四

 千年(ちとせ)小学校の野球部が軟式ボールだということは、転校前の何日か放課後の練習をバックネット裏から眺めて知っていた。ソフトボールより二まわりも小さい軟式ボールは、ややこしく跳ねまわり、捕まえにくそうだったけれども、バットでひっぱたけばどこまでも飛んでいくように思えた。
 数えた部員は補欠を入れて十五人。よく名前を呼ばれる左ピッチャーの長崎と、キャッチャーの吉村だけは暗記した。目立った強打者は一人もいない。だだっ広い校庭なので、センターの後ろにかなりの余裕ができていて、女子ソフトボール部の連中がうろちょろしている。彼女たちは毎日早めに練習を切り上げてしまうから、大してじゃまにはならない。
 十二月の初め、私は放課後いったん飯場に戻ってトレパンに着替えてから、小山田さんにもらったタイガーバットを手に提(さ)げ、意気揚々とグランドへ出かけていった。ちょうどフリーバッティングの最中だった。いつもなら、このあと服部先生という人が出てきて、守備練習のノックが始まり、それが終わるとキャッチボール、ベースランニング、最後に選手全員で校外へ走り出ていく。
 左ピッチャーの長崎がオーバースローで速球を投げこんでいる。何度見てもほんとうにフォームが美しい。彼のボールは手もとで伸びるので、たいていのバッターがきりきり舞いしている。感心しながらじっと見ていると、長崎もこちらを見つめ返してきた。
 ―このくらいのスピードなら打てる。
 ソフトボールのピッチャーが近い距離から全力で投げるボールは、人が思うよりもずっと速い。長崎程度の速さではない。それにしても、どのバッターも空振りが多すぎる。
 ―無茶振りしてるんだな。最後までちゃんと球筋を見ないといけないのに。
 ときどきまぐれでバットに当たっても、つまった打球がファールフライになるか、内野にフラフラ舞い上がるのが関の山だ。長崎は打ち取るたびに、胸を張ってえらそうにする。いままであの鼻柱はへし折られたことはないようだ。私は一塁側の花壇前で威勢のいい声をあげている補欠部員たちのほうへ近づいていった。
「野球部に入りたいんですけど」
 キャッチャーの吉村が立ち上がって、
「なんだ、なんだ、そのトレパンは。じゃまだ!」
 と怒鳴った。思ったとおりだ。えらそうなレギュラー選手に近づいていっても撥ねつけられると予想したのは正解だった。補欠部員の一人が、
「ちょっと待っとって。服部先生を呼んでくるで」
 と言うと、職員室へ走っていった。やがて彼に連れられて、ノックバットを持った服部先生がやってきた。白いジャージのはだけた襟から固そうな胸をのぞかせながら、私の前に立つ。
「入部したいって? 何年生だ」
 服部先生は私のからだをゆっくり上から下まで眺めた。私の身長はほかの連中に較べるとかなり低かった。
「四年生です」
 服部先生は短髪を指でしごいた。木製のベンチに腰を下ろす。
「あのね、クラブ活動は五年生からだよ。来年きなさい。どうせ十二月の末から二月いっぱいまでは大した練習もしないし」
 私は門前払いを食わされたのが意外で、
「横浜では、強打者だって言われてました」
 毅然として言った。
「横浜? なるほど、転校生か。あっちは、四年生でもクラブ活動をしていいの?」
「はい。一年生からいいんです。ソフトボール部ですけど」
 ソフトボールと聞いて、部員たちの遠慮のない笑い声が上がった。
「ソフトね……。うん? そういえば、きみ、寺田と―」
「はい。転校した日に、喧嘩しました」
「なかなか勇敢だったよ」
 それ以上の感想は言わず、
「で、軟式野球はやったことないんだな」
「はい。でも、打つのは得意です。テストしてください」
 ここが正念場だと思った。毎日野球をして生きていきたいのだ。来年まで待っていられない。二度、三度、服部先生の前でタイガーバットを振ってみせる。ブンと風を切る音がする。
「ホウ、左利きか。いいスイングだ。すると、なにか、きみは軟式をやるのはきょうが初めてということか?」
「はい。やったことありません」
 服部先生はあいまいな表情を浮かべ、ベンチに座ったまま、あらためて私の全身をつくづくと眺め回した。吉村が迷惑そうな顔で寄ってきた。
「守備練習の時間ですけど」
「わかった。なあ吉村、この転校生がね、四年生らしいんだけど、なかなか手首の効いたスイングしてるんだよ」
「四年生なら、来年からでしょう」
