四十四
 
 ゆっくり湯船に浸かって、ビーフカレーのでき上がりを待った。余熱でルーを溶かしているあいだ、カズちゃんも入ってきた。仲良く抱き合って浸かる。
「私たちの話が、あの運転手さんを勇気づけたのね。よかった」
「人の役に立つというのは、うれしいものだね。ぼくたちは子供なんだね。たしかに、子供って、人の気持ちを温かくする」
「大人とか子供と言うより、へんな人間なのね。へんな人間というのは、心に定規を持ってないから、正しい判断をすることが多いのよ。ふつうの人の心を左右するような陳腐な世論というのは、たまたま金力があって、穏健で、家柄もいいようなふつうの人たちが作り出したもの。へんな人に遭ったら災難よ。過剰な反発をしてくる。だから、変人は、そういうふつうの人たちに混じりさえしなければ、案外安全に暮らせるものよ」
 カズちゃんはギュッと私の顔を両掌で挟み、ちょんとキスをした。私もちょんとキスを返した。
「カズちゃんの言葉の嵐。いつも楽しみにしてるんだ。そのまましゃべりつづけてて」 
「そう? じゃ一席。……まず、ふつうの人の定規を持ってないと、資本家、政治家、役人、法律家なんてものにはなれないということ。ふつうの人の定規は、人の心じゃなく人の持ちものをつかむ能力を測るもの。定規の基準が人間じゃなく、財にあるの。財物を勝ち取るには、多かれ少なかれよこしまな行動が必要よ。それができる人は有能で、できない人は無能と言われる。キョウちゃんがいつも自分のことを無能と言うのはそういうことね。よくわかる。私や、山口さんや、キョウちゃんの周りの人たちはみんな、じつは有能な人たちなのよ。ものをつかむ才にたけてる。……でもね、ときどき、私たちのような有能な人間のなかに突然変異のように、へんな〈無能〉の人間の心に感動して、愛さなくてはいられなくなる人が出てくるの。きょうの運転手さんのようにね。無能な人間は彼らに守られて生きるとき、変人同志で暮らすよりもずっと安全になるの。キョウちゃんは言うでしょう。そんな俗なやつらが、不正なことをして得たものの半分をやると言っても、ぼくはやつらと妥協して暮らせないって。運転手さんは見抜けなかったけど、私はキョウちゃんのような無能な子供じゃなく、平凡な人びとから突然変異でできた有能な俗人なの。もとはふつうの人間なのよ。でも感動して〈戻れなくなった〉俗人。うちの両親もトモヨさんも、山口さんも大将さんもそう。ふつうの人間がキョウちゃんに感動して、心の底から愛して、戻れなくなる。そういう人たちが、無能な子供を守ってくれるのよ。キョウちゃんと肩を並べるレベルの変人は守ってくれないわ。その人たちはだれかに守られてる。キョウちゃんはそのことさえわかっていればいいの」
 肉のかたまりがとろけるほど柔らかくなったビーフカレーを食った。トランジスタラジオの音楽を流して聴きながら、二人とも二杯食べた。二階に上がって、カズちゃんの膝枕で、ロイ・オービソンとジェリ・サザーンのLPを聴いた。そのあいだに耳をきれいに掃除してもらった。


         †
 翌日、春休みの最終日、朝からかなり強い雨の中、カバンをビニールでくるんで籠に押しこみ、合羽を着て中村図書館へいった。開館から一時まで、古文と数Ⅲだけ、一学期初日分の予習をした。数Ⅲは記号の意味と使いまわしの約束事ばかりで、要領をつかめなかった。きびしい一年になりそうな予感がした。ただ、数Ⅲは理系の受験科目なので入試と関係ないのが救いだ。
 四月の雨は冷たくて、手が凍えた。一時半にトモヨさんのマンションに着いた。チャイムを押すと、どたどた足音がして、ますますカズちゃんに似てきた顔が覗いた。
「ひさしぶり! 新学期の予習に忙しくてこれなかった。水曜日だけどきちゃった。ごめん」
「何言ってるんですか。学生なら勉強が忙しいのがあたりまえでしょう。ささ、服を脱いで、シャワー浴びて」
