2005年1月インタビュー

「いよいよ今年の春に新作が出版されますね。楽しみです。今はその校正などでお忙しいのでしょうか」

「はい。大作なので、予備校の方の予習も含めて大変です」

「お忙しい中、インタビューを引き受けてくださり、ありがとうございます。私ごとですが、最近、祖母が亡くなりお正月どころではありませんでした。私の家庭は共働きだったこともあって、その祖母は母親代わりみたいなものだったので、高齢の死ではあったのですが、ショックが大きく、「死ぬ」ということについて漠然と考える毎日です。祖母の亡骸(なきがら)の傍らで、先生の『禅林寺にて』という詩の一節が繰り返し思い出されました。
 
一人死ねば、涙を落とし、また一人死ねば老憊の胸を痛める 尽きることない人びとの連なり 繰り返される真実とは、およそ ここに収斂され うとましい韜晦の世は無と化する』 

の一節です。『雪の夜』のような心境には到底及びませんでした。あの詩は潔い詩だということを再確認しましたから。
 先生の作品には死の場面が多くで出来ますが、先生の死生観をお聞きできたらと思います」

「そのようなものはありません。僕は死自体に潔さを感じるので、潔い気分に浸りたくて死を多く表現するのでしょう。作品を読んでくれた大学時代の友人に『おまえは死に興味があるのか』と聞かれたことがありますが、死そのものに関心があるわけでもありません。死から冴え渡って照らし出される『生』、それは『性』と言ってもいいのですが、それに関心があるのです」

「どういうことですか?」

「死を粘土板にして、『生(性)』のレリーフ(浮き彫り)を造り上げることに大いに関心があるんです。つまり人は死を基盤にして生きているんであって、すべての現場で死をかけて生きてるのが当たり前であって、その粘土板の上で鮮やかな『生(性)』を生きられるかどうかが難しいのです。だから、難しいことに挑戦したいのです」

「生イコール性とする理由は何ですか?」

「『生』とは生活であり、『性』とは愛情です。この二つのことを基盤に人を思うとき、涙が流れ、胸が痛むのです。君が、お祖母さんのことで胸を痛めるのは、生活の損失ばかりでなく、愛の損失でもあったからです。性とは男女愛だけのことではありません。その人の性を意識した時の心の針点です。もし君が、お祖父さんの死に接した場合があるとすれば、その心の痛みと今回の心の痛みを比較した時、悲しみの量が全く違っているのではないかと僕には思えます」

「まったくその通りでした。どうしてでしょう?」

「わからない。僕もそうだったから。祖父の死より、祖母の死の方が悲しかったんだよね。女性は大地に根を張って生きているのが当たり前というイメージが強いからかもしれない。つまり大地に未練を残して、潔く死ねない。それに比べて男は女の未練に守られながら潔く死ねる幸福を満喫できる。それだけに死に当然の匂いが漂うんだよね。女性には憐れが漂うんだよね」

「んん、だから私は、『雪の夜』に潔い感じを受けたんですね・・・。特に食事を作ってくれた人に対する思いというのは強いかもしれません」

「命の面倒をみてくれた人だね。『生』という面からみれば女性がその役割分担を担っているからね。潔く生きようとばかりしている人間を慰めてくれるのは女性の『性』だ。女性は死とともに生と性を失う。だから悲しみの度合いが強い。屁理屈かもしれないけど」

「私の父は、母一人子一人だったんですけど、お通夜の時『おふくろは絶対に死なない、と思っていたもんだ!』と笑ってました。私はその時の父の顔を見られませんでした。泣いているように思ったもので・・・」

「男は、いつも親や恋人も含めてそう思ってますよ。だからこそ喪失は何倍にも悲しいものになりますね。偶然ですが、今回の作品はそれを描きました。そこだけは青春群像の一環から浮き上がったものになりました。初めて女性の死を描きました。つくづく『風と喧噪』に描いた死と対比してしまいました」

「・・・今回の祖母の死で、幼かった子供時代の私も死んだような気分です」

「お祖母さんの気質の中に、君の幼年時代の心意気がいつまでも、いや死ぬまで残っていたんでしょうね。つまり女が・・・。大地に根を張った性が・・・。お祖母さんの青春時代は想像できても、お祖父さんのそれは想像できないはずです。つまり男には性がないのです。『風と喧噪』で死んでゆく会津には性がないのです。愛がない。それだけに悲しみより先に理論が来るのです。もう、そういう死を書くことには疲れました」

「『風と喧噪』のなかでお婆さんの大家さんを描く場面で、『・・・かつてはそこから官能的な快楽が始まった手が、・・・』というのがありましたが、祖母の亡骸の合掌した手がちらりと目の端に入った時、まさにその描写が頭に浮かんできて堪らなく悲しくなりました。女性の手というものがこんなに大きな存在だったのか、下手すると顔よりも感銘の深いものなのだということを痛感しました」

「それこそ、まさに生と性の喪失ですね。その悲しみをどうやって癒そうとしているんですか。私の今回の小説のテーマでもありましたが・・・」

「火葬に立ち会うことを拒んだんですが、参列した人から、最後のお別れで、その経験が自分の生きていく上での転機になると言われ、なんとなく気持ちが軽くなって、火葬に立ち会いました。点火のスイッチが押され、2時間ほど待って、骨を拾った時に、気持ちが軽くなるどころか、本当に諦めきれない悲しみが襲ってきたんです」

「それが転機なんですよ。悲しみの認識ですね。悲しみの記憶です。これからもっと深く悲しむための準備といっていい。それが鍛えられたんです。これからはその悲しみを言葉にする苦悩を経験すべきだと思います。ことばが完成したとき、もっと悲しむことができ、もっと人を愛することができるでしょう。人の死を契機にしないで済めばそれに越したことはないのですが・・・」

「悲しみをどうやって癒すか。わかりません。ロマン・ロランの『魅せられたる魂』の中にこんな言葉がありました。『人間は人の不幸を食べて幸福になるのだ』というものです。胸に響きました。私は祖母を見捨てて生きた経験があったからです。見捨てたからこそ今の自分があるわけですが、もっとあの時こうできた、こう言えたという悔いは一生消えないかもしれません。ロランのこの言葉は、自分の他人に対する後悔の念を癒したいがための言い訳にも感じますが、今はこの言い訳にすがってみようと思います」

「・・・ロランの言葉は僕の胸にも響きます。なぜなら、人の不幸の記憶を食いながら、生きのびる・・・。幸福な他人には、悔いのある記憶は残りませんから。自分に対しても同じです。幸福な自分の記憶は残りません。不幸な時期の自分を鎮魂するために文章を書き始めたようなものです。僕の死生観というのがテーマですが、他人の不幸を食ってるかどうかは定かではないけれど、生きのびて、自分であれ、他人であれ、生と死は一如であるというふうに観じて、生きられることに幸福を感じています」


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