十三

 シートを畳んで空地に停めた自転車の籠に入れ、祭りの人混みを掻き分けて一本北の道へ向かう。自転車に跨り、ゆっくり走りだす。
「広小路通と大津通の交差点にあるオリエンタル中村、(中)の商標を掲げた七階建ての百貨店」
「ええ」
「一度も入ったことのない百貨店だけど、名古屋というとあそこを思い出すんだ。あそこを過ぎて、テレビ塔」
「わかる。名古屋の顔みたいな百貨店よ。正面玄関前に大きなカンガルー像があって、みんなあそこで待ち合わせするわね。昭和二十九年の五月に屋上観覧車ができたんだけど、日本最初のものなのよ。大学に入ったばかりのころ、一度みんなと乗りにいったわ。二人乗りの壺形の揺り椅子みたいなのが八つ。テレビ塔がすぐそばに大きく見えたりして楽しかった」
「新聞広告にオリエンタル中村のキャッチフレーズがよく出てる。天に星、地に花、人に愛。いいね」
「ええ、すてきね。観覧車の完成から一カ月遅れでテレビ塔が完成したのよ。このあたりは戦後復興の象徴的なものばかり揃ってるわ。久屋大通りと若宮大通の百メートル道路は、日本に三つしかないものの二つ」
「もう一つは?」
「広島市の平和大通り。いったことないけど、キョウちゃんはプロ野球選手になったら見られるわね。オリエンタル中村横の百メートル道路の向かいに、今年中日ビルが竣工して、回転レストランができたんですって。きっと草分けね。円盤の裾はビアガーデンになってるらしいわ。名古屋人は回転ものが好きみたい」
「来週そこで食べよう」
「営業は来年からよ。今度広小路の屋台を見て歩きましょうよ。島正(しましょう)の串カツ食べにいきたいな。街灯の点る屋台通りを大勢の人たちがノンビリ歩いてるの。島正は満員で、待ち客がたむろしてるわ。広小路の屋台は大正時代からあるのよ。四百軒以上の屋台が朝までやってる。博多の中州に負けないくらいよ」
「博多の中州?」
「博多にもいったことないけど、キョウちゃんが平和台球場にいけば覗くことになると思うわ。いつか御園座のボーリング場にもいってみましょうね」
「うん。オリエンタル中村って、オリエンタルカレーと関係ないの?」
「ぜんぜん。オリエンタルカレーは、オリエンタル株式会社が作ってるルーのこと。駅西の椿町に本社があるわよ」
「へえ、知らなかった! そうだ、清洲越しってよく聞くけど、何のこと?」
「徹底して名古屋のことを知りたくなったのね。ここらへんは中区なんだけど、栄を中心に、栄、錦、丸の内と大きな三つのエリアがあるの」
「ふん、ふん」
「そういう町ができたのも、四百年前、清洲の城下町がそっくり名古屋に引っ越してきたからよ」
「それが清洲越し」
「そう。でも実際に引越しさせたのは徳川家康。一六○九年のこと。どうしてそんな力があったのかそれより少し遡って、織田信長が明智光秀に討たれたころからの勢力図を考えなくちゃいけないから、私も面倒で頭に入ってないの。とにかく、そのころから知恵と独裁性を兼ね備えてたのは秀吉と家康だったの。まず、信長の実質後継者になったのは、秀吉。大阪城を築いて、関白太政大臣になり、朝廷から豊臣姓を賜って天下統一。検地とか刀狩とか習ったでしょう? 秀吉は朝鮮出兵のときに病死して、嫡男の秀頼を家康たち五大老に託した。その一人の家康は五人の中では朝廷の官位で最高位について、五大老筆頭となった。その勢いで関ヶ原の戦いに勝ち、征夷大将軍になって、江戸幕府を開いた。豊臣氏を滅ぼし、天下統一。名古屋城と城下町建設」
 私はもう聞いていない。いや、聞き取れない。社会科は不得意だ。カズちゃんが私の心を見透かしたように、
「羅列の知識って味気ないわね。しゃべってる私もいやになる。ごめんなさい」
「いや、しっかり耳も立てられないくせに訊くほうが悪い。こちらこそごめん」
 二人で笑い合う。
 護国神社から県警本部を通って、二の丸に出る。祭りから流れてきた人びとがぞろぞろ名古屋城に向かって歩いている。
「すごい人出だね」
「名古屋まつりの日は、名古屋城と東山動物園は無料開放されるから」
「で、家康は引っ越してきた名古屋城に住んだの?」
「あら、やっぱり訊くの?」
「うん、清洲越しの話が中途半端だから」
