四

 正門から五十メートルほど手前の名古屋西郵便局の前にタクシーを寄せた。
「ここで待っててください。三十分もしないで戻ります。二千円預けていきますね」
 母が気前よく出した紙幣を掌で断り、
「あ、けっこうです。料金は飛島建設さんのほうに請求することになってますんで」
 門脇の校舎の受付で、トニー谷ふうの眼鏡をかけた女事務員に校長室に入るよう指示された。廊下の片側に、指導室、校長室、職員室などと標識札が突き出している。廊下の反対側は窓になっていて、売店小屋のある中庭を縦断する渡り廊下の向こうに、ごちゃごちゃ寄り集まった校舎が眺められた。
 ドアを叩いた母の背について、校長室に入った。恰幅のいい男が大机から立ち上がって応接した。
「校長の土橋(つちはし)です。ま、どうぞ」
 私がソファに腰を下ろしたとたん、
「こらこら! お母さんが上座だろ。きみはそっちへ座りなさい。常識がないな」
 私はソファの端へ追われた。肝を冷やした。母も口もとを緊張させて、校長の顔を見つめた。
「人間は基本を守らないとね」
 母はそろそろ尻を下ろし、粛然と両手を膝に置いた。
「神無月郷くんだね」
「はい」
 ぺこりと頭を下げた。
「きみはきわめて優秀な成績で合格した。当校の二年生一学期の最終実力試験問題をそのまま使って転入試験を行なったんだが、きみは英国数各科目とも、また総合点でも、群を抜いてナンバーワンだった。百点、九十八点、七十五点、合計二百七十三点。当校の首席の生徒は二百二点だった。貴君のような優秀な生徒を迎えることができて、じつに名誉のことに思っている。ところで、小野さんは元気かな」
「は?」
「何が、は? だ。自分の高校の校長の名前も知らないのかね」
「あ、はい、小野校長先生は、ビッコをひいてます。元気です」
 土橋校長は磊落に笑い上げ、それから深刻な顔になって、
「そうか。相変わらずか。彼と私は東大時代のスキー部の同期でね、彼が脚を折ったときも、その場にいたんだよ。卒業以来、疎遠になっていてね。青森高校の校長をしていることは聞こえてきていたんだが」
「はあ……」
「いや、青森高校の生徒が転入試験を受けにくると聞いて、びっくりしたよ。……これも何かの縁だろう。……しかし、青森高校のほうが客観的に見て、レベル的には西高よりずっと上だと思うが。どうせなら、旭丘か明和への転入は考えなかったのかね」
 その二校に転入の制度がないことを失念しているようだ。母が横合いから焦って言った。
「欠員がございませんでした」
「そうですか。しかし、おかげですばらしい生徒が採れてよかった」
 事務員が茶を持ってきた。
「こちらの高校は、東大にも合格者を出しますか?」
 母はわかっていて下品なことを尋いた。調子に乗りすぎている。校長は意に介さないふうに落ち着いて答えた。
「出したことはありません。たまに京大、一橋、東北大などにポツポツ合格します。しかし、主流は名古屋大学で、七十名から八十名合格します。さらに愛知教育大学に百名前後入れるというのが、わが校の実績です」
 母は穏やかに微笑した。土橋校長は、
「神無月くん、たゆまず努力し、確実に東大に合格して、名古屋西高の名を上げてくれたまえ。きみならまちがいなく合格する。きみのこれからの成績は、ときどき青森高校側へ連絡させてもらう。いまの調子を維持するようがんばりなさい」
「はい」
「担任の石崎という先生から、合格の暁はよろしく指導のほどを、受からなかった場合は送り返してくれるようにという手紙がきた。青森高校が大いに期待している生徒だと書いてあった。きみが合格する前だったから、彼に返事は出していないが、きょう早速書くつもりだ。彼の手紙から、きみの超人的な学生生活の概略を窺い知ることができた。とんでもない野球の逸材だそうだね。わが校は―」
 母があわてて言った。
「いえ、この子はもう野球はやらないと言っております」
「いや、わが校は、軟式野球同好会しか設けてないので、せっかくの活躍の場がないと言いたかったんですよ。きみのような天才的な人材には、東大とか、京大とか、小うるさく感じるかもしれないが、野球は大学まで持ち越し、いずれ復活を期すと構えて、虚心に勉強してくれたまえ」
「はい」
 母が、
