百四十二

「嫉妬って、独占欲が強い人のものでしょう? だから嫉妬というのはほかの女の人に感じるものではなくて、ほかの女の人のからだで悦びを感じる郷くんに憎しみを持つことですよね。それは結局、郷くんではなく自分がかわいいってことです。和子さんにそんな心はまったくありません。好きな人が喜ぶことがうれしいんです。お嬢さんは小さいころからそうでした。彼女がグレたのも、私たちみたいな女を気に入ってくれて、気の毒がり、そういう家業をしている北村席そのものに反抗したからです。お店のみんなもそういうお嬢さんが大好きで、お嬢さんの言うことなら何でも聞きます。……和子お嬢さんにとって、郷くんが幸せなら、それがいちばんうれしいことなんです。だから、郷くんが気持ちよくセックスできるだろうと思える女の人には、深い信頼を寄せるんです。私はお嬢さんに選ばれたんです。光栄だと思っています」
 そう言ってもう一度抱き締めた。
 脱衣場で姿勢よく膝を突いて私を拭う。トモヨさんの下着も私の下着もなかった。
「あれ?」
「この外廊下の奥が、私がいただいたお部屋です。裸のままいきましょう」
 八畳のこぎれいな部屋に、大きな箪笥と鏡台が、ほどよい配置で置いてあり、使いこんだ文机の脇に、三段組のかわいらしい書棚が立っていた。
「ご本も、ほとんどお嬢さんにいただいたものばかりです。お嬢さんは、高校時代は文芸クラブで、それは熱心に読書してらっしゃいました。いまではそんなことおくびにも出しませんけど、絵とか、音楽とか、歴史にも詳しいんですよ」
「そんな気はしてた。熱田のアパートの本棚に本がぎっしり並んでたから」
 鏡台の前に蒲団が敷かれ、私の新しい下着が置いてあった。
「お嬢さんの心尽くしです……」
「トモヨさんはここで裸になってからお風呂にきたの?」
「はい。お嬢さんがそうしなさいって。すぐに裸で戻れるようにって」
 選ばれたという意味は、私には永遠に理解できないだろうと思った。ただ、この先も常に、女のことに関するかぎりカズちゃんの裁量にまかせて生きようと決めた。
「……お手紙に返事を書かなくてすみませんでした」
「いいんだよ。カズちゃんに遠慮したんだね。内緒のやりとりみたいで」
「はい。でも、狭い心でした。お嬢さんは、何も、だれのことも、気にしてません。気にしてるのは、郷くんが私に愛されてるかどうかだけです。私が心がけるのは、郷くんを愛し、郷くんに愛されることです。それが、お嬢さんをいちばん安心させることです。少しでも遠慮があると、お嬢さんを悲しませます」
         † 
 三十一日は朝から雨だったので、みんなで朝食をとったあとは、引越し荷物が所狭く置いてあるカズちゃんの部屋で、畳にごろごろしながら、彼女に英単語の確認をしてもらってすごした。トモヨさんがコーヒーを持ってきて、しばらく二人の応答の様子をうれしそうに眺めていたが、
「たいへんですねえ」
 と呟いて出ていった。カズちゃんはコーヒーをすすりながら、
「あら、トモヨさん、おいしいコーヒーをいれるようになった。おトキさんも上手になったのよ。きっと、おとうさんがうるさいからね。embrace」
「受け入れる、受け止める。抱き締めるという意味ではめったに使わない」
「jeopardize」
「危険に曝す。命とか所有物とかいろいろな制度などを」
「すごい、ほとんど記憶してる。もういいんじゃないの」
「このへんに図書館ない? 本が読みたくなった」
「栄の愛知図書館は遠いわね。西高から浄心のほうへ十五分ほど歩いたところに、西図書館があるわ。去年開館したばかりのけっこう大きい図書館よ。名古屋市でたった一館、レコードの貸し出しもするの。利用者カードを作ったほうがいいわね。西高にかようようになったら、しょっちゅう使うでしょうし。いいわ、いっしょにいって作ってあげる。眼鏡を持って出てね」
「カズちゃんは読書家だからね」
「トモヨさんから聞いたのね。高校時代からこちら、あまり読んでないわ。私もカード作ろうっと。で、どういう本が読みたいの?」
「小説をじっくり読んでみたい。外国の小説。少し古めの」
「ロシア、ドイツ、イギリス、イタリア、アメリカ、スペイン、ポーランド……やっぱりフランスね。バルザック、デュマ、ユゴーなんかいいんじゃない。読み応えあるわよ」
「出たね、片鱗が。トモヨさんが言ってた。音楽や絵も詳しいって」
「どれもこれも素人趣味よ。本気にしないこと」