「住まなかったの。清洲越しより百年前の千五百年代前半に、今川氏の城を信長のお父さんの信秀が奪って那古野城と名づけ、そこで信長も生まれたのよ。成長した信長が尾張を統一したの。それから根城を清洲城に移して、那古野城を出城にした。そのうち那古野城は荒地の中で廃城になってしまった。そこに目をつけたのが徳川家康。江戸開幕と豊臣家滅亡のあいだの時期ね。関ヶ原の戦いの勝利で天下人になったと家康は思っていなかったということ。関が原はあくまでも家康と三成の豊臣政権内での権力闘争だったから、豊臣政権からは脱していないと考えたわけ。で、豊臣政権から離れるために朝廷工作をして、徳川幕府というまったく別の政治機構を作り上げたの」
「だれも家康に歯向かえなくなった」
「いえ、征夷大将軍より朝廷官位が上で、莫大な財物を持ってる豊臣家だけは歯向かえるの。目の上のたんこぶよ。そこで家康は一計を案じ、近畿圏の大名に城の再建、造営、大改修を命じた。その費用は大名みずからが負担する。この理不尽には歯向かう大名が多くなると踏んで、家康の使った理屈がふるってるの。秀頼さまの住む大阪城を守るように周囲の城を改修することを拒むとはいったいどういう了見か、ときたわけ。すわ、断れば攻め滅ぼされると怖気づいて、大名たちは黙って従ったの。秀頼封じこめ政策とは知らずにね。そうして、清洲の城下町を一気に那古野に移転し、地名も那古野から名古屋に改めた。大須観音も、朝日神社も、町の名前も、大商人松坂屋もぜんぶ清洲から引っ越してきたものよ。家康が豊臣の味方の多い清洲を去って、那古野に移ってきたのは豊臣氏反撃を考えてのことだったということね。そして名古屋城築城。九男の義直を名古屋城主にして、豊臣方の重臣熊本城主の加藤清正、広島城主の福島正則たちの助力のもとに築城を始める。彼らは渋々ながら協力したけど、家康の腹の底は知らなかった。家康さん、辣腕発揮というわけね」
 圧倒された。何者。カズちゃんはどんな大学でも受かる。替え玉受験をしてほしいとまで思った。深い尊敬の心がやってきた。口づけしたくなったがこらえた。名古屋城正門に出る。
「秀吉も家康も、名古屋に住んだことがなかったんだね」名古屋城を築いた
「そう」
「じつに複雑でおもしろい祭りということだね」
「ほんとね」
 シャトー西の丸に出る。
「寄っていこうか」
「トモヨさん、北村にいると思うわ」
 カズちゃんに先導されて自転車を漕ぎながら、堀川を渡り、川沿いに左折して美濃路の古い町並に入る。通りの名前はまるで菅野のようにカズちゃんが教える。まっすぐいけばあの鰻屋だ。名無しの道路の一本東の道に出、すぐに花の木二丁目の交差点に出た。きっと大津橋までいくときもこの道を通ったにちがいないけれども、憶えていない。西区役所前の信号の一つ手前を左折し、花の木公園に出る。西図書館の裏手に回り、帰り着いた。
「すばらしい二日間だった。練り歩く祭りを見たのは、横浜の浅間下以来だったから、なつかしかった」
「祭り嫌いが治ったの?」
「参加しないでパノラマみたいに見ている分には、快適なものだね。ぼくの人生にはカズちゃんの解説が必要だ」
「名古屋風土記ぐらいよ」
「とにかく、何よりも、カズちゃんに感動した。見て」
 ズボンを脱ぎ下ろし、屹立しているものを示す。
「まあ! うれしい!」
 抱き寄せて口づけする。カズちゃんは私のものを握りながら、口づけに舌で応える。
「お風呂に入りましょう。一日歩いて汗をかいたから」
 カズちゃんは全裸になり、湯船を満たしにいった。
 湯の中で彼女を膝に抱き上げ、口づけをし合いながらほとんど動かずに、長く穏やかに交わった。やがてカズちゃんはこらえきれずに自分で動きはじめると、湯の表面に波が立った。カズちゃんは静かに果てて、私にしがみつく。口づけをしたまま私はじっとその姿勢を保ち、また彼女が動きはじめるのを待つ。やがて彼女の大きな波が訪れると、私もそれに合わせて射精した。カズちゃんは私の下唇を噛んで、少し大きな声を出した。膝の上で尻が長いあいだふるえた。しばらくのあいだ刻みこむような脈動が伝わってきた。
 湯船を出て、からだを流し合う。大事に、大事にカズちゃんは私のからだを洗った。石鹸を洗い流して、もう一度湯に浸かる。
 風呂から上がってたがいにからだを拭き合う。カズちゃんは私のものを握りしめ、
「キョウちゃん、私、もっとしたいの。いい?」
「うん」
「後ろから浅く、ゆっくりして」