「在学中に誘いの手が伸びるということがあれば、学校側で断っていただけるんでしょうか」
「おかあさん! 何をとぼけたことを言ってるんですか。高校で野球をやっていない人間を誘うはずがないでしょう。あなたの希望は叶いますよ。野球をやらせたくないという意図で転校を強いたわけですから。この殉教者は、二十歳になるまであと三年間は籠の鳥です」
「籠の鳥と申しますと……」
「あなたの籠です。東大に受かれば、解放しますか? 十八歳で」
「それは……」
「他大学では、たとえば京大、一橋、早稲田や慶應なら、野球をやってもいいですか?」
「勉強しなければ落第するでしょう。勉強させます。その程度の大学をひどい成績で出たら、将来目も当てられません」
「その程度! いずれも一筋縄で合格できる大学ではありませんよ。―つまり、どういう場合も野球はさせないというわけですな。東大を卒業した場合はいかがですか?」
「せっかく東大を卒業した資格を生かさないと、宝の持ち腐れです。それに東大のような優秀な大学にプロ野球が声をかけますか?」
「……こりゃ、話にならない。私は学歴偏重主義者ではないが、事情は青高からの情報と新聞記事で知った。こうなったら仕方がない、神無月くん、ぜひぜひ東大へいってくれたまえ。きみのごとき型破りの人間には、お母さんのような偏見の枷にはめられる苦難の時期が必要なのかもしれん。きみ自身の生活の戒めとも潤滑油とも解釈してね。ところでお母さん、立ち入ったことをお聞きしますが、親子の姓がちがうのは、ご養子か何か?」
「いいえ、この子が別れた夫の姓にこだわってるんですよ。神無月郷のほうが佐藤郷より耳ざわりがいい、なんて言って」
「ウハハハ、そうなんですか。いや、たしかに、佐藤よりは神無月のほうがいい響きだ」
 楽しそうに笑った。母は口の端にシワを寄せた。
 面談を終えると、私は土橋校長の眼を気にして、母に先を譲るようにして廊下へ出た。振り向くと、校長は子供っぽく私に手を振っていた。
 郵便局で葉書を十枚買いこみ、タクシーで飛島寮へ帰った。
「東大出のくせに、東大を軽く見てるもんだね。野球をやりにいくような大学じゃないよ。尋常な努力じゃ百年やったって受からない」
 母はぶつぶつ言って、窓の外を見つづけていた。高校の校長の予想外のひとことくらいで、母の意識革命がなされるとは思わなかった。長い苦難の道になると感じた。
         †
 夜、ささやかな合格祝いが食堂で行なわれた。佐伯さんは出身高校の校歌を唄い、飛島さんは慶應義塾塾歌を三番まで唄った。山崎さんが自分の愛用のパーカーの万年筆をぶっきらぼうに私の胸ポケットに差し、所長は、
「本を買え」
 と言って、裸の三万円を手渡し、三木さんは、
「みんなからの合格祝いの祝儀です。遠慮なく使ってください」
 と言って、厚い祝儀袋を差し出した。いずれ母にいく金だろうと覚悟したが、彼女はその後もその金を取り上げようとしなかった。合格を果たしたのは私の手柄なので、お年玉とはちがって、自分のふだんの行いに対する間接的な謝礼だと主張できないからだろうと思った。
 その深更、山口に便箋一枚の手紙を書いた。

 合格した。まず一歩。飯場の部屋はまずまず。健児荘より広い。カズちゃんは西高のそばの一戸建、トモヨさんはカズちゃんのマンションを居抜きでもらった。おトキさんは元気だ。おまえのくるのを一日千秋の思いで待っている。以上の名前は、ぼくへの手紙に書かぬよう要警戒。合格の報せ待つ。二十六日、二十七日はなんとか都合をつけて北村席へいく。泊まれないかもしれない。二十八日はおトキさんとノンビリすごしてくれ。不一。

 祖父母と、葛西家と、ヒデさん、ユリさんにも合格を知らせるハガキを書いた。青高気付で西沢と石崎と相馬に、それから、住所をくれた木谷千佳子にも書いた。奥山先生と一子には、ヒデさんから連絡が行くだろうと見越して書かなかった。
         †
 八月十日水曜日。蒸し暑い。
 母に呼ばれて、社員が出払ったあとの食堂にいき、白菜の浅漬け、海苔、ネギ納豆、油揚げと豆腐の味噌汁でめしを食う。私の好みのものなので食がすすんだ。この夏一番の猛暑になるだろうとテレビのニュースで言っている。
「学生服は買わなくていいんだね」
