二十八

 目をつぶり、カズちゃんの歓びに浸る顔を思い浮かべた。たちまち効果が出て、射精が近づいた。
「ああ、キョウちゃん、おばさん気持ちええわ、初めてやわ、こんなええ気持ち、ああ気持ちええ、ゾクゾクする、キョウちゃん、出して、ありがとう、もうじゅうぶんやわ、うう、ええ気持ち、ええ気持ち」
 ようやく摩擦が生じた。このまま動いていても母親の高潮はこないだろうけれども、私の射精は叶いそうだった。抽送を速めると、あっという間に緊縛が強まった。
「あああ、キョウちゃん、おばさんおかしなってきた、困る、あああ、気持ちいい! ああ気持ちいい、どうにかなりそう、あ、あ、キョウちゃん、出して、はよ出して、やだやだ、私、あああ、やだ!」
 一気に深く突き入れて射精した。膣壁がグイと隆起して締めつけた。
「あー、ウン!、ああ、ウーン!」
 最後にさらに深い場所で律動すると、苦しげな声を発してシワが寄るほど腹が硬直した。私は乳房を握り締めながら内臓の奥深くへ律動を与えつづけた。母親の腹が硬直を繰り返す。おそらく一度も快楽を知らなかった膣が、腹と尻が、悦びにふるえる。
 母親の回復は思ったよりも長引き、私を包みこんだままいつまでも断続的にからだをふるわせた。やがて、彼女は私の上体を引き寄せて頬をすり寄せ、まだ小刻みにふるえている腹を私の腹に押しつけた。
 雨が庇を叩く音がする。あのカーテンを開けて雨を眺めたい。私は母親の腕を解いて、小さな台所にいった。伸び上がって腰を突き出し、蛇口の水で性器を洗った。付け根に溜まっていたねっとりとした乳液状のものを丁寧に洗い落とした。
 蒲団に戻ると、母親は下腹を両掌で大事そうに抑えていた。彼女は汗ばんだ顔を私に向けた。頬が赤らみ、むかしの節子とそっくりな顔をしていた。胸がきしんだ。私は彼女のかたわらにもぐりこみ、雨音を聞いた。
「ごめんね、キョウちゃん。ご恩返しのつもりが、すっかり夢中になってまって。私が節子なら、キョウちゃんと地獄までもいくわ」
「たった数分のことがすべてじゃありません。男と女は、もっと深いところで結び合ってます」
 私は蛍光灯を消して窓辺に立っていき、カーテンを引き開け、窓を半開きにした。強い雨音が入ってきた。母親が蒲団を胸に引き上げた。
「だいじょうぶですよ。外からは見えませんから」
 母親の顔がストーブの灯りに美しく紅潮して見えた。私はふたたび彼女のそばに横たわった。母親は私を遠慮がちに抱き締めた。
「恋人おるんやね。わかったわ……それなのに親切に抱いてくれて……勘弁してね」
「最愛の女の人です。ぼくを小学生のころからずっと見守ってくれてる人。ぼくたちのいきさつは説明すれば長くなるのでやめます。いまもずっとそばにいて、何くれとなく世話を焼いてくれます」
 彼女は、罪の意識におののく表情になった。
「ほうやったの……。そんなに幸せにしとるときに、節子を訪ねてくれたんやね。無視すれば何ということもなかったやろに。……お金まで用立ててくれて、こんなおばさんを抱く破目になってまって……。節子のこと、どうか許したってね。キョウちゃんはぜったいえらくなる人だって言ってね。身を引いたんよ、わかってあげてね」
 私はあの時間を―神宮の東門から参道の一角を横切る近道を抜け、希望へと通じる鳥居に出た瞬間を思い返した。あれからの私は、この世には謀りごとをしたり裏切ったりする人間はいない、すべての人間は自分の決意に忠実であろうとし、たとえ悪意からでなくてもそれを破ったときは、死ぬほど恥じ入るものだと信じてきた。人間ならばだれでもそれくらいの見どころがあるはずで、だからこそ人間の存在には意味があって、そして貴いのだと思ってきた。
 旅館から西松の事務所へ連れ帰られたとき、私はその信仰を失いかけた。ほとんどの人びとにとって、交わした約束や、胸中の決意など、自分を生かすための大した障害にはならないということを知った。―その信仰を回復させるために、カズちゃんが舞い降りてきた。
「……こんなことさせてまって、ほんとにごめんね」
「ここにずっといるんですか」
「節子が落ち着くまでは、仕事やめられんの。これからはいままで以上にがんばって生きていけるわ。ほんとにありがと。節子のこと、許したってね。悪気なんかあらへんかったんよ。キョウちゃんに申しわけない、キョウちゃんのお母さんに申しわけないて言ってね。ほんとに、悪気はあらへんのよ。……このことは、その恋人さんに秘密にしとってね。傷つけんといてね。おばさん、ほんとに悪いことしてまった」