 少女のようなはしゃぎぶりだ。合羽で防ぎきれずに濡れてしまった学生服の上下とワイシャツを脱がせて、部屋の仕切りの鴨居にハンガーで吊るした。扇風機で風を当てる。私はすぐにスカートの上からお腹のふくれ具合を掌で確かめた。ピンと張っているが突き出ているというほどではない。
「性欲は?」
「今月の初めから、怖いぐらい高まってきました。毎日下着が絞れるくらい濡れます。いま入れたら、すぐイッてしまいます」
「入れたい?」
「はい……いいんですか? なんだか図々しいみたい」
「じゃ、シャワーはあとにしよう。どっちから? 前? 後ろ?」
「正常位で」
 寝室にいき、唇を吸い合う。
「わあ、ありがとう。もう、ピーンと勃ってますね」
 ゆるゆると挿入する。
「あ、電気! イキます!」
 グウとうめき、からだを折って抱きつく。
「イキました。ふー、すっきりしました。ありがとうございます。さ、シャワーを浴びましょう」
 よろめいて立ち上がるからだを支えてやる。
 湯を出しながら、湯船に二人、あぐらと正座で向かい合う。
「なんだか恥ずかしい。でもうれしい」
「やっぱり少しふくらんでるね。お腹がテカテカしてる」
「六カ月目に入りました。早ければ八月の初め、遅くても末に生まれます」
 すぐに湯が貯まってくる。
「何の責任も持てない父親になるよ」
 トモヨさんは慈母のように微笑み、
「責任て、義務のことですね。郷くんに、責任なんて言葉をかけちゃったらたいへん。みごとに切腹する人だということは、みんなわかってます。責任というのは、自分を恥じて自分に課すもの。郷くんは、そんな言葉を他人に向かって言う人をしゃらくさく思って、自分を恥じてもいないのに死んであげちゃうんです。そういうもったいない死に方を何とも思わない人だから。郷くんを愛する人はみんな、その怖さを知ってます。責任なんてくだらない枷をはめるのは、郷くんに死ねということです」
「……責任取るすべを知らないから、責任取れと言われたら、八方ふさがりになっちゃうね。卑怯な野郎だ。そんなのは死ねばいいと思ってしまう」
「また、悲しいことを言う。たしかに郷くんの奇妙な気質は、それに感動しない人には反感を起こさせるでしょうね。中傷と嫉妬がいつまでもつきまといます。郷くんのすごい才能に惹かれてどういうところへいったとしても、そういう人はきっと軽蔑の目で〈無責任な〉郷くんを見るでしょう。その人たちは、他人への責任という幻に憂き身をやつしてますから。もし、そういう人が郷くんを愛してるふりをしたら、それはいちばん確実に郷くんを裏切るためです。捨て身の人間である郷くんに何かを求める人は、郷くんを心から嫌う人です。私は命懸けで愛してます。郷くんに子種をいただいただけで、私への責任は果たしていただきました。これ以上何もいりません」
 湯が胸まできていた。トモヨさんは湯を止めた。
「カズちゃんや、トモヨさんのやさしい理屈で、ぼくのような人間が社会的に武装されてる。甘えていていいのかな」
「郷くんは、だれよりも甘えてません。毎日死ぬ気で生きてますから。見抜けない人の目は節穴です。だれが売春婦風情に子供を産ませますか。だれがプロ野球にいけるチャンスを母親のために先延ばしにしますか。だれが一生懸命勉強しなければいけない大切な時間を割いて、何人もの女を訪ねていきますか。だれが利き腕を失って―」
 トモヨさんは激しく嗚咽しはじめた。
「ああ、郷くんは謙虚すぎます。郷くんを愛してるなら、敵のウヨウヨしている世の中から守ってあげて、殺さないようにすることがいちばんの仕事です。それこそ、郷くんから愛情をいただいてる私たちみんなの責任なんです。どれほどのものを郷くんからいただいてると思ってるんですか。ふつうの頭を持ってる人間なら、ほんの少し考えればわかります。さ、からだ洗いますよ」