「ああ、去年新調してあまり経っていないのが一着ある。でも、袖付けと胴回りがちょっと窮屈だから、所長さんたちからもらったお金で新しいのを買いにいってくる。学帽も」
 月ごとに私のからだは大きくなっていて、ハンガーに掛けてあった新しい学生服がすでに小さくなっていた。
「いくらもらったんだい」
「十万円も入ってた。所長のと合わせて十三万円。十万円あげる。三万円あれば買えるから」
「いらないよ。一年間の学費と昼食代にしなさい。弁当作ってる暇がないからさ」
 ―やっぱりな。
 小型トラックに乗せて自転車が届いた。自転車はサドルの高い新式のもので、横づけのカバン籠が大きかった。あたりを乗り回してみるとチェーンが軽かった。
「西高で学生証を受け取りがてら、学生服を買って、中村図書館に寄ってくる。二学期の予習をしなくちゃいけないから。晩めしまでには帰るよ。八月いっぱいはずっとこうなると思う。昼めしは外で食う」
 シロの頭を撫で、脇籠にカバンを収めて、揚々と出かけた。軽快に飛ばす。十三万円はカバンの底にいれた。カズちゃんの大金も入っている。いのちの記録と封筒は常に持って出ることにしよう。
 目についたポストに手紙の束を投函する。同朋大、豊正中学校と過ぎ、太閤通りに出て大鳥居をくぐった。菅野に教えてもらったとおり、沿道の風景を記憶しながら通学路をいく。制帽をかぶらない坊主頭を暑い風がなぜていく。スズカケの粘っこい大葉の並木が、真っすぐな道を縁どっている。軒の低い民家や事務所の並ぶ殺風景な通りをひたすら直進し、栄生(さこう)のガード下を通って、上更交差点の枇杷島青果市場前に出る。念のために通行人に西高の位置を訊いた。ここからはどういう道筋をとっても西高までは近いとわかった。
 環状線沿いにポツンとあるあの大きなパチンコ店の前から、民家と商店が立ち並ぶ細道へ曲がりこみ、二分ほど走り、花屋という変わった名前の小ぎれいな喫茶店を通過すると、名古屋西郵便局の四角張った建物が見えてきた。隣接するグランドは、おとといの帰り道に見た硬式野球の練習場だ。およそ七キロの道のり。所要時間は四十分強。バスと市電を使っていくよりも早い。車の往来も繁くなかったので、ゆっくり五十分ほどかける往復の時間に、ポケット版の国語辞典でも暗記しようと決める。
 事務所の窓口でトニー谷から学生証と教科書を受け取る。三千数百円を払う。
「新学期までに写真を貼っておいてください」
「はい。学生服と学帽はどこで買えますか」
「松坂屋の学生服売場。指定の上履きもそこで売ってます」
 市電道へ出て、名古屋駅を目ざす。自転車でもかなりの距離を感じる。則武通りのガードをくぐり、駅西の北村席にいく。


         五

 玄関から声をかけると、居間からカズちゃんが走り出てきた。赤いミニスカートを穿き、麦藁色のざっくりしたセーターを着ている。はちきれるような色気を感じて胸がときめいた。
「受かった。きのう校長に呼ばれて、期待の言葉をかけられた。いま学生証と教科書を受け取ってきた」
 掲げて示す。
「やった!」
 主人夫婦、トモヨさん、おトキさん、菅野、ぞろぞろ出てくる。女将が、
「上がって、上がって。きのうも待っとったんですよ」
「飛島の人たちが祝ってくれて、忙しくしてました」
 さっそく豆を挽いてうまいコーヒーが用意される。
「おいしい! ここしばらくぜんぜんコーヒーどころじゃなかったから」
 カズちゃんが、
「で、どうだったの。早く教えて」
「ダントツの成績だったそうだ。土橋校長という西高の校長は、青森高校の小野校長と東大時代の親友だったんだって。すごい偶然だね。そのほかいろいろ言ってたけど、忘れた」
 みんな、ワッと笑う。カズちゃんが手渡した紙袋に教科書と学生証をきちんとしまう。
「どのくらい受けにきたの?」
「四十人」
 父親が手を拍ち合せて、
「四十人の一番!」
 菅野が私の手を握り、もう目に涙を浮かべている。涙もろい男なのだ。
「神無月さんの手足になりますからね」
 何日か前、彼が居間のテレビを観ながら泣いているのを目撃した。青春ドラマの一コマで、悲しい場面ではなく、逆境の中でがんばってきた少年たちが何度も挫折しながら、ついに目的を成し遂げた場面だった。
 トモヨさんがもらい泣きしている。
「おめでとうございます、郷くん」
