十六

 晩飯のとき、母に、修学旅行はいかないことにしたと告げた。
「どうして? 中学校のときもいけなかったろ。いってくればいい」
「時間のむだだよ。千年小学校と同じコースだし、家で勉強してるほうがいい。もう担任には断ったから」
 断ったときの松田の険悪な表情はみごとなものだった。人には心向きや事情があるということをまったく考えたこともないという顔だった。松田は、社会性ゼロね、と呟いたのだ。彼女はまちがいなく、私が彼女に対してそうであるように、私の顔やたたずまいがどうしようもなく嫌いなのだ。山崎さんが驚いて尋いた。
「中学でもいかなかったのか!」 
「そうなんですよ。そのころ、この子は悪い道に走りましてね、頭を冷やすために青森の中学校に転校させたんです」
 所長が微笑みながら、
「何度も聞いてますよ、佐藤さん。女親というのは複雑だ。おれはちっとも悪の道だとは思わないけどね。ま、佐藤さんにとってはワルだったんだから、仕方ないよな。おかげでキョウも頭を冷やして、さっぱりしたんじゃないか。いいんじゃないの、佐藤さん、いきたくないものを無理にいかせなくても。私も高校の修学旅行なんざ、これっぽっちも印象に残ってない。どこをどう歩いたかも忘れてしまった。きれいなバスガイドくらいかな、思い出せるのは」
 社員たちが笑ってうなずいている。所長が、
「佐藤さん、ビール!」
「ケースごと!」
 山崎さんにけしかけられ、母も別天地が開けたような明るい表情で流しに立っていった。コップが打ち鳴らされ、彼らはひとしきり地下鉄の現場話に没頭した。専門用語が飛び交う。そういえば、西松の社員たちは、あまり仕事の話をしなかった。しかし、男同士の話を聞いていてわくわくするのはどちらも同じだ。私は母に、
「青高の古山という友人から手紙がきたんだ。修学旅行列車が名古屋駅に停車するから、ホームに会いにこいって。十一月十三日。ちょうど日曜日だからいってくるね」
「古山くんて?」
「青高の大秀才。ちっともえらぶらない、いいやつなんだ」
 所長が、
「このあいだ遊びにきた同級生も大秀才だったな」
「山口は勉強も大秀才ですが、ギターは天才です。来年の夏も会いにきてくれる」
「来年はここに連れてこいよ。おもしろそうだ」
「西沢先生もくるのかい」
 母が柔らかい声色で尋いた。
「うん。一年生のときのメンバーがデッキに集まるらしい」
「かあちゃんは仕事があるからいけないけど、よろしく言っといて」
「うん」
 夏木陽介の『青春とはなんだ』が始まり、社員たちの関心がテレビに向いた。三木さんと飛島さんが画面の前に椅子を引っぱっていき、どっかと腰を据えた。飛島さんは『若者たち』のときも、きみのゆく道は、と唄いながら、若き血と同じような身構えをする。母がかぶりつきの特権を得られるのは、夜遅い『夫婦善哉』のときだけだ。
「ぼくは青春ものに弱いんだ。どうしても泣いてしまう」
「俺もだよ」
 三木さんがうなずく。飛島さんや三木さんとちがい、所長や山崎さんや佐伯さんがテレビを観ている姿はめったに見かけない。私はこの数年テレビというものにまったく関心が湧かなくなった。最近はラジオも聴かない。
         †
 ホームでの再会は一瞬だった。狭い乗降口に、西沢を囲んで古山や木谷千佳子や鈴木睦子たちが詰めかけ、一人ひとり押し出されるように身を乗り出して握手を求めた。握手の中には藤田や、小田切や、奥田や、佐久間もいた。古山が、
「詩集、サンキュー」
「神無月くんの髪、つやつや!」
 私の長髪を見て木谷千佳子が言った。
「うわあ、ほんと!」
 と女たちが黄色い声を上げた。鈴木睦子の美しい顔も混ざっていた。東大にくると彼女は市営球場のベンチで約束した。私は彼女に向かって、ピースサインを突き出した。彼女は笑いながらまじめにうなずいた。
「ますますダンディになったな」
 猛勉があごを引いて感嘆の身振りをした。
「山口によろしく伝えてくれ。たまには青森に遊びにくるんだぞ。いつも新聞読んでるからな。いまは忍耐のときだ。プロのホームラン王目指してケッパレ」
「はい、ありがとうございます」
 ほかの学生はただ大きく笑っているだけだった。見つめるばかりでいつまでも手を離さない木谷に言った。
「スタンド敷、使ってるよ。青と白のチェック、目が休まる」
「ほつれたら送ってけんだ。編み直してける。青森さ遊びにきたら、かならず連絡ください」
 小さい声で言った。彼女の肩口からいびつな目がひょいと覗いた。小笠原だった。真っ黒く日焼けした顔がゆがんでふるえ、いびつな目に涙が浮かんでいた。私は自分から手を差し出し、固く握手した。
「神無月、ワ、早稲田で野球やるこどにした。理工学部。難しい学部だすけ、勉強ケッパラねばなんね」
「そうか、がんばれよ。東京で会おう」