 トモヨさんはザバッと両手で涙を洗い落とすと、私の手を取って湯船を出た。
「ちょっと早い夕食ですけど、きょうこそ腕をふるいますね。いつも外のお蕎麦屋さんなどですませていて、心苦しかったんです。和子お嬢さんだけを名人にしておくわけにはいきません」
 そう言いながら、私の全身の隅々に石鹸の泡を立てた。どうしても屹立してくる。
「どうしましょう。若いってすごいんですね」
「最近、こうなってばかりなんだ」
 石鹸を落とし、もう一度二人で湯船に浸かる。トモヨさんはどうしてもそれが気になるようで、頬を赤くしながらギュッと握り締めてくる。
「すぐして、だいじょうぶ?」
「はい。もう何回か中でイカせてください」
「後ろから浅く入れて、今度はちゃんとイケばいい。一回、一回、イクのをがまんしながら長引かせてくれれば、ぼくも早くイクから」
 湯船の縁をつかませ、脚を閉じたままにして挿入する。尻の肉がじゃまをし、五、六センチしか入らない。
「ああ、感じます」
 たちまち締めつけてくる。尻の妨害に安心しながら往復を始める。
「あ、走る、イク!」
「トモヨさん、がまん、がまん」
「はい! ク、クク、ああ、だめ、だめです!」
 カズちゃんのようにうねって亀頭を締め上げる。
「イッて、次にイクときぼくもイクから」
「あああ、イク! イクッ!」
 万力のような入口に亀頭をこすりつけて射精を急ぐ。
「あああ、デ、デンキ、痺れるう! イキます!」
 吐き出す。縁から手が外れそうになるのを抱きとめ、尻に何度も腹をぶつける。トモヨさんはそのたびに気をやるので、抜いて、抱きかかえ、湯船に沈んだ。うつむいて痙攣しているからだを大切に抱擁する。
「ほんとにうれしいこと……」
 こちらを向いて唇を求める。
「ぼくはトモヨさんが気をやるたびに、幸福な気分になる」
「あんなみっともない姿を見て?」
「うん。すごく気持ちいいんだってわかるから。男には一生経験できないことだ」
「ごめんなさい。でも、郷さんが女の人とするたびに、女と同じように気持ちよくなってたら、きっとお嬢さんも私も嫉妬すると思います」
「そんなにすごいものなんだね」
「はい……申しわけないくらい。だから女というのは、たとえそれほど気持ちよくならなくても、好きな男以外としちゃいけません。いつなんどき、あんな気持ちよさが襲ってくるかわかりませんから。そのときの罪の意識には耐えられません。生きていけなくなります。二十年も男としてきたのに、よく気持ちよくならなかったものだと思います。ほんとによかった。もしそんなふうになってたら、郷くんに申しわけなくて、抱いてもらうことなんかできません」
「深刻なんだね……。カズちゃんがよく、業が深いって表現するけど、そういうことだったのか。そういうのって、女の心理なんだろうけど、ぼくは愛されていさえすれば、気にならない。オシッコやウンコと同じからだの生理だと思っちゃうから。たまたま自分がそういう生理にぶつかると、そのときの自分は幸運だって感じられる」
「それが、人にはまねのできない心の広さなんです。郷くんみたいな人は、この世に二人といません」
 二人といない醒めた人間。感覚のいびつな人間。風呂を出て、新しいパンツとシャツに着替え、キッチンテーブルにつく。コーヒーが出た。トモヨさんは身じまいを整え、エプロンをしてキッチンに立った。鼻歌を唄っている。いつか私が彼女のために唄った『喫茶店の片隅で』だった。
 肉野菜のビーフン炒め、鯖の切り身焼き、だし巻き卵、フキのお浸し、焼き明太子、キュウリとナスの糠漬け、豆腐とエノキの味噌汁。
「名人だったんだね!」
「それほどでも」
「食べきれないから、いっしょに食べよう」
「はい」
 トモヨさんは茶碗に一杯、私はどんぶり二杯のめしを食った。


         四十五