「ありがとう。きょうは中村図書館で勉強すると言って出てきました。五時ぐらいまで帰らなくちゃなりません。菅野さん、学生服を買いに松坂屋に連れてってくれませんか」
「ガッテン。栄ですね」
 カズちゃんと似たような格好をしたトモヨさんが目を拭いながら、
「お嬢さん、その帰りにお家を見せてあげたらどうですか?」 
「そうね、じゃ、私も松坂屋にいってくるわ。もう一度ここに戻ってお祝いしなくちゃ。ぐるっと回って二、三時間ぐらいで帰ってくるから、おトキさん、食事の用意しといて」
「いま十一時ですから、一時か二時ごろですね。わかりました。神無月さん、鯛の刺身を用意しておきますね」
「神無月さん、これ、合格祝い」
 主人がとんでもなく分厚い封筒を差し出す。
「ありがとうございます」
 頭を下げて遠慮なく受け取る。カバンの底の大金を取り出し、重ねてカズちゃんに渡す。
「預かってて。ぼくは十万円だけ持ってることにする」
「わかった。あら、ぜんぜん使ってない。おとうさんのご祝儀、五十万ぐらいあるんじゃないの」
「お祝いだからな。おまえ、神無月さんの口座作って入れといたれ」
「私があげたのと合わせたら百万近くあるわよ。たしかに持ち歩くのは危険ね。口座を作って入れといてあげる。入り用のときはかならず言うのよ」
「うん」
 女将が、
「あんた、お祝いの鳴りものは?」
「きょうはええわ。神無月さんの話を聞くだけにして、山口さんがきたときに、またゆっくりとな」
 菅野といっしょにカズちゃんと玄関を出る。二人でクラウンの後部座席に乗る。
「安全運転お願いね、菅野さん」
「はい、視界良好です」
「とうとう始まったわね。学生証見せて」
「写真は今月中に貼るよ」
 紙袋から出して見せると、
「なつかしい。形も色もむかしと変わらない。ほんとにキョウちゃん、私の母校に入ったのね」
「うん」
 十五分もしないで松坂屋に到着する。八階の学生服売場でサイズの少しゆるい学生服の上下と、学帽、上履き、プラスチックの楕円形の名札を買った。身長体重計測設備があったので計る。百七十八・六センチ、七十七・九キロ。撮影ボックスでインスタント写真を撮り、靴店で学生らしい黒の革靴を買った。二十七センチ。蝉のような徽章の学帽はそのままかぶって帰った。伸びてきた髪にふわりと嵌まった。
 返す足で、花の木にあるカズちゃんの借家へ向かった。
 那古野からの市電道を走り、西図書館の裏手の小道へ入る。小じんまりとして美しい二階家が草に囲まれて建っている。
「ここです。あした、草取りと庭木の剪定に植木屋が入ることになってます。一階の和室の縁先にふつうの庭があるほかに、二階の窓下には、板塀で囲んだ京都ふうの坪庭までついてます。植こみは桜と柿の木だそうです。いい風情ですよ。部屋もきれいです。じゃ、表で待ってます。神無月さん、ほんとにおめでとう」
「ありがとう」
 車を降り、カズちゃんと手をつないで、砂利の私道を進む。彼女が玄関の引き戸の鍵を開けているあいだ、晴れわたった八月の空を見上げる。
 二帖の叩き土間、造りつけの下駄箱、広い式台、拭板(ぬぐいいた)の下は引き戸の収納スペースになっている。上がってすぐ右手に八帖のキッチン。すでにテーブルも調理道具も揃っている。キッチンの奥に大きな冷蔵庫が置いてある。風呂場につづくまっすぐな廊下に並ぶ二部屋は、玄関の左から六畳の和室(鏡台と小箪笥が置かれ、清潔な蒲団が敷いてある)、八畳の和室(大型のカラーテレビとソファが置いてある)。風呂のドアの脇から階段を上がると、六帖の板の間(三つの書棚にぎっしり本が並べられている)。マンションから移したものだろう。カズちゃんはここを物置と言っていた。その隣が八帖の洋間で、ステレオと机が置いてあった。カバンからレコードを取り出してカズちゃんに渡す。机の上には、一冊目のいのちの記録が載っていた。
「ぜんぶ、青森から持ってきたものよ。お風呂とトイレも見て」
 脱衣場は広く、浴槽は二人脚を伸ばして入れる大きさで、洗い場は四帖もあり、天井を除いて、一面、水色と白のタイルが市松模様に貼ってある。脱衣場のつづきのトイレは和式の水洗で、二帖もあった。
「すごい家だなあ。なんだかワクワクするね」
「そう言ってもらえてうれしいわ。西高から自転車で五分ね」