「野球部の連中から、おめのこど一生わすれねって伝えてけろって頼まれだ。相馬先生からもだ」
「ありがとう。ぼくも一生忘れない。みんなによろしく伝えてね」
 三分もしないうちに警笛が鳴り、列車が動きはじめた。木谷が私の手をギュッと握った。その手がやがて離れた。小笠原が叫んだ。
「また、ぜったい会うべ! 神宮球場だ!」
 西沢が、
「猛勉!」
 と叫び、古山が敬礼の格好をした。女生徒たちがいつまでも手を振っていた。私も大きく手を振った。最後尾の車両が消えてから、母の〈よろしく〉を西沢に伝えなかったことに気づいた。
         †
 十一月二十三日から二十六日まで期末試験。英・国はいつものでき。数学は三十点取れなかった。化学は十点台。日本史、世界史は言わずもがな。
 十一月二十七日の日曜日に、佐伯さんに誘われ、名古屋にきて二度目の散髪にいった。先月刈り残した頭頂部分の髪が伸びすぎていたので好都合だった。最初カズちゃんと菅野に送られて飛島寮にきたときに立ち寄った喫茶店のそばに、小さな床屋があった。応対の様子から、飛島の社員たちのいきつけの店のようだった。椅子はたった二つで、白衣を着た背の低い中年男が女房と髪を刈っていた。午前の早いうちだったので、二人の客が退けると佐伯さんと並んで椅子に座った。
「イロ男やなあ」
 私の髪を濡らしながら理髪店のおやじが言った。私は眼鏡をかけ、勇気を出してその〈イロ男〉をしっかりと見た。鮮明に焦点を合わせて自分の顔を見たのは、野辺地以来初めてだった。ホームベース型の輪郭、薄い唇が引き締まり、二重と三重の目がぎらついている。思ったとおりの異相だった。舐めるように見て記憶した。これからは鏡と名のつくものを覗きこむのはやめようとあらためて決意した。中年の男は私の眼鏡を外して鏡の前に置いた。
「じゃ、ハサミを入れますよ。学生ふうにしますね」
 おやじは散髪にかかった。佐伯さんの髪は女房が刈った。二十分ほどで、私の髪はふつうの七三分けになった。小学校のころのなつかしい髪型だった。佐伯さんは慎太郎刈りなので、とっくに終わって雑誌を読んでいる。店主は私の前掛けを外し、小箒木で肩の髪を払い、眼鏡を顔にかけ戻した。視界が鮮明になり、三人の笑顔に取り囲まれているのがわかった。髪型だけを見て、顔は見なかった。背中や腹前の髪を払い落とされながら椅子の傍らに立つと、店主がまたしみじみと言った。
「ええ男っぷりや。姿もいい。将来、女泣かせやぞ」
 女房が、
「ほんと、見てるだけでドキドキしますね」
 佐伯さんの笑顔が言った。
「キョウくんはほんとうに無類の美男子ですね。女にしてみたいくらいのミメカタチだ。寮のみんなも、芸能人といるみたいだといつも言ってます」
 私は頭を掻いて、
「色がひどく白いからそう見えるんでしょう」
 床屋夫婦に辞儀をして二人で外に出た。
「コーヒーでも飲んでいきますか」
「いえ、勉強しに図書館へ出かけます」
「そうだったね。キョウくんのまじめさは、いつもぼくの励みになる」
「佐伯さんは毎晩遅くまで勉強してますね。シロと夜の散歩するとき、灯りが見えます」
「ぼくは高卒だから、現場経験を二年以上しなくちゃ受験資格を取れないんだけど、その期間も過ぎたので、あとは筆記試験だけです。何年かけても取りますよ」
「がんばってください」
「はい。夜中の一時ごろ勉強に区切りがつくと、外でちょっとした体操をするんです。キョウくんの部屋の灯りが点いてるので、まだまだ努力しなくちゃという気になります」
 部屋に戻ってカバンに教科書を詰め、シロに見送られて自転車で出かけた。きょうはトモヨさんと逢瀬を果たしたあと、松葉会に顔を出そうと思っていた。八月に転校して四カ月、挨拶が先延ばしになっていた。
 マンションに着くと、トモヨさんがいつものように濃紺のミディスカート姿で玄関に出迎えた。トモヨさんは跳びはねるように喜び、カバンを受け取って、
「また床屋さんへいったのね。すてき」
 抱きついて私の髪を撫でながら耳もとに、
「きょうは、すごく妊娠しそうな日なんです。バックでうんと出してください。郷くんのおつゆが子宮に溜まるように」
 と囁いて、強く手を握った。トモヨさんのいつも白い顔が真っ赤になって、興奮しているのがわかった。北村席の芸妓たちもそうだが、苦界に身を浸してきた女は次元がちがうと思えるほど無邪気だ。哀しみに満ちたこれまでの人生の中で、苦楽の尺度がふつうの人びととちがったふうに変形し、自分を常識で抑制しようなどという姑息な哲学や、世間的な思惑の入り組んだ内省の必要性など感じなくなってしまっている。だからこそ、子供のように魅力的で朗らかな、一風変わった言動ができるのだろう。こういう女たちに囲まれて育ったカズちゃんも、まったく同じだ。
