二十二

 十二月二十四日。二学期終業式。自転車通学の道々つづけてきた角川国語辞典の暗記が一とおり終わった。読書の最中に、いきあたりばったり、気に入った単語を拾って書きつける効率の悪い作業と平行して、肚を決めて始めたトレーラー式の学習だったが、塵も積もって山となった。何度か、あいうえお順にこんな無機的なことをして何の益があるのかと、ひどく心もとない思いをしたけれども、やり終えてみて達成感が大きいのに驚く。語彙の少なさのせいで思考が貧弱になることはまちがいないと信じて始めたことだから、達成感があるのも当然だ。この先ずっと本を読んだり、文章を書きつけたりしていくうえで、辞書をトレーラー式に暗記したという自信はかなりの向上欲を与えてくれるだろう。二度目の暗記はしない。達成感が薄れる。
 社員たちの寝静まった深夜に、庄内川沿いの土手道を走る。シロがかならずついてくる。初冬の風を頬に受けながら、路灯のまばらなアスファルト道をシロと並んで走る。草の土手に腰を下ろし、河原のグランドを突っ切ってくる風に吹かれる。シロも律儀に寄り添う。葦が揺れる。川面は暗く、きらめき以外何も見えない。二年前、よしのりといっしょに野辺地の暗い海を見たときもこうだった。
 引き返して寮の庭に立つと、明かりの点いている部屋が一つある。佐伯さん―きょうもああやって深夜まで勉強している。二級建築士。ただ一つの目標。私とは種類がちがうけれども、何かを達成しようと願って努力している志は同じだ。
 机に戻って、詩を書く。山口に贈るための詩を書こうと決めたので熱が入った。

  秋は暮れ
  乾き閉じこもった冬を迎えた
  きみとぼくとの 思い出の季節
  冬が好きだ 夜が長いので
  きみよ たしかにぼくは
  一ミリもたがわず 日日
  同じ場所にヒゲが生えるほどの つまらない男だ
  しかも動こうとする意図に反して
  その軌跡は寸分もあらたでない
  しかし きみよ
  いく夜さをかぎりに 友情を薄くしないでくれ
  きみの笑顔に諫められ
  ぼくの胸は ますますふくらむのだ
  きみにとめどない愚行を捧げ
  倦むことのない語らいのうちに
  生きのびたいと願うぼくは―


 翌朝登校の道で投函した。私はいっこうにヒゲが生えない男なので、山口は笑うかもしれない。
 二学期の終業式の日。体育館に整列して校歌を聞いた。教室で松田に順繰り通知表を渡された。
 西高で初めて受け取る通知表は、めずらしい十点評価で、英語・現国・古文・体育が十、数学ⅡBが九、物理八、化学三、日本史五、世界史二、平均評点七・八。化学と日本史と世界史のひどさは目を覆うばかりだった。
 二回行なわれた実力試験は、化学と世界史は平均点以下だったけれども、総合点は二回とも一位。十二月の中旬に一度だけ受けた河合塾・駿台提携の文系模試は、理科は生物と地学で受け、校内一位全国一○三三位だった。鴇崎が言うには、高二生では全国の三本指に入ってるんじゃないかということだった。もちろん通知表には加点されなかった。
 二十八日に年賀状を二十枚買ってきて、住所がわかるかぎりの人たちに宛ててせっせと書いた。深夜までかかった。こんなことに夢中になったのは生まれて初めてのことだった。
        † 
 一九六七年(昭和四十二年)になった。山口と西沢先生から年賀状が届いた。ここの住所を知っているはずの、ほかのだれからもこなかった。私の筆不精が大勢の人びとを落胆させた結果にちがいけれども、ミヨちゃんやヒデさんのように自粛している女たちもいたし、静かに暮らしたいという新聞の宣伝が効いているせいもあっただろう。いずれにしても、賀状の返しを出さなくてすむと思うと、心が安らいだ。

 おまえの詩をいつも胸ポケットに入れている。読み返しては泣く。俺は相変わらず秀才なるも、地位の維持はきつい。夢路はるかと覚悟する。

 名古屋西高の土橋校長より貴君の勉学好調の報告あり。ダンディな貴君には猛勉がよく似合う。諸事情を忘れて、けっぱれ。