「そうなんだが―」
 服部先生は長崎を見やって、よし、と小さく言い、片手で膝頭を叩いた。
「おーい、長崎、投げてみろ。軟式は初めてらしいから、ボールのスピードを見せてやってくれ」
 マウンドにいた長崎がこくりとうなずき、見くびったふうに微笑した。彼は吉村をしゃがませて、二、三球、びしびし速球を投げこんだ。
「左対左だ、打ちにくいかもしれんぞ」
 服部先生が私の背中に声をかける。激しい緊張を覚えながらバッターボックスに立った。脚がガクガクする。とにかく青木小学校のときのように、自然に打ち返せばいいのだ。大人用の長いバットを左胸の前にゆったりと構える。長崎は片頬をゆがめて笑った。部員たちが野次を飛ばす。
「バッター、格好だけよ!」
「チビ、バットを長く持ちすぎやぞ」
 高く構えたバットをもう一度胸もとへしっかり引き寄せた。素振りの練習を繰り返すなかで、しっかり身につけた手順だ。部員たちは相変わらずからかうような調子で、私の大人びた構えに茶々を入れる。
「じゃ、いくよ」
 長崎は一声かけると、高く振りかぶり、見くびるように山なりのボールを投げてよこした。大根切りで思い切りひっぱたいた。いつもそうしてきたように、打球を眼で追った。低く伸びていくライナーが、ライトの上空で加速して浮き上がり、三階校舎のガラス窓にズボッと突き刺さった。ガラスは割れないで、丸い穴が開いている。一瞬静まり返った部員たちがたちまちどよめきはじめ、奇妙な喚声が上がった。服部先生が叫んだ。
「ヘエ! 九十メートルはいったか! いままであの校舎まで飛ばしたやつはいないぞ。きみ、ほんとうに四年生か」
「はい!」
 ソフトボールはあんなふうに加速しないし、ガラスもあんな割れ方をしない。まるでピストルの弾丸(たま)だ。反発のいい小さな軟式ボールはその秘密をすっかりさらけ出して、私を夢中にさせた。
「長崎、馬鹿にするからこうなるんだ。これじゃ引っこみがつかないだろ。うんと速いのを投げてやれ。遠慮しなくていい」
 服部先生が興奮したようにあごを撫で回した。長崎の顔色が変わっている。彼はユニフォームの胸もとで手のひらを拭うと、ふたたび大きく振りかぶった。膝を胸もとにぐいと引き寄せ、腕を強く振り下ろす。スピードの乗った直球が膝のあたりに来た。私のいちばん好きな内角低目だ。肘を畳んで、利き腕を絞りこむ。フォロースルーがいちばん滑らかにまとまるスイングだ。バットの先がボールをしっかりつかまえた。
「いったァ!」
 服部先生のわれを忘れた声だ。白いボールが空高くまっすぐ伸びていき、三階校舎の屋根の上で滑るように弾んで消えた。
「ウッホー!」
「ヒェー!」
「なんじゃあ、あれ!」
 遠慮のない喚声が上がった。ベンチから立ってきた服部先生が私の両肩に手を置き、高辻先生と同じことを言った。
「きみは天才だね」
「前の学校でも、そう言われました」
「ふーん、その小さなからだは、どんな仕組みになってるのかな。よし、仮入部ということにしよう。おーい、みんな集まれ!」
 いかにもさばさばした顔で校舎の屋根を見つめていた長崎が駆け寄ってきて、握手を求めた。吉村も同じようにする。大柄な一塁手につづいて、内外野の全員と補欠の全員が走ってきて私を取り囲んだ。みんな驚きと尊敬の表情を浮かべている。
「神無月郷です。よろしくお願いします」
「まだ四年生だが、部員として練習に参加させてやってくれ」
「ハイ!」
「みんな、目にもの見せられたわけだ。五年生から神無月には四番を打たせるぞ。文句ないな」
「ハイ!」
 服部先生はみんなに練習に戻るように言い、胸を張って立っている私の肩を毛深い手でやさしく叩いた。私は天にも昇る気持ちで、ボールの飛んだ距離をあらためて目測した。
「トレパンじゃサマにならん。ユニフォームとスパイクを用意しなさい。千年の用品店で一式売ってるから」
 私が黙っていると、服部先生はすぐに察して、
「部室に先輩が置いていったユニフォームとスパイクが二、三組ある。からだに合うやつがあったら、それを使えばいい。左用のグローブがあったかな。きみが不便でなければ、今年は右利き用のやつで間に合わせとけ」
「はい」
「守備の希望は?」
「どこでもいいです。でも、できればセンターかレフト」
「じゃ、あしたから外野の練習に合流だ。レギュラーは来年の二月まで五年生で確定してるから、補欠ということになる。四年生は春までは試合に出られない。そのつもりでね」
