一戸建がいいわね。この沿道を探してみるわ」
「……東大に受からなかったら、働きながらドラフト外交渉を待つよ」
「そうはさせないわ。ひたすら自主トレーニングに励んでもらう。そうやって中日ドラゴンズを待ちましょう」
 きれいな笑顔だ。つやつや尖った犬歯が覗く。
「青森では、せっかくのステレオをほとんど聴かなかったから、こんどはたっぷり聴こう。ばっちゃが飛島寮にレコードを送ってくるはずだから、カズちゃんの借家にコツコツ運びこむよ」
「眼鏡は?」
「ほとんどかけてない」
「こっちではかけなさい。勉強のときだけでもそうしてね。効率が落ちちゃうわ」


         百四十一

 幅広い菊ノ尾通りに出る。押切の大交差点。二階建てや三階建てビルの混じった茫洋とした街並。密集しているのか閑散としているのかわからない。夕暮の信号を渡る。
「通学路としては、このくらい飾りっ気ないほうがいいね」
「キョウちゃんは、この菊ノ尾通りの先の枇杷島青果市場のほうから曲がってくるから、もっと飾りっ気ない道のはずよ。こっちの通りへ出てくることはめったにないわ」
「カズちゃんに逢いにくる道だ。この通りのどこかの脇道を入ったところに借りるんだろうから、この道筋も記憶しておかなくちゃ」
 三十分も歩いて、名古屋駅前に出た。
「歩いたわねえ!」
「歩いた! 名古屋はちょっと歩いただけでもバカッ広いって感じる。何十年暮らしても飽きがこない街だね」
「キョウちゃんはもともと名古屋が好きなのよ。青森にはなかなか慣れなかったでしょうね。私には新鮮だったけど」
 ふたたびコンコースに入る。
「大時計の天井が高くて、さびしいな。むかしは気づかなかった。このコンコース、早く通り抜けよう。ここから夜汽車に乗ったことをどうしても忘れられない。でも、カズちゃんの家への通り道だと思えば、気分が明るくなるな」
 駅裏へ出る。
「浅野先生と何度も歩いた道ね」
「うん、夜の記憶しかない。なぜか早足で歩いてるんだ。あの半年のあわただしさは何だったんだろう」
「でもそのおかげで、私はキョウちゃんとこうしていられる。なるようになってるのね。いいえ、なるように神さまがしてくれてるんだわ」
「カズちゃんがなるようにしてくれたんだ。この二年間の自分の行動を考えてごらん。ぼくのためにだけ生きてきたじゃないか」
「愛してるんだから、当然のことでしょ」
 立ちん坊が駅から吐き出されてくる男たちに声をかけている。独立営業の女たちだ。
「二千円、二千円、学割五百円!」
 バナナの叩き売りだ。私は噴き出し、
「学割だって」
「必死なのよ、彼女たちも。もうすぐ区画整理で追い出されちゃうから」
 カップル姿はめずらしいので、私たちが通り過ぎるときは一瞬声をひそめる。カズちゃんにお辞儀をする女もいるのは、去年の夏と同じだ。
「顔役だね」
「うちに頼みこんで営業してるからよ。一度、二度、勉強のためにいっておいたほうがいいかもね。この世にあることは、どんなことも経験しなくちゃ。でも、病気が怖いし、キョウちゃんは、言葉のやり取りのないセックスなんかできないものね」
「うん、無理だね。カズちゃんといっしょになら、いってもいい」
「冗談言わないの。そんなところへ父兄参観でいけるわけないでしょう」
 嫉妬のないカズちゃんの精神の仕組みが相変わらず謎だ。何かの美学? いや、そんな単純なものではないような気がする。とてつもなく深い愛情が感じられる。
 北村席に帰り着く。みんなでテレビの歌謡番組を観ていた。ブルーコメッツと西郷輝彦が掛け合い漫才をしていた。歌になる。
「星のォ~フラメンコォ」
 などとわけのわからない歌を唄っている。もう彼はむかしのすがすがしい彼ではない。トモヨさんがうれしそうに立ち上がり、おトキさんとコーヒーをいれに立った。すでにコーヒーを飲んでいた父親が、
「長い散歩やったなあ。名西はどうやった。変わっとったか」
「ぜんぜん。トイレの位置まで同じだったわ。あらためて見ると、小さな高校ね」