 カズちゃんは居間にいって、大福帳をめくっていた母親に、西図書館にいってくる、と告げた。
「外で食べんと、お昼には帰っておいで」
「菅野さんの車でいってくるから、すぐ帰れるわよ」
 カズちゃんが菅野に電話すると、十分もしないうちにすっ飛んできた。玄関先の空地に出て菅野に挨拶する。カズちゃんが、
「ごめんね菅野さん、日曜日なのに」
「とんでもない。私は年中無休の契約です。休みを取りたいときは、いつでも旦那さんに申告すればいいことになっとります。西図書館なら、西警察署から曲がって、西区役所の裏ですね。うちからも近いんですわ。ガキが小四なんやけど、ときどき、そこからイッチョ前に児童本なんか借りてくるんですよ。地下三階、地上二階の立派な図書館です。この雨、昼までには上がりますよ。二十日ぶりの雨なんですけど、連日のカラカラ天気のオシメリにもなりません。またすぐカーッときます」
「タイヤが新品ですね。溝がクッキリ彫れてる」
 菅野は胸を反らし、
「旦那さんが三カ月ごとに取り換えさせるんですよ。タクシー会社と大ちがいです。会社の金回りはタイヤに出るって、ね。ボディは、これでもかってくらいにピカピカに磨き上げてるのに、タイヤだけツルツルってのはたしかにへんですもんね」
 雨の中を、きのうカズちゃんと市電に乗った道筋を走る。
「このあたりで空き家ないかなあ。探してるのよ」
「女将さんに聞きました。鋭意、探しておきます。一戸建て、三部屋、十帖の洋間でしたね。内風呂は?」
「もちろんついてないとだめ。それも大き目がいいわ」
「庭は?」
「ないよりは、あったほうが……いいえ、ぜったいあったほうがいい。築十年以内、家賃は相場でね」
「了解です。ほかならぬお嬢さんの頼みです。近所の連中にも声をかけて、手分けして探しましょう」
「ありがとう。一人で探して歩くのはたいへんだと思ってたの。もちろん散歩がてら歩いてはみるけど。荷物の運送は引越し屋さんに頼むからいいわ。六日の土曜日までには引越しをすませておきたいの。七日がキョウちゃんの試験日で、発表は八日か九日でしょう」
「神無月さんを早く安心させてあげたいんでしょう。いつでも雨宿りできるようにね」
「しゃれたこと言うじゃない。本を借りたあと、枇杷島のほうから岩塚まで走ってほしいんだけど。キョウちゃんの通学路をなぞってみたいから」
「わかりました。ふうん、神無月さんは岩塚から通うんですか。とすると、鳥居通の栄生(さこう)から中村日赤を通って赤鳥居をくぐり、同朋大学方面、と。了解」
 きのう一度歩いただけで、街筋が親しいものに見える。雨も親しい。
「旦那さんの話だと、お嬢さんは、神無月さんのお母さんと同じ職場にいたんですって? 北村席に泊まってることは、そのお母さんは承知なんですか」
「死んでも教えちゃだめ。見つかったら地獄いき。お母さんに二度とキョウちゃんの人生をいじられないように目を光らせてなくちゃいけないし、私の存在を知られないように細心の注意を払わなくちゃいけないの」
「手ごわいおかただと?」
「それどころじゃないの。対抗策ゼロ」
「その雰囲気、覚えときます」
 西警察署前から右へハンドルを切って、細い道へ曲がりこむ。住宅地を三辻ほどいって停車。窓の少ない密閉型の大きなビルに到着。
「着きました。西図書館です。私はここで待ってますから、ごゆっくり」
 弱い雨なので、傘を差さずに降りる。予想以上に大きい鉄筋コンクリートの建物だ。茶色い立方体が雨空にくるみこまれている。レンガ造りに似せた模様が壁に施してある。建物の周囲にはまばらな緑しか見えなかった。埋めこみ標示を見る。
「朝九時から夜八時までか。土曜は七時、日曜は五時までと。
「自転車を漕いで、西高から五分でこれるね」
「大鳥居のそばに中村図書館があるわ。勉強で籠もるなら、どちらかね」
 玄関の置看板から、公民館と福祉会館と小劇場まで兼ねていることがわかった。ガラスの自動ドアを通って、静まり返った館内に入る。受付の脇通路にレストランまである。通路の奥のガラス窓の外に、遊歩道をめぐらした芝生の緑が見えた。
 受付にいき、閲覧カードを申請する。貸し出しは県内の住民だけということで、カズちゃんが書式に書きこみ、カードを作った。一階は子供向け図書のコーナーがメインで、壁に貼られた漫画の切り絵の前に大勢の子供がたむろしている。なるほど菅野の息子がよく出入りするはずだ。二階の文学書のコーナーに上がる。貸出し・返却の空間に座っている係員の雰囲気がまるでお役所員そのもの。
