七

 原田さんが箸を上げて制した。
「小学生がいるんですよ。おばさんが怒ってるじゃないですか」
 母の背中がせっせとフライパンを磨いている。ふだんやらないことだった。
「じゃ、酒代か。酒ならおごってやるぞ」
「もちろん飲みたいときには、ぜひそうさせてもらいます。映画ですよ。一人清遊を楽しむってやつです。梅若正二の話が出たんで、居ても立ってもいられなくなりましてね」
「えらく高い映画だな」
「もともと、日曜に市川雷蔵の映画でも観にいくつもりだったんですけど、こうなったら日活も東映もいっしょくたで、三軒ばかしハシゴしてこようと思って。雷蔵の濡れ髪シリーズは今度で三作目なんだけど、おもしろいだろうなあ。ハシゴしたら、当然メシも食うわけで」

 

「日活は、いま何をやってるの?」
 私が尋くと、
「赤木圭一郎の『抜き射ちの竜』。やっぱり日活にはいかないよ」
「キョウ、俺が今月70ミリの『ベン・ハー』連れてってやる。すごいらしいぞ」
 クマさんが言う。
「ほれ、全財産だ」
 小山田さんは尻のポケットから何枚か丸めた千円札のかたまりを取り出して、皺をのばした。五枚あった。
「助かります。三枚お借りします。麻雀の洗礼がきついんで、今月は素寒貧だったんですよ」
 クマさんが楊枝で歯をしごきながら、
「賭けごとってやつは、まんざら嫌いでもないというのがいちばん危ないんだ。俺みたいにハナっからやらなきゃ、ピーピーすることもない」
 すると小山田さんが、
「クマ、それはないだろ。バクチは女と並んで、人生の必須科目だぜ」
 康男がおもしろそうに鼻を鳴らした。
「小山田にとってはな。ま、やるならやるで、プロ級にならないとケツの毛まで抜かれるぞ。飯場の連中は、どいつもこいつも、賭け事が骨まで浸みてるようなやつらだからな」
「テレビを観てるほうが、ずっと安上がりじゃないか、吉富」
 小山田さんはたくわんをバリバリ噛みながらめしをかきこんだ。
「テレビなんか―。映画にかなうはずがないでしょ」
 クマさんはニコニコして、
「映画は迫力あるもんな。しかし、高い。小山田も言うとおり、テレビはロハ同然だ。いまに映画を食っちまうな」
「ロハだけあって、中身がスカスカ。テレビは安っぽいですよ」
 原田さんが唇の端を上げて、
「映画といい、テレビといい、単なるおもしろい映像ゲームでしょ。精神性なんてものは活字みたいになかなか表現できない。そんなものを鑑賞して話題を共有するというのは、文化的生活とやらの流行にすぎませんね」
 クマさんが一蹴して、
「固い、固い。たしかに、十把ひとからげのくだらない映画やテレビなら、そう言ってもいい。しかし、中には、いい映画やテレビもあるんだ。たしかにほとんど安っぽい映像ゲームだがな。そんなことはわかってるんだよ。原田の言うことは、あたりまえすぎておもしろくない。だからさ、吉富、その安っぽいところが価値になっちまうんだって。いずれ中身のあるのは嫌われるようになるぞ」
「ウッハッハッ、またクマのおっかねえ理屈だ」
 小山田さんが突き出た腹を抱えた。
「中身にこだわるのは趣味人だ。質の高い映画を観たがる吉冨は、時代錯誤の趣味人というわけだよ。趣味のいい人間はギャンブルなんかしちゃいかん。借金のもとになるだけだ。借金がかさめば、金のかかる趣味に没頭できなくなるぞ」
 クマさんはそう結論を下し、曲がった鼻を康男に向けた。飯を食い終わった康男が、静かな観察の目を向けていたからだ。
「どういうわけで、おまえたちみたいに、まったく似てない同志が友達になったんだ?」
 康男の表情がずいぶん和らいでいるように映った。気ままなやりとりに耳を傾けているうちに、飯場の男たちの大らかな気心に感じたのかもしれない。彼はおもむろにクマさんに向かって、私と親しくなったいきさつをしゃべりはじめた。
「神無月の転校してきた日によ―喧嘩して、負けたんだがや。馬鹿力で投げ飛ばされてまったわ。ふつうやったら、右手で一発入れるように見せかけて、チャッと左足で蹴り上げたるんやが、その前に組みつかれたもんで、どうもならんかった」
 言いよどむこともなく、まるで前もって準備してきたようにしゃべった。それは敗北の負け惜しみから、自分の喧嘩の水準を一層高くしてみせるというものではなかった。康男の声は小さかったけれども、すべすべして耳触りがよく、底にこもった実意があった。
「神無月は根性がある。キンムクや。何でも一直線でな。こいつといると安心する。気持ちが助かるんや。俺はこいつを守ったる。この先、ずっとな」
 男たちは感心して、嘆息した。そして十歳の少年の侠気の勘どころをわかって、彼の何倍も経験を積んだ風貌(かお)を幼く輝かせた。彼らは康男のことを〈大将〉と呼んだ。