「うん。学校の帰りに寄って、一時間はいられる。きょうは危ない日?」
「危ない日。あと十日ぐらい。がまんしましょう」
「うん。トモヨさんのところには、月末の日曜日だけいくって伝えといて。九月からも、曜日はわからないけど、月一回のペースになると思う」
「それでじゅうぶんよ。なるべく危険日に当たるといいわね」
「二十八日は山口がくる日だ。楽しみだな」
「ほんとね」
 廊下で口づけをする。
「きのう、みんな、賄いの人たちまで、キョウちゃんの報せを待って一日中そわそわしてたのよ。菅野さんなんか、見ていてかわいそうなくらいだったわ。夜中まで、家に帰らないんだから」
「ごめんね、北村席に電話を一本入れればよかったんだろうけど、番号を知らなかった」
「ほんとによかった。いくらキョウちゃんのことを信じていても、何が起こるかわからないのが試験だから。次郎物語の次郎なんか、ウンコがしたくなって、試験に落っこっちゃったんだもの」
「朝、無理してでも出すくらいの用心がなくちゃ」
「ふふ、キョウちゃんは用心深いの?」
「幼稚園のころ、一度漏らしてからね。苦しい思いをしたから」
 手をつないで外に出る。菅野が運転席からにこにこ顔を出し、
「尾頭つきの鯛の刺身と、姿煮ですよ。さ、いきましょう」
 砂利の音を立てて車が出発した。
         †
 図書館がよいが始まった。西高から渡された英・数の教科書を持って出る。門を出てしばらくはシロが勇んでついてこようとするので、二度、三度自転車を止めて、
「帰れ」
 と命令しなければならなかった。何日もしないうちにシロは門前で見送るようになった。晩めしのあとの庄内川沿いのランニングは、彼といっしょに走った。シロは喜び勇んで走った。川原の空地で腕立て・背筋・腹筋を始めると怖がって退避する。素振りをどうやってやるかに頭を悩ませた。
 大鳥居から鳥居通へ入らずに、豊國参道の松並木を直進する。渋い焦げ茶色の鳥居に到着。小砂利の参道に埋めこまれた自転車道をいき、中村図書館到着。この世でいちばん整頓されている清潔な場所、図書館。子供が寝っころがる《おはなしのへや》や、秀吉清正コーナーというものもあるが、覗いたことはない。もっぱら、一階の書架に囲まれた大机で勉強する。
 昼めしはかならず日赤病院の東まで五、六分自転車を飛ばして、花街のころから味のよさで有名だとカズちゃんに聞いていたキッチントキワへいって、ジャガイモごろりのとろけるようなビーフシチューと、ライスと、トマトセロリのサラダを食った。
 十二日の金曜日、いつものように夕方シロと土手を走っていると、金網フェンスで円形に囲った野球グランドが目に入った。これまで野球グランドとは気づかずただの空き地と思っていたが、その日は二十人に余るユニフォーム姿が右往左往してボールを追いかけていた。遠く河原のほうの隅にバックネットとベースも見えた。土手の草道を下りていって、フェンスを見ると、同朋高校野球場と標示パネルが貼ってあった。フェンスは二メートルもなかった。ノックのボールを追いかけてやってきた一人の高校生に、
「あなたたちはこの球場で素振りの練習をしますか」
 と訊いた。高校生は不審がり、走っていってしまった。しばらく立って眺めていると、コーチらしき男が走ってきて、
「何かご用でしょうか」
「チームの素振り練習のとき、いっしょに振らせてもらえないかと思いまして」
「一般のかたはグランド内に入ることは禁止されています」
「そうですか。失礼しました。シロ、いくぞ」
 中村図書館での予習は着々と進み、英語の教科書を終えた。数学は極限値の原理だけをじっくり勉強した。そのほかの教科には手をつけていない。
         †
 二十一日日曜日の昼下がりに、中村図書館を出てトモヨさんのマンションへ向かった。押し切りの交差点から菊ノ尾通りを右折して、一直線にシャトー西の丸へ。中村図書館から三十分ほどだったので、西高からは十五分ぐらいだと見当がついた。
 トモヨさんがミニスカート姿で一階の玄関まで迎えに出た。カズちゃんのものより少し長めで、布地も白っぽかった。濃紺地に細かい水玉を散らしたブラウスの上に、淡いブルーの薄手のカーディガンをはおっている。全体に地味な感じがトモヨさんらしかった。
