2005年4月インタビュー
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 3ヶ月ぶりのインタビューです。待ちかねてる読者もいるでしょうね。

 そうですね。もう、ひとつのイベントになりましたね、このインタビューも。わたしも待ちかねました。今日のテーマは何でしょう?

 最近、すっかり春めいて、桜も満開ですが、私は最近季節の移り変わりというものに非常に敏感になりました。子供のころは、季節なんてものには全く興味がなく、日々の天気さえ気にも留めませんでした。周りの大人たちが必ず、「いいお天気で・・・」とか、「今日は冷えますな・・・」なんてことを言うのを不思議な思いで耳にしたものです。でも、いつの頃からか、不思議に思っていたことさえも忘れて、すっかり、日々の気候や季節が自分の生活に密接にまとわりつくようになってきました。そして、無頓着にすごしていたはずの子供時代の季節を懐かしく思い出すんです。いつか、先生に「すっかり春らしい、いいお天気になりましたね」と言ったら、先生は「そうなの。一瞬冬に向かっていると思ってしまった」とおっしゃっていたことがあって、びっくりした経験があります。そこで、今日は、「先生の季節感」をテーマにお話を伺えたらと思います。

 うん・・・。とても面白いテーマですね。私は無頓着だったわけではなくて、経験がなかったのです。

 経験というのは?

 実は、わたしは正月、お盆、七五三、月見、誕生会、クリスマス、といったような季節の感触を楽しむ個人的なイベントの経験が全くなかったのです。わたしには、家庭というものがなかったせいかもしれません。学校行事などの社会的行事の経験はありますが、それが季節の変化を記憶させるチャンスにはならなかったということですね。

 なるほど、季節を感じることと、記憶というのはとても関係の深いもののようですね。先生は、家庭的なイベントが自分にはなかったことをいつ頃、どのようなことを契機に実感するようになったのですか?

 もう、40も近い頃でしたか、道端で鯉のぼりが高く翻っているのを見ました。私は5月5日の生まれなのですが、一度も鯉のぼりを上げてもらったことがないのに気づきました。それがきっかけです。するとその他の行事も一度も経験していないことに気付いたのです。

 それは、ちょっと哀しいですね(笑)。笑っちゃいけないですね。たしかに年中行事の経験がなければ、季節の変化に疎くなってしまうというのもうなずけます。

 わたしにはその時、何かが欠け落ちていると思ったのです。わたしは何故かあせりを覚えました。大勢の人々が数十年かけて経験してきたものを短い時間で追体験しなければならないという焦りです。

 何かが欠け落ちていると思ったということですが、どうして、追体験しなければならないと思ったのか、詳しくお聞きしたいです。

 それは、年中行事を楽しんで、季節感に浸るということは、人間として自然で、豊かな自然の感じ方だと思うからでしょうね。自然でないということはそれまでの人生に人工的な要素が多くかぶさってきたと言うことになります。その覆いは取り除かねばなりません。学校行事やプロ野球の開幕というのは自然の推移をもとにしたものではなく、社会的で、人の手が加わった無理やりの変化であって、自然に花が咲き出すとか、月が輝くとか、風が強くなるなどといった生命の輪廻を感じさせるものではありません。いくらそんな経験を積み重ねても、人工の中に泳いでいるという感じを拭い去れません。誕生会やクリスマスなどは違います。必ず生命の輪廻である季節の推移に基づいています。そしてそういうことに注目してみると、その変化を楽しむことが命を溌剌とさせてくれる一助になるということに気付いたのです。

 子供の頃は、自分の強い生命力だけで子供なりの生活を謳歌できますが、大人になり、死に近づくと命を溌剌とさせてくれる生活の彩りと、それに付随する思い出を欲するようになる。それで、自分が、季節の移り変わりや天候を意識するようになったのかもしれないといま、気付きました。

 その思い出があるだけ幸せです。わたしはその思い出をいま作り出すことで、人々の自然を懐かしむ想いに追いつかなければなりません。最近は、純粋な変化の新鮮さに対する喜びのもとを求めて、おせち料理を食べたり、桜を見たり、菖蒲湯に入ったりして追体験にいそしんでいるのですが、そういった季節に伴う追体験への衝動は、哀しみのもとにもなりました。しかし、それが不思議な充実感を与えてくれます。哀しいくせに充実するというのは奇妙に聞こえるでしょうが、自分が大きな、変化のない生命環の一部であるという認識からもたらされる大いなる哀しみなのです。この充実感は深い。この哀しみのもとを観てやろうという気持ちで、静かな観察が自然になされ、感情とともに知的な充実感があるのです。
 
 なるほどー。四季おりおりの自然の変化自体が、太古の昔から繰り返されてきた、変化のない生命環であり、生まれ、死に、土に還る人間もそんな自然の一部であるという認識が哀しみを思い起こさせ、そんな時間を超えた変化のない、「変化」の感受が充実感を与えるわけですね。でも、先生の哀しみは二重構造になっているようにも思えます。

 そのとおりです。生命環の一部として生まれてきたことばかりでなく、不完全な個人として生まれ、育ってきたことへの負い目です。この負い目が悲しみと充実のもとです。おそらくこれは、わたしのすべての小説の根底に一貫して流れているものでもあるでしょう。この悲しみと充実がわたしを生かしめ、読者をも生かしめると思います。

 今日は、季節感という、軽いテーマのつもりでしたが、思わぬところで、深い話しになりました。ありがとうございました。人間は生きているからには充実しなければならない。それは、もしかしたら、楽しいことより、悲しみのほうが、充実度は強いということかもしれませんね。そう思うとなんとなく勇気が湧いてきました。今は、勝ち組とか、負け組とかいう言葉がはやっていますが、先生の「負い目」という感覚はそういった精神構造とは程遠いものだということがなんとなくわかります。どうも、世間で言う負け組、勝ち組というのは、率直に言って金や権力に基ずく、生活レベルの上昇のことのようですね。

 そうです。わたしのいう「負い目」とは、生命の一瞬の時間の中に紛れ込んでくる自然の永遠の時間を痛感する哀しい存在であるということなんです。現世の勝ち負けとは一切関係ありません。

 ああ、「あれあ寂たえ」の326で、『ウスバカゲロウ―三十日 そんな短い一生を、いったい何に捧げようとして、彼は生まれてくるのか。なんといじらしい無意味な命の営みだろう。しかるに、人間は・・・・・・』って書いた意味がよくわかりました。本当に今日はありがとうございました。

 こちらこそ。また自分を深く抉り出せた気がします。ありがとうございました。

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