 図書館が年末の二十八日から正月四日まで休みなので、そのあいだ外出できず、カズちゃんもトモヨさんも一回ずつお休みした。飛島寮の人たちはたっぷり義捐金をくれた。西松の社員たちとちがってお年玉という形ではなく、正月前に支援金という名目で茶封筒に入れた十万円を差し出した。彼らは十二月三十日までにふるさとへ帰っていき、一人も寮に居残らなかった。
 母が雑煮を用意した。母が節季ものを作るなど幼いころから一度もないことだった。味は野辺地よりは多少マシだったが、カズちゃんにはとうてい敵わなかった。沈黙がやってくる。二人きりでいるのが気詰まりだ。母は、私が眼に見えて居づらそうにするのに気づいて、心を悩ましているようだった。こういう態度がけっして遠慮から生まれたものでないことを知っているからだ。仕方なく母が会話を始める。
「こんな落ち着いた正月、初めてだよ」
 私は波風を立てないように応える。
「横浜では、どうしてたかな」
「寝正月だったね」
 母は思い出している。私も記憶の糸をたぐり寄せる。小さな私が、どこかへ出かけることもなく、母と同じように寝転がって、漫画を読んでいる。
「サイドさんの家にいったことはあったっけ?」
 会話の間を繋ぐために、あえて尋く。
「さあ、なかったと思うけど。英夫のところには一度ぐらいいったかもしれないね」
 正月に横浜から青梅へいった記憶はなかった。
「みんなとすっかり疎遠になっちゃったね」
「それぞれ生活があるから」
「じっちゃ、ばっちゃに、手紙を書かなくちゃ。年賀状は書いたけど……。名古屋にきてから彼らに一度も手紙を書いたことがない」
「そうかい。仕方ないよ。向こうからはしょっちゅうくるから、かえって億劫になる。老人は手紙を出したがるから。忘れてほしくないんだね。さびしいね」
 まともなことを言う。
「じっちゃは、よくハガキをくれるし、ばっちゃもいっぺん手紙をくれた」
 じっちゃの顔を思い出す。彼は独特の相貌をしていて、一見のっぺらぼうに見えるけれども、口を利くうちにいろいろな要素が入り混じって気難しいふうに感じられてくる。機嫌を損なうと怒りを抑えることを知らない顔にも見える。おまえの顔は、じっちゃそっくりだ、と椙子叔母に言われて喜んだことがあった。眼に力のある彼の面貌の中に、過敏な神経を辛抱強く抑えた悍気を感じ取っていたからにちがいない。私に共通するものだ。
「おまえのことが気に入っているんだろう。小さいときからそうだった。かあちゃんを叱ったときの形相はすごかったからね。せいぜい、いい手紙を書いてあげたらいい」
「うん」
 母の邪気が休止期に入って、しばし凪いでいる奇跡の期間だと思おう。
         †
 一月五日木曜日。
 あと四日で三学期が始まる。二学期の英単語を総復習するために、昼から中村図書館に出かける。陽は照っているけれども、顔に当たる風がひどく冷たい。年に一度ぐらいしか降らないと言われている雪がきのう降ったので、消え残っている雪を見ようと思って中村公園に寄った。雪はなく、茶色い鳥居につづく参道が、何の風情もなく林の陰で濡れているだけだった。でも道に新しい顔がある。見知らぬ風景を楽しもう。道が好きだ。できれば長い道がいい。
 自転車を牽いて、簀子垣や古びた小橋などを眺めながら歩く。水溜まりのような池があり、子供用の公園がある。その細長い小さな一画に粗末なブランコや遊動円木があり、桜の古木がそのかたわらから突き立っていた。湿った土に枯葉や枯枝がめりこんでいる。
 図書館の勉強を昼で切り上げ、自転車に跨った。
 トモヨさんのマンションへ向かう。抜き打ちに寄ったので、トモヨさんは玄関に出迎えなかった。びっくりするかなと思いながら、エレベーターで昇る。ドアチャイムを押す。ハッと気づく。この時間は北村席にいるに決まっている。思わず笑った。カズちゃんの家には回らず、中村図書館へ戻るつもりで笹島へ出て、市電と何度も行交いながら太閤通を中村公園へ向かう。
 大門の停留所を通りかかったとき、滝澤節子に似たような横顔の女が、反対側の通りの辻を曲がっていくのが見えた。髪を巻き上げ、淡い臙脂のミニスカートに黄緑のセーターを着ている。風呂桶のようなものを抱えていた。
 ―まさか!