「キョウちゃんは、大将といるとうれしそうだな。いつもより大めし食ったぜ」
 小山田さんが言うと、クマさんたちはいま気づいたというふうに微笑した。類は友を呼ぶと言うけれども、この少年二人に関しては必ずしもそうではなさそうだと彼らは感じた。しかし、彼らのやさしい目には、何かの縁で結びついた二人が、同じ光に照らされ、同じ風に揺られながら不思議な釣合いをとっている二輪の花に映ったようだった。
 康男に原田さんが訊いた。
「家は近いの?」
「東海橋。千年の十字路から、東海通りをまっすぐいったドンコ競馬場のそばや。小汚い長屋のアパートでな、こっからやと四十分ぐらいかかる」
「遠いなあ。そろそろ家の人が心配してるんじゃないか」
「自由放任だがや」
「ほう、小学生なのに難しい言葉を知ってるね。親ごさんはかなりインテリだね。どういう仕事をしてるの」
 原田さんは母の受けがいい。京都大学を出ている。悪意のある人ではないが、口の利き方にどこか人の心に探りを入れて優位に立とうとするようなところがあって、みんなからけむたがられることが多い。このあいだも吉冨さんが大きな声を上げていた。
「学歴がどうとか、肩書がどうとか、いいかげん卒業しろよ。もとをただせば裸一貫だろ。俺も、荒さんも、熊沢さんだって高卒だけど、ちゃんと仕事してるぜ。大学出のおまえより、ずっと上手に機械をいじれるんだ」
 で、今回も吉冨さんが口を挟んだ。
「親の仕事なんか関係ない。せっかくキョウちゃんが、初めて連れてきた友だちと楽しくすごしてるんだ。くだらんちょっかい出して、せっかくの気分をこわすなよ」
「や、悪気はないんだ。ほんとに心配してるんじゃないかと思ってさ」
 吉冨さんの言葉は私の心に、寺田康男に対するふだんの敬愛に劣らないもう一つの切ない感情を引き起こした。それは、これまで自分が康男を何か詮索するような質問で悲しませたり、侮辱したりしたことはなかったか、そのせいで彼をいやな気分にさせたことがなかったか、という不安だった。康男を見ると、彼は落ち着いた顔で、天井ぎわの神棚を見上げていた。何も気にしていない表情だった。
「気ィ使ってもらわんでええわ。もう帰るで」
 このときだけ、母が流し台から振り向いて、作り笑いをした。
「そう、そう、早く帰ったほうがいいわよ。インテリの親ごさんが心配してるでしょうから」
 ギョッとしてみんな母を見た。彼女の目に悪い感情がハッキリ表れている。クマさんが嫌悪に満ちた顔でうつむいた。吉冨さんは唇を噛んでいた。
「ごっつォさん」
 康男が明るい声で言った。
「気を悪くしないでくれよ、大将」
 原田さんが片手を顔の前に立てて、謝る格好をする。
「気なんか悪くしとらん。慣れとる。俺のかあちゃんは、バーのホステスや。とうちゃんはおらん。俺んちはバカばっかしでよ。兄ちゃんはこれもんだが」
 頬を斜めに指でなぞり、するどい目つきを中空に投げた。母はその顔を恐ろしげな表情で見つめた。でも、彼女の僻目(ひがめ)から出た露骨な悪意の放射は、飯場の男たちの愛情と好奇心にさえぎられる格好になった。
「そうか、ヤクザか。ヤクザってのは、実(じつ)があっていいなあ。大将もヤクザになるのか」
「おう、ほかになりたいものはあれせん」
 クマさんが顔を寄せた。康男は黙っていた。小山田さんが間髪を入れず、
「大物が大物を呼んだってわけだ。大将、このキョウちゃんも、いずれとんでもない野球選手になるぜ」
「わかっとる。野球部は金的を射止めたんや。神無月のせいで、校舎の窓に金網張らんといかんようになったんやからな。野球部の先公が言っとった。設備費かける理由を市に申告できんから、みんなで金出し合って大工を雇ったんやと。そりゃそうや。神無月一人を理由にできんもんな。再来年神無月がいなくなったら、あんなもの無用の長物や。先公たちのぼやきが聞こえるで」
 ひとしきり座が笑いでざわめいた。康男も歯を見せて笑った。母だけが笑わなかった。
「神無月、また遊びにきてええか。今度は、めしどきにこんで」
「うん、いいよ!」
「大将、いつでもこい。めしが気兼ねなら、俺が外に連れてって食わしてやる」
 クマさんの言葉に、みんな笑顔でうなずいた。
「キョウちゃんと仲良くしてあげてね。キョウちゃんて、こう見えて、けっこう肝が据わってるのよ。いいお友だちになると思うわ」
 カズちゃんが言った。母が彼女の顔を憎々しげに睨んだ。
「たしかにな。キョウちゃんは動かざること山のごとしって感じだものな」
 小山田さんが神妙に腕を組んだ。