「はい」
「私は六年生を教えている服部だ。きみの担任は?」
「下椋先生です」
「きみが加わったら、来年の千年は、ひょっとしたらひょっとするよ」
 服部先生はノックバットを手にホームベースの横に立った。守備練習に入った上級生たちを尻目に、私は飯場までの道を走った。こんなに骨の髄までわくわくする気分は一度も味わったことがなかった。叫びたかった。
 現場から戻ったばかりの小山田さんが、事務所前の水道で口をすすいでいた。私はすぐにきょうの成果を報告した。ヘルメット姿の小山田さんは、反っ歯を包むようにオッホッホと笑い、
「よくあんな重たいバットで打てたな。キョウちゃんのスイングは、子供のものじゃないもんなあ。いよいよあしたから四番か」
「来年の春まで補欠。正式の部員になれるのは、五年生になってからだって。特別に入部させてもらったんだ」
 私はユニフォームとグローブの話をした。
「そんなもの、買えばいいだろ。おばさんに頼め」
「かあちゃんはぜったい買ってくれないよ」
「掛け合ってやるか」
「いい。五年生になったら言うから。左用のグローブのこともあるし」
「よし、任せとけ。買ってやる」
「え、ほんと!」
「ああ。他人のユニフォームなんか、からだに合うはずがないだろ。いますぐその店に出かけて、ユニフォームとグローブと、スパイクも買おう。ちゃんとしたのを買わなきゃだめだ。荒田と吉冨に、うん、クマにも声をかけよう。あいつらにもカンパさせなくちゃ。お祝いだからな」 
「ありがとう! かあちゃんに言ってくる」
「だめだめ、俺たちが買ってやるなんておばさんに言ったら、かえって大目玉くらっちまう」
 小山田さんは、広島大学硬式野球部の出身だという話だった。社内の軟式クラブで不動の四番を打っている。小太りのダルマ型で、中日の森徹に似ている。このあいだの日曜日に荒田さんと社内対抗試合を見にいったら、おっかないくらい振りはするどいのに、なかなか芯に当たらない。一本ホームランを打ったけれども、たいてい内野フライや凡ゴロに打ち取られてしまった。凡退するたびに、彼は照れたふうに歯をむき出してベンチに戻ってきて、
「軟式はむずかしいや」
 と言った。それに比べてエースの吉冨さんは、報徳学園でリリーフピッチャーをしていたらしく、ボールの伸びが素人離れしていた。結局、小山田さんのソロホームランを守り抜いて、一ゼロで完封してしまった。

 
 夕食にまだ間があるので、社員たちは食堂でにぎやかに雑談をしたり、新聞を読んだりしていた。母とカズちゃんはおかずの支度に大わらわで、私たちが入ってきたことに気づかなかった。
「キョウちゃんが、三階校舎の屋根まで届くホームランを打ったぞ。野球部にスラッガーとして入部だ」
 それから荒田さんに耳打ちした。荒田さんは目尻の皺を深くして、深くうなずいた。そうしてドングリ目で私をやさしく睨み、ごしごし頭を撫でた。
「そうか、そうか、五年生からの入部を四年生で許されたのか」
 荒田さんの感嘆の声に、吉冨さんや、野球に不案内なクマさんまで首を伸ばしてきた。荒田さんの言ったことが聞こえているはずの母は何の反応も示さない。そのほかの社員は、話だけは聞いてやろうといった面持ちで、気のない相槌を打っていた。小山田さんは、今度はクマさんに耳打ちし、それから吉冨さんと荒田さんを促すと事務所のほうへ出ていった。私もあとにつづいた。


         五         

 三人の男に連れられて千年の交差点に向かって歩いた。
「俺の見こんだとおりだ、キョウのスイングはすごいからなあ。何でも買ってやるぞ」
 荒田さんが大声で言う。すると吉冨さんが、
「スパイクは少し小さめがいいんだけど、伸び盛りだからね。足先が痛くないぴったりのを買っとこう。三、四カ月もしたらまた買えばいい」
 暗くなった千年小学校のグランドには、もうだれもいなかった。
「広い校庭だな。小学生なら二つ試合ができそうだ」
 荒田さんが腰に手を当てて、金網を張った生垣越しにグランドを眺めわたした。吉冨さんも同じ格好をして、
「たしかに広いな」
「ほら、あの校舎の屋根に当たったんだよ」
 私は薄っすらと闇の彼方に浮かぶ校舎を指差した。小山田さんが目を凝らし、
「うん、硬式でも確実にホームランの距離だ。へえ、このちっちゃいからだでなあ。軟式ボールを飛ばすのは難しいんだぞ。空気抵抗が強いから、芯に当たってもお辞儀しちゃって、あんなところまではまず伸びていかない。みんなびっくりしただろ」