 女将が、
「もともと女子高だもの、小さいに決まっとるがね」
「気に入りました。落ち着いて勉強ができそうです」
 おトキさんが私たちに、
「お疲れなさったでしょう、お風呂使ってください」
「ぼくはあとでいただきます。寝る前にでも」
 居残りの女たちにもコーヒーが出る。みんな風呂上りらしく、顔がてらてらしている。彼女たちと一度も話したことはないが、空気のように抵抗なくそこにいる。よく見ると美形が多い。見つめても、秋波を送ってくる女はいない。清潔だ。
「じゃ、私がもらう。足の裏が痛くなっちゃった」
 カズちゃんが勢いよく立っていく。彼女がいなくなったところで父親が、
「トモヨ、今年が丙午(ひのうえま)でよかったな。あと六十年はめぐってこんぞ。来年再来年に子供が生まれたとして、その子が成人したときワシらまだ七十五あとさきや。腹が大きなったら、すぐ養女になる手続をとろ。クニに両親はもうおらんのやろ」
「はい、でもそんな畏れ多いこと」
「何言っとる。和子も喜ぶわ。おまえのことを小さいころから姉のように慕っとるでな。しょっちゅう塙に遊びにいって、二人でまろび合っとったやろ。和子も言っとったで、子供産むなら、自分とよう似たあんたに産んでもらいたいってな。あいつは、人生ぜんぶ賭けて神無月さんに尽くすつもりや。おまえもそのつもりなんやろが、神無月さんのそばにずっとおられるわけやない。ワシらに籍入れとけば、子供の将来のためにもええ。テテナシ子という形にはなるが、お祖父ちゃんお祖母ちゃんがおるんやから、世間さまにも恥ずかしない」
「お姐さん、そうおし!」
「そうしたらええが!」
 女たちが口々に言った。
「ありがとうございます。めでたくお腹が大きくなったら、そうさせていただきます。こればかりは授かりものですから、いつになるか……」
「よし! 酒や。跡取りができたで」
「まだ男の子かどうかわからんでしょ、気の早い人やね」
「女でもええわ。大学やって、経済やらいうものを勉強させて、跡取りにしたるわ」
 母親が笑い、おトキさんが笑った。カズちゃんが風呂から上がってきた。
「おトキさん、お腹すいちゃった。ヒヤムギ作って。キョウちゃんの分もね」
「はい、みなさんの分も作ります」
 おトキさんは弾むように台所に立った。台所でテレビを観ていた賄いたちが、また生きいきと動きはじめた。
「和子、トモヨの腹が大きなったらすぐに養子にすることに決めたで」
「ほんと! トモヨさん、よかったわねえ。それで心配なく産めるわね」
「その前にちゃんと妊娠しないと。……いい子が産めるといいんですが」
「いい子に決まってるじゃない。楽しんでしてれば、そのうちちゃんと妊娠できるわよ」
「はい」
 パイナップルや蜜柑の載ったうまいヒヤムギだった。大どんぶりに浸した麺が瞬く間になくなった。小腹が満たされると、非番の女たちは主人といっしょに麻雀を打ちはじめた。菅野が帰ってきた。大きな紙袋を胸に抱えている。女たちを送りつけたあと、パチンコをしてきたようだ。
「大漁、大漁。私は、ガキにチョコレートを三枚ほどもらっときます。あとはみなさんでどうぞ。おや、ヒヤムギ食べてたんですか」
「菅野さんの分も作りますよ。私たちも食べたいので」
「お願いします。いただいてからいったん帰宅します」
「キョウちゃん、もう六時半よ。トモヨさんとお風呂入りなさい。歩き回ったから、埃と汗でたいへん」
「うん」
 トモヨさんが頬を染めてうつむく。
「郷くん、お先にどうぞ。あとからまいります」
 カズちゃんに導かれて、風呂場にいく。この春に彼女が言っていたとおり、七、八人はゆったり入れそうな、日光杉の浴槽だった。杉材を敷きつめた広い洗い場も掃除が行き届いていて、キュッキュッしている。
「ゆっくり浸かってなさい。すぐトモヨさんがくるから」