「あれ、西高(メイセイ)の制服よ」
 一本黒線の白大襟のセーラー服が二人、書棚の前に仲良く立っている。紺スカートに白シャツの夏服。胸の黒リボンが目立つ。青森高校の制服は思い出せない。よほど特徴のない制服だったのだろう。
「黒ずくめで、胸躍らないな」
 カズちゃんはすでに離れた書棚にいて、
「ぎっしりすぎて、目移りするわ。外国文学の棚はあっちね」
 あとをついていくと、バルザックやドストエフスキーの全集が並んでいた。その脇のルソーの『告白録』という単行本の背表紙が目につき、すぐに決めた。
「これにする。二、三日で読んでしまうから返しといてね」
「はい。一度読んだけど、スタンダールの『赤と黒』とそっくりな小説よ。私も読み返してから返却しておくわ」
 結局私の選んだ一冊だけを借りて出た。外に出ると、雨が上がりかけている。菅野が、
「菊ノ尾通りから回って、枇杷島の青果市場に出ます。西高へ通学路を見ておきましょう」
 榎小学校前から菊ノ尾通りへ出、右折して上更(かみさら)の大きな交差点までくると、右手に青果市場の広い敷地が見えた。沿道に大きなパチンコ店がポツンとあった。
「この広い道は環状線と言います。まっすぐ大鳥居まで通じてます」
 大鳥居とは何の意味かわからなかった。去年の夏にきたときのバスの窓からは見ていない。栄生(さこう)という駅のガードをくぐる。家並が急に低くなる。
「さっきのガードの上は、名鉄と国鉄が走ってます」
 商店と事務所が肩を並べて延々とつづく。民家はほとんどない。街路樹の白は高木のナンキンハゼの花の色だ。静かな石灰石の印象だ。秋には紅葉して美しいかもしれない。雨が上がった。
「本陣の交差点です。左へ真っすぐいけば、亀島」
「浅野先生のほうね」
「だれですか、それは」
「お母さんの共犯者よ」
「はあ、対抗策ゼロのメンバーですね」
「そうよ」
「並木の種類が変わったなあ。ここからはスズカケだ」
「あら始まった。じゃ、さっきのは?」
「ナンキンハゼ」
 菅野が運転席から指差し、
「左前方に見えるのが日赤病院。このあたりから鳥居通と言います」
「さすがもとタクシー運転手。名古屋市内ならどこでもござれって感じね」
「そこまではちょっと。ほい、バカでかい赤鳥居が見えてきましたよ。この五叉路が中村公園前です」
「この大鳥居は、何の鳥居?」
「さあ、何ですかね。お嬢さん、知ってますか」
 カズちゃんは何ということもなく答えた。
「ここらあたりはむかし中村という村だったの。名古屋市に編入されたときに、記念にこんな派手な大鳥居を建てたのね。中村公園の中に豊國神社というのがあるんだけど、この鳥居はその神社の参道の表門になってるわけ」
「ああ、豊國神社ってのはよく聞きますな。秀吉を祀ってる神社ですね」
「そう。そこの敷地が秀吉の生地だったからよ」
「さすが、百科事典!」
 カズちゃんが認められ、信頼されるのがうれしい。鳥居をくぐって道なりに走る。豊国通四丁目という交差点を右折する。
「岩塚に通じるバス通りはこの道だけです。退屈な道になりますよ」
 たしかに民家だけの特色のない町並になった。シロに見送られてバスで帰った道だ。そのときにあの赤鳥居を見なかったのは、考えごとをしてうつむいていたからだろうか。
「右手が豊正中学校、すぐに同朋大。同朋幼稚園と同朋高校も同じ敷地内にあります。あの西栄町の交差点のすぐ向こうが岩塚ですが、引き返しますか」
「そうしてちょうだい」
 適当な空地に入りこんでハンドルを切り返す。


         百四十三

「どう、西高まで自転車でどのくらいかかるかしら」
「四十分から四十五分でしょう。七、八キロはありますから」
「たいへんね、キョウちゃん」
 私は腹の底からうれしくなり、
「よかった、運動不足を取り返せる。少し速めに漕ごう。三年生の夏を過ぎたら、西高のそばにアパートを借りたほうがいいな。東大を目指すなら、相当勉強しなくちゃいけないという名目が立つから」
「キチガイみたいに頭のいい連中の受ける大学ですからね」
 東大に関しては複雑な思いがあると前置いて、私は話しはじめた。守随くんという親切な秀才のことから始めて、威張り腐った西松の岡本所長のことや、東大と天才を結びつける世間の妄信のことまで話し、