「秘密にはしません。何もかも話します。ぼくは彼女を信じてます。慈母のような人ですから。きょうはこれからその人のところへいかなくちゃいけない。北村和子という名前です。神のように心の寛い人です」
 母親はハッと息を呑み、
「……あのお金も」
「はい。ぼくから事情を聞いて、用立ててくれました」
 母親は目を潤ませ、
「こつこつお返しすると、伝えといてくださいね。心から感謝してますって」
「伝えます。そろそろ帰ります」
 服をつけはじめた。母親は一瞬さびしそうな顔をしたが、すぐに表情を和らげ、起き上がった。自分も服を着はじめる。
「私、休みが水曜日なんです」
「覚えておきます。北村さんにも伝えておきます」
 まだ午後の三時にならなかった。戸口まで送って出た母親は、
「……キョウちゃん、私、ぜったい節子にしゃべらんから。死ぬまで」
 と言って潤んだ目から涙を落とした。
         †
 傘を差して、あの売春婦たちがたむろしている通りに出た。女たちは、打ち萎れたふうに歩いている私に声をかけてこなかった。
 雨の中を大門の停留所に近づいてくる一両電車のパンタグラフに稲妻が青く光った。その瞬間、映画のシーンが切り替わるように、電車も車も道路沿いの家並も消え去って、あのときの急患収容室がありありと浮かんだ。窓からの淡い反映、鉄枠のベッド、節子のふくらんだ頬、ベッドの上に投げ出されている両腕、床に置かれた白いバッグ、それに寄り添うように脱ぎ散らした私の学生服―そうした一コマ一コマが、細かくまざまざと目の裏に甦った。
 タクシーを拾い、後部座席にからだを埋めると、疎かにしていた記憶の底から、節子との数カ月が浮かび上がってきた。私たちはいろいろな夜道を歩き回った。いちばん語りたいことは何だったろう。おそらくそれは過去でも未来でもなく、いまこのときにいっしょにいることができてどれほどうれしいか、それだけだった。
「いまはキョウちゃんしか好きじゃない」
 いまは、いまは、いまは……。
 胸の中で何かが死に絶え、すぐ身近に、かぎりなく近いところに、穏やかな金色の光を背に手招きするカズちゃんのシルエットが見えた。いまが永遠だと感じた。私は永遠の中にいる。何一つ過去を振り返る必要もなく、未来を信じる必要もない。私の周りにあるこのいまが永遠だ。市街電車の、売春婦たちの、道路の、家並の光景がすべてだ。私はその中に生きている。年月も、周期も、意味がない。何もかもいまの中にあるし、いつもあるのだ。
         †
 話を終えると、カズちゃんはニッコリ笑い、
「キョウちゃんはね、節子さんをほんとに好きだったのよ。それで、お母さんを抱いてあげたくなったの。今度会ったら、お金なんか返さなくていい、のんびり生活してって言ってあげて。いえ、私が言うわ。ときどき水曜日に遊びにいってみる。知多から出てきてすぐお勤めしたなら、まだ名古屋のことをほとんど知らないでしょうから」
 すでに用意していた風呂に二人で浸かった。カズちゃんは湯に濡れた手で私の頬を撫ぜながらこの上なくやさしく微笑んだ。
         † 
 一月二十九日日曜日。曇。昼過ぎまで中村図書館で勉強し、腹をすかしてシャトー西の丸へ。
「腹、ぺこぺこ」
「愛知県体育館にきれいな食堂があります。二の丸をお散歩しましょう。郷くんと歩くの、大好き」
 着物を着たトモヨさんと久屋通りを二の丸庭園に向かう。途中にきしめんの店があったので、入って小腹を満たす。駅西のガード下ほどの味ではなかった。店内の客がきょろきょろトモヨさんを見ている。着物にセシルカットが似合う。彼女はその視線に応えるようにすがすがしい顔を上げ、
「このごろ、私、きれいになったとよく言われるようになりました。鏡を見て、自分でもそう思います。郷くんに恋をしてるからよって和子さんが言ってました」
 こらえきれない笑いを含んだ声に、私もうれしくなる。
「顔かたちじゃなく、肌ツヤのことだね。トモヨさんはもともと美形だよ。カズちゃんは、恋をしてなければツヤがくすんでしまうと言いたかったんだ」
「はい、これから一生くすむことはありません」