「いらっしゃい! 上から自転車が走ってくるのが見えました。うっとりしちゃった」
 自転車を玄関ドアの内側へ入れる。カバンを取り出す。
「わざわざありがとう。中村図書館からきたんでしょう」
「うん。三十分でこれたよ。西高からだと十五分だね。思ったより近い」
「でも帰りが一時間にもなりますね。申しわけないわ」
「そんなにかからないよ。ミニスカートまた買ったの」
「そう、年相応のものを」
「年相応のミニスカートなんかあるもんか。穿けばだれでもセクシーになる」
「でも派手なのはちょっと……」
「エレベーターでいかずに、階段でいきたい」
「どうして?」
「トモヨさんのお尻が見たいから」
「まあ、いつもうれしいことを」
「きょうは妊娠できる日?」
「たぶん。でも、こればかりは授かりものですから、よほどぴったりタイミングが合わないと……。あとで、お寿司取りましょうか」
「そばがいい。モリソバ」
「あ、私も食べたい。まずお風呂入りましょう。汗流さなくちゃ」
 最上階、七号室。トモヨさんは私の先に立って、鉤なりの階段を上りはじめた。目の前で交互に揺れる彼女の尻が、年齢を感じさせないほど若々しく、これからすごす濃密な時間を予感させる。早くトモヨさんの冥(くら)く暖かい内部へ自分をほとばしらせたいと思うとき、カズちゃんに出会うはるか以前から自分の中に流れていた淫蕩な血のときめきを見出す。そして、これまでの女たちに対する自分の言動のすべてが深い性欲に根ざしていたのではないかと疑う。一瞬倦怠がよぎった。すぐに意識をトモヨさんの尻に集中して、倦怠の影を追い払った。


         六 

 カズちゃんときたときと同じ三つの部屋に、さらにこまやかな彩りが添えられている。トモヨさんの古い文机や書棚や座布団が、カズちゃんのいまふうの種々雑多な調度に自然に雑じりこんでいる。一点豪華主義の家具はなかった。
 私はいくつかの部屋を検分して回った。六畳の和室に、カズちゃんが敷いていた万年蒲団の代わりに、しっとりとした色合のトモヨさんの蒲団が敷かれ、カーテンも厚地の寒色系のものに変わっていた。洋間はいじっていなかった。ソファもテレビもカーテンも、そのままだった。
「北村席がなくなっても、トモヨさんはおトキさんと賄いをするの?」
「北村席はなくならないわ。もっと大きくなるのよ」
「ぼくのおふくろも同じ賄い仕事だ。でも、トモヨさんもおトキさんも、おふくろとは雰囲気がぜんぜんちがう」
「旦那さん夫婦がいいかたたちだからですよ。それに輪をかけて、和子さんがやさしい人ですから、賄いの人も、宴席に出る人も、みんな幸せでいられます」
「トルコに働きに出されることはないよね」
「ぜったいありません。帳場を手伝ってもらうことはあっても、現場には出さないと旦那さんがおっしゃってくださいました」
「よかった」
「心配してくれたんですね。うれしい。このからだは一生郷くんのものです」
 トモヨさんは脱衣場で私の服を脱がせて裸にすると、自分も裸になった。それから私を一人用のバスタブに立たせて、やさしく全身に泡を立てた。
「きれいなからだ……。いつも贈り物だと思ってます」
「トモヨさん、大好きだよ」
「泣きたくなるから、やめてください」
 そう言って目を潤ませる。トモヨさんがからだを洗っているあいだ、私はシャワーで頭を洗った。しぶきが彼女のからだに当たった。
「会うは別れの始めなんてことをよく言うけど、ぼくは、人を愛せない人間が作った偽りのドラマは嫌いなんだ。トモヨさん、どこへもいかないでね」
「いくもんですか。一生いっしょです。もし私が先に死んでも、郷くんの歯に生まれ変わって、郷くんが死んだときにいっしょに焼かれます」
「歯か……。愛し合う者同士、そうできれば死ぬまでいっしょにいられるね」
 風呂から上がると、トモヨさんは丁寧にからだを拭いてくれた。二人寝室の蒲団に横たわり、顔を見つめ合う。薹(とう)の立ちかかった女の下まぶたや、肥えたあごのくびれに、えも言われぬ魅力がある。くびれを指でなぞる。ゆたかな胸に頬を預ける。鼓動が聞こえる。
「愛してます、命のかぎり」
「ぼくも」
「ひと月に一度、きてくれますか」
「うん、くる。トモヨさんの写真が欲しい」
「お婆ちゃんに写ってるわ」
「そうじゃなきゃ、おかしいよ」
「ふふ……」