 ドクンと心臓が拍った。私は通りを渡り、女の曲がっていった辻で自転車を降りると、ハンドルを支え持ちながら五十メートルほど先の背中を追っていった。チョコチョコと外股で歩く爪先に覚えがあった。まちがいなかった。彼女は道をもう一曲がりし、しばらく歩いて民家のあいだの空地へ入っていった。
 立木と潅木を散らした空地の前に立った。すでに女の姿はなく、二階建てのアパートが空地の外れに建っていた。墓場にたどり着いた思いだった。アパートに近づいていく。アクリルの屋根に覆われた鉄階段が貼りついていた。手すりが錆びている。
 自転車を空地に停め、階段の裾まで歩いていった。葵荘という板看板が壁に打ちつけてある。アパートの側面は、ヤツデの植わった小さな中庭に面していて、貧相な一本の棕櫚が二階のベランダまで黄色い梢を伸ばしていた。藤本今朝文のアパートにそっくりだった。一階の廊下を歩き、一、二、三、五と、四つの表札を確認する。滝澤という苗字はない。鉄階段を上っていった。六、七、八、十。十号室の戸柱に四角いボール紙の表札が画鋲で留めてあった。私はぼんやり一対の名前の前に立ち尽くした。

 滝澤文江
   節子


 眼鏡を胸ポケットから取り出してかけ、しっかりと確認した。急に背中から汗が噴き出してきた。どうしていいのかわからない。足もとからゆっくり沈みこんでいって、倒れそうになる。深呼吸し、あたりを見回した。しんとして、階段の上がり口から薄い光が射しこんでいる。
 ―このさびしい階段を上り下りして、節子は毎日この部屋を往復している。灰色の光、黒く湿った廊下、煤けたベニヤのドア。
 ドアの脇に小振りな水色のポリバケツが置いてあった。母子の生活の証だった。ドアに耳を寄せた。何も聞こえない。留守なのだろうか。ノックすることはためらわれた。私は息をつめ、身動きできないでいた。会ったら、節子は泣くだろう。目の前に立つ私は、彼女が葬った男だ。
 階段に足音がした。私はうろたえ、きょうのところは引き揚げようと決めた。私は近づいてくる人影に向かってお辞儀をした。風呂桶を抱えた四十格好の女だった。女はジロリと横目で私を見ると、洗い髪をいじりながら七号室に入った。
 カズちゃんのもとへ急いだ。自分が何をしようとしているのかわからなかった。とにかく、波立った心を鎮めようと自転車を漕いだ。漕いでいるうちに少しずつ興奮が醒めていった。
 カズちゃんはいつものように私にしっかり抱きつき、唇を吸った。
「木曜日なんて! サプライズね、うれしいわ。お雑煮炊いたんだけど、食べる?」
「うん」
 近いうちに起こるだろう滝澤節子との再会の印象がどんなものか、どうしても想像することができなかった。私は恐怖を覚えながら、その瞬間の私たち二人の表情を心に描いてみようと努めた。ただひとつ確実なのは、その再会の光景が重苦しく澱んだものになるにちがいないということだった。
 おいしい雑煮だった。二杯お替りし、もちを四個も食べた。カズちゃんも二個食べた。
「われながら上でき。鶏もおいしく炊けてた。あ、そうだ、パステルナーク読んだわ。原子林二郎という人の訳で、上下二巻本。伊勢湾台風の年に出た本なのね」
「二巻もあったのか」
「そう。キョウちゃんがもらったのはきっと上巻ね。ダッコちゃんもまだ読んでる途中だったんでしょう。大きな登場人物は四人。ぜんぶ象徴的な存在よ。ラーラは美の象徴、三人の男から愛されるの。ジバゴは自由な個人の象徴、キョウちゃんのように純真に行動する詩人よ。悪徳弁護士コマロフスキーは悪の象徴、ラーラの母親のパトロンでラーラの処女を奪った男。映画では描かれてなかったけど、ジバゴのお父さんを破滅させて自殺に追いこんだ男よ。革命騒乱の中で革命軍の赤軍に取り入って、ずる賢く生き抜くの。ラーラの夫である革命家のストレリニコフは、個人の自由を奪う者の象徴。赤軍の冷徹な指導者。革命運動の中でラーラと知り合ったみたいだけど、なぜ結婚したのかは謎ね。赤軍と白軍の軋轢のせいで、ジバゴとラーラという生木が裂かれる。と言うより、コマロフスキーの嫉妬と計略のせいでね。政体の変革と大義のためには人の命や愛など意味がないというストレルニコフの言葉に、ジバゴが、家族や愛が人生に意義を与える唯一のものだ、と反論するのがこの小説のテーマかしら」
「あんな難しい本をよくまとめられるね」
「パステルナークのノーベル賞辞退騒ぎのせいで、ロシア語の原本が手に入らなかったみたい。仕方なくイタリア語と英語を底本にして、ロシア文学者じゃなくロシア語に通じているだけの人が翻訳したから、訳が不完全だったのね。読みづらかったと思うわ。私もつらかった。結局ララは別れたあと、ジバゴの子供を産むんだけど、映画のプロローグで出てくるそれらしき女の子がブスすぎるのがちょっとね。革命後のジバゴが屍みたいに生きてるのもいやだった。いずれもっとマシな訳が出たら、映画を観るより本で読むほうがいいわね。とにかく、愛する人と別れるとロクな人生にならないということ。キョウちゃんがいつも言ってることは正しいわ」