「子供の育ち具合は、どう」
「きわめて順調」
 東門から二の丸庭園へ入っていく。圧迫するような気配に振り返ると、あたりの景色に不釣合いな近代的な建物がドンと鎮座している。
「あれ、何?」
「愛知県体育館。おととしでき上がったばかり。七月の名古屋場所はあそこでするんです。ほかにボクシングとか、プロレスとか」
「そうか、大相撲はもうあの空調の悪い金山体育館じゃないんだね」
「私も何度か、塙のお仲間と金山体育館にいきました。大鵬がきれいだった」
「ぼくも大鵬見たよ。仕切りごとにだんだん赤くなっていくんだ」
 あたりに人が閑散としているのに乗じて、キスをする。
 常緑の潅木に、枝ばかりの立木が雑じっている。石畳を回遊する。ありきたりの枯山水だ。徳川庭園を見たときと同じように、仰々しいだけの碑文を読んだふりをしながら、置石だらけの小ぎれいな空間を巡っていく。サザエ山という古山を背景に、枯芝の斜面に建っている小振りな茶亭を眺める。ライトグリーンの屋根が眼に涼しい。笹と常緑樹に覆われた権現山という名の丘を見上げる。だだっ広い枯芝の庭園。牡丹と芍薬の花園もあるそうだが、夏の花なのであきらめる。体育館を見上げながら東門を出る。
「楽しい散歩だったね」
「ええ、夏には花園を見にきましょ」
「着物姿、きれいだな。きょうは、何か出かける予定があったの?」
「あるわけないでしょ。日曜日は郷くんのくる日だもの。びっくりさせたくて」
「着物にはパンティを穿かないんだよね」
「ええ」
「今度、着物のままセックスする方法を教えてね」
「きょう教えます。着物は帯を解いてセックスしちゃいけないって、むかしから言われてますから、きちんと教えます」
 そんな話をするときも、どことなく品がよく、まじめな話しぶりだ。
「寒くなってきた。冷えたらよくないよ」
「そうね、油断しちゃだめですね」
 愛知県体育館の一階奥、定食屋ふうのオリンピアというレストランに入る。百席以上ある。配膳窓が横長に大きく切られている簡素な食堂。切り窓の上にきれいな文字の品書きが三十枚も並んでいる。中年の女性たちが働いている。チケット制でセルフサービスなのがめずらしい。カツカレーときしめんの食券を買う。トモヨさんは、ハンバーグライスと味噌カツと手羽先。食欲旺盛だ。
「ときどきここにエビフライを食べにくるんですよ」
 際立った味ではなかったが、きしめんの三角揚げが大きいのはうれしかった。
「大事なときだね」
 パッと頬に恥じらいが表れ、
「着床後は出産直前までだいじょうぶってお嬢さんに教えてもらわなかったら、いまごろ悶々としてました」
 トモヨさんと睦み合うようになるまでは、ああいう場所で一夜の出会いを常習にしている女は、たとえ本意ではなくても、妖しい快楽に浸っていると思っていた。でも、健康で愛情深いトモヨさんや、物知りのカズちゃんのおかげで、そういう場所には妖しさがあるだけで、なまめかしさとは縁遠い、ありきたりな肉体だけの交わりが横行しているということをはっきりと知った。


         二十九

 トモヨさんは寝室の畳に正座し、這いつくばうように真っすぐ両腕を伸ばして深々と辞儀をした。尻が浮き上がる。
「後ろに回って着物と襦袢の裾をめくり上げてください。帯の上にかぶせるように」
 言われたようにすると、トモヨさんの丸々とした尻が現れた。尻のあいだに淡く色づいた秘部が覗いている。トモヨさんは膝を横へ滑らせて両脚を拡げた。
「入れてください。もうじゅうぶん濡れてますから。郷くんは勃ってます?」
「ギンギン」
 私はズボンを脱ぎ、ゆるゆる挿入する。
「ああ、いい気持ち。この形、ひよどり越えと言います。ああ、少しでも動いたらすぐイッてしまいます」
 少し動く。トモヨさんは腹を絞って、手のひらで畳をさする。さらに動く。
「気持ちいい、イク!」
 痙攣のたびに締めつけてくる。妊婦に負担をかけないように射精を急ぐ。トモヨさんは達しつづける。
「ああ、幸せ……またイキます、ああ、強くイクイク! あ、郷くん、大きくなった、出してください、うんと出して、あああ、イク!」
 たっぷり放出する。膣の中ほどで何度も律動する。トモヨさんもそのたびに腹を絞る。