 東奥日報の浜中から『神無月郷のいま』という特集記事を載せた新聞が十部、小包で送られてきた。トモヨさんのマンションから帰ると、所長はじめ社員たちみんながその記事を読んでいる最中だった。
「お帰り、イロ男!」
 と山崎さんが呼びかけた。三木さんが、
「ここ、ここ、紙面を一ページ割いてるぞ」
 と新聞を開いて見せる。神無月郷のいまという太い題字の左に、私が青森市営球場でホームランを打った瞬間のカラー写真が組みこんであり、残りの紙面に活字がびっしり埋まっていた。飛島さんが、
「郷くん、読んでみな。さすがのお母さんも、これを読めば胸にくると思うよ」
 明らかに新聞を読んでいないとわかる母は、台所で素知らぬふうにつまみの魚を焼いていた。所長が、さあ、とビールの入ったコップを差し出し、
「景気つけて、記事読んで、腹いっぱいめし食って、机に向かえ」
 佐伯さんが、
「写真と活字を別々に切り抜いて、アルバムに入れました」
 と言って、小ぎれいなアルバムを開いて私の前に置いた。私はビールを飲み干すと、活字のほうのアルバムに屈みこんだ。

 晴れ上がった四月上旬のある日、私は轟く胸を叱りながら、名古屋市中村区の飛島建設社員寮に神無月郷(一七)を訪ねた。この食堂で神無月の母親であるスミさん(四三)が社員の食事賄いをしており、昨年の八月に彼女のもとで、神無月は新たな高校生活を始めた。転校先は西区の県立名古屋西高等高校。毎年名古屋大学に五十名以上の生徒を合格させる名門校である。神無月はこの高校へ四十分かけて自転車通学をしている。朝七時半に出て、八時十分に着く。
 土橋元治校長(五七)の話によると、神無月は一名定員の転入試験を四十人の受験者を振り落として突破し、しかも、西高開闢以来の好成績だったということだ。転入後も成績は好調を維持しており、その澄明で特異な人柄も教師や学生たちに愛でられていると言う。先日は校内のソフトボール大会に出場し、彼らしく全力で挑み、四打席四ホームランをかっ飛ばした。
「彼には尊大や気取りがない。何をするにも全力です。明るい性格で、きちんと内省する力も備えている。彼を見ていると、だれもが人間として自分に大いに反省点があることに気づかされます。人格的にきわめてすぐれているので、彼が飛び抜けた才能の持ち主であることを忘れます。彼はいまそれをひた隠しにして勉学にいそしんでいる。しかしこれは、主ではなく従の勤勉であって、主の勤勉を発動させる以前の埋め草的営みと捉えられるべきです。野球の才能を公に示すことこそ彼の本分です。将来かならずプロ野球に進んで、その才能を衆目に供することこそ彼の天命です。複雑な事情から、いま彼は歩みを緩やかにして、勉学にいそしみ、東京大学を中継点にしてプロの階段を昇ろうとしている。勉学もまた彼の環境適応の証と受け取り、その才能の一環として温かく見守るべきものだと思う。これはけっして才能の浪費だとは思いません。高校からプロへと、彼は効率的に生きたかったでしょうが、情の深い人間なので、身内のために途中下車して非効率な遠回りをしているわけです。大学という中継点に私はこだわるものではありませんが、彼の転入おかげで、わが校としても名誉を高められたことを喜んでいます。身内のかたに注意しておきたいのは、彼から野球を奪ってはならないということです。東大はあくまでも途中下車のつづきであって、最終目標はプロ野球のグランドであるということを忘れてはならない。私は忘れません。神無月くんがプロ野球選手となった暁には、私はせっせと中日球場に足を運ぶつもりです」
 土橋校長は、淡々と、かつ力をこめて語った。
 十カ月前、青高グランドにおける弘前高校との練習試合で、神無月がバックスクリーンにホームランを叩きこんだ日、彼はインタビューに応えて、
「野球は幼いころからの命でしたが、ほかにも見落とした貴重な命があるかもしれません。それを探るために、自分を高名にしてくれた土地を去って、無名だったころの土地で〈静かに〉自分を見つめ直したい」