 やがてトモヨさんが入ってきて、恥ずかしそうに脇を向き、両脚を狭めて股間を洗った。カズちゃんの五年後のからだだと思って眺める。輝くように白く、どこにもたるみがない。乳頭の小さい豊かな胸、せり上がった大きな尻、くびれた腰。
「きれいだ。カズちゃんとそっくりだ。こっち向いて、オシッコしてみせてくれる?」
「あら、いやだ。和子お嬢さんも同じことをしました?」
「したことないけど、今度してもらう」
 トモヨさんは私を向いて開脚し、自分の股間を見下ろしながらいきんだ。やがていびつな水流が直線にまとまって飛んできた。私は手を差し伸べて掌に受けた。トモヨさんは恥ずかしそうに、汚いです、と言うと顔を横向けた。二度ほどで水切りを終え、手桶で掬った湯で陰部を洗い、二度、三度と掬って小便を流し、もう一度掬って股間にかけると、真っ赤な顔で湯に浸かってきた。しっかり抱き合う。
「ああ、幸せ、郷くん」
「四カ月ぶりだね。これからはしょっちゅう会えるよ」
「ほんとにうれしい。でも、なんでオシッコなんか見たいんですか?」
 私の中で普通名詞と化している〈けいこちゃん〉の股間を覗いた話をする。踏切の話はしなかった。そもそもこんな破廉恥な行為に麗しい理由があるのかどうか疑わしい。
「初恋の女の子だったんですね……」
「そうだね……。トモヨさん、ぼくにオシッコしてって言われたとき、うれしかった? いやな感じがした?」
「うれしかったです」
「よかった。でもどうして?」
「私に興味があるということだから」
「オマンコだけにかもしれないよ」
「それで幸せなんです。私のそんなものに興味を持ってもらえて、抱いてもらえて、気持ちよくしてもらえて、いっしょに郷くんも気持ちよくなってくれて、これ以上の幸せがあるはずがありません。その幸せのためなら、オシッコだろうが、ウンコだろうが何でもします」
「不思議だね、そういう興味から、子供というかわいらしい命が芽生える……。きょうは子供ができる日?」
「二人で気持ちよくなるだけの日です。ねえ、郷くん、私のオマンコ、和子さんとちがいます?」
「そっくり。少し、ビラビラが黒いだけ」
「これまでの生活のせいね。許してくださいね。……さあ、郷くんのものを洗ってあげましょう」
「仰向けになるから、跨って入れて。そうやってオマンコで洗って」
「それだと、私だけイッてしまいます」
「トモヨさんは女なんだもの、何回イッてもいいんだよ。ぼくはトモヨさんの部屋でゆっくり気持ちよくなるから」
 トモヨさんは、仰向けになった私に背中を向けて跨り、尻を上下しはじめた。
「ああ、興奮します」
 からだを動かすたびに、彼女の膣に快感が走るのがわかる。尻が何度も止まる。
「あ、も、もう、だめです、イキます!」
 尻がクイッと上がり、背中が引き締まる。トモヨさんはそっと抜き、こちらを向いて跨る。しっくりと角度が合い、深く埋まる。
「あァァ、だめです、すぐイク!」
 トモヨさんは腹とみぞおちを絞って痙攣に身をまかせる。目をつぶりながら、またそろそろと尻を動かしはじめる。膣が反応を開始する。唇を噛んでこらえる。
「あああ、郷くん。だめ、またイキます!」
 手を胸に突いて、陰阜を前後させる。私は抱き寄せ、起き上がって尻を抱え、湯船に入る。その動きの間にもトモヨさんは達しつづける。
「あ、愛してます、愛してます、イク、イク!」
 唇を合わせる。トモヨさんは貪るように吸う。そっと抜くと、もう一度痙攣してから、しっかりと抱きついた。ようやく目を開ける。トモヨさんはよろよろ立ち上がって湯船を出ると、薄く目をつぶりながら、桶で水面に浮いたシャボンや細かい垢を掬い取る。常に忘れないたしなみのようだ。
「和子さんが、郷くんは自分の心臓だって言ってた意味がよくわかります。いつか私の心臓にもなってくださいね。いいでしょうか」
「うん、くすぐったいけど、うれしい。……カズちゃんは、トモヨさんに嫉妬しないんだね」
 思い切って訊いてみた。


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