 私はトモヨさんから離れて横になり、いつものように乳房を握りながら言った。
「ぼくは小さな現実しか興味がなくて、それしか理解できない人間のようなんだ」
「小さな現実って?」
「恋人や、友人や、学校や、本。目の前のもの」
「それから、野球?」
「うん。そういう目の前の小さな世界をたった一つの現実と考えて、それに懸命に働きかけながら生きてる。大きな現実というのは、その小さな世界を取り囲む見たこともない全体のことだろうと思う。たとえばラジオやテレビや新聞の世界―ベトナム、汚職、建国記念日、学生運動、金融社会……。その大きな現実と自分の小さな現実とは、どういうところで関係していて、どういうところが無縁なのか、どんなに努力してもわからない。思想家や学者のようなプロの〈わかり屋〉はもちろん、世間のほとんど人たちは、そのことがわかっているようなんだ。でも、彼らは表現できない。表現しても、おしなべてわかりにくい。きっと彼らは大きな現実をするどく分析して、深く洞察しているんだろうけど、ぼくには伝わってこないんだ。だから、彼らとはとんでもなく距離があるように感じる」
 トモヨさんは私を抱き寄せて言った。
「……大きい小さいは、自分を取り囲む世界の大小の問題じゃなくて、個人の精神の大小の問題だと思います。大勢の人がまとめて幸福になったり、不幸になったりする〈社会〉というものは、ただ受け止めて、疑問に思ったり、怒ったり、笑ったりすればいいだけのもので、表現する必要のないものじゃないかしら。表現する必要があるのは、個人の感情だけだと思います」
「どうして?」
「一人の心の世界のほうが社会よりも大きいからです。一人の心から見れば、社会の現象なんか窓の外の景色みたいなもので、ふと目を上げたときにしか入ってこないものでしょう? 関心などもてるはずがないし、理解もできるはずがありません。無関心と無理解はちがいます。いまの郷くんの言葉でよくわかります。和子さんが郷くんのことを、表現の天才だと言ってました。芸術家として後世に残るだろうって。そのとおりだと思います。……先日も言いましたけど、郷くんの文章を見せていただきました。感動しました。分析も、洞察も、わかりやすい言葉でしっかり表現されていました。何よりも、言葉そのものが美しかった。人の心を救うのは、美しい言葉です。会ったこともない人たちの世界をわかろうとする〈わかり屋〉さんなんかに惑わされちゃいけません。郷くんが救わなくちゃいけないのは、大勢の人たちを理解したがる人じゃなくて、知っている数少ない人を理解したがる人たちです。そういう人たちの住む世界を、小さな世界とか、小さな現実などと思う人間を理解してあげる必要などぜんぜんありません」
 私は目がキリキリ痛むほど感動した。私はトモヨさんにむしゃぶりついて強く唇を吸った。
         †
「……そろそろ帰る時間ですね。すぐ近くにお蕎麦屋さんがあるので、もりそばを食べにいきましょう」
「何も食べる気がしない。トモヨさんは?」
「私も。今度会えるのは、山口さんがきたときですね。楽しみだわ。かならず唄ってくださいね」
「うん。何曲も唄うよ」
 帰りがけに沓脱ぎで写真をもらった。あの長屋の生垣に群がり生える菊のかたわらでしゃがんで、美しく笑っている写真だった。サンダルを履いていた。カバンのチャック袋に忍ばせた。
         †
 八月十八日金曜日。曇。朝から中村図書館。きのうきょうと八時の閉館まで居つづけ、現国の教科書をすべて読み切った。
 田中美知太郎『幸福について』、福原麟太郎『日本人のユーモア』、桑原武夫『文学と言語』、谷崎潤一郎『感覚をみがくこと』、伊藤整『文学の本質』、福田恒存『劇と映画』、梶井基次郎『路上』、志賀直哉『出来事』、アンドレ・ジイド『心の日記』、高村光太郎『父の顔』、ほかに、短歌、俳句等、読み応えがあった。
 新学期まであと二週間あまり。古文をできるだけ進めておこう。
 飛島寮に戻ると、山口からハガキがきていた。

 遅ればせながら、合格おめでとう。俺もつつがなく合格した。報告遅れてすまん。二十六日午後一時三分名古屋駅に着く。ホテルに三日間泊まる。たがいに心ゆくまで歓談し、できれば名古屋見物などもしたい。名古屋西高校も見ておきたい。おたがいの出発の秋(とき)だ。鋭気を養おう。三日間付き合ってくれ。