「可及的速やかに野球をする橋渡しのために、東大に受かって、おふくろを黙らせるという理由が、もちろん第一のものです。それだけに邁進すればいいことなんですよ。でもここからがぼくのアホさが頭を覗かせてきて、世間でそう言われてるのが不愉快だから受ける、という意趣返し的な要素も一、二パーセントあるわけです。この非常時に何を馬鹿なことを思うでしょうけど、ほんとに合格者がキチガイみたいに頭がいいのかどうか、合格して、周りを見回して白黒はっきりさせなければ、一生不愉快なまますごすことになりますから」
「なんかおもしろいですね、復讐みたいで」
「そうです、復讐です。ぼくは小学校までは野球しか知らない本物のバカでした。さっき言った守隋くんに勉強の仕方を教えてもらってから、少しずつ独学の喜びを知るようになって、案外自分が勉強にも向いていることがわかってきたんです。でもそれは錯覚だとわかった。とりわけ青森高校の異常な能力の学生たちを眺めているうちに、自分はやっぱり凡庸な頭脳だと思い知ったんです。勉強というものを野球のようにスムーズに理解できない。それなのにいい成績が取れるのは、こと勉強に関してマグレを引き寄せる力が先天的に備わっているからだと考えるようになった。その神通力が、東大受験まで持続できるものかどうかを確認しようと思ったわけです。これが、東大を受験する二つ目の意味です」
 菅野もカズちゃんも黙っている。
「まあ、マグレ頼みの平凡な頭でも、うまくハマレばキチガイの仲間入りできるものかどうかということを、身をもってハッキリさせたいわけです。受かれば彼らがキチガイでなかったと証明できるし、ある意味、東大信奉者に対する自分なりの意趣返しができる。落ちればやっぱり平凡な人間の神通力はそこまでだと納得できます。山口は正真正銘のキチガイですから受かって当然ですが、ぼくは受かればマグレです。落ちれば、世間常識の四海波静かというところです。いずれにしても、ぼくの心は安らぎます。救いようのないアホでしょう?」
 カズちゃんが菅野の背中に、
「そろそろ、〈自分こき下ろし病〉になってきたから、馬の耳に切り換えたほうがいいわよ」
 菅野は黙ってハンドルをいじっている。私は、
「……おそらく、東大を落ちても野球にたどり着く道はいろいろあると思いますが、たぶん五年、六年と年数がかかるでしょう。どれほど多くの人に迷惑をかけるか知れたものではありません。やっぱり、いちばんの近道は〈東大合格そして二十歳で中退〉でまちがいないところです。それでも高卒でプロ野球選手になる人より二年遅れているんです。復讐とか、マグレの確認とか、悠長なことを言ってる場合じゃないんです。とにかく脇目も振らず第一の理由を貫徹して、合否しだいで、野球への道を天命にゆだねるしかありません」
「うーん、複雑な話だなあ。複雑というより、不気味だな。でも、小気味がいい。お嬢さん、私、神無月さんにあらためて心底惚れ直しました! いや、惚れてることを確認しました」
「まともな人間なら、だれだって惚れるわよ。何百年生きたって二度と会える人じゃないから。でも、心中する気がないなら惚れちゃだめよ。慕うだけにしときなさい」
 菅野はライターをパネルから抜いて一服つけ、
「……心中しますよ。どうすればいいのかわかりませんけどね。家庭持ちの男として、最大限の努力をします」
 カズちゃんはため息をつき、
「西松の社員たちも心中してくれたんだけど、どうしてもこういう人には何か不都合が起こるし、それにつけこんでチョッカイ出してくる人間がいるの。ぼんやりしてると、その人たちにキョウちゃんは殺されちゃうから、周りを見張ってないといけないのよ。見張ることがいちばんの心中になるわ」
「わかりました、いや、わかったような気がします。神無月さん、これ自宅の電話番号です。必要なときはいつでも電話ください」
 菅野は春にカズちゃんに渡したのと同じ名刺を肩口から差し出した。私は受け取って胸ポケットにしまい、
「こんな話をして、受からなければ、やっぱりただの大ボラ吹きですよ。でも、そういう十字架を背負うことも、人生の彩りになる。とにかくカズちゃんといれば、なるようになる。どっちに転んでもカズちゃんは微笑んでくれる」
 カズちゃんはいまも微笑んでいた。
「東大なんて、私はどうでもいいけど、挑戦嫌いのキョウちゃんがあえて挑戦したいと思うんだから、それは成功するようになってるのよ。はたの人間がどんなにやっかんでも、不思議がっても、仕方のないこと」
 菅野は運転席でうなずき、