 敷いてあった蒲団に並んで倒れこんだとたん、トモヨさんはもどかしそうにスカートとストッキングを脱ぎ、唇を寄せてきた。私は深く吸い、左手の利き指を使う。唇を吸ったまま彼女の呼吸が荒くなり、私の口の中へせっぱ詰まった息を吐いて果てた。ふるえている脚を拡げ、じゅうぶん濡れた空間へ挿入する。
「あ、気持ちいい、すぐイキます」
 正常位のまま抽送して何度か果てさせ、空間の緊縛に耐え切れなくなったところで裏に返す。
「たくさん出すね」
「はい、ください!」
 グイと突き入れ激しく往復する。快感だけではなく、愛情を注がなければならない。でなければ、けっしていい子は生まれないという平凡な確信がある。
「はい、ああ、気持ちいい! 強くイキます、あ、イ、イ、イ、イク!」
 繰り返される強烈な緊縛の中ですぐに射精がやってくる。
「イクよ、トモヨ! 受けて」
 トモヨさんは頭を低くし、尻を突き上げて構えた。さらに抽送を速める。
「ください!」
「イク!」
 強く放出する。腹を両手で引き寄せ、何度も突き入れる。
「気持ちいい! うれしい、イク、イクー! 郷くん、好き、愛してます、あ、あ、イックウウウ!」
 収縮を繰り返す腹を掌で支えながら、イメージできない赤ん坊の顔を思い浮かべる。トモヨさんのからだがようやくうつ伏せに沈んでいく。汗の吹き出ている背中を撫ぜる。
「愛してます、死ぬほど」
 トモヨさんの背中が言う。
「ぼくも、心から愛してる。こんなに感じたんだから、愛にあふれた子供が生まれるよ」
「はい」
 仰向けになり、赤い顔で私を見つめた。
「……幸せな子に育てます」
「少し寝てたほうがいいね。しっかり奥へ入るように」
「だいじょうぶです。入りました。わかるんです。シャワーを浴びましょう。汗びっしょり」
 からだを流し合い、散髪したばかりの頭を洗う。用意してくれた下着をつけてコーヒーを飲む。
「北村席と同じメリタでいれたんですよ」
 トモヨさんはパンティだけを穿いている。胸がカズちゃんより少したるんでいる。そのほかはまるきり同じだ。
「和子さんとそっくりだと思ってるんでしょう。いっしょにお風呂に入ったことがあるんだけど、二人で驚いちゃいました。あんまり似てるんで」
 近寄って乳首を吸う。トモヨさんはやさしく頭を撫ぜた。
「かわいい人……」


         十七

「寺田康男って知ってる?」
「え? ああ、松葉会の大将さんですね。和子さんから聞きました。すばらしい人柄のかたで、中学校の校庭で再会したお話、涙が止まらなくなって……。いま大阪のほうにいらっしゃるんですってね。寺田さんと会えるときは、私にも会わせてくださいね」
「名古屋に転校してきたことをいまから松葉会に報告にいこうと思うんだ。きょうは康男に会えないけど、こちらに出てきたと会に伝えて、お兄さんの口から康男の耳に入れておきたいんだ。……いっしょにいく?」
「いきます! 和子お嬢さんもお会いしたって聞きました。ぜひ、私も」
 ワイシャツにしっかり学生服を着る。トモヨさんは紺のスカートに紺のセーター、その上に赤の半オーバーをはおった。
「タクシーでいこう」
「能楽堂の前から拾えます。初乗り百円だから、いくらぐらいかかるのかしら」
「心配しないで。ポケットにいつも何万円も入れてるから。カズちゃんや飛島の人たちが使い切れないほどくれるんだよ。カバンの底に、もういくら入ってるかわからないくらいだ。トモヨさん、困ってない」
「ぜんぜん。じゅうぶんなお給金をもらってますから」
「本やレコードをせっせと買ってるんだけど、なかなかなくならない」
「郷くんにお金の苦労なんかだれもさせたくないんでしょう。足りなくなったら、私にも言ってください」
「うん」
 広い通りに出てタクシーをつかまえ、運転手に熱田神宮と告げた。
「お城の前を流れてるこの川は何という川ですか」
「堀川やが」
「え! 熱田区を流れてるあの堀川ですか?」
「ほうよ。浄心の北を庄内川が流れとるんやが、そっから分水してずっと南へくだっていって、名古屋港へ流れこんどる。この川沿いを真っすぐいけば白鳥(しらとり)に出るわ」
「白鳥って、白鳥古墳とか白鳥小学校の?」
「そう」
「じゃ、宮中学校は」
「その前を走る道やが、この道は」
「驚いたなあ! じゃ、宮中の前までお願いします」
「ほい。名古屋城から七キロやで、信号で止まっても二十分ちょいや」
 熱田区がそんなに近いとは知らなかった。運転手にいま何時かと尋くと、十二時半だと言う。
「トモヨさん、宮中を見てから、光夫さんに会って転校の報告をして、それから神宮をゆっくり回れるよ。洋食屋でエビフライ食べて帰ろう」
「はい!」
「エビフライなら、日比野市場の鮮魚センターがうまいで」
「伝馬町あたりの、ふつうの洋食屋にします。教えてくれてありがとう」