 と応えたが、その〈見落とした貴重な命〉である人びとの一部が、すでに神無月の異能と人格を発見し、心から愛し、支えていた。飛島建設寮の大沼貞治所長(四五)はじめ若き社員のかたがたである。彼らは珠(たま)のように神無月を大切に庇護していた。今回のインタビューでは、神無月はただ寡黙に微笑しながら、彼らの受け答えに耳を傾けるばかりだった。社員の一人、飛島丞輔(じょうすけ)さん(二四)は、神無月の進路に影響するであろうドラフトの細かい仕組みを興味深げに問い、三木敦彦さん(二四)は神無月の将来に豊かな人間関係が待ち構えていることをにおわせ、山崎茂人さん(二七)は神無月の日常に女性の気配の希薄なことをユーモラスに嘆いて見せた。
 さて、読者諸子の関心は、神無月の天才的な野球技能はその後どうなったか、どんな注目の浴び方をしているかにあるだろう。結論から言うと、彼は現在野球をしていないし、注目されてもいない。一高校生としてひたすら勉学に打ちこんでいる。社員の一人佐伯一二三さん(二六)は言う。
「郷くんはいまの成績なら確実に東大へ進むことになるでしょう。そこから先どういう進路をとるかは、郷くんがみずから選択するのにまかせるべきです」
「クラブ活動的なものでもいいから東大で野球をやりつづけることを願う。プロ云々というより、周囲の人びとの喜びに資するし、キョウ自身の精神にも好影響を与える気がするんだ」
 と大沼所長が言う。ちなみに、土橋校長および大沼所長は東大出身である。神無月は微笑しながら応えた。
「とにかく、受かることが先決です」
 土橋校長によれば、神無月郷の東大合格はまちがいないとのことである。ちなみに土橋校長は、奇しくも、東大スキー部で青森高校の小野真一校長(五七)と同期であったとのこと。この偶然を私は、彼の将来の吉兆と見なしたい。
 私たちの期待はかぎりなくふくらむ。神無月が東大で野球をやれば、まちがいなく東京六大学の野球地図に大変化が起こる。まず、神無月は百パーセント本塁打王になるだろう。東大チームの出塁率にもよるが、三冠王もあり得るかもしれない。東大が優勝争いの一角に加わるなど、だれの革新的な夢にも出てこなかったイメージだ。神無月が礎を築いたのち、東京大学は野球の名門校に変身するかもしれない。
 希代の野球の天才神無月郷は、いま静かに人生探求をつづけながら、雌伏の期間をすごしている。神無月は東大へいく。五年後、彼が東大を卒業する秋、日本プロ野球に日本屈指のダイアモンドが転がりこむ。そしてそれは、日本プロ野球界の永遠の宝となるのである。五年待とう。そうすれば私たちは、またふたたびプロ野球のグランドで、あのどこまでも一直線に飛んでいく美しい白球を目の当たりにできる。
 神無月郷、それまで無事でいろよ。からだのどこにもケガをするな、野球のない日々の無聊に負けるな、勉強に励み、人と語らいながらひたすら静かにエネルギーを蓄えろ。そして、まずは来年の春、神宮のグランドで、私たちの祈りの集約された大ホームランを空高く打ち上げてくれ。
(次回の取材は、来春、大学入試発表の時期を予定している)
  東奥日報スポーツ部 浜中卓 記


 もう一度めいめい新聞に屈みこんでいた男たちが、しきりにまぶたを拭っていた。母は記事の主役ではなかった。彼女にとって、野球など何ほどの価値もないことを浜中が知っているからだ。三木さんが、
「すごいもんだなあ! 一公人にここまで入れこまれるなんてなあ。キョウちゃんの才能がどれほどのものか、ひしひしと伝わってくるよ」
 母の思惑など関係なく語る。社員たちはすっかり浮かれて、ふだんの警戒網を解いてしまった。危険が全開放される。しかし彼らには、
「公の新聞が後ろ盾になっているのだ、何を遠慮することがある」
 という気持ちがある。所長が、