「現実的な話で、お嬢さんは気を悪くするかもしれませんが、敵は日本一の東大ですから討ち死にもありえます。そのときはどうしますか。お嬢さんが微笑むだけでは、神無月さんの先行きは宙ぶらりんになりますよ」
 カズちゃんはため息をつき、
「なんのための心中だと思ってるの。キョウちゃんの願いを遂げさせるための心中でしょう。キョウちゃんの宙ぶらりんはいまに始まったことじゃないわ。心もからだも、宙ぶらりんがキョウちゃんの正常な状態なのよ。だから私はいつも手を握ってるの。手を握って、プロに入るまでの姿を見守ってるの。東大を落ちたらすぐどこかの社会人チームにスカウトされると思うから、そこで何年か野球をすることになるでしょうね。社会人はプロ志望届を出す必要がないから、ただ野球をしてドラフトを待ってればいいだけ。キョウちゃんはその年数が五年、六年と思ってるみたいだけど、東大中退より早いかもしれないわよ。私はそっちのほうが張り切り甲斐があるけど、キョウちゃんの第二の理由も見届けたい気がするわ。……でも受かってもマグレじゃないっていくら言っても、キョウちゃんは聞く耳持たないでしょうね。自己否定は持病だから。とにかく私は何も心配してないわ」
 菅野はドンとハンドルを叩き、
「了解しました! 何もかもね。神無月さん、お嬢さんのご利益にあずかって現役で受かっちゃってくださいよ。そのうえで、プロ野球へいくのが八方丸く収まって、いちばん不都合が起こらないでしょう。ま、どう転ぼうと私は全力で応援しますけどね」
「ありがとう。受からなかったら、そのときには、カズちゃんの言ったように、どうにか野球をやる方策だけを考えます。受かったら野球を再開して、しばらくしてからさっさとやめてプロへいきます。山口も音楽の道にメドがついたら大学をやめるでしょう」
「いやはや、豪気な人たちだなあ。痛快だ」
 カズちゃんがうれしそうに笑った。
「豪気っていい言葉ね。私もそう思う。成功も、失敗も、お祭りだと思ってるのね。山口さんなんか純粋なお祭り。お付き合いで転校したり、東大を受けたりするんだもの。お祭りをしていないときの〈深い静かな思い〉がいちばん大切で、それ以外はぜんぶ縁日の露店見物でしょう。気に入らなければ通り過ぎるだけだし、金魚が掬えなければ頭を掻いて笑うだけ。優越感もなければ、劣等感もない不思議な心境ね。そういう態度って自信家に見えるかもしれないけど、何の下心もないの。成功しても褒めてあげる必要はないし、失敗してもホラ吹き扱いする必要もないわ。愛し合っていれば、ぜんぶ楽しい光景よ。キョウちゃんたら、十字架なんて殊勝なこと言っちゃって、何も考えてないくせに」
 菅野は、ハーと息を吐いた。
「いやあ、浮世離れした話を聞いてしまいました。まあ、それでなきゃ、北の怪物の冠を惜しげもなく捨てるなんてことはできませんわな。われわれは捨てた理由を考えてしまいますからね。肩を壊したとか、不祥事を起こしたとかね。それが、まさか母親の機嫌取りの縁日見物だなんて思えませんよ。その〈深い静かな思い〉ってのが理由だとすると、われわれには覗い知れんものですね」
 カズちゃんは窓を開け、すがすがしそうにあごを上げてナンキンハゼの並木を眺めながら、
「だれにでもそういう思いはあるんだけど、雲をつかむようなものだから、それをいちばん大切にして生きてないわね。たくさんのものごとや人間を見つめること。見るべきほどのものは見つ、なんて傲慢な気持ちでいたんじゃ、人間を見つめることはできないの。キョウちゃんみたいな大道から逸れた人間には、こちらが馴れることがいちばんね。とにかく馴れ親しむこと。そうすれば、心の底から愛情が湧いてきて、命を捧げたくなるから」
「なんだか、いい気持ちだなあ! 縁日ねえ」
 重く垂れこめていた雲が急に白っぽくなり、小さな水滴がフロントガラスをパラッと打ったかと思うと、とつぜん空が青く抜け上がった。
「お、晴れた。またあしたから真夏日がつづきますよ」
 菅野は北村席の玄関まで送ってきて、そのまま車を降りると大座敷に控えた。ちょうど昼めしどきで座敷がざわついていた。賄いたちができあがった料理をどんどん食卓に運び入れる。カレイの煮付け、イナダとスルメイカの刺身、ホヤ酢、ミョウガの味噌汁、ユウガオの炒め物。
「簡単なおかずですけど、さっぱりとおいしくできましたから、ごはんが進みますよ」
 おトキさんが台所から声をかけ、トモヨさんは厨房と座敷の往復で大わらわだ。帳場部屋から女将が出てきて、