 とあった。母の目を考えて、〈たがい〉としか書いていない。
「だれ、山口って」
 食堂に集まっている社員連中に聞こえないように母が訊く。
「ぼくといっしょに転校を目指してがんばった友人。青高の首席の男なんだ。東京の戸山高校に合格した。東大合格者を百人近く出す高校に受かるなんて、やっぱりすごいな」
 少し大げさに言った。
「なんでわざわざ遊びにくるの」
 守随くん二世は私の上昇に関わる。なるべく近づけたくない。
「青森で同じアパートに住んでたクラスメイトだし、いっしょに東大へいこうって誓い合った親友だからだよ。ここには泊まりにこない。駅前にホテルに泊まって市内を観て回る。付き合うよ」
 とにかくしつこくサボリを話題にするにかぎる。母の表情が和らいだ。
「遊び呆けなさんなよ」
「また、一年半会えなくなるんだ。三日間ぐらいいいさ。いっしょに名古屋散策をしてみる」
 山崎さんが、
「そうだよ、おばさん。キョウちゃんは、ひと夏まじめに図書館にかよってるんだ。三日ぐらいサボったってかまわないさ。男は友情第一だ」
「息抜きして、二学期に備えろ」
 大沼所長も言った。
 鶏の唐揚げと、ホウレンソウ炒めと、クリームシチューの夕食だった。初対面の日に会わなかった社員が三人ぐらいいたが、彼らはめしが終わるとさっさと鉄筋宿舎に引っこんでしまった。所長の恩恵に浴している新参者が気に食わないというのではなく、ほかの社員とももともと疎遠のようだ。どんな集団にでもいる目立たない連中。西松の飯場にも同じような人たちはいた。まったく顔を思い出せない。所長が、
「自転車、好調か?」
「最高です。あんな乗り心地のいい自転車初めてです。ときどき速く漕いで、脚の鍛錬をするんです。ほかにも腕立て、腹筋背筋は欠かせません。川原でやってます。受験は体力勝負ですから」
 みんな私の意図するところを汲み取り、静かに微笑んでいる。素振りは同朋高校に断られて以来、週に一度、カズちゃんの家の玄関前でやることにしている。足りない。どうにか良策を考えなければいけない。それから肩を衰えさせない練習も継続する必要がある。
 佐伯さんが、
「夜更けの十一時ごろ、駐車場で鍛練してることもあるね」
「あれは勉強の気分転換です」
 学期が始まったら、長距離のランニングも計画に入れなくてはいけない。日が暮れてからあの野球グランドに入りこんで、十周くらいすればいいか。路上を走るのは近所の目につきすぎる。母に対するあてつけと取られかねない。
「キョウちゃん、暇なときに、キャッチボールでもしてくれないか」
 三木さんが言った。母の目が光る。飛島さんが、
「やめといたほうがいいですよ。手が壊れます」
 飛島さんは、会社から戻るとバミューダショーツに穿き替え、脛毛をさらして歩き回る。最初はギョッとしたが、最近では狂った果実の裕次郎ふうに見えないこともない。
「たかが軟式のキャッチボールだぜ。キョウちゃん、硬式ボールを何メートルぐらい投げるの」
「百二十メートル以上です」
「ウッホー!」
「ほらみろ、俺たちの二倍以上だ。骨折する」
 山崎さんが恐ろしげに言う。
「加減してやってもらうさ。とにかく、北の怪物とキャッチボールしたいんだよ」
「私もやりたいです」
 小さな佐伯さんが言った。母が、
「寝てる子を起こさないでください」
 所長が、
「熟睡してるからだいじょうぶですよ。しかし、キョウ、そろそろ野球をやりたくならないか」
「目標が切り替わりましたから。ただ、学校の球技大会なんか出てみたいですね。レクレーションですから勉強に響きません」
 所長は沈痛な面持ちをした。
「硬式野球は、どのくらい飛べば、ホームランになるの?」
 飛島さんが尋く。
「百メートルでじゅうぶんです。センターなら、塀の高さにもよりますが、百二十五メートル」
「いままで打ったいちばん大きいホームランは?」
「青森市営球場のスコアボードを越えたやつです。百五十メートル近く飛んでると思います」
 山崎さんが椅子に反り返って、
「たしかに怪物だ。おばさん、怪物を産んじゃったよ」



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