 出し切ったので抜き取ると、トモヨさんはさらにからだを低くして尻を突き上げ、最後の気をやった。嘔吐するようにうめく。やがてドロリと精液が陰核のほうへ流れ出した。ティシューを当てて、拭き取ってやる。トモヨさんは両肘を突いてまだ腹の収縮を繰り返している。私は丸い尻をさすった。それもまた新鮮な痙攣を誘うようだった。私は尻のいただきに唇をつけた。
 トモヨさんは自分でもう一度ティシューを当てて拭い、膝で立ち上がると裾を下ろした。こちらに向き直り、にっこり笑う。
「ごちそうさまでした。うんと出してくれてうれしい。興奮してしまいました」
 紅潮した顔が、カーテンを引いた部屋の中で淡く発光している。トモヨさんは唇を突き出し、チュッとキスをした。
「あのまま両脚を持ち上げると押し車、私が這い這いするように両手で歩くと御所車と言います。この仕事に就いたころ、塙の女将さんから本を渡されて覚えさせられました」
「愛情が薄れるようで、そんな格好いやだな」
「私もいやです。一度もしたことありません。いろいろな名前がついてますけど、みんなゲテ物です。正常位とバックがいちばん」
 トモヨさんはスルスルと着物を脱ぎ、箪笥からパンティを出して穿くと、白シャツと紺のスカートに着替えた。ストッキングを穿き、赤い厚手のセーターを着る。
「お嬢さんからいただいたんですよ」
 うれしそうに言う。
「顔も体形も、瓜二つだものね。髪型がちがうだけ」
「お嬢さんとは格がちがいます」
         †
 二月六日の月曜日に実力試験の結果発表があった。わずかの差で次席に落ちた。主席はD組の加藤武士だという。ときどき噂が流れてくる秀才だった。宮中時代の直井整四郎のような地位にいる男のようだ。一度鴇崎にあれが加藤だと教えられて、廊下をいく姿を眺めたことがあったが、直井ほどの異様さは感じられなかった。地黒の細面に眼鏡をかけた小男で、物言わないたたずまいが何か深刻な物思いを秘めているように見えるけれども、私にはわびしい未来がすべて透けて見えた。実際、人の未来など見えるはずはないのだけれど、少なくとも、昨夜いのちの記録に書いたような、

 天才とは、永遠の生命を持つものを作り出すべく運命づけられ、みずからとも闘いながら生き抜いて、その使命を果たす、かぎりなく貴く、ときには果敢な、また悲しい薄幸の人のことだ。

 そういう人物には見えなかった。モーツァルトやショパンじゃあるまいし、そんな人間がざらにいるはずがない。思えば直井もそうだったし、だれに迫害を受けるわけでもなく死んでいった山田三樹夫もそうだった。私だって例外ではない。生涯の歩みをたどられたり、心の細かい機微を窺い知りたいと思われたりするような人間であるわけがない。
 放課後、土橋校長に呼び出された。
「神無月くん、たとえ鶏口(けいこう)となるとも牛後(ぎゅうご)となるなかれだよ。西高はウシじゃなく、どう見積もってもニワトリだが、そのニワトリの口ばしでもいられないようじゃ、先は危ういぞ。きみは確実に東大にいける器だ。つまらない失策は避けるように。定期試験の仕組みはわかっている。いまのままでよろしい。実力試験だけは首席を外さないでくれ。帰ってよし」
 でっぷり太ったからだを椅子に沈め、かしこまって立っている私に出ていくように目で促す。三月中旬の二学年最終実力テストまで、まだひと月半もある。首席を奪回するのは苦ではない。
 ふと、あの雨の日の蕎麦屋の約束を思い出し、学校帰りに自転車を笹島のサイクルショップに預け、名鉄に乗って山本法子を訪ねていった。下心はまったくなかった。カズちゃん以外の女に下心を持ちようがないし、リビドーを湧かせようがない。私は約束を反故にできないタチなのだ。人間にとって最も大切な言葉は〈約束〉だと思っている。最も恥ずかしい言葉は〈都合〉だ。ただ、約束を反故にしないのは、身近にいる人間に対してだけで、遠くの人間に対しては、何を約束したかも、約束したのかどうかも定かでなくなる。口ほどにもない。
 名古屋駅から名鉄で神宮前に出、ノラの看板の前に立ったころには陽が沈みかけていた。ドアを押すと鈴が鳴った。
「今晩は。お久しぶりです」
 学生服を着てカバンを提げた長髪の若者を見て、法子の母親も姉も私だと気づかなかった。端の椅子に座っていた法子だけが飛び上がった。
「神無月くん! きてくれたの」
「だいぶ遅れたけど」