「お帰りなさい。山口さんから電話あったわよ。八月の二十六日から二十八日まで、金土日と遊びにくるって。ギターを持ってくるらしいわよ。楽しみやね。土曜日はおトキにお休みをあげることにしたから。和子、二人のために市内見物の計画立ててあげてや」
「二人の勝手にさせなさいよ。おトキさん、まだまだ暑い盛りだから、あんまり街なかを歩き回らないようにしなさいね」
「はい。昼間は何十年ぶりかで映画でも観て、夜はビアガーデンなんか考えてます」
「芸がないけど、無難ね。おとうさんいないわね、出かけたの?」
「寄合だがや。麻雀で午前さまになるかもしれんわ。さ、ごはん食べて」
 私は座敷にいき、菅野とならんで箸を取った。二人を女たちが取り囲んだ。トモヨさんが座敷のおさんどんにきた。
「菅野さん、西高からお城までは何キロくらいですか」
「四キロちょいですかね」
 首をひねりながら言う。私はトモヨさんに、
「自転車で十五分ぐらいでいけるよ。大した距離じゃない」
「でも気を使わないでくださいね。ほんとに私は……」
 カズちゃん母子の笑い声が聞こえてくる。
「ミニスカート!」
「トモヨさんとお揃いのを買おうと思ってるのよ」
「三十女が、やめとき」
「キョウちゃんにムラムラしてほしいから。トモヨさんもそう思うはずよ」
「うちらも買わん?」
 座敷の女たちが話しはじめる。
「パンツも買わんといかんようになるが」
「え、穿いとらんのですか」
 菅野が目を剥く。
「冬以外はな。確かめてみる?」
「や、けっこうです」
「当然、パンチラになってまうもんな」
「ミニで商売に出てみよっか」
「ムラムラさせる前に、脱いでまうやろ。何にもならんで」
 大笑いになる。
 みんな賑やかにめしをすますと、それぞれの部屋へ去っていった。カズちゃんは精力的に家探しに出かけ、菅野は座布団を枕に午睡をとる態勢をとった。私はカズちゃんの部屋で告白録にかかった。


         百四十四

 三日の夜まで、毎晩トモヨさんの褥に眠った。ついたちの夜のセックスのあとから、トモヨさんは、腰がだるくてつらいと言いだしたので、二日の夜は手を握り合いながら、彼女の幼いころのふるさとの話を聞いた。秋田市から奥羽本線で一駅南下した、道川という海辺の町の小山の斜面で育った、とトモヨさんは語りはじめた。トモヨさんはふるさとの環境のことをまず語った。海水浴場の話をするときは、耳に波の音が聞こえ、天蓋のない駅舎の話をするときはレールの音が聞こえ、茅葺屋根の家から学校へかよった話をするときは雪の音が聞こえた。
「両親がいないと言ってたよね」
 練炭中毒で両親を失ったと葛西さんの奥さんが言っていたことを思い出した。
「はい」
 漁師だった父親は、九歳のときに海難で死に、女手一つで育ててくれた母親は中二のときに胃癌で死んだ、とサラリと言った。
「こんなの、郷くんの中学校時代に比べたら、苦労とも言えません。みんな生活のことですから。自分の将来を奪われるというほどの事件じゃありません」
 二年間親戚の温泉宿に預けられたが、そこの子供たちと仲良くやっていけず、中学を出ると名古屋の製パン工場へみずから進んで職を求めた。恋人もできてしばらく幸せな時期をすごしたこともあったけれど、捨てられ、芸者にでもなろうと思ってふらふらと覚悟もなくこの道に入った。芸事は向いていなかったようで、見切って、不定期で安易な枕芸者の道に入った。強い決意もなかったので、一度も後悔したことはなかった。このままぼんやり年をとって死んでいくのかと思っていたところへ、私が現れた。詮無いことだとわかっていても、からだを汚して生きてきたことを生まれて初めて後悔した。
「そう……」
 聞いてよかったと思った。
「魂が汚れるような悲惨な過去でなかったのが、うれしいな。トモヨさんは売れっ子だったの?」
「二十歳ぐらいまでは。でも、チヤホヤされても少しもうれしくありませんでした。請け出したいという人も何人かいましたけど、ぜんぶお断りしました。……おかげで、郷くんに遇えました。じつは、二十五もすぎて、あまりお客もつかなくなったころ、大学にいっていたお嬢さんと仲良くさせていただいていたころですけど、お嬢さんの説得で塙のご主人が私を定時制の高校にいかせてくれたんです。四年間、中村高校という県立高校にかよいました。勉強というより、本を読むのがとても好きだったので、お嬢さんの目にも留まったんだと思います。定時制でも、目立つ顔をしていることもあって、言い寄ってくる男の人もいましたが、ぜんぶ撥ねつけました。本職のことはもちろん言えませんし、仕事柄、男の人を見る目は肥えていましたから」