「……中学校のときに、カズちゃんと結婚できてたらよかったね。そしたら何も面倒なことが起こらなかったのに」
「中学生じゃ無理よ。世間の法律が許さないもの。仮に結婚できたとしても、セックスだけに夢中になっちゃって、とんでもないことになってたわ。それに結婚なんかする必要ないでしょ。おたがい好きなら、形はどうでもいいの。いまこうしていられるだけで、わたしは本望。話は変わるけど、サマセット・モームが、こんなことを言ってるの。個人の性生活は、世の中に驚きと恐怖を感じさせるだろうって」
「女体の神秘を巧妙に隠した言葉だね」
「そうね、女は神秘的な食べ物ね。いろいろ食べて栄養をつけなくちゃ」
「食べ物かな」
「そうよ。どんどん食べて、栄養つけて、大きなからだにならなくちゃいけないわ。ただし、キョウちゃんが大好きな食べ物だけよ」
「大きなからだって、経験豊かなチンボのこと?」
「まさか。女にスケベったらしくかまけない心のこと。自分の好みの道を貪欲に突き進む心のこと。性欲を健やかに鎮めておけば、男は大きく生きられるわ。……遅くなっちゃったわね。お風呂に入って帰ってね」
「うん」


         二十三

 枕もとの時計が五時を過ぎている。カズちゃんは裸のまま風呂を入れにいって戻ると、
「二日経ったら土曜日ね。曜日を決めるのって、勉強のある身にはたいへんでしょう。これからは、曜日を決めないで好きなときにきて。学校帰りでもいいのよ。私やトモヨさん以外に〈食べる〉女ができたら、ひと月ふた月に一度だっていいし」
 と言って私を抱きしめた。
「カズちゃんの言うことは当たるからね」
「お風呂に入りましょ。そのあとで飛島寮まで送ってくわ」
 石鹸箱に泡を立てたり、湯に顔をつけて息止め競争をしたり、両掌で作った水鉄砲で湯を飛ばし合ったりして、二人カラカラ笑いながら長湯に浸かった。
 新しい下着に穿き替えた。
「お母さん、怪しがらない? トモヨさんも下着を用意するでしょう」
「寮に入ったときから、自分で会社の洗濯機回して、自分で干してる。部屋の中に紐を渡してね。会社の人たちもみんなそうしてる。おふくろとしては、へんなやつだなと思ってるんだろうけど、自分もラクだから放っとく。年ごろの恥じらいだとでも思ってるんじゃないかな。下着なんて似たようなものだから、まったく気にならないさ」
 カズちゃんは私が服を着ているあいだ、口を利かなかった。深い愛に満ちたその沈黙がうれしかった。
「こんなに幸せでいいのかしら」
 カズちゃんがポツリと言った。
「それはぼくが言いたい科白だよ。カズちゃんはぼくのすべてをいつでも受け容れてくれる。でも、ぼくはカズちゃんのすべてをきちんと受け入れてるとは言えない。ぼくより幸せのはずはない」
「キョウちゃんは私の心臓よ。心臓が動いてるかぎり、私を受け入れて世話してくれてることになるわ」
 自転車を牽いてカズちゃんと大通りまで出た。
「キョウちゃん。ほんとうに、いつもありがとう。勉強、がんばってね。いつでも待ってるわ」
 カズちゃんに手を振った。手を振る姿がだんだん小さくなっていった。
 自転車を漕ぎながら、とつぜん降って湧いたような滝澤節子との遭遇にまた思いをめぐらせた。あれほど驚いたのに、いまはほんとうに静かな気持ちでいた。会いにいくことに対する不安も、危機感も、もうなかった。
 ―どんなことだって、降って湧くのだ。生まれたことも、父と別れたことも、康男やカズちゃんに会ったことも、野辺地に流されたことも、みな降って湧いたことだ。せっかく自分目がけて降って湧いたものから身をよけてはいけない。滝澤節子は私を必要としている。
 三十分もしないで岩塚に着いた。こんなに近かったのかと思った。
         †
 ランニングと筋トレ、土曜日の素振りの日々がつづいている。
 一月九日月曜日。三学期の初日から、松田の姿はなかった。産休に入ったという話だった。今月に入って腹が目立って突き出してきたなと思っていたが、妊娠だったのだ。結婚していたとは知らなかった。最近の松田の顔を思い出した。何の快楽もない律儀なセックスの結果を仰々しく神棚に祀っているような乾いた眼をしていた。からだに深い快楽を蓄えていたら、もっと穏やかな視線が人間に長く留まり、しかも艶があるものだ。そんな道徳家も、型どおりにセックスをするというのが興味深かった。
 松田の代わりに名古屋大学を出たての安中という政経の教師が担任になった。ホームルームで、