「カズちゃん、よくわかったな。キョウはやさしい人間だけど、生まれながらに土性骨が太くて、包み隠さず真っすぐものを言うんで、大人もたじたじになることがある。大将、キョウは信用できるぞ」
 クマさんが言った。
「わかっとるわ。頭も俺と同じくらいええしな」
 吉冨さんがハハハハと笑い、
「俺は最初から、似合いの二人だと思ってたよ。二人とも芯のある顔をしてる。見ていてすがすがしいや」
 母が耐えかねて、
「あんた、同情されてるのがわからないの? いい気になって長居しすぎだよ。早く帰って、小学生らしく宿題でもやりなさい」
 康男は一瞬ギロリと母を睨むと、視線を逸らして立ち上がり、
「おっさんたち、ありがとな」
 と頭を下げた。クマさんたちは康男に似た眼を母に投げたが、帰っていく大将に深く頭を下げた。カズちゃんもからだを折った。
 私は康男を見送るためにいっしょに夜の道に出た。
「ごめんね、ぼく、かあちゃんには逆らえないんだよ。怖いわけじゃないんだけど、何も言う気がしないんだ」
「あの〈先生〉には何も言ったらあかん。人の言うことなんか聞いとれせんわ。聞いとるふりしとっても、あとでシッペ返しするやつやで。おまえもそれが勘でわかっとるんや。あいつらもなんも言わんかったやろ」
 初めて母の悪口を言ってくれる人間に出会った。私は興奮して饒舌になった。もっともっと遡って、自分の来し方をしゃべりたくなったのだ。雪ばかり降っているような故郷のこと、祖父母や義一や叔父たちのこと、ミースケのこと、けいこちゃんのこと、破傷風のことなどを夢中になってしゃべった。こうして、乏しいながら印象深い過去のことを話しだしてみると、それは私が自分で思っていたよりもずっと根深い、思わず胸が熱くなる思い出だとわかった。しゃべって記憶の中から引き出すほどに、血のかよった髪の毛を抜くように、皮膚が痛み引きつる感じがするのだった。康男はその痛みがよくわかっているようだった。
「なんでも一人で引き受けてきたんやな。これからは俺にも分けてくれや」
「康男の分も引き受けさせてよ」
「俺にはそんな大そうなものはあれせんわ。ふつうに生きとって、こうなっただけや」
 いつのまにか、東海通りのずっと外れまできていた。少しも気にならなかった。康男と一分一秒でも長くいることがうれしくてたまらなかった。彼の学生服の上着は少しだぶつき気味で、折り目のないズボンの膝はてらてら光っていた。そんなことまでが人間の重みを表しているように思われて、胸が躍った。半ズボンから突き出ていた成田くんの汚れた脛を見たときにも、同じ気持ちになったことがあった。
 橋のたもとの、背の高い柳の下までくると、康男は足を止めた。
「ここでええわ」
「ここは、どこ?」
「東海橋。この橋を渡った向こうが俺のアパートや。おまえを連れていけるようなとこでないでよ。じゃな」
 康男はすたすたと橋を渡っていった。
「さよなら!」
 向こう側のたもとから、康男は私に応えてひらひと手を振った。


         八

 新学期前の最後の家庭訪問で、下椋先生は私の勉強に不満な点があると言った。ふだんの授業の理解度からして、こんな成績のはずがないと言うのだ。母は三学期の通知表に目を落としながら、しばらく考えこむようにした。国語と体育が5で、あとはすべて3と4だった。母は、勉強しないせいではないでしょうか、とあたりまえのことを言って鬢(びん)を掻いた。
「八時には寝てしまいますしね」
 たしかに私は勉強をしなかった。授業に出、野球部の練習をし、事務所の前でバットを振る以外、いっさい学校の勉強に関わることをしなかった。名古屋に転校してからは、宿題すら一度もやっていったことがなかった。野球がすべてだった。
 しかし私は頭の悪い子供だとは思われていなかった。それどころか、教師が模範だと思っているほかの子供たちよりは、ずっと利口だと買いかぶられていた。教師たちの見るところでは、私は教えられたことを〈反復して〉覚えようという気がないのだった。実際、私は教科書に書いてあることを教室以外で覚えようとはしなかった。あまりにも教科書は味気なかったし、野球や飯場生活や康男との友情に対して心が希求するもののほうが、教師が私に求めるものよりはるかに興味深く、切実だったからだ。
 味気ない勉強を強いる学校とその希求がぶつかり合うのが煩わしくて、私は学校のほうを軽んじた。それだけのことだった。興味は持てなかったけれども、無機的な勉強が嫌いなわけではなかった。それはそれで、秩序正しく教室で励むかぎりでは、非現実的な鍛錬に頭が切り替えられて、心に清新な風が吹くことが多かった。だから、退屈な勉強を克服してそのすがすがしい風に吹かれながら手に入れる優秀な成績という勲章に対しては、私なりに感嘆の気持ちを持っていた。だから、勉強のよくできる数少ない仲間たちのことを好ましく思いこそすれ、軽蔑することはなかった。