 蒲団の上に四つん這いにさせた。肉づきのいい臀部に両手を載せ、ゆっくりと抽送する。
「ああ、興奮する」
 その言葉が終わらないうちに、カズちゃんは激しく自分を煽り立てる。蒲団に突いた両手と両膝でからだを支え、白い背中を波打たせながら、尻を勢いよく私の下腹に打ちつけるようにしてふたたびいただきへ突き進んでいく。私も夢中になる。何度も射精を抑える。彼女は子供を背負う母親のように後ろに回した片手で私の尻をつかんで叫び、背筋を大きく反らせる。私は引き抜き、彼女のからだを表にしてふたたび挿入し、抽送をつづける。カズちゃんは激しく首を振り立て、歓喜の単語を連呼し、全身を硬直させる。そのとたん私の下腹にいつもの閃光が走り、するどい多量の迸りが、彼女の充血した腹の奥へ突き刺さる。
 二人蒲団に仰向けに横たわり、会話が始まる。
「あしたから初めての中間試験だ。四日間」
「いやに長いのね」
「科目が多いんだ。英文解釈、英文法、現国、古典、古典文法、漢文、数ⅡB、物理、化学、日本史、世界史。十一科目、試験時間はぜんぶ一時間」
「それじゃたしかに四日かかるわ」
「五十分授業、週三十二コマ。月水七コマ、火木五コマ、金は体育が入るので六コマ、土曜日二コマ。とんでもないスケジュールだよ。十一科目を二、三回ずつ回すとそういうことになるか」
「どうせ、要領よくやってるんでしょう?」
「現国と社会科は、目は開いてるけど聞いてない。化学はたいてい寝てる。切れる教師が一人もいない」
「青高に比べて薄っぺらい生活だと思わないでね。実り豊かな単調さよ。大きな将来が待ってるんだから」
「わかってる」
 もう一度抱き合う。カズちゃんと抱き合う時間は一分でも長引かせたいけれど、きょうは時間が切れかかっている。口づけをし、硬く抱き合い、潔く離れる。服を着、コーヒーを飲み、カバンを持ち、もう一度口づけをし、玄関を出、自転車に乗り、手を振る。私の命に手を振る。


         十四

 十月十日の月曜日から四日間行なわれた中間テストの結果と、十五日と十七日に行なわれた実力テストの結果が、二十日の木曜日に同時に出た。どの科目も校内の平均点が異常に高かった。例えば、数学ⅡB八十七点、英語八十三点、現国七十二点、古文七十五点、物理九十一点、日本史七十七点、というふうに。青森高校の各科目の成績は、総合トップでさえ常に五割から六割前後だった。つまり青高生の目から見れば、大秀才と称されるような生徒がゴロゴロいることになる―最初私はそう思って怖じ気をふるった。私の成績は六百五十人中三百三十番だった。
 しかし妙なことに、つづけて土曜日と月曜日に行なわれた実力試験になると、私は彼らを百点も引き離して首席に跳ね上がった。私の平均点は、中間試験と大差なかった。ただ実力試験は入試対応なので、科目が数学・英語・国語・理科選択二科目・社会科選択二科目の七科目しかなかった。
 この気持ちの悪い結果は教師たちの頭を悩ませた。そして、十月下旬の小試験と呼ばれる進度確認テストでは、現国と英語だけはかろうじてトップを保ったものの、その他の科目が平均以下で、総合順位はやはり学年の真ん中あたりに落ちた。なんとなく浅はかな、機転の利かない、自己満足と自惚れの態度に終始している連中が、なぜ定期試験と小試験のときだけは冬眠から目覚めたように頭が働きはじめるのだろう。私はどうしようもない居心地の悪さを感じた。
「どうしたの、神無月くん、がんばらなきゃダメじゃないの。内申書に響くのは、実力試験や模擬試験じゃなく定期試験なのよ」
 進度テストの成績表返却の日に、松田に言われた。
「自分なりにちゃんとがんばってます。それより、みんな、どうして中間テストや小テストになると、大秀才になるんですか」
 素直な疑問をぶつけた。松田は少しあわてたふうに、
「さあ、ふだんのまじめな勉強が実るんじゃないかしら」
 と答えた。
「じゃ、実力試験は?」
「ああいう大学入試レベルのものは、高校二年生には難しいんでしょう。神無月くんは青森高校で鍛えられてるから」
「べつに鍛えられませんでしたよ。それに、入試レベルでも、校内試験レベルでも、ぼくの平均点はほとんど変わらない。それなのに実力試験だけ一番になるというのは、おかしな現象だと思いませんか」