「ぼくは映画が大好きなんです。いっしょに映画を観にいきましょう。おごります」
 と、せっかちな親睦を図っていたが、だれも相手にしなかった。授業になると吃音が出て、何を言っているのかほとんど聞き取れなかった。
 学校の帰りに、葵荘を訪れた。自転車の荷籠からカバンを抜き出して提げ、鉄階段を昇る。薄暗い廊下に冷気が沁みていた。十号室のドアの前に立った。四時から六時のあいだは図書館に寄ってドラゴンズメモを取る時間帯だった。その二時間のことが頭をよぎるほど、私は静かな気持ちでいた。
「滝澤さんにご用?」
 階段を上ってきた女に、声を出さずにうなずいた。先日の女とはちがっていた。
「いらっしゃるはずですよ」
 彼女は隣の八号室に姿を消した。人声を聞きつけてか、目の前のドアの内側から物音がした。私は心を決めてドアをノックした。
「はい―」
 聞き誤るはずがなかった。滝澤節子その人の声だった。
「どなたですか」
「……あのう、ぼく、郷です」
 一瞬ドアの向こうが凍りついたように沈黙した。冷静だったはずの心臓のとどろきが耳に昇ってきた。
「神無月郷です」
「…………」
「すみません、とつぜんお伺いして。……節ちゃんですよね」
「はい……」
 私はドアの向こうへ通るように、少し声を張った。
「ぼく、また名古屋に戻ってきました。先日、大門のあたりで偶然見かけて、失礼だと思ったんですが、信じられない気持ちであとをつけてきて、ここの表札を見つけました。そのときは、ドアを叩く勇気がなくて……あらためてきょう、こうして―」
 いますぐにもドアを開けるだろう節子の当惑した顔を浮かべて、精いっぱい表情を和らげた。ドアは開かなかった。
「会えません……」
 それきり部屋の中からはカタリとも音がせず、ドアは閉まったままだ。あまりにも思いがけないことが起きて、ドアの前で金縛りにでもあっているのだろうか。私は、数秒のうちに、何か致命的と言ってもいいくらいの、彼女の心のわだかまりを感じ取った。
「節ちゃん、ぼくは怨みごとを言いにきたんじゃないんです。あれ以来ぼくの人生が好転したことのお礼を言いにきただけなんです。ありがとうございました。もう、二度ときません。どうかお元気で、さよなら」
 踵を返そうとすると、部屋の中で人の揉み合う音がした。その音に滝澤節子の喉を絞った咽び声が雑(ま)じった。
「だめよ、おかあさん、ダメ!」
 母親がいるのだ。
「だって、わざわざ、こうやってきてくれたんやないの」
「いけないったら! キョウちゃんがだめになっちゃう」
 不意に寒々とした記憶が押し寄せてきた。名古屋駅のコンコースに吹きこむ雨が目に浮かんだ。それから、神宮の旅館にやってきた人びとのしかつめらしい面構えとともに、飯場に連れ帰られたときの、トウカエデに縁どられた舗道の荒涼とした風景がまぶたの裏をよぎった。
 わずかにドアが開き、切れ長の目をした色白の女の顔が覗いた。五十がらみの、髪に少し白いものの混じった、やさしそうな小太りの女だった。黒目に涙が光っていた。感情の細やかさや、生来備わった上品さが、黒く潤んだ目に表れていた。私はその目に笑顔で応えた。
「ようおいでたねえ。……さ、お入り」
 私はお辞儀をして、目を伏せたまま靴脱ぎに入った。女物の靴やサンダルが何対か、片隅に寄せて置いてあった。
「そう、あなたがキョウちゃん……」
 母親は何度もうなずいた。滝澤節子が部屋の真ん中にポツンと立っていた。厚手の紺のゆったりしたスカートを穿き、この前見かけたときと同じ黄緑のセーターを着ていた。どこか萎れた感じがしたけれども、色の白さも、頬の張りも、眼の釣り具合も、あのときのままだった。健康で快活な白衣姿―あの滝澤節子とまったく同じ女だった。私は靴脱ぎに立ったまま、彼女の小さな姿を眺めた。悲しさで胸が潰れそうになった。
「さ、さ、上がって」
 母親に言われて私は靴紐に目を落とし、節子に背を向けて框に屈みこんだ。紐に指をやったとき、彼女が嗚咽しながら背中に抱きついてきた。私はうろたえ、しゃがんだままじっとしていた。
 ―この気持ちを、どうカズちゃんに説明すればいいだろう。喜びでもなく、愛情でもないこの気持ちを。いや、カズちゃんには何も言う必要はない。
「大きくなったわ、キョウちゃん」
 背中に頬を当てている。私は沓脱ぎでうつむいたまま、彼女の、そして母子の生活のにおいを嗅いでいた。
「はよ、上がって、炬燵にお入り」
「はい」
 私は靴を脱いで、小さな框に立った。母親がカバンを受け取り、炬燵へ誘った。先に節子がその炬燵に入った。もう一度母親に勧められ、私は膝を擦るようにして小さな炬燵ににじり寄り、正座した。すぐ目の前に節子の顔があった。彼女の手が私の手に重ねられた。私はうつむいたまま、手の感触だけに注意を集めていた。