 教師は、私にものを覚える意欲がないとこぼしたけれども、それどころか、私の心はひそかに〈知識〉への渇望であふれていた。私はクマさんや荒田さんや小山田さんや吉冨さんから日々の興味を満足させる知識を得て、味気ない教科書からは得なかった。彼らの語る言葉はよく心に留め、記憶した。私はまだ十歳で、ほんの子供だった。けれども私は自分自身の嗜好を知っていた。自分の嗜好は私にとって貴いものだった。私はそれをちょうどまぶたが目を護るように護っていた。そして、子供であれ、大人であれ、興味という鍵なしにはだれも自分の心の錠を開けるのを許さなかった。
         †
 五年生になった。あごの大きな下椋先生と別れ、クラスメイトもほとんど顔ぶれが変わった。うれしいことに、寺田康男と別れずにすんだ。クラスは二年単位でつづくので、五年生、六年生と、彼といっしょにすごすことができる。おまけに康男の席は、私のすぐ斜め後ろだった。
 学級担任は桑子(くわこ)敏道といい、三十二、三のヒゲの濃い男で、背が低く、脂肪のついた福々しいからだつきをしていた。体格とは対照的に、ときどき片頬をゆがめて笑う顔つきに癇癪持ちの雰囲気があった。だれかが宿題を忘れたり、注意に従わなかったりすると、彼はその生徒を手招きして教壇の前に呼び寄せ、やっぱり冷めた微笑を浮かべながら、教鞭にしている竹竿の握りのほうを頭のてっぺんにコツンと落とした。これがかなり痛かった。私はこの仕置きをつづけてされているうちに、仕方なく宿題をやっていく習慣がついてしまった。
 そんな桑子も、康男のことだけは関心の外にうっちゃり、ふつうの生徒の義務から解放してやっていた。つまり彼は、授業中、康男には決してあてなかったし、宿題を忘れても罰を与えなかった。たぶん桑子にしてみれば、寺田康男という少年には、なぜか子供でいて子供でないような威厳があり、万一質問をして、
「つまらんことを訊くな」
 と突っぱねられたり、仕置きをして反抗されたりなどしたら収拾がつかなくなると考えたうえで、とぼけた態度を通すことに決めたのだろう。しかし、寺田康男は、ただその存在自体が校内に睨みを利かせる役回りを務めているだけのことで、だれに迷惑をかけるというのでもなかった。実際の話、彼は授業には興味を示さなかったし、叱られるような不手際な行動もいっさいしなかった。
 桑子はヘビースモーカーで、体育の時間になると、授業をうっちゃって職員室で煙草を吸っていた。いつか校庭でマットの前転をやっていたとき、康男が仲間たちに向かって、
「桑子のいいあだ名を思いついたで。―桑キンタン」
 と抑揚のない声で言うと、みんなドッと笑って、そのあだ名を口々にはやし立てた。いつの間に忍んできたのか、脂ぎった丸い顔が康男の肩越しに突き出した。例の薄笑いに気づいたとたん、みんな大あわてでマット運動に戻った。
「おまえがつけたのか」
 桑子はその場に居残った康男に訊いた。
「おお」
「どういう意味だ」
「キンタマ袋に似とる」
「しわしわで、垂れとるのか」
「感じだがや」
 桑子は康男の自若とした顔から目を逸らし、ニヤニヤ笑った。
         †
 桑子が植木算の説明をしていたとき、
「わかったな」
 という教室全体への問いかけに、
「ワカリマセーン」
 からかうような声が聞こえた。桑子はたちまち烈火のごとく燃え上がり、目を剥いて怒鳴った。
「出てこい、木下!」
 妙につんつるてんの、季節はずれの厚い学生服を着た木下という生徒は、いつもなめた態度で桑子に接するのだ。校庭で仲間といっしょにいるときはそうでもないが、授業の椅子についたとたん、うらぶれた辛気くさい空気をからだ全体にただよわせる。桑子は康男と同様、一度も彼を叱ったことがなかった。木下の根拠のない強気が、どこか憐れな感じがするからだろう。それはクラスの連中も同じ気持ちだった。何か木下の家庭生活にくさくさする事情があるのにちがいないと思い、康男でさえ彼を〈指導〉したことはなかった。
 木下は桑子のいつもの寛容をあてこみ、わざとらしく胸を張って、樟脳のにおいを振りまきながら教壇の前に進み出た。そのとたん、桑子は力いっぱい、木下の頬に二回、三回と往復ビンタを喰らわした。
「ヒーッ!」
 笛を吹くような声が木下の喉から洩れた。だれも同情しなかった。横目で見つめ合うこともしない。康男が後ろの席から、
「ああいう弱っちいのをお仕置するのは、根性いるで。木下はな、去年火事で焼け出されて、掘立て小屋みたいなとこに住んどる。ふつう、手ェ出せんで。腹が据わっとる」