 大人三人あらためて三階校舎を見やった。
「先生に天才って言われた」
「だろうな。俺には手品にしか思えん」
 荒田さんがため息をついて、また頭をごしごしやった。
「とにかくキョウちゃんのスイングは並じゃないからな。中学生や高校生も、いや大人だってあんなふうには振れない。怪物になるぞ」
 小山田さんはまじまじと私を見つめた。
「ぼく、ぜったい、中日ドラゴンズに入って、ホームラン王を獲るんだ」
「巨人じゃないのか。いつも長嶋、長嶋って言ってるだろ」
「ドラゴンズに入って、長嶋と対決するんだ」
 三人を見上げると、吉冨さんが頭を撫でた。彼はクマさんよりもすべっとした肌をしていて、体型は長身で華奢、人よりも繊細な筋肉を持っているようで、とても静かな歩き方をする。
「頼むぞ。そうなったら、西松のみんなが自慢できるからね。俺たちはむかし、神無月選手と同じ釜の飯を食ったって」
 スポーツ用品店の明かりが輝いていた。私はおのずと早足になった。小山田さんたちも大股になる。店へ飛びこむと、愛想のいい店主が笑いながら出てきた。
「ユニフォームと、スパイクと、グローブを買いにきた」
「ありがとうございます」
「ぼく、千年小学校の野球部に入ったんです」
 私は顔を赤くして言った。店主はにこやかにうなずくと、棚から大きな箱を下ろして、胸に赤で二文字《千年》と縫いつけてあるユニフォームを押し広げた。
「こりゃ、格好いいなあ」
 荒田さんが目を輝かせた。
「少しゆったりしてるのがいいんだけど」
 吉冨さんが店主に注文を出した。私はその場でパンツ一枚になって何着か試着させられた。紺色のストッキングが白いユニフォームに美しく映えた。
「うん、これだ。すぐにからだが大きくなるから、少しだぶつくくらいがいい」
 吉冨さんのOKが出て、ユニフォームが平べったい箱に収められる。
「スパイクは、二十二センチぐらいか」
 小山田さんが私の大きな足を見つめた。
「うん」
「ぴったりがいいんだよな、吉冨」
「そう。二十二センチのやつをください。ついでに、磨き用にグリースと、ニーム皮も買おう」
「スパイクの減り止めは、どうします?」
 店主が尋くので、
「ピッチャーじゃないなら、いらないぞ」
 と吉冨さんが答えた。
「次は左利き用のグローブだ。内野か、外野か」
 小山田さんが尋いた。
「外野」
「それじゃ、少し胴体の長いやつでないとな」
 三人で物色にかかった。天井から束になって吊られているスルメ色の安物には見向きもしない。黒やベージュや焦げ茶色のグローブが、ガラスケースに麗々しく陳列されていた。硬式用と見まがうばかりの立派なものばかりだ。
「この、焦げ茶色のがいい」
 手にはめてみると、固すぎず、柔らかすぎず、ぴったりの感触だった。四千八百円という正札がついている。不安そうに見上げると、
「心配するな」
 荒田さんが言った。小山田さんがうなずきながら、
「よし、あとは、おばさんの事後承諾だな」 
 飯場に戻ると、荒田さんが代表で母に説明した。母は私のほうは見ないで、ただ三人に、
「ほんとうにありがとうございます。お礼の申し上げようがございません」
 と言って頭を下げた。その穏やかな表情からすると、野球用品がどれほど高いかまったく知らないようだ。食堂に居残って私たちを待ち構えていたクマさんが、母に言った。
「お礼なんかいいんだよ、おばさん。みんな好きでやってんだから」
 飯場暮らしをしていると、だれでもつい言葉づかいなどかまわないようになりがちだけれど、母はいつも周囲のがさつさに染まないように心がけ、日常の挨拶にも細かく気を配りながら、礼儀正しい雰囲気を保とうとしていた。
「そうだよ、おばさん。俺たちはキョウちゃんに買ってやりたくてそうしただけだから」
 小山田さんの言葉に、荒田さんがうなずき、
「で、キョウちゃん、きょうはどんなふうにみんなを驚かしたんだ?」
 もう一度私にきょうの手柄を繰り返して話させた。今度は母も神妙な顔をして聴いていた。楽しい夕食になった。
 その晩から、素振りを百本から百五十本に増やした。一本、一本、風切り音をたしかめながら、事務所の門灯の前で心をこめて振った。喜びがからだの隅々まで沁みわたり、目の前の築山も、草のシルエットも、×の字に鉄棒を掛け渡したバラックのトタン壁も、すべてのものが輝いて見えた。