「おザブを当てて、膝、崩して」
 母親が座布団を押してよこしたので、炬燵には入らずそれを敷いてあぐらをかいた。
「狭い部屋でしょ」
 節子が言った。そんなことはどうでもよかったが、言われたので見回した。六畳の引っこみに一帖の台所がついているだけの、たしかに小さい部屋だった。一対の古ぼけた蒲団が畳んで壁ぎわに押しやられ、部屋の隅に塗りの剥げた文机が置いてあった。あまりにもみすぼらしいそのたたずまいに、胸の動悸が激しくなった。
「キョウちゃん、怖いぐらいきれいになった……」
「ほんとに、いい男やねえ」
 二人で見つめる。照れてヤニ下がる場面ではなかった。私はただ微笑んだ。手を重ねたまま節子が言った。
「青森には、どのくらいいたの?」
「二年足らず。野辺地中学校というところに転校して、そこから青森市の高校へいき、この夏にこっちの名古屋西高に転校するまで、野球と勉強をしてました。充実した二年間でした。節ちゃんにお礼を言います」
 私の声の響きは明るかった。節子にとっては、かえってそうした響きがじゅうぶん心を打ちひしぎ、罪の意識を呼び覚ましたようだった。彼女はすすり泣きながら言った。
「お礼だなんて。……ごめんなさいね、ひどいことしちゃって」
「節ちゃんのせいじゃない。ぼくが強盗みたいに節ちゃんの生活に押し入ったからだよ」
「恥ずかしいことしたわ。……浅野先生に問い詰められ、キョウちゃんのほうが私を誘ってきたって言ってしまったの。先生がそう言ってほしい雰囲気だったから。そしたら、寺田と神無月は宮中の癌だって。それであんな……恨まれてあたりまえ」
「恨むも何も、節ちゃんがそんなふうに問い詰められたとは知らなかった。あんな状況で脅されれば、自分の本心でないことも言わなければならないだろうね。……あの夜、浅野に詰め寄られたとき、節ちゃんはぼくの前に庇うように立って、私が追いかけてきただけだ、キョウちゃんには何の罪もない、と大声で言ったね。いまも忘れられない。ありがとう、節ちゃん」
 母親が目頭を押さえた。
「たまたま節ちゃんを見つけられてよかった。ようやくホッとした」
「でも、私、考えが足りなかった……」
 私は滝澤節子の手を握り返し、
「人間として守るべき一線をしっかり守っていた、そのことだけが大事だ」
「……私、あれから、キョウちゃんが青森に送られてひと月もしてからだけど、宮中気付で浅野先生に手紙を出して、ぜんぶ正直に打ち明けました。先生は取り返しのつかないことをしたことがわかったはずです。……返事はきませんでした」
 私はあぐらの膝に手をグイと突き、薄暗い天井を仰いだ。それで浅野は半年も経ってから、厚顔にも、奥山に懺悔状めいた手紙を書き送ったのだ。しかし、心がねじけていたのはそんな気ぶりすら見せなかった母のほうで、彼女はとっくに事実を知ったうえで、わざわざ、私を罵り、縁を切るために野辺地までやってきたのだった。


         二十四

 足もとが冷えてきた。私は立ち上がった。
「ときどき、顔を出します。今度きたときに、ゆっくり積もる話を聞かせてください」
 節子は私の手を引いて、もう一度坐らせた。
「……キョウちゃんにあんな手紙を出しちゃって。厄介払いができてよかった、それが本音だった、なんてひどい手紙」
 節子は何も忘れていなかった。彼女は私を見つめた。まだ二十三歳なのに、生活の疲れのせいで、四つも五つも上に見える。
「もしそれが本音なら、あの夜、ぼくを追いかけてなどこないよ。浅野に問い詰められて逆のことを言い出したとしても、それは不可抗力で、責められることじゃない。手紙もその勢いで書いたんだよ」
「ひどい女……許されない」
 滝澤節子のつらそうな態度はなかなか解ける様子がなく、私にはそれがあまりにも哀れに見えた。私に当てる虚ろな視線が、二年間の内省に駆り立てられていることを示していた。それは彼女が、私に何と庇い立てされようと、自分が責められているのではないかという疑いを消せないからにちがいなかった。彼女の表情に、その身も世もない気持ちがはっきりと現れていた。
「ほんとに好きだったんです……」
 節子は小さく呟いた。母親が台所に立っていった。
 ―あのころこの女は、ぼくに、どんなふうに自分が考えていることを話してくれたろう。どんな単語を使い、どんな理屈を好み、どんな口調で……。思い出せない。
「自分に自信がなかったの。六つも年上だし、このまま付き合っていても、いつか別れることになるんだって……。それならいっそ、キョウちゃんが遠くへいってくれたほうがあきらめがつくと思って。でもほんとうにキョウちゃんが遠くへ送られたとき、とんでもないことをしたって恐ろしくなって、それで……」