 気の毒な木下にとうとう手を出してしまった桑子を見て、感心したよう言った。私は驚いた。
「だから、いままで強く文句も言えなかったんだね」
「桑子も考えたんやなあ。同情しすぎもあかんちゅうわけやろ。桑子、俺んちに家庭訪問にきたときよ、母ちゃんと話しながら、なんでか知らん、泣いとった。ええやつやで、桑キンタンは」
 その桑子が贔屓にしている女の子がいる。高橋弓子という名前で、下椋先生のようにえらが張り、唇が薄かった。動きがごつごつして、からだ全体から男っぽさのようなものがにじみ出ていた。ヘップバーンというあだ名だった。
 朝礼の行進のとき、高橋弓子は肩を男みたいに上下に揺すって歩いた。それでも、からだといっしょに揺れる小さい白い手は、女らしく華奢だった。だから、給食係の白衣姿はぴったり板についていた。桑子は授業中も、休み時間も、彼女にだけは甘い声で、
「きれいで頭がいいというのは、天が二物を与えたということだぞ」
 ふだんほかの生徒には言わない調子のいいことを口にし、ことあるごとに、
「弓子ォ、弓子ォ」
 と猫撫で声で呼んでいた。きれい、という桑子の鑑識眼は狂っていると思った。美人というなら、クラスに校内一と言われている杉山啓子がいる。彼女は人形のようにきれいな顔をしている。それなのに桑子の目には留まらない。私と同様、日本人離れした高い鼻が嫌いなのかもしれない。
 不思議なことに、杉山啓子は教室の男連中にも人気がない。授業中に、ときどきゲゲッというへんな咳をするせいだ。痰が絡んでいるふうでもないし、風邪を引いているわけでもないのに、なぜだか三十分に一回くらい切羽つまった声で〈ゲゲッ〉とやるのだ。一度彼女が〈ゲゲッ〉とやったとき、私は振り向いて、色の白い、ひよわそうな顔を見つめたことがあった。杉山啓子は顔を赤くして、きまり悪げにうつむいた。彼女は平畑商店街の杉山薬局の娘だ。何度か店先を覗きこんだことがあったけれど、キリギリスみたいな細い顔に眼鏡をかけた白衣の男が、薬局のカウンターの中から通りを見ていた。外人顔だった。杉山啓子はそのお父さんによく似て目鼻立ちがはっきりしている。彼女が美人だとは思うけれども、その顔を見るたびに白けた気分になるのは、どこか面ざしが私の母に似ているからだ。
 高橋弓子の〈きれい〉さは私には納得できないし、〈心持ち〉のほうはもっと疑わしい。給食のあとや放課後など、桑子はなれなれしく高橋弓子に近づいて、
「適当に育ってきたな。いい女になるぞ」
 胸のあたりを見つめながら、スケベったらしい感想を言いかけたり、後ろから巻きつくような格好で抱きしめたりする。桑子の感想とちがって、彼女の胸は痩せて平べったい。でもそれは、角張った風貌とよく釣り合っている。高橋弓子はいやがりもせず、笑いながらくねくねとその毛むくじゃらの腕から抜け出す。いつもの骨ばった印象とはちがい、彼女のからだの中にみだらですべすべした女が息づいているように感じて、なんだか気持ち悪い。
 そんなある日、不思議なことに、とつぜん高橋弓子がきれいに見えはじめた。彼女が私の食器に惣菜を盛りつけようとしたとき、走り回っていた男子生徒が彼女の背中にぶつかった。高橋弓子は股の付け根を机の角に強く打ちつけた。
「イタッ!」
 高橋弓子は顔をしかめ、しゃもじを持ったまま盛りつけの動きを止めた。それからすぐに気をとり直し、ふと私の視線に気づいて、妖しい微笑をした。表情も仕草もひどくきれいに見え、たちまちふだんの桑子の執心がわかったような気がした。
 彼女はステンレス缶を提げて後ろの机へ移動していき、やがて中身の少なくなったころに教卓へ戻った。桑子にサービスの盛りつけをする。
「桑キンタンも、あんなヘップバーンのどこがええんかなあ」
 康男はそう言うと、真ん中をくりぬいた食パンを手裏剣のように窓の外へ投げ飛ばした。桑子はそれを見て見ぬ振りをした。
 高橋弓子は桑子が監督しているソフトボール部のサードをしていた。今年から私はレギュラーでレフトを守っているせいで、彼女たちの練習風景を間近に見ることができる。
「いくわよォ!」
「ハーイ!」
 桑子のノックを順繰りに受ける女どもは、信じられないほど下手くそだ。その中で、サードを守っている高橋弓子のグローブ捌きだけは多少マシに見える。左右の膝を小刻みに繰り出してボールを掬い上げ、一塁へ送球する。勢いを残したまま、怒り肩を弾ませながら守備位置へ戻ってくる。どこかぎこちないけれど、なんとかサマになっている。彼女はよく発達した脚をしていた。その両脚をバネにして前後左右にからだが弾むたびに、なんだかわくわくした。