 青いゆるいスカートを穿き、黒いセーターを胸のふくらみがわかるようにピチッと着ている。唇に濃い紅をさしていた。初めて見る山本法子の化粧顔だった。三つも四つも年上に見えた。カウンターの二人の女に挨拶をする。
「おかあさん、神無月くんよ。年末に言ってたでしょ、叔父さんの店で遇ったって」
「まあ、ほんとに神無月さんだわ。見ちがえちゃった。こんないい男だったっけ」
 母親は相変わらず原色のドレスを着て、むかしと同じやさしい微笑を浮かべている。紺のスーツ姿の姉も、からかうような、なつかしみをこめたしゃべり方で、
「遠島から戻ってきたんだって? 野球少年が苦労したわね。私が思ったとおり、芸術家の道を歩きはじめたってわけね。芸術家は色好みだからね。法子を誘惑しにきたんでしょ」
「いえ、ぼくには好きな人がいます」
 真剣な顔で答えた。
「はっきり断られちゃったわね。この子、案外ウブだから、傷ついたわよ」
 ウブというのは、身内の欲目だろうと思った。
「きょうはもういいわよ、法子。神無月さんと失恋デートしてらっしゃい。あまり遅くならないうちに、責任持って帰してあげなさいね」
「はーい」
 私がやってきたときの対応を前々から申し合わせていたようで、なんだか拍子抜けがした。
「着替えてくる」
 山本法子が二階へ去ると、あのときと同じようにオレンジジュースを振舞われた。母親が訊く。
「お母さんは、お元気?」
「はい。西松建設を辞めて、いまは中村区の飛島建設という会社で相変わらず賄いをやってます。飯場なんですが、そこでぼくといっしょに暮らしてます」
「そう。お母さん、さびしくなって、結局呼び戻したのね」
「雁字がらめです」
「親子でぴったり寄り添って暮らしてると、いろいろと気づまりがあるものよ。きっとそれがもとで、青森までいったんでしょうから。これからも何かあったら、ここにいらっしゃい。内緒でお酒飲ませてあげるから」
「はい」
 すぐに山本法子が二階から下りてきた。グレーの厚い生地のワンピースの上に少女っぽい黒い半オーバーを羽織っていた。姉が、
「とにかく芸術家は経験がすべてよ。しっかり世の中を観察しなさい」
「芸術家、芸術家って、お姉さん、人の生き方をいちいち指図しないの」
 姉妹のやり取りもむかしと同じだった。私はつい笑ってしまった。
「ふうん、いい笑顔ね。そんなふうに笑ってると、いつまでも女で苦労するわよ」
「英雄イロを好む。それが男の中の男なんでしょ。お姉さんいつも自分で言ってるじゃない。とにかく、男ひでりのお姉さんの分まで楽しんでくるから。じゃ、いってきまーす」
 扉を押して出ると、なつかしい夜の道があった。神宮日活に浜田光夫の看板が掛かっている。『君は恋人』と赤く題字が描かれ、副題が添えられている。《浜田光男の復帰を祝してオールスター大集合!》
 何のことかさっぱりわからない。
「なんだい、復帰って」
「浜田光夫って喧嘩っ早くて、キャバレーかなんかでお酒飲んでて、ビール瓶で突かれて片目をつぶしたんだって。それが治ったってことじゃない」
「へえ。ということは、裕次郎や旭のあとを、浜田光夫みたいな小物が背負って立ってるってことだよね」
「さあ、映画のことはよくわかんない」
「日活も終わりだな。……どこへいく?」
 少し大人ぶってみる。これから山本法子を連れ歩いて、どんなきっかけを利用して引き揚げればいいのかわからない。駅前ロータリーの明るい空間に出た。
「うわあ、なんてきれいな顔なの! シビレちゃう」
「ぼくは自分では美男子だと思ってない。それどころかブ男だと思ってる。あるときそう気づいてから、鏡も見ない。このあいだ、つい床屋の鏡で見ちゃったけど……。よく美男子だと言われるのは、きっと人目に立つ特殊な顔をしてるからだろうね」
「特殊で、きれいよ。カツ丼食べていこうよ」
「めしはいらない。ちょっと神宮を歩こう」
 東門から参道へ入っていく。夕暮れの杜から薄日が透いてきて、山本法子の横顔をくっきり浮き上がらせる。
「美人になったね」
「ありがとう。みんなそう言う」
「ふん、しょってるね。山本さんは経験豊富なんだろ」
「なんの話?」
「山本さんの男経験のことだよ」
「法子って呼んで」
「じゃ、法子、男は何人ぐらい知ってるの」