「さあ、どうしてかしらね。とにかく、まじめに勉強しなさい。見た感じ、あなたは少しまじめさが足りないわよ。苦労してあなたを育ててきたお母さんがかわいそうでしょ。校長先生も心配してるわよ」
 私の転入の事情は承知しているはずなのに、儒教的な説得をする。何よりも、まじめでないと言われる理由がわからなかった。そればかりでなく、入試に直結しない中間テストや小テストの成績結果が、母や校長の心配とどういう関係にあるのかまったくわからなかった。
 しっくりしないまま校門を出ると、このところ私に近づかなかった鴇崎が追ってきて、
「神無月くん、悩んどるみたいやね。これ見て」
 旺文社の『数ⅡBの鉄則』という参考書を開いて見せた。期末テストとまったく同じ問題が載っていた。
「何だ、これ!」
「この問題だけやないよ。これも、これも、みんなそう。一題だけ、どっかの国立大の見たこともない過去問を入れとくんよ」
 腰が抜けるほど驚いた。これなら平均点がとんでもないものになるはずだ。百点をとる可能性も高い。
「ほかの科目も?」
「ぜんぶ」
「松田先生はそのこと知らないの」
「どの先生も知っとるがや。自分で指定しとるんやから。松田は旺文社の国語問題精講、石黒は文英堂のシグマベスト解明古文、片平は研究社の新々英文解釈研究」
「いつ指定するの?」
「一学期に、一年間の中間・期末の指定問題集や参考書が配られるんよ。理社もぜんぶ決められとる」
「反則だ。松田はなぜとぼけたんだろう」
「神無月くんに嫉妬したんじゃないの」
「嫉妬? なんで? ぼくは生徒だよ」痛快に思っている
「神無月くんができすぎるからやが。種本の参考書を教えてまったら、神無月くんは試験という試験を総なめしてまうやろ」
 つまり、西高の定期試験は、最初から指定されている参考書をもとに作成され、しかも学期ごとにその参考書の出題範囲が決められていて、その中からしか出されないと鴇崎は言うのだった。そんな仕組みも知らず、せっせと教科書と自選の参考書しか勉強しなかった私はいい面の皮だ。
 しかしこれでいい、と私は思った。指定の参考書か何か知らないが、結局は入試問題を集めているものだろう。実力試験と同じような得点を挙げられれば、実質的にはいつも首席なのだと考えればいい。
 私の成績の異常な較差について、私と同じような考え方をしている教師は一人もいなかった。とぼけ通すというつもりでもなさそうで、指定参考書をまじめに勉強していないか、ふだんの授業を軽視していると本気で判断したようだった。廊下で挨拶しても、不機嫌に挨拶を返すだけの教師が多くなり、黙って横目で睨むだけの教師も出てきた。しかし、私は頑迷なまでに指定の参考書を購入することを拒みつづけた。懇切丁寧な基本書である教科書や教科書ガイドや、みずから厳選した参考書があるのに、卑劣な虎の巻をやみくもに暗記するだけの勉強をしたいとは思わなかった。
         †
 十月二十二日土曜日。花の木の家へいくには、西高から八百メートルほど自転車に乗る。五分もかからない。西高とカズちゃんの新居との中間にある地蔵院という寺の辻を曲がりこんで、西図書館の裏手に出る。いつも玄関の外の砂利の庭で、サンダルを履いたカズちゃんが出迎えた。彼女がカバンを受け取ると、広い玄関に入る。引き戸つきの下駄箱があり、式台の端に黒電話を載せたキャビネットがある。下駄箱にはカズちゃんのいろいろな種類の靴が並んでいた。私は少し踵の尖った黒のローヒールが気に入っている。大柄な彼女の足が意外に小さいことがわかる。そういう発見もうれしかった。
「二カ月も忘れてた」
 私は黒電話に丸く嵌めこんである番号を手帳にメモした。
「学校はどう、相変わらずもの足りないでしょうけど、がんばってる?」
「もちろん。……頼みたいことがあるんだ」
「なに?」
「原稿用紙を用意してほしい」
「もう用意してあるわ。抽斗に五、六束入ってる」
 清潔なキッチンを横目に廊下を歩く。裏庭を眺める位置にタイル貼りの風呂がついている。二人でゆったり入れる大きさだ。
 カズちゃんは二階に上がって、八畳の洋間のドアを開けた。カバンから持参した何枚かのレコードを取り出して、ステレオのそばのラックに並べる。もう百枚以上になった。
 桜川から持ってきた大きな高級机に、二十ワットの蛍光灯スタンドが載っている。底の深い抽斗を開ける。原稿用紙の包みがいくつか重なっている。腹前の長抽斗には文具が一揃いびっしり並んでいた。小さな本立てにノートが十冊も立ててある。
「すごい!」
「好きなときに、ものを書いたり、勉強したりできるわよ。キョウちゃんがいつきてもいいように、私も家にいるわ。スイミングスクールや弓道教室や文化講演会にかよってるのよ。けっこう忙しく暮らしてる」
「弓道?」
「枇杷島の青果市場の裏に、個人教室があるのを見つけたの。生活のリズムになるし、からだにもよさそう。スイミングスクールもそのそばにあるのよ。キョウちゃん―」
「ん?」
「ごめんなさい。きょう、あれなの」
「いいんだよ、そんなこと。カズちゃんは南極一号じゃないよ」
「それも、私の楽しみの一つなの」
「けっこう刺激的な言葉だね。でも、そう思って抱いたことは一度もないな。コーヒー飲んだら、散歩しようよ」
「うん、どこにする?」
「名古屋といえば、地下街。小山田さんたちの改修工事は終わっちゃったんだよね」
「一年もかからなかったみたい。いってみようか」
「うん」
 カズちゃんはいそいそと一階へ降りた。私も追って階段を降りる。ラフなジーパンと真っ赤なセーターに着替えたカズちゃんと、自転車に乗って笹島に出る。笹島のサイクルショップに自転車をカバンごと預け、名鉄口から階段を下りて、明るい地下街を歩いた。眼鏡をかけて歩く。ガラス張りの店舗や小物の出店がずらりと並んでいるのがクッキリ鮮やかに見える。紳士服、婦人服、始末セールの冷蔵庫、クーラー。ショーウィンドーを覗くカズちゃんのジーパンの尻が大きくて、腰の高さまでふくらんでいる。外人のようだ。彼女はセーターの下はブラジャーだけで、化粧をすっかり落としている。ときどき振り向いて笑う二重まぶたの切れこみが深く、肌は青白い磁器のようで、目を瞠るほど美しい。通りすがりの人びとが好奇心に満ちた視線を投げていく。学生服を着た私は、絶世の美人の姉と歩くような誇らしい気分になる。
「何もないわねえ。要らないものばかり」
「カズちゃん、すごくきれいだよ」
「冗談、ポイよ。いつも飽きずに同じことを言うのね」
 非の打ちどころのない容姿の美しさが生まれつきのもので、その持ち主が自分の美しさを重視していないとき、私は寡黙でいるべきだろうか。地下街からエスカレーターでガード下のアーケードへ昇って、狭いうどん屋に入る。きしめんを食べた。
「横浜から名古屋にきた最初の日に、ここでおふくろときしめんを食べた」
「いつ?」
「七年前、小学四年の秋。伊勢湾台風の年」
「あら、それじゃ、私がキョウちゃんと初めて会った年ね。ふうん、ここで……」
「十歳と二十五歳か。歳が逆でも、ぼくを愛してくれた?」
「当然よ。キョウちゃんが手を出したら犯罪者になっちゃうけど」
「今度は刑務所へ島流しか」
「ううん、流されない。手を出されても、私はだれにも言わないから」
 うどん屋を出て、駅前にそびえるビルに入る。いま流行りの七十ミリ映画館で、去年山口と青森で観たドクトル・ジバゴをリバイバルで観る。
 カズちゃんはずっと泣いていた。私はもらい泣きしながら、暗がりで涙を流しているカズちゃんを眺めていた。
 映画館を出て、喫茶店で熱いココアをすする。
「細かいところが入り組んでて、難しく感じたけど、なぜか涙が止まらなかったわ」
「山口と青森で観た映画だ。今度も政治的なところはよくわからなかった。ただ、一人ひとりの人間の一途さをあらためてすばらしいと思った」
「ジバゴの目がキョウちゃんに似てた」
「あんなきれいな目はしてないよ。この映画の原作者はパステルナークっていうんだけど、翻訳本をダッコちゃんにもらった」
「ああ、あのさびしそうな人……。どうしてるかしら」
「どうしてるんだろうね。山口は自殺しただろうって言ってたけど」
「死んでないわよ。生きる価値のある人だもの。新しい希望を見つけたと思うわ」
「めったに彼のことを思い出さない。人間の心は、みんなのことを思うことができないようにできてるみたいだ」
「ふつうは、そんな反省なんかしないわ。だれもかれも思っていたら、心がパンクしてしまう」
「うん、そうだね。……その本は難しかったから、途中でやめた。まだ読んでない」
「代わりに私が読んでおくわね。西図書館で」
 柳橋の外れまで歩く。早ばやとオーバーの棚卸しセールをやっている店がある。カズちゃんの目が輝いたので、
「オーバーはいらないよ。学生服が大好きだから、年じゅうこの格好がいい」
「花の木に一着あるけど、もうぜんぜん小さくなってる。やっぱり買ってあげる」
「いらない。ぼくは寒がりじゃないんだ。手袋も襟巻もしない。それに、そんなもの持って帰ったら、母に見咎められる」
「花の木に置いておけばいいわ。お母さんは、オーバー買ってくれないの」
「考えたこともないんじゃないかな。ほんとにいらない」
 耳を立てて、街のざわめきを聴いた。ときおり、三十二歳のカズちゃんの肌を隅なく観察した。信じられないほど滑らかな肌だった。目鼻の造りも、化粧気のない顔の形も、八重歯を潜めた白い歯並びも美しかった。涙がふいに湧いてきた。
「どうしたの? キョウちゃん」
「―カズちゃんはいい人だね。泣きたくなるほど……」
「泣かないで。私も涙が出ちゃう」
 笹島の自転車屋で、手を振って別れた。


         十五

 十月三十日日曜日。朝のランニングの冷気を鼻に感じるようになった。十畳板間で三種の神器をするときも素肌に冷たさがくる。
「眼鏡を作りなさい」
 と母が言う。私がときどき眼鏡をかけていることを母は知っている。
「眼鏡は持ってるよ」
「かけてるときも、目つきが悪くて、見ていられないよ。ちゃんとしたのを買いなさい。お金はたっぷり持ってるんでしょう」
 皮肉口調で言う。たしかに少し度が合わなくなってきていた。きょうはトモヨさんのところへいく日だ。新しい眼鏡をかけて、トモヨさんとのんびり散歩でもしよう。
「眼鏡を試すついでに、ひさしぶりに映画を観てくる」
「デキの悪い高校だからって、気を緩めるんじゃないよ。おまえの目標は周りの学生たちとはちがうんだからね」
「映画もけっこう英語の勉強になるんだ」
「どうだか」
 長袖シャツに学生ズボンを穿き、帽子はかぶらなかった。髪が耳にかかりはじめている。そろそろ切りどきだ。
「床屋にもいってくる」
 笹島の自転車店に閉店の七時までの預かりを頼んで百円払った。預かるというよりも、店が営業しているあいだ、ほかの自転車といっしょに店先に並べておくというだけのことなのだが、道端に放置して盗難を危惧するよりは百円で安心を買うほうがいい。
 トモヨさんと名古屋駅コンコースの大時計の下で待ち合わせた。トモヨさんは髪にウェーブをかけ、頬にうっすらと紅を引いていた。彼女はそれだけできらめくほど美しく見えた。大きな目が濡れたように黒々と輝き、淡い朱を入れた爪のせいで、青白い手が百合の花弁のように染まって見える。
「目つきが悪いから眼鏡を作ってこいって言われた」
「私もそんな感じがしてたの。度が少し合わなくなってきてるんだと思う。新しいのを作りましょう。頭痛がするようになったらたいへん」
「トモヨさん、まだ兆候がない?」
「ありません。だいたい、日曜日がうまく危険日に当たるなんてことは、ひと月に一度あるかないかだもの。でも日曜ごとにセックスしてればいつか当たります」
「これからは、月末だけじゃなく、毎週日曜日にいこうか?」
「いいえ。勉強がおろそかになります。しっかり月に一回を守りましょ。きょうは私、穢れの日ですから遠慮しますけど」
 生理の周期までカズちゃんに似ている。名鉄ビルの中にある床屋に入り、後ろのベンチで待っているトモヨさんに見つめられながら散発した。伸びてきた頭頂の髪を残すように裾を刈った。近眼のせいで自分の顔の細部に焦点を当てられないことに安堵する。健児寮で病み上がりの顔を見て以来、いや、野辺地の手鏡の顔に幻滅して以来、自分の顔は凝視しないことにしている。ときどき鏡の中のトモヨさんを見つめると、満足そうにうなずいた。
 床屋と同じ並びの喫茶店でくつろぎながら、トモヨさんは終始ほがらかだった。そうして真剣な顔でうつむいて、ストローでソーダ水を吸った。美貌というのはこういう顔のことを言うのだろう。
「いやです、じっと見て。もういいかげん見飽きたでしょう」
「ちっとも。ぼくの恋人だということが信じられない」
「私が言いたいこと。床屋さんで鏡の中の郷くんを見るのが恥ずかしかった。散髪屋さんも緊張してましたよ。さ、眼鏡を作らなくちゃ」
「それほど不便はないんだけどね。午後遅くなると、ちょっと黒板が見えにくいかな。作っておくに越したことはないね」
「目が魅力的なのは近眼のせいもあったんですね。せいぜい、顔に似合ったものを作らなくちゃ。縁が目立たないのがいいですね」
 栄までタクシーで出て、松坂屋の眼鏡店で検眼し、ごくふつうの黒縁の眼鏡を注文した。近視は軽度だったが、乱視が少し入っているらしく、六千円ほどかかった。一週間後に取りにきてくれと言われた。
 柳橋の禅という新しそうな店で、手羽先のカラ揚げと味噌カツを食べた。二人で少しビールも飲んだ。薄化粧のトモヨさんの顔がほんのり赤らんだ。
「……静かな生活が始まりましたね。計画どおりとは言っても、長いあいだ野球ができなくなるのはつらいでしょう。名古屋にきたことをほんとに後悔していませんか?」
「後悔も何も、自分の意思が関わってたことじゃないから。後悔って、志のある人間が志が成らなかったときにするものだと思う。ぼくはいきあたりばったり、風の吹くままに生きてる男だから、志と言えるほどの立派なものを持ってない。人に押されて、風に吹かれる気分で決めたことだ。でも、どんな気分のときもそれなりに努力する男だから、自分がどうなっていくのかとても興味がある」
「……私には、郷くんが意志のない気分だけの人に見えない。郷くんに出世欲がないのはわかるけど……志がないっていうのは、言いすぎだと思う。野球をやったり、文章を書いたりするのには、とんでもない志が必要でしょ」
「たしかに、自分の適性の実現という意味で、野球には強いこだわりがあるけど、文章はどうかなあ。海のものとも山のものともつかないものには、志というほどのものは捧げられない。ひょっとしたスケベ心は才能じゃないから。―ただ、言葉を追求するのは、ある種の志だね。でも、丹精こめて、つまり言葉を愛して文章を書けば、文章人という社会的な身分と関係なく、それだけで立派な文章人なわけだから、やっぱり立身出世の志は必要ないんだよ。文章人は社会的に成功して達成する身分じゃないからね」
「すてき! そういう、頭と言葉がしっかりつながっている言い方、大好きです」
「あわてて立てた計画だったけど、いまのところ順調だね。このあいだクラスの男に、いくつもりになるだけで東大って合格するのかって皮肉られた。簡単に東大なんて看板掲げちゃったけど、考えると合格の見こみなんて何もないんだ。ここまで順調だっただけで、この先は皆目見当がつかない。それでもちゃんと勉強して、東大へいって、煩わしいことをぜんぶ断ち切らないと」
 トモヨさんはフンと鼻を鳴らし、
「受かります、すんなりと。東大だろうと、ハーバードだろうと。私、郷くんが守随くんに勉強を教えてもらった話を聞いたときにわかりました。郷くんが言うとおり、それが目覚めだったんですね。野辺地、三沢、横浜、名古屋―それまで勉強なんかしたこともなかったでしょう? 勉強は、教室で聴いて覚えるもの、そう思ってたでしょう? どこにいっても、勉強部屋もなければ、机すらなかったはずです。ふつうの子は、小学校に入ったら机ぐらい買ってもらえるのよ。勉強するためにね。その代わりに郷くんは、漫画とか映画とか、とんでもない量をこなしたんですよ。その郷くんがある日、とつぜん、守随くんの家で問題集や参考書を目にしたわけです。そして、何カ月もしないうちに勉強の達人になっちゃった。それもあたりまえですよね。映画や漫画や草花や言葉の記憶の仕方が並大抵じゃなかったんですから。その達人ぶりがいままでつづいてるだけのことです。信じられます? 天才だったんですよ。勉強小屋と机を与えられてからの郷くんの快進撃、目に浮かびます。野球をしようと、恋をしようと、寺田さんの見舞いにかよおうと、島流しに遭おうと、片手間の勉強でトップクラス。マグレじゃなく、きちんと東大に受かります。つまらない皮肉なんか気にしないでください。あと一年半のがまん。そうすれば、堂々と野球ができます」
 輝くように笑った。
 トモヨさんと笹島の自転車屋の前で別れ、そのまま自転車を漕いで中村図書館へ向かった。もちろん映画は観なかった。
         †
 勉強の量をかなり増やしたので、十一月中旬の期末試験の学業成績はおのずから見るべき進歩のあとを示した。百番台になった。修学旅行直前の実力試験は今回もトップだった。中間試験の一頓挫があったおかげで、実力試験の二回連続の好成績が引き立ち、私は押しも押されもしない西高の学業の旗手と見られるようになった。定期試験との落差は、仲間たちからは愛敬として微苦笑されるようになった。松田も口をつぐんだ。ただ、相変わらず私を見やるときの苦々しい表情は崩さなかった。母と同様、彼女はあるとき私が生理的に嫌いになったのだ。どうしようもないことだ。
 自由参加の修学旅行が近づいてきた。青森高校と同様、名古屋西高も二年時にすませる方針のようだった。京都、奈良から、広島、徳島と巡って帰ってくる。千年小学校に中国四国が嵩増ししただけだった。参加しないことにした。
 下校どき、研(とぎ)健一という男子生徒がいやにべたべた私に近づいてきて、いっしょに下校したがった。成績も個性も暗く沈んでいるのに、松田にいつも、トギくん、トギくんと名前を呼ばれてかわいがられていた。
「トギくん、そこ読んで」
「著者は何を言いたいのかな、トギくん」
「答案集めは、トギくんにやってもらいます」
 うっすら無精ひげを伸ばした頬のこけた顔は、三歳も四歳も年上に見える。私は心の中で、彼の事を松田の〈ヨトギ〉と呼んでいた。
「松田先生から聞いたんやけど、神無月くんも親一人子一人なんやてね」
「ああ、母親だけだよ」
「ぼくも父親だけなんよ。兄弟もいない。片親というのは、なにかとつらいよね」
 ―おまえはだれだ。何歳だ。
 その父親が最近、胃癌で入院したと言う。なんだ、なんだ、まるきり青高の武藤じゃないか。親一人子一人というのは、そしてその親が大病に罹っているというのは、それほど例外的な境遇なのか。
 松田という教師の女らしい趣味が知れた。若くして生活の重荷を背負っているような生徒に心惹かれるのだ。何やら生活の荷の軽そうな私に、ついつい尖った眼を向けてしまうことも、いつか鴇崎の言った嫉妬からではなくて、ぜんぶその趣味からきているのだとわかった。
「きみは水泳部で、うさぎ跳びで膝を悪くして、自炊をしてるだろ」
「え? ぼくは化学クラブだが。やっぱり変人やなあ、神無月くんは」
 私はニヤニヤ笑った。やっぱりということは、私がそういうふうに教室の連中に噂されているということだ。
「ぼくはね、ただの馬鹿だよ。馬鹿も変人というなら、否定はしないけど。でも、自炊はまちがいないだろ」
「ううん、親戚の家からかよっとる」
 自転車を引きながら菊ノ尾通りを環状線に向かって三分も歩くと、見上げるほど大きなビルの前に出た。マンションかと思ったら、済生会病院という看板が上がっている。
「父を見舞ってやってくれる?」
「どうして? 会ったこともないのに」
「いつも神無月くんのことを父に話しとるんだ。そしたら、そんなすごい人にぜひ会いたいって」
 面倒くさかったが、会ってみることにした。エレベーターで五階へ上がり、湿ったにおいのする個室を覗いた。リューマチ先生がいた。いや、リューマチ先生にそっくりの男が平べったく横たわっていた。掛布団を剥ぎ、天井を見つめている。寝巻きから突き出た脚がレンガ色に萎れていた。
「とうさん、神無月くんだよ」
 男は腕と鼻にからみついたチューブを揺らしながら、首だけもたげて愛想のいい挨拶をした。私は室内に入らずに、挨拶を返した。大部屋ならいざ知らず、こういう辛気くさい個室へは入りたくなかった。胆石で入院した母の病室を思い出していた。
「立派な同級生がおると、健一からかねがね聞いておりました。すばらしい成績だそうで。お母さんとお二人の生活やと、食事やら、着るものやら、こまごまとご苦労なさっとることでしょう」
「ぼくは何ともありませんが、母は気苦労でしょうね」
「できたことをおっしゃる。さすが健一が褒めるだけのことがあります。親というのはその苦労もうれしいものでしてね」
 目に涙を浮かべた。苦手な雰囲気になってきた。
「どうか仲良くしてやってください」
「は?」
「私はまず、あかんです。これに仲のいい友人がいてくれたら心強い。ほんとに、よろしくお願いします」
 そう言うともたげていた首を落とした。
 帰り道で研に尋いた。
「ぼくと仲がよくなると、お父さんはどう心強いんだ。ぼくはきみの後見役じゃないよ」
 それ以来、研は近づいてこなくなった。親しくしてもらいたいふうもない。いったいあの見舞いは何だったのだろうと思った。



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