 加藤雅江という、放送部を掛け持ちしている勉強家がショートを守っていた。色白で背が低く、ポニーテールの揺れる様子が幼児のように弱々しく見えた。みんながブルマーを穿いている中で彼女だけが長トレパン姿だ。小児麻痺の後遺症のせいで短く萎えた片方の足を隠しているからだ。ひょこひょこと片脚を振り上げるようにして、残酷なくらい不様に動き回る。そして不器用にぽろぽろとボールを取り落とす。そのたびに高橋弓子は心のこもった励ましの声をかけた。
「ドンマイ、ドンマイ」
 バックアップに駆け寄る高橋弓子の両脚の筋肉が、頑丈に引き締まってすっきり伸びている。加藤雅江と好対照だ。ごく自然に弱い仲間をかばって励ましの言葉をかける高橋弓子を見て、私は胸を打たれた。
 ソフト部は野球部よりかなり早めに練習を切り上げる。きょうも高橋弓子が仲間たちとのんびり部室へ帰っていく姿を眺めた。加藤雅江はからだを上下に揺らしながら職員室の隣の放送室へ入っていった。あの愚にもつかないアナウンスをするためだ。
 ―下校時間が迫ってまいりました。教室や校庭に残っているみなさん、気をつけて下校してください。
 スピーカーからショパンの『別れの曲』が流れ出す。それから野球部は一時間も練習に精を出す。日が暮れてボールが見えにくくなるころ、
「練習終わり!」
 服部先生の合図と同時に、店じまいの校外ランニングに出る。キャプテンの長崎が音頭を取っている。キャッチャーの吉村は最後尾につける。六年生十四人、五年生十人。総勢二十四人。これが夏までに十五人くらいになると先輩たちが言う。五年生レギュラーはレフトの私と、ファーストの関と、控えピッチャーの岩間だけ。ノッポの関も、医者の息子の岩間も、五年生から野球部に入ってきた。関は守備の名人で、どんな難ゴロもひょいひょい掬い取ってしまう。彼をファーストに抜擢した服部先生の目は高い。
 イクゼ! オッ! イクゼ! オッ!
 掛け声に合わせてスパイクがカチャカチャ鳴る。正門から千年公園を走り抜け、平畑へ出る。西松建設の事務所前から商店街を通り、堀川運河にかかる大瀬子橋を目指す。小山田さんや吉冨さんが見ているときは手を振る。橋までの長い坂はほどよい勾配で、ゆるやかなカーブを描いている。くさくて黒い水を見下ろしながら、木の歩道を足並み揃え、急いで渡る。ゆっくり渡ると、インク色の川面から昇ってくる悪臭をモロに嗅ぐことになる。
「くっせえなあ」
「マルハチ〈とんとん〉組合」
 関が内田橋のほうへ下っていく屎尿処理船のことをそう呼んだ。○に八の字は名古屋市の紋章で、〈とんとん〉というのはうんこのことらしい。私はこの群青色の運河の眺めが好きだ。筏や伝馬船や達磨船が上り下りするたびに、コンクリートの岸に汚らしい塵芥(ごみ)が打ち寄せられる。垂直に切り立った岸壁の喫水線の縞模様で、この運河にも潮の干満があることがわかる。名古屋港が河口になっているのだ。


         九

 橋のたもとの秋葉神社の石段を登り、いただきから折り返す。神戸町の宮の渡しまで足を伸ばすことはめったにない。大瀬子橋を引き返して、一分間の休憩。といっても、だらだら坂を競歩で下るだけだ。
「よし、いくぞ!」
 ふたたびランニングを促す吉村の声。熱田高校のサッカーグラウンドを眺めながら、平べったい家並を抜けていく。市電通りへ出た。レールを埋めこんだ路面が夕日に染まっている。路肩のコンクリートの電柱の下に、だれが手向(たむ)けたのか菊の花束が供えられてあった。何日か前、私たちはランニングの途中で悲惨な交通事故を目撃した。声を出し合いながら、ちょうどこのあたりを走っているとき、よほど急いでいたのだろう、猛スピードで一台のオートバイが自家用車を追い抜き、市電のレールを越えて少し反対車線へはみ出した。後ろに幌つきの大きな荷箱を積んでいる。飯場にもときどき出入りしている蒲団屋の小僧だった。その瞬間、とんでもなく大きな衝突音がして、オートバイが宙に舞い上がった。小僧がオートバイからもぎ離され、回転しながらコンクリートの電柱に激突した。そのまま真下の舗道にドスンと落ちた。
「ウオー!」
 私たちは往来する車を避けながら、走って道を渡った。小僧はピクリとも動かなかった。片方の足首がくの字に折れ、薄桃色の肉がはみ出している。ヘルメットは吹き飛び、黒い長髪の頭頂がぱっくり割れていた。覗きこむと、淡い雲丹(うに)色の脳味噌が見えた。
 みんなその事を思い出している。
「三番町を回っていくか。あっち側は走ったことがないで」
 市電通りを横切り、住宅街へ入りこむ。広い一本道の両側に、立派な表玄関のある家が軒を並べている。