「それほどでもないのよ。……一人だけ。倍も年上のお客さん。呉服関係のセールスマンて言ってたけど。京都からこっちにときどき出張で出てきてたの。ぜんぶで三回ぐらいデートしたたかなあ。最後のデートで、処女あげちゃった。お母さんもお姉さんも、知ってるのに黙ってたわ」
「じゃ、セックスは一回だけ?」
「そ。ほんとの話」
「それじゃまるきり、処女みたいなもんじゃないか。外見と大ちがいだな」
「私って、そんなふうに見えるの?」
「うん、見える。でも、そういうことなら、ぼくは失礼なことを考えたわけだ」
「いいの。ノラにきてくれるかどうか不安だったけど、もしきてくれたら私をあげようって思ってたから」
「いらないよ」
 私は法子に抱きつかれ、長いキスをされた。法子は唇を離すと、
「ああ、うれしくて、死にそう」
 と言って、鳥居のほうへ歩き出した。


         三十

「神無月くんて大きいのね。お店に入ってきたときびっくりしちゃった」
「まだ百八十センチはいってないよ」
「二十歳まで育つって言うじゃない」
「巨人にはならないよ。百八十一、二で止まるね。小さい男だったから、せいぜい百七十五ぐらいでストップだと思ってたんだけど、天の恵みだ」
「山中くんて、覚えてる?」
「ああ、宮中野球部の。しばらくいたけど、すぐやめた。口だけのチンピラだった」
「その人が去年の夏、どういう事情か知らないけど、寺田くんを刺したの、大阪で。幸い傷は大したことなかったみたい。そのとき二人とも警察に捕まって、寺田くんはすぐ出てきたけど、山中くんは刑務所に入ったんだって。驚いちゃった」
「だれから聞いたの」
「ミカジメを取りにきたついでにカウンターで飲んでた松葉会の人。寺田くんて知りませんかって聞いたら、びっくりしてね。神無月くんて有名なのね。もしやおたくは神無月さんのご友人ですかって尋くから、そうだって答えると、急に頭を低くして、じつは、って教えてくれたの」
「そう」
 康男がもう一度東京へ修業に出された理由がわかった。
「あいつ、いま東京の本部に修業に出されてるんだ。東京から帰ってきたら会うことになってる。楽しみだな。ワカが食事会を開いてくれるんだ」
「ワカって?」
「松葉会の若頭」
 法子は私の顔を見つめるばかりで、話の内容がよくわからないようだった。
 夜の熱田神宮の境内はさすがに昼間とちがって森閑としているが、二年前よりもずっと明るくなっていた。拝殿前はもちろん、参道も灯が点っていて、郊外の住宅地よりも明るいくらいだ。詰所の明かりの中にも人がいる。薄闇の中をじっと目を凝らしながら進んでいくイメージがあったので、拍子抜けした。思いのほか、参拝客も多い。ポツリポツリと途切れることなくやってくる。そして祈りは長い。昼間に観光気分で訪れる人たちとは祈りの重さがちがうようだ。
「私、そんなにきれいになった?」
「ああ、とてもね。中学校のころとは大ちがいだ」
「うれしい!」
 法子は私に寄り添って腕をとった。宮中の正門から初めていっしょに帰ったときと同じだった。
「ぼくは好きな人がいる。その人以外の女は抱かないし、未来も約束しない」
「もう長いの?」
「七年を過ぎた」
「七年て……十歳じゃない」
「うん、小四からぼくのことを気にかけてくれた。結ばれたのは中三の秋。青森でもそばで暮らしてくれた」
「年上ね」
「三十二歳。女神。ぼくのことを心臓って言ってる」
「事情は訊かないわ。……未来なんか約束してくれなくてもいい。神無月くんをそばで見ていたいだけ。束縛するつもりなんかぜんぜんないの」
 神話が生きているような、やさしい森の参道を南門まで歩く。神木の大楠、手水舎、宝物殿、南神池、別宮八剣宮。南門の鳥居を見上げる。曇り空に星が見えない。もともとこの空に星の記憶はない。
「何時までに帰ればいいの?」
「名古屋駅の笹島に六時半かな」
「だいじょうぶ、六時にタクシーに乗れば二十分くらいで帰れるわ。もう少しお話できるんでしょう?」
「すぐ帰る。約束を果たしにきただけ」
「味気ないのね」
 タクシーを拾うためにロータリーまで引き返していく。腕を離さずに歩きながら法子は頭を預けてきた。かならず初体験の話をして私を誘ってくるという確信があった。
「私の処女を奪ったやつ、私を押し倒して、胸を揉んで、すぐ突っこんだだけ。痛かったわ。痛いって言ってるのに、どんどん……最後におなかの上に白いものを出したの」
「もう二度と話さなくていいよ。聞きたくないから」