「ホームラン王、風呂にいくぞ」
 バットを振っていると、クマさんが誘いにきた。
「俺には野球はよくわからんが、みんながあれほど興奮してたところをみると、キョウの才能は並じゃないんだな」
 一日褒められどおしの私は、なぜか急に恥ずかしくなり、
「グローブを寝押ししなくちゃ。たっぷりグリースを塗りこんで、丸めたタオルを挟んで、それを枕の下に敷いて寝るんだ」
 クマさんの先に立って風呂場に向かった。
         †
 生まれて初めてお年玉というものをもらった。年の暮れに里帰りしてしまう社員たちは、クリスマスを過ぎたあたりからぽつぽつお年玉をくれる。平均して一人三千円ほど。十円二十円を単位にしてしかお金に関する想像を働かせられない私には、非現実的な額だ。それを合計した金額となると、母の月給の二倍にも三倍にもなることはまちがいない。
「ふつうの家なら、百円、二百、多くても五百円がいいとこ。なんていう気前のよさだろうね」
 野辺地では、大人が子供にお年玉をやる習慣はない。横浜でも、お年玉という言葉を聞いたことがなかった。名古屋ではこれが初めて迎える正月だ。それなのに、どうして母はふつうの家のことを知っているのだろう。ともあれ母は、これまで私にその百円もくれたことがない。
 大晦日の夕方、リサちゃんが、
「おとうさんから」
 と言って、お年玉袋を届けにきた。五千円も入っていた。
「どうなってるんだろうね。いくら貯まったの」
「三万円くらい」
「渡しなさい」
 と命令する。母は私がランドセルの底に放りこんでおいたそのお年玉を、根こそぎ取り上げた。
「あの人たちは、ふだんの私の働きに感謝して、おまえにお年玉をくれるんだよ。だからこのお金は、ほんとは私に渡るはずのものだったの。おまえはただの中継点」
 母が心にかけているただ一つのこと、それはたぶん、息子がなけなしの給料を落としたあの夜からずっと、先ゆきを不安に思いながら励んできた貯蓄だった。それは吝嗇の自覚を越えて、無意識の哲学にさえなっていた。
「母ちゃんは、金の亡者になっちゃったね」
「なんだって! それが親に向かって利く口か!」
         †
 松の内を越して、ほとんどの社員が故郷から戻ってきた。三学期が始まり、野球部の練習は週日のランニングだけになった。それからひと月も経たないうちに、すぐに春休みになった。二週間ほど野球部の練習もなかった。
 ある日曜日の午後、ガスストーブを効かせて社員たちが麻雀を打っている娯楽部屋で寝転んでいるうちに眠くなった。一眠りして起きたら、チンボ起ちしていた。ストーブは消え、男たちの姿はなかった。前屈みになって食堂にいくと、だれもいない。女二人、夕食の買出しに出たのだろう。最近カズちゃんは、家にいるのがつまらないと言って、日曜日にも出てくる。
 裏戸を出ると、カズちゃんが背中を向けて風呂の焚き口にしゃがみこみ、口を押さえながら灰を掻き出していた。買出しにいったのは母だけのようだ。事務所の石炭ストーブの掃除もカズちゃんがする。明るい人なのに背中はさびしそうだ。
 足音を忍ばせ、石炭置き場の裏の便所へいく。ちょうどみんな出払っている昼下がりで、日当たりの悪い小便所のあたりに人影はなかった。上に飛ばないように前屈みになって小便をしていると、どこからか、プンと尖った鉄錆(さび)のにおいがしてきた。三つ並びの端っこの大便所の戸が開いて、畠中女史が出てきた。なぜか目顔でうなずき、私の尻を指でギュッとつねった。
「ふふっ」
 へんな目つきで忍び笑いをする。
 ―チンボ起ちを見られてしまった。
 私は屈んだ格好のまま、彼女の意を迎えるふうに笑い返した。柔らかい手のひらが頭を撫でた。
「不便ねェ、男って」
 畠中女史は小さいイヤリングを揺らしながら、そのまま気取った歩き方で事務所へいってしまった。鉄錆に混じった香水のかおりが鼻先をよぎった。
「ありゃ、堅物(かたぶつ)で有名な女だ」
 いつかクマさんが言っていたことが信じられなかった。私はチンボが静まるのを待ちながら、しばらくぼんやり屈んでいた。収まる気配がないので、チンボの皮をむいたり戻したりしてみた。みぞにこびりついている真っ白い輪が見え隠れする。さっきよりも勇み立ってきた。そのまま皮が戻らなくなった。チンボの先が赤黒くなってくる。
 ―たいへんだ! 