「高橋弓子の家だがや。めちゃんこでっけえが」
 関が走りながら、門構えの大きな家を指差した。切妻の下に色褪せた破風のついた古い二階建ての屋敷だ。庭木にしては大きすぎる樹が何本も伸びている。ツツジの生垣に沿って、白木門の前を走り抜ける。木々のあいだに冷えびえとした庭が見えた。踏み石が玄関までつづいていて、玄関の両脇に人工的な形をした松の木が立っていた。
「高橋は高蔵(たかくら)女子へいくらしいで。公立の中学校はレベルが低いってよ」
 岩間が言った。
「何のレベル?」
 私はいやな気分で訊き返した。
「さあ、勉強でにゃあか……」
「金のレベルかもな。あいつんとこは、千年一の金持ちやで」
 関が言う。この大きな家から、高橋弓子はあの怒り肩を揺すりながら学校へ通ってくるのか。市電路のこちらにこんな古びた住宅地のあることなどまるで知らなかったし、高橋弓子が金持ちだという話もいままで聞いたことがなかった。給食の盛りつけをするふっくらした指が浮かんだ。あの手だけは怒り肩に似合わなかった。
         †
「ちょっと用があるんだ。校舎裏へきてくれない?」
 放課後、部室へ向かおうとする高橋弓子に声をかけ、渡り廊下へ出た。彼女は不安をあからさまに顔に出しながら、少し離れてついてきた。渡り廊下のスノコが、踏むたびにギイギイ鳴った。六月の薄曇りの空がしぐれてきて、すっかり暗くなっている。細かい雨が落ちはじめた。鉄筋の校舎裏に誘った。
「なに、用って」
 雨を避けるように校舎塀によりかかる。上目で見ている。給食のときとはぜんぜんちがう寛容でない表情だ。
「高橋さんの家は、金持ちなんだね」
「わからん。人と比べたことあれせんから」
「高蔵中にいくの」
「そう」
「桑子にあんなふうに触られて、気持ち悪くない?」
「べつに。気にしとらん」
「桑子なんかにへらへらしちゃだめだ。高橋さんだってイヤなはずだよね」
 彼女はうつむいたままだった。たったこれだけ言っただけで、もう胸が破裂しそうにどきどき拍った。
「どうして、そんなことを言うの?」
 薄い唇を噛んでいる。
「好きだからさ」
 私はいきなり彼女に近づくと、両手で怒り肩をつかみ、
「ぼくの嫁さんになれ」
 と命令した。意外に柔らかい肩だった。顔を覗きこみながら、精一杯明るい眼差しを注いだ。彼女は私の手を振りほどき、一歩、二歩校舎塀を擦るようにうごいた。
「怖がることないだろ」
 四角いあごを引いて私を見つめながら、めそめそ泣きはじめた。
「あたしたち、まだ小学生だがね」
 高橋弓子はまた一歩一歩横に這っていき、渡り廊下の手すりに貼りついた。
「自分が小学生だって、ほんとに感じたことあるの? 感じてもいないことをしゃべっちゃだめだよ」
 それには答えず、
「小学生は、結婚できんのよ」
「いまじゃなくてもいいよ。大人になってからでも」
「そんな先のこと、約束できんわ。お父さんやお母さんも反対すると思う」
 言うことがぜんぶ紋切りだ。泣き面に向かって無理に微笑んでみせたけれども、なんだか思った以上に知恵のなさそうな顔つきを眺めているうちに、急に熱が冷めてきた。
「わかった。もう何も言わないよ。ぼくが嫌いだって、ひとこと言えばすむことじゃないか」
 私は平静を装いながら言った。
「神無月くんに、ほかに好きな人ができるかも知れへんし」
 高橋弓子は両手を胸の前で組み合わせ、女らしいシナを作った。私はその顔をいまいましい気分で見つめた。
 ―なんだこいつ。もうこんな女と口を利くのはやめだ。
 愚劣なものに対するやりきれない憤りがこみ上げてきた。
「ソフトボール、がんばれよ。高橋さん、いいセンスしてるから」
 私はわざと元気な声で言って、部室目指して霧雨の校庭へ走って出た。
         †
 遅い夕飯を食べながら、カズちゃんの肩口から『スター千一夜』を観ていたら、あの貴子さまが出ていた。やっぱり美智子妃殿下よりきれいだったし、もちろん高橋弓子よりもきれいだった。そういえば浅間下の三帖間の壁に貼ってあった彼女のスケッチはどうなっただろう。引越しのときにたしか剥がしたはずだけれど、こっちにきてから目にしたことはない。母が荷物を整理したとき捨ててしまったのかもしれない。
         †
 土曜日と決めて康男が飯場に遊びにくるようになった。下校のついでに寄るのでなく、いったん東海橋の家に戻ってから九時近くに手ぶらでやってくる。たいてい社員たちは自室か娯楽部屋へ引き揚げていて、母とカズちゃんが台所で洗い物をしていた。康男はきまって口笛で私を呼び出し、表へ出ていくと、これといった用もなく、ただもときた方角へ並んで歩きだすだけだった。彼は私を必要としているのだ。私も同じだった。