 走るにつれて堀川端の並木の種類が変わっていく。常緑、紅葉、裸枝。
「堀川はいいなあ。白鳥あたりになるとインク色になって、くさいにおいがしたりするんだけど。それでも、なんかいいなあ」
 私にはこういう感懐がすべてだ。それを吐き出すことで生きている。愚かな精神にありがちの感傷だ。私にはそれ以外のことは何もわかっていない。わかろうとしても、わからない。その事実が、私の心に一つひとつ蓋をしていく。私は、この世のささやかなものに感動する自分の愚鈍さを絶えず意識している。カズちゃんや山口は、それをすばらしい天賦だと言って慰めようとする。
 ―おまえの気づかないのはその眼の表情だ、おまえの眼はじつに美しくて、情熱的な魂をよく映している、だから無意味なものにも美しい意味を与えられるんだ、それこそおまえの才気の閃きだ、まぎれもない偉大さの証拠だ。
 山口はこうも言った。
「おまえはかならず名声を得る男だ。おまえの目を見るとき、あらためて認識するのは、名声のスピリチュアルな側面だ。単に有名なだけでない理由を知りたくなる。おまえのとった姿勢、議論の理由―」
 彼らは私の極端な無知を、寛大な心や、高尚な魂や、人間らしさに結びつける。しかしそういう心や魂が感銘すべきものは、きっとほかにある。揺れる葉や、くさい川面や、一直線に伸びていく白球ではない。
 運転手の言ったとおり、宮中の正門に出た。千四百七十円と言うので、二千円を渡して降りる。
「ちゃんとオツリを受け取らないとだめですよ。運転手さんが、あかんあかん、て言って私によこしました」
「お金を手のひらに受け取るときって、恥ずかしいような、さびしいような気持ちになるんだ」
 保土ヶ谷を思い出している。材木を浮かべたインク色の水面がのろのろ動いている。柳の並木が揺れる。宮中の正門の前に立つ。四角い白パネルに名古屋市立宮中学校。ローマ字の校名も添えてある。
「大きな中学校ですね。あら、関係者以外入っちゃいけないって書いてあるわ」
「関係者って何だろうね。開放門のくせに、面倒くさいな。いこう」
 白井文具店から大通りに出る。本遠寺を正面に見て道を渡る。
「通学路だった道だ。飯場からここまで一キロ半。二十分くらい」
 トモヨさんは本遠寺の杜を見上げながら歩く。初めて髪型に気づく。ロングヘアーの印象だったが、短いセシルカットだった。カズちゃんは肩までの髪をポニーテールにすることが多い。
「トモヨさん、髪、セシルだったんだね」
「何ですか、セシルって」
「女優のジーン・セバーグの髪型。短い髪。セシルの意味は知らないけど」
「ふうん。あら、郷くん、シャワー浴びてから櫛を入れてないのに、髪が格好よくまとまってる。頭の形がいいからね」
 一つ目の辻を曲がって、松葉会の玄関前に立つ。スーツを着た警護の男たちが立っている。中の一人が私に気づき、歩み寄ってくる。肩から先に歩くのは、攻撃的で俊敏な性格か、柔道や空手のような武道にいそしんでいる人間に共通している癖だ。ヤクザ者の動作はそれよりももっと先天的なものに近い。
「神無月さん! 先回は失礼しました。北村の姐さんも失礼さんでした。わたくし、舎弟頭の××と申します。きょうは、何かご用で?」
 四十を越えていると思われるのに、身のこなしにどこか若々しいところがある。
「若頭と寺田光夫さんに会いにきました。いらっしゃいますか」
「カシラと顧問ですね。はい、おります。ちょっとお待ちください」
 トモヨさんがもじもじしている。
「カズちゃんとまちがってるみたいだね」
「ふふ、そっくりだから」
「あとでちゃんと言うね」
「まちがったままだと、いろいろ不都合ですものね」
 一分もしないうちに××が走り戻ってきて、
「ささ、どうぞ! 人目があります」
 と玄関土間へ導く。式台に二人の男が立っていた。ワカが、
「神無月くん! なつかしいね。まあ上がりなさい。北村さんもどうぞ」
 光夫さんが私たちに最敬礼した。
「あの、この人は北村さんじゃなく、北村席で賄いをしているかたです」
「ナワテ、トモヨと申します。北村のお嬢さんにはかわいがっていただいています。きょうは、神無月さんのお供でついてまいりました。外でお待ちします」
「いや、遠慮せずに、どうぞ。それにしてもよく似ていらっしゃる」
 奥の離れではなく、広い居間に通された。紫檀の違棚に香炉が置かれ、刀剣が飾ってある。床の間の軸は、賛の入った古雅な山水図だ。組員を鼓舞する額は掲げていない。
 大テーブルの上座にワカが坐り、脇に光夫さんが控え、下座に二列、幹部の男たちが並んだ。なつかしい面々が全員いた。光夫さんが、
「神無月くんと、お目付役のナワテさんだ。神無月くんは昨年の夏に執行以下何人かがお会いしとるそうやし、この夏にも新聞で大々的に噂になった人だから知ってるだろう。あらためて言うまでもなく、私の愚弟の友人であり、かつ大恩人だ」