「その目にぼくはかなったの?」
「かなったなんてものじゃありません。打たれたんです。郷くんはこの世にいることが不思議な人です。この世にいないのが正常な状態なので、ここにこうしていっしょにいると、どうしていいかわからなくなります。だから、いなくてもずっと平気でいられますし、いると天にも昇る気持ちになります。この世に生まれて、私に遇ってくれて、ほんとうにありがとうございました。郷くんがいままでどういうふうに苦労して生きてきたのか、お嬢さんからすっかり聞きました。どう生きてきたかなんてことは、私たちにはもちろん、郷くんにも関係ないことです。郷くんはいつも、そこにいるのが信じられないという思いでみんなから見つめられて生きてきただけです。生き方なんて、自分が決めたことじゃないですものね。お嬢さんも同じことを言っていました。生きているだけで不思議な人だ、あの人の心臓から、不思議な血をもらいながら生きていきたいって。ただ不思議な人なりの深い悲しみがあるようだから、それがもとで命を失うことがないようにいつも見張ってなければいけないって。……死なないでくださいね。郷くんが死んだら、私も、和子お嬢さんも、山口さんも、生きていけなくなります。死んだ郷くんの心臓の血はもうもらえませんから」
 はらはらと泣くので、私はトモヨさんをしっかり抱き寄せた。
「死なないよ。一回いたずらしただけなんだ。深く反省してる。生きる意味を目先のことだけに見つける重要さに気づいたんだ。好きなように生きて、そして長生きするから、安心してね」
         † 
 八月三日は、一日じゅうトモヨさんの寝床で、数学の図形の問題を解いた。朝めしと昼めしはコーヒーだけにして、頭を鈍らせないようにした。ときどきカズちゃんがやってきて、私といっしょに寝転がって、補助線を引いてみたり、断面の想像図を書いたりしながら楽しんだ。私より冴えていた。
「すごいな。数学だけ替え玉受験をしてほしいよ」
「はいはい、聞いてませーん。さあ、家探し、家探し。もう一踏ん張り」
 西図書館の裏手の緑が気に入ったから、あのあたりを見てくると言って、菅野を連れて出ていった。トモヨさんが夕食の時間を告げにきたので、私はきちんと服を着て居間にいき、主人夫婦や店の女たちといっしょにめしを食った。毎晩魚が出ていたが、きょうはトンカツだった。カツはもちろんのこと、添えられたキャベツとトマトがうまかった。どんぶり一膳、大盛で食った。母親が言う。
「このあたりもだいぶ整理されて、蜘蛛の巣通り以外はきれいになりよりました。太閤通口から椿町近辺までは、予備校や専門学校の大きなビルが軒を並べてまって、もうむかしの姿であれせんけど」 
「笹島のほうにも開発の手が伸びるらしいで。蜘蛛の巣はすぐに手をつけん言うても、バラックの建てこんどる駅西口はやられるやろ。ここも二年どころか、一年保(も)たんな。早う移る算段せんといかん」
「そのための寄合でしょうが。しっかりしてちょうよ」
「おお。うちと塙が店を出す土地は、とっくに確保できとる。この秋から地ならしや」
 女たちの代表格のようなのが、
「うちらの寮の土地も忘れんといてよ」
 菅野に、スカートの下を確かめてみるかと尋いたさばけた女だ。四十を越えているかもしれない。
「おお、立派な寮を建てたるわ」
 カズちゃんと菅野が戻ってくると、彼らが食事をすませるのを待ち、この夏いちばんの涼しい日になったということで、宴席を外せない女たちを除いて、一家でビアガーデンに繰り出した。送迎の菅野は残った。
「トモヨさん、ミニスカート買ってきたわよ。部屋で着替えよ」
「ここで見せてよ」
 若い女たちが言った。賄いの女たちまで出てきた。
「シュミーズ脱がなきゃいけないから、おとうさんと菅野さんはあっち向いてて。キョウちゃんはいいわよ」
 私も後ろを向いた。二人がごそごそやっているそばから、
「二人のからだ、コピーみたいやな」
「ええなあ、ぜったい買おまい」
「パンツはやっぱり白やな」
 かしましい声が上がる。
「いいわよ!」
 拍手が上がった。見ると、淡い臙脂のミニスカートで、丈は丸い膝頭の上の太ももが少し覗くくらいだった。
「よっしゃ、出かけるぞ。おトキの予行演習や」