「……神無月くんは、女の人、たくさん知ってるの?」
「女神以外に何人か」
 法子は組んでいる腕に力をこめた。
「……こうして歩くの幸せ。夢が叶ったわ。中一から五年越しの夢。蕎麦屋さんで遇ったときは、頬っぺたつねりたくなっちゃった」
「ほんと? 偶然の鉢合わせにしか見えなかったけど」
「これが証拠」
 法子はスカートのポケットから写真納れのパスを出して見せた。岩の河原で直井と桑原と粟田の四人で撮った写真だった。中二の秋に稲武町へ野外学習に出かけたときに、担任の近藤正徳先生がパチリとやったものだった。幸福なころの笑顔で写っていた。
「オナニーをするときも、この写真の神無月くんの顔を見ながらしてたの」
「くすぐったいな。どう応えていいかわからないよ」
「私は何の心配もいらない女よ。押しつけがましくないの。神無月くんて、ぜったい自分だけのものにできないってわかるから」
「こんなデートになっちゃったけど、いいのかな」
「最高の失恋デートよ。こうして歩くのを夢にまで見てたんだから」
 ロータリーに渡らないうちに通りかかったタクシーに手を挙げた。法子は私の手に紙切れを握らせた。
「船方の電話番号。くるときは電話ください。名鉄神宮の改札で待ってるから」
「うん、じゃ、さよなら」
「さよなら」
 法子の言ったとおり、二十分で笹島のガードに着いた。
         †
 翌七日火曜日、放課後カズちゃんを訪ねた。そして、中学一年の出会いから蕎麦屋での再会、そしてきのうの写真のことまで、法子のことをカズちゃんに詳しく話した。
「法子さんはとっても頭のいい、正直で気立てのいい子ね。将来かならずキョウちゃんの力になる子よ」
 ふた月にいっぺんでも逢ってやるべきだとカズちゃんは主張し、トモヨさんのところにいかない日曜日を気ままに選んで訪問すればいいと言った。
「もう、これ以上動き回りたくないな」
「どう決めてもいいことだし、何も決めなくてもいいこと。キョウちゃんの目標を考えたとき、そんなことはどうでもいいの。決めなくてはいけない大切なことは、野球、そしてしばらくのあいだの勉強。その二つをいっときも忘れないようにすればいいだけ。ほかのことはぜんぶ枝葉よ。お母さんのこともね」
 砂利の玄関先に出て、何本と決めずよしと思うまで素振りをし、寄せ鍋の晩めしを食って帰った。
         †
 早朝のランニングから始まり、暮れ方の図書館の勉強で終わる規則的な日常がつづいた。そんな日々の中で、野球の実地練習が入りこんでこないかぎり、何かもの足りないままひどく急ぎ足で一日一日が過ぎていくということに気づいた。何よりも足りないのは素振りと、肩を強く使うキャッチボールだった。そこで、朝夕よく走り、八帖の納戸部屋でまじめに三種の神器をやるほかに、夜中に風呂場横の物置の軟式バットを持ち出して、庄内川の土手で素振りをすることをまず加えた。軟式バットのような軽いものを強く振ると筋肉を傷めるので、全力で振らないよう心がけた。残った課題は、どうやって肩の力を落とさないようにするかだった。
 同じ週の十一日土曜日に、カズちゃんに頼みごとをした。
「名城大学付属高校の硬式野球部の練習に、毎週日曜日、キャッチボールだけでも参加させてもらえないか問い合わせてくれない? グランドは庄内川の河原にある」
「キョウちゃんの名前出していい?」
「うん」
 同朋高校のグランドから四キロほど東へ隔たった、新富町の河川敷に目当てのグランドがある。岩塚から自転車で二十分強。この数日、母が寝静まってから、自転車の灯火を点けて土手沿いをシロと散策し、発見した。
 カズちゃんの肝煎りでとんとん拍子に話が決まった。同朋高校の門前払いがウソのようだった。カズちゃんが言うには、名城大学付属高校の硬式野球部事務局に直接電話し、神無月郷と名前を出したとたん、高江という名の監督が飛び上がって喜び(その姿が目に見えるようだったと笑う)、ぜひ参加してくださいと言ったらしい。
 運のよいことに、月から金は午後三時半から二時間ほどの練習だが、土・日・祝日は午前九時からの五時半まで終日練習だということだった。好きに参加して好きに帰ってくれればいいと言う。できれば部員たちに混じって、シートノックやバッティング練習にも加わってほしい、日本一のスラッガーの技量を部員たちに見せたいとのことだった。