 彼らはいっせいに頭を下げた。ワカが、
「若衆に野球好きがいて、神無月くんの近況をときどき知らされておりました。名古屋に戻ってくることもね。やはりきみは野球の天才だったんですね。あのときはほんとうに失礼なことを申し上げた。勘弁してください。しかし、何よりも、退きぎわがすばらしい。頑迷な母親に義を尽くしていったん野球を休止し、ひそかに勉学一途の学生生活を送りながら捲土重来を期す―なかなかできることじゃない。その年で、人の何倍も苦労して生きてきたからこそできることだ」
 ビールと刺身が出た。トモヨさんには茶と菓子が出た。
「で、いまは?」
「西区の名古屋西高校というところに転校して、勉強の日々を送っています。中村区の建設会社で母が賄いをやってるんですが、そこの寮から自転車でかよっています」
「そうか、ここまで譲歩したうえで、お母さんといっしょに暮らしてあげてるのか。たいへんだね。……きみたち親子は相容れない性質だと感じましたから」
 私はビールを半分飲んだ。すぐに脇からつがれた。
「神無月くん、少しだけにしておきなさい。またお母さんに乗りこまれたらたいへんだ」
 男たちが和やかに笑った。この世界には、せかせかした態度とバカ声というものがない。私は光夫さんを見て、
「光夫さん、ぼくが名古屋にいることを康男に伝えておいてください」
「伝えます。あいつは大阪を一年で切り上げ、まだ修業が足りないと思ったので、つづけて東京の支部へやりました。池袋におります。しばらくしたらそこから浅草の本部へ回して、来年の秋にこちらに戻す予定です。そのときは会いにきてやってください」
「はい。彼の脚はどんな具合ですか」
「ご親切にありがとうございます。少し引きずる程度で、生活をするのに支障はありません。修業のおかげで肉がついたんでしょう」
 男たちがビールをつぎ合いはじめた。ワカのすぐ下座にいたなつかしい一文字眉が、
「あの三吉のクサレに付きまとわれとった看護婦は、どうなったんかいな」
「青森へ流されて以来、会っていません。別れの手紙がきました」
「あんたに惚れとったみたいやけどな。別れたがる女はカスや。一度惚れたら、男といっしょに死なんとあかん」
 鉄板のようなからだにやさしい微笑を浮かべた。別の一人が、
「母親に便乗して神無月さんを連れていった小デブの教師がいたやろ。まだそこの中学校におるんかいな」
「たぶん」
「あの男やろ、あんたを青森へ送ったのは」
「送ったのは母です。強く反対して、引きとめてくれる人たちがいませんでしたから……。母と学校の総意だったと思います。もうこだわりはありません」
 ワカが、
「いい道草食ったね。そうしなさいという天命だったんだろう。よく戻ってきた」
 トモヨさんが、
「郷くんはこの人柄ですから、北村のみなさんから愛されています。お嬢さんを含めて、郷くんに会うことができたのは私たちの幸運です」
 光夫さんが、
「北村の娘さんと神無月くんのつながりができたのは、どういうところからですか」
「母のいた西松建設の飯場で、彼女は社会勉強のために下働きをしてたんです。それ以来です。その後も、こまごまと面倒見てくれてます」
 ワカが大きくうなずき、
「神無月くんの不遇を見かねたんやな。あのオヤジさんと女将さんの娘なら不思議やない。徳が立っとる。北村さんとは古い付き合いだ。今度の新開発の話でも、陰ながら力を貸そうと思っとる」
 トモヨさんに視線を移し、
「ナワテという苗字は、京都や奈良に多いが、そちらの出身ですか」
「いいえ、秋田です。県の中にも一軒か二軒しかない苗字だと聞いてます」
「奈良の縄手村がルーツだから、流れ流れていったんでしょうな。由緒ある名前です」
「ただの百姓です。由緒だなんて」
「……ええお人や。神無月くん、大事にしてやり」
「はい!」
「素直な男や。底が知れん」
 わいわいと笑い声が上がった。トモヨさんは赤くなってうつむいた。私は残りのビールを空けた。もうつぎ足されなかった。刺身を一切れつまんだ。うまい赤身だった。若衆が何人かで、うなぎの重を運んできて、全員の前に置いた。
「さ、めしだ。みんなやってくれ。神無月くんもナワテさんも遠慮なく。みんな、この美丈夫をよく見ておきなさい。男の中の男だ。自分の人生おっぽらかして友人に尽くした男だ。神無月くんから助けを求められたら、すっ飛んでくんやぞ」
「オーイ!」
 トモヨさんは頬を真っ赤にさせて驚いている。私が箸をとると、恐るおそる自分もとった。男たちが揃って箸を使いはじめる。ワカも光夫さんもうまそうに食っている。若衆が茶をついで回る。宮宇よりも焼きの通った濃厚な味だった。
「光夫さん、ギターは相変わらずですか?」
「は。店も三軒にふえました。一日に一ステージずつ回っとります。弟の好きな小林旭じゃないが、ギターを持った渡り鳥ですよ」