 痛みをこらえながら猫背のまま部屋に戻り、からだをくの字にして畳に横たわったら、スルッと元どおりになった。あんなにパンパンにふくらむとは思わなかった。皮が戻らなかったのは、チンボの先がふくらみすぎたせいだ。おっかない。もうおかしなことをするのはやめよう。
 その夜、クマさんと吉冨さんと三人で風呂に入った。彼らの黒々としたくさむらがまぶしい。あらためて確かめると、クマさんも吉冨さんも、垂れ下がった茶色いチンボの先がきれいにむけて堂々としている。白い輪もついていない。二人に思い切ってきょうの事件のことを言ったら、ひとしきり大笑いになった。
「キョウ、それはな、恥垢(ちこう)っていうんだ。汚いからよく洗え」
 先の部分をキトウというのだとも教えられた。
「クラスにキトウって女の子がいるけど」
「それ、鬼の頭と書くんだろ。これはカメの頭だ」
「キョウちゃんのチンボは、カメというほどのもんじゃないぞ。雀だな」
 愉快そうに吉冨さんが笑う。
「スズメ、スズメ、お宿はどこだ」
 クマさんはふざけて、私のチンボを指の腹で叩いた。
「皮かむりは男の恥だぞ」
「荒田さんも、小山田さんも、むけてる?」
「ああ、むけてる。キョウもいずれはむける。心配するな」
 ふと、私はクマさんに、
「きょう畠中さんがウンコして出てきたら、鉄の錆みたいなにおいがした」
「それはな、ウンコじゃなくて―ま、そのうちわかる」


         六 

 クマさんはそれきり話をうっちゃり、吉冨さんに向かって思い出したように言った。
「荒田の野郎、まだ童貞だとよ。自分じゃ女嫌いだなんてほざいてるけど、頭で考えるだけで嫌いだっていうなら、そりゃ、ぐうたらな証拠だ。女なんて、四の五の考えずにかわいがってやりゃいいんだよ。立派なものを持ってるんだしな。くだらないことを知ったようにしゃべるのは、あいつがお人好しだからさ。お人好しってのは、まじめ腐ったことをしゃべる自分に満足してるアホのことだ」
「熊沢さんも、女嫌いじゃないんですか」
「俺は一穴(けつ)主義だ。一人の女に操を立ててるからな。俺だっていまの女に会うまでは遊冶郎(ゆうやろう)の時期があったんだ。その俺だからこそ、言えた義理だ」
 私には難しい会話だった。ただ、その叱咤調の言い回しの中に、お人好しの荒田さんに言い聞かせようとするやさしい響きがあった。〈立派なもの〉というのは、きっとむけている大きなチンボのことだろうと思った。
 風呂から上がると私は、すぐ蒲団に横たわり、萎れた皮を引っ張って、男の恥である皮かむりを治そうと、両手で撚(よ)るように揉んでみた。
 ―伸びろ、伸びろ、チンボの皮よ、伸びろ。
 チンボが膨らみはじめ、皮が後退して、撚るのが難しくなってきた。昼間の恐怖が戻ってくる。それでも無理につづけていると、とつぜん、腹の奥からするどい痛みが貫いて、チンボの先から白い液体が勢いよくほとばしり出た。下腹のあたりが熱く痺れたようになり、ピュッ、ピュッ、と水鉄砲みたいに畳の上に何度も飛んだ。止めようと焦って先っぽを握りしめると、ピリピリして触っていられない。私は畳の上のその得体の知れない液体をじっと見つめた。いままで嗅いだこともない濃密なにおいが立ち昇ってきた。何か危険な、抜き差しならないことが起きた感じがして、あわてて手のひらで畳を拭った。それでにおいは少し弱くなったようだったけれども、白い液体は畳の目に入りこんでしまった。
 ―このままにしておけない。……どうしよう。
 わけのわからない心配が胸にもつれてきて、畳に新聞紙を拡げ、恐怖を押しこめるように、その上から布団をかぶせて敷いた。頭の中でめまぐるしく人生の秘密が旋回した。どきどきするような、おぼろげな秘密―。
 素早い暗示がひらめき、社員たちの部屋に転がっていた極彩色の雑誌につづいて、いつか幼稚園の広間でお昼寝をしていたとき、みちこ先生の股の奥にのぞいた黒い大揚羽を思い出した。いま感じている暗示は、その生暖かい闇を眺めたときに抱いた予感と一致するものだった。
『きっとあの大揚羽は、この痛いほどの刺激や、白い液体と関係があるのだ』
 もう一度布団を畳み、新聞紙をめくり上げて、裏にくっついた牛乳のような液体をしげしげと眺めた。こんなものが自分のからだから出てきたことが信じられなかった。私は新聞紙で畳の目をこそぐように丁寧に拭き取ると、ぎゅうぎゅうに丸めて裏の大便所に捨てにいった。
         †