「自分をもともと悪い女だったってことにしたんだね」
 私は滝澤節子の顔をしっかりと見た。沓脱ぎで見たときと印象が変わっていた。とつぜん輝きを失い、小さな鼻、ふくらんだ頬、そして、厚い湿った唇が迫った。それらが過去の記憶をことごとく否定した。あの日の滝澤節子は、もうそこにはいなかった。
 母親は気を利かせて、長いこと寒い台所で背中を向けていたが、二人の会話が愛の告白といったような本題らしいものにちっとも入っていかないのに焦れて、また茶器を持って炬燵に戻ってきた。
「おぶうでも飲んで、くつろぎゃあせ」
 私は茶をすすった。節子はうつむいたままだった。しばらく三人の沈黙がつづいた。長い沈黙のあとで、滝澤節子が言った。
「会いたかった。……こうして会えるなんて、いまも、信じられない」
「節子はな、ドアを開けたらキョウちゃんがだめになってまうって叫んだんよ。本音なんよ。この子には、キョウちゃんしかおれせん。どういう手紙書いたんか知らんけど、きっとキョウちゃんにひどい女だって思ってほしかったからやよ。そうすれば、おたがい、ぜんぶ吹っ切れるでしょ。節子は身を引いたんよ」
 私には彼女たちの理屈が胸に落ちた。もう何のわだかまりもなかった。
「……こうして運よく会えたんだから、ぜんぶなかったようなものだね」
 節子はひっそり笑った。
 母親が立ち上がって六十ワットの電球を点けた。節子が言った。
「キョウちゃん、もう高校生なのね」 
「二年生です。十七歳。いや、節ちゃんと同じ、二十三歳かな」
 節子は笑いを収めて、新しい涙を流した。私はその涙をじっと見つめた。
「早いわねえ……あのときテレビで、姿三四郎やってたわね」
「うん。節ちゃんの後ろ姿、きれいだった。首筋のうぶ毛がキラキラ光って」
 私は節子の細いうなじを見た。ほつれ毛を引き上げるようにまとめた丸顔が電球の黄色い光に映え、黄緑のセーターの肩に傾いている。私の目にその姿は、ちょうど緑色の蕚(うてな)が小さな花のつぼみを支えているように見えた。私の向かいに坐っている母親が、私と節子を見比べながら茶をすすった。
「おお、さむ。ストーブ買わんとあかんね。青森はもっと寒いんやろね」
 三つの茶碗に茶を注ぐ。
「はい。でも、寒いのは好きなんです」
「青森は遠いわ」
 節子が言った。私は黙っていた。節子は頬をゆがめ、
「ごめんなさい、ほんとにごめんね。キョウちゃんが神宮の旅館から連れていかれた次の日、お母さんが病院に電話してきて、青森へ帰すって……。ビックリしちゃったけど、でもそうなれば、きっとまた遠いところで私のことを忘れてくれると思って」
 同じことを繰り返して言い、私の手を握りしめながら、ぼろぼろ涙をこぼした。
「偶然だけど、転校した西区の高校と、いまおふくろと住んでる岩塚の飯場の途中に、このアパートがあるんだ」
「岩塚っていったら、大鳥居のすぐ向こうやないの。こりゃまた、ほんに神さまのシワザやわ」
「お母さん、お元気?」
 節子が尋いた。
「はい、相変わらず遅寝早起きでめしを炊いてます」
「苦労なさったかただから。キョウちゃんがすべてだったのよ」
 恐らく母はそういう言い回しをして節子を脅したのだろう。母がまことしやかに説得する図が浮かぶようだった。節子の母親が洋ダンスの脇の文机に載っている小さな本立てに視線を向けた。
「この子、勉強してるんよ」
 そこには、皮膚科学とか、産婦人科学といった、赤茶けた厚手のシリーズ本が五、六冊並んでいた。背表紙が色あせているのは、長いあいだ放置されていたせいで、使いこなして手垢にまみれたからではないと一目でわかった。私は何ということもなく、侘びしい気分に満たされた。
「正看の試験を受けるって言ってたね」
「延び延びになってるの。いろいろあって……」
 節子は言葉を待つように、私の唇をじっと見つめた。それについて話すべきことはなかった。ただ、そのいろいろな事情は、きっと彼女なりに複雑で苦しいものであったにちがいないと思った。
「キョウちゃん、かわいいわ」
 自分に比べた私の若々しさが電球の光に目立ち、彼女はあらためて驚いたのだろう。場にそぐわないことを言った。私はその言葉を、牛巻病院の受付の窓口で聞いたことを思い出した。それが初めて彼女に語りかけられた言葉だった。彼女との関係はそのひとことから始まったのだった。
 とつぜん、断ち切られた時間が二年前の春の夜につながり、私は一瞬の幸福に身をゆだねた。大切な思い出だった。
「かわいい……私には、もったいない」
 また涙をあふれさせた。
「ええ男や。色が白くて、目が大きくて。おばさんの私でも惚れるわ」
 私は、この場にいる三人が、特別に選ばれた幸福な人びとのような気がしてきた。
「ええもの、見せてあげる」