「とつぜん、晩年の楽しみが転がりこんできた。飛島建設後援で、神無月郷ファンクラブを作るぞ!」
「いつですか」
 佐伯さんがワクワクした顔で訊く。
「来年さっそくだ」
 飛島さんがしたり顔に、
「具体的活動は?」
「六大学のリーグ戦はかならず土日だ。春季の最終戦、秋季の最終戦に、泊まりこみで応援にいく。それが一つ。会社じゅうで頼母子講形式の貯金をして、旅行やタニマチみたいな活動に役立てる。それが二つ。その一部を、折々キョウに送金する。その三つ。以上だ」
 山崎さんが激しく拍手した。
「キョウちゃん、この人はやると言ったらやるよ。よかったな」
「ありがとうございます」
 全開放された危険は母にしっかり伝わった。私は東大に不合格になった場合の恐怖を無理やり胸底に圧殺して、山崎さんに礼を言った。調子に乗りすぎてはならない。母のしっぺ返しの恐ろしさがどれほどのものか私は知っている。知らないのは彼らだけだ。彼らのためにも、むろん自分のためにも受からなければならない。話はようやくそこから始まる。
「佐藤さん、受験料や入学金、学費も心配しなくていいぞ」
「生活費も要らないんじゃないかな。はなむけの金がなくならないうちに送金するわけだから」
 飛島さんがうなずく。母はこちらを見ようともしない。こうなった以上仕方がない。私は待つということを知っている。まんいち、このことで母の策略が動きはじめ、これから二、三年徹底した妨害が入るとしても、未来に願いを持ち越す忍耐心はある。十七年も自由を待ってきたのだ。いまようやく自由らしきものを手に入れかけている私にとって、二年や三年を待つことなどきわめて容易なことだ。私は所長に、
「二部、もらいます。思い出にとっておきたいんで」
「おお、そうしろ。西高の仲間にキョウの〈いま〉を知っといてもらえ。そのほうが、摩擦がなくていい」
 所長が楽しそうにうなずいた。間髪を入れず母が言った。
「東大不合格のときの恥ずかしい記念になるだろうね。あの新聞記者もとんだ恥をかくかもしれないよ」
 社員たちはもう母を相手にしなかった。私は苛立ちの極点で母を懇切に相手にした。
「人は、東大不合格は憶えていても、過去の栄光は忘れてしまうからね。ぼくだけでも記念品を大事にしながら憶えておかないと」
 社員たちは私のことも相手にしないふりをした。所長は私の背中をさすり、飛島さんは私の腿をさすりながら。
 カズちゃんに二部与え、彼女の手で一部を山口に送ってもらおう。カズちゃんはこの記事を喜ぶだろう。ことの成りゆきしだいでは暴れはじめるにちがいない不気味な母の狂気を予感しながら―。そして、きっと手紙に明るい言葉を書き添えるだろう。七年ものあいだ私を見守ってきた彼女は、私のほんとうに充実した瞬間がバッターボックスにあることを痛ましい記憶とともに胸の奥にしまっている。それを実現させるためには、二年や三年の妨害の危機など身を挺して乗り越えるだろう。私も同じだ。
 母は相変わらず無言で台所にいた。危うい均衡を保っている無言―私があすにでも勉強で成功する可能性がなくなれば(それは彼女の喜びでもあるのだが)、すぐさま反撃に転じる無言だ。いまは東大合格が橋頭堡だ。たとえ不合格になって母に一瞬の撃破を喰らったとしても、数年のさすらいのうちに希望の形は整うだろう。
 部屋に戻って新聞をカバンにしまった。物置の洗面台で雑巾を絞り、テープレコーダーを磨いた。手垢が拭い取られて、白い地肌が見えてくるのがうれしかった。リールテープを物色し、フランキー・アヴァロンのヴィーナスをかける。自分の手を見つめた。この手を褒められたことは一度もない。神経的で華奢なやさしさからかけ離れた手。野球のせいで筋張り、頑丈になった手。もう、じっちゃの膝で新聞の活字を指差していた手ではなかった。



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