 夕方の素振りの練習を一日も欠かさなかった。百五十本の素振りは重要な日課で、それをしないと、なんだか一日の締めくくりがつかない感じだった。一本、一本、きちんとフォームとバランスを意識しながら振る。苦手な外角の低目をとくに入念に、レフト前へ打ち返すイメージで手首を押し出し、軸足を残して振る。それが終わったら、左右の片手振りを三十本ずつ、六十本。合計二百十本。いずれ、両手振りを二百本、片手振りを五十本ずつ、合計三百本にしようと思っている。
 ボールを遠くへ飛ばす才能―だれにも与えられるわけではないこの宝物が、よりによってこの私の小さいからだに与えられたことがうれしかった。きみは天才だね、と高辻先生も服部先生も言った。私はその言葉をほんとうであると恃(たの)むしかない。恃んで、ボールを遠くへ飛ばしつづけるしかない。私には野球しかないのだから。
 春休みも終わりに近づき、先輩たちの新入部員の勧誘とともに、野球部の春期練習が始まった。秋の終わりに私が入部したときには、すでに六年生はいなかったので、長崎も吉村もこの春、新六年生になる。そして、九月には退部する。部員の勧誘は彼らの義務だけれど、そんな努力をするまでもなく、十人も新入部員が集まった。服部先生が私の肩を叩きながら言った。
「神無月、きみの派手なバッティングを、どこかから見てたやつがたくさんいたということだぞ。強打者なだけじゃなく、野球部の広告塔だなあ。これからも、みんなを引っぱっていってくれよ」
 毎日自分のことだけで忙しい自分が、どうやればみんなを引っぱっていけるのかわからなかった。それでも私は元気よく、ハイ、と応えた。
「神無月、もうすぐ五年生だ。新四番バッターとして打ち初めしろ。十本打て。新入部員を驚かしてやれ」
「はい!」
 今年最初のフリーバッティングだ。レギュラーがばらばらと守備に散る。バットを二本まとめてブンブン振り、一本を投げ捨ててバッターボックスに入る。
「ぜんぶ直球でいくぞ」
「わかりました!」
 長崎もひさしぶりの全力投球なので、ショートバウンドが多かった。ストライクのコースにきちんと入ってきた中の六本を、今年から張られた三階校舎の金網に打ち当て、一本を屋根の向こうに飛ばし、一本をレフトの校舎の金網に打ち当てた。練習の成果だ。残りの二本は、速球に押された高い内野フライだった。その二本のときだけ、長崎は満足そうに胸を張った。
「最初の勝負は、二勝八敗だ。あと十本いくか?」
「よし、神無月、長崎、デモンストレーションはそこまで! 漫画みたいだな、みんな声も出ないぞ」
 服部先生が新入部員を集めた。
「どうだ、びっくりしたか。いま投げたのがエースの長崎、打ったのが四番の神無月、受けたのは吉村だ。神無月は五年生だぞ。おまえたちと同学年だ。この三人を中心に、千年は市内優勝を狙うからな。今年の千年はちがうんだ、いいか!」
「はい!」
「よし、レギュラー、一人ずつ交代でフリーバッティングをつづけろ。新入部員は外野の後ろに回れ」
 長崎と吉村は控えの選手と代わった。一塁側のベンチ前で二人して軟投を始める。五人しかいない最上級生の補欠部員が、新人たちを率いて外野の後方に並んだ。私は彼らに混じってレフトのレギュラー選手の後ろについた。彼の名前はまだ知らなかった。来月にはコンバートされるか、補欠に回される選手だった。彼は私を振り返ろうとしなかった。少し気づまりだった。
         †
 ある日の夕方、花壇の脇のベンチに服部先生と康男が並んで腰を下ろし、じっと練習風景を眺めていた。先生は居心地が悪そうに肩をすぼめていた。
 私は五年生だけれど、春期練習に入ってからレギュラーに昇格し、毎日フリーバッティング十本を二回り打たせてもらっている。康男はそれを知っているのかもしれない。しかし、彼に見られていると思うと、なかなかいいところを見せられない。ポップフライやゴロばかり打ってしまう。長崎が叫ぶ。
「おーい、星が五分になっちゃうぞ!」
「きょうは調子悪い。やめとく」
 私はレフトに走った。いままでレフトを守っていた選手は補欠に戻され、意気消沈してやめてしまった。さすがに気の毒な気がしたけれど、吉村は気にするなと言った。
 練習が終わって、まだベンチに座っている康男に近づいていくと、
「飯場に、遊びにいってもええか」
 と照れたふうに言う。
「なあんだ、そういうことだったの。もちろんいいよ」
 手下といっしょに食堂の裏口まで送ってもらって以来、もう半年以上経っている。キャプテンの長崎に、