 母親は浮きうきと鴨居棚の下にいくと、背伸びをしてトランクを下ろし、大事そうに開けて中身を見せた。二つの品物しか入っていなかった。あの金色のペンダントと、宮中のグランドでバットを肩にデブシと並んで立っているユニフォーム姿の写真だった。
「これ、いつか和田先生という人が撮ってくれた写真だ。ぼくも同じ写真を持ってたけど、なくしちゃった。でも、どうしてこれを」
「加藤雅江さんが、牛巻病院に送ってくれたの」
 雅江はこの写真をだれから手に入れたのだろう。デブシからか、関からか。だれからどんな手段で手に入れたにせよ、雅江にとっては大切な写真だったにちがいない。カズちゃんは、私が青森へいったあと、加藤雅江がよく飯場にきて、私の消息を尋ねていたと言っていた。雅江の底なしの人のよさが偲ばれた。
 私は金色のペンダントを凝視していた。彼女が自分で見つけて手に入れ、私に生き形見として持たせたものだ。そして、二度三度抽斗の奥から取り出して眺めたばかりで、いまはカズちゃんの小物入れの中に、康男や節子本人の写真とともに眠っているものだ。私は自分の知らないところで、濃密な時間が流れていたことを知った。
 形で人を偲ぶより先に、まず心がなければと言うのは簡単だ。それはたしかにそのとおりだけれども、形に心を重ねてすごす時間のほうがどれほど悲しく、密度の濃いものかを考えて目が痛んだ。
「持っていたんだね」
「アワ、ラブ、イズ、フェエバー……。私にはこれしかなかったの。キョウちゃんを裏切った私には。……一生、これに縛られて生きようって思ったの」
 母親がいとしそうな眼で節子を見つめて言った。
「忘れたことなんて、あらへんかったんよ。キョウちゃんが青森へいってから、この子、働く気をなくしてまってね。気が抜けたようになって。それで、私が知多から出てきて、この子の代わりに仕事することになったんよ」
 滝澤節子は思いなしか皮肉らしく頬をゆがめた。それから話の水路を、ひたすら私に申し訳なかったと謝ることへ戻した。私はどうしていいかわからなかった。
「そうよ、そうよ、そのとおりよ。あんたが悪かったんよ」
 母親は言い捨てると、娘の愚痴には頓着せず、
「キョウちゃん、いま私、栄町のテレビ塔で土産物を売る仕事をしとるんよ」
 楽しそうに話しはじめた。掌の複写をとって手相占いをしているけれどもあれはインチキだ、とか、冬場は売り場が冷えるのでトイレが近くてたいへんだ、とか、節子と同じように大きく吊り上がった二重まぶたを笑いで細くしながら語る。私は彼女に、老齢にふさわしい枯れた水彩画のような淡い印象を抱いた。
「送っていくわ」
 節子が立ち上がった。
「ほうだね、遅くなったね」
 母親の声につられて、私は文机の上の置時計を見た。七時に近かった。私は炬燵を出て框へいった。母親が私の脇に立ち、学生服の肩についていた目立たないゴミをつまんだ。
「またね、キョウちゃん、今度きたときは、おいしいごはん作るからね」
 滝澤節子と二人で鉄階段を下りた。階段の上で母親が見送った。
 大門の市電の停留所までは、五分ほどの距離だった。まばらな街灯の道を、自転車を牽きながら並んで歩いた。脇籠の学生カバンが、二人のあいだに微妙な壁を作っている。二年の歳月の壁だった。小さな節子は、ときどき、熱田神宮までの帰り道でもそうしたように、にっこり笑いながら私を見上げた。
「その顔。ときどき思い出した」
「こんなに遅くなると、お母さんが心配するでしょ」
「節ちゃん、ぼくは、〈おとな〉になったんだよ」
 滝澤節子はどれほど私の母の幻影に苦しめられたのだろう。その苦しみのせいで、一人の中学生が南から北へはるばる旅をしたのだった。節子はとつぜん、ハンドルを握る私の手をとって、涙に滲んだ目で見上げた。
「ほんとに、許してくれる?」
「許すなんて考えたこともない。いい思い出だ。こうやってまた会えて、心からいい思い出だったとあらためてわかった」
「ありがとう」
 目の前に大門の停留所の灯りがあった。
「また遊びにこれる?」
「こようと思えば、いつだってこれる。節ちゃんが待っててくれるならね。ぼくはただ、すっかり立ち直って、何のこだわりもなく生きてることを知ってもらいたかったんだ。そうだ、一つ、聞きたいことがあるんだけど」
「何?」
「桜貝って……」
「桜貝?」
「何でもない。じゃ、ここから帰るね。十五分もあれば帰れるから。心配しないで」
 節子はコクリとうなずいた。そして、私の自転車が道の曲がりで姿を消すまで、いつまでも停留所の灯りのそばに立って手を振っていた。少し膝を曲げた姿は寒そうで、小鳥のようにもろく見えた。



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