「いつか機会があったら、お店にいきます」
「そんなことをしてたら、あのころの生活に戻ってしまいますよ。ヤクザ者には助けを求めるだけにしなさい」
 ほうぼうから好意的な笑いが上がった。
 うなぎがうまいので、二人ともあっという間に平らげた。男たちはそれよりも早く箸を置いていた。長居をしてはいけない。彼らの一日も予定でいっぱいのはずだ。光夫さんは私の気持ちを読み取って、
「神無月くん、忙しい中わざわざきてくれて、ほんとにありがとう。そろそろミコシをあげたほうがいいでしょう」
「そうだな、いつまでもお引き留めしちゃいかん。今度、執行の弟が戻ってきたときにはもっと盛大にやりましょう。いやほんとうに、きょうはありがとう。帰るのに足が必要ですか? うちの者に送らせますが」
「いえ、熱田神宮に寄って散策してから、適当に帰ります」
「わかりました。みんな、お見送りして」
 男たちが真っすぐ立ち上がった。ワカを中心に据えて、静かに廊下をいく。光夫さんの背中が私たちの前に立った。私は、
「若頭さんのお名前は何というんですか」
「牧原と申します。正確には、松葉会支部、牧原組組長、牧原忍です。お見知りおきください」
 警護の若衆が履物を揃える。何人もの男たちが直立不動で玄関に控えている。トモヨさんと二人で歩み出すと、
「ご苦労さんです!」
「ご苦労さんです!」
 最敬礼する。振り返りながら道をいく。辻を曲がるまで全員頭を下げたままだった。
「さよなら!」
 曲がり角で手を振ると、一瞬彼らは頭を上げたが、ワカと光夫さんに倣ってもう一度からだを折った。


         十八

 本遠寺前のゆるやかな坂道を歩きながら、トモヨさんは、
「夢を見ていたんでしょうか」
「そうだね」
「郷くんて、ああいう人たちも感動させたんですね」
「カズちゃんも山口も同じことを言ったけど、世間知らずが熱に浮かされていると、その熱が意外な人たちにも伝染するんだよ。その馬鹿を助けてやろうとしてね」
 伏見通りから神宮西門の前に出る。
「この門は観光バスが停まるから正門だと誤解されてるけど、正門はあそこを左折したところにあるんだ。正式には南門」
 滝澤節子に手を振った鳥居のある門だ。さびしさが胸を満たす。どうしてもこの杜を忘れることができない。南門へ回る。
「ちょっと、トイレいってきます」
 トモヨさんは南門の左手に公衆便所を見つけて飛んでいった。私も早足であとを追った。ビールのせいだ。便所の窓の外に花のない椿の木が立っている。太郎庵椿と標札が立っている。便所の脇の古い建物が太郎庵なのかもしれない。その右手に緑青を噴いた屋根が四つ重なり合っている建物があった。軒に白い提灯を一つ垂らしている。別宮八幡宮と標示があるので、本宮はこの参道の突き当たりの社殿のことだろう。それらを眺めながら、ふくらんだ膀胱を萎ませる。
「ごめんなさい、いきましょ。やっぱり、松葉会のみなさん、恐ろしい雰囲気でした。トイレで思い出して、ブルッときました」
「女と男のちがいかなあ。ぼくはわくわくする。いちばん最初からそうだった」
「性格のちがいだと思います。和子さんはわくわくしたでしょうね。私は少し臆病なのかもしれない」
 大鳥居を抜け、長い参道を歩く。左右の林の緑が押しかぶさってくる。小橋を渡る。橋の半ばからもう一つの小橋の向こうを指差す。
「南神(みなみしん)池。千年小学校の絵の大家、横井くんが描いた池だ」
 警備員小屋を通って、宝物殿に向かって伸びる道から、左手の西門を指差す。大きな鳥居の向こうにバスが何台か停まっている。
「あの門の右手に又兵衛小屋というのがあって、そのそばに、ふつうの一戸建の小屋があるんだけど、それが中学時代の友人モトヤマくんの勉強小屋だ。そろそろ彼も神官の職に就くのかな。それ、手水舎。柄杓が汚いから飲まないで」
 大楠。ここに腰を下ろしたのは、たった二年前の秋だ。
「この長い塀が信長塀」
 ならずの梅を右手に見ながら社殿までくる。
「うわァ、立派!」
「本宮。明治の中ごろまでは尾張造だったけど、それ以降は伊勢神宮と同じ神明造。どちらの造りもどんなものなのか、ぼくはぜんぜん知らない。写生大会のときにそう教えられただけ。左に見えるのは祈祷殿。本堂には草薙剣、本殿には熱田大神が祀ってある。両方とも見たことがないので、どういうものかやっぱり知らない。こういう、知りもしなければ、イメージさえしないことを活字で克明に覚えているのは、だいたい馬鹿なやつの特徴だ。名前だけで実体を知らないのは、まるで活字が羅列されてるだけの教科書に満足してるのと同じだからね。だから活字はおばかさんの〈お勉強〉で、実体を学んだりイメージしたりするのはお利口さんの〈学問〉ということになる。ぼくはどちらにも興味がないけど、カズちゃんの博識には興味がある。カズちゃんはお利口さんだけど、知ってることを語る姿勢が透き通ってる。ああいうのを本物のインテリと言うんだと思う」