 父親が言った。おトキさんと女将だけが着物姿だった。
 賄いを含めて二十名近い女たちが、エレベーターで名鉄百貨店の屋上にのぼった。提灯を吊るしたビアガーデンは人でいっぱいだった。無秩序に並べられた白テーブルの上にビールのジョッキが林立し、どこに取りつけられているのかわからないスピーカーからハワイアンが流れている。
「けっこう涼しいやないか」
 トモヨさんと裸の膝を並べて座ったカズちゃんが、おトキさんに、
「おトキさん、こんなところでいいの? 落ち着いて食事もできないわよ」
「はい。きちんとしたところにいっても、かえって上がってしまいます。こういうところのほうが気楽です」
 トモヨさんがうなずいている。女将が、
「ホテルだけは奮発せんとあかんよ。年に何度も逢えんのやから」
「はい」
 おトキさんは恥ずかしそうにうつむいた。
 大ジョッキと枝豆と長いソーセージが出てきた。女たちが、カンパーイ! とはしゃいでジョッキを打ち合わせる。中の何人かが私たちのテーブルに立ってきて、同じように打ち合わせる。
「周り見てみい。あんたらだけきれいすぎやわ。おトキさんまできれいになってまって。羨ましいわ。ほんとに女は男しだいやな。旦那さん、きょうはうちら飲むで」
「好きにしろ」
 女たちがキャッキャッとさえずりながら戻っていく。私はどちらかといえば、照れや気恥ずかしさを身にまとっている人間が好みだ。西松の男たちにもそれはあった。芸妓たちにそれがないとは言わないが、あまりに真っすぐすぎて、気が引けてしまう。
 泡立った生ビールというものを初めて飲む。冷えて、苦味が少ない。大量に流しこむ気はしないが、そうするのが作法なのだろう。まねてみる。うまくはない。枝豆はうまい。母親が、
「十七だもの、そろそろ酒をおいしく感じはじめるころやね。和子は煙草はやらんけど、神無月さんぐらいのころはけっこう飲んどったよ。和子、いい物件(もの)見つかった?」
「菅野さんと歩いてたら、西区役所裏の花の木にいい空き家があったのよ。築十年、しっかりした造りの家よ。一階に和室が六畳と八畳、二階に洋間が八帖、それと六帖の納戸部屋。つなげて使おうと思えば、音楽部屋としてじゅうぶん使えるわ。足して十四帖に机とステレオを置けばいいわね。風呂はガス、浴槽と洗濯機を置く洗い場はタイル貼り、湯船だけで一帖くらいあるの。水洗トイレが広くて、裏に坪庭までついてるのよ」
「いくら?」
「二万五千円。ちょっと高いけど、敷金、礼金なし。北海道へ赴任したご亭主に一家でついていったらしくて、彼らが戻ってくるまでという条件だけど、四、五年は帰ってこないって不動産屋さんが言ってた」
「ええやないの、決めてしまいなさい」
「もう決めてきたわ。前家賃も払ってきた。引越しは六日の土曜日」
「手回しのええことやな」
「キョウちゃん、夏休み中にいつでも出かけられるときに北村に寄って、菅野さんに連れてきてもらって。学校の帰りに、自転車でそこにくる道順と、お城のマンションにいく道順を覚えてね」
「わかった」
「トモヨさん、業者を頼むから、私といっしょの日に引越ししましょう。マンションのものは遠慮なく使って」
「はい。申しわけありません」
「トモヨさんは私のお姉さんでしょ。姉が妹に申しわけないなんて言ってどうするの」
 私はトモヨさんと顔を見合わせ、ビアガーデンの夜空を見上げた。女将がため息をついて、
「神無月さんて、見れば見るほどええ男やねェ」
「和子もトモヨもええ女やで。似合いや」
 父親が言う。
「いいえ、神無月さんには位負けしとる。まだ人間らしいわ」
「人間から生まれたんやから、仕方ないやろ」
 私はジョッキの残りの半分をグッと飲んだ。胃袋に快適な熱が拡がった。みんなグイとやった。別のテーブルの女たちは、すでに二杯目が終わりかけていた。提灯が風に揺れている。ハワイアンがひっきりなしに流れる。
「ユートピアですね」
 カズちゃんが微笑しながら、
「こうやって騒ぐの、キョウちゃんの好みみたいね。よかった。去年北村に連れてきたときは心配したのよ」
 父親がうなずきながら、
「静かな人だからな」
「大学を出たあと、カズちゃんがわざわざ飯場で働いた理由がよくわかりました。北村席と飯場ってよく似てる。水を得た魚だったんだね。おたがい、理想郷は同じだ」


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