「ありがとう。よく話をつけてくれたね。週一の練習でも肩はだいぶ回復すると思う。七カ月も休んでしまった肩だからね。少しずつ慣らしていかないと。きょうは二月の十一日か。あしたの朝から思い切りバットが振れるし、思い切りボールが投げられる。冬場だから、肩や足腰を痛めないようにゆるゆる練習するよ」
「日曜の午前に、庄内川グランドに毎週ユニフォーム一式と、グローブ、帽子、スパイクを持っていくわ。菅野さんといっしょに。さっそくあしたからね。模擬試験のときなんかは練習を休めばいいでしょう?」
「そうだね。ほんとにありがたいな。菅野さんにお礼を言っといて。図書館へいく格好で庄内川に自転車でいくよ。一時間ぐらい練習したら、ユニフォームを脱いで、また自転車で図書館へいく。その足で、月に一回ぐらいトモヨさんのところに寄るよ。四時ぐらいかな」
「いまトモヨさんは、ほとんど北村席にいるの。おとうさんおかあさんが、転んだら危ないから席へかような、って言うから。トモヨさんはしばらくお休みにすればいいわ。私から言っておく。どうしても逢いたくなったら、図書館から席のほうへ寄ってあげて」
「わかった」
「無番のユニフォームね」
「うん。入部金は?」
「訊いたら、一万円。年間部費は三万円。でも、ゲストなので無料でいいですって言ってたわ。マスコミにぜったい連絡しないように釘を刺しておいたから安心して」
「サンキュー、ベリーマッチ」
         †
 二月十二日日曜日。快晴。八時の気温一・七度。昼間は三度前後になるので練習に支障はない。朝めしをしっかり食っておく。目玉焼き、納豆、海苔、味噌汁、どんぶり一膳。飛島さんが、
「食うねえ、朝から。図書館で眠くならないかい?」
「はい、だいじょうぶです」
 母が、
「東京オリオンズの青木というスカウトから、私と会って話をしたいという電話があったけど、断ったからね」
 山崎さんが、
「もう一人電話があったと言ってなかった?」
「広島カープの木庭(きにわ)という人でしたね。野球はやめましたと言っときました」
 社員たちはいつもの背筋に悪寒を走らせたような表情になった。私もいつもの無言を通した。プロ野球の先物買いを了承するなぞ、母にとっては私を成功への階段を尻押しして昇らせてやる言語道断のお節介になる。うなずくはずがない。押美スカウトもプロのスカウトも私を成功へ一足飛びに引き上げるという意味で、彼女の目には一律に危険な存在だ。
「じゃ、いってきます!」
 元気に声を上げる。所長が、
「きょうも六時か」
「はい、六時から八時です。図書館が閉まるのが八時なので」
 朝飯をすまし、学生服を着、カバンを籠に入れ、八時五分出発。庄内川の土手に自転車を駆り名城大学付属高校のグランドを目指す。ときどき車が通る県道より一段高い位置に自転車のレーンがあるので安全だ。出発の前に、開放門からついてこないようにシロを強くたしなめた。レーンから河川敷にくだっていく坂道でシロを追い返すのはひどく胸が痛むだろうと思ったし、老いたシロがよぼよぼ戻っていく後ろ姿が一瞬あの犬取り所のさびしい記憶に重なったからだ。あの姿を永遠に思い出したくない。しつこくついてきてグランドに入ってしまったら追い返す術がないし、県道に飛び出して車に轢かれでもしたら悔やみ切れない痛恨事になる。シロは素直に了承し、寮の門前に腰を下ろして私の自転車を見送った。
 河川敷の草の剥げた車寄せに自転車を停め、飾り気のないグランドを見下ろす。何十台も駐輪している一画がある。名城高校の寮がすぐ近所にあるので、そこからユニフォームを着たままかよっているのだろう。これまで遠目に見て、西高と大差のない固い砂土のグランドかと思っていたら、こうして近づいてみるとけっこう手入れのいい黒土が敷かれているとわかった。
 八時半。早くも四十人ぐらいの部員がストレッチをしたり、トンボを手に動き回ったりしている。無番の白いユニフォームだ。赤い上着に白のズボン、胸のMeijyoというロゴと、アンダーシャツ、ストッキング、帽子は赤。しばらく眺める。部員たちがちらちら私を見ている。話が届いているのだ。やがて彼らは整列してフェンス沿いに走り出した。



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