 ある夜、道の途中で康男が言った。
「かあちゃんがこないだ、若い男連れてきてよ。もう何日も居ついとる。稼ぎもねえくせにめしはようけ食うし、金の無心はするし。アタマきたもんで、顔にパンチ食らわしたった。部屋の隅に逃げてって、べそかいてやがった」
 口惜しそうな声だった。私は康男の横顔を盗み見た。おそらく初めて意識して、しみじみと見た。切れ長の目にさびしげな光が宿っていた。私は康男が家庭の事情を暴露するつもりでそんな話をしたのではないとすぐわかった。それは友情の告白だった。康男は自分を見つめる共感の眼差しに気づくと、わざとらしく鼻を鳴らし、陽気に笑った。
「なんでかあちゃんも、あんな男がええんかなあ。出目金で、歯が汚くてよ。とうちゃんのほうがよっぽど美男子やったぜ」
「お父さんは、死んだの?」
「生きとるけど、死んどるようなもんだ」
 康男の言いたいことはよくわかった。
「ぼくの父ちゃんも生きてるけど、会えないんだ。横浜にいたとき、一度会いにいったことがあって、帰れって言われて、すぐ帰った」
「もともと、生きとらんかったようなもんや。そう思えばええ」
 私の胸に一かけの疑問が生まれた。康男の父も、私の父も、ほかの人にとっては死んでいないかもしれないということだ。だれだって生きていれば、かならずだれかのために生きることになる。保土ヶ谷の父にしても、母や私のためには生きていなかったけれども、サトコのためには生きていた。
 これまでも私は、康男の言葉の節ぶしに痛ましいものを感じていたけれども、その謎がすっかり解けたと思うと、いっぺんに晴れ上がった気持ちになった。するとかえって透きとおった切なさのようなものが湧いてきて、急に康男のことがいとしくなった。
「ぼくたちのためには死んでても、だれかのために生きてるってことだよね」
「……なるほどな。おまえは頭がええ」
 ―康男はぼくを親友だと思って、大切な秘密を話したのだ。ほんとうの友だちになるためには相手を信じなくちゃいけないから、大切な秘密をプレゼントしたのだ。
 私はそんな自分の発見を噛みしめながら黙って歩いた。その場にたった二人きりで、二人のまわりに夜が立ちこめているのがうれしかった。
 康男は最近覚えた曲や、と言って、水原弘の黒い花びらを唄いだした。私もその歌手をテレビでよく観ていたし、しゃがれた声も耳にこびりついていたので、彼に合わせて歯笛を吹いた。康男はふと唄うのをやめて、
「器用な男やな」
「横浜でいっしょに学校へかよってた子が教えてくれたんだ」
「仲よかったんか」
「風呂屋の子で、一度風呂に誘ってくれた。仲がよくなる前に転校しちゃった」
 康男は安心したふうに、また唄いはじめた。私も歯笛を吹いた。
「……兄ちゃんは松葉会の幹部なんや。若頭(がしら)の下についとって護り役をしとる。俺が組員になるのはぜったい反対なんや。兄ちゃんはしっかりした考えを持っとるでな」
 クマさんの言った、ヤクザ者は実がある、という言葉を思い出した。
「お兄さんて、いくつ?」 
「十も年上や。俺と弟は、かあちゃんが三十過ぎてからでかした子でな。二人目のとうちゃんの子や」
「じゃ、出ていったのは二人目のお父さん?」
「二人ともや。兄ちゃんはギターがうまいんやで。玄人はだしや。聞いとると惚れぼれするわ。若頭から栄の店まかされとるんやけど、客の伴奏ばっかりしとる。兄ちゃんも気の毒やで。将来はギターの弾き語りの店を持ちたいんやと。一国一城のアルジにならんと、人間は奴隷根性のまま死んでしまう言うてな」
 唇の端を上げ、目もとを染めるようにした。私は彼の心で鳴っている、兄の弾くギターの音色を聴き取った。そして、康男と私は、二人以外に寄る辺がなく、同じちぐはぐで一風変わった生活の中に生きていて、それを互いによくわかり合っているように感じた。
「松葉会って、なに?」
「名古屋でいちばんでっかい組織や。本部は東京やけどな。縁日のホーヘーやら、焼き栗売っとるヒラビとちがうで。本物のヤクザや。俺もいつか盃もらうんや」
 サカズキという新鮮な響きに、思わずからだがふるえた。
「……ぼくも、サカズキもらえるかな」
「冗談こいたらいかんが! おまえにヤクザが勤まるかい。くだらんこと考えんと、野球だけしとればええ」
 康男は、今度は小林旭のギターを抱いた渡り鳥を唄いはじめた。私も歯笛で合わせた。
「風呂屋の息子かなんか知らんが、おまえと付き合えるのは、俺しかおらんわ。だれもおまえのことわかっとらん」


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