「きょうは用事ができたので、外回りのランニングをしないで帰ります」
 と報告し、更衣室でそそくさと学生服に着替えた。康男と肩を並べ、楽しい気分で校門を出る。薄赤い夕空に、まんまるな淡い宵月がかかっている。きれいで、不思議な景色だった。
「外もぼっこいけど、中もぼっこいよ」
「俺のアパートもボロボロや。……飯場のやつってのは、おまえが褒めるくらいやで、よっぽどええやつばっかなんやろな」
 ひさしぶりに康男はすがめるような目つきで私を見た。
「みんな、すごくいい人たちだよ」
「馬鹿にされせんかな。俺、見ばえが悪いでよ」
「そんなことないよ。康男はいい男だよ」
 これまでも何度か、下校のときにいっしょに遠回りし、千年の交差点から東海通りの並木沿いに歩いて、ここでええわ、と彼が言うところまで送っていった。野球部に入ってからは、その回数も減っていた。
「……いつもはもっといい打球を飛ばせるんだけど」
「知っとるわ。いつも見とるで」
「いつも? どこから?」
「どっからでもや」
 康男の眼に、私は暖かく包まれた。幸運な勝利を納めたあの日から、私にとって寺田康男は説明することのできない磁石のような魅力の持ち主に変わっていき、会話をするたびに、まるで彼のからだの中に自分がすっぽり収まってしまったような気持ちを味わった。
 飯場に着くと、ちょうど晩めしの最中だった。
「お、キョウちゃん、友だちを連れてきたのか。めずらしいな」
 小山田さんが箸をとめて、二人に空いている席に坐るよう促した。康男はふてぶてしく食堂の中を見回し、だれにともなく頭を下げた。母がいやな顔をした。カズちゃんだけが頬をほころばせてお辞儀を返した。
「こっち、こっち」
 クマさんが康男の肩を叩いて飯台につかせた。
「ふうん、小学生にしてはイナセな感じだな」
「たしかにね」
 吉冨さんが同意した。
「ほれ、二人とも早くめしを食え。腹へっただろ。おばさん、おかず、おかず」
 小山田さんが催促する。
「かあちゃん、寺田康男くんだよ」
「自分で盛って食べなさい」
 母が背中を向けたまま素っ気なく言う。カズちゃんがおかずを出した。
「へェ、豚肉か。ソテーってやつだがや。こんなのめったに食えェせんわ」
 康男は立ち上がってお櫃(ひつ)の蓋を開け、手杓で高盛りにした飯を遠慮せずに食いはじめた。
「いい男だ。梅若正二に似てる」

  
梅若正二
 
 映画通の吉冨さんが、めしを噛みながら言う。そのとおりだった。梅若正二から甘い眼つきを取り去れば、そのまま康男の顔だった。
「赤胴鈴之助だね。ぼく、横浜の映画館で何本か観たことがある。似てるよ、目だけちがうけど」
「目がちがうなら、ぜんぜんちがう顔やろ。俺、知らんぞ、そんなやつ」
 康男は味噌汁をすすった。
「私も梅若正二、大好き。寺田くん、武士みたいな顔してるね」
 とカズちゃん。荒田さんが、
「梅若は、長谷川一夫の『忠臣蔵』で矢頭右衛門七(えもしち)をやってたろ」
「やってた、やってた」
 すぐに吉冨さんが応える。座がにぎやかになった。康男はと見ると、豚肉を咬みちぎり一心にめしを食っている。少し険のある静かな風貌のせいで、その様子に静かな品格があった。男たちも見とれていた。
「お替りして、寺田くん」
 カズちゃんが言って、茶碗を受け取るふうに手を差し出した。康男は茶碗を渡した。
「はい、キョウちゃんも」
 私も茶碗を差し出した。こんなにご飯をうまいと感じたことはなかった。母がいやな目つきで見ていた。
「先輩、三千両、貸してください」
 小山田さんに向かって吉冨さんが言った。
「大枚だな。女か? 駅裏はタチが悪いぞ。いや、タタセが悪い、か」
 どっと笑い声が上がった。私もこのあいだのチンボの件があるので、小山田さんの言ったことが、あの白い液体の暗示と関係があるようだとぼんやり感じた。
「ちがいますよ」
「赤線転じて青線となる。俺も見聞のために太閤通りに一度いってみたが、すっかり懲りた。チョンの間が二千円と格安なんだが、隣の部屋に恐いお兄さんが控えてやがる。おちおち励んでいられない」
「青線て何?」
「キョウちゃんは知らなくていいよ」
 カズちゃんの表情が少し固くなったように感じた。康男はワケ知りのように、にやりと笑った。とつぜん彼が一回り大きくふくらんで見えた。
 ―康男もあの秘密を知ってるんだろうか。

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