「それと山口さん」
「うん。その二人にかぎらず、自分の欺瞞と曖昧さを許さない人ならみんな。トモヨさんも、北村席の人たちも、きょう会ってきた松葉会の人たちも、みんな」
 トモヨさんは私の手を握り、
「郷くんの言うことを聞いていると心が和みます」
「おたがいにね。さ、帰ろう。この林の奥には、絵馬を奉納する社とか、神楽殿とか、よくわからない建物がいろいろあるけど、もう飽きちゃったね。この玉砂利と森を見ればじゅうぶんだ」
「はい」
 もう一度正門を出て、伝馬町へくだる。車の往来が激しい。トモヨさんが溌溂としている。半日二人きりで行動したせいだ。私を見上げる顔がハッとするほど美しい。慎ましやかで知的な美しさだ。深々とした精神を示す美しさだ。二十年も春をひさいできた女とは思えない。思わずうれしくなり、私は口数が多くなる。語るのは、いつもと同じ、牛巻病院まで走った話だ。カズちゃんに語り、山口に語った、けっして語りやめない話だ。トモヨさんは私が息を切らして走った伝馬町の大通りを右から左へ見通した。
「ほかの日曜にも西の丸にいくようにするよ」
「それは……」
「都合がついたときだけね」
「はい」
         † 
 ふだんの勉強は、数学と古文しかやらなかった。英語と現国は、ふだんも、試験前もいっさいやらず、理科と社会は、半月に一度の小試験の一週間前だけ徹底して暗記した。
 眼が疲れると、夜空を眺めるためにシロを連れて散歩に出た。三島由紀夫が神の装置と言った星空を見上げる。だれの運命もこの星空の下ではまったく同じものだと感じた。人生の幸福も不幸も無意味も、あの星空につながっているのだ。
 週日の学校帰りに中村図書館に寄り、ドラゴンズ選手のメモを継続した。服部受弘、野口明、坪内道則、杉浦清、原田督三、とつづいた。
 バルザックやドストエフスキーの全集を借り出し、作品の制作年表を作って丹念に読んでいった。流謫のころから中断していた言葉ノートを復活させた。いのちの記録は三冊目に入っていた。
 翌週の日曜日の朝、わざわざ私がめしを食っているときに、母が大沼所長に訊いた。
「担任の先生から、警告みたいな電話がきたんですけどね。実力試験だけは一番だけど、そのほかのテストとなると百番台から三百番台になる、功利的な考え方をしているのではないか、こういう態度でいると内申は言うまでもなく、実際の入試も危うい、と言うんです。受験のとき内申書が悪いのは、どういうものなんでしょうね。ふだん学校では、授業中に本を読んでいることが多いそうなんですけど」
 所長は大股開いてめしを噛みながら、母に笑いかけた。
「佐藤さんの掌の中で自由にやってるだけですよ。実力テストが一番なんだから何の心配もない。入試では内申書なんてものは無視されますよ。軽視じゃなく、無視。卒業の可否を見るだけで、ぽいとシュレッダーだ。通知表の平均が二とか三で東大に合格した友人も何人もいる。それより、キョウのように大いに読書するほうが根本的な実力に結びつくんです」
 三木さんが、
「実力試験は一番か。俺なんか、何の試験でも一番なんか取ったことないぞ。東京経済大学は、俺には上出来の部類だ」
 飛島さんも、
「同感。ぼくも一番になったことはありません。エスカレーターですから」
 と、いつものように頭を掻いた。
「おいおい、亜細亜大の俺はどうなるんだよ。高校の成績なんざ、いつも下っ端だったんだぜ。大学はトコロテンだ。それでも飛島に入れたんだから、おまえらに悪いみたいだな」
 山崎さんが天井を向いて笑うと、チビの佐伯さんが、
「ぼくは高卒です。おかげで建築士の二級を取るのも、青息吐息です。いいなあ、キョウくんは、根っから頭がよくて。将来が楽しみですね、おばさん」
「さあ、どうなんですかね。将来よりもまず、目先の大学に受からないと」
 私が箸を置いたのを見て、
「郷、お風呂洗いなさい」
「うん」
「よっしゃ、手伝おう」
 三木さんが立ち上がろうとするのを私は止め、
「いいんです、三木さん。キュッキュッと音がするまで洗うのが気持ちよくて、けっこう趣味的に時間をかけちゃいますから」
「そうか。じゃ、あとでキャッチボールの相手をしてくれよ」
「俺も」
 山崎さんが箸を上げる。母は眉間にシワを寄せてうなだれた。
「はい。そのあと図書館へいきますから」
「わかってる。好きなだけガリガリやってくれ」
 風呂を洗ったあとで、三木さんたちと岩塚モーターズの前の路上でキャッチボールをする。軽い軟式ボールを、手首だけで山なりに投げ返す。二人のグローブさばきが心もとない。山崎さんが、
「もっと強くていいぞ」
「じゃ、あと十球ぐらい、きちんとキャッチボールしましょう」
「おう」
 二十メートルほどの距離をとる。大沼所長と飛島さんと佐伯さんが見物に出てきた。シロまで食堂から出てきて、門扉のところに腰を下ろして眺めている。肩の回転を意識して、やはりゆるく投げる。球筋が低くなる。二、三球で三木さんの表情が変わってきた。佐伯さんはあわてて、
「やめたほうがいいよ、怖いな」
 山崎さんが、
「おいおい、だらしないぞ。さ、こい」
 七分の力で投げてみた。山崎さんのグローブを弾いて胸に当たった。
「すげー! シューッてきたぞ。とんでもない肩だ。うちのチームのピッチャーよりはるかに速い」
 小笠原とやったように全力で投げると、受け損なって顔に当たりそうだったので、やはり七分の力で、今度は腰を回転させて投げた。ヒャーッ、と叫んで三木さんがからだごと避けた。ボールは堤防の裾の草むらまで転がっていった。すたこら走っていく。うれしそうな背中だ。シロものろのろ追いかけていく。
「すみませーん!」
 呼びかけると、三木さんは走り戻りながら、
「いいんだ、いいんだ、おっかないくらい速くてさ」
「俺にもこい!」
 山崎さんが構えた胸もとのグローブへパーンと突き刺さった。
「痛ッてえ!」
 グローブを外して手を振っている。飛島さんが、
「キョウくん、それ、全力で投げてないだろ」
「軟式を全力で投げると、肩を抜いてしまいますから」
「これで全力でないのかよ。まいっちゃうなあ。よし、今度は素振りを見せてくれ」
 山崎さんが風呂場の脇の倉庫から軟式用のバットを持ち出してきた。四回、五回、思い切り振った。
「うへ! すごいな。ブン、ブンて音がするぞ。そんなやつ、うちのチームに一人もいないな。さすがホームラン王だわ」
 もう一度振ってみせる。三木さんが、
「わかった、わかった。もうじゅうぶんだ。でも、ときどき、あのゆるいやつでキャッチボールしてくれよ」
「はい、ぼくも運動になります」
 腕組みして見物していた所長が、
「プロ級の人間というのはすごいもんだな。……休んでるのがもったいない」
「ここまですごいと、つまらない虚勢を張らなくてすむよね。とってもさわやかな感じがする」
 と飛島さん。佐伯さんがしきりにうなずく。
「会社の試合にも出てみたい気はしますが、一試合というのは長丁場なんで、ふだん練習してないとスタミナがもちません」
 所長が寄ってきて、私の腕を何やら確かめるように触りながら、
「キョウ、ほんとはいますぐプロにいきたいんじゃないのか。毎日無理してないか」
 顔を覗きこむ。山崎さんが、
「実際、こんなものすごいものを見ちまうと、ほんとにキョウちゃんの東大志望にうなずいてていいのかなって思っちまう。な、飛島」
「いや、キョウくんが決めたことですよ。尊重しましょう。もう気持ちを切り換えて走り出したんですから」
 佐伯さんがまたうなずいている。
「そうだな。よし、風呂だ」
 三木さんの一声で、みんなゾロゾロと朝風呂に入りにいく。佐伯さんの背中がしょんぼりしていた。所長がいつまでも私の腕を握ったまま動かない。
「ぼくは無理してませんよ。ご心配なく。ときどきこうやって、むかし取ったなんとやらで、褒めちぎられるというのもまたオツなものですね」
「……しかし、受験ごときで、この天賦を腐らしてしまっていいものかな」
 大沼所長は、私という野球に長けた人間が、むざむざ旬の数年を棒に振って〈受験ごとき〉に没入する愚を訝しく思っている。私が東大に受かればその疑惑は消えるだろうか。消えないだろう。ましてや受からなかったときには、受験ごときにかまけて野球を遠ざけた私の分別のなさを口惜しく思い、憐れみの針が最大に振れるのだ。
 権威や権力と才能を比較して、才能に分なしと決定する人は多数派だろう。土橋校長や大沼所長や、山口やカズちゃんのように、分ありとする人のほうがたとえ少数派だとしても、母のような多数派の切実な信念に正面切って逆らうことをしなければ、才能は生きる方途を失う。だからこそ、少数派の彼らは不自由な境涯にある私に同情し、励ますしかないのだ。私はどちらにも分があると思っていない。私の中に天秤はない。ただ野球が好きなだけだ。野球は私の分際だけれども、東大は私の分際ではないとわかっている。でもいまの私は分際に合わないことをしながら、分際を手に入れる道へ踏み出すしかない。そのためには、あと一年と三カ月、この分際に見合わない日々をできるだけ楽しみながら、充実してすごさなければならない。
「心配してくれてありがとうございます。ぜったい野球の才能を腐らせませんから安心してください。じゃ、とっとと図